貧困層の固定化を欲しているのは誰か

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前回記事の補足です。

生活保護を白眼視しても意味はない « 侏儒の言葉 | 物語り研究所「夢前案内人」
http://therapy.under.jp/生活保護を白眼視しても意味はない/

資本主義を前提とした自由主義経済を内包する自由主義とは、経済を含む社会一般の活動への国家の介入はルール整備 [1] の最低限度に止め基本自由にさせる。また、そのルール自体も社会の新陳代謝を阻み固定化を促すようなものは極力避ける [2] 。その結果経済的格差が生まれることは容認するという主義です。経済活動を自由にさせると、上手く大儲けする人と小さくしか儲けられない人、事業に失敗して無一文になる人が出てくるのは理の当然なので、この「結果の不平等」を肯定しないことは自由主義を肯定しないことと同義なのだということは先ず押さえておくべきでしょう。
では「結果の不平等」は全く問題視しないのか?というと、これは違って、人道的、道徳的見地からよりは、失敗した者、何らかの理由でメインストリームから外れてしまった者を救う仕組みがないと、リスクを取ってチャレンジしようとする人の絶対数が少なくなる – それは新陳代謝が滞りから社会全体が老化(衰退)していくことを意味するからという理由で生活保護のような最低保証の制度は必要と考えます。有り体に言えば「いつ、誰が(自分自身も含め)、いわゆる“負け組”になるかわからない」からということ。

いわゆる“勝ち組”の一言で一緒くたに括ってしまっているけれども、この中の真の意味で勝ち組と言える、会社を起こすなど実力で成り上がってきた人に生活保護問題(その制度設計に対する批判は多くあれど)バッシングの声は殆ど聞かれず、学歴偏重社会への適応で大企業、霞ヶ関への就職を勝ち取ったのに代表される「所属組織のシグナリングで勝ち組になれている“似非の勝ち組”」層に「食わせて貰ってるんだからありがたいと思え」的な差別意識丸出しの声が多いのは何をかを言わんや。
つまり、前者は先に述べた通り、社会的活性が高い状態が保持されることとセットで、その補完システムとして最低保証を捉えているのに対して、後者は、所属組織が自らの社会的地位の高低の裏付けとしている人達 → より露骨に言い直せば [3] 所属組織の高低が個人の格付けを決めていると考えている人達なので社会は流動的でない方が良いと考える、その格付け根拠の絶対性が薄くなる社会的活性が高い状態は好ましくないというのが本音なので、一方で口先の綺麗事としては薄給の人達を気の毒がったり、生活保護受給せざるを得ない人達をかわいそうがったりし、他方で差別意識丸出しに「選り好みせず就ける仕事に就け」と言うわけです。この「選り好みせず就ける仕事に就け」というセリフは一見正論ですが、自分達がありついた美味しい部分の残りカスを乞食にくれてやっている特権階級意識が背後に隠れており「食わせて貰ってるんだからありがたいと思え」というセリフと根は同じだと分かると思います [4]
だから今の生活保護制度は、その身分に安穏と甘んじていた方が楽と思わせるインセンティヴが強い制度設計になっている、つまり、本音では身分は固定化されていた方が好いと考える人達が作った制度なのでそうなっているのは当たり前だ、というのは穿った見方でしょうか? [5]

今出てきている限定正社員論も発想の根っこは同じで、上位エリート層身分の固定性は死守した上で下部層領域内を多少いままでよりシャッフルできるようにするという発想に過ぎないのです。 こういう書き方をすると私がエリートというものに敵意を持っていると誤解する人も居るかも知れませんが事実は寧ろ逆で、真のエリートと呼べる人達には一目置くし、尊敬もする。但し、真にエリートなら制度や社会の仕組みなどに守って貰わなくてもエリートで居続けることは可能なはずで、そういうもので保身しないと危うくなるのは似非エリートだと言っているだけです。
つもりだけグローバル化してて実は現代日本人は相変わらず江戸時代に生きているという與那覇潤氏の指摘は正しい。
また、この身分固定の解消は絶望的と考えると「31歳フリーター。希望は、戦争。」ということになるでしょう。

生活保護制度の制度設計の問題点批判、これも当然必要ですが、その前に、新陳代謝が滞らず社会全体が老化していかないように社会全体の在り方を変える方が先で、これが実現すれば生活保護受給者が社会問題となるほど増えることは当然ないし、これを実現しないまま事実上破綻している年金制度を清算してしまうと生活保護に国難レベルの人数が殺到することも当然の成り行きとして予想されます。
「誰が“負け組”になるかわからない」というのは「誰が“勝ち組”になるかわからない」と同義。事前には何が最善かなど分かるほど我々は賢くないという当たり前の事実を、知識としてだけでなく感情として理解すべきだと思います。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. ルール整備と規制を同一視している人は多いが本質的に違う
  2. ルール整備のつもりで規制をしている例がこの国では非常に多い
  3. 他人の不興を買うので露骨には彼らの多くは言わないが
  4. だから、社会の流動性を上げる各種規制廃絶、構造改革を成し遂げていない段階で、このセリフを言っちゃ駄目なんですぜ。>橋下徹氏
  5. この船も最早沈み始めているので「沈み出しているタイタニック号の中で三等客室は誰に割り当てるべきかの議論をしているようなもの」という喩えは秀逸

生活保護を白眼視しても意味はない

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ご本人も「正論」と云う全くその通り。

Joe’s Labo : 週刊東洋経済 「65歳定年の衝撃」にインタビュー掲載中
http://blog.livedoor.jp/jyoshige/archives/6239208.html
> 出生率が2.0を割り現状の社会保障制度が維持できなくなるのが明らかとなったのは70年代。
> そのときすでに選挙権がありながら何も変えようとしなかった人間の年金を支払うために
> 選挙権の無かった人間がワリを食うのはおかしいだろう

