ひとは美しい物語に弱い

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最初聞こえて来たのは「作曲はゴーストライター」という話と、週刊文春に告発記事を書いたライターの神山氏がTVのインタビューに答えて佐村河内守氏の新垣隆氏への指示書のコピーを示して説明していたのを観ただけだった。
神山氏の示した指示書は紙一枚ではあるが、ビッシリと曲のダイナミクスをグラフ的な図表で示したり言葉でイメージを記していたり、僕個人の印象ではかなり壮大なイメージがこの紙一枚で説明されていると感じたので、この段階で思ったのは・・・作曲という営為をしたことのある方なら全員理解してもらえるだろうが、頭の中では非常に素晴らしい音が鳴っているんです(これすらない人は音楽的センスは微塵もないと断言できる)が、これを外に、他人に伝わる形で出力されたものを示せない限り「作曲」と認めて貰えないという或る意味悲しい現実が在る、この線が先ずあるということ。この点では先述の指示書を見た限りでは「これはこれで作曲の一つと呼んでも良いではないか」と思いました。楽譜というかたち、また最終形態の音楽そのものではないので、そこまで持っていったのは新垣氏なので作曲への付与度というのを考えた時に、佐村河内氏の付与度を50%以上と考えられるのか?的な発想もありつつ、と同時にインスパイアを与えてくれる良いアイデア、構想がないと陳腐な曲しか出来ないというのも事実で、この点では構想をもたらした佐村河内氏が「全く作曲していない」的に伝えていた多くの報道は言い過ぎな感じと思いました(音楽のことが全く分かっていない大多数の一般人がこういう捉え方をしてしまうしかないのは仕方ないとは思いつつも)。 つまり、この段階では「共作曲者として新垣氏をクレジットしていれば何の問題なかったのでは」という極々常識的なものでした。
ただ、と同時に、世間で評判になり始めた頃に聴いて、大したことはない、少なくとも評判になるほどの曲クオリティーではないと思っていた(今これを言っても後出しジャンケンになってしまいますが)ので、それとともに語られる物語で売れているのだなぁと思っていました。
まぁ、これも例えば秋元康などが典型ですが、マーケティングの一環としての物語というのは古くから在るありふれた手法で、この意味でありなんだろうなと、賛同はしませんけど否定もしません。

作曲家の”嘘”と視聴者の期待
http://blogos.com/article/79669/

この記事を読んでいて想起したのですが、佐村河内守氏の物語に乗っていた人達というのは団塊の世代が圧倒的に多いのじゃないかしら?ということ。
こう考えるとすぐさま続けて想起されたのが、「あの頃、ビートルズを熱心に聴いて支持していた人達というのは、アマチュアを含め音楽活動をしているとかアートに敏感な一部の人達だけで、若い人も含めて圧倒的多数は聴いてみもしないで“ビートルズは不良の音楽だ”“ビートルズなんて不良しか聴かない音楽だ”と言っていましたよ。それが、その後ビートルズが20世紀を代表する偉大なミュージシャン集団だという世界的評価になった、つまり大人になった段階になって、さもあの当時から聴いていた風に“俺たちビートルズ世代”などと、そして“わかっていない大人たちが不良の音楽呼ばわりするもの我々は聴いて大人になったのだ”と言っていますから、団塊の世代と呼ばれる彼らはそういう人達なんですよ」と語った浅井慎平氏の言葉です。
これは来日当時、唯一指名されてステージ以外のシーンも含む全ての写真を密着して撮影することを許可された氏が、ジョン・レノンが亡くなってしばらく後にビートルズの足跡を振り返る的な番組でインタビューに答えている一幕で語られた言葉です。

1960年代安保闘争〜学生運動といい、脱原発、卒原発、原発即ゼロといい、自分を美しく粉飾する物語に酔い続けて死ぬまで反省はないのだろう。
個人の趣味の範囲であるなら、それは個人の自由であるから、、、と、こう考えると今回の佐村河内守氏の事件は、大して実害のない非常に小さなものに思えてきた(というか最初からそう思ってる)。食品産地偽装事件と同じくで、騙す行為それ自体は悪いことと言わざるを得ないものの、物語に騙された方も方で莫迦というだけ。


