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新聞社と愚かな大衆という共同正犯

特定秘密保護法案を巡ってのマスコミの反対の大合唱の茶番劇ぶり、また、これに踊らされて3000人以上もの人権派を自認する学者たちが声明を発表して、その“人権派”というのが如何に薄っぺらなものであるかを自ら露呈してみせたという点は多くの冷静な人達の嘲笑の的になったので改めて云々する必要はないと思います。

ただ、これに関しての以下に引用する池田信夫氏の記事内の記述で、改めて取り上げて強調しておくべきと感じた点を述べます。

日本のメディアは国家権力と闘ってきたのか? 特定秘密保護法案に反対する記者クラブの偽善:JBpress(日本ビジネスプレス)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39365

それは「読者が不買運動を始め、もともと危機に陥っていた毎日新聞社の経営はさらに厳しくなった(1977年に経営破綻)」という部分です。
1977年というと私はまだ中学1年生で、毎日新聞社が一度潰れたということは記憶してあっても、それ以上の詳しい経緯や背景については無知でした。

ここで池田氏が解説してくれている大筋を整理すると、

  • ウォーターゲート事件に絡んだFBIの捜査情報をウッドワード記者がスクープ。FBIの捜査情報は国家機密情報に該当するので、これを入手し報道したことは漏洩に手を貸したということになり違法。しかし、ワシントン・ポスト紙は連邦政府の圧力に屈しないでウッドワード記者の取材を支援、その全貌が明るみに出るに従ってその報道の公益性の方が極秘情報を入手した違法性よりも優っていたので検察は起訴しなかった。
  • かたや日本の西山事件の場合、毎日新聞社は西山記者を守るどころか「おわび」を掲載し、西山氏は一審で敗訴したあと退職した。

ここで毎日新聞社を蜥蜴の尻尾切りに走らせた要因として、不買運動で毎日新聞社に圧力を掛けた愚かな大衆の行動があり。そして、この愚かな大衆を動かしたのは「ひそかに情を通じ、これを利用して」という(今となっては、これ自体根も葉もない言いがかりだと判明しているが)情動に「西山というのは卑怯、卑劣なやつだ」と訴えかける扇情的な検察のレッテル貼りでした。

引用している池田氏の本文は、国家機密という法に抵触する可能性のあることでも報道の必要性があらば、これにあえてチャレンジし、当然あの手この手で圧力を掛けてくる公権力と闘ってこそのジャーナリズムで、今までポロポロと情報を漏らしてくれる(コントロールはされているわけだが)楽にネタを拾える馴れ合い関係がご破産になる公算が高くなりそうなので「反対」「知る権利が侵害される」と叫ぶ日本のマスコミは、それで公権力と闘っていることになっていると悦に入っている幼稚なものだと言っているわけで、これには100%首肯します。

時代は変わって、太平洋戦に突入していく契機になったものの中で決して小さくない要因に、毎日、朝日を含む新聞社がこぞって勇ましい主戦論のキャンペーンを大々的に行ったというものがありますが、「国家、軍部の圧力に屈して筆を折らざるを得なかった」という各社、殊に朝日新聞社の今でも続けている言い訳は大嘘であることは今や多くの人が知っている通りです。
これは何故かという点で多くの人が、そうした方が部数が売れるという商売上の打算という説明をしており、これはこれで蓋然性があり、その通りだと思うのですが、もう一つ、これがコインの表側だとすると裏側の事情・・・それは、反戦論、慎重論を展開していた地方紙数社が猛烈な不買運動や、焼き討ちにあって潰れたりする事件が時を経るに従って増え、また毎日、朝日もその紙面に慎重論を載せた翌日に購買所(販売店)が打ち壊しに遭うなどが多発、激化していったのが、大衆の顔色を窺って勇ましい戦功記事を載せつつも一方で国際情勢分析などからの慎重論も併記していた新聞各社が完全に戦争大礼賛一色の紙面に変貌する契機になっていたという点。

今一度、引用した記事中の西山事件のことを思い出して下さい。
それに簡単に屈する日本のマスコミがへなチョコ過ぎるのも確かにそうですが、物事の成否を冷静かつ深く考えずに不買運動などで圧力を掛ける行動に出る大衆の愚かさという点で共通しているでしょう。

大衆運動というのを考えた時、果たして健全な大衆運動というのは何なのか、あり得るのか?と、あり得ると信じたい私としても安易にそれを信じ、礼賛できかねると、この一例だけで思わされるのです。

コッポラの胡蝶の夢 [映画評]

この記事はfacebookのタイムラインに9/9に投稿したものに加筆修正した転載です。

立川志らくさんが大大大推奨してたのだが映画館での上映は結局東京の(名画座的な)一館のみで終わってしまい、仕方なくDVDは結構前に入手してたのだが、気軽に観れる映画ではなく迂闊に観ないほうが良いと思って今日に至っていた。
観られる条件(心情的なものも含む)が整ってやっと鑑賞した。

 良かった。

流石コッポラ。
流石ルーカスの師匠なだけあると思わせるルーカスに通底する構成のセンスを随所に感じた。

我々人間が「我」と思っている自我意識と呼ばれる(呼んでいる)もの自体が突き詰めればフィクションである。そのフィクションが実在だと思い込める一つの大きなファクターが「時間」。 時の流れというもの自体は存在はしているが、これを「時間」「時系列の流れ」としての体系と捉えるのは実は人間独自の「発明」で自然には存在しない。言い換えるなら、時の流れという本質的に捉えどころのないモノを「捉えられていると錯覚するためのトリック」、これが時間という発明である。

荘子の「胡蝶の夢」が言っているのはこういうことで、だから邦題に「胡蝶の夢」が入っているのだろう(たぶん、コッポラ自身のチェックが入っている。コッポラとはそういう人だから [1] )。

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——–[ 脚注 ]—————-
  1. 他言語の字幕を入れる時に、その字幕を台本にして送らせて(これを専任アシスタントが英語に訳したものを)一語一句チェックし、その言語でのその言い回しはどういうニュアンスかまで確認しつつ、自分の意図に沿った訳になっていない場合修正させる → これを納得するまで繰り返す。という作業を要求する人なのだそうだ

なぜいじめはなくならないのか 続1

先日のエントリーの続きです。

なぜいじめはなくならないのか « 心理学エッセイ | 物語り研究所「夢前案内人」

先のエントリーで「動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり」と書いた。
動物行動学(生態学)に或程度以上詳しい人ならご存知の通り、動物の世界のそれは「いじめのパターンA」に対して、こういう反応を返すといじめ行動がストップする「対応するパターンa」が必ず存在し、この対によって集団の秩序が維持されているという「行動様式(行動のお約束)」が存在するのである。
だから、この「お約束」を守った行動をする限りにおいていじめがエスカレートすることはないのである。(「お約束」通りの反応を返したのに「お約束」に従っていじめ行動を止めなかった個体があった場合は、今度はこの個体が集団から総攻撃を受け排除される)