70年代と聞いて直ぐに思い浮かぶのは、社会党、共産党を支持母体とする所謂「革新系自治体」が日本各地に誕生し“揺りかごから墓場まで”の英国方式が理想のように喧伝されていた [1] の時代であり福祉元年と銘打って保守政党(とされる)である田中角栄内閣が高福祉の方向へ加速させたこと、と同時に田中角栄内閣は御存知の通り「日本列島改造論」をぶち上げ地方への各種バラマキ政策によって東京、大阪、名古屋などの大都市への人口集中を止めた。こういう時代である。

三大都市圏への転入超過と実質GDP成長率の推移(参議院調査室資料より)

三大都市圏への転入超過と実質GDP成長率の推移(参議院調査室資料より)


増田悦佐氏が『高度経済成長は復活できる』で実証している通り、その後のバブル経済で一旦持ち直したかのように誤解している人が多いのとは裏腹に、この70年台の出来事から日本の経済成長は一気に凋落していたのである。一般には「オイル・ショックによって一時的に停滞しただけ」との説明が信じられているが、グラフで一目瞭然の通り「バブルというまやかしの時代」の部分を無視すれば70年代に低空飛行状態に入りバブル崩壊で壊滅状態になっただけ [2] [3]
あの当時は日本がやっと豊かになったという実感が人々に行き渡り、経済的に余裕があったのでその余裕分を、分配を不公平にしか享受できていないと主張する層(または地域)に「まぁ上げてもいいんじゃない? 僕の取り分が減るわけじゃないみたいだし」という気分に流されたのは仕方ないという言い訳はよく聞かれる。確かに、あの時代に今の年齢になっていたとして今できている分析のような冷静な判断が出来たかと言えば、かなり怪しい。だから今の視点から彼らを馬鹿呼ばわりすることはしないし、するべきではない(したところで鬱憤は幾らかは晴れるだろうが問題は何ら解決しない)。ただ、その「自分達が選択した」各施策が誤りだったと、単に誤りだったというだけでなくこれからの世代の足を引っ張り/搾取する仕組みになっているということが明らかになった今、その全てを返上しご破算にするのが道理というものだろう。有り体に言えば「自分(達)のケツは自分(達)で拭け」ということだ。
生活保護レベルよりは緩い基準で良いとは思うが、一定以上収入(預貯金、家賃収入、配当、資産運用収入 etc ありとあらゆる最終的に生活に充てられる金銭、資産)がある人には年金が受け取れないというルール改正にすべき。実際にはこういうルールにすると、まじめに働いて稼ぎがある人ほど貰えない公算が高いので保険料を払わなくなるに決まっているし、その運営コストも考え併せると、生活保護に一本化して、但し「65歳以上の者」は「実際に居住している持ち家」「日常の便に役する自家用車(贅沢品と見做せる二台目以降は除く)」は「生活保護受給資格認定対象から除外」というルールにするのが合理的 [4] 。(だから結局「負の所得税」が一番合理的なんだけどね)
この方式のメリットは「行政コストが大幅に節約できる」と「助ける必要のない高齢者へのバラマキをカットできる」で、ザッとした数字だが社会保障費約100兆円 [5] のうち、50兆円が年金、30兆円が医療費、それに対して生活保護費は3兆円という数字 [6] を見て、(不正受給者の問題はそれはそれとして放置すべきではないが)大局的にみて生活保護受給者叩きをすることと、どっちが重大な問題か一目瞭然だろう。当の高齢者および目前にしている世代が自分達の損になる論点から国民の関心を逸らせられる生活保護受給者バッシングを支持するのは或る意味合理的だが、若者世代にこの論調に乗っている人達が思いの外多いのはびっくりする。ハッキリ言えば莫迦。 一番最初に引用した城繁幸氏のコメントに戻れば、上の世代が犯した過ちを自分達も繰り返すのかと、上の世代に自分達が受けた酷い仕打ちを今度は自分達が下の世代に殺人パスして行くのかと。これではまるで、親から虐待を受けた人が親になった時に同じように子供を虐待する [7] という「負の連鎖」と一緒ではないか。

現行の生活保護制度は不正(および不正に近いと感じるもの)を抑制する仕組みは一切無いに等しく [8] 、経済学(心理学)的インセンティヴの観点で捉えた場合「働いて生活保護を脱却しようというインセンティヴ」への働き掛けは皆無で、寧ろ「働こうとせずに漫然と受給に安住していた方が得と思わせるインセンティヴ」が強く働く制度設計になっているこれはこれで大事な問題は別途ありますが、今日はこの辺で。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 実際には、この当時で既に英国財政は破綻寸前だったのだが
  2. 池田信夫 blog : 「就職氷河期」はなぜ起こったのか – ライブドアブログ
  3. 『戦後日本の人口移動と経済成長』参議院調査室第三特別調査室 縄田康光
  4. 通常の生活保護は、これら資産が在った場合、先ず処分して現金化しこれで食い繋げれるだけ食い繋いで、その上で無収入のままに至った場合にはじめて申請が受理される
  5. 2010年以降毎年100兆円を超えている
  6. 『生活保護費は増やしても良い。』中嶋 よしふみ
  7. その全てがそうなるということは当然ない。その傾向が本人が無自覚だと顕著になるという以上ではない。言わなくても分かっていると思うが念の為
  8. 非受給者から白眼視されるのを恥と感じる旧態依然とした今や機能していない古典的心理圧迫だけ。なので常軌を逸してバッシングが炎上するのであろう

終身雇用というカルテルこそ問題

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何を言いたいのか意味不明。

非正規労働者のメーデー 「アベノミクスから雇用を守れ」(田中龍作)
– BLOGOS(ブロゴス) http://blogos.com/article/61392/

