女はムードに弱い?

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あなたはどう思われますか?
答えを先に言ってしまいますと、女はムードに弱くない、ムードに弱いのは寧ろ男のほうだ、こう私は思います。

どう思われたでしょうか、、、「うんうん」と頷いたでしょうか? それとも「そんなことはない! その証拠に女はデートする場所にしろ、エッチをする時にもムードを求めるではないか!」と反論したくなりましたか?
私見を述べれば、頷いた方の多くは女性で、反発を感じ反論したくなったのは殆ど男性でしょう。
「ムードに弱い」という言葉の意味するところの理解の仕方、適用範囲の差に、この二者の反応の違いの秘密があるように思います。
「ムードに弱い」という言い回しには「情緒的判断が何らかのかたちでムードの影響を受けやすい」という意味と「ムードによって不本意な結果に導かれやすい」という意味とが混在し、どちらに比重があるかは各人各様である、というのがホントのところでしょうが、大凡に前者の意味で「女性はムードに弱い」と言え、後者の意味で「女性はムードに弱くない」と言えます。

この二者の区別が出来ずに混同し、その気が全くない女性をムードで落とそうと、お洒落なカクテルバーに連れて行ったり、夜景の綺麗な所へドライヴに出掛けたり、涙ぐましい(しかし無駄な)努力を繰り返している男性諸氏は、少なくないのではないでしょうか?
”女性はムードでは落ちない!”この事を男性は肝に命じるべきです。 ムードで落ちる(と思える)女性は、既にあなたに好意を抱いているので、ムードに乗ってきてくれるだけです。
女性は恋愛に於いてプロセスを大事にします。 信用して良いひとかどうかを、じっくり観察するという事です。 この観察眼は、多くの男性諸氏が考えているより遥かに沈着冷静です。 実にクールです。 但し、勘違いしてはいけないのは、その判断は知的、論理的に成されるのではない、ということです。
ユングの言うところの感覚機能をフルに使い、感情機能で判断しますので、これは無意識下で、ある程度の持続性をもって成されます。 故に当の女性本人は、漠然とした「感じ」として認識しているに留まります。

この「何となくそう思う」というのも、心理学的には充分立派な判断機能であるですが、これが男性にはなかなか理解できない代物なのです。 経験的には「女の感は鋭い!」と知ってはいても、そのカラクリが判らないのです。 カラクリの判らないものを軽蔑する傾向を男性は持っています。 これは裏を返せば、自分の中のこの判断機能を軽蔑していることに他ならず、せっせと劣等感コンプレックス化を促進してゆくことになります。 いわゆる男らしい人が「女の感」を、その鋭さを認めつつも「結局のところ、それだけ動物に近いということだ!」とバカにするのは、この故です。 女性に言わせれば「動物並みにしか感を働かせることができないだけじゃない! その自分と同じとしか考えられない男のほうが、よっぽどバカよ。」という事になるでしょうか。
劣等感コンプレックスと云うものは、その劣等化された機能が憑依的に作用する、という特性を持っています。
「何となくそう思う」というのは、言い換えると「ムードを判断する能力」「ムードから読み取るべき情報をキャッチ出来る能力」と言って差し支えありません。
これが憑依的に作用した状態が「ムードに流される」というやつです。

女性全てが「ムードを判断する能力」に長けているわけではありませんが、総じてこの能力に長じていると考えて良いです [1] をし、男性全てがこの能力を劣等化しているとは限りませんが、総じてそうであると言えます。

女性は、意図的に作られたものも含め、ムードから読み取れるものを判断材料に、意志決定をしますから「ムードを大事にする」のです。 ムードを判断抜きに、そのまま受け取ってしまうのは男性のほうで、故に「ムードに流される」のです。
女性がムードに流されているように見える時は確かに存在します。 しかし、これは「流されている」のではなく、「流されてくれている」のであって、明確な意志が底の方に存在するのです。
ここの処を理解せずに、ムードを盛り上げる演出をすると、自らの演出に男性は酔ってしまい、独りだけ盛り上がってゆき(当の男性は女性も盛り上がっていると勘違いするのが常)取り残された女性は、逆にドンドン白けていってしまいます。
ムード演出にお金と時間を費やすより、女性に安心感を与える努力をしたほうが賢明です。