で、実は、この行動様式は人間でも同じなのだが、「いじめのパターンA」に対して「対応するパターンa」を返すという「お約束」が厳格に守られている社会は部族社会で、西洋近代啓蒙主義的には「野蛮」で「劣った社会」とされる。この「西洋近代啓蒙主義的」つまりは「西洋中心主義」な価値観なので、これが真に普遍的に正しいかどうかは疑問の余地は大いにあるのだが、現代日本の社会はこの西洋近代啓蒙主義的価値観に則った社会に(一応)なっているので、この「お約束」を守る必要はないと考える個性を認める社会になっているのだということ、先ずこれは押さえておかないといけないポイント。これは所謂「個人主義」とほぼ同義だと考えて差し支えない。

ところが、いま先の文に「一応」と括弧付きで書いた通り、そのマインドというかメンタリティは依然として古い部族社会的な人が結構な数残存しているという・・・もしかしたら私も含めて完全に払拭できていない人の方が圧倒的多数なのではないか?・・・中途半端にしか個人主義的マインドというものを理解していない人がかなりパーセント居るということで、つまり
「お約束」を必ずしも守らなくても良いという自由を認める社会を形成しておきならがら、「お約束」を守らない人に対応する対応の仕方を編み出していない(許容するマインドを持てていない)人がかなりパーセント居るという拗れた状態を孕んでいるのが現在の日本社会なのである。

いじめがエスカレートする理由、またはいじめを悪いことだと(理性的にわかっているのかどうかは関係なく)実感として理解していない人というのは、「お約束」を守らない(お約束通りの行動をしない)奴の方が悪いという感覚をどこか腹の底に持っているので、だから「お約束」に従った行動を取るまでいじめを止めない(止めれない)のである。本能的で動物的だと言えば確かにその通り。
しかし、ここまで書けばご察しの通り、日本の社会ほど「お約束」好きで、「お約束」を守る予定調和を好しとする社会は近代化した社会ではないのである。

「お約束」とは半ば以上「暗黙の了解」または「空気を読むことの強要」なので個性を認め尊重する個人主義とは対極にあるものである。
だから、

  1. 「お約束」を守って平和、そのかわり個性は著しく認められない社会
  2. 個性を認める代わりに「お約束」は最早存在しない、つまりパターン化した行動では生きていけない社会

このどっちを選ぶのか?という選択を曖昧にして先送りしてきたツケが回ってきているのだという認識を多くの日本人は持った方がよい。
與那覇潤氏『中国化する日本』の概念を借用するならば前者は「(再)江戸化」、後者は「中国化」に該当するだろう。この意味でも與那覇氏の指摘・問題提起は正しいと思われる)

「個性の尊重」と言い出して遥かに久しい教育界ではあるが、このこと・・・「空気を読む必要なんかない」「空気を読むことを強いるのは悪」という教育をしてきたかしら?と考えれば直ぐにわかる通り、寧ろ「空気を読む達人たちの集まり」これが教師達だと言っても良く、だからこの彼らに「お約束」を守らない個性を尊重する大事さの認識は薄い、だから「いじめに気付かない」「(鈍感なので)いじめだと認識しない(この彼らですらいじめだと認識するのはかなり露骨なものだけ」ということになる。
この「いじめの本質にある問題性」を認識していない彼らの「いじめは悪いことです」「いじめを無くしましょう」というスローガンが空疎で欺瞞的なのも、ここまで説明すれば了解されると思う。
この点でも彼らを再教育する段階から始めなければならないだろうというのが私の考え。

404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
「なぜいじめが発生するか」という生理学的見地に関してはあまり述べられていないのだ。

答えというほど冴えても充分でもないでしょうが、僕なりに見解を出したわけですが、どうでしょうDanさん。

なぜいじめはなくならないのか

この問題を抜本的、包括的に、また広く説得性のある論理を展開出来るほど問題自体が簡単ではないし、また、私の考えもそこ遥かに及ばない低レベルにしか錬れていない。この意味で看板に偽りありのエントリーです。

今段階書ける(言語化できる)だけの範囲を書くと、
まず実践面(実用面)でいえば、「傍観者の排除」これが取り敢えず「手が付けやすくて」「実効性がある」という意味で大事。
より具体的にいえば、傍観者でいること自体が加担者なのであるという点、傍観者でいること自体が罪であるということを社会的コンセンサスとしてきちんと確立するべきである。
ここでいう傍観者は、文字通り傍観者・・・見て見ぬフリをする者、遠巻きに傍観しているだけの者・・・だけでなく、直接加害には加わらないが囃し立てたり茶化したりする野次馬も含む。つまり「制止」「調停」「仲裁」「仲介」「庇護」などを行わない者はすべて傍観者であるということ。
より詳細かつ説得性のある言説である以下を参照。

404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:いじめと個性
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50681593.html

個人的にはいわゆる「先生当たり(先生の当たり外れ)」は良い方だったようだと大人になってから分かった私でも実際生徒だった頃の経験から、傍観者になっていた先生がそこそこ割合以上必ず居たと言える。
つまり「傍観者であること自体が罪」であることを先ず、教育する側から教育して行かないといけないのだろうということ。

次に、より根本的問題に言及すると、「いじめ自体」を悪い事と、「いじめ自体」を消滅させようとする努力は無駄であり無意味であるばかりか、場合によっては問題をより陰湿化、巧妙化させさえするという問題意識を持つべきだ。
いじめという行動様式これ自体は絶対に無くならないし、無くせもしないと断言する。それは動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり、つまり、集団性動物でかつ高等生物であることからの何らかの必然がそこにあると認めざるを得ないからである。(これが何故であるか、また、どういう必然性なのか説明できるほどの知識および能力は現段階持ち合わせていないが)

これは良いだ悪いだ云っても始まらない自明に近いものであろうので、いじめの行動様式を取る基本素養は我々皆が備えているということを先ず認め、これを前提に、その発露が陰湿化、残虐化しないようにするにはどうするのが良いのか?という設問の立て方をするべきだと私は考えている。
しかし、これは真剣に考えるとかなりクリティカルな問題で、「あなたも殺人者になり得る素養を備えているわけですが、これとどう上手く(問題化しないように)付き合って行きますか?」と質問されて簡単に答えられる人が居ないのと本質的に同じだからである。
たぶん、この素養を備えているという事実を認める自体を拒絶しここで思考停止になる人が多いだろう。
この思考停止こそが、いじめの問題の本質に切り込んで行けない主犯で、傍観者を許容してしまうバックグラウンドだと断じさせてもらう。

だから「いじめは悪い事です」「いじめをなくしましょう」という教育関係機関や役所に貼られているポスターのスローガンは、空疎であり、欺瞞的で、薄ら寒いのである。
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流動性とは「バリアフリー化」されているか否か

大筋同意できる。特に「雇用の流動性のなさ」の問題は大いに同意できる。

若い世代でネガティブな労働観が増えている! お金儲けは悪だと洗脳され、会社ギライが多い日本人|これからの日本について、自分のアタマで考えよう!|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/16881

それだけに「英語ができないと・・・日本語しかできない人が多いのは問題」的な締めになっているのはどうなのかなぁと思う。自分のアタマで考えよう
英語ができないよりはできた方が良いに決まっているが、「できる or できない」の問題ではなく「世界に対して何処までリーチできるか」の問題が大事・・・つまり単に英語理解力/会話力が身に付いているだけでは大した意味なくて、その後の「それで? – So what?」の部分が大事な筈。

