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「未知」とは何か〜いつまで「未知のウィルス」と呼び続けるのか

COVID-19は本当に「未知のウィルス」でしょうか?
通例、我々は「知っていると “思っていない”」ものは未知と考えます。この観点だと確かに未知です。
では、心臓での血液循環、そのメカニズム(生物学的知識のあるなし)を知っているかではなく知っているか? 言い換えると、意識でコントロールして心臓を鼓動させているか?意識でコントロールしないと心臓は鼓動できないのか? 答えはNoです。
心臓の鼓動だけでなく、消化器で食物を消化することも、呼吸することも、意識しなくても身体が勝手に運営してくれている。 見方を変えれば、あなた(の意識)は知らなくても身体はこれらのことを知っていると言えるでしょう。
折りに触れ何度もこのブログを含めあちこちで発言し続けていることではありますが、我々の知能の内の「意識」というのは実に傲慢不遜で、自分は全て知っていると思いがち、自分の知っていることがこの世の全てだと思いたがる傾向を強く持っています。
ところが先述の通り、意識は知らなくても身体さんは知っていてくれていて、かつ身体さんは知っていると一切顕示もせず黙々と己の任務遂行してくれる。生物の身体とはそういうものと云えば身も蓋もないですがそういうものです。

COVID-19に限らず感染症全般、感染症だけでなく広く疾病全般に於いても、身体が予め備えている各種生物反応で対処できる範囲である限り、大概の場合発症しない、発症しても軽症で済む。これを「身体が知っている」と捉えて良いでしょう(より正確に記するなら「身体が知っている対処法で撃退できたことを以って “知っている” と概念付ける」)。

本題のCOVID-19ですが、2月〜3月の当初は未知であるか否か自体が未知だったので未知で当然だったわけです。
ところが約半年経過してその傾向がおおよそ掴めてきた段階に差し掛かっていて、その死者数、重症者数が圧倒的に少ない[1]東アジア圏に於いては身体が既知の対処で撃退できていると考えられる、つまり「身体から見ると既知」。
結果論でみると、あなたの意識は知らないから未知だと思っていたのかも知れませんが、身体(細胞)も含めた広い大きい意味でのあなたはちゃんと知っていたのです。もっと自分のこと、自分の身体を信頼するべきです。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 死者数に於いては、そもそも体力が落ちている、基礎疾患を持っていたなどの影響のない純粋にCOVID-19起因で死んだ人だけだと1割以下になるという数字もありますし、重症者に於いても同様のことが言える点はありますが今は置いてきます

日本人の理解していないコンセンサス

この医師を「酷い」呼ばわりする安易な感情論は簡単に人々の同情を引ける話題提示のしかたなのだろう。
問題は、受精卵 → 胎児の発達過程の「どこからを生命とするのか」の社会コンセンサスを確立する努力を怠ったまま放置しているからだと思う。

【風疹1万人超え】妊娠中感染「医師から中絶迫られた…」 – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130618/trd13061822320013-n1.htm

わかりやすい例として「妊娠期間中に出産後障害に至るであろう可能性が高いと医学的に判断された場合は中絶すること(出産してはいけない)」という法律になっていたらどうだろう? more »

動機の純粋性

当然ながら心理学的にも避けて通れないテーマである。

池田信夫 blog : 特攻作戦を生んだ「動機の純粋性」 – ライブドアブログ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51789174.html

「動機の純粋性」に感動・共鳴してしまう、 “青臭い” [1] 美意識は誰しも持っていると思われる。 多分、これは万国共通で、この意味では日本固有の問題とは考えにくい。
ところが日本固有の問題と考えるをスルーできない現実が過去から今も出力されているという点。これは一体何なのか、何故なのか、と、ここが要点だろうと思われる。
一つには「平和だったから」論・・・欧州諸国は中世、千年の永きに渡って血で血を洗う戦争を繰り返してきた、これは単極の勝敗で物事が決しない長期戦 [2] なので長期的視野に立ったより戦略的な思考を必要とするということを経験を積み重ねていく内に学習した。そうなると短絡的な行動を起こしやすい傾向のある動機の純粋性で行動を起こす者は寧ろ邪魔なので淘汰されていったのだろう [3] 。この淘汰の機会をあまり持たなかったゆえ動機の純粋性で行動を起こす者が多く残っているというのである。確かに一理はあると思えるが決定打に欠ける感は否めない。
不覚にもソースをメモしておくのを忘れたので明記できない [4] のはご容赦願いたいが、つい最近(三ヶ月くらい前と記憶)に「攻撃性 [5] を抑制すると目されている遺伝子が日本人に於いて短いということが判った」「民族的または人種的に柔和だとされてきた今までの通説を覆す結果になるかも」というニュースに触れたのだが [6] 、これが事実であるなら、ここに一つヒントを見出すことが出来ると思われる。 日本人全体的に攻撃性が高いのであれば、それを一方的に悪視するのはどこかで無理が生ずる、かといって秩序維持の点から全面的に肯定するわけには当然いかない。で折衷案的に「動機の純粋性」という発露機会だけ肯定する代わりにその他のケースは全てダメという価値観醸成がなされてきたのではないか?と。 有り体に云えば、広くコンセンサスとして認められた「ガス抜き」の方弁。
つまり本源的には「集団内の秩序維持の為に攻撃性を抑制する仕掛けとしてのコンセンサス」の側面の意義の方が大事なわけだが、これが「日本人は柔和であるという“神話”」にいつしか摩り替わって普遍化してしまい「動機の純粋性」というのだけが目立って残ってしまった。そして、あたかも最初から「動機の純粋性」という美意識、価値観が独立してあったかのような錯覚をするに至った [7] 。というのが私の見立てである。