もう一度結論を言います、女性はムードに弱くない、ムードに弱いのは寧ろ男性のほうである。 女性は「ムードを大事にする」のだけである。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 所謂「優勢機能」で、優勢機能=ネオテニー度が高い ので後天的に洗練は幾らでも可能である代わりに手付かずで洗練を怠ると寧ろ劣等機能のそれよりも劣る。然るに躾、教育、自覚の低い女性は下手な男よりも質悪く下品なのである

結婚したがる女たち(若しくはしたがらない女たち)

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「先生、わたし結婚したいんですけど…」と切り出した彼女。 「彼氏は居るんですか?」と訊けば「居ない」とのこと。 「職場に同世代の異性は居ますか?」と訊けば「居ます。 しかし同じ職場のひととは嫌です。」 お見合話は少なからずあって、会ってはみるものの「いまいちピンと来ない。」と言う…「どうピンと来ないの?」と突っ込んで訊くと「お見合のあいだ中、自分の仕事の話ばっかりで面白くないの。」確かに仕事以外に話題の豊富な人は面白いに違いありませんが、相手が仕事以外の話しをするよう働きかけたり、促したりしてるようには思えない白けた態度(仕事の話しか出来ない男のほうにも問題ありですが)、そんな態度で話しが深まるわけがなかろう、と思わせる態度で接していた事は、その話し振りから充分推察出来ます。
またお見合パーティー、合コンの類に出掛けても「今日もロクな男おらんわ!」と開始早々に戦線離脱を決め込み、片隅でポツンと飲食して終了時刻が来るのを待っている事が常態となっているらしい。
冷静に判断すれば「口で言うほどに本気で結婚したがっているのか?」と疑問が浮かぶのです。 「結婚したい!」と言っているものの、彼氏は居ない、彼を作る努力もせず、形ばかりに見合いをこなし、形だけ合コンに出掛け…仕方なし、イヤイヤだけど…という雰囲気ですね。
この「イヤイヤ、仕方無しに、本意ではないけれど、形だけなぞっている」行動様式、これから「兎に角、勉強さえすれば、良い学校に行きさえすれば、、、」と言われるがままに、その真偽を問うことなく、イヤイヤ(または、なんとなく)学校、学習塾、予備校…に通っている子供、若者達と同じ心象を想起する私はピント外れでしょうか?

実際問題、この例のように二言目には「結婚したい!」と口にする女性達の殆どは「結婚さえすれば幸せになれる!」と無批判に、現実離れした、信仰と呼ぶに相応しい思いを強く抱いています。
結婚という重大事、特にその現象面、即物的側面を考えると、出てくるネガティヴな面を乗り越えさせ、その道を選択させる動機としてスピリチュアルな面は欠かすことが出来ず、それを掻き立てるモノとしての衝動、これの源である「ファンタジー」は必要であり、これの意義の大きさを軽んじる訳にいきません。
人は生きるためにファンタジーを必要とし、と同時にそれが現実から遊離してしまい空想、絵空事になってしまう危険性は常に隣りにあります。
時に、ファンタジーというのは、日本語になった場合、多く誤解、誤用されている概念だと思うのですが…ファンタジーというのは厳しい現実認識によって支えられ、厳しい現実認識を支えるものです。 現実逃避させるかに見えて、ポイッと現実に投げ返す、こういう作用を持つもの、それがファンタジーです。 こういう作用のないものは、単なる空想、絵空事と言います。
ファンタジーを持たぬ者は現実逃避はしないにしても、現実を厳しく認識することもなく、妥協と惰性に流され生きていると思います。
あるひとの言動にファンタジー性が垣間みられた場合、そのファンタジーが「現実に投げ返すもの」を見出す努力が生きることの意味に通じる道へのガイド役になってくれると、私は考えています。
「なんで、そんなに結婚に執着するの?」と訊けば「だって、仕事嫌いやもん! 早く辞めたいもん!」
それは裏返しに表現される事が多い、という心理学的一般則に従えば、先の女性の例は「ほんとのこと言えば、、、仕事は好き! でも『おんなは、結婚してさっさと辞めるもんや!』という無言の圧力を感じる。 私の居場所はどこ?」と言っているように思えるのです。
女性が男性並に自立的、自主的に生きようとしても、依然として日本は男社会(“任務遂行上、男が優遇される仕組みが支配的社会”という意味であって、男が決定的に優れているわけではない)であり、女である事をハンデと痛感させられる場面に直面し、女である事を捨てて男の論理に服従するか、女である事を捨てず男の論理に屈服するか(さしずめ前者は「キャリアウーマン」後者は「結婚」でしょう。どちらにしても「男が敷いたレールに乗っかっている」ことに注意!)の何れか、という極端を選ばざるを得ないような呪縛に囚われの身となる。
別に女性に限ったことではなく、こういった極端な二元化の選択肢設定は、よく見られることですが、、、二元論というのは切れ味の良い名刀正宗みたいなもので、物事のある一面を鮮やかな切り口を見せてくれるのですが、どこをどう切るかを判断し誤ると、ピント外れであるのみならず、大怪我を負ってしまう危険なものです。 AかBか?という条件設定自体が適切かどうかの吟味無しに、AかBを選んでいるというナンセンスな事が屡々(特にTVの街頭インタヴューを見ているとそう思う)見られます。

