「色々なものの見方がある」って正しいの?
3月 23
よく議論が白熱した時、議論が白熱して収拾が付きにくくなった時によく使われる言葉と云えばよく使われる言葉ではありますが、これって何か場凌ぎというかお座なりというか誤魔化された感じがする、少なくとも私はそうでしたし、今もそうです。
これが何故かというのがイマイチ上手く説明できなかったのです、今までは。
お世話になっているjungnetというメーリングリストにて、Sさんという方が以下のような発言をされていた。 曰く
「いろいろな見方があるというのは一見正しいのだけれども、その実、いろいろな見方を並列に見通すような絶対的な見地から語られていて、実は単一の、上に立った見方になっている。~中略~ 「いろいろな見方がある」ことを承認した上で、ある見地においてあることを事実と見なすことも、現実の生のなかではバランス感覚として必要だと感じます。別の言い方をすれば、「いろいろな見方がある」という主張は、もっとも公平なようでいて、実は局面次第では破壊的なだけであることもある。」
というもの。
この言葉の冒頭部分(中略より前の部分)はフッサールのものだそうですが、実に上記の理由を巧く説明してくれています。 「なるほど! そういうことだったのね」と非常に合点がいった次第です。
「色々な見方がある」ということ、これは事実で、この事実自体をなにも否定しようというのではありません。 ただ端的に言えば『「いろんなみかた」という観点』は存在しないということ。 いろんなみかたがあるというのは『「いろんな見方がある」という状況』描写に過ぎないということ。
ただの状況描写でしかないのを見解の代わりに(つまり見解であるかの如くに)用いられると、胡麻化しと感じるのは寧ろ当然と言えます。
「互いに認め合う」または「互いに尊重する」とは、互いに違いがあるなら、その違いをきっちりと確認し、その「違いっぷり」とでも言いましょうか、距離感とでも言いましょうか、これを味わって満足できる態度だと私は考えます。 違う処をきちっと味わうからこそ共通点、共鳴できるものが在った時の喜びも一入(ひとしお)になるのだと思います。
「違うこと」と「違わないこと」の両方を包含でき許容できる、こういう関係がベストだと考える私であります。
とは言いつつも、人間には感情、情緒というものがあり、あまりに美意識、感受性に隔たりがあり過ぎる人には、どうしようもない諦めとも絶望とも言える感慨を感じるしかない時はあります。
打ち明けて語りて 何か損をせしごとく思ひて 友とわかれぬ (石川啄木)
大好きな詩です。
鶴ちゃん
5月 28, 2006 @ 16:07:54
文中の「一塩」って何ですか?
「他者の揚げ足を取るなら、ご自身も揚げ足を取られぬようにお気を付けあそばせ。」 ってコメントを下さった割には・・・・
まいっか。
あなたの言わんとしていることには賛成出来ます。
yumesaki
5月 28, 2006 @ 22:33:12
ご指摘ありがとうございます。 ただ音からこう表記するのだろうと思っていましたが、調べてみるとこの場合はこうは書かないと判りました。
ただ、「江戸の敵を長崎で討つ」的なのは如何なもんかと思います。
rinngo
6月 05, 2006 @ 15:28:36
私は「色々な見方がある」賛成派かなっ
私の場合は見方⇒視点とするんだけど、
人は24時間自分で生きてるし、友達や学校や環境の違う世界で生きていて、誰一人だって同じ世界を生きてきた人はいない。だから考え方も違うから対立もするし、慰めあったりも出来る。だから賛成派っ言ってる事と間違ったことをいっていたらごめんなさい。様は底で話をやめるかやめないかじゃないかな~っと。
yumesaki
6月 05, 2006 @ 16:00:13
rinngoさん、コメントありがとうございます。
私がこれで言いたいのは、「色々な見方がある」というのは分かり切った自明なことで、、、この件だけの話ではないですが、自明なことを殊更に強調する時というのは、その言葉で相手の口を封じてしまおうという暴虐性に基づいている「ファイナルワード」として用いられている場合が往々にして多いという事です。
つまり「色々な見方がある」という「事実」は否定しているどころか肯定しているのです。 上記は、この逆の「肯定している偽装を謀っている」という実に姑息というか狡猾なやり口なのであると指摘したいのです。
ringo
6月 06, 2006 @ 14:37:57
確かに、言葉で相手の口を封じてしまおうという考えは多いですね。その気が無くてもそうとられることが多いのが現状です。
hirovis
7月 16, 2006 @ 03:19:59
コメント失礼します。
私は「色々な見方がある」という事を主張することが、口封じとして使われる事が「多い」とは思いません。
もちろんそういう場合があるという事を否定はしませんが、それ以上に「色々な見方がある」という事を認めない人が多い、のではないかと思います。
口封じとして使われると感じるのは、例えば相手に「色々な~」と言い切られてしまう状況の中で、お互いの理解のためにもさらに議論をすすめたほうが良いはずだ、と考える人の主張に過ぎないのではないでしょうか。
私もどちらかと言えば話し合いたいと思う人間の1人なのではありますが、違いをはっきりと知ろうとすることは、そこにもある種の暴虐性が存在することになるでしょう。
と、私はそう考えるところがありまして、姑息であるとか、その気がなくてもそうとられる現状があるという立場で語れる話だとは思えません。
失礼な言い方かもしれませんが、上記の文章を読んで私が感じたのはむしろ、論理的に語りすぎて相手を不快にさせるあなたに問題があるのではないかと思えてしまうのです。
yumesaki
7月 16, 2006 @ 19:44:28
>> hirovis さん
文の締めくくりに啄木の詩を置いている意図を察していただけれなくて残念です。
ブログ物語り研究所「夢前案内人」
7月 18, 2006 @ 08:03:50
「色々な考えがある」と知たり顔で言ってしまう人達
書いてからかなり時間が経つが、前エントリー【「色々なものの見方がある」って正しいの?】に頂いたhirovisさんからのコメントに端を発して、改めて「この記事で言いたかったことは何だったんだろう?」と考えてみて、或る意味言い得ていなかった(この意味で言葉足
saki
9月 11, 2006 @ 22:28:28
いろいろな見方というか相対主義が受け入れられる背景
には押し付けがましいことを言うやつは嫌いだという感じ
が蔓延していることもありますが、あなたの文章はまわりくどくて他人に不快を与えているということは確かにあると
思います。
saki
9月 11, 2006 @ 22:38:57
よく議論が対立したときにステレオタイプの意見や
耳障りのよい言葉を言う人間がいますが、ステレオタイプ
とは「陳腐で平凡な」という意味です。皆が使いすぎて
、手垢にまみれた言葉。誰も表だっては反対を言えないような表現。そういう意見は議論の進行を邪魔する場合が多い
ですね。