幸福とは何か・・・少なくとも「不安」が少ないことではない

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“本丸”としての労働市場改革:書評『デフレーション』 — 城 繁幸 : アゴラ – ライブドアブログ http://agora-web.jp/archives/1525128.html

「希望」と「不安」は、やじろべえの左右の錘(おもり)の如く。光と闇の如く。
一方が弱れば他方も存在が薄くなる。

不安の芽を事前に摘んで最小化するのが好いことだと信じた結果、実は希望も最小化しているという現実。
両者が上述の通りの相補関係にあると知っていれば実に当たり前なことなのだが。

相補関係にあるのでこの全く逆も真なりで、希望をやたらと膨らましすぎるのも悪い結果になる可能性「も」脹らませていることになるので両者をバランスさせていくのが肝心と、ここまではわかるのだが。
ところが実際のところ、悪い結果になるか良い結果になるかはやってみるまではわからないから事前に最小化することよりも、悪い結果になった場合事後的に被害を最小化もしくはリカバリーする知恵と工夫の方にエネルギーを使った方が現実的であるというところに帰結する。 前者よりも後者の方が被害者実数も少なく、被害総量も少ないであろうと想像に難くない。
事前に最小化することに執心する人は悪い結果になった場合、往々にして「なかったこと」にしようとする。起こったこと自体は消せるわけは当然ないので、責任追及できる適当な他所の村社会をターゲットにしてこれに全てを負わせて自分たちの村社会は守ろうとする。

ある村社会を非難・バッシングしているのはほぼ間違いなく自分たちの村社会を守ろうとしている人たちであるに過ぎない。

批判を非難と受け取る(勘違いする)人が多いのはなぜか

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ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?それは殆ど心理的癖のようなものと言ってよく、カーネマンはこれをシステム1と呼んでいる。
議論とは相手を言い負かすことだと思っている人が多く、上記事実の認識なしに不毛な言い争い(彼らはそれを議論だと思っている)が多く展開されている。この裏返しとして純粋な批判を非難だと受け取り逆上したり無意味に傷付いたり凹んだりする人も多いのだと思われます。 RT http://goo.gl/w6ZMD @this_is_tack @georgebest1969

カーネマンのいう「システム1」はユングの云う「個人的無意識」とほぼ同義で、私自身の見解では「個人的無意識+下意識」。

コッポラの胡蝶の夢 [映画評]

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この記事はfacebookのタイムラインに9/9に投稿したものに加筆修正した転載です。

立川志らくさんが大大大推奨してたのだが映画館での上映は結局東京の(名画座的な)一館のみで終わってしまい、仕方なくDVDは結構前に入手してたのだが、気軽に観れる映画ではなく迂闊に観ないほうが良いと思って今日に至っていた。
観られる条件(心情的なものも含む)が整ってやっと鑑賞した。

 良かった。

流石コッポラ。
流石ルーカスの師匠なだけあると思わせるルーカスに通底する構成のセンスを随所に感じた。

我々人間が「我」と思っている自我意識と呼ばれる(呼んでいる)もの自体が突き詰めればフィクションである。そのフィクションが実在だと思い込める一つの大きなファクターが「時間」。 時の流れというもの自体は存在はしているが、これを「時間」「時系列の流れ」としての体系と捉えるのは実は人間独自の「発明」で自然には存在しない。言い換えるなら、時の流れという本質的に捉えどころのないモノを「捉えられていると錯覚するためのトリック」、これが時間という発明である。

荘子の「胡蝶の夢」が言っているのはこういうことで、だから邦題に「胡蝶の夢」が入っているのだろう(たぶん、コッポラ自身のチェックが入っている。コッポラとはそういう人だから [1] )。

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——–[ 脚注 ]—————-
  1. 他言語の字幕を入れる時に、その字幕を台本にして送らせて(これを専任アシスタントが英語に訳したものを)一語一句チェックし、その言語でのその言い回しはどういうニュアンスかまで確認しつつ、自分の意図に沿った訳になっていない場合修正させる → これを納得するまで繰り返す。という作業を要求する人なのだそうだ

Mac OS X 10.7 Lion プリンタ共有が正しく機能しない

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拙環境は以下の通り。ですので違う環境の場合(特にプリンタが違うメーカーの場合)当て嵌まらない可能性はある情報です。

Mac OS X 10.7.4 Lion
プリンタ:Brother DCP-155C

遅れ馳せにパソコンのOSをMac OS X 10.7 Lionにしたところ、プリンタ共有が正常に作動してくれない事態になり、以下引用部の通りのフィードバックをAppleに送信した。