I could try to understand you…

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まずはこの動画を観て欲しいです。

この動画自体どうこうではなく、附されているコメントを追っていって「なんだかなぁ」と思う点を述べます。
コメントを追っていくと、この差別をなくせと言っていると受け取っている人や、「アメリカの方が人種差別酷いじゃないか」とか「白人が有色人種を差別するのには触れていなくて白人が差別されると騒ぐのか?!」というようなコメントを寄せている人がそこそこ居ます。
素直にこの動画を見れば投稿者であるkanadajin3の意図は「こういう事実があることを知って下さい」と言っている以上でも以下でもなくて、これが差別であるとか、差別だからなくせとか言っていません。
勿論こういう動画を公開するのだから、考えて、態度を改めようと思ってくれる人が一人でも増えることを願っていることには間違いないでしょうが、はっきり差別だと言えるものならそれを差別だと指摘、批判、非難することも容易だけれども、歴然とした差別ではない、差別であるかどうかも微妙な「無邪気な誤解、素朴な無知による結果的に相手にとっては自尊心を傷つけられる」というケースは、各々が色んなケースを知っていく“ケーススタディ”を重ねることで、ちょっとづつ心を広く、考えを柔軟にしていくという地味で根気の要る努力をしていくしかない、その(ケーススタディ)の一つとして「ご覧ください」と言っているにだけだと思います。
これに対して、意図、文脈を読み取らないで(読み取れないのか読み取ろうとしないのか)短絡なコメントを延髄反射的に繰り出す、果ては動画の内容とは無関係な国粋主義的な自説を滔々と語る人までいる始末。。。なんだかなぁ。。。

同邦人として情けない。同邦人と思われたくないというのが正直なところです。

Hold Your Fire (Remastered)

(2013.10.08時点)
posted with ポチレバ

“Open Secrets” Song by Rush より引用 (アルバム“Hold Your Fire”に収録)
  Lyrics by Neil Peart

I find no absolution
In my rational point of view
Maybe some things are instinctive
But there’s one thing you could do
You could try to understand me
I could try to understand you.
You could try to understand me
I could try to understand you.

私はこの罪から逃れられる方法は理性的には発見できない。
それは或程度本能的なものだから。
しかし、1つだけ我々が出来ることがある。
あなたは私を理解しようとし
私もあなたを理解しようとする
あなたは理解しようと試み続け
私も理解しようと試み続ける、、、
(抄訳:庄司拓哉)


音を破壊し、そして創造し直した者

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素直に弔慰を表する気持ちにはなれない。

米BOSE創業者のA・ボーズ氏死去 – SankeiBiz(サンケイビズ)
http://www.sankeibiz.jp/business/news/130714/bsb1307141411000-n1.htm

一時は音響関係のエンジニアになりたくてそっち方面の勉強をした身としては。

「自然な音の再生」への追求から「(自分達がそう判断する)良い音をクリエイトする」に発想を転換したというのがBOSEのエポック・メイキングだから。
前者はいわゆるHi-Fi・・・High Fidelity 「高忠実度(再生)」の略・・・で、この考えを真向から捨てて、特にロック、ポピュラーにターゲットを絞って「小気味よく(威勢よく)聴こえるサウンド」を目指した、これがBOSEである。
Sonyがウォークマンを発売し爆発的にヘッドフォンで音楽を聴くというカルチャーが広まっていったのと、BOSEが登場し世に浸透してゆくのとが時代を共有しているのは偶然ではない。ヘッドフォンで音楽を聴くというカルチャーは、家の外に音楽を気軽に持ち出すという外形的カジュアル性(ファッション性)の問題だけでなく「ヘッドフォンから耳に入る音」という“不自然極まりない音” [1] が標準と認識が変わる・・・これを誤認識だと旧世代が幾ら言ったところで物心付いて音楽を能動的に聴き始める年齢になった時にヘッドフォン・ステレオが身近に在った世代はそれを普通の音と認識する・・・この流れを作り定着させてしまったウォークマン。この流れを逆手に取ってこの“新しい好み”に合わせた“新しい良い音”のするスピーカーを開発し、その目論見は見事的中しブランドを確立するに至ったBOSE [2] 。この意味でウォークマン、BOSEの功罪は非常に大きいのである。 [3]
片やのHi-Fiの雄であるDIATONEはじめとした日本のオーディオ・メーカーが、この時期から総崩れに凋落していったのとは対照的。「オーディオ・メーカー」という言葉がもはや死語同然なのからも分かること [4]
ウォークマンなくしてBOSEは存在し得ず。また、この二者なくしてiPodは存在し得ていないだろうと言って大袈裟ではない。