中韓だけでなく欧米諸国でも結構根強く、日本で再軍備議論が起こるなどに対して過敏に反応する警戒感があるのは、この実は結構強く持っている攻撃性に当の本人は全然自覚的でないという「自覚の無さ」があるからではないのか? という設問を立てると結構スッキリと納得が行くし、過去のエントリー「批判を非難と受け取る(勘違いする)人が多いのはなぜか」への補強説明にもなっている。[amazonjs asin=”4560082820″ locale=”JP” title=”「空気」の構造: 日本人はなぜ決められないのか”]

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 良い悪い両方の意味
  2. 勝ってしまったが故に他の隣国との関係が余計に拗れるという事態は幾らでもあった
  3. 実際近年の研究で、十字軍遠征はこの正義感は強いが短絡的な動機の純粋性で動く厄介者を体裁の良い大義の下に追い出す意味があったのではないかという指摘が出てきている
  4. ご存知の方フォローお願いします_(._.)_
  5. 衝動性だったかも。この点記憶が不確か
  6. 論争、議論がすぐ喧嘩、罵り合いに発展してしまう多くの日本人を見ていて個人的には非常に納得がいくのである
  7. こういう本末転倒は歴史的にみても心理学的にみてもよくある

なぜいじめはなくならないのか 続1

先日のエントリーの続きです。

なぜいじめはなくならないのか « 心理学エッセイ | 物語り研究所「夢前案内人」

先のエントリーで「動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり」と書いた。
動物行動学(生態学)に或程度以上詳しい人ならご存知の通り、動物の世界のそれは「いじめのパターンA」に対して、こういう反応を返すといじめ行動がストップする「対応するパターンa」が必ず存在し、この対によって集団の秩序が維持されているという「行動様式(行動のお約束)」が存在するのである。
だから、この「お約束」を守った行動をする限りにおいていじめがエスカレートすることはないのである。(「お約束」通りの反応を返したのに「お約束」に従っていじめ行動を止めなかった個体があった場合は、今度はこの個体が集団から総攻撃を受け排除される)

で、実は、この行動様式は人間でも同じなのだが、「いじめのパターンA」に対して「対応するパターンa」を返すという「お約束」が厳格に守られている社会は部族社会で、西洋近代啓蒙主義的には「野蛮」で「劣った社会」とされる。この「西洋近代啓蒙主義的」つまりは「西洋中心主義」な価値観なので、これが真に普遍的に正しいかどうかは疑問の余地は大いにあるのだが、現代日本の社会はこの西洋近代啓蒙主義的価値観に則った社会に(一応)なっているので、この「お約束」を守る必要はないと考える個性を認める社会になっているのだということ、先ずこれは押さえておかないといけないポイント。これは所謂「個人主義」とほぼ同義だと考えて差し支えない。

ところが、いま先の文に「一応」と括弧付きで書いた通り、そのマインドというかメンタリティは依然として古い部族社会的な人が結構な数残存しているという・・・もしかしたら私も含めて完全に払拭できていない人の方が圧倒的多数なのではないか?・・・中途半端にしか個人主義的マインドというものを理解していない人がかなりパーセント居るということで、つまり
「お約束」を必ずしも守らなくても良いという自由を認める社会を形成しておきならがら、「お約束」を守らない人に対応する対応の仕方を編み出していない(許容するマインドを持てていない)人がかなりパーセント居るという拗れた状態を孕んでいるのが現在の日本社会なのである。

いじめがエスカレートする理由、またはいじめを悪いことだと(理性的にわかっているのかどうかは関係なく)実感として理解していない人というのは、「お約束」を守らない(お約束通りの行動をしない)奴の方が悪いという感覚をどこか腹の底に持っているので、だから「お約束」に従った行動を取るまでいじめを止めない(止めれない)のである。本能的で動物的だと言えば確かにその通り。
しかし、ここまで書けばご察しの通り、日本の社会ほど「お約束」好きで、「お約束」を守る予定調和を好しとする社会は近代化した社会ではないのである。

「お約束」とは半ば以上「暗黙の了解」または「空気を読むことの強要」なので個性を認め尊重する個人主義とは対極にあるものである。
だから、

  1. 「お約束」を守って平和、そのかわり個性は著しく認められない社会
  2. 個性を認める代わりに「お約束」は最早存在しない、つまりパターン化した行動では生きていけない社会

このどっちを選ぶのか?という選択を曖昧にして先送りしてきたツケが回ってきているのだという認識を多くの日本人は持った方がよい。
與那覇潤氏『中国化する日本』の概念を借用するならば前者は「(再)江戸化」、後者は「中国化」に該当するだろう。この意味でも與那覇氏の指摘・問題提起は正しいと思われる)