プリンタ共有を利用した場合、以下の通りのエラーが発生する。

  • USB接続でプリンタを繋いである親機(Mac OS X 10.7.4) に対して、
  • Mac OS X 10.6.8 搭載のMacからは「共有プリンタの追加(登録)が出来」かつ「プリントアウトも正常に行え」る。
  • Mac OS X 10.7.4 搭載のMacからは「共有プリンタの追加(登録)」自体から適正に出来ず。具体的には以下の通り。
    → システム環境設定:プリントとスキャン にてプリンタ追加をしようとする
    → 共有プリンタは認識されておりポップアップメニュー内に名前の表示はある
    → が、これを選択して登録をする操作を行うと、プリンタ情報を確認するために親機にアクセスしに行っている案内が出て暫く待たされた後「現在、サーバからソフトウェアをダウンロードできません。」とのエラー表示で終了する。
    → システム環境設定:プリントとスキャン にて「他のプリンタまたはスキャナを追加…」からプリンタ追加をする操作をすると
    → Bonjour 共有 と親機接続のプリンタはリストアップされている
    → が、クリック選択すると始まるプリンタドライバ探索の結果表示されるのは「一般的なPostScriptプリンタ」に(適正なドライバ選択がされない)。
    → 次に「プリンタソフトウェアを選択…」から手動でドライバ選択をしに行くと、ドライバは一覧に表示され選択も出来、正常にプリンタ登録が出来たように見える(左にプリンタがリストアップされているし)。
    → が、このプリンタ(設定)を使ってプリントアウトを実行するとプリントキューに「プリンタの状況を取得できません。」と表示されプログレスバーが走っている状態が延々続く(半永久ウエイトの状態)。プリントキューを削除して終了するしかない。

当初メインで使用のプリンタ「Brother DCP-155C」の側の問題かも?と思ったが、以下の理由でMac OS X 10.7.4 の問題だと判断。

  1. DCP-155Cは複合機で「スキャナ共有」も有効にして使用しているのだが、共有スキャナへのアクセスはMac OS X 10.6.8、Mac OS X 10.7.4 何れのMacからも正常に出来、スキャンを完了できる。
  2. 他のプリンタ:エプソンPM-A700、CUPS-PDF(PDF出力のバーチャルプリンタ)を共有設定して、子機からプリントを実行しようと一連の操作をした結果が全く同様であった。
サーバ機(親機):
iMac 21.5-inch, Mid 2010(3.06 GHz Intel Core i3)、メモリ:16GB 1333MHz DDR3、Mac OS X Lion 10.7.4
クライアント機(子機):
MacBook 13-inch, Mid 2009(2.13 GHz Intel Core 2 Duo)、メモリ:4GB 800MHz DDR2 SDRAM、Mac OS X Lion 10.7.4
MacBook Pro 15-inch(2.4 GHz Intel Core 2 Duo)、メモリ:4GB 667MHz DDR2 SDRAM、Mac OS X 10.6.8 ×二台

上記の通りMac OS X 10.6.x 子機からの出力はそもそも問題ありません。

このフィードバックを送信後あれやこれや調べつつ試行錯誤していたら解決策を見付けたので同様の問題に困っている方の参考になれば幸いと思い記事として残します。
これは暫定的な対処法であり裏ワザの可能性があります。また、将来のOSのアップデートで修正される可能性や、アップデートに伴いこの操作で実現できる状態が無効になる可能性もあります。
また、当方環境では問題なく使えていますが、ご自身の環境では上手く動かない可能性、何らかの不具合が出ないとは保証できません。あくまで自己責任ということでお願いします。

ウェブ検索で調べていると http://www.running-dog.net/2010/12/ios42airprint_cups.html のようなページに突き当たり「http://localhost:631 にアクセスすれば「Mac OS X のOS自体のプリント機能コントロール・パネル」にアクセス出来ると知り、これの設定如何では上記問題を解決できるかも知れないと思いあれこれいじっている内に解決策を見付けた次第。CUPS管理画面トップ

共有プリンタに繋ぎに行きたい子機での操作。 ブラウザを起動しURL欄に http://localhost:631 と入力しリータンを押下してアクセスします。初めてアクセスした場合「Web インターフェイスが無効になっています 〜」というメッセージが表示されますが、これの意味がわからない人は先に進まない方が良いということで敢えて詳述しません。

CUPS管理画面メイン
次に上の「Administrator」リンクをクリックすると次の画像の画面になります。
Server Settings 下の Advanced をクリックするとサブメニューが開く(次の画像)

cups_share_advanced
開いたメニュー「Show printers shared by other system」下の「CUPS」のチェックを入れる。
解説:「(同じネットワーク上の)他のシステム(コンピュータ)で共有されているプリンターを表示」という意味。で、通常 Mac OS X で共有されているプリンターのプロトコルは CUPS なので、これを表示させる設定にするわけ。(逆に言えばCUPSプロトコルじゃないプリンタだった場合は、この対処は当て嵌まらないかも?)
下の「Change Settings」を押せば設定が保存されます。 ブラウザ上での操作は以上。

