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Fairyel sphere なんでも目安箱

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re:無題
庄司拓哉(2006/01/22 03:18)


 細かい話ですが「> 」は引用の意味で使われる約束事になっていますので、引用部以外には使わないようにして下さい。 文章が読みにくくなりますので。
 それと、発言を幾つも分けてアップするのも極力避けて下さい。 内容が纏まっていないなら、纏まってからアップするようにして下さい。


> 対人恐怖症は日本人だけでなくアメリカにも存在するということなんです
> が、統計的に調べてみると、日本人のほうが比較的多いのは事実だと思い
> ます。

 先にも申し上げたようにアメリカでは対人恐怖症は無いという建前の前提があるので、対人恐怖症という診断名は(医師個人の裁量で付ける自由はあるのですが)保険支給の対象として認められないという現状があるが故に、実際には対人恐怖症であっても対人恐怖症と診断名を付けられず、その他の「強迫神経症」とか別の診断名にされているケースが多いのです。 「統計上」には、これらは全く反映されません。 その反映されていない(事実と乖離した)統計という根拠自体が怪しいので、これを根拠にした「日本人の方が比較的多い」という結論も信頼するに足らないものと言えます。

> 三島由紀夫・太宰治など、対人恐怖症的な主人公を題材にした作品が多い
> のも日本人の自我が対人恐怖症傾向をもっているということをよくあらわ
> したものだと思いいます。アメリカの文化人類学者のベネディクト著「菊
> と刀」によれば西洋文化がキリスト教にもとづく倫理感を確立し、神の教
> えにそむくことを罪と考える罪の文化に対して日本文化は集団の和合を重
> んじ、他人から非難を受ける行為を避けようとする恥の文化であるといっ
> ています。以上のことから考えても、対人恐怖症が「羞恥」からきてるの
> はあきらかな事実ではないですか?

 これは一聴に値する意見だと思います。
 僕個人の見解を申しますと、対人恐怖症というのは、そもそも果たしてそういう固有の精神疾患であるのか?という疑問があります。
 と言うのは、西洋精神の主観(西洋の物差し)で日本文化を測ってみたら異常に見える、つまり異文化の者から他の異文化を見るとヘンに思えたり、異常行動のように考えてしまう、という、ただそれだけの話という側面が少なからずあるのが対人恐怖症の所見だからです。
 だから、いわゆる対人恐怖症と呼ばれる精神、心理の傾向は、日本人の伝統的なものと或程度重なって当然だと考えます。
 で、問題は、さぁ果たしてこれが病的と言ってよいものかどうか、、、
確かに病的と呼んで差し支えないレベルの対人恐怖症は事実存在しますが、だからと言って対人恐怖症的とされる精神傾向全てを病的なものと断じて良いのかという疑問は甚だしくあるのと、今申し上げたように対人恐怖症と称されるものは「日本文化」が「西洋の精神性」と出遭ったそこで発生しているきらいが濃いので、その後に発生した対人恐怖症という現象は病だするにしても、問題意識として「日本文化」と「西洋の精神性」との折衷の付け方のどこかが間違っていたのではないだろうか? 少なくとも、この折衷の付け方を上手く出来ないで来ている一群がこの国の中に少なからず居るとは言わざるを得ないので、じゃあその人達はどういう折衷ミスを犯しているのだろうか?という問いは追究してみるべきだと考えています。(まぁ、だから、それを対人恐怖症と呼ぶかどうかには興味ないと言った方が正しいでしょうか。)
 三島由紀夫にしても太宰治にしても、このテーマで書いていたと言えるように思います。

 ベネディクト著「菊と刀」は「なるほど」と思わせる点も多々散見されるものの、全体的には日本文化を表層的にしか捉えていない感が強く、「日本は恥の文化だ」とするのも表層的だと言わざるを得ないです。
 殊に、この著作が書かれた時代背景(アメリカ占領軍が、日本人をどう統治し、どうコントロールするのがアメリカの利害に適うか、という観点で書かれている)を考慮に入れないと、かなり受け取り違えてしまう著書です。

> また最近よく耳にするのが学力低下問題、学級崩壊という言葉なんですが、
> 本当にそうでしょうか?

 これは本当にそうだと断言できます。
 身近な例ですが、鉄道の駅、コンビニ、スーパーなどの自転車置き場での自転車の置き方は、名々が名々で自分勝手な置き方をしている非常に酷い状態が今や日常化しています。 15年くらい前までは、誰が言うでもなく、誰に指示されるでもなく各人が各々、互いに気を付けて整然と並んでいたものです。
 これなどは、全体の調和よりも個の勝手の方を優先する「利己主義的行動」で、これは前後の(特に70年代以降の)個人の自由、個人の権利を優先し過ぎる教育(正確に言えば「個人の自由、個人の権利を、我が侭勝手と区別出来ていない教育」)の結果だと言って差し支えありません。

> もし仮にそうだったとしてそれを「戦後民主主義教育」の批判につなげる
> のは、あまりにも短絡的だと思うのですが?

 学力低下問題、学級崩壊の第一義的責任は教育になるので、これを批判するのは実に真っ当です。 短絡的ではないです。
 たぶんご存じないので無理からぬ事とは思いますが、戦後ずっと日本という社会が引き摺って来た諸々の問題(毒)が、一番典型的かつ尖鋭的に凝縮されているのが教育界ですので、まずこれが批判の矢面に立たされるのは至って当然のことです。
 それと、日本に限らずどこであっても、社会に問題があった時に、一番モロにその被害を受けるのが子供達です。 だから、問題があったと知れた場合、一刻の猶予も無く手を早急に打たなければならないのも教育というジャンルなのです。

> 私は戦前の教育がどのようなものだったのか知りませんが、「古きよき時
> 代」というものも果たして本当にあるものなのどうかも知りえないですよ
> ね?