「個性の尊重」と言い出して遥かに久しい教育界ではあるが、このこと・・・「空気を読む必要なんかない」「空気を読むことを強いるのは悪」という教育をしてきたかしら?と考えれば直ぐにわかる通り、寧ろ「空気を読む達人たちの集まり」これが教師達だと言っても良く、だからこの彼らに「お約束」を守らない個性を尊重する大事さの認識は薄い、だから「いじめに気付かない」「(鈍感なので)いじめだと認識しない(この彼らですらいじめだと認識するのはかなり露骨なものだけ」ということになる。
この「いじめの本質にある問題性」を認識していない彼らの「いじめは悪いことです」「いじめを無くしましょう」というスローガンが空疎で欺瞞的なのも、ここまで説明すれば了解されると思う。
この点でも彼らを再教育する段階から始めなければならないだろうというのが私の考え。

404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
「なぜいじめが発生するか」という生理学的見地に関してはあまり述べられていないのだ。

答えというほど冴えても充分でもないでしょうが、僕なりに見解を出したわけですが、どうでしょうDanさん。

なぜいじめはなくならないのか

この問題を抜本的、包括的に、また広く説得性のある論理を展開出来るほど問題自体が簡単ではないし、また、私の考えもそこ遥かに及ばない低レベルにしか錬れていない。この意味で看板に偽りありのエントリーです。

今段階書ける(言語化できる)だけの範囲を書くと、
まず実践面(実用面)でいえば、「傍観者の排除」これが取り敢えず「手が付けやすくて」「実効性がある」という意味で大事。
より具体的にいえば、傍観者でいること自体が加担者なのであるという点、傍観者でいること自体が罪であるということを社会的コンセンサスとしてきちんと確立するべきである。
ここでいう傍観者は、文字通り傍観者・・・見て見ぬフリをする者、遠巻きに傍観しているだけの者・・・だけでなく、直接加害には加わらないが囃し立てたり茶化したりする野次馬も含む。つまり「制止」「調停」「仲裁」「仲介」「庇護」などを行わない者はすべて傍観者であるということ。
より詳細かつ説得性のある言説である以下を参照。

404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:いじめと個性
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50681593.html

個人的にはいわゆる「先生当たり(先生の当たり外れ)」は良い方だったようだと大人になってから分かった私でも実際生徒だった頃の経験から、傍観者になっていた先生がそこそこ割合以上必ず居たと言える。
つまり「傍観者であること自体が罪」であることを先ず、教育する側から教育して行かないといけないのだろうということ。

次に、より根本的問題に言及すると、「いじめ自体」を悪い事と、「いじめ自体」を消滅させようとする努力は無駄であり無意味であるばかりか、場合によっては問題をより陰湿化、巧妙化させさえするという問題意識を持つべきだ。
いじめという行動様式これ自体は絶対に無くならないし、無くせもしないと断言する。それは動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり、つまり、集団性動物でかつ高等生物であることからの何らかの必然がそこにあると認めざるを得ないからである。(これが何故であるか、また、どういう必然性なのか説明できるほどの知識および能力は現段階持ち合わせていないが)

これは良いだ悪いだ云っても始まらない自明に近いものであろうので、いじめの行動様式を取る基本素養は我々皆が備えているということを先ず認め、これを前提に、その発露が陰湿化、残虐化しないようにするにはどうするのが良いのか?という設問の立て方をするべきだと私は考えている。
しかし、これは真剣に考えるとかなりクリティカルな問題で、「あなたも殺人者になり得る素養を備えているわけですが、これとどう上手く(問題化しないように)付き合って行きますか?」と質問されて簡単に答えられる人が居ないのと本質的に同じだからである。
たぶん、この素養を備えているという事実を認める自体を拒絶しここで思考停止になる人が多いだろう。
この思考停止こそが、いじめの問題の本質に切り込んで行けない主犯で、傍観者を許容してしまうバックグラウンドだと断じさせてもらう。

だから「いじめは悪い事です」「いじめをなくしましょう」という教育関係機関や役所に貼られているポスターのスローガンは、空疎であり、欺瞞的で、薄ら寒いのである。
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印象誘導の典型「幇間論法」

これを幇間話法と名付けよう。

元官僚の古賀氏の発言が不穏当(または不適切)だとの批判が集中しているが、この動画を見る限りに於いて問題なのは古賀氏であるよりもこの玉川徹って野郎(および雇い主であるテレ朝)ですぜ、皆さん。

過去にTVの取材を何度か受けた経験から、ここで池田信夫氏が述べている通り「言わされてしまった」可能性が高いと思う。 彼らの取材の仕方の定石として
「もし、仮に、、、”仮に” ですよ。仮定として、可能性として “こういうことが考えられる” という、あくまで仮説として○○ということは考えられませんか?」
(○○の部分は具体的に述べてしまうと,後で「あれは言わされたんだ」と言われてしまうと拙いので、あくまで抽象的に匂わせるように、あくまでぼかした、だが確実に匂わせた言い方をする)
と自分たちの言わせたい(言って欲しい)コメントを言わせるよう言わせるよう、しつこいくらいに誘導的訊ね方をする。 [1] 更に都合の良い部分だけを編集で切り貼りするのは周知の通り。
とはいえ、官僚時代からこういう彼らを相手した事ない筈はなく、誘導的訊き方をする事は知っていない筈のない古賀氏の場合、迂闊との非難は最低限逃れ得ないだろうが。

冒頭部分の玉川徹のことばを書き起こしてみる。

つまり、だって関西だって、例えば、もしかしたら、国民感情の反発とかがあってね、原発動かないかも知れないって、私だって思ってた訳だから・・・だったら供給責任があるんだから、こっち(筆者中:関西電力)だって増やしておかないといけないんじゃないかなと、いう風に、思うのが普通だと思うんですけども・・・