CUPS共有プリンタ プリントダイアログ
以上の操作をすると(システム環境設定:プリントとスキャン での設定はスルーして)各アプリケーションからプリントアウトする操作をすると、プリンタ選択の選択肢の中に 菱形のマークが前に付いたプリンタが表示されていますので、これを選択してプリント実行すれば親機に繫がった共有プリンタに出力されます。
(下にMac OS X デフォルト機能で共有されたプリンタも表示されているのが見て取れると思います。こちらを選択したら冒頭の通りエラーになります)

これを危ないと感じない人はあぶない

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日中戦争から太平洋戦争に突っ走っていった日本は、ナチスドイツのように凶悪な独裁者が居たのではない。
のに何故無謀な戦争に傾いていったのか?
それは深く考えずに目先の「かっこよさ」「威勢の良さ」で正義を語る愚かな大衆世論、威勢が良くてかっこいいのが正義だと共感してしまう幼児的正義観をもった大衆世論、これに政治家もマスコミ(新聞社)も迎合し流されていっている内に「これに逆らえない空気」が出来上がってしまって、気が付いた時には抜き差しならない状況になっていたというのが真相。大衆が安直に支持する正義は十中八九(いや99%)真の正義ではなく、この幼児的正義である。実はそう断言を簡単にできるほど正義とは簡単な問題ではない [1] が、少なくともそのくらいに警戒しておいた方が良いというのが先の大戦から得られた教訓である筈。

 

池田信夫 blog : 電力会社の社員に表現の自由はないのか – ライブドアブログ
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51800031.html

冷静かつ論理的に妥当なことを言ったら「腰抜け外交」とバッシングを受け、何らの裏付けもないけども威勢の良い(この意味でかっこいい)主戦論を唱えたら拍手喝采。という太平洋戦争前夜に取っていた行動と全く一緒というのは情けない程度では済まない、この朝日新聞およびこれに喝采を送る少なからずの人々


——–[ 脚注 ]—————-
  1. でなければサンデルがあれほど注目・評価されるわけがない

なぜいじめはなくならないのか 続1

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先日のエントリーの続きです。

なぜいじめはなくならないのか « 心理学エッセイ | 物語り研究所「夢前案内人」

先のエントリーで「動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり」と書いた。
動物行動学(生態学)に或程度以上詳しい人ならご存知の通り、動物の世界のそれは「いじめのパターンA」に対して、こういう反応を返すといじめ行動がストップする「対応するパターンa」が必ず存在し、この対によって集団の秩序が維持されているという「行動様式(行動のお約束)」が存在するのである。
だから、この「お約束」を守った行動をする限りにおいていじめがエスカレートすることはないのである。(「お約束」通りの反応を返したのに「お約束」に従っていじめ行動を止めなかった個体があった場合は、今度はこの個体が集団から総攻撃を受け排除される)

で、実は、この行動様式は人間でも同じなのだが、「いじめのパターンA」に対して「対応するパターンa」を返すという「お約束」が厳格に守られている社会は部族社会で、西洋近代啓蒙主義的には「野蛮」で「劣った社会」とされる。この「西洋近代啓蒙主義的」つまりは「西洋中心主義」な価値観なので、これが真に普遍的に正しいかどうかは疑問の余地は大いにあるのだが、現代日本の社会はこの西洋近代啓蒙主義的価値観に則った社会に(一応)なっているので、この「お約束」を守る必要はないと考える個性を認める社会になっているのだということ、先ずこれは押さえておかないといけないポイント。これは所謂「個人主義」とほぼ同義だと考えて差し支えない。

ところが、いま先の文に「一応」と括弧付きで書いた通り、そのマインドというかメンタリティは依然として古い部族社会的な人が結構な数残存しているという・・・もしかしたら私も含めて完全に払拭できていない人の方が圧倒的多数なのではないか?・・・中途半端にしか個人主義的マインドというものを理解していない人がかなりパーセント居るということで、つまり
「お約束」を必ずしも守らなくても良いという自由を認める社会を形成しておきならがら、「お約束」を守らない人に対応する対応の仕方を編み出していない(許容するマインドを持てていない)人がかなりパーセント居るという拗れた状態を孕んでいるのが現在の日本社会なのである。

いじめがエスカレートする理由、またはいじめを悪いことだと(理性的にわかっているのかどうかは関係なく)実感として理解していない人というのは、「お約束」を守らない(お約束通りの行動をしない)奴の方が悪いという感覚をどこか腹の底に持っているので、だから「お約束」に従った行動を取るまでいじめを止めない(止めれない)のである。本能的で動物的だと言えば確かにその通り。
しかし、ここまで書けばご察しの通り、日本の社会ほど「お約束」好きで、「お約束」を守る予定調和を好しとする社会は近代化した社会ではないのである。