こういうナンセンスな言動を取る背景には、AかBかという二元論に終始する事によって、問題の本質を避けようとする心理機制が無意識裡に働いていると考えられます。

「仕事か結婚か?」という選択肢設定は、どちらも男の論理という土俵から出ていないという事に注意を払わないといけません。
男の用意した土俵の上に居るという意味で男の論理に服従している。 この制約の中での女性の幸せが無いとは言いませんし、それを選ぶのは個人の自由です。 しかし、時代が21世紀を直前に迎え、少なからずの女性が、この土俵の外にも幸せがある事を薄々感付き出したように思います。
処が、この土俵の外というのは未開の地であり、足を踏み出すには危険極まりないのです。 さりとて土俵そのものを改変するには、男社会に真っ向から対決する事である以上に、実はそれを精神的に支えているのは女性(というより、その集合無意識複合体(コンプレックス)であるグレートマザー。特にそのネガティヴ面)であるという一筋縄ではゆかない厄介な問題を隠し持っています。

グレートマザー及び母性原理については大きな問題なので、機会を改めます。
 尚「母性社会日本の病理」河合隼雄、「タテ社会の力学」中根千枝の二冊は非常に参考になります。

過去の女性運動家、女性のオピニオンリーダー(及びそれと見なして良いその役を演じたひと)たちが、男性達よりも寧ろ同性である女性からの、理不尽とも言える攻撃によって最終的に黙さざるを得ない状況に追いやられて行った歴史が如実に、このことを物語っていると思います。 約10年前に持ち上がった「アグネス・チャン騒動」が端的な例です。
対決する相手が社会(というドレスを身に纏った日本人の集合無意識体としてのシャドウ)という大きなものである以上、個々人の力ではどうすることも出来るわけがなく、現実から逃避するか、現実に逃避するか、にならざるを得ない事は、深く省みられなければならない問題だと思います。
少々荒っぽいのを承知で、結婚を強く志向する方を「現実から逃避組」キャリアウーマンを志向する方を「現実に逃避組」と分類することが可能だと思います。(実際には、仕事一途というのが現実から逃避することになる人も居るでしょうし、現実に逃避するために結婚する人も居るでしょうから、、、) つまり表面的行動は全く逆に思える二者—キャリアウーマンを目指すひとと、結婚を選ぶひと、というのは全く正反対の違う生き方に見えて、実は底に流れている心理機制は同じであると言いたいのです。

