理不尽な校則はなぜ無くならないの?

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決められたルールは守らなくてはいけない という当たり前の一般則の話は当然のこととしても、それってそもそも必要?と思えるもの、一般社会通念から乖離したもの、中には不条理なものまである校則
何で守らないといけないの?と当の学生生徒が思うのは当然、第三者の大人の目から見ても理不尽な場合も少なからずあります。

答えを先に書いてしまうと、公教育が始まった明治以来の基本理念を教育界がアップデートできていないからです。

日本の公教育が始まった明治時代当初から「将来の兵卒予備群としての品質管理」が重大なテーマであり、端的に言えば「上の命令、組織に服従する従順さ」が最優先であるわけです。
これを身に付けさせるため、不条理、理不尽にも平気でいてられる辛抱強さ、無神経さ、無感動さを、明に暗に鍛える仕掛けが埋め込まれていて、これの一つが校則なわけです。
だからそれに蓋然性、妥当性があるか否かは、対外的に言い訳の立つ説明はあれこれ付けはしますが、実際のとところは寧ろ理不尽さを含んでいた方が好都合なわけです。

「色々な考えがある」と知たり顔で言ってしまう人達

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 書いてからかなり時間が経つが、前エントリー【「色々なものの見方がある」って正しいの?】に頂いたhirovisさんからのコメントに端を発して、改めて「この記事で言いたかったことは何だったんだろう?」と考えてみて、或る意味言い得ていなかった(この意味で言葉足らず)点を再認識したので書くです。
 先に断わっておくと、(全回のエントリーでも断わったので繰り返しになるが、書いてあることを読み飛ばすのか誤解する人が居るので再度)「色々なものの見方がある」という事実自体に批判を加えているのではないし、この事実を事実認識として表明する場合は、そもそも問題としていない。

 まず気付いたのは、、、「究極的には人と人は分かり合えっこない」という認識が僕にはあるという事。 こういう絶望を背負って生きているのが人間なのだ、という認識が基本的にある。
 これは、僕個人の人生観であると共に、カウンセラーとして接してきた人達の多くも、この事実に気付いた事から端を発して「生きるに難しい人生」とどう付き合っていけばよいのかが重いテーマとしてのし掛かってきた人達であった事も無関係ではない。
 この絶望感は如何ともし難く、壮絶に深い溝である。 勢い「ないこと」にして「見て見ぬフリ」をして生きていければ幸せなのかも知れない(大概の人はそうしているように思う)が、残念ながら僕には見えているし、この事実を知っている。

 と同時に、「分かり合えるなんて、そんなものは幻想だ」とニヒリズムに走るのも、安直な嘘吐きだと知っている。 「分かり合いたい」と希求する魂の欲求が、「究極的には分かり合えっこない」というのと同じくらい重大な事実として存在するからである。(「分かり合いたい」と希求する魂の声を封殺することで自分を病ましている人も多いと附記しておく)

 「究極的には分かり合えっこない」という厳然たる事実を分かり過ぎるくらいに分かっていて尚、分かり合おうとする、、、この永遠に終わらない戦いから逃げずに果敢に挑んでいく姿に「人間の美」があるのだと思っている。 これを「死に対峙する態度」と一緒だと言えば「人間の美」とまで表現するのが大袈裟でないと同意頂けるであろうか。
 「死ぬに決まっている」という意味では、勝負は端から決している。 如何なる努力をしても死からは逃れ得ぬ訳だから。 では、なぜ生きているのか? 生きようとするのか? 生きるのは何のためであるか? 端的な答えが出せる類の問題ではない事は判っている。 では、答えを出そうとする努力を放棄するのか? 否。 答えを出そうとする努力を放棄する事はイコール生きようとする事を放棄する事に他ならないから、答えの出ない答えを出そうと足掻くしか我々には選択肢は無いのである。

 だから腹が立つのである。 「色々な考えがある」と、さも知たり顔で言われると。
 知たり顔で安易にこの言葉を口にする人には、この「分かり合えっこない溝の深さ」のクリティカルさを、その絶望感の壮絶さを、たぶん知らんのだろうな、と感じる。 知らないから逆に気楽に「違う考えがある(分かり合えない溝が在る)」と口に出来るのだろうと。

 また、更に、その絶望感の大きさを知りたくないし認めたくない人達は、それを直視させられそうになると傷付けられるように感じ、逃れようとするのだろう。 実は、誰が傷付けたのでもなく最初からぽっかり口を開いている傷であるのに。
 見たくない人、認めたくない人が逃げるなら、それはそれでよい、逃げる自由はある。 ただ、その溝の深さが大したものではないように嘯くのは止めて頂きたい、と言いたいだけ。

「色々なものの見方がある」って正しいの?