というか論理的に意味が通っていない。
推測で埋めて意味が通るように考えてみると、どうもこの田中龍作 [1] なる御仁の頭のなかでは「有期契約労働者(非正規)と無期契約労働者(正規社員)の差別は固定」されている信仰が大前提になっているみたいだ。
この大前提を置くと「無期契約労働者の労働条件が悪くなる [2] のなら、これに連動して有期契約労働者の労働条件はより一層悪くなる」という結論が導き出され意味が通るからだ。
実際のところは、

池田信夫 blog : 非正社員の敵はどこにいるのか
– ライブドアブログ http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51854369.html

で池田氏が述べている通り、今まで異常に厚遇され過ぎてきた無期契約労働者の「厚遇さ」が無くなるだけなのだ。 更には(池田氏は「社員を雇いやすくすること」とサラリと述べているだけだが)「解雇しやすくなること」と「雇いやすくなること」はコインの裏表の関係であると言っているのである。
「資本家というものは強欲で労働者から搾取することしか考えていない」と条件反射するマルクス・レーニン主義的洗脳頭では「そんなことはあり得ない」と認識され思考停止「リストラをすれば企業の内部留保は増え株価はあがる」という風が吹けば桶屋が儲かる式の乱暴な三段論法に納得してしまうようだが、普通に考えて、人を雇わないと仕事が回らない企業に於いて雇うことを減らすだけで内部留保が増えて株価が上がるなら従業員全員を解雇した企業の経営者はウハウハで笑いが止まらないということになるが、実際には(考えなくても分かる通り)その会社は潰れるだけである。

簡単な算術で、今まで100万円の月給で90人雇っていた企業がこれを止めて月給30万円で人を雇い直したとしたら、単純計算なら100万円×90人=9000万円→9000万円÷30万円=300人雇える計算になる。 実際には例えば「人件費が軽くなる分の30%は商品(サービス)の提供価格の値下げに回させて貰うとして」と経営者が考え、9000万円×0.7÷30万円=210人ということになったり、「いやウチの仕事は300人も人員が要らない、150人で充分」と9000万円÷150人=60万円(先の30%経費削減策を実施しても42万円)ということになったりするだろうが、何れにしても雇う人数が増える傾向または、無期契約労働者を厚遇し過ぎた皺寄せで必要以上に買い叩かれていた有期契約労働者 [3] の給与水準が上がる傾向が強く見込めることは分かるはず。
「そんなの希望的観測に過ぎない」という声が聞こえてきそうだが、必要以上に(蓋然性を逸脱した)安い給料で人を雇おうとしたする企業が現れても [4] 結局は充分な人数もしくは能力を備えた人員を確保できなくて適切な水準まで給与設定を上げざるを得なくなる。市場原理とはそういうものだ。 著しい薄給で雇わないと経営が成り立たない会社は当然潰れる。これも市場原理である [5]
現段階までは無期契約労働者の給与の下方硬直性が著しく在るので、市場原理は有期契約労働者の方への皺寄せとしか働いていなくて、だから上辺だけを見れば「市場原理=悪」と映りやすいのはわからなくもないが、実は問題は市場原理の方ではなく、市場原理が公平に機能しない元凶の一つである無期契約労働者の給与の下方硬直性の方なのであり、これを確固たるものに担保する終身雇用(無期契約労働)という考え方自体なのである。 上の給与下方硬直性に手を着けずに最低賃金水準を上げる発想をするのは雇用自体の海外流出を促進するだけで有害無益である(給与下方硬直性を改善した上ならばそれなりに意味はある)。
当然この「給与の下方硬直性」に守られてきた「無期契約労働者」たちはにとっては労働条件は間違いなく悪化するので反対の声を上げる。やれ「市場原理主義=悪」だの「労働者搾取」だの「労働者階級差別」だの、、、さも、これまで虐げられてきている有期契約労働者の「仲間」であるかのような口ぶりで。(都合の良い時だけ「労働者」というバズワードで被害者の仲間ぶって自分達の特権を強化してきたヤツラは、また同じ手を使おうとしている)

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「田中龍作」でサクッとググってみた(https://www.google.co.jp/search?client=safari&rls=en&q=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%BE%8D%E4%BD%9C&ie=UTF-8&oe=UTF-8&redir_esc=&ei=QX2FUdrpPI-ViQfb4ICABA)ところ「貧困ビジネス」の方のようである。「貧困ビジネス」とは、弱者の味方のフリをして生計を立てている輩・・・おまんまの食い上げになるので弱者が居なくなると困る・・・を指すバズワード。福島瑞穂、上杉隆などが典型例
  2. 今まで実質不可能だった解雇ができるようになるだけだが
  3. 実際には大企業の皺寄せを同じく受ける身の中小零細企業も含む
  4. 過渡的現象として現れる可能性はある
  5. 露骨に好ましくない労働条件が社会から淘汰されることは労働者にとっては喜ぶべきことである。「雇用が減る」と云ってこういう類を生き残らせるのは本末転倒

幸福とは何か・・・少なくとも「不安」が少ないことではない

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“本丸”としての労働市場改革:書評『デフレーション』 — 城 繁幸 : アゴラ – ライブドアブログ http://agora-web.jp/archives/1525128.html

「希望」と「不安」は、やじろべえの左右の錘(おもり)の如く。光と闇の如く。
一方が弱れば他方も存在が薄くなる。

不安の芽を事前に摘んで最小化するのが好いことだと信じた結果、実は希望も最小化しているという現実。
両者が上述の通りの相補関係にあると知っていれば実に当たり前なことなのだが。