先に「子供と同じ心象が見られる」と指摘しましたが、これはある意味当然のことなのです。 河合隼雄、中山康裕両氏をはじめ心理臨床の現場に居る多くの諸家が指摘するように、現代社会の大きい問題の一つに、「イニシネーションの喪失」というのがあります。
子供から大人になる通過儀礼としてのイニシエーションを受けていないのだから、心理的には子供であっても当たり前で、これを無碍に批判しても始まりません。
社会がイニシエーションの機会を与えてくれない以上、個々人で自らイニシエートしてゆくより仕方がないということでしょう。
このことに気付くと、「結婚したがる女たち」が、ことある毎に「結婚したい! 結婚したい! 結婚したい!」と口にする姿が、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱え続けることによって極楽往生を願った、かつての末法思想時代のと同じ宗教儀礼的行為であるように思えてきて仕方がないのです。

イニシエーション目的だけで結婚、急場凌ぎのイニシエーションとしての結婚、これが増えているように思うのです、これでは成田離婚が増えるのも当たり前でしょ?違いますか。

女性の場合が特に、結婚がイニシエーションの意味を持つのは、別に今に始まった事ではなく昔からスタイルと言えるので、結婚にイニシエーション的意義を求める事自体はなんら問題ないのです。 問題は、結婚にイニシエーション的意義“しか”求めないことです。 そうであれば、イニシエーションさえ終われば用済みですから離婚は時間の問題、ということになってしまいます。

また、その相手である男性はイニシエートされていない場合が殆どです。 イニシエートされた者から見ると、イニシエートされていない人は、バカで子供じみて見えることは明らかです。
結婚によるイニシエートが即効性を発揮した女性の場合は「成田離婚」、非常に時間を要した女性の場合は「熟年離婚」という事ではないか?と思います。 離婚の問題を、これだけに集約するのはあまりにも短絡ですが、一側面としては、熟慮すべきテーマだと思います。

彼女達に新たな、これからの時代に相応しいイニシエーションの機会を創出できるのなら、新たなこれからの時代に相応しい女性の生き方が、見出せるのではないか?と思っています。

この「女性のイニシエーション」について、現段階ひとつの示唆を貰っています。 それは「『神話にみる女性のイニシエーション(ユング心理学選書20)』シルヴィア・B・ペレラ著 監修:山中康裕 訳:杉田津岐子・小坂和子・谷口節子 創元社 ISBN4-422-11220-1」に拠ってです。 男性原理によって不当に貶められ、蹂躙された女性性。 これを救うのは、誰あろう、他ならぬ女性自身です。
「おんな」として生きる意味を見失いかけている貴女、是非にも読んでみて下さい。 死にかけていた貴女の半身が甦ることでしょう。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

夢の意味「信ずるべきか 分析すべきか」

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日本独自の精神療法を確立した森田正馬氏のことばに「夢の中の有無は、有無とも無なり。」というのがあります。
今の仕事を始めて大分経った頃にこの言葉に触れたのですが、、、夢の内容をお話し頂き、これをテーマに連想を豊かに働かせてゆくかたちでカウンセリングを行ない、その意義の大きさを実感している私にとって、少なからずショックでした。
人のこころの在り方に浅薄な認識しか持ち合わせていない、何処の馬の骨ともつかぬ輩が言っているのなら、気に病む必要はないのでしょうけど、人のこころの在り方に早くから真摯な態度で取り組み、非常に卓越したメソッドを確立した、森田療法の始祖のセリフだけに、その意味を即刻には呑み込み兼ねました。
森田氏は、人の無意識の扱いを大事にしていたに決まっているでしょうし。 それが見せる夢の意義にも、注意を払っていなかったわけは無いと思えるのです。
その後、森田氏は上記のセリフと共に「夢は楽しむもの」とも言っている事を、知るに至って、この意味が了解せられたのです。