こう書き起こして「書き言葉」になると「あれ? なんか詭弁」と分かるのですが、ここが「話し言葉」の怖いところ。

巧妙なポイントその1・・・断定を避ける

注意深く観れば(聞けば)分かる通り、この玉川なる吾人は一切断定を巧妙に避けている。曰く「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」・・・。

巧妙なポイントその2・・・「私だって思ってた訳だから」

これを幇間話法と名付けよう。 「私だって」つまり「私ごときが」 → 「私程度の人間でも」 → 「私程度の低レベルな人間でも」そう思ったのだから、私より賢い皆さんが思わない訳ないですよね。と相手の自尊心を楯に取って「いや、違う」と言い難い空気を作って封じておいて、同意したかの如く話を先に進める(実は同意していないのだが同意したような気分にさせられてしまう → 「Noと言っていないのはYesの意思表示論法」)。
しかも、これはポイント1の「断定を避ける」と組み合わさることで巧妙さを増す。つまり「私は断定できるほど賢い人間ではないのでああいう言い方をしたけども、あなたは賢いのだから・・・後は云わなくても分かりますよね?」と言外に言っていると仄めかしているのである。 インテリぶりたい虚栄心の強いプチ・インテリほどこの仄めかし(誘導)に乗せられてしまいやすいのは、ご想像の通り。 [2]
これは(男性もするが)女性が用いることの多い話法で、曰く「国立大学を卒業なさっている○○さんは、三流私大出身の私なんかより世の中のこともよくご存知でしょうから、こんなこと知らない筈ないですよね?」という風に。だから引用の記事にての池田氏の「専業主婦」云々は不穏当で非難を呼びやすい表現であるかも知れないが言っていることは強ち間違っていない。 普段からこの話法を使い使われして適応している人ほど、この話法の罠にはまりやすいので、主婦層をメインターゲットにしているこの手の番組でこの話法を使うのは合理的と云えば合理的。

巧妙なポイントその3・・・「だったら供給責任がある」

この前段までは「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」と仮定(実際には話者>玉川徹の私見、予断)だった筈の話が、この「だったら」という接続詞を用いることで既定事実であるかのように印象がここで変わっているのに気付かれただろうか。 更にこれに「供給責任」という言葉が結び付けられていることで「供給責任があるのだから、”もしかしたら、国民感情の反発とかがあって、原発動かないかも知れない” と考えて当然だ」と帰納的に考える誘導をされているのである。 これは論理的には正しい帰納ではない(つまり帰納でもなんでもない)。のだが、この手の誤った帰納は情緒に於いては寧ろよくあることなのである。
では何故、こういう論理的に考えられればおかしいと気付く論法にまんまと引っ掛かるのか。それは「人間の脳内の情報処理は論理に依るより “イメージに” “より根源的に依拠” するから」である。 論理はあくまでイメージを事後的に整理、分類、分析するための補助機能でしかないのです。

上記3ポイントを駄目押しする「のが普通だと思うんです」

この「普通」という言葉。 通例、「自明なこと=改めて説明するまでもないほど明らかなこと」を述べる時に使う接頭辞で、この点に於いては洋の東西を問わず共通。 英語でも「ordinary」「commonly」「normally」という表現があるが、欧米圏では自明であるとコンセンサスが成立していない事象に対して迂闊にこれを使うと即座に「お前の云う “普通” とは何に基づくのか?」「何を称して “普通” と云うのか?」「”普通” と云って良いほどコンセンサスは成立していないと思うが?」と突っ込まれる。
欧米圏のようにきちんと明示的にコンセンサスを積み上げる文化の脆弱な日本でも「自明な事=普通」という表現が使われるのは論理的に考えればおかしいことであるが、日本人>同質幻想に基づいているのだろう。

ここまでの私の分析を読んだ上で古賀氏のインタビュー部分だけを観たら、随分印象が違ってくると思うのだが、どうだろうか?
再度繰り返すが、如何に誘導されたにしても、ここまで言ってしまった古賀氏は批判されて当然である。この点は誤解なきように。

原発関連で、この手の詐術的、欺瞞的レトリックを駆使している一番有名人である安冨歩と同時期に京大に通っていたのは単なる偶然だろうか?

以下 wikipedia より
玉川徹
1987年、京都大学農学部農業工学科を卒業し、1989年、京都大学大学院農学研究科修士課程を修了

安冨歩
1986年 京都大学経済学部卒業
1991年 京都大学大学院経済学研究科修士課程修了
1993年 京都大学人文科学研究所助手

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 個人的印象と断った上で述べると、この誘導的傾向は、TBS系(含む毎日)、テレ朝(朝日放送は含まない)が特に強い。
  2. 「東京電力の方がましに思えてきた」とコメントする女性コメンテイターは、まんまとこの操作に乗せられている。もちろん、予めこう云うように打ち合わせていた可能性もある

関係性で心理は変わる

この手の記事にしては割とまとも。

些細なことで激怒する彼!その理由は?-セキララ★ゼクシィ
http://zexy.net/contents/lovenews/article.php?d=20120511&vos=nxywsmts20101214