「お約束」とは半ば以上「暗黙の了解」または「空気を読むことの強要」なので個性を認め尊重する個人主義とは対極にあるものである。
だから、

  1. 「お約束」を守って平和、そのかわり個性は著しく認められない社会
  2. 個性を認める代わりに「お約束」は最早存在しない、つまりパターン化した行動では生きていけない社会

このどっちを選ぶのか?という選択を曖昧にして先送りしてきたツケが回ってきているのだという認識を多くの日本人は持った方がよい。
與那覇潤氏『中国化する日本』の概念を借用するならば前者は「(再)江戸化」、後者は「中国化」に該当するだろう。この意味でも與那覇氏の指摘・問題提起は正しいと思われる)

「個性の尊重」と言い出して遥かに久しい教育界ではあるが、このこと・・・「空気を読む必要なんかない」「空気を読むことを強いるのは悪」という教育をしてきたかしら?と考えれば直ぐにわかる通り、寧ろ「空気を読む達人たちの集まり」これが教師達だと言っても良く、だからこの彼らに「お約束」を守らない個性を尊重する大事さの認識は薄い、だから「いじめに気付かない」「(鈍感なので)いじめだと認識しない(この彼らですらいじめだと認識するのはかなり露骨なものだけ」ということになる。
この「いじめの本質にある問題性」を認識していない彼らの「いじめは悪いことです」「いじめを無くしましょう」というスローガンが空疎で欺瞞的なのも、ここまで説明すれば了解されると思う。
この点でも彼らを再教育する段階から始めなければならないだろうというのが私の考え。

404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
「なぜいじめが発生するか」という生理学的見地に関してはあまり述べられていないのだ。

答えというほど冴えても充分でもないでしょうが、僕なりに見解を出したわけですが、どうでしょうDanさん。

なぜいじめはなくならないのか

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この問題を抜本的、包括的に、また広く説得性のある論理を展開出来るほど問題自体が簡単ではないし、また、私の考えもそこ遥かに及ばない低レベルにしか錬れていない。この意味で看板に偽りありのエントリーです。

今段階書ける(言語化できる)だけの範囲を書くと、
まず実践面(実用面)でいえば、「傍観者の排除」これが取り敢えず「手が付けやすくて」「実効性がある」という意味で大事。
より具体的にいえば、傍観者でいること自体が加担者なのであるという点、傍観者でいること自体が罪であるということを社会的コンセンサスとしてきちんと確立するべきである。
ここでいう傍観者は、文字通り傍観者・・・見て見ぬフリをする者、遠巻きに傍観しているだけの者・・・だけでなく、直接加害には加わらないが囃し立てたり茶化したりする野次馬も含む。つまり「制止」「調停」「仲裁」「仲介」「庇護」などを行わない者はすべて傍観者であるということ。
より詳細かつ説得性のある言説である以下を参照。

404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:いじめと個性
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50681593.html

個人的にはいわゆる「先生当たり(先生の当たり外れ)」は良い方だったようだと大人になってから分かった私でも実際生徒だった頃の経験から、傍観者になっていた先生がそこそこ割合以上必ず居たと言える。
つまり「傍観者であること自体が罪」であることを先ず、教育する側から教育して行かないといけないのだろうということ。

次に、より根本的問題に言及すると、「いじめ自体」を悪い事と、「いじめ自体」を消滅させようとする努力は無駄であり無意味であるばかりか、場合によっては問題をより陰湿化、巧妙化させさえするという問題意識を持つべきだ。
いじめという行動様式これ自体は絶対に無くならないし、無くせもしないと断言する。それは動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり、つまり、集団性動物でかつ高等生物であることからの何らかの必然がそこにあると認めざるを得ないからである。(これが何故であるか、また、どういう必然性なのか説明できるほどの知識および能力は現段階持ち合わせていないが)

これは良いだ悪いだ云っても始まらない自明に近いものであろうので、いじめの行動様式を取る基本素養は我々皆が備えているということを先ず認め、これを前提に、その発露が陰湿化、残虐化しないようにするにはどうするのが良いのか?という設問の立て方をするべきだと私は考えている。
しかし、これは真剣に考えるとかなりクリティカルな問題で、「あなたも殺人者になり得る素養を備えているわけですが、これとどう上手く(問題化しないように)付き合って行きますか?」と質問されて簡単に答えられる人が居ないのと本質的に同じだからである。
たぶん、この素養を備えているという事実を認める自体を拒絶しここで思考停止になる人が多いだろう。
この思考停止こそが、いじめの問題の本質に切り込んで行けない主犯で、傍観者を許容してしまうバックグラウンドだと断じさせてもらう。