クライアントと会って、さぁこれからカウンセリングを開始という、クライアントからすれば夢を記録し始めて最初の頃は、その夢が混乱が見られる事が多いのです。 心的問題の大きい(これも「後から考えれば」という話で、当初から大きい小さいを即断できるものではない)ひとであるほど、この傾向は著しいのですが、「夢とはそもそもそういうもの」というのとは明らかに一線を画す混乱なのですが。
これを「分からないものは、分からない」という態度で、安易な解釈を与えたり、性急な答えを求めず、話し合いを継続しつつ、夢の記録を持ってき続けて頂いていると、川の流れの如く、またその流れに導かれるか如くに、夢が整合性を持ちはじめるのです。 もちろん夢のことであるので、論理的に筋が通るとか、現実的描写になってくるとかの意味ではなく、、、「夢なりのルール」に従った整合性を持ち始めるのです。
この「夢なりの整合性」を見抜くには、それ相応の知識と経験が必要なのではありますが。

フロイトは「夢の偽装」という仮説を唱えた。 無意識は何をかを伝えようとして、夢というかたちを通して意識にコンタクトを取ってくるのだが、それが意識にとって好ましくない情報を含んでいると、意識の検閲を受けて、違う姿形を与えられる、偽装されるのだ、というのです。 いわゆる「メタファー」というもので、有名な処では、女性の夢の中に万年筆が出てきたら、それはペニスの偽装した姿だ、とするものでしょう。 これはこれで、自我が非常に強固な方には有効な解釈になる場合もありますが、些か硬直したものと言わざるを得ないと思います。
(このような硬直化したものは、訳者(独語から英語への)の意図的誤訳、と後生の主にUSAマスコミがセンセーショナリズムだけでフロイトを取り上げた結果の誤解、そして、フロイト自身も名前が売れることの方を優先してこの誤解を放置した結果なのです。 こういう多くの誤解を受けているフロイトですが、実際にはそんな硬直した事は語っていません。 「夢判断」を読まれよ!)

このフロイトが提起したのとは違う意味で「意識の検閲」というものを私は考えます。

無意識から持たらされるものは、イメージの塊で、まさに混沌そのものであり、多くの矛盾、パラドックスを含んでいます。 いや、これを矛盾だ、混乱だと考えるのは「意識の増長」であり傲慢であるとも言えるのですが、、、
ともかくも、この混沌から情報を意識が受け取るとき、これをそのまま受け取ることは出来ず「如何に受け取るべきか?」と悪あがきをするのだろうと考えられ、これが論理的に筋の通っていないものに論理性を与えようという無茶をすることとなり、混乱と呼べる状況を作り出すのだろうと考えられるのです。 「意識の検閲」が混乱を作り出すことに深く関与していると。

この意識の悪あがきによる混乱状態も、自我の再調整のために必要な混乱(錬金術でいうニグレドに相当する)であるとも言えるのですが、まともに取り組もうとすると強烈なデプレッションに襲われ、相当に自我の強い方でも、易々と耐え切られるものではないのです。 これに耐え切られるよう介助役をしつつ、この「自我の再調整のための混乱」の淵に足を踏み入れるのがカウンセラーだと言えます。
言い方を変えれば、「意識の検閲」を上手く調整が効く方向に誘導してやるのが、カウンセラーだとも言えると思います。

心理学にそこそこ通じている方でも、よく起こす勘違いに、夢を無意識そのものとイコールで結ぶことがあります。
正確に記すならば、意識が無意識と何かのキッカケに、ほんの一瞬触れ、その触れた瞬間の残像、雰囲気、ほのかな感触、これらの総体として意識が覚知したもの、これが夢であります。
無論、これより浅い意識域の中だけで見る夢(願望充足夢、覚醒時に体験した出来事をなぞる夢など)も多くあるので、夢すべてをこれであるように捉えるのも間違いです。
つまり夢を通じて無意識域の片鱗を垣間みられる「時がある」という以上でも以下でもなく、無意識の全て、無意識の何たるかが解るわけではありません。
無意識の全てを把握することが重要なのではなく、無意識から持たらされている様々なサイン、これの意味を現実との脈絡の中に見出せるかどうかが重要です。 またサイン全てが絶対に意味があると決めて掛かるのも危険です。 上手い具合に意味が見出されればラッキー、という位の気持ちで、ファンタジー小説を読むかの如くに「味わう」姿勢が肝要だと思います。
「味わずして分析するなかれ」これが私の持論です。