今やこれを言っても信じる人は、その筋の好事家くらいしか居ないだろうが、音源から全て本当のHi-Fiに徹した音響装置からは「そこに本当に実物が存在しているかのような実在感のある音」しかも「そう言われればそう聴こえる」というレベルではなく「音が鳴った瞬間に場の空気が変わる」レベルで、文字通りリアルな音が聴かれるのである。「本当の意味でステレオとはどういう音か」を啓蒙していた最左翼の長岡鉄男氏も2000年に既に故人となっている。

上述のように功のみならず罪の部分も大きいのではあるが、とまれ、一つの大きい時代を切り開いた先人であったことは否定のしようがない。
ご冥福を祈ります。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 音響特性としては幾ら頑張っても100Hz以下の重低音を再生不可能。無理に再生させようとすると逆に聞き苦しい音になるだけなので潔く諦めて150Hz〜200Hz辺りにわざとピークを作って聴感上低音が出ていると思わせる音作りが一般的。BOSEの音作りもこれに似ている
  2. BOSEがコンパクト・スピーカーからスタートしたのは偶然ではない
  3. BOSEがその地位を確立していくのを見るに連れ「ああ、“マルチ・モノ を ステレオ と思い込んでいる誤解”は未来永劫解けないまま終わるな」と思ったものだ
  4. 放送局向けのプロ用機材として一部生き残っているのみ

貧困層の固定化を欲しているのは誰か

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前回記事の補足です。

生活保護を白眼視しても意味はない « 侏儒の言葉 | 物語り研究所「夢前案内人」
http://therapy.under.jp/生活保護を白眼視しても意味はない/

資本主義を前提とした自由主義経済を内包する自由主義とは、経済を含む社会一般の活動への国家の介入はルール整備 [1] の最低限度に止め基本自由にさせる。また、そのルール自体も社会の新陳代謝を阻み固定化を促すようなものは極力避ける [2] 。その結果経済的格差が生まれることは容認するという主義です。経済活動を自由にさせると、上手く大儲けする人と小さくしか儲けられない人、事業に失敗して無一文になる人が出てくるのは理の当然なので、この「結果の不平等」を肯定しないことは自由主義を肯定しないことと同義なのだということは先ず押さえておくべきでしょう。
では「結果の不平等」は全く問題視しないのか?というと、これは違って、人道的、道徳的見地からよりは、失敗した者、何らかの理由でメインストリームから外れてしまった者を救う仕組みがないと、リスクを取ってチャレンジしようとする人の絶対数が少なくなる – それは新陳代謝が滞りから社会全体が老化(衰退)していくことを意味するからという理由で生活保護のような最低保証の制度は必要と考えます。有り体に言えば「いつ、誰が(自分自身も含め)、いわゆる“負け組”になるかわからない」からということ。

いわゆる“勝ち組”の一言で一緒くたに括ってしまっているけれども、この中の真の意味で勝ち組と言える、会社を起こすなど実力で成り上がってきた人に生活保護問題(その制度設計に対する批判は多くあれど)バッシングの声は殆ど聞かれず、学歴偏重社会への適応で大企業、霞ヶ関への就職を勝ち取ったのに代表される「所属組織のシグナリングで勝ち組になれている“似非の勝ち組”」層に「食わせて貰ってるんだからありがたいと思え」的な差別意識丸出しの声が多いのは何をかを言わんや。
つまり、前者は先に述べた通り、社会的活性が高い状態が保持されることとセットで、その補完システムとして最低保証を捉えているのに対して、後者は、所属組織が自らの社会的地位の高低の裏付けとしている人達 → より露骨に言い直せば [3] 所属組織の高低が個人の格付けを決めていると考えている人達なので社会は流動的でない方が良いと考える、その格付け根拠の絶対性が薄くなる社会的活性が高い状態は好ましくないというのが本音なので、一方で口先の綺麗事としては薄給の人達を気の毒がったり、生活保護受給せざるを得ない人達をかわいそうがったりし、他方で差別意識丸出しに「選り好みせず就ける仕事に就け」と言うわけです。この「選り好みせず就ける仕事に就け」というセリフは一見正論ですが、自分達がありついた美味しい部分の残りカスを乞食にくれてやっている特権階級意識が背後に隠れており「食わせて貰ってるんだからありがたいと思え」というセリフと根は同じだと分かると思います [4]
だから今の生活保護制度は、その身分に安穏と甘んじていた方が楽と思わせるインセンティヴが強い制度設計になっている、つまり、本音では身分は固定化されていた方が好いと考える人達が作った制度なのでそうなっているのは当たり前だ、というのは穿った見方でしょうか? [5]