相補関係にあるのでこの全く逆も真なりで、希望をやたらと膨らましすぎるのも悪い結果になる可能性「も」脹らませていることになるので両者をバランスさせていくのが肝心と、ここまではわかるのだが。
ところが実際のところ、悪い結果になるか良い結果になるかはやってみるまではわからないから事前に最小化することよりも、悪い結果になった場合事後的に被害を最小化もしくはリカバリーする知恵と工夫の方にエネルギーを使った方が現実的であるというところに帰結する。 前者よりも後者の方が被害者実数も少なく、被害総量も少ないであろうと想像に難くない。
事前に最小化することに執心する人は悪い結果になった場合、往々にして「なかったこと」にしようとする。起こったこと自体は消せるわけは当然ないので、責任追及できる適当な他所の村社会をターゲットにしてこれに全てを負わせて自分たちの村社会は守ろうとする。

ある村社会を非難・バッシングしているのはほぼ間違いなく自分たちの村社会を守ろうとしている人たちであるに過ぎない。

コッポラの胡蝶の夢 [映画評]

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この記事はfacebookのタイムラインに9/9に投稿したものに加筆修正した転載です。

立川志らくさんが大大大推奨してたのだが映画館での上映は結局東京の(名画座的な)一館のみで終わってしまい、仕方なくDVDは結構前に入手してたのだが、気軽に観れる映画ではなく迂闊に観ないほうが良いと思って今日に至っていた。
観られる条件(心情的なものも含む)が整ってやっと鑑賞した。

 良かった。

流石コッポラ。
流石ルーカスの師匠なだけあると思わせるルーカスに通底する構成のセンスを随所に感じた。

我々人間が「我」と思っている自我意識と呼ばれる(呼んでいる)もの自体が突き詰めればフィクションである。そのフィクションが実在だと思い込める一つの大きなファクターが「時間」。 時の流れというもの自体は存在はしているが、これを「時間」「時系列の流れ」としての体系と捉えるのは実は人間独自の「発明」で自然には存在しない。言い換えるなら、時の流れという本質的に捉えどころのないモノを「捉えられていると錯覚するためのトリック」、これが時間という発明である。

荘子の「胡蝶の夢」が言っているのはこういうことで、だから邦題に「胡蝶の夢」が入っているのだろう(たぶん、コッポラ自身のチェックが入っている。コッポラとはそういう人だから [1] )。

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——–[ 脚注 ]—————-
  1. 他言語の字幕を入れる時に、その字幕を台本にして送らせて(これを専任アシスタントが英語に訳したものを)一語一句チェックし、その言語でのその言い回しはどういうニュアンスかまで確認しつつ、自分の意図に沿った訳になっていない場合修正させる → これを納得するまで繰り返す。という作業を要求する人なのだそうだ

大飯三号・四号機にはベント機能自体がそもそも必要ない

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中途半端な知識で知ったようなことを、それも東京新聞・中日新聞論説副主幹という立場の人がこういう公性の高い場所で書くのは如何なものか。

フィルター付きベントも防潮堤もないのに「事故を防止できる対策と対応は整っています」と大飯原発再稼動に踏み切る野田首相。 政治と官僚の迷走、ここに極まれり! | 長谷川幸洋「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32792

以下の動画を観れば分かる通りPWR型(加圧水型)である大飯三号・四号機にはベント機能自体がそもそも必要ないのですよ。
より詳細に言えば、燃料棒に使われているジルコニウム量が少ない、格納容器が五倍のサイズである事などから、ベントが必要になるような状態の発生閾値が高い。言い方を換えるならば、ベントが必要になるような状態にもしなった時はベントどうこう以前に他の部分がもっと深刻な状況になっているの。 この点が、ベントを適切な段階で実施しないとより悪化した事象が発生するBWR型(沸騰水型)とは大きく異なる。

また「防潮堤云々」も、今回の福島事故というよりは東日本大震災から得られた教訓は、いくら高い(または強固な)防波堤、防潮堤を作っていても、無限に高い防波堤・防潮堤は作れないので、その想定を超えた津波が押し寄せれば何の意味も無いので、ここに金を注ぎ込むのはあまり賢いやり方ではない。それよりも水が押し寄せても大丈夫な作りにしておいた方が良い(浸水する前提で気密性・耐圧性を上げておいた方が安全面、コストの両面で良い)ということなので、この観点での対策は少なくとも大飯三号・四号機には施されている(と同ビデオを観ればわかる)。防潮堤の高さが十分であるか否かの議論自体があまり賢い議論でないのである。

まぁ日本のマスコミでは寧ろ当然に近い(というのは情けないのだが)、「”原発際稼働は危険”という結論にしたい意図」が先にあって、これを結論付けるためによく調べもしないで記事を書いているのだろうけども。

2012年7月2日 09:34 追記:entry後、普段観ない朝のワイドショーを観てたら、大飯三号・四号機に「フォルター付きベント機能を付ける予定になっている」そうな。飲みかけたコーヒー吹いた! 先述の通りPWR型にはベント機能は実質的に意味がない。だから付けていないのだが、これをきちんと技術論理的に説明をすることよりも、意味の無いベント機能を付けて気分的に安心する大衆に迎合したことのようだ。アホか。 いや実際アホだ。 工業系学校で学んだ人は元よりちょっとした以上の工作をしたことのある人なら知っていることだが、一旦完成したものに後から手を加えて造作をすると必ず強度&整合性は低下する。それが精密な精度を要求されるものであればあるほど、この強度低下は結構デリケートな問題になる。こんなこと工学的常識。 雰囲気として(科学的根拠の無い)安心を得たい人々に迎合することを完成度の高い原子炉の強度を犠牲にして実現しようとする。これを愚行と呼ばずして何と呼ぶ!