 いいえ。知ろうと思えば、書店で手に入る書籍だけに限定しても、それなりの分量の書物に当たることは出来ますし、ネット上にはそれこそ沢山の参考になる情報が溢れています(但し、ネット上の情報は玉石混淆なので、どれが優良情報か選び取る知識と理性が要求されます)。
 まず知ろうとすることです。 知ろうとしないで、ああだこうだと自分の手の平の皺だけを数えていても、建設的ではありません。

> 林道義さんは、いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いているとお
> っしゃられていますけど、それも一概にそう考えてしまうのは間違ってい
> ると思います。シングルマザーや父子家庭で育った子供が全て悪いとは思
> わないです。

 林道義氏がどう言っているか、件の本の中にどう書いているか以前に、上記は論理的に繋がっていません。
 「いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いている」という主張をすれば「シングルマザーや父子家庭で育った子供が全て悪い」と言っている亊になるのでしょうか?

 たぶん、社会全体をマスに捉えた観点と、個々の問題というミニマムの観点とを区別せず、混同している処から発生している誤彪(または、論理飛躍)だと思われます。

 林道義氏の主張の概要の以下です。
1:「ジェンダーフリー思想」の中には、シングルマザー擁護論が含まれる。
2:家族というのは社会を構成する基礎単位として非常に重要な役割を担っており、であるのでこれを「大事なもの」とする価値観を失うと社会が荒廃、混乱する。
3:ジェンダーフリー思想が展開しているシングルマザー擁護論は、シングルマザーを擁護する体裁を借りて「家族」という価値観を貶め、低価値化する意図、狙いが隠されている(人権、平等、博愛などの美辞麗句を体裁だけ借りる手法はフェミニズムを初めサヨク勢力の常套手段)。
4:であるから、家族というものの価値を貶める「いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いている」と結論付けれる。

 つまり、これを理解すれば明らかな通り、林道義氏は「母子家庭、父子家庭の個々それぞれ」を批判しているのではなく、「母子家庭、父子家庭が生まれることを安易に肯定するジェンダーフリー思想」を批判しているのです。 批判の内容、対象がまるで違います。
 分かりやすく言えば「やむを得ず母子家庭、父子家庭の境遇になった人達を社会の一員として認める」ことと「最初から母子家庭、父子家庭を作ることを称揚する」ことは天と地ほども開きがあるという事です。


> 正直に言わせてもらえば、ただの理想的な家族論、理想的な子育て論だと
> 思うのですが?

 論というのは常に理想論から始まります。 理想無くしては何の為の論でありましょうや。
 逆に言えば、理想がそのまま描かれている通りに実現できると考えるのは子供の思考法です。
 で、実際には、林道義氏は机上の空論ではなく、具体的事実に即した「問題点の指摘」「改善ポイントの例示」「具体的対処法の提言」などもふんだんに行なっていますので、「ただの」理想論と仰るのは事実に基づかない、りんごさんの印象にしか過ぎません。

> しかし、いまのリスト・カットや不登校の問題が林道義さんのいう「父性
> の欠如」からきているとは思えないです。

 林道義氏が指摘しているのは、これらの心理的一因として「父性の欠如」がある、と言っている以上でも以下でもないです。 これが全てだなどとは一言もどこにも書いていませんし、他の考えられる要因についても他所で指摘しています。
 それと『父性の復権』は「父性をメインテーマ」にしている著書であるということ。つまり、父性とは直接関係のない他の話は、ここでは触り程度以上には扱われていなくても当然という当たり前の前提を忘れてはいけません。

> 昔から続いてきたと思われる「家」制度というものも調べてみたところ近
> 世になって安定したそうです。つまりもともと家というのはあやふやで定
> 義できない存在なんです。

 誰の書いたどの本を参考になさっているのか非常に気になります。
 と申しますのは、「家」および「家制度」について書かれた本のかなり多くが、「家」および「家制度」というものを否定したい政治的意図を持ったフェミニズム御用学者が書いているものだからです。
 恣意的に特定の結論に導こうというバイアスが色濃く働いている本が多いので気を付けて読んで下さい。

 この前置きをした上で私の知っている範囲でお答えしますと、制度としての「家」という価値観、概念が明文化される形で時代の表に表われたのは江戸時代も中期に入った頃だと記憶しています。
 ただ、ここで注意すべきは「制度として」「明文化された」のが江戸中期以降だということです。 つまり、持つべき疑問として「では、明文化、制度化される以前には在ったのか?無かったのか?」というのを忘れてはいけないという事です。 制度というのは、政治支配層が上から決め事として与える場合と、すでに慣習として一般化していたものを制度として取り入れる場合があるからです。

 また、歴史資料として残っているのは主に支配階層の情報である、つまり一般大衆の生活実態や、生活感、価値観などは歴史資料に殆ど表われていないという事実も忘れてはいけません。 一般大衆の事も資料として残るようになったのは江戸中期以降です。
 フェミニズム御用学者がよく使う手なのですが、資料上に発見できないのを以て「この時代には○○は無かった」と結論付ける子供騙しの手法です(しかも、調べた資料選びにも非常に偏りがある場合が大半です)。

*********** 庄司 拓哉 ************
Mailto:yumesaki@mono-style.com
http://therapy.under.jp/dream/
*** 物語り研究所「夢前案内人」*****


このメッセージの親記事です

re:無題 : りんご (2006/01/21 15:33)
このメッセージに対する返事です

re:無題 : りんご (2006/01/22 10:18)

このメッセージへの返事はここで書いてください。
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