今出てきている限定正社員論も発想の根っこは同じで、上位エリート層身分の固定性は死守した上で下部層領域内を多少いままでよりシャッフルできるようにするという発想に過ぎないのです。 こういう書き方をすると私がエリートというものに敵意を持っていると誤解する人も居るかも知れませんが事実は寧ろ逆で、真のエリートと呼べる人達には一目置くし、尊敬もする。但し、真にエリートなら制度や社会の仕組みなどに守って貰わなくてもエリートで居続けることは可能なはずで、そういうもので保身しないと危うくなるのは似非エリートだと言っているだけです。
つもりだけグローバル化してて実は現代日本人は相変わらず江戸時代に生きているという與那覇潤氏の指摘は正しい。
また、この身分固定の解消は絶望的と考えると「31歳フリーター。希望は、戦争。」ということになるでしょう。

生活保護制度の制度設計の問題点批判、これも当然必要ですが、その前に、新陳代謝が滞らず社会全体が老化していかないように社会全体の在り方を変える方が先で、これが実現すれば生活保護受給者が社会問題となるほど増えることは当然ないし、これを実現しないまま事実上破綻している年金制度を清算してしまうと生活保護に国難レベルの人数が殺到することも当然の成り行きとして予想されます。
「誰が“負け組”になるかわからない」というのは「誰が“勝ち組”になるかわからない」と同義。事前には何が最善かなど分かるほど我々は賢くないという当たり前の事実を、知識としてだけでなく感情として理解すべきだと思います。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. ルール整備と規制を同一視している人は多いが本質的に違う
  2. ルール整備のつもりで規制をしている例がこの国では非常に多い
  3. 他人の不興を買うので露骨には彼らの多くは言わないが
  4. だから、社会の流動性を上げる各種規制廃絶、構造改革を成し遂げていない段階で、このセリフを言っちゃ駄目なんですぜ。>橋下徹氏
  5. この船も最早沈み始めているので「沈み出しているタイタニック号の中で三等客室は誰に割り当てるべきかの議論をしているようなもの」という喩えは秀逸

疑うのは何のためか

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結論を最初に書いてしまえば「信じるため」です。「信じるに足るものは何かを見極めるため」です。

処が「疑うために疑う」人がなんと多いことでしょう。
これは心理学的考察によればそれなりの蓋然性があって、確証バイアス(Confirmation bias)と呼ばれるものの影響が強くあると考えられます。
確証バイアスとは、先んじて持っている何らかの心理的コンディション、これに合致またはフィットするものを優先的に重視し、かつ、正反対の否定、批判、反証するものを不合理に軽視または全く無視する心理作用のことです。これの厄介なのは、いま「心理コンディション」と書いたように、信念や信仰、信条のような既に強固に形成されているもののみならず、印象やムード、その瞬間の刹那的な感情にすら左右されるという点です。
つまり、疑い始めると、その「疑っているという状態」が既にバイアスとして働き出すのです。
だから、「何のために疑うのか」という大前提に自覚的でないと、疑うという心理状態自体を正当化する情報ばかりを選んでいってしまう。挙句、疑うという行為自体が正義であるかのような本末転倒。疑うという行為を行なっている自分が正義であるかのような錯覚(動機の純粋性の錯覚)に陥ってしまい、これがより確証バイアスを強め、、、という悪循環に。

全く疑わずに盲目的に信じてしまうのが愚かであるように、疑うだけで何かをしたつもりになっているのも同じく愚かです。

後出しジャンケンを認める国に外資は来ない

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大前さんにしては突っ込み不足という感が否めない。「大前氏にしては」だけど。