もちろん文脈込みで読めば、そう言わんとしているのは分かるので、対談者ご両人というよりは、記事を纏めた編集者のセンスが悪いって話だけかも知れませんが。

本題だと思われる「雇用の流動性のなさ」の問題は当ブログでも何度も取り上げているし、その度ごとに引用している(に等しい)池田信夫氏も、それこそ何度も何度もしつこいくらいに指摘している問題です。
これは平たく言えば、ある時に所属している集団が自分の居場所として不適だと感じたら他の集団に「鞍替えする機会均等という意味の自由」が或程度以上存在しているか否かということです。「機会均等という意味の自由」というのは「バリアフリー化」されているか否かだと言い換えられます。

このことは少し考えれば分かる通り、いじめ、特に「日本特有のいじめ」の性質とも通底します。クラス等で無視されるというのが、いじめとしての効力を大きく発揮するのは、その集団以外に居場所を見付けられるかどうかのバリアフリー度合いと反比例するからです。
この意味では日本の社会自体がそもそも「いじめ体質」であると言えると思います [1]

[amazonjs asin=”439661392X” locale=”JP” title=”日本人の9割に英語はいらない”]先述の英語の件も、英國の言葉という意味の英語ではなく、実は米語でもなく、Global English化された==バリアフリー化された英語であるという点。この点を見落として「英語、英語、、、」と言ってもあまり意味はない。
つまり英語自体を学ぶというのではなく、その「バリアフリー感覚」を学ばないといけないのです。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 大人がそういう社会を形成しておいて「いじめはいけない」などと言っても子供に対してどれほど説得力があるのだろうか

The Enemy Within

ソースごと丸々コピー。・・・って、引用の域を遥かに超えて「他人の褌で相撲を取る」以外の何物でもないのだけど、
恐らく「読んでほしい人はリンクをクリックして(新たなページを開いて)まで行動を起こしてくれない」と思っちゃう(単なる老婆心?)ので [1] 、こういう手段に出させて頂きます。無作法ご勘弁を > 弾さん<(_ _)>
(一番読んで欲しい人は、そもそも本サイトに興味すら示さないだろう、、、と言ってしまえば身も蓋もないけど)

MixClips経由で見つけた記事なのだけど、実はWikipediaのコピペ。

これってどこのPOP*POPだよと思いつつも、内容そのものは面白いので超訳的注釈をしてみることに。ただし私は心理学と社会学は筒井康隆に教わった点をよろしく割引のほどを。


  1. バンドワゴン効果 Bandwagon effect – 周囲の人が信じていることを、自分もいつの魔に信じてしまう効果
  2. 偏向の盲点 Bias blind spot – 自分自身の認識偏向(cognitive bias)は放置するという傾向。
  3. 選択支持偏向 Choice-supportive bias – 自分が選んだものは、そうでないものよりもよく見えるという傾向。
  4. 確認偏向 Confirmation bias – 思い込みを支持する情報ばかり確認したがるという傾向。
  5. 合同偏向 Congruence bias – 仮説の検証の際に、直接検証ばかりする傾向。補足すると、仮説Aの検証の際に、仮説Aの反証がありえないかの確認を怠る傾向。
  6. 対照効果Contrast effect – 直近に受けた別の出来事の印象によって、その出来事の印象が実際以上に強く感じられたり弱く感じられたりする効果。
  7. 専門バカ偏向 Déformation professionnelle – 自分の専門分野からの視点が強すぎて視野が狭くなるという傾向。
  8. 反確認偏向 Disconfirmation bias – 以前からの思い込みに反する情報をシカトしてしまう傾向。
  9. 所持効果 Endowment effect – いったん自分のものとなったものは、それ以前よりも価値が高く感じられるという傾向。
  10. 焦点効果 Focusing effect – ものごとの特定の一面を注視してしまうという現象。一事が万事効果。.
  11. 双曲線割引 Hyperbolic discounting – 直訳スギ失礼。明日の100万円よりも今日の100円を大事だと思う傾向。なぜ双曲線なのだろう。反比例の曲線から?
  12. 支配幻想 Illusion of control – ものごとは支配可能か、そうでなくても何らかの影響を与えることは可能だと思い込む傾向。
  13. 衝撃偏向 Impact bias
    ある出来事の将来への影響を過剰に見積もる傾向。たとえば「犯罪の増加」など。
  14. 情報偏向 Information bias – もう行動を変えるには遅すぎるのにもかかわらず、その行動に関する情報を集めてしまう傾向。
    「インフォメーションバイアス」とはちょっと違うようだ。受験の後に参考書を読むようなこと。
  15. 損失回避 Loss aversion – 収益を得るよりも損失を回避する方に注力する、すなわち機会損失を軽視したがる傾向。
  16. 確率無視 Neglect of probability – 不確定な状態において、確率を軽視または無視する傾向。
  17. 「おなじみ」効果 Mere exposure effect – ただ見慣れているというだけで、根拠のない好感を感じてしまう傾向。
  18. 省略偏向 Omission bias – 同じだけ害がある場合でも、害のある作為の方が害のある不作為よりも悪いことだと感じてしまう傾向。
  19. 「勝てば官軍」偏向 Outcome bias
    ものごとを、当時おかれた状況ではなく、その後の成り行きで判断してしまう傾向。
  20. 計画錯誤 Planning fallacy – 締め切りを甘く設定しまう傾向。[ごめんなさいごめんなさいごめんなさい>各方面]。
  21. 入手後正当化 Post-purchase rationalization – 手に入れた後に、それを手に入れたことは正しかったのだと自分を納得させる傾向。配偶者とか:-p
  22. 疑確定性原理 Pseudocertainty effect – 収支予想が黒字の場合にはリスクを避けるのに、収支予想が赤字の場合リスクを取りに行こうとする傾向。安物買いの銭失い。
  23. 選択認知 Selective perception – 期待を認知に反映させてしまう傾向。「がんばれ、ニッポン」とか?
  24. 現状追認 Status quo bias – ものごとはそれほど変わらぬ方がいいという傾向。壊れてもないもの直すべからず
  25. フォン・ラストルフ効果 Von Restorff effect – 違うものは似たものより覚えられやすいという効果。田中一郎よりR.田中一郎の方が覚えられやすいということだろうか。
  26. ゼロリスク偏向 Zero-risk bias – 100のリスクを10にしてリスクを90下げるより、1のリスクを0にする方を好むという傾向

うーん、全部それなりに思い当たるのだけど、26も覚えてられるかという私はFocusing Effectが強すぎるのかしらん。

でも、一番秀逸なのは、コメント欄のこれかも。

26 Reasons What You Think is Right is Wrong

This makes me think that Wikipedia is therefore wrong:

http://www.otherworldvision.com/why-wikipedia-will-never-reach-quality/

So, what’s wrong with thinking them right if they are all wrong anyway :-?