だから「いじめは悪い事です」「いじめをなくしましょう」という教育関係機関や役所に貼られているポスターのスローガンは、空疎であり、欺瞞的で、薄ら寒いのである。
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「支持政党なし」ということの本当の意味

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昨日tweetしたのだが、文字数制限の関係上充分に云いたい事が文章化できていないので二階屋を建てます。
[amazonjs asin=”4163746900″ locale=”JP” title=”中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史”]
戦後作られた政治体制は議会制民主主義だが、これは建前上の体裁なだけで実態は賢い官僚による官僚専制政治なのだということは與那覇潤氏が「中国化する日本」で指摘、またその伝統は明治新政府のから変わっていないと池田信夫氏も指摘する通りである。
「無謬性」という概念があり、これはつまりキリスト教、イスラム教などの「神は決して誤りを犯さない」という元は神学概念なのだが、日本の法律は官僚は無謬性だという前提で作られており、だから失策・失政をおかしても、(降格や減給という内部処罰があるだけで)それに値するほど大きな失策・失態であっても訴追は(時々検察がデモンストレーションとしてスケープゴートを作り上げるのを除けば)基本的にされない。無謬性・・・つまり間違いを犯すわけがないのでそれが失策・失政になったのは社会状況などの不可抗力だという、よく考えれば「その言い訳が通用するなら何でもありじゃん」という逃げ方をできる。これが日本の官僚システムなのである。
そして厄介な事に、これは誰か個人が悪いとかそういう問題ではなく、構造として如何ともし難い入り組んだものになっている点で、「”霞ヶ関” というバーチャルな怪物」、、、今やこれを改善、改革することは、身体の幾つか細胞が反旗を翻して我々が誰か違う人間になるということがあり得ないのと同レベルで [1] 、たぶん官僚自身も不可能であろうということ。
これゆえ「敬して遠ざかるのが得策」というのである。
実際、橋下市長がやろうとしていること、また我々大阪の人間が期待している事は、この(東京というよりは)霞ヶ関との関係を、できるなら絶ちたい。絶つのが無理なら可能な限り影響を受けないようにしたいということなのだ。

「支持政党なしが多数派」というのは馬鹿なマスコミ(または、分かっていて記事が売れる安直なトピックにしてしまう癖のついたマスコミ)が「新興勢力への期待」などと云う在りもしないものではなく「霞ヶ関支配の体制からExit」したい、という国民の意思の現れだと捉えるべきだ。
だから、自民党が駄目、民主党が駄目、公明党は? 共産党は? という問題ではもうないのある。民主党がダメダメな政党であることは今や明白であるが、今の状況は「民主党が駄目だったから」ではないということ。自民党にしたって、たまたま経済状況が味方したので霞ヶ関に飼い慣らされていても「見た目上そこそこの事が出来ているかのように見えた」だけだったというのが真実。

このことを橋下市長は知っていて、だから彼が目指しているのは「中央政界からのExit戦略」なのであり、我々大阪の人間が範を示す事で、全国の各地域がExitを目指し出す。これが進むべき歴史であろう。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. あったとして癌細胞化するしかないのだろう

「金で何でも買える国」

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過去にも何度か読んでいた古い記 [1] なんだけど今回なんでか琴線に触れた(以前が触れなかったという意味ではない)、tweetしようと思ったのだけど文字数的に収まらないのでエントリーにするです。

日本というのは「金で何でも買える国」になっているのだなぁ、と痛切に思った。

404 Blog Not Found:貧乏な社会で子を産むな
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50955373.html

(もちろん「何でも」と言っても道義的、倫理的に対象にそもそもしてはいけないものは含まない、たぶん。)
「金で何でも買える」と「金を出さないと何も手に入らない」は本来的にはイコールではない筈なのに、日本という国は何時の間にかこれがほぼイコールになっているじゃん。という嘆息である。