「金で何でも買える国」

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過去にも何度か読んでいた古い記 [1] なんだけど今回なんでか琴線に触れた(以前が触れなかったという意味ではない)、tweetしようと思ったのだけど文字数的に収まらないのでエントリーにするです。

日本というのは「金で何でも買える国」になっているのだなぁ、と痛切に思った。

404 Blog Not Found:貧乏な社会で子を産むな
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50955373.html

(もちろん「何でも」と言っても道義的、倫理的に対象にそもそもしてはいけないものは含まない、たぶん。)
「金で何でも買える」と「金を出さないと何も手に入らない」は本来的にはイコールではない筈なのに、日本という国は何時の間にかこれがほぼイコールになっているじゃん。という嘆息である。

そもそもは金を出さなくても手に入るものをわざわざサービスに仕立ててお金を取る。ビジネスとはそういうもので、これが存在する事を悪視して「市場原理主義悪」と非難する短絡な論は巷に溢れているがこれは間違い。崩壊寸前時のソビエト社会主義共和国連邦は「金を出さないと何も手に入らない」極北だった点を思い起こせばそれで足りるだろう。
「金で買える状態」なのが問題なのではなく「金を出す以外のオプションが存在しない」ことが問題なのである。一般庶民が金を出しては手に入れていないものを、金持ちがわざわざ金を出して手に入れる(そのかわり極上のサービスに仕立て上げられたものを)のは一向に構わないわけで。
先にソビエト社会主義共和国連邦を例として引いたのは偶然なのだが、こういう社会に仕立て上がってしまっている日本という国は「その負の部分に社会主義的ミーム」を備えてしまっていると気付くと偶然が偶然ではなくなる。
実は、何でもかんでもありとあらゆるものに値札が付くのは、資本主義社会に於いてであるより社会主義社会に於いてであるのだ。
『それをお金で買いますか--市場主義の限界ただ、「何でもかんでも値札を付けてはいけないものまで値札を付けてしまっている」というよりは日本の場合、誰もやろうとしなくなっている内に仕方無しの結果として値札が付いてしまい。そして一旦値札が付いたら、それは「既得権」となり、そうなると値札無しでやろうとする人間を規制するという本末転倒が起こる。というのが実情ではないだろうか。
既得権および既得権ホルダーを批判するのは無意味だとは言わないが、その構造をそもそも作った責任の一旦はあなたにも在るという自覚無しに既得権および既得権ホルダーを批判するのは単なるスケープ・ゴート・・・つまり責任逃れ・・・じゃないか。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 事関連記事リンクをどんどん辿って行くという読み方を拙は基本的にするのだけど、Danさんのブログは特にこの読み方でどんどん掘って行けるので愉しい(interest)。

私がなぜ原子力発電推進なのか

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私がなぜ原子力発電推進派なのか簡潔に示します。

  • これから世界は、中国、インド、そしてアフリカ諸国が繁栄の方向へ向かおうとしていることで爆発的に電力を必要としてきつつある。
  • 日本を含めいわゆる先進国はこの二世紀の間、化石燃料を潤沢に使って社会を繁栄させて来た。
  • 原子力発電という選択肢を無くすと、彼らには化石燃料(特に安価な石炭)という選択をするしかなくなる。
  • そうなると地球温暖化、地球規模での大気汚染の問題は今以上に深刻な問題になる。
  • 今までの二世紀にわたって先進国はさんざん化石燃料を消費して我が世の春を謳歌して来(しかも,その間は欧米列強諸国以外にとっては植民地化されていた歴史でもある)ておいて彼がその番になった時に「地球環境保護」の美名の基にこれに制限を加えようとするのは手前都合勝手な言い分ではないのかという問題がある。 [1]
  • ただ残念ながら、現状ではインド以外、中国も、ましてやアフリカ諸国では現在実用化されている複雑&大規模な原子力発電プラントを安全にオペレートし続けて行く能力は持ち合わせていない。
  • ので、原子力発電プラントは今以上に技術革新を遂げる必要がある。 [2]
  • この意味での最先端の技術&ノウハウの蓄積は、フランス&日本の寡占状態である。
  • 「世界唯一の被爆国」である日本には「核兵器と結び付かないクリーンな原子力」というイメージが持たれている(彼らの過大な幻想の部分もあると日本人からは冷ややかに言える面も在るが)。
  • 反対に核兵器を持っているアメリカ、フランス、(ましてやロシア)の影響下で原子力発電プラントを持ちたくない(政治的|情緒的)思惑もある。
  • ので、その技術プラスαな「ブランド力」が日本にはある。
  • 現段階で日本が原子力開発から降りたら、今まで「日本は世界唯一の被爆国」と言って、その平和的利用の牽引役をしていた(と彼らはみている)のから、しかも彼らがこれを必要とし始めた矢先という最悪のタイミングで降りるのは「無責任」と映る。 [3]
  • 反対に原子力発電プラントを今以上の技術革新を遂げさせる責任は日本にあると期待されている。
  • 彼ら独力で安全にオペレートできるようになるまでノウハウの伝授を含めた総合的な支援をする役割を担う責任が日本にはある。(彼らはそう期待している。)
  • その日本で原子力発電プラント事故が起きたことは、これをどう始末付けるのか・・・未来に繋げる教訓を得ようとするのか、なし崩しに逃げてしまうのか・・・注目されている。
  • つまり、いま原子力開発から降りるのは、「世界、特に途上国からの期待を裏切る行為であるので日本の国際的プレゼンス向上のチャンスを逃すだけでなく失墜すらしかねない」「せっかくの大きい国際的ビジネスチャンスをドブに棄てるに等しい」という国際貢献、金儲けの両方で大損をするのは愚か以外のなにものでもない(この二者が両立することは滅多に無いし)。

ビル・ゲイツは第四世代原子力発電プラント(今までのものよりコンパクトかつイージー・オペレート)の開発ベンチャーに多額の投資をしている。流石はビル・ゲイツと言うべきだろう。個人的にはビル・ゲイツは好きではないが、先見の明ありと評価するべきと考える。