Dan the Biased — Usefully, Hopefully

もちろんのこと、自分自身への戒めとして公然としておく次第です。

追記:2012年3月14日18時50分 改題

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 読む必要が無い人はたぶん、もうとうの昔に同エントリーのことは知っているだろう・・・2007年05月のエントリーだもんね

将来の出来事を正確に予測する人に自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人が多い

自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人ほど将来の出来事を正確に予測する! | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31975

或る種の、それも大いなる誤解を呼ぶ伝え方で、この意味で間違っています。

正しくは「将来の出来事を正確に予測する人に自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人が多い」です。
言い換えると、高い信頼を置くに足る『「洗練された」情動や感覚』を持っている人は将来の出来事を正確に予測する人である可能性が高い、ということです。
つまり『”高い信頼を置くに足る”「洗練された」情動や感覚を持っている』かどうかが最重要ポイントで、これはつまり、意図してかせずかは何れにせよ、情動や感覚が洗練される努力・訓練を経てきている(意図している場合)、情動や感覚が否が応にも洗練される環境に(たぶん若い年齢期に)身を置いていた、の何れかだとかなり強気で断言できます。

裏返せば、洗練されていない情動や感覚は信頼するに値しないし、この洗練されていない(未熟な)情動や感覚に信頼を置く人は単に「思い込みの激しい人」「勘違い野郎」です。間違いなく。

この『「洗練された」情動や感覚』を指して「感情機能」とC・G・ユングは言っていました。また英語で云う「Feelings(感情)」はこの『「洗練された」情動や感覚』のことであるとも。 [1]
ただ、と同時に、15世紀に活版印刷が登場したのに端を発しその後今に至るまでの永きに渡って欧米文明の思想的大黒柱である啓蒙主義、これが論理思考を重視するあまり「Feelings(感情)」を軽視、蔑視する傾向が弱からずあり、これ故「Feelings(感情)」の洗練ということはあまり顧みられなかったし、その結果、洗練されず情動、感覚を野蛮なまま持っており、これを理性の仮面で覆い隠している、これが今日の標準的なヨーロッパ人だという批判を屡々していました。 19世紀後半〜20世紀初頭に欧米で一大オカルト・ブームが巻き起こった一因はこれに求めることができるとも示唆していました。
この事にC・G・ユングが気付いたのは、このオカルト・ブームに科学的にアプローチしてみて何か見えてくるものはないかと、いわゆる霊能者、超能力者とされる人(自称も含む)たちを研究・観察してみたところからでした。
研究してわかったことは彼等は概ね「金儲けの手段として錯覚、錯誤を利用したトリックを霊能・超能力だと称している詐欺師」「何らかの精神病理と診断される人(主にはヒステリー(当時の概念での))」「(それを霊能・超能力と呼んで良いのかの議論は保留しつつ)その能力があると判定せざるを得ない人」の三つに区分できるということです [2]
(ユングは精神科医でしたから第二群も研究対象にしたわけですが)第三群を研究してユングが発見したのは、これらの人たちはおしなべて「自ら進んで霊能力者であるとは言わない」「自ら進んでその能力を誇示したがらない」「その能力の他、知性的・理知的な人で論理性にも優れている」という点です。
あいだの経緯は書くと膨大になるので省略します(興味のある人はC・G・ユングの著書を何冊か当たって下さい)が、後年彼は「論理と感情(Feelings)は相反する二項対立的性質はもっているものの、論理か感情か?という二者択一的に捉えるのは間違いで、二者は車の両輪の如く協調、協力関係にあることで最大のレスポンスを発揮できる」「これ故、論理性の洗練も、感情(Feelings)の洗練も、どちらも共に必要」と考えるに至っています。

巷に「ロジカルシンキングのすすめ」と称する書籍、情報が溢れかえっている昨今ですが、現今までロジカル(論理)の訓練が全然なっていないと言える日本の社会に於いては、そのバランス上まずはロジカルの方へ力点を置くのは間違いではないとは思いつつも「ロジカルだけをいくら磨いても駄目ですよ」と言っておきたいです。いわゆる「頭でっかち」になるのがオチ。
気付いている人は気付いていると思いますが、論理と違って感情(Feelings)はそれを鍛えられる体系化されたカリキュラムのようなものが殆ど存在しないのです。また、カリキュラムのような体系化も出来るとは思えません。ではどうするのか? あくまで経験的にですが、「”ロジカルを盲信せずに” ロジカルを極限まで極めて行こう」とすると、これに連動して感情(Feelings)も洗練されてくる、と私は考えています。但し、決して「ロジカルを盲信しない」「感情(Feelings)を軽視・蔑視しない」という心構えは忘れてはいけません。

冒頭引用記事に戻ると、記事中からも推察できるように、理知性も或程度以上にハイレベルな人を研究対象にしていると思われ、つまりこれは前提条件として既にあり、この上であるので「自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人ほど将来の出来事を正確に予測する」という纏め方になっているのだと理解するのが正しいと言えます。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 日本語では何れも「感情」と言い表わすことが多いので混同 → 誤解の元になっていますが、英語では「Feelings」と「Emotions」は区別されますし、日本語に於いても両者を区別することに意識的な人・場合は前者を「感情」、後者を「情動」と言い分けます。
  2. その研究対象であるヨーロッパ文化圏内での話である点は留意する必要がある

橋本行政改革の胆(キモ)の部分


20120115 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 part1 投稿者 kigurumiutyuujin

何かと話題になっている2012年1月15日 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 橋下徹市長と山口二郎教授の討論

【報ステなう。】報道ステーションサンデー「橋下徹×山口二郎」感想まとめ – Togetter :
「橋下氏完勝」とか「山口教授フルボッコ」とか橋下氏の痛快な物言いに溜飲を下げる気持ちはわからなくはないが、そういう痛快さに喝采を送るのがナチスのマッチポンプになった事は忘れてはならず、あまりそういった方へ力点が行って欲しくない。 [1]

池田信夫氏が端的に、また大西宏氏はより細やかに分析指摘してくれているが、私なりになぞり直してみる。
今回の討論の主眼だと思われる教育制度改革であるが、各氏の主張を抜粋要約すると以下の通り。

山口氏:
  • 教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない
  • 親とかが「あの教師をクビしろ」とか言い出したら教育なんか出来ない
  • MPの排除などというがそんなことは出来っこない
  • 教師を止めさせろなんて言わせたら歯止めがない
  • 橋下氏:
  • 有権者を愚弄した発言です
  • 保護者、子供がチェックできないなんてそんなわけない
  • MPを排除する仕組みは(別途)作る
  • 保護者と学校が協議をして(個々の学校ごとに個別に)目標を作れるようにする
  • 先ず細かい点から話を切り出すと、山口氏の「教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない」という「100%論理」・・・これ、どこかで聞いたことありますね。そうです、絶対を求めて可能性、確からしさ一切を否定し去る例の論理です。
    それはそれとして、これは反論になっていない。何故なら橋本氏は「親、子供に100%判断を任す」などとは一切言っていなく「チェック機能一翼を担ってもらう」と言っている以上でも以下でもないからである。
    また「モンスター・ピアレント(以下MPと略す)の存在が怖い」という意識が、この発言の下地になっているわけだが、確かにその危惧は全くないと言えば嘘になる。が、これには橋本氏も「MPを排除する仕組みはちゃんと作る」と言っているわけであるが、この部分での二者の齟齬は結構大きく、この齟齬に決定的なものが潜在していると私は考えます。
    自分が親の立場になって考えてみて欲しいのですが、自分がその学校、教師をチェックする委員等の役に就いたとして、するとこれは責任ある立場なので、それまでは無責任に「あの○○先生はダメだ」とか「あの○○教頭はクズだ」などと言っていたとしても、責任ある立場となればそれに相応しい責任ある行動をしようとし出すのと思いませんか? これが普通の人間の心理なのです。
    実際、多少とも実情を調べてみたことの在る方なら同意頂けると思いますが、いわゆるMPと呼ばれている、またはそう周囲からは見做されている親御さんの大部分は、学校または個別の教師のお粗末または誠意の無い対応に問題解決の持って行き場がなくなってMP化しているケースなのです。つまり、この大部分の方々は、問題解決の場が出来たならMPじゃなくなるのです。MPじゃなくなるだけでなく、こういう親御さんの方が寧ろ子供のこと、子供を取り巻く環境のこと、学校のあり方などに関心が高い人が多く、積極的に参加できる場を提供するならば建設的にその意欲を活用してくれることが期待できさえするのです。(意欲、パワーが有ればこそ、それがプラスに使える場が閉ざされているとマイナスに出力されるのである)