そもそもは金を出さなくても手に入るものをわざわざサービスに仕立ててお金を取る。ビジネスとはそういうもので、これが存在する事を悪視して「市場原理主義悪」と非難する短絡な論は巷に溢れているがこれは間違い。崩壊寸前時のソビエト社会主義共和国連邦は「金を出さないと何も手に入らない」極北だった点を思い起こせばそれで足りるだろう。
「金で買える状態」なのが問題なのではなく「金を出す以外のオプションが存在しない」ことが問題なのである。一般庶民が金を出しては手に入れていないものを、金持ちがわざわざ金を出して手に入れる(そのかわり極上のサービスに仕立て上げられたものを)のは一向に構わないわけで。
先にソビエト社会主義共和国連邦を例として引いたのは偶然なのだが、こういう社会に仕立て上がってしまっている日本という国は「その負の部分に社会主義的ミーム」を備えてしまっていると気付くと偶然が偶然ではなくなる。
実は、何でもかんでもありとあらゆるものに値札が付くのは、資本主義社会に於いてであるより社会主義社会に於いてであるのだ。
『それをお金で買いますか--市場主義の限界ただ、「何でもかんでも値札を付けてはいけないものまで値札を付けてしまっている」というよりは日本の場合、誰もやろうとしなくなっている内に仕方無しの結果として値札が付いてしまい。そして一旦値札が付いたら、それは「既得権」となり、そうなると値札無しでやろうとする人間を規制するという本末転倒が起こる。というのが実情ではないだろうか。
既得権および既得権ホルダーを批判するのは無意味だとは言わないが、その構造をそもそも作った責任の一旦はあなたにも在るという自覚無しに既得権および既得権ホルダーを批判するのは単なるスケープ・ゴート・・・つまり責任逃れ・・・じゃないか。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 事関連記事リンクをどんどん辿って行くという読み方を拙は基本的にするのだけど、Danさんのブログは特にこの読み方でどんどん掘って行けるので愉しい(interest)。

私がなぜ原子力発電推進なのか

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私がなぜ原子力発電推進派なのか簡潔に示します。

  • これから世界は、中国、インド、そしてアフリカ諸国が繁栄の方向へ向かおうとしていることで爆発的に電力を必要としてきつつある。
  • 日本を含めいわゆる先進国はこの二世紀の間、化石燃料を潤沢に使って社会を繁栄させて来た。
  • 原子力発電という選択肢を無くすと、彼らには化石燃料(特に安価な石炭)という選択をするしかなくなる。
  • そうなると地球温暖化、地球規模での大気汚染の問題は今以上に深刻な問題になる。
  • 今までの二世紀にわたって先進国はさんざん化石燃料を消費して我が世の春を謳歌して来(しかも,その間は欧米列強諸国以外にとっては植民地化されていた歴史でもある)ておいて彼がその番になった時に「地球環境保護」の美名の基にこれに制限を加えようとするのは手前都合勝手な言い分ではないのかという問題がある。 [1]
  • ただ残念ながら、現状ではインド以外、中国も、ましてやアフリカ諸国では現在実用化されている複雑&大規模な原子力発電プラントを安全にオペレートし続けて行く能力は持ち合わせていない。
  • ので、原子力発電プラントは今以上に技術革新を遂げる必要がある。 [2]
  • この意味での最先端の技術&ノウハウの蓄積は、フランス&日本の寡占状態である。
  • 「世界唯一の被爆国」である日本には「核兵器と結び付かないクリーンな原子力」というイメージが持たれている(彼らの過大な幻想の部分もあると日本人からは冷ややかに言える面も在るが)。
  • 反対に核兵器を持っているアメリカ、フランス、(ましてやロシア)の影響下で原子力発電プラントを持ちたくない(政治的|情緒的)思惑もある。
  • ので、その技術プラスαな「ブランド力」が日本にはある。
  • 現段階で日本が原子力開発から降りたら、今まで「日本は世界唯一の被爆国」と言って、その平和的利用の牽引役をしていた(と彼らはみている)のから、しかも彼らがこれを必要とし始めた矢先という最悪のタイミングで降りるのは「無責任」と映る。 [3]
  • 反対に原子力発電プラントを今以上の技術革新を遂げさせる責任は日本にあると期待されている。
  • 彼ら独力で安全にオペレートできるようになるまでノウハウの伝授を含めた総合的な支援をする役割を担う責任が日本にはある。(彼らはそう期待している。)
  • その日本で原子力発電プラント事故が起きたことは、これをどう始末付けるのか・・・未来に繋げる教訓を得ようとするのか、なし崩しに逃げてしまうのか・・・注目されている。
  • つまり、いま原子力開発から降りるのは、「世界、特に途上国からの期待を裏切る行為であるので日本の国際的プレゼンス向上のチャンスを逃すだけでなく失墜すらしかねない」「せっかくの大きい国際的ビジネスチャンスをドブに棄てるに等しい」という国際貢献、金儲けの両方で大損をするのは愚か以外のなにものでもない(この二者が両立することは滅多に無いし)。

ビル・ゲイツは第四世代原子力発電プラント(今までのものよりコンパクトかつイージー・オペレート)の開発ベンチャーに多額の投資をしている。流石はビル・ゲイツと言うべきだろう。個人的にはビル・ゲイツは好きではないが、先見の明ありと評価するべきと考える。

TED RANDOM「「ゼロへのイノベーション」 ビル=ゲイツ、エネルギーについて語る。」
http://tr.loopshoot.com/id/767

2012年6月8日 23:25 追記:
一定以上の便益を備えているテクノロジーに於いて、それを凌駕するものに置き換わられたのでない限り、皆が「もう終った」「将来は無い」と言っているとき、こういう時こそ最大のブレークスルーのチャンスなのだと、直観的にそう思う。 もしかしたら、これが一番言いたかったのかも知れない。

