「適度」な大きさがあるというのは何でだろう
5月 17
Macネタ ロジカルシンキングのすすめ, 心理学エッセイ No Comments
さっき、つぶやいたとこなので二階屋を建てるエントリーなのだけど、、、
新iPhone大型画面へ アップル、米紙報道 #nishinipponnishinippon.co.jp/nnp/item/302614 <1000%無いね。理由は→ 404 Blog Not Found:次期iPhoneは5ではなく…blog.livedoor.jp/dankogai/archi… @dankogai
— 庄司拓哉さん (@yumebunseki) 5月 16, 2012
3 → 3G の時も、4 → 4S の時も出てきたほとんどBuzz Wordな話題であるとは言ってしまえばそれまでだが。
弾さんのコメントを援用するまでもなく、、、Galaxy S II を買った(買わされた?)老年の知り合いに「使い方がイマイチ分からんので教えてくれ」と頼まれて(「なんでiPhoneユーザのわしが教えなアカンのや!」とは言わずに)操作してみたことがあるのだが、文字通り「手に余る」のを実感した。 ほんの1センチちょっとの差なのだけども、この「ちょっとの差」で実に大きいと感じる。
人間には、或る範囲、または或る領域に於いて「やたらと敏感な帯域」(と「そうでない帯域」)があって、、、例えば青色(藍色、紺色)、或程度以上大量生産されている製品だとロットが違えば厳密には全く同じ色目というのは有り得ないわけで、我々がそれを同じ色と感じる許容範囲に納まっていると「同じ色」としてもらえる(察知できないのだから同じ色と言って差し支えない)。という約束事で現実は成り立っている訳だが、そのアイテムが定番商品で長い期間、同じ品番・型番で販売されている場合など特に(こういう場合愛用者が多いということもあって)「以前買ったのと色が違っている!」とクレームが発生しやすいのが青色だと、青色の場合が特にその色目が違うと敏感に察知されやすいということが,特に色目の違いが問題とされやすいアパレル業界ではつとに有名。
で、しかも、これの厄介な(場合によれば「便利な」でもあるのだが)点は、単に察知される(察知できる)か否かの問題だけではないという点・・・つまり、察知しても然程気に留めずにスルーできる要素とスルーできない要素があるということ。 スルーできる要素は、違いを最初察知しても時間の経過と共に「慣れる」こと=「なかったことにしてしまえる」のだが、スルーできない要素はその違いを無視することが、かなり努力しないと出来ない。
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「片手で持って、手の中で操作できるかどうか」も,これと同じくほんの些細な差で許容できる/できないのが決ってくるのだろう。
こう考えてみると、平均的に体格の東洋人よりも大きい欧米人文化圏でデザイン検討されているものなので、彼らに合わせてもう少し大きい(日本人からみれば大き過ぎる)サイズに落とし所があっても良さそうになのに、このサイズでそもそも出てきたことに注意を払うべき。
私の見解は(手の中の操作範囲に於いては)「内的イメージ(脳内イメージ)は実サイズには依拠せず、然程差なく同じサイズなのではないか」なのだが、如何だろう?