「米国化」が進む日本、いずれ「三つ子の赤字」に陥る | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉:日経BPオールジャンルまとめ読みサイト
 http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20130521/351344/

国内市場が成熟してくるに連れて国内企業が生産拠点を海外に移すなど「外に出て行く」のは(鎖国でない限り)必定なので、その分を外資に呼び込むことでバランスさせて国の経済を(雇用も)維持していく必要がある、という主要論旨は正しく、個人的にも異論はない。 が、その解決策が「外資を呼び込む工夫や取り組み」か?
いや、それらが必要でないと言いたいのではない、それはそれで必要であろう。
が、それ以前のもっと根本的問題として、2006年の最高裁判決に始まる貸金業への規制強化や、村上ファンドや堀江貴文氏を重罰に処したのにみられるまともに機能していない行政&司法(恣意的行政の影響下にある司法)、また合法的買収行為に対して「ハゲタカファンドから守る」と称して後出しジャンケンの防衛策(違法の疑いがある)を擁護してしまう行政 [1] ・・・「ルールのない国でビジネスはできない」という問題、これを放置したままで外資を呼び込む工夫や取り組みを行なっても功を奏するわけはない。
(同コラムの他の記事でこの点は指摘しているので大前氏が認識不足でないことは明らかではあるが)

参照:池田信夫 blog : 中国と日本のカントリーリスク – ライブドアブログ
  http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51810900.html

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 行政が司法の役割までしてしまっている点も問題である

幸福とは何か・・・少なくとも「不安」が少ないことではない

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“本丸”としての労働市場改革:書評『デフレーション』 — 城 繁幸 : アゴラ – ライブドアブログ http://agora-web.jp/archives/1525128.html

「希望」と「不安」は、やじろべえの左右の錘(おもり)の如く。光と闇の如く。
一方が弱れば他方も存在が薄くなる。

不安の芽を事前に摘んで最小化するのが好いことだと信じた結果、実は希望も最小化しているという現実。
両者が上述の通りの相補関係にあると知っていれば実に当たり前なことなのだが。

相補関係にあるのでこの全く逆も真なりで、希望をやたらと膨らましすぎるのも悪い結果になる可能性「も」脹らませていることになるので両者をバランスさせていくのが肝心と、ここまではわかるのだが。
ところが実際のところ、悪い結果になるか良い結果になるかはやってみるまではわからないから事前に最小化することよりも、悪い結果になった場合事後的に被害を最小化もしくはリカバリーする知恵と工夫の方にエネルギーを使った方が現実的であるというところに帰結する。 前者よりも後者の方が被害者実数も少なく、被害総量も少ないであろうと想像に難くない。
事前に最小化することに執心する人は悪い結果になった場合、往々にして「なかったこと」にしようとする。起こったこと自体は消せるわけは当然ないので、責任追及できる適当な他所の村社会をターゲットにしてこれに全てを負わせて自分たちの村社会は守ろうとする。

ある村社会を非難・バッシングしているのはほぼ間違いなく自分たちの村社会を守ろうとしている人たちであるに過ぎない。

コッポラの胡蝶の夢 [映画評]

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この記事はfacebookのタイムラインに9/9に投稿したものに加筆修正した転載です。

立川志らくさんが大大大推奨してたのだが映画館での上映は結局東京の(名画座的な)一館のみで終わってしまい、仕方なくDVDは結構前に入手してたのだが、気軽に観れる映画ではなく迂闊に観ないほうが良いと思って今日に至っていた。
観られる条件(心情的なものも含む)が整ってやっと鑑賞した。

 良かった。

流石コッポラ。
流石ルーカスの師匠なだけあると思わせるルーカスに通底する構成のセンスを随所に感じた。

我々人間が「我」と思っている自我意識と呼ばれる(呼んでいる)もの自体が突き詰めればフィクションである。そのフィクションが実在だと思い込める一つの大きなファクターが「時間」。 時の流れというもの自体は存在はしているが、これを「時間」「時系列の流れ」としての体系と捉えるのは実は人間独自の「発明」で自然には存在しない。言い換えるなら、時の流れという本質的に捉えどころのないモノを「捉えられていると錯覚するためのトリック」、これが時間という発明である。