2012年6月10日 05:24 追記:
先のエントリーで紹介した動画の中の細野大臣に報告書を渡す会見の模様を伝えたもの「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか – YouTube http://www.youtube.com/watch?v=Agp1amvBv94&feature=plcp」,この会見終了後(YouTube動画ではカットされていますが)当日USteamで生放送されたもので、細野大臣が退席した後、大前氏が質疑応答に答える中で「この報告書で指摘した問題(福島事故の反省点)を真摯に受け止め改善に盛り込む姿勢が政府に見られないとなった時は、私は反原発・脱原発の側に回ります」と強い調子で述べております。私もこの大前氏のスタンスに全面的に同調する者で、「何が何でも原発推進」「無批判に原発賛成」ではないと、「原発推進賛同派だからこそ厳しい目で見つめ続けるべき」と考えると明言しておきます。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. この点に関しては、先進諸国でマラリアがほぼ根絶できた途端「毒物だから」とDDT使用を全面禁止にしたのと同根の問題。これを厳しく糾弾していた武田邦彦氏が今やあっちの世界に行ってしまったのは残念
  2. 核兵器開発に繋がる可能性は(今でも)あるので、わざとイージー・オペレートなものを作ってこようとしてこなかったという側面もある
  3. 視点を変えるならば、原子力開発から日本が逃げてしまったなら、これ以降「日本は世界唯一の被爆国」という枕詞は一切使えなくなると心得ていた方が良いとも言える。反原発派もこの枕詞をさんざん使い倒して来た功罪を猛省すべきだ

Google … still not be evil.

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最近とみに not evil じゃないのではないか? is evil じゃないか? という声も聞かれるGoogleですが、、、

小飼弾のニコ生サイエンス 「グーグル潜入映像も公開。『中の人』が明かす検索技術の未来」 – ニコニコ生放送
http://live.nicovideo.jp/watch/lv92787473

なかなか興味深い内容だったのだが、総合した印象としては「Googleの中の人は依然としてちゃんと “Don’t be evil” だということ」は分かった。
と同時に「”Not be evil” なだけでは “not evil” では居られないのじゃないか」という印象を強くした。
それだけビッグデータを握っているというのは、金が一定量以上集まると人智を超えたEvilな振る舞いが出現するように、自分たちはevilでないよう振る舞ってもevilの罠に落ち込む危険性は小さくないのでは?と思わざるを得なかった。
賀沢秀人氏が無邪気だっただけに、逆にevilさが怖くなった、と言って分かってもらえるだろうか?

繰り返すが、Googleは “Don’t be evil” である。これは疑う必要はない。問題はここにはない。

2012年5月20年 23時07分 追記:
だからと言って、そこに人為が入るのはもっとevilになる、こっちの危険性の方が大きい。これも確かだと言える。
だから難しい問題なのだと。

印象誘導の典型「幇間論法」

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これを幇間話法と名付けよう。

元官僚の古賀氏の発言が不穏当(または不適切)だとの批判が集中しているが、この動画を見る限りに於いて問題なのは古賀氏であるよりもこの玉川徹って野郎(および雇い主であるテレ朝)ですぜ、皆さん。

過去にTVの取材を何度か受けた経験から、ここで池田信夫氏が述べている通り「言わされてしまった」可能性が高いと思う。 彼らの取材の仕方の定石として
「もし、仮に、、、”仮に” ですよ。仮定として、可能性として “こういうことが考えられる” という、あくまで仮説として○○ということは考えられませんか?」
(○○の部分は具体的に述べてしまうと,後で「あれは言わされたんだ」と言われてしまうと拙いので、あくまで抽象的に匂わせるように、あくまでぼかした、だが確実に匂わせた言い方をする)
と自分たちの言わせたい(言って欲しい)コメントを言わせるよう言わせるよう、しつこいくらいに誘導的訊ね方をする。 [1] 更に都合の良い部分だけを編集で切り貼りするのは周知の通り。
とはいえ、官僚時代からこういう彼らを相手した事ない筈はなく、誘導的訊き方をする事は知っていない筈のない古賀氏の場合、迂闊との非難は最低限逃れ得ないだろうが。

冒頭部分の玉川徹のことばを書き起こしてみる。

つまり、だって関西だって、例えば、もしかしたら、国民感情の反発とかがあってね、原発動かないかも知れないって、私だって思ってた訳だから・・・だったら供給責任があるんだから、こっち(筆者中:関西電力)だって増やしておかないといけないんじゃないかなと、いう風に、思うのが普通だと思うんですけども・・・