「男は・・・」「女は・・・」と安直な分析に落し込んでものを言わず、関係性の問題だとの指摘は◯。

更に附言するなら、「どっちが上or下」ということを「意識する関係性」を作ってしまったら(いずれが上でも下でも。これは問題ではなく)アウトだと。
こうなってしまうと「どっちが上か下か」ということに過敏になってしまうので結果、「些細なことで激怒する」ということに。

以下は私見ですが、
以前 世の中によくある男女比較論 で述べたのに類似して、異性兄弟と育っていない(異性兄弟がいない)人の方が『「どっちが上or下」ということを「意識する関係性」』を作ってしまいがちなように経験則からは思います。

慣用句の嘘「火のないところに煙は立たぬ」

言葉通り、文字通りであるなら間違いではない、その通りなのだが、、、

より正しくは「煙を立たせようと火を点けるヤツが居る」である。

少なくとも、世間一般にこの言葉が囁かれる時の大概はこっち方である。
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この言葉を錦の御旗にして噂を広めるのに加担していている人の言葉も十中八九信用できない(煙を立たせようとしている当の本人である場合も)。

燃えやすい乾いた木を燃やせば煙は大して発生せず、煙が盛大に立つのは寧ろ燃えにくい生木である。

実際、ネイティヴ・アメリカンや戦国時代の武将は、狼煙を上げるためには、乾いた木や油を使って火を或程度以上起こしてから、これに生木をくべた。

生木に火を点けようとしてみたことのある人なら分かるだろうけど、生木はちょっとやそっとのことでは火が点いてくれない。やっとのことで何とか火が点いても、もうもうと煙が立ち上り、煙が目に染んで痛いわ、咳き込むやら、、、。

(現実の火災等の場合とは違って) 煙が上がっているのを見付けたら、火元を探すのではなく、咳き込んでいる奴、扇いでいる奴を探す方が良い


検索ポータルサイト(やらせ?)

「心理カウンセラー探しをお手伝いします」的なポータルサイトに登録してみた。
結構アヤシイ系のサイトと玉石混交だけども、登録無料だし「少しでも知られることが大事でしょ」と考えて登録した。
そこは「御悩み相談掲示板」も併設してあって、ここに寄せられた質問に登録専門家が返事を書くことで、相談を寄せた方は参考になる情報が貰え、コメント寄せた専門家の方は「こういう返答をする人だ」と広報、宣伝の一端になるということで、このビジネスモデル自体は間違っていないし、狙いも分かる。
相談の書き込みがあると、予め登録してある専門属性などに従って該当すると判断された専門家に「こういう相談の書き込みがありました」「できればアドバイスをしてあげて下さい」と自動送信メールが届いて、回答を促すシステムになっている。書き込みがある程度活性していないと広報、宣伝にならないので、このやり方もわかる。

実際に悩んでいる人の本当の相談が混じっていたらごめんなさいですが、また、想像、推測の域は出ないものの、一つの文面だけ読めば切実そうな、大変そうな印象になるものの、幾つか文面を目を通すと、文体というか表現の癖が共通しているのに気付く。 相談の幾つかに目を通すと、『「世間一般、心の悩み、問題を抱えている人というのは、こういう相談をするんだろうな」「とイメージしているのであろう」と思われるステレオタイプ文面』になっていると気付くのである。
つまり、それは「それらしい体を装っている作文」=「さくら」であることは直感的にわかるものばかり(今のところ)。

つい先日「食べログ」での「やらせ口コミ」で「ステルス・マーケティング(通称:ステマ)」が話題となった時に少なからずの人が語っていたように「そんなの、どこにでも、よくある手法」ということなのだろうが、、、目を通した限り、これに該当しない書き込みは皆無という状態。これは幾ら何でもないんじゃないの?と思わざるを得ない。

まだリンクは解除していない(右下のリンクの中)ので、僕の見解、判断が間違っていないか各人、確認して判断して頂きたい。また、意見も寄せて下さるとありがたいです。

占い依存症になりやすい人

先週金曜日(2012年1月17日)フジテレビ「とくダネ!」にて取材VTRが放送されました。この取材の前日にも週刊「女性自身」に電話取材を受け、こちらの記事は今週発売号(2月21日発売 2528号)に掲載されています。
どんな内容になっているか確認はしていないですが、ちゃんと書いたページを用意しておけば(万が一真意とは違うように編集されていても)誤解しない人は誤解しないと思いますので、このページを掲載します。
基本的に取材インタビューに答えるために用意した下書き原稿で、擲り書きです(多少は整えていますが)。最初から読んで貰うことを前提に文章を書き出したのとは違い散発的、羅列的で読み難いかも知れませんが、ご勘弁を。
当然ながら、オセロの中島知子さん個人について言及しているのじゃないことを改めて(念のため)申し沿えておきます。

また、このページは、より良い論理構成、推敲を思いつく度に随時更新します(どこを加筆、訂正したかはいちいち明記しません)。

「○○依存症」という、この ○○ に何が入るか [1] に関係なく本質部分は一緒だと先ず強調しておく必要はあると思います。

ただ、とは言いつつ「占い依存」の場合は、占い師(霊能者)という相手がある二者関係の「関係依存」である点で「恋愛依存」「セックス依存」以外の他の物的依存とは違って、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)と同根の問題でもあると言えます。