荘子の「胡蝶の夢」が言っているのはこういうことで、だから邦題に「胡蝶の夢」が入っているのだろう(たぶん、コッポラ自身のチェックが入っている。コッポラとはそういう人だから [1] )。

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——–[ 脚注 ]—————-
  1. 他言語の字幕を入れる時に、その字幕を台本にして送らせて(これを専任アシスタントが英語に訳したものを)一語一句チェックし、その言語でのその言い回しはどういうニュアンスかまで確認しつつ、自分の意図に沿った訳になっていない場合修正させる → これを納得するまで繰り返す。という作業を要求する人なのだそうだ

これを危ないと感じない人はあぶない

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日中戦争から太平洋戦争に突っ走っていった日本は、ナチスドイツのように凶悪な独裁者が居たのではない。
のに何故無謀な戦争に傾いていったのか?
それは深く考えずに目先の「かっこよさ」「威勢の良さ」で正義を語る愚かな大衆世論、威勢が良くてかっこいいのが正義だと共感してしまう幼児的正義観をもった大衆世論、これに政治家もマスコミ(新聞社)も迎合し流されていっている内に「これに逆らえない空気」が出来上がってしまって、気が付いた時には抜き差しならない状況になっていたというのが真相。大衆が安直に支持する正義は十中八九(いや99%)真の正義ではなく、この幼児的正義である。実はそう断言を簡単にできるほど正義とは簡単な問題ではない [1] が、少なくともそのくらいに警戒しておいた方が良いというのが先の大戦から得られた教訓である筈。

 

池田信夫 blog : 電力会社の社員に表現の自由はないのか – ライブドアブログ
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51800031.html

冷静かつ論理的に妥当なことを言ったら「腰抜け外交」とバッシングを受け、何らの裏付けもないけども威勢の良い(この意味でかっこいい)主戦論を唱えたら拍手喝采。という太平洋戦争前夜に取っていた行動と全く一緒というのは情けない程度では済まない、この朝日新聞およびこれに喝采を送る少なからずの人々


——–[ 脚注 ]—————-
  1. でなければサンデルがあれほど注目・評価されるわけがない

なぜいじめはなくならないのか 続1

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先日のエントリーの続きです。

なぜいじめはなくならないのか « 心理学エッセイ | 物語り研究所「夢前案内人」

先のエントリーで「動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり」と書いた。
動物行動学(生態学)に或程度以上詳しい人ならご存知の通り、動物の世界のそれは「いじめのパターンA」に対して、こういう反応を返すといじめ行動がストップする「対応するパターンa」が必ず存在し、この対によって集団の秩序が維持されているという「行動様式(行動のお約束)」が存在するのである。
だから、この「お約束」を守った行動をする限りにおいていじめがエスカレートすることはないのである。(「お約束」通りの反応を返したのに「お約束」に従っていじめ行動を止めなかった個体があった場合は、今度はこの個体が集団から総攻撃を受け排除される)

で、実は、この行動様式は人間でも同じなのだが、「いじめのパターンA」に対して「対応するパターンa」を返すという「お約束」が厳格に守られている社会は部族社会で、西洋近代啓蒙主義的には「野蛮」で「劣った社会」とされる。この「西洋近代啓蒙主義的」つまりは「西洋中心主義」な価値観なので、これが真に普遍的に正しいかどうかは疑問の余地は大いにあるのだが、現代日本の社会はこの西洋近代啓蒙主義的価値観に則った社会に(一応)なっているので、この「お約束」を守る必要はないと考える個性を認める社会になっているのだということ、先ずこれは押さえておかないといけないポイント。これは所謂「個人主義」とほぼ同義だと考えて差し支えない。

ところが、いま先の文に「一応」と括弧付きで書いた通り、そのマインドというかメンタリティは依然として古い部族社会的な人が結構な数残存しているという・・・もしかしたら私も含めて完全に払拭できていない人の方が圧倒的多数なのではないか?・・・中途半端にしか個人主義的マインドというものを理解していない人がかなりパーセント居るということで、つまり
「お約束」を必ずしも守らなくても良いという自由を認める社会を形成しておきならがら、「お約束」を守らない人に対応する対応の仕方を編み出していない(許容するマインドを持てていない)人がかなりパーセント居るという拗れた状態を孕んでいるのが現在の日本社会なのである。

