なぜいじめはなくならないのか
7月 06
心理学エッセイ こころの病, ロジカルシンキングのすすめ, 侏儒の言葉, 個性化, 差別問題, 空気としてのマインド, 臨床ユング心理学 1 Comment
この問題を抜本的、包括的に、また広く説得性のある論理を展開出来るほど問題自体が簡単ではないし、また、私の考えもそこ遥かに及ばない低レベルにしか錬れていない。この意味で看板に偽りありのエントリーです。
今段階書ける(言語化できる)だけの範囲を書くと、
まず実践面(実用面)でいえば、「傍観者の排除」これが取り敢えず「手が付けやすくて」「実効性がある」という意味で大事。
より具体的にいえば、傍観者でいること自体が加担者なのであるという点、傍観者でいること自体が罪であるということを社会的コンセンサスとしてきちんと確立するべきである。
ここでいう傍観者は、文字通り傍観者・・・見て見ぬフリをする者、遠巻きに傍観しているだけの者・・・だけでなく、直接加害には加わらないが囃し立てたり茶化したりする野次馬も含む。つまり「制止」「調停」「仲裁」「仲介」「庇護」などを行わない者はすべて傍観者であるということ。
より詳細かつ説得性のある言説である以下を参照。
404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html404 Blog Not Found:いじめと個性
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50681593.html
個人的にはいわゆる「先生当たり(先生の当たり外れ)」は良い方だったようだと大人になってから分かった私でも実際生徒だった頃の経験から、傍観者になっていた先生がそこそこ割合以上必ず居たと言える。
つまり「傍観者であること自体が罪」であることを先ず、教育する側から教育して行かないといけないのだろうということ。
次に、より根本的問題に言及すると、「いじめ自体」を悪い事と、「いじめ自体」を消滅させようとする努力は無駄であり無意味であるばかりか、場合によっては問題をより陰湿化、巧妙化させさえするという問題意識を持つべきだ。
いじめという行動様式これ自体は絶対に無くならないし、無くせもしないと断言する。それは動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり、つまり、集団性動物でかつ高等生物であることからの何らかの必然がそこにあると認めざるを得ないからである。(これが何故であるか、また、どういう必然性なのか説明できるほどの知識および能力は現段階持ち合わせていないが)
これは良いだ悪いだ云っても始まらない自明に近いものであろうので、いじめの行動様式を取る基本素養は我々皆が備えているということを先ず認め、これを前提に、その発露が陰湿化、残虐化しないようにするにはどうするのが良いのか?という設問の立て方をするべきだと私は考えている。
しかし、これは真剣に考えるとかなりクリティカルな問題で、「あなたも殺人者になり得る素養を備えているわけですが、これとどう上手く(問題化しないように)付き合って行きますか?」と質問されて簡単に答えられる人が居ないのと本質的に同じだからである。
たぶん、この素養を備えているという事実を認める自体を拒絶しここで思考停止になる人が多いだろう。
この思考停止こそが、いじめの問題の本質に切り込んで行けない主犯で、傍観者を許容してしまうバックグラウンドだと断じさせてもらう。
だから「いじめは悪い事です」「いじめをなくしましょう」という教育関係機関や役所に貼られているポスターのスローガンは、空疎であり、欺瞞的で、薄ら寒いのである。
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