障害者に優しい社会とは? 優しいってどういうこと?
2月 09
前々回のエントリー「論点がズレる時・・・ユング心理学「タイプ論」の観点より」で取り上げた話題の当人の片一方であるMacskaさんのブログに於いて「障害についての意識調査というかクイズ」という題した以下のようなエントリーがアップされた。
現実にあった話を元にした問題です。
車椅子使用者を多数含む障害者の団体が列車で旅行に行くことになりました。ところが列車は普段のままでは車椅子のまま乗れるようになっていません。車椅子を使用する人が少人数であるときは、座席の一部だけ取り外して乗せることになっているのですが、これだけの団体が乗るためには一車両丸ごとほとんどの座席を取り外す必要があります。
……以下略(本体を参照してください)
彼女のもう一つのブログである「macska dot org」も含めて表明されている各評論、意見、感想等から推測できる彼女の意見の一つは「ヒューマニスティックになろうとすればするほど、どんどんヒューマニズムの本質から遠ざかっていく悪魔の呪縛を我々は持っている」であろうと思う。(私の解釈なので違っていたら訂正を入れて下さい> macskaさん)
私がこう思った根拠の一例が以下ですので、興味のある方は参照してみてください。 → ” DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ“
(と書いたが、読まないと以下の論理展開がたぶん見えないので「必ず読んで下さい。」に変えます・・・2006/02/11追記)
この彼女の問題意識というか感受性は私の立場からも非常に興味のある問題であるし、非常に共感する。
ユング心理学の基本中の基本として、我々の心の奧底に脈々の息づいており、かつ逃げても逃げても逃げ切れない「エゴイスティックさ」「残虐さ」「傲慢さ」「猟奇的性質」を『元型』として持っているという事実(*1)、これを認める処からでしか「倫理」「正義」「道徳」は始まらないというのがある。(脱線になるが、この意味で「小学生女児が同級生を殺傷した事件」などに対する分析は正鵜を得ていないものばかりである。彼女は特殊な女児ではなく、子供に限らず全ての人間の中に、それがそのまま顕現してしまうと恐ろしい事になる猟奇性、残虐性が息づいているので、亊の真相は「あなたの問題」であり「私の問題」であるという問題意識の欠如、または真実を見つめたくない欺瞞性。)
話が逸れ掛けたが本題に戻って……これらを予備知識した上で冒頭のmacskaさんのクイズに戻ってみると、軽々に迂闊な結論を下す事に非常に躊躇を覚えるだろうと思う。 また、いわゆる「安物のヒューマニスティックな議論」が「なぜ安物なのか」が分かると思う。
彼女は同エントリーの最後を以下の言葉で締めくくっている
「もちろん、何か1つの正解があるという問題ではありません」
と。
彼女はつまり、安易な善悪、安易な正邪、安易な解決策を提案して欲しいのではない。
端的に言ってしまえば、読者それぞれがそれぞれに「自分の中の利己者」と「自分の中の利他者」との葛藤、「自分の中の善人」と「自分の中の悪人」の葛藤・・・これを感じ取り、確認し、知って欲しい、こう思っているのだと思う。
- 無論、これが元型の全てではない。 元型の一つの流脈として、こういう流れがあるという意味である。 因みに私は「元型」を「本能」とほぼ同義語だと考え、一般的に想定されている「本能」より遙かに広い概念として「本能」という言葉を使う。 なるべく混同されないよう、その都度注記するようには気を付けているが、この点を今後も留意頂けるとありがたい。
yumesaki
9月 21, 2006 @ 19:55:00
>> sayo さん
ユングの専門家を自称している人でも誤解しているケースが結構ある難しい概念なので、きちんと理解されたいのであればC・G・ユングの著書をお読みになる事を強くお奨めします。
詳細については追い追い書いていくつもりもありますが、まずユングが亡くなってから判明した事実、ユング存命中には今ほど研究が進んでいなかった学問分野があり、これらの成果を援用してユングの提唱した概念、仮説を再解釈すると、まず「本能」という言葉で我々が今まで一般的に意味して来た本能だけが本能ではないという事実が見えてきています。 有り体に言えば「本能」という概念自体の再定義が必要となって来ています。 これはリチャード・ドーキンスの登場以降、生物学の分野では今や殆ど常識となっている「本能観」(つまり「本能」という概念自体の再定義は生物学の世界ではとうに進んでいる)なので、これを世間一般認識に布衍し損っている生物学界の努力不足、布衍しているのに耳を貸そうとしない世間一般(特に布衍装置としてキーを握るマスコミ)の怠慢は批判されるべきかもと思いますが、このドーキンズ登場以降確立されてきている「新しい本能観」でユングの各論を再検討すると、実によく言い当てていると言えるのだとは申し上げておきます。 フロイトは古い本能観の域を出れていないので、この理論を以ってユングを理解しようとするのは無理があります。
yumesaki
9月 23, 2006 @ 04:11:16
>> sayo さん
> ユングは未分化な混沌状態を何もかも意味ありげに語っているところがある
どの程度ユング自身の著書を読まれていますか? 少し誤解が在るように思うので、こう問うてみるわけですが。
ユング自身は未分化な混沌状態の中にも何らかの意味付け等が見出させる範囲が在るかも知れないと言っている以上ではなく、と同時に「全てが全て意味があるように、考えるのは間違いであろうし、言うのは大言壮語というものであろう」と意味のないものも含まれる可能性は充分に考慮に入れています。 あくまで彼のスタンスは「充分に研究、解明されていない以上、私に出来るのは経験的に分かっている事実と符合する状況証拠を集積していって仮説を立てていくこと」が基本でして、これの「確からしさ」を上げていく努力を一生続けていただけです。 彼の存命中に分かっていた事実だけでは不充分である事は悟っていて、例えば「元型」という概念にしても、概念としては提起したものの、これが自らが述べている通りであるかどうかは後世の新事実の解明を待たないといけないと自覚していたと思います(実際、年を追う毎に元型の意味するところは洗練度を上げていっており、提唱当時と晩年では主張している事が変化している)。
「何もかも意味ありげに語っている」のはユング自身ではなく、多分に、そうする事で自己利益の在るユングを誤ってトレースして伝えている後世の人です。
後の意見について・・・
1984年、アフリカで起こった飢餓問題に助けの手を差し伸べる為にイギリスのミュージシャンが一大結集して "Band Aid" という名義のチャリティー・プロジェクトで「DO They Know It’s Christmas」というシングル曲をリリースした時に、これのレコーディングを終えたカルチャー・クラブのボーイ・ジョージに、さるインタビュアーが「これは単なる売名行為で、偽善ではないのか?」と問い質したのに対して「売名出来る名前を幸いにして僕は今持てているのだから、これを売って、それで少しの間だけでも彼らの命を永らえる事が出来るのであれば偽善でも、しないよりはする方が価値が高いと僕は思う。だから、した。それだけのことだ。」と答えていたのを当時見て、実にクールだと思いました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%89
書いておいでのような自己内での葛藤、または、堂々巡りを忘れずにいてこそ、ヒューマニズムがヒューマニズムたるのだと、僕は思っていますので、凄く共感、賛同できます。
yumesaki
10月 02, 2006 @ 22:11:34
>> aki さん
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