いじめがエスカレートする理由、またはいじめを悪いことだと(理性的にわかっているのかどうかは関係なく)実感として理解していない人というのは、「お約束」を守らない(お約束通りの行動をしない)奴の方が悪いという感覚をどこか腹の底に持っているので、だから「お約束」に従った行動を取るまでいじめを止めない(止めれない)のである。本能的で動物的だと言えば確かにその通り。
しかし、ここまで書けばご察しの通り、日本の社会ほど「お約束」好きで、「お約束」を守る予定調和を好しとする社会は近代化した社会ではないのである。

「お約束」とは半ば以上「暗黙の了解」または「空気を読むことの強要」なので個性を認め尊重する個人主義とは対極にあるものである。
だから、

  1. 「お約束」を守って平和、そのかわり個性は著しく認められない社会
  2. 個性を認める代わりに「お約束」は最早存在しない、つまりパターン化した行動では生きていけない社会

このどっちを選ぶのか?という選択を曖昧にして先送りしてきたツケが回ってきているのだという認識を多くの日本人は持った方がよい。
與那覇潤氏『中国化する日本』の概念を借用するならば前者は「(再)江戸化」、後者は「中国化」に該当するだろう。この意味でも與那覇氏の指摘・問題提起は正しいと思われる)

「個性の尊重」と言い出して遥かに久しい教育界ではあるが、このこと・・・「空気を読む必要なんかない」「空気を読むことを強いるのは悪」という教育をしてきたかしら?と考えれば直ぐにわかる通り、寧ろ「空気を読む達人たちの集まり」これが教師達だと言っても良く、だからこの彼らに「お約束」を守らない個性を尊重する大事さの認識は薄い、だから「いじめに気付かない」「(鈍感なので)いじめだと認識しない(この彼らですらいじめだと認識するのはかなり露骨なものだけ」ということになる。
この「いじめの本質にある問題性」を認識していない彼らの「いじめは悪いことです」「いじめを無くしましょう」というスローガンが空疎で欺瞞的なのも、ここまで説明すれば了解されると思う。
この点でも彼らを再教育する段階から始めなければならないだろうというのが私の考え。

404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
「なぜいじめが発生するか」という生理学的見地に関してはあまり述べられていないのだ。

答えというほど冴えても充分でもないでしょうが、僕なりに見解を出したわけですが、どうでしょうDanさん。

なぜいじめはなくならないのか

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この問題を抜本的、包括的に、また広く説得性のある論理を展開出来るほど問題自体が簡単ではないし、また、私の考えもそこ遥かに及ばない低レベルにしか錬れていない。この意味で看板に偽りありのエントリーです。

今段階書ける(言語化できる)だけの範囲を書くと、
まず実践面(実用面)でいえば、「傍観者の排除」これが取り敢えず「手が付けやすくて」「実効性がある」という意味で大事。
より具体的にいえば、傍観者でいること自体が加担者なのであるという点、傍観者でいること自体が罪であるということを社会的コンセンサスとしてきちんと確立するべきである。
ここでいう傍観者は、文字通り傍観者・・・見て見ぬフリをする者、遠巻きに傍観しているだけの者・・・だけでなく、直接加害には加わらないが囃し立てたり茶化したりする野次馬も含む。つまり「制止」「調停」「仲裁」「仲介」「庇護」などを行わない者はすべて傍観者であるということ。
より詳細かつ説得性のある言説である以下を参照。

404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:いじめと個性
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50681593.html

個人的にはいわゆる「先生当たり(先生の当たり外れ)」は良い方だったようだと大人になってから分かった私でも実際生徒だった頃の経験から、傍観者になっていた先生がそこそこ割合以上必ず居たと言える。
つまり「傍観者であること自体が罪」であることを先ず、教育する側から教育して行かないといけないのだろうということ。