  • 論理的ではなく理屈っぽい=物事を白黒つけたがり過ぎる・・・曖昧、微妙なのが本質の情緒性が劣っている
  • 人間関係を「勝ち負け」「上下」「優劣」で理解する傾向が強く、この関係付けで捉えられないものには反応が薄い。・・・実際には反応が薄いのが原因なのだが、この事に本人は気付いておらず「こころ許せる友達ができない」などと嘆いているケースは多い。
  • (評価ではなく)世間、周囲の評判を過剰に気にする=裏返しの「全くに意に介していない」という虚勢を張るケースも多い
    ( [気にするべき(または気にしてもいい)評価] はスルーするのに [気にしなくてもいい(気にするだけ馬鹿馬鹿しい)評判] を妙に気する傾向も)
  • 他人の考え・感情を通常の「推し量る」能力は劣っているが、反対に「邪推」することが多い。
    (話の前後関係などの文脈から(話し言葉の場合は、相手の表現の着け方、抑揚間合いの付け方も)推察できる「文意」の酌み取りが能力が劣っている反面、メインの意味合いには殆ど影響のない枝葉末節の文言の不備または「文言そのもの」に強く反応 [2] するので、勝手な解釈、思い込みによる「誤解」「誤彪」が多い。 → 「言っていないこと」に食って掛かってくる人)

人間の知性は「論理による思考」と「感情、感覚による察知・判断」が協力的に働くことで理想的な働きとなるので、両者が非協力的またはアンバランスだと適切な推量、推測、判断が損なわれやすい。以上に列挙した特徴は、この両者が協力的に働いていない結果だと言えます。

  • 自尊感情が健全に育まれていない(自尊感情は弱い) ≒ (間違った意味での)プライドが高い [3]

「論理による思考」と「感情、感覚による察知・判断」が非協力的またはアンバランスになる原因として多くの臨床心理家、心理学者のコンセンサスとして重視されているのが「自尊感情の不全」です。
自尊感情とは「イケテル自分」だけでなく「イケテナイ自分」も含めて全包括的に自分を肯定できる(存在を否定しない)感情ですので、自尊感情が不全な人は「イケテル自分」だけしか受け入れれない [4] ・・・つまり「自分を肯定する感情」が「イケテル自分」の方にばかり偏っている(偏り過ぎている)。心というのは常に平衡を保とうとしますのでこれの裏返しとして「イケテナイ自分」の方には否定的感情ばかりが寄せ集められている(残っている)ことになります。
否定的感情というのは他人に対してでもそうであるように、客観的な評価を越えて非常に誇張される元なので、実際にイケテナイ以上にイケテナイように自己イメージが歪む。これが所謂「劣等感コンプレックス化」するということです [5] 。マイナス面が誇張されることで発生する偏りを補正しようとプラス面も誇張され、プラス面が誇張されることで発生する偏りを補正しようとする自律的平衡維持作用でマイナス面が誇張される・・・という「悪魔のループ」が発生する [6]
プラスの面に対してはプラス方向に、マイナス面に対してはマイナス方向に、どちらの方向へも誇張極端化するわけですので双極性障害(いわゆる躁鬱病)とも相関性があるかも知れないと思います。
自尊感情が弱いのを補う働きが動く結果「虚勢張り」になりやすく、時に「見栄っ張り」で「高慢ちき」。「他人に弱みを見せると負け」と考えやすく、これゆえ普段から策略・計略的言辞が多い。自身がそうであるので他人の言動も策略・計略的であるかのように誤解釈しやすい → 不要な詮索、邪推が多い。
その(自尊感情の不全)原因であり、かつ結果であるのが「小さな失敗に対する非寛容さ」です。ここで云う「失敗」とは「不完全さ」と言い換えた方が良いでしょう。
多くの場合がちょっとした失敗をイチイチ指摘、注意、叱責される環境で育ったこと、またはロクに褒めて貰えた経験がなく育ったことで、性格的には神経質で潔癖症に(自分自身の性格的特徴・欠点も含む不完全さを許容できない)、人物的には(いわゆる)完璧主義で他人の失敗にも非寛容になるというパターンにはまりやすいです。
何故これが自尊感情を不全にする原因になるのかといいますと、哲学的言い方をしますと『「完全」という概念自体が論理思考が産み出したフィクションに過ぎない』からです。平たく言えば「完全な人間というものはそもそも存在せず」「人間というものはそもそも不完全」だから、不完全さを許容されない育ち方(育てられ方)をすると「全存在的自分」を許容しなくなるからです。
『「完全」というフィクション』を絶対視すると、論理思考で自分の全てを統制しようとする傾向が強くなり、感情は論理思考の従属物としてしか許容されない・・・論理思考のお気に召す「美しい面」しか許容されない・・・ので、これ以外の「感情というトライ&エラーの繰り返しによるその(適切な)表現手段・手法を獲得していくしかない働き」が、その獲得機会を与えられないことから人格の構成要素として組み込まれない(“野蛮”なまま放置される)・・・「完全さを目指して不完全になる」というパラドクスに陥るのです。

『「完全」というフィクション』に囚われてしまって自分に不完全さを発見してはこれを躍起になって消滅させようとしている点で「美容整形依存症」と根の部分で共通します。

論理的推論で出来るのは「決定」
「決断」は論理で詰めるだけでは答が出せない問題を決めること・・・感情の助けがないと困難。つまり「勇気」であり「後悔を振り切る潔さ」であり「リスクを引き受ける決心」である。