    実は、この(心理を含む)ことを理解していて制度設計をしている橋下氏と、「MPは何処まで行ってもMPだ」と決め付けている、つまり「MPをMPじゃなくなる方策がもしあるのなら」という設問を立てて考えてみたことのない山口氏というかなり大きい齟齬。
    この事が理解されるならば、残るMPは極少数の「真に人間的に問題のそもそもある人」だけなので、これの排除は容易。

    最後は一番肝心な部分で、これは教育制度改革に留まらず、橋本行政改革、ひいては国政レベルにおいても改革して貰わないといけない問題で。

    橋下氏;
    「決定する民主主義」「責任をもつ民主主義」ということになれば、これだけ国民価値観が多様化した成熟した日本国家に於いては議論をして全会一致、全員一致することなんて出来ない、だから誰かが決めなきゃいけない。その決定する権限を与えるのが選挙なんですよ

    橋下氏の発言をちゃんと聞けば分かる通り、コンセンサスを得ようと努力をした上で得られなかった時の最終決定権はどこにあるのか、誰にあるのか(誰が最終責任をもつのか)を定めようとしているだけである。 つまり、これを明確にしていないと、コンセンサスを得られなかった場合は決定できない・・・先送りにされ現状維持に・・・ことになり、これは現状維持派つまりは既得権限・権益保持者に極めて有利に働くシステムなのだと指摘し、これを改めようとしているだけである。 コンセンサスしたくない人は「コンセンサスをしない」という「拒否権」を行使すれば良いだけで、しかも行使とは言っても「いや、それはまだ時期尚早」「議論が十分煮詰まっていない」と穏便で尤もらしい理由を挙げるだけで済むので楽なのである。
    この「100%コンセンサス・システム」は、既存の状態が満足できる状態である内はこの仕組みでも(問題は表面化しないという意味で)問題ないが、変化、変革を大きく必要とされた時に事を前に進められない足枷になることは今や考えなくてもわかることでしょう。池田信夫氏が「過剰なコンセンサス」と書いているのはこれのこと。
    これに対して独裁に繋がる、だからハシズムだ、と批判(というより非難)をしている勢力は『「コンセンサスをしない」という「拒否権」』を手放したくない勢力であることは今や誰の目にも明らかになってきている。
    独裁に繋がる可能性があるというのが「論理的にゼロではない」という意味では確かに一理なくはないが、親子関係のアナロジーで考えるとわかりやすい。 最終決定権は親が持っているという意味では親と子は平等ではない。しかし普通にまともに民主的な親ならば、子供が或程度以上に意思決定できる能力を着けてきた以降は、子供の意見に耳を傾けるし場合によれば子供の方が優れた意見でこれを採用するということもする。つまり「決定権」というのは、何でもかんでも全て親が独断で決めるという意味ではなく、「子供の意見を採用する」という選択肢も含めて最終的に決定するのは誰かという点で「親だ」というだけで、または「コンセンサス形成などと悠長なことを言っていられない緊急時」に「誰が責任者かを明確にしておく」という以上でも以下でもないのである。
    このアナロジーで考えるにハシズム批判をしている人達というのは、普通にまともじゃない専横的な親のもとで育った人なのじゃないかしら?と穿った見方もしてしまいたくなる。
    橋本氏の動静を見守っていよいよこれは独裁と呼んで差し支えない毛色を帯びてきたぞ、と思ったら次の選挙で落選させれば良いだけである。これは橋下氏自身言葉の端々に上らせており、これから推察するに橋下氏は「この人に任せておけば安心」と一般選挙民が「お任せ感覚=無関心」になられるのが一番怖いのだと、選挙民の関心を政治に引きつけ続けておきたい、選挙民が政治に関心を持ち続けていくのが民主主義が正しく維持される必須条件で、これを成功体験として選挙民に身に沁みて分からせようとしているのではないか? そうすることで民主主義が日本に初めて根付くと考えているのではないだろうかと思えてならない。刺激的、挑発的言辞を少なからずしている氏ではあるが、「不必要にマイナス・イメージを作っている」と支持者側からも批判のある中、そんなことの分からないほど愚か者で氏がある筈もなく、これはつまり政治への関心度のそもそも低い人の関心をも惹きつけておこうとする計算が充分働いていると考えるべきかも知れない。もしそうなら「あっぱれ!」と言うしかない。
    これに気付くと、この男、我々の想像するより遥かに壮大なことを考えているのではないか、と思えてくる。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. こういう衆愚がハシズムに仕立て上げてしまう危険性は警戒すべきなので、喝采を起こるのも程々にしておいて欲しい。橋下氏ご自身はこういう危険を重々承知していて、この上での言動のようだが。詳しくは後述

    尾崎豊を引き合いに出して語る朝日新聞の社説

    尾崎豊を引き合いに出して語っている朝日新聞の社説が「痛い」とtwitter上で話題になっている。

    社説 http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html?ref=any#Edit2

    確かに痛いと思う。しかし私がこう思うのは朝日の社説のみならず「痛い」と宣っている意見の殆どに対しても。だ。
    あれほど多くの人に受け入れられ支持されていた、とみえていたののに、これほど多くの人に尾崎豊の主張が理解されていなかったのだと分かり愕然としている。
    (もちろん、尾崎ファンの人全ての発言を読んだわけではないし、そもそも尾崎ファンの人全てがtwitterで発言しているわけではないだろうから、期待も含めてその他の多くの人は理解しているだろうとは思うが)

    尾崎は単なる反抗、反骨精神・・・安保やら東大紛争やらの「反抗のノスタルジー」を歌っていたのではない。
    確かに時代として、安保やら東大紛争やらの「反抗の時代」の一世代後の時代で「あの反抗は一体なんだったの?」という馬鹿らしさ半分の自虐的反省のムードが漂っていた時代で、上っ面だけを読み取れば「若者よ再び怒りの剣を取れ!」と言っているように読み取れるが、尾崎の訴えかけていた力点はそこにはない。
    大人社会や体制に反抗するのは若者の特権であり通過儀礼である [1] 。反抗することで軋轢が生まれ、その軋轢を契機にして大人になっていくためのみならず大人の側も変化していける通過儀礼・・・つまり若者の側だけの通過儀礼なのではなく社会全体の新陳代謝の為に必要な通過儀礼なのである。
    社会全体の新陳代謝になるには、若者の「反抗というパワー」を真正面から受け止める「反抗するに値する」大人社会、体制が存在していないと駄目で、これがまともに存在していないじゃないかと、若者の反抗心、反骨精神の持って行き場が無いじゃないかと、つまり「大人達よ、もちっと若者が反抗するに歯応えのある社会を作ってくれよ」と歌っていたのである。

    「じゃないと大人になるになれないまま年齢だけ大人になっていく大人が蔓延した社会になっていくよ」と訴えかけていたのだと私には思え、実にその後の今の時代を見事に言い当てているではないか!