こう書き起こして「書き言葉」になると「あれ? なんか詭弁」と分かるのですが、ここが「話し言葉」の怖いところ。

巧妙なポイントその1・・・断定を避ける

注意深く観れば(聞けば)分かる通り、この玉川なる吾人は一切断定を巧妙に避けている。曰く「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」・・・。

巧妙なポイントその2・・・「私だって思ってた訳だから」

これを幇間話法と名付けよう。 「私だって」つまり「私ごときが」 → 「私程度の人間でも」 → 「私程度の低レベルな人間でも」そう思ったのだから、私より賢い皆さんが思わない訳ないですよね。と相手の自尊心を楯に取って「いや、違う」と言い難い空気を作って封じておいて、同意したかの如く話を先に進める(実は同意していないのだが同意したような気分にさせられてしまう → 「Noと言っていないのはYesの意思表示論法」)。
しかも、これはポイント1の「断定を避ける」と組み合わさることで巧妙さを増す。つまり「私は断定できるほど賢い人間ではないのでああいう言い方をしたけども、あなたは賢いのだから・・・後は云わなくても分かりますよね?」と言外に言っていると仄めかしているのである。 インテリぶりたい虚栄心の強いプチ・インテリほどこの仄めかし(誘導)に乗せられてしまいやすいのは、ご想像の通り。 [2]
これは(男性もするが)女性が用いることの多い話法で、曰く「国立大学を卒業なさっている○○さんは、三流私大出身の私なんかより世の中のこともよくご存知でしょうから、こんなこと知らない筈ないですよね?」という風に。だから引用の記事にての池田氏の「専業主婦」云々は不穏当で非難を呼びやすい表現であるかも知れないが言っていることは強ち間違っていない。 普段からこの話法を使い使われして適応している人ほど、この話法の罠にはまりやすいので、主婦層をメインターゲットにしているこの手の番組でこの話法を使うのは合理的と云えば合理的。

巧妙なポイントその3・・・「だったら供給責任がある」

この前段までは「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」と仮定(実際には話者>玉川徹の私見、予断)だった筈の話が、この「だったら」という接続詞を用いることで既定事実であるかのように印象がここで変わっているのに気付かれただろうか。 更にこれに「供給責任」という言葉が結び付けられていることで「供給責任があるのだから、”もしかしたら、国民感情の反発とかがあって、原発動かないかも知れない” と考えて当然だ」と帰納的に考える誘導をされているのである。 これは論理的には正しい帰納ではない(つまり帰納でもなんでもない)。のだが、この手の誤った帰納は情緒に於いては寧ろよくあることなのである。
では何故、こういう論理的に考えられればおかしいと気付く論法にまんまと引っ掛かるのか。それは「人間の脳内の情報処理は論理に依るより “イメージに” “より根源的に依拠” するから」である。 論理はあくまでイメージを事後的に整理、分類、分析するための補助機能でしかないのです。

上記3ポイントを駄目押しする「のが普通だと思うんです」

この「普通」という言葉。 通例、「自明なこと=改めて説明するまでもないほど明らかなこと」を述べる時に使う接頭辞で、この点に於いては洋の東西を問わず共通。 英語でも「ordinary」「commonly」「normally」という表現があるが、欧米圏では自明であるとコンセンサスが成立していない事象に対して迂闊にこれを使うと即座に「お前の云う “普通” とは何に基づくのか?」「何を称して “普通” と云うのか?」「”普通” と云って良いほどコンセンサスは成立していないと思うが?」と突っ込まれる。
欧米圏のようにきちんと明示的にコンセンサスを積み上げる文化の脆弱な日本でも「自明な事=普通」という表現が使われるのは論理的に考えればおかしいことであるが、日本人>同質幻想に基づいているのだろう。

ここまでの私の分析を読んだ上で古賀氏のインタビュー部分だけを観たら、随分印象が違ってくると思うのだが、どうだろうか?
再度繰り返すが、如何に誘導されたにしても、ここまで言ってしまった古賀氏は批判されて当然である。この点は誤解なきように。

原発関連で、この手の詐術的、欺瞞的レトリックを駆使している一番有名人である安冨歩と同時期に京大に通っていたのは単なる偶然だろうか?

以下 wikipedia より
玉川徹
1987年、京都大学農学部農業工学科を卒業し、1989年、京都大学大学院農学研究科修士課程を修了

安冨歩
1986年 京都大学経済学部卒業
1991年 京都大学大学院経済学研究科修士課程修了
1993年 京都大学人文科学研究所助手

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 個人的印象と断った上で述べると、この誘導的傾向は、TBS系(含む毎日)、テレ朝(朝日放送は含まない)が特に強い。
  2. 「東京電力の方がましに思えてきた」とコメントする女性コメンテイターは、まんまとこの操作に乗せられている。もちろん、予めこう云うように打ち合わせていた可能性もある

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