中国化する日本 (著)與那覇 潤
11月 21
心理学エッセイ 個性化, 夢の解釈, 意識化 No Comments
歴史を学ぶ意味は二つある。
人間という生き物は「物語化」を常に欲求している。それはつまり「いま私が生きている意味」であり「これからも生き続けていく意味」である。 これは必ずしも客観的事実に基づいている必要はない、実に心理的な意味付けである [1] 。 であるが、空想の中だけで自分の蓋然性を確保できるほど標準的な我々の日常的に駆使できるイマジネーション力は豊かではない [2] ので、過去を参照して今の自分に繋がっている “自分の物語” を紡ぎ出すのである。 これが一つ目。
もう一つは、同じ過ちを繰り返さない為・・・これが優等生的解なのだが実際は「歴史は繰り返す」の言葉通り同じ過ちを人類は幾度も繰り返している。「歴史いくら学ぼうが起こることが起きるときには避けられず起こる」という宿命論的いわゆる歴史のサイクル性は確かに存在すると言えるだが、現在〜未来に活かすために歴史に学ぶ。それも現在の都合に合わせた解釈ではない、この意味での客観的歴史研究がなされるようになったのは実はそう古くないのである。
19世紀、下手をすれば20世紀半ばまでキリスト教圏ではキリスト教的世界観を意識的or無意識的に前提として歴史を解釈していてその残滓は今でも結構根強く残っている。日本に於いても明治政府の皇国史観に明に暗に影響を受けてバイアスの掛かった歴史観が喧伝されたのは割と有名だし、そもそも江戸時代までは歴史というのは物語として面白く書かれることが上等とされ、これは世界各国をみても殆ど同じで史実をそのまま語っている書物は少ないのである。
かといって、歴史も含め後世に残る情報という次元での情報を為政者が或程度以上コントロール出来ていた時代じゃなくなったならば事実を我々が見通せるようになったのかというと、情報については自由度がかなり上がったと言えるインターネットが普及した今の時代になっての状況は、デマ情報も結構多いという事実は脇に置いても(事実だと判断される情報だけに話を絞り込んでも)「情報の断片」ばかりがやたらに多いという状態。その情報自体は事実であるとしても、それらを只むやみに寄せ集めても真実に近付けないのからも分かる通り、情報を見通していくための知恵というか着想のようなもの(事実をうまく繋いでいける糸のようなもの)が大事なのである。
[amazonjs asin=”4163746900″ locale=”JP” title=”中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史”]この意味で本書は非常に有効な着想を提供してくるものだと言える。
著者本人がtwitter上で「登ったら捨ててよい梯子のようなもの」と発言しているように「歴史を読み解くためのツール」として実に有用。
その行き着く先という意味に於いては後者の姿勢でも、その先で前者「いま私が生きている意味」「これからも生き続けていく意味」に繋がってくる処が歴史の面白いところ [3] 。
『「勝ち組」と「負け組」との格差を当然のものとして肯定する市場原理主義がまかり通り』など主題ではない部分に「ちょっと、その決め付けおかしいんじゃないの?」と疑問に思う部分が割とある(読む人が読めば「読者を惹き付けるためのフック [4] 」だとわかるのだが)が、主論に於いては説得力は充分ある。 タイトルも含めてこの種のフックが少なくないので読解力の無い読者に曲解される、または意図的に歪曲して引用される危険性も無くはないなぁと余計な心配はするが。
先日の拙エントリー「中国人を馬鹿にし過ぎ」で述べた中国人の「金に対する敏さ」「商魂たくましさ」を醸成した一つの大きい理由は、本著の述べる宋代以降中国の伝統となった「経済活動の自由度の高さ」と「思想信条に於いての(逆に)自由は皆無」の状態が同居したことだと説明が付いて個人的にはスッキリと目の前の靄が晴れた感じがした。
本書も指摘するように封建制時代と我々が漠然と思っている武士の時代、これを正しく見通すことで現在に至る日本の歴史的道筋が見えてくるのだが、はてさてそれでは我々はそれを正しく知っているだろうか? 我々が武士道と呼んでいるものの主体が、明治時代になって江戸時代以前を振り返って純化された「明治という時代のための物語」だと知っているだろうか? [5]
個人的には織田信長がしようとしていた事、目指していたコンセプトは、その当時も、そして今もかなり誤解されていると以前から思っていたのだが、この考えを改めて強めた。
2011年11月21日 15:35:勢いで書いたので後で読んで言葉不足を感じた点を加筆(文意に変わりはない)。