    この大人になるになれないまま年齢だけ大人になっている大人が尾崎を引き合いに出して訓示を垂れているのは確かに痛いが、問題の本質はそこではないのである。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 若者が大人社会や体制に反抗するのはいつの時代にも存在する普遍的な通過儀礼である

    談志は天才肌と評して褒めているつもり?

    また惜しい人を一人亡くした。 立川談志師(以下敬称略)である。
    彼を天才と呼ぶのは簡単である。実際、天才性は備えていたが。

    落語の、というか、噺家の一番大事な真髄だと言える『「キチガイ性」と「理性・知性」のバランス』これの巧妙さが生死を分けるということを誰よりも理解して、また体得するべくの飽くなき戦い(葛藤)を生涯やり続けていた稀有な人である。
    これが「噺家を噺家たらしめる」一番肝心な部分で、これをわかっていない噺家のしているのは「単なる古典芸能」でしかない(つまり、「過去の素晴らしい遺産」として保存はしていく価値はあるだろうが保存する以上の価値はないという意味 [1] 新作の場合は「着物を着て座布団の上で演ってる漫談」 [2] )。

    この「キチガイ文化」が生きていける余地を社会が治外法権として容認していた高度経済成長期以前は別として [3] 、この許容域が無くなったこれ以降の時代 [4] に、この点で比肩するのは桂米朝だけである(故人も含めれば笑福亭松鶴も)。
    談志の方が歳下なのだから「米朝に比肩するののが談志」と言うべきだろう、というご意見もあるだろうが、”本質的な大事な部分が同質” という意味を言いたいので、どっちがどっちでもいい。
    「談志と米朝が同質」と言うと驚く人、驚くを通り越して怒り出す人もたぶん多く居るだろうが、これを、マジシャンが手品のタネ&仕掛けを一切漏らさないように見事なまでに腹の内に収めて外には一切出さなかったのが桂米朝、反対にこれを戯画的演出の部分も含めて外に出していたのが立川談志、という「生き方の手法」が違っていただけで本源の部分は一緒である。
    どっちの生き方も楽ではないが、その生涯を振り返って後者の生き方の方がしんどかっただろうとは言えると思う。このしんどい方を敢えて選んで生き通した人。これが立川談志である。

    非難を多く受けるだろうのを覚悟の上で断定的に言ってしまうと、その弟子をみれば、ご本人の言葉で云うなら「業」を惜しみなく周囲に発散していた談志には志の輔、志らく、談笑など既にその片鱗は垣間見せていて今後「化け物」になっていくであろうと思われる者が沢山居るが、かたや米朝門下には枝雀、吉朝という既に故人となっている二人を除けば「化け物級」は皆無である [5] という点から、隠し通した米朝の功罪や如何に!と思う。
    (もっと厳しい観方をするならば「それを見抜いて盗めていない門下の者が二流なだけ」だが。 [6] )

    「名選手必ずしも名監督ならず」という言い古された名言にあるように、天才肌の師匠からいい弟子が出ていることはあまり多くない。殆ど無いと言っても過言ではない。 これから帰納的に考えるならば寧ろ天才肌なのは米朝で、談志は天才肌ではないと言えるのかも知れない。 実際談志は天才肌であるという世評とは真逆に実に真面目で努力家、研究熱心な理論家だったことは談志ファンの間ではつとに有名で、口座での言葉の端々にもこれが表れていた。 米朝も速記本にしか残っていない、または生き残っていた高齢の師匠方が(ですら)断片的にしか覚えていなかった話(噺)を、掘り起こし色んな資料に当たりつつ復元していったという気の遠くなりそうな作業を地道にし続けていったという点では、他に比類なき努力家であり勉強家であったが、これが他人が応用できるには抽象化(論理体系化)がされていないと「わかるやつにしかわからない」ということになり、後の代に伝わっていくかどうかは偶然によってしか担保されない。この「わかるやつ(枝雀、吉朝)」がたまたま偶然に米朝の弟子になったに過ぎないというのが私の見立てである。 [7]
    この点、談志は理論家だったので体系化が(あくまで談志流であり、かつ感覚的な体系化だったろうが)或程度されていたと考えられる。先に挙げた弟子三者が三様にそれぞれ独自の「落語世界」を築いているのをみるに、その根本に確かな骨組みが無ければ(単なる偶然や幸運で)このような状態が出現することは考えられない。

    噺家・・・一演者として素晴らしかっただけでなく、師匠・・・教授者としても素晴らしかった、これが立川談志であった。

    談志さんに贈る言葉の代わりに以下の師匠自身の言葉を送ります。
    (最後の締めの言葉まで予め用意している談志って、、、涙)

    立川談志「三平さんの思い出」

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 保存するだけなら高画質の映像込みにしても4GBもあれば足りる
    2. 個人的好き嫌いは「あまり好きではない」桂三枝だが、の創作落語は単なる新作ではない。談志を敬愛していただけあって「わかっている」のである
    3. 但し、この考え方は部落差別やハンセン病者差別なども許容するものである点には注意を要する
    4. 建前として無くなったことにしているだけで、かたちを変えて未だに存在しているが
    5. それなりに上手い噺家は少なくないが
    6. 個人的には孫弟子枝雀門下の紅雀はこの点に気付き掛けていて化ける可能性があると感じている。この他にも米朝門下で注目に値するのは枝雀門下に集中している。米朝直下では米二くらいしか居ない。但:ざこばは別格
    7. 枝雀は米朝以外の弟子になっていても(多少かたちは違っていたかも知れないが)化け物になったであろう点に変わりないと思われるが、吉朝は、40歳代以前の若い頃の音源を聞くと「どうだ!おれは上手いだろ!」「おれは他とは違うんだぞ」という空気が噺を通してプンプン臭ってくる実に鼻持ちならない嫌な奴で、だから「うまい」と評する人は少なくないのにカリスマ視する一部の熱狂的ファンにしか支持されていなかったのも当然と言えば当然で、謙虚さ(少なくともそれを聴衆に気取られないよう巧妙に隠すこと)を学ぶ意味で米朝の弟子になっていた必然性はあると感じる