TED RANDOM「「ゼロへのイノベーション」 ビル=ゲイツ、エネルギーについて語る。」
http://tr.loopshoot.com/id/767

2012年6月8日 23:25 追記:
一定以上の便益を備えているテクノロジーに於いて、それを凌駕するものに置き換わられたのでない限り、皆が「もう終った」「将来は無い」と言っているとき、こういう時こそ最大のブレークスルーのチャンスなのだと、直観的にそう思う。 もしかしたら、これが一番言いたかったのかも知れない。

2012年6月10日 05:24 追記:
先のエントリーで紹介した動画の中の細野大臣に報告書を渡す会見の模様を伝えたもの「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか – YouTube http://www.youtube.com/watch?v=Agp1amvBv94&feature=plcp」,この会見終了後(YouTube動画ではカットされていますが)当日USteamで生放送されたもので、細野大臣が退席した後、大前氏が質疑応答に答える中で「この報告書で指摘した問題(福島事故の反省点)を真摯に受け止め改善に盛り込む姿勢が政府に見られないとなった時は、私は反原発・脱原発の側に回ります」と強い調子で述べております。私もこの大前氏のスタンスに全面的に同調する者で、「何が何でも原発推進」「無批判に原発賛成」ではないと、「原発推進賛同派だからこそ厳しい目で見つめ続けるべき」と考えると明言しておきます。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. この点に関しては、先進諸国でマラリアがほぼ根絶できた途端「毒物だから」とDDT使用を全面禁止にしたのと同根の問題。これを厳しく糾弾していた武田邦彦氏が今やあっちの世界に行ってしまったのは残念
  2. 核兵器開発に繋がる可能性は(今でも)あるので、わざとイージー・オペレートなものを作ってこようとしてこなかったという側面もある
  3. 視点を変えるならば、原子力開発から日本が逃げてしまったなら、これ以降「日本は世界唯一の被爆国」という枕詞は一切使えなくなると心得ていた方が良いとも言える。反原発派もこの枕詞をさんざん使い倒して来た功罪を猛省すべきだ

反|脱原発しても全然安全になんかならない

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先ずこの動画を見てほしい。この中で印象的なのは「日本人って何でこんなにだらしないのか。と。あれだけの事故を起こしながら反省もしていないし新しい組織も作っていないし、新しいやりかたを”これだ”と示していない」という部分。
つまり大前氏の言わんとしていることは、大小に関らず事故・トラブルが起こった場合に、その原因、問題点を論理的・理性的に分析して改善、改良に繋げるのが理性的大人の取るべき行動であって、誰が悪いだ誰のせいだと吊るし上げる対象探しをするのは子供のすることだということだと言ってよいだろう。 後者は一見「責任追及」であるかに見えて実は「俺は悪くない」「私は悪くない」と責任回避の自己保身の行動である側面の方が強いのである。今、日本のマスコミ(特に朝日)、そしてマスコミの論調に同調して正義漢ぶっている人たちの取っている行動はこれであるという自覚を持った方が良い。責任追及しているつもりになれて、かつ自己保身出来る実に都合の良い態度なのだと。

さぁ、それで本題であるが、、、殊、原発問題に関しては橋下氏の近視眼的対応(というより反応)は目に余る。日本復興計画 Japan;The Road to Recovery
以前から大前研一氏の本を読んでいたみたいだし、また池田信夫氏のブログを読者であるらしいし、つい先頃池田氏とtwitter上で意見の交換を活発にしていたりもしたので、それなり以上の的確な情報は把握していたと思われるのに、再稼働問題を含む原発問題に関してのコミットメントは稚拙の一言・・・小学生並みの正義感である。
もっと先を見越した時局判断のできる人だと思っていたのだが、買被りだったのか。

原則論を言えば、池田氏の指摘するようにエネルギー行政に地方自治体の長が兎や角言える法的権限はない(意見を述べる自由はあるという意味の権利はあるが)。中央政府であっても、国会審議を経た法律改正、特別立法等の手続きを踏まないで恣意的に原発稼働を差し止めることは違法(贔屓目に言っても脱法)行為である。この点は押さえておく必要はある。

それはそれとしても直接的行使力はなくとも、関西連合または維新の会として意思表示してオピニオン(世論)をリードすることには大いに意味があるので、では、じゃあ、どういうオピニオンを発信して行けば良いのかという話であるが。

なぜ安全性を自分たちで担保しないのか | 物語り研究所「夢前案内人」

以前のこのエントリーで既に述べた通り「実際問題安全性が確保されているのかどうかが大事」なのであって、「なんとなく怖い」という子供の情緒論に同調することではない。
因みにであるが、反原発派、嫌原発派の人も憶えておいて欲しいのが「稼働していようが停止状態であろうが原発の安全度(危険度)は同じ」である点。機械工学的見地を入れれば「動いている方が寧ろ安全」とさえ言えるという点。
そして以下に引用するH2Oプロジェクトの詳細分析をみれば分かる通り、関電管内の(少なくとも大飯3号機、4号機)に関しては十分安全が担保されているということ。

English trans-script is available on all these Videos bellow.



  • TeamH2O発表「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」最終報告 資料(約13MB)
    ⇒ http://pr.bbt757.com/pdf/conclusion_111227.pdf
  • TeamH2O発表「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」最終報告 補足資料
    (全プラント比較:約290KB)⇒ http://pr.bbt757.com/pdf/apdx_chronology_and_power-loss.pdf
    (教訓の適用可否:約438KB)⇒ http://pr.bbt757.com/pdf/apdx_applicability_to_pwp.pdf
  • Press Release – What should we learn from the severe accident at the Fukushima Dai-ichi Nuclear Power Plant?
    ⇒ http://pr.bbt757.com/eng/

この点は明白な事実である。

問題は同上エントリーでも書いた通り

経産省の「原子力行政全般に対する不信」がその正体なのだと分かろう筈。 であるならば、幾ら改善策を施そうが、また、その改善策が実際に有効なものであっても、これを国民から信用されていない経産省、原子力安全・保安院の方を向いて行なっている限り、一般市民からの信任は得られる筈はない。

国および電力業界が信用を失っているのが事実であるが、この付和雷同世論に同調して「お前ら信用できないから(原発の運転も)信用できない」というレベルの低い循環論法を展開するのではなくて橋下氏および維新の会は、原発再稼働を前提と宣言した上で「但し、その代わり市民を説得できるに十分な状態を作り、かつ、この情報を100%開示せよ」と関西電力にプレッシャーを掛ける戦法(協力姿勢を示しつつプレッシャーを掛ける「敵対的協力戦法」)を取るべきだったのだ。 十分な裏付けのあるデータを基に人々を説得するのは橋下氏の得意とするところではなかったのか?