今回の震災に伴う原発事故で奇しくも露見したように「リスクを過剰に恐れる」人が異常に多いこと。日本人は総じて「小さいリスクを無くすことの積み上げで大きいリスクを無くすことが出来る」と信じ過ぎる傾向が強いのですが、これは実は「そういうケースも確かに少なからずあるが、そうでないケースも多々ある」という意味で間違いなのです。小さいリスクを無くすことの積み重ねでしか行動できない人というのは、いざ大きめのリスクにぶち当たった時にそれまでリスクにちゃんと向き合ったことがないのでリスクの大きい小さいすら判断できない思考停止状態になる [7] 。思考停止してもリスクを避けたい感情だけは残るので、元から極端なリスク回避性向がより先鋭化して無闇と増幅した恐怖心となり、バラ色の未来を語る詐欺師の甘言または、終末論的恐怖を煽る言辞を信じ易くなる。
占いジプシーの方なども全く同じで、リスク・・・全く完全な人間などこの世には存在しませんから、恋愛、ビジネス、あらゆる人間関係は「リスク込み」なので、これを付き合いの中で付き合い方の工夫で最小化するという健全な思考法ができる人は良いのですが、「工夫で最小化する」のではなくて端からリスクが極限ゼロに近い相手を選ぼうとする・・・いわゆる相性が良いだ悪いだ言っているのも参考値程度でなら健全なのが占いで相性の良い相手を見付けてこれと付きあおうという発想になると、これは「リスク回避病」と言って良い。
自分にとって安心できる甘言を言ってくれる占い師に巡り合うまで占いジプシーを繰り返し、運良く(運悪く)期待通りのことを言ってくれる占い師、霊能者などに巡り合うとこれを絶対視し出すというわけです。ドラッグを打ち続けている限り平安で居てられる麻薬中毒患者と一緒で、その「安心のおまじないの暗示」を言い続けて貰わないと禁断症状(無根拠の不安が異常に増悪する)が出るようになっていくので、最初は一週間に一回程度で良かったのが三日に一遍、、、果ては毎日朝夕という具合に悪循環を深めていきます。

放射性物質拡散に於いては「非日常的できごとだから」その様相がより過激さを増しているだけで、「自分の中のリスク(マイナス面)」と向き合ってうまく付き合っていこうとする態度が欠如している事が投影されているという点で全く同じだと言えます。


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 買い物、占い、恋愛、タバコ、アルコール、ギャンブル、セックス、薬物、、、
  2. 当然、言葉狩りに走る傾向も強い
  3. 自尊感情が弱いのを補おうと働く(意識的にではない)働きの結果「事実以上に自分をよく見せようとする振舞い」が増えやすい
  4. 大抵の場合は生育して来る中で「イケテル自分」しか評価してくれない周囲の大人の接触態度を反映している
  5. 劣等感自体が悪いものなのではなく、劣等感が否定的感情ばかり寄せ集めて塊になってしまう(コンプレックス化)ことが問題なのです
  6. これが極限まで進むと多重人格的になってくる
  7. 実際にはリスクの多くは無くせはしないので「無かったことにする」「無いことにする」でやり過ごしてきているだけなので、実は小さいリスクが沢山積み重なって大きくなっているケースも多い

尾崎豊を引き合いに出して語る朝日新聞の社説

尾崎豊を引き合いに出して語っている朝日新聞の社説が「痛い」とtwitter上で話題になっている。

社説 http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html?ref=any#Edit2

確かに痛いと思う。しかし私がこう思うのは朝日の社説のみならず「痛い」と宣っている意見の殆どに対しても。だ。
あれほど多くの人に受け入れられ支持されていた、とみえていたののに、これほど多くの人に尾崎豊の主張が理解されていなかったのだと分かり愕然としている。
(もちろん、尾崎ファンの人全ての発言を読んだわけではないし、そもそも尾崎ファンの人全てがtwitterで発言しているわけではないだろうから、期待も含めてその他の多くの人は理解しているだろうとは思うが)

尾崎は単なる反抗、反骨精神・・・安保やら東大紛争やらの「反抗のノスタルジー」を歌っていたのではない。
確かに時代として、安保やら東大紛争やらの「反抗の時代」の一世代後の時代で「あの反抗は一体なんだったの?」という馬鹿らしさ半分の自虐的反省のムードが漂っていた時代で、上っ面だけを読み取れば「若者よ再び怒りの剣を取れ!」と言っているように読み取れるが、尾崎の訴えかけていた力点はそこにはない。
大人社会や体制に反抗するのは若者の特権であり通過儀礼である [1] 。反抗することで軋轢が生まれ、その軋轢を契機にして大人になっていくためのみならず大人の側も変化していける通過儀礼・・・つまり若者の側だけの通過儀礼なのではなく社会全体の新陳代謝の為に必要な通過儀礼なのである。
社会全体の新陳代謝になるには、若者の「反抗というパワー」を真正面から受け止める「反抗するに値する」大人社会、体制が存在していないと駄目で、これがまともに存在していないじゃないかと、若者の反抗心、反骨精神の持って行き場が無いじゃないかと、つまり「大人達よ、もちっと若者が反抗するに歯応えのある社会を作ってくれよ」と歌っていたのである。

「じゃないと大人になるになれないまま年齢だけ大人になっていく大人が蔓延した社会になっていくよ」と訴えかけていたのだと私には思え、実にその後の今の時代を見事に言い当てているではないか!