フロイト派はフロイト派の夢を、ユング派はユング派の夢を見る、と言われています。
これも受け取り手の意識の在り方次第で、夢が変わるということを語っているのだと思います。

夢との付き合い方で良くないのは、先に述べたように「絶対に意味がある!」と決め付けてなんとしても分析し切ろうとする態度、また「ライオンは父親像」「窪みは女性器」「棒状のものはペニス」式の硬直化した解釈を与える態度です。
まずは夢をありありと思い描いて、それによってこころに巻き起こるエモーション(感情の動き)をそのまま受け止め、それを偏見無くじっくり味わうことです。

最初の森田氏の「夢は楽しむものである」という言葉、これは「楽しめない夢に囚われて気に病むことはナンセンス」と言っているのだろうし、「楽しむ態度を持ち合わせていないのなら、夢に取り組むべきでない」とも言っているのだろうと思います。

「そんな馬鹿なことがあるものか!」とお思いの方も居られるかも知れませんが、誤った夢との取り組み方をして、神経衰弱や精神分裂病にまで及ぶひとが、現に居るのです。
この意味で(その全てを唾棄するつもりはないですが)巷に溢れる「夢占い」の類の大多数は、有害です。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

「100%正しいアドバイスは役に立たない」

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このタイトルは日本に本格的にユング心理学をもたらした最初のひと、河合隼雄氏の「こころの処方箋」の中の言葉です。
これは占い師という仕事に本気で取り組めば取り組むほどに、痛切に実感させられる真実です。
「ひとに迷惑を掛けてはいけません」「真面目に仕事をしましょう」「不倫はいけない」等々、、、誰が聞いても賛同せざるを得ない公明正大な意見。 下手に反論しようものなら人間性を疑われるので、しっかりした根拠がない限り異議を唱えることに後ろめたさを感じる。
なにも、これらを軽るんじて良いとか反論を加えようとするんじゃないんです。
問題は、これらの反論を加えにくい公明正大な意見には、対話をそこで終わらせてしまうヒューマニズムの欠如が裏に潜んでいる、ということです。

「好きな異性が居るのだけれど、相手も好意を持ってくれるかどうか不安」占いの現場に日常的に持ち込まれる題材です。
これに対して相手との相性を鑑定して、良いと出たのならば、それを根拠に「アタックしてみなさい」とアドバイスする。 多くの占い師さんがこういうアプローチを取ると思います。 これは正攻法ですが。
これで「アタックしてみよう」と思う方ならそれで良いのですが、それが出来ない方が多いのです。 その理由は「物怖じしやすい性格」だったり「行動を起こすより先に失敗した時の心配、取り越し苦労をしてしまうクセ」だったりする訳ですが、こういった方に「物怖じせずに頑張りなさい!」とか「物怖じするその性格がいけない! それを直しなさい。」と言ったところで「それが出来てりゃ苦労はしないよ。」といった反発が返ってくるのが関の山で、場合によればいわゆる逆切れをするひとも居るでしょう。

誤解なきように補足しますと、クライアントの反発を買ってはいけない、怒らせてはいけない、などと言っているのではありません。 これを意識し過ぎると、その場を丸く納めることばかり考えた結果「なぁなぁ主義」の鑑定に堕してしまい、毒にならない代わりに薬にもならないものに成ってしまうからです。 場合によれば毒を与えることも必要なこともありますので。

「物怖じしてしまう性格」が問題となれば「何故、なにが物怖じさせるのか?」という疑問が出てきて当然です。 「○○という星が○○と〜〜だから」と言ってしまえば、「仕方がない」で終わりです。 これだと、物怖じしやすい人は見合いでしか結婚出来ないことになるし、忍耐力の無い人は出世できないことに成ります。 四柱推命を初め東洋占の占い師さんはこういう決定論的な物言いをする方が多いのですが、、、ま、鑑定という意味ではこれで良いのでしょうが、何かが足りない、、、。
何が足りないのでしょうか? 私は「その方の幸せは何処にあるのか?」と一緒になって考えてあげようという姿勢だと思います。
実のところ、これは非常にしんどい取り組み方です。 先に場合で言えば「結婚する事が本当に幸せに繋がるのか?」「出世がこの人の幸せか?」といった根元的問い、ひいては「人生とはなんぞや?」という処まで降りてゆかないといけないからです。 しかも哲学としての一般論ではなく、その方その方ごとに、個々人のパーソナルというものを非常に意識した上で考えないといけない。 占いにはデータ的な側面(AがこうでBがこれこれ。 だからC。 みたいな答え)がありますが、こういった類別論、パターン論はこのレベルにまで踏み込むと通用しません。

