動機の純粋性
5月 29
心理学エッセイ ロジカルシンキングのすすめ, 心理分析 No Comments
当然ながら心理学的にも避けて通れないテーマである。
池田信夫 blog : 特攻作戦を生んだ「動機の純粋性」 – ライブドアブログ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51789174.html
「動機の純粋性」に感動・共鳴してしまう、 “青臭い” [1] 美意識は誰しも持っていると思われる。 多分、これは万国共通で、この意味では日本固有の問題とは考えにくい。
ところが日本固有の問題と考えるをスルーできない現実が過去から今も出力されているという点。これは一体何なのか、何故なのか、と、ここが要点だろうと思われる。
一つには「平和だったから」論・・・欧州諸国は中世、千年の永きに渡って血で血を洗う戦争を繰り返してきた、これは単極の勝敗で物事が決しない長期戦 [2] なので長期的視野に立ったより戦略的な思考を必要とするということを経験を積み重ねていく内に学習した。そうなると短絡的な行動を起こしやすい傾向のある動機の純粋性で行動を起こす者は寧ろ邪魔なので淘汰されていったのだろう [3] 。この淘汰の機会をあまり持たなかったゆえ動機の純粋性で行動を起こす者が多く残っているというのである。確かに一理はあると思えるが決定打に欠ける感は否めない。
不覚にもソースをメモしておくのを忘れたので明記できない [4] のはご容赦願いたいが、つい最近(三ヶ月くらい前と記憶)に「攻撃性 [5] を抑制すると目されている遺伝子が日本人に於いて短いということが判った」「民族的または人種的に柔和だとされてきた今までの通説を覆す結果になるかも」というニュースに触れたのだが [6] 、これが事実であるなら、ここに一つヒントを見出すことが出来ると思われる。 日本人全体的に攻撃性が高いのであれば、それを一方的に悪視するのはどこかで無理が生ずる、かといって秩序維持の点から全面的に肯定するわけには当然いかない。で折衷案的に「動機の純粋性」という発露機会だけ肯定する代わりにその他のケースは全てダメという価値観醸成がなされてきたのではないか?と。 有り体に云えば、広くコンセンサスとして認められた「ガス抜き」の方弁。
つまり本源的には「集団内の秩序維持の為に攻撃性を抑制する仕掛けとしてのコンセンサス」の側面の意義の方が大事なわけだが、これが「日本人は柔和であるという“神話”」にいつしか摩り替わって普遍化してしまい「動機の純粋性」というのだけが目立って残ってしまった。そして、あたかも最初から「動機の純粋性」という美意識、価値観が独立してあったかのような錯覚をするに至った [7] 。というのが私の見立てである。
中韓だけでなく欧米諸国でも結構根強く、日本で再軍備議論が起こるなどに対して過敏に反応する警戒感があるのは、この実は結構強く持っている攻撃性に当の本人は全然自覚的でないという「自覚の無さ」があるからではないのか? という設問を立てると結構スッキリと納得が行くし、過去のエントリー「批判を非難と受け取る(勘違いする)人が多いのはなぜか」への補強説明にもなっている。[amazonjs asin=”4560082820″ locale=”JP” title=”「空気」の構造: 日本人はなぜ決められないのか”]