    中国化する日本 (著)與那覇 潤

    歴史を学ぶ意味は二つある。
    人間という生き物は「物語化」を常に欲求している。それはつまり「いま私が生きている意味」であり「これからも生き続けていく意味」である。 これは必ずしも客観的事実に基づいている必要はない、実に心理的な意味付けである [1] 。 であるが、空想の中だけで自分の蓋然性を確保できるほど標準的な我々の日常的に駆使できるイマジネーション力は豊かではない [2] ので、過去を参照して今の自分に繋がっている “自分の物語” を紡ぎ出すのである。 これが一つ目。

    もう一つは、同じ過ちを繰り返さない為・・・これが優等生的解なのだが実際は「歴史は繰り返す」の言葉通り同じ過ちを人類は幾度も繰り返している。「歴史いくら学ぼうが起こることが起きるときには避けられず起こる」という宿命論的いわゆる歴史のサイクル性は確かに存在すると言えるだが、現在〜未来に活かすために歴史に学ぶ。それも現在の都合に合わせた解釈ではない、この意味での客観的歴史研究がなされるようになったのは実はそう古くないのである。
    19世紀、下手をすれば20世紀半ばまでキリスト教圏ではキリスト教的世界観を意識的or無意識的に前提として歴史を解釈していてその残滓は今でも結構根強く残っている。日本に於いても明治政府の皇国史観に明に暗に影響を受けてバイアスの掛かった歴史観が喧伝されたのは割と有名だし、そもそも江戸時代までは歴史というのは物語として面白く書かれることが上等とされ、これは世界各国をみても殆ど同じで史実をそのまま語っている書物は少ないのである。
    かといって、歴史も含め後世に残る情報という次元での情報を為政者が或程度以上コントロール出来ていた時代じゃなくなったならば事実を我々が見通せるようになったのかというと、情報については自由度がかなり上がったと言えるインターネットが普及した今の時代になっての状況は、デマ情報も結構多いという事実は脇に置いても(事実だと判断される情報だけに話を絞り込んでも)「情報の断片」ばかりがやたらに多いという状態。その情報自体は事実であるとしても、それらを只むやみに寄せ集めても真実に近付けないのからも分かる通り、情報を見通していくための知恵というか着想のようなもの(事実をうまく繋いでいける糸のようなもの)が大事なのである。

    [amazonjs asin=”4163746900″ locale=”JP” title=”中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史”]この意味で本書は非常に有効な着想を提供してくるものだと言える。
    著者本人がtwitter上で「登ったら捨ててよい梯子のようなもの」と発言しているように「歴史を読み解くためのツール」として実に有用。
    その行き着く先という意味に於いては後者の姿勢でも、その先で前者「いま私が生きている意味」「これからも生き続けていく意味」に繋がってくる処が歴史の面白いところ [3]

    『「勝ち組」と「負け組」との格差を当然のものとして肯定する市場原理主義がまかり通り』など主題ではない部分に「ちょっと、その決め付けおかしいんじゃないの?」と疑問に思う部分が割とある(読む人が読めば「読者を惹き付けるためのフック [4] 」だとわかるのだが)が、主論に於いては説得力は充分ある。 タイトルも含めてこの種のフックが少なくないので読解力の無い読者に曲解される、または意図的に歪曲して引用される危険性も無くはないなぁと余計な心配はするが。

    先日の拙エントリー「中国人を馬鹿にし過ぎ」で述べた中国人の「金に対する敏さ」「商魂たくましさ」を醸成した一つの大きい理由は、本著の述べる宋代以降中国の伝統となった「経済活動の自由度の高さ」と「思想信条に於いての(逆に)自由は皆無」の状態が同居したことだと説明が付いて個人的にはスッキリと目の前の靄が晴れた感じがした。

    本書も指摘するように封建制時代と我々が漠然と思っている武士の時代、これを正しく見通すことで現在に至る日本の歴史的道筋が見えてくるのだが、はてさてそれでは我々はそれを正しく知っているだろうか? 我々が武士道と呼んでいるものの主体が、明治時代になって江戸時代以前を振り返って純化された「明治という時代のための物語」だと知っているだろうか? [5]

    個人的には織田信長がしようとしていた事、目指していたコンセプトは、その当時も、そして今もかなり誤解されていると以前から思っていたのだが、この考えを改めて強めた。

    2011年11月21日 15:35:勢いで書いたので後で読んで言葉不足を感じた点を加筆(文意に変わりはない)。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 夢の中に意味が見出せる場合があるのはこれ故であるが、意味のある夢が意識側の都合に合わせて出てきてくれることは滅多にない。
    2. これが意識的に出来るなら間違いなく小説家になれるであろう
    3. 余談だが映画「タイム・ライン」は面白いでっせ
    4. 「読者の興味をひきつけるための刺激的なキーワード」という意味。つまり筆者の真意は其処にはない。
    5. 江戸時代に武士道と呼べるものが無かったという意味ではない。在るには在ったが我々が今日認識している(少なくとも世俗一般の)イメージは随分違うのである。

    大阪市政のこれから…橋下氏と平松氏

    私は橋下氏および大阪維新の会支持である。
    その実現しようと提言している内容も概ね賛同できる。
    細かい点に於いては異論点も無くはないが、一番肝心な点で橋下氏は○、平松氏は×だと判断を下している。
    この根拠として先ず以下を精読頂きたい。

    池田信夫 blog : 効率の高すぎる政府
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292556.html

    この記事で述べられている旧来型の日本で主流の組織、集団のあり方「閉じた系の中での “ご互さんゲーム”」が既に時代の趨勢として通用しなくなっている(それが寧ろ経済停滞の主原因になっている)システムであるという点は国政だけでなく大阪市政、大阪府政に於いても全く同様に当てはまる問題である。
    「国が変わるのを待っていたらそれより先に地方が沈んでしまう」というのが橋下氏の基本的問題意識 [1] で「ならば、関西圏で独自に変わってしまおう」というのが彼および大阪維新の会の一番根っこにあるコンセプトである。
    では、どう変わるのか、どう変えるのかという設問が次に自ずと出てくるわけであるが、これを理解するために以下もご精読頂きたい。

    池田信夫 blog : 局所効率化と全体最適化
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292560.html

    ここで述べられている「コーディネーションの失敗」が正に国、地方を問わず経済界をも巻き込んだ大問題として膠着状態に陥っているのが現在の日本の姿であるわけだが、これから抜け出す方策(引用文中で言う「Bの山(局所最適)からAの山(別の局所最適)へ移動」する方策)は同じく文内で説明されている通り「部分的な修正」「時間を掛けて徐々に変化」では不可能なのである。 大事な点なので同文章内から吹き出すと、

    一つの均衡から他へのシステム間移行は、市場メカニズムで行うことはできず、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こるということになる。ところが同質的なメンバーで構成される関係依存型の「総動員体制」では、突然変異や撹乱が抑制されるので、システム間の移行は困難になる。しかも危機に直面すると、「日の丸検索エンジン」のように、逆に総動員で既存のシステムを守ろうとする傾向が強い。

    だから前の記事にも書いたように、行政の中だけの局所的な効率化を考えていてはだめで、全体的な最適化を考える必要がある。それは市場だけではできないので、重要なのは意図的にシステムを撹乱し、さまざまな実験を行って最適解をさがすことだ。そのために役所にできる最善の政策は、規制を撤廃して行政の代わりに資本市場のガバナンスにゆだね、紛争を事後的に低コストで処理する司法的なインフラ(ADRなど)を整備することだろう。