次に、より根本的問題に言及すると、「いじめ自体」を悪い事と、「いじめ自体」を消滅させようとする努力は無駄であり無意味であるばかりか、場合によっては問題をより陰湿化、巧妙化させさえするという問題意識を持つべきだ。
いじめという行動様式これ自体は絶対に無くならないし、無くせもしないと断言する。それは動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり、つまり、集団性動物でかつ高等生物であることからの何らかの必然がそこにあると認めざるを得ないからである。(これが何故であるか、また、どういう必然性なのか説明できるほどの知識および能力は現段階持ち合わせていないが)

これは良いだ悪いだ云っても始まらない自明に近いものであろうので、いじめの行動様式を取る基本素養は我々皆が備えているということを先ず認め、これを前提に、その発露が陰湿化、残虐化しないようにするにはどうするのが良いのか?という設問の立て方をするべきだと私は考えている。
しかし、これは真剣に考えるとかなりクリティカルな問題で、「あなたも殺人者になり得る素養を備えているわけですが、これとどう上手く(問題化しないように)付き合って行きますか?」と質問されて簡単に答えられる人が居ないのと本質的に同じだからである。
たぶん、この素養を備えているという事実を認める自体を拒絶しここで思考停止になる人が多いだろう。
この思考停止こそが、いじめの問題の本質に切り込んで行けない主犯で、傍観者を許容してしまうバックグラウンドだと断じさせてもらう。

だから「いじめは悪い事です」「いじめをなくしましょう」という教育関係機関や役所に貼られているポスターのスローガンは、空疎であり、欺瞞的で、薄ら寒いのである。
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「支持政党なし」ということの本当の意味

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昨日tweetしたのだが、文字数制限の関係上充分に云いたい事が文章化できていないので二階屋を建てます。
[amazonjs asin=”4163746900″ locale=”JP” title=”中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史”]
戦後作られた政治体制は議会制民主主義だが、これは建前上の体裁なだけで実態は賢い官僚による官僚専制政治なのだということは與那覇潤氏が「中国化する日本」で指摘、またその伝統は明治新政府のから変わっていないと池田信夫氏も指摘する通りである。
「無謬性」という概念があり、これはつまりキリスト教、イスラム教などの「神は決して誤りを犯さない」という元は神学概念なのだが、日本の法律は官僚は無謬性だという前提で作られており、だから失策・失政をおかしても、(降格や減給という内部処罰があるだけで)それに値するほど大きな失策・失態であっても訴追は(時々検察がデモンストレーションとしてスケープゴートを作り上げるのを除けば)基本的にされない。無謬性・・・つまり間違いを犯すわけがないのでそれが失策・失政になったのは社会状況などの不可抗力だという、よく考えれば「その言い訳が通用するなら何でもありじゃん」という逃げ方をできる。これが日本の官僚システムなのである。
そして厄介な事に、これは誰か個人が悪いとかそういう問題ではなく、構造として如何ともし難い入り組んだものになっている点で、「”霞ヶ関” というバーチャルな怪物」、、、今やこれを改善、改革することは、身体の幾つか細胞が反旗を翻して我々が誰か違う人間になるということがあり得ないのと同レベルで [1] 、たぶん官僚自身も不可能であろうということ。
これゆえ「敬して遠ざかるのが得策」というのである。
実際、橋下市長がやろうとしていること、また我々大阪の人間が期待している事は、この(東京というよりは)霞ヶ関との関係を、できるなら絶ちたい。絶つのが無理なら可能な限り影響を受けないようにしたいということなのだ。

「支持政党なしが多数派」というのは馬鹿なマスコミ(または、分かっていて記事が売れる安直なトピックにしてしまう癖のついたマスコミ)が「新興勢力への期待」などと云う在りもしないものではなく「霞ヶ関支配の体制からExit」したい、という国民の意思の現れだと捉えるべきだ。
だから、自民党が駄目、民主党が駄目、公明党は? 共産党は? という問題ではもうないのある。民主党がダメダメな政党であることは今や明白であるが、今の状況は「民主党が駄目だったから」ではないということ。自民党にしたって、たまたま経済状況が味方したので霞ヶ関に飼い慣らされていても「見た目上そこそこの事が出来ているかのように見えた」だけだったというのが真実。

このことを橋下市長は知っていて、だから彼が目指しているのは「中央政界からのExit戦略」なのであり、我々大阪の人間が範を示す事で、全国の各地域がExitを目指し出す。これが進むべき歴史であろう。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. あったとして癌細胞化するしかないのだろう

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