どうも、ここまでのところを観察する限り、原発再稼働に反対の人が多数派だと橋下氏は本気で思っているきらいがあるが、ハッキリ云おう「それは大いなる誤解。勘違いも甚だしい」と。若しくは「あなたの取り巻きに偏った意見の人が集まり過ぎているのではないですか?」と。

これが断言できるのは簡単な話で、詳細な分析による科学的データなど要らない。
大阪市中を見回して、節電をしているのは役所と付き合いのあって仕方なく協力している組織、団体、企業、「お願い」という名の「行政指導」に従わざるを得ない企業だけであって、一般家庭で節電協力をしている人は、イデオロギー的にそっち方面の人か、朝日新聞の熱心の読者だけである。
大阪の人間は「実際的」である。よく利己的と勘違いされることがあるが「実際的」なのである。合理的必然性があると判断されたら、ちゃんと節電協力する。それがないから協力しない。ただそれだけである。
この市民の行動を「既に答えは出ている」と受け止めれないのなら政治家として失格だよ、橋下くん。

あなたが今まで批判し、敵に回してきた人達というのは、「サイレント・マジョリティ(寡黙な多数派)」の意向を見抜こうとせず「ラウドネス・マイノリティ(声の大きい少数派)」の圧力に屈するという安易な道を選んできた既成政党であり既存政治家だったのじゃないのですか? 彼らが安易な道を選んできたことで、世の中「既得権益者得」「利益誘導巧者得」になってしまったのを打破し、改革するために大阪知事になり、維新の会を結成し、知事を辞して大阪市長になり、してきたのではないのですか?

少し前にその発言が物議を醸した古賀氏の云ったのとは全く別の意味で「停電テロ」は起こるかもよ。
それは大半の市民による「原発停止したままで居てられると云うならやってみろよ。節電協力なんか絶対にしないから。夏の電力消費ピーク時に停電になったら、その時が見物だね」というかたちで。
これの責任を関西電力の方へ持って行くのはお門違いだと言っておく。 橋下くん君達の責任だからね。

今からでも遅くない、「180度方向転換して、原発再稼働:その代わり安全監視機関を国主導ではなく地域主導で作ること」 → つまり「自分達の安全は自分達で確保維持していく」という方針に舵を切るべきだ。

本当に安全を考えるなら、老朽化しているだけでなく設計思想の古い(古過ぎる)炉は廃炉して新型の炉に立て替えていくべきだ。まだ実用段階には無いが第四世代の原子炉なら大阪の街中に建設しても全然問題ないと僕個人は考えている。 実際、使い道に困っている遊休地は埋め立て地にいっぱい在るのだし。 ある程度以上のリスクを伴っているテクノロジーは、自動車然り、航空機然りで「リスクをコントロール下に収めることで致命的な事態に至らないようにする」ことが定石であり、リスクを遠ざけることは逆に致命的な事態が起こることの予見性を失くす(視野の外にやることなので)ということを、もっと皆は知っておくべきだ。

CHINE • Bill Gates se branche sur le nucléaire | Courrier international
http://www.courrierinternational.com/article/2011/12/08/bill-gates-se-branche-sur-le-nucleaire
ビル・ゲイツ氏が中国の原発に関心 中国で提携先を模索 2011/12/12(月) 14:57:33 [サーチナ]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1212&f=business_1212_199.shtml

先頃流れたこのニュース。個人的には「中国に先を越された!」と思ったのだが、これに中国に先んじて手を挙げるべきだったのだよ橋下くん。 池田信夫氏に頼めばビル・ゲイツと話し合う場を設けるくらいはして貰える筈だから、依頼してみてはどうだろうか?

本題よりも重要かもしれない補記: 上に引用のH2Oプロジェクトの詳細分析の中で非常に気になる、看過できない点として「全電源喪失について検討するべきか?」との東電からの問い合わせに対して「考慮に入れなくてよい」と原子力安全委員会が返答している(福島の事故以前の話)という点。 全電源喪失状態が長時間続くと燃料損傷、炉心溶融することは、少なくとも10年前から原子力技術者の間では常識化している(庄司調べ)ので、こんなナンセンスな問い合わせをする東電も東電であるが、これに「検討の必要なし」と答える原子力安全委員会も原子力安全委員会である。 この点はきちんと責任追及されるべきであるのだが、この情報を伝えているマスコミは皆無(反原発の朝日ですら)なのは、どういうことであろうか? この一点を取上げても、彼は(安心という情緒論を振り回すだけで)真剣に安全を追求するつもりなど更々無いのだと言って良いだろうと思う。

役に立たないと(真に)断言できるならやらなくてよい

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結構多くの人がそれぞれそれぞれの言葉で有為な見解を述べてくれていて、他人(ひと)が有為な言葉を紡いでくれた後で意見を述べるのは実に楽な「他人のふんどしで相撲を取る」ではあるが。

「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と聞かれた時、言葉を尽くせない大人が知性を殺す: 不倒城
http://mubou.seesaa.net/article/272799592.html
『ちょっと前、「子どもに「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と言われた時、「こんなことも出来ないお前は何の役に立つの?」と返すのが最強」とかいうコピペをみて、心底アホかと思った。まさか親や教育者が本気にはしないと思うが、こういう一言は容易に知性を殺す』