 余談ですが、関西の有馬温泉に「占い師はデータ屋」と豪語するアホな占い師が居ます、この方は大抵は企業の相談ばかりを相手にしています。 企業が相手であれば、この占いのデータ的側面だけで話をしておれば良いわけで、言うなれば「一番楽な客」(占いの確度を上げる=技術的努力な要求されますが、本論で主題としている心的働きとしては楽)を相手しているわけです。 これはこれで、この方の生き方なのでそれ自体をとやかく言うつもりは更々ないのですが、企業が相手ですから報酬は悪くないわけで、占い師の中でも裕福な部類に入ります、それを傘に着てご自分が何様かに成ったように勘違いをされて、「カウンセラーなんかに敬意を払う気なんか更々ない! カウンセラーなんてその程度の職業。」とまで言い出す始末なので、釘を刺しておきたいと思ったまでです。

私も経営顧問として遇してくださる企業トップのお客様を幾人か持っていますが、これらの方はご自分の人生の目的、幸せというものに対して確かな視点をお持ちで、お聞きになる質問も設問の設定が非常に明瞭です。 そうなれば、こちらもお聞きになっている事のガイドラインをお教えすれば良いだけで済みます。

話を戻して、「物怖じしやすい性格」と一口にいっても、それを構成している素因、要素は実に複雑多岐に及び「これが原因だ!」と簡単に断じれるものではなく。 占い的に大凡の輪郭=見通しは付くものの、決め付けてしまうと危険です。 何故なら、この構成する要素というのは、そのひと自身のオリジナリティーと密接に関連している場合が非常に多く、これを不用意に批判、攻撃しようとする試みは、その方のオリジン、ひいては存在意義そのものを脅かす危険性の高い行為なのです。 改善のつもりが改悪になってしまうということ。
これで「100%正しいアドバイス」が、なぜ役に立たないかお解りになったと思います。 存在意義を脅かされるのですから、防衛反応を引き出して当然なのです。
ここまで説明して「じゃぁ、やはり性格は改められないのですね。」と仰られてガックリくる場合が少なくないのですが、それは違います。
「改めよう」と心底から思う動機があれば改まります。 この「動機」を働かせるために、「その方の幸せは何処にあるのか?」を考えていかざるを得ないのです。
人というのは「わたしの居場所はココだ!」という確信があれば非常に強くなります、逆に自分の居場所が見付からないことには不安で仕方がないのです。 「自分の居場所」とはジェイムス・ヒルマンの言葉を借りれば「内なるドングリ」を見出すことに他ならず、それは「自分は何者か?」という問いに対する答えそのものなのです。 宿命とは世間一般に言われているそれとは違って、これを指すのでしょう
「じゃぁ、それが何かあなたには判るの?」と問われれば、それは判りません、「法の華」の誰ぞや「ライフスペース」の誰ぞみたいに「わたしには判る!」なんてのは嘘八百の詐欺師です。 それは魂を宿したご本人以外には決して判ろうはずもありません。 確信を持って「当人以外判るわけがない!」と確信を持って断定できるのが、占い師なのかも知れません。
ただ、そこへの入って行き方を多少なりとも心得ているので、道のりに同道してゆく夢前案内人にはなれるでしょう、と申し上げられるだけです。

トップページに掲げてあるように「神よ、変えられるものを変える勇気を 変えられないものを受け入れる静けさを このふたつを見分ける叡智をお与えください。」ここに言う「見分ける叡智」これこそが「内なるドングリ」なのだろうと思います。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

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