この大人になるになれないまま年齢だけ大人になっている大人が尾崎を引き合いに出して訓示を垂れているのは確かに痛いが、問題の本質はそこではないのである。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 若者が大人社会や体制に反抗するのはいつの時代にも存在する普遍的な通過儀礼である

中国化する日本 (著)與那覇 潤

歴史を学ぶ意味は二つある。
人間という生き物は「物語化」を常に欲求している。それはつまり「いま私が生きている意味」であり「これからも生き続けていく意味」である。 これは必ずしも客観的事実に基づいている必要はない、実に心理的な意味付けである [1] 。 であるが、空想の中だけで自分の蓋然性を確保できるほど標準的な我々の日常的に駆使できるイマジネーション力は豊かではない [2] ので、過去を参照して今の自分に繋がっている “自分の物語” を紡ぎ出すのである。 これが一つ目。

もう一つは、同じ過ちを繰り返さない為・・・これが優等生的解なのだが実際は「歴史は繰り返す」の言葉通り同じ過ちを人類は幾度も繰り返している。「歴史いくら学ぼうが起こることが起きるときには避けられず起こる」という宿命論的いわゆる歴史のサイクル性は確かに存在すると言えるだが、現在〜未来に活かすために歴史に学ぶ。それも現在の都合に合わせた解釈ではない、この意味での客観的歴史研究がなされるようになったのは実はそう古くないのである。
19世紀、下手をすれば20世紀半ばまでキリスト教圏ではキリスト教的世界観を意識的or無意識的に前提として歴史を解釈していてその残滓は今でも結構根強く残っている。日本に於いても明治政府の皇国史観に明に暗に影響を受けてバイアスの掛かった歴史観が喧伝されたのは割と有名だし、そもそも江戸時代までは歴史というのは物語として面白く書かれることが上等とされ、これは世界各国をみても殆ど同じで史実をそのまま語っている書物は少ないのである。
かといって、歴史も含め後世に残る情報という次元での情報を為政者が或程度以上コントロール出来ていた時代じゃなくなったならば事実を我々が見通せるようになったのかというと、情報については自由度がかなり上がったと言えるインターネットが普及した今の時代になっての状況は、デマ情報も結構多いという事実は脇に置いても(事実だと判断される情報だけに話を絞り込んでも)「情報の断片」ばかりがやたらに多いという状態。その情報自体は事実であるとしても、それらを只むやみに寄せ集めても真実に近付けないのからも分かる通り、情報を見通していくための知恵というか着想のようなもの(事実をうまく繋いでいける糸のようなもの)が大事なのである。

[amazonjs asin=”4163746900″ locale=”JP” title=”中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史”]この意味で本書は非常に有効な着想を提供してくるものだと言える。
著者本人がtwitter上で「登ったら捨ててよい梯子のようなもの」と発言しているように「歴史を読み解くためのツール」として実に有用。
その行き着く先という意味に於いては後者の姿勢でも、その先で前者「いま私が生きている意味」「これからも生き続けていく意味」に繋がってくる処が歴史の面白いところ [3]

『「勝ち組」と「負け組」との格差を当然のものとして肯定する市場原理主義がまかり通り』など主題ではない部分に「ちょっと、その決め付けおかしいんじゃないの?」と疑問に思う部分が割とある(読む人が読めば「読者を惹き付けるためのフック [4] 」だとわかるのだが)が、主論に於いては説得力は充分ある。 タイトルも含めてこの種のフックが少なくないので読解力の無い読者に曲解される、または意図的に歪曲して引用される危険性も無くはないなぁと余計な心配はするが。

先日の拙エントリー「中国人を馬鹿にし過ぎ」で述べた中国人の「金に対する敏さ」「商魂たくましさ」を醸成した一つの大きい理由は、本著の述べる宋代以降中国の伝統となった「経済活動の自由度の高さ」と「思想信条に於いての(逆に)自由は皆無」の状態が同居したことだと説明が付いて個人的にはスッキリと目の前の靄が晴れた感じがした。

本書も指摘するように封建制時代と我々が漠然と思っている武士の時代、これを正しく見通すことで現在に至る日本の歴史的道筋が見えてくるのだが、はてさてそれでは我々はそれを正しく知っているだろうか? 我々が武士道と呼んでいるものの主体が、明治時代になって江戸時代以前を振り返って純化された「明治という時代のための物語」だと知っているだろうか? [5]

個人的には織田信長がしようとしていた事、目指していたコンセプトは、その当時も、そして今もかなり誤解されていると以前から思っていたのだが、この考えを改めて強めた。

2011年11月21日 15:35:勢いで書いたので後で読んで言葉不足を感じた点を加筆(文意に変わりはない)。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 夢の中に意味が見出せる場合があるのはこれ故であるが、意味のある夢が意識側の都合に合わせて出てきてくれることは滅多にない。
  2. これが意識的に出来るなら間違いなく小説家になれるであろう
  3. 余談だが映画「タイム・ライン」は面白いでっせ
  4. 「読者の興味をひきつけるための刺激的なキーワード」という意味。つまり筆者の真意は其処にはない。
  5. 江戸時代に武士道と呼べるものが無かったという意味ではない。在るには在ったが我々が今日認識している(少なくとも世俗一般の)イメージは随分違うのである。
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