コメント欄も含めこれを読んで私の想起した見解は「何が役に立つのか将来のことは誰にも(私にも)わからないから」である。

何が役に立つのかかなりの確からしさで予見できるのであればU.S.S.R [1] は崩壊せずに今尚存続しているだろうという例を引っぱり出して来なくても感覚的に分かると思う。

我々の知っている事は「何が今まで役に立ってきたか」だけ。
と同時に「それは役に立つことが実証される以前段階で “役に立つだろう” と予想されたものも含むけども、実証される(実用化される)までは誰も役に立つとは思っていなかったもの、どころか役に立つわけがないとバカにされていたものも数多く含まれていること」も知っている。
そして更に、世の中を一変させるほどの偉大な発明・発見の多くは後者の方である事が多い傾向なのも知っている。
そして更に、それを世の中の誰しもが認める実用化まで元アイデア発案者の独力で到達できたのは結構レアケースである事も。(不遇のままで世を去って、後世に再発見された英才の物語は枚挙に暇がない)

以下エントリーではこの点までは言及していないが、この意味でも「人様の頭を使う」というdankogai氏の指摘は有効である。

404 Blog Not Found:「こんなことも出来ないお前は何の役に立つの?」が最凶な理由
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51802268.html

利用されてやる側に回ること、つまり、援助することはあなたにもできるということである。

加えて、習得途上の段階でひょんなことで今まで想定されていなかった別の使い道(新たな定義or定義の拡張も)を思い付くこと、というのもままある事で、この意味で丸暗記勉強は最悪なのでもある。

「目的がハッキリしていなくても手段を弄くり回しているうちに目的(らしきもの)を思い付けるタイプ」と「目的がハッキリしていて、これに収斂させていく方が得意であるがゆえに、逆に目的がハッキリしていないと馬力が掛らないタイプ」とがあって、、、という話もあるのだが、これはまた改めて。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. Union of Soviet Socialist Republics・・・旧ソ連の正式名称「ソビエト社会主義共和国連邦」

Google … still not be evil.

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最近とみに not evil じゃないのではないか? is evil じゃないか? という声も聞かれるGoogleですが、、、

小飼弾のニコ生サイエンス 「グーグル潜入映像も公開。『中の人』が明かす検索技術の未来」 – ニコニコ生放送
http://live.nicovideo.jp/watch/lv92787473

なかなか興味深い内容だったのだが、総合した印象としては「Googleの中の人は依然としてちゃんと “Don’t be evil” だということ」は分かった。
と同時に「”Not be evil” なだけでは “not evil” では居られないのじゃないか」という印象を強くした。
それだけビッグデータを握っているというのは、金が一定量以上集まると人智を超えたEvilな振る舞いが出現するように、自分たちはevilでないよう振る舞ってもevilの罠に落ち込む危険性は小さくないのでは?と思わざるを得なかった。
賀沢秀人氏が無邪気だっただけに、逆にevilさが怖くなった、と言って分かってもらえるだろうか?

繰り返すが、Googleは “Don’t be evil” である。これは疑う必要はない。問題はここにはない。

2012年5月20年 23時07分 追記:
だからと言って、そこに人為が入るのはもっとevilになる、こっちの危険性の方が大きい。これも確かだと言える。
だから難しい問題なのだと。

流動性とは「バリアフリー化」されているか否か

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大筋同意できる。特に「雇用の流動性のなさ」の問題は大いに同意できる。

若い世代でネガティブな労働観が増えている! お金儲けは悪だと洗脳され、会社ギライが多い日本人|これからの日本について、自分のアタマで考えよう!|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/16881

それだけに「英語ができないと・・・日本語しかできない人が多いのは問題」的な締めになっているのはどうなのかなぁと思う。自分のアタマで考えよう
英語ができないよりはできた方が良いに決まっているが、「できる or できない」の問題ではなく「世界に対して何処までリーチできるか」の問題が大事・・・つまり単に英語理解力/会話力が身に付いているだけでは大した意味なくて、その後の「それで? – So what?」の部分が大事な筈。

もちろん文脈込みで読めば、そう言わんとしているのは分かるので、対談者ご両人というよりは、記事を纏めた編集者のセンスが悪いって話だけかも知れませんが。

本題だと思われる「雇用の流動性のなさ」の問題は当ブログでも何度も取り上げているし、その度ごとに引用している(に等しい)池田信夫氏も、それこそ何度も何度もしつこいくらいに指摘している問題です。
これは平たく言えば、ある時に所属している集団が自分の居場所として不適だと感じたら他の集団に「鞍替えする機会均等という意味の自由」が或程度以上存在しているか否かということです。「機会均等という意味の自由」というのは「バリアフリー化」されているか否かだと言い換えられます。

このことは少し考えれば分かる通り、いじめ、特に「日本特有のいじめ」の性質とも通底します。クラス等で無視されるというのが、いじめとしての効力を大きく発揮するのは、その集団以外に居場所を見付けられるかどうかのバリアフリー度合いと反比例するからです。
この意味では日本の社会自体がそもそも「いじめ体質」であると言えると思います [1]

[amazonjs asin=”439661392X” locale=”JP” title=”日本人の9割に英語はいらない”]先述の英語の件も、英國の言葉という意味の英語ではなく、実は米語でもなく、Global English化された==バリアフリー化された英語であるという点。この点を見落として「英語、英語、、、」と言ってもあまり意味はない。
つまり英語自体を学ぶというのではなく、その「バリアフリー感覚」を学ばないといけないのです。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 大人がそういう社会を形成しておいて「いじめはいけない」などと言っても子供に対してどれほど説得力があるのだろうか

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