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 よく議論が白熱した時、議論が白熱して収拾が付きにくくなった時によく使われる言葉と云えばよく使われる言葉ではありますが、これって何か場凌ぎというかお座なりというか誤魔化された感じがする、少なくとも私はそうでしたし、今もそうです。
 これが何故かというのがイマイチ上手く説明できなかったのです、今までは。

 お世話になっているjungnetというメーリングリストにて、Sさんという方が以下のような発言をされていた。 曰く

「いろいろな見方があるというのは一見正しいのだけれども、その実、いろいろな見方を並列に見通すような絶対的な見地から語られていて、実は単一の、上に立った見方になっている。~中略~ 「いろいろな見方がある」ことを承認した上で、ある見地においてあることを事実と見なすことも、現実の生のなかではバランス感覚として必要だと感じます。別の言い方をすれば、「いろいろな見方がある」という主張は、もっとも公平なようでいて、実は局面次第では破壊的なだけであることもある。」

というもの。
 この言葉の冒頭部分(中略より前の部分)はフッサールのものだそうですが、実に上記の理由を巧く説明してくれています。 「なるほど! そういうことだったのね」と非常に合点がいった次第です。

 「色々な見方がある」ということ、これは事実で、この事実自体をなにも否定しようというのではありません。 ただ端的に言えば『「いろんなみかた」という観点』は存在しないということ。 いろんなみかたがあるというのは『「いろんな見方がある」という状況』描写に過ぎないということ。
 ただの状況描写でしかないのを見解の代わりに(つまり見解であるかの如くに)用いられると、胡麻化しと感じるのは寧ろ当然と言えます。

 「互いに認め合う」または「互いに尊重する」とは、互いに違いがあるなら、その違いをきっちりと確認し、その「違いっぷり」とでも言いましょうか、距離感とでも言いましょうか、これを味わって満足できる態度だと私は考えます。 違う処をきちっと味わうからこそ共通点、共鳴できるものが在った時の喜びも一入(ひとしお)になるのだと思います。

 「違うこと」と「違わないこと」の両方を包含でき許容できる、こういう関係がベストだと考える私であります。

 とは言いつつも、人間には感情、情緒というものがあり、あまりに美意識、感受性に隔たりがあり過ぎる人には、どうしようもない諦めとも絶望とも言える感慨を感じるしかない時はあります。

打ち明けて語りて 何か損をせしごとく思ひて 友とわかれぬ (石川啄木)

 大好きな詩です。

障害者に優しい社会とは? 優しいってどういうこと?

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 前々回のエントリー「論点がズレる時・・・ユング心理学「タイプ論」の観点より」で取り上げた話題の当人の片一方であるMacskaさんのブログに於いて「障害についての意識調査というかクイズ」という題した以下のようなエントリーがアップされた。

 現実にあった話を元にした問題です。
 車椅子使用者を多数含む障害者の団体が列車で旅行に行くことになりました。ところが列車は普段のままでは車椅子のまま乗れるようになっていません。車椅子を使用する人が少人数であるときは、座席の一部だけ取り外して乗せることになっているのですが、これだけの団体が乗るためには一車両丸ごとほとんどの座席を取り外す必要があります。
……以下略(本体を参照してください)

 彼女のもう一つのブログである「macska dot org」も含めて表明されている各評論、意見、感想等から推測できる彼女の意見の一つは「ヒューマニスティックになろうとすればするほど、どんどんヒューマニズムの本質から遠ざかっていく悪魔の呪縛を我々は持っている」であろうと思う。(私の解釈なので違っていたら訂正を入れて下さい> macskaさん)
 私がこう思った根拠の一例が以下ですので、興味のある方は参照してみてください。 → ” DV被害者支援を志す人はマツウラマムコ著「『二次被害』は終わらない」に絶望せよ
(と書いたが、読まないと以下の論理展開がたぶん見えないので「必ず読んで下さい。」に変えます・・・2006/02/11追記)

 この彼女の問題意識というか感受性は私の立場からも非常に興味のある問題であるし、非常に共感する。
 ユング心理学の基本中の基本として、我々の心の奧底に脈々の息づいており、かつ逃げても逃げても逃げ切れない「エゴイスティックさ」「残虐さ」「傲慢さ」「猟奇的性質」を『元型』として持っているという事実(*1)、これを認める処からでしか「倫理」「正義」「道徳」は始まらないというのがある。(脱線になるが、この意味で「小学生女児が同級生を殺傷した事件」などに対する分析は正鵜を得ていないものばかりである。彼女は特殊な女児ではなく、子供に限らず全ての人間の中に、それがそのまま顕現してしまうと恐ろしい事になる猟奇性、残虐性が息づいているので、亊の真相は「あなたの問題」であり「私の問題」であるという問題意識の欠如、または真実を見つめたくない欺瞞性。)

 話が逸れ掛けたが本題に戻って……これらを予備知識した上で冒頭のmacskaさんのクイズに戻ってみると、軽々に迂闊な結論を下す事に非常に躊躇を覚えるだろうと思う。 また、いわゆる「安物のヒューマニスティックな議論」が「なぜ安物なのか」が分かると思う。

 彼女は同エントリーの最後を以下の言葉で締めくくっている

「もちろん、何か1つの正解があるという問題ではありません」

と。

 彼女はつまり、安易な善悪、安易な正邪、安易な解決策を提案して欲しいのではない。
 端的に言ってしまえば、読者それぞれがそれぞれに「自分の中の利己者」と「自分の中の利他者」との葛藤、「自分の中の善人」と「自分の中の悪人」の葛藤・・・これを感じ取り、確認し、知って欲しい、こう思っているのだと思う。

  1. 無論、これが元型の全てではない。 元型の一つの流脈として、こういう流れがあるという意味である。 因みに私は「元型」を「本能」とほぼ同義語だと考え、一般的に想定されている「本能」より遙かに広い概念として「本能」という言葉を使う。 なるべく混同されないよう、その都度注記するようには気を付けているが、この点を今後も留意頂けるとありがたい。

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