    箇条書に要約すると

    1. 局所均衡から抜け出すのには市場メカニズムだけでは不可能
    2. なぜならば、局所均衡の恩恵に浴している者(既得権益保持者)は他に「より良い局所均衡がある」と分かっていても今ある既得権、今まで費やしたコスト [2] の見返りの可能性を失う方を恐れて頑な反対勢力になりやすい(サンクコストの問題)
    3. であるので、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こすしか選択の余地はない
    4. この後は、さまざまな実験を行って最適解をさがす状況が出来るよう行政の事前介入(規制)を無くす必要がある
    5. その代わりに資本市場のガバナンスにゆだねる
    6. 資本市場のガバナンスにゆだねると必然的に起こってくる問題はあるが、これは司法的なインフラで事後的に処理するべき
    7. この為、司法的なインフラの整備は必須

    簡単に言えば、問題があると既に分かった局所最適=Bの山は意図的に潰して [3] 平地にしてしまえば別の局所最適に向かわざるを得なくなるので、第一段階として「Bの山を潰す」必要が、そしてこれに次ぐ第二段階として新たな局所最適に向かう過程は基本的に自由競争(市場原理)に委ねるので「事後的チェック機能=司法的なインフラ整備」は必須ということである。

    本題に戻って、「大阪市職員と協調的に穏便に改革を進めていく」と方針している平松氏の主張は日本人的には「美しく」感じられ、かたや抜本的かつ一挙に改革をしようと提言している橋下氏は「強引」で「乱暴」だと感じている人も多いだろう。 しかし上述の論を読まれた後では今や状況として「強引」で「乱暴」とも受け取れる [4] 改革をするしか選択の余地が(少なくともこのまま凋落したくなければ)無いのであるとお分かり頂けるであろう。 かたやの平松氏の方針は、ご当人がその意図で動いていないとしても結果的に、既得権益保持者を温存することであるのは明白であるのみならず、中途半端にいじろうとすると寧ろ混乱が増すという点で×なのだ。

    いま状況が必要としている改革が「強引」で「乱暴」なもしかないのであって、橋下氏個人が「強引」で「乱暴」なのではないということ。この点を履き違えては大局を見失う。
    然るに、ものの見事と言って良いほど、反対勢力(既得権益保持勢力)は「ハシズム」と呼称して橋下氏個人を「強引」で「乱暴」な独裁者であるかのように論理をすり替えて有権者の反感感情を呼び起こすキャンペーン [5] を張っているのは、何をかいわんやである。
    また同じく反対勢力が独裁的と攻撃している公務員制度改革であるが、これも内容をよく検討すれば「事後的チェック=司法的なインフラ」を整備すると言っている以上でも以下でもないのである。
    このように概観してみると橋下氏が提言している内容は考え方に一貫性があり、かつ時代の要請に沿ったものであると結論付けられる。
     以下も参考になります。

    「大盛り上がり」大阪決戦で問われる改革は「アメリカ型」か「EU型」か | 高橋洋一「ニュースの深層」
    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26364

    池田信夫 blog : 日本の経済システム改革
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292557.html

    本題を離れてより本質的なことに言及すると、上述の論を読んで頂けた後ならば、これは大阪市&大阪府だけの問題ではなく、また日本の国政の問題なだけでもなく、我々日本人が文化的に好しとしてきた・・・解決策を考えるよりも問題がそもそも起こらないよう思考(志向)しやすい性質であり、これはイコール問題が起こると直ぐに規制(事前介入)強化をお上に期待・要求する思考法・・・考え方(美意識も含むかも知れない)が変革を余儀なくされているという問題意識をも持って頂けると思う。
    特に教育関係者諸氏には上述の論と共に以下に引用する記事中の

    私は大きな失敗はよくないと思うが、小さな失敗はむしろ好ましいと思う。イノベーションは、小さな失敗の積み重ねだ。イギリスの産業革命は、試行錯誤と失敗から生まれたのだ。これは「ブリコラージュ」と呼ばれる発見的な過程だ。あなたは小さな失敗を積み重ねることによって新しいことを発見するのだ。 だから日本人は、小さな失敗を許すべきだ。

    という言葉をよく噛み締めて頂きたい。「小さな失敗」に神経質になることが「大きな可能性」の芽を摘んでいることに気付いてい欲しい。

    池田信夫 blog : タレブ、福島事故を語る
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51742840.html

    2011年11月17日 00:52 一部加筆(文意は変わっていない)
    2011年11月18日 19:32 追記:一部twitter上で意味を取り違えて炎上している人達が居るみたいなので念の為に補足すると、皆で登っている木に喩えると「今までの木(局所最適B)」は腐ってきていて、部分修正や部分補強での時間稼ぎ(問題先送り)でどうにか凌げるレベルをもうとうに過ぎてしまっているので「より最適な(少なくとも今よりはマシな)木」に「登り直そう」と言っているのが橋下徹氏である。であるので今までの木の上の方に登っている「いい目をしている」人達はいつまでも降りようとしない(のは或る意味当然だが)上、問題が深刻化してきている現段階となっては木から降りるよう呼びかける穏便な手法を取っていられる時間的猶予は最早無くなっているので「古い木を切り倒す強行策に打って出るしかなくなっている」のが現状であるということ。「木にしがみついて降りようとしない人達」から見えている風景は「自分達が登っている木を切り倒そうとする乱暴者」に映ることは容易に想像できよう、が、この現状認識さえわかれば「いつまでも降りようとしないお前達が悪い」という話であることはお分かり頂けよう。 対して「木から降りるよう根気よく説得を続けていく」と言っているのが平松氏なのだが「今までの木(局所最適B)」に満足している人達はそれが完全に破綻するまでそこから離れようとしないというのは歴史が教えるところで、時間的猶予が全く無くなっている現在では最悪の選択なのである。 新たな木に登り直す時に不平等が出ないように機会均等の所々の知恵も同時に提言している点からみても橋下氏は木を切り倒そうとしているだけの乱暴者ではないことは明白。また、新たな木に登り出してみてはじめて認識できる所々の問題 [6] が出てくるであろう予想は出来るわけだが、これについても「実際の運用に際してのルール作りは柔軟に」と橋下氏は表明しているので、全然暴君でも独裁者でもないのである。
    念の為に更に付言するなら、腐り始めていてこのままでは危ない木は「もっと腐っていよいよ倒れ始めた時には被害者は遥かに多くなる」ということ、つまり「その時には、今手を打てば救える人をも救えなくなっている」ということを強く認識するべきである。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. はじめて大阪府知事選に出馬する段階で表明している
    2. 仲間に入れて貰おうと費やした努力等も含む
    3. しまわないとその山の上に居るものはいつまでも降りようとはしないので。また、この山を形成している要件の中に行政の事前介入(規制)も含まれていることに注意されたし。
    4. 特に既得権益保持者には
    5. 情緒的反応を呼び起こして大事な論点から有権者の目を逸らせてしまう「はぐらかし戦法」
    6. 登り出してみないとわからない問題
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