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ひとは美しい物語に弱い

最初聞こえて来たのは「作曲はゴーストライター」という話と、週刊文春に告発記事を書いたライターの神山氏がTVのインタビューに答えて佐村河内守氏の新垣隆氏への指示書のコピーを示して説明していたのを観ただけだった。
神山氏の示した指示書は紙一枚ではあるが、ビッシリと曲のダイナミクスをグラフ的な図表で示したり言葉でイメージを記していたり、僕個人の印象ではかなり壮大なイメージがこの紙一枚で説明されていると感じたので、この段階で思ったのは・・・作曲という営為をしたことのある方なら全員理解してもらえるだろうが、頭の中では非常に素晴らしい音が鳴っているんです(これすらない人は音楽的センスは微塵もないと断言できる)が、これを外に、他人に伝わる形で出力されたものを示せない限り「作曲」と認めて貰えないという或る意味悲しい現実が在る、この線が先ずあるということ。この点では先述の指示書を見た限りでは「これはこれで作曲の一つと呼んでも良いではないか」と思いました。楽譜というかたち、また最終形態の音楽そのものではないので、そこまで持っていったのは新垣氏なので作曲への付与度というのを考えた時に、佐村河内氏の付与度を50%以上と考えられるのか?的な発想もありつつ、と同時にインスパイアを与えてくれる良いアイデア、構想がないと陳腐な曲しか出来ないというのも事実で、この点では構想をもたらした佐村河内氏が「全く作曲していない」的に伝えていた多くの報道は言い過ぎな感じと思いました(音楽のことが全く分かっていない大多数の一般人がこういう捉え方をしてしまうしかないのは仕方ないとは思いつつも)。 つまり、この段階では「共作曲者として新垣氏をクレジットしていれば何の問題なかったのでは」という極々常識的なものでした。
ただ、と同時に、世間で評判になり始めた頃に聴いて、大したことはない、少なくとも評判になるほどの曲クオリティーではないと思っていた(今これを言っても後出しジャンケンになってしまいますが)ので、それとともに語られる物語で売れているのだなぁと思っていました。
まぁ、これも例えば秋元康などが典型ですが、マーケティングの一環としての物語というのは古くから在るありふれた手法で、この意味でありなんだろうなと、賛同はしませんけど否定もしません。

作曲家の”嘘”と視聴者の期待
http://blogos.com/article/79669/

この記事を読んでいて想起したのですが、佐村河内守氏の物語に乗っていた人達というのは団塊の世代が圧倒的に多いのじゃないかしら?ということ。
こう考えるとすぐさま続けて想起されたのが、「あの頃、ビートルズを熱心に聴いて支持していた人達というのは、アマチュアを含め音楽活動をしているとかアートに敏感な一部の人達だけで、若い人も含めて圧倒的多数は聴いてみもしないで“ビートルズは不良の音楽だ”“ビートルズなんて不良しか聴かない音楽だ”と言っていましたよ。それが、その後ビートルズが20世紀を代表する偉大なミュージシャン集団だという世界的評価になった、つまり大人になった段階になって、さもあの当時から聴いていた風に“俺たちビートルズ世代”などと、そして“わかっていない大人たちが不良の音楽呼ばわりするもの我々は聴いて大人になったのだ”と言っていますから、団塊の世代と呼ばれる彼らはそういう人達なんですよ」と語った浅井慎平氏の言葉です。
これは来日当時、唯一指名されてステージ以外のシーンも含む全ての写真を密着して撮影することを許可された氏が、ジョン・レノンが亡くなってしばらく後にビートルズの足跡を振り返る的な番組でインタビューに答えている一幕で語られた言葉です。

1960年代安保闘争〜学生運動といい、脱原発、卒原発、原発即ゼロといい、自分を美しく粉飾する物語に酔い続けて死ぬまで反省はないのだろう。
個人の趣味の範囲であるなら、それは個人の自由であるから、、、と、こう考えると今回の佐村河内守氏の事件は、大して実害のない非常に小さなものに思えてきた(というか最初からそう思ってる)。食品産地偽装事件と同じくで、騙す行為それ自体は悪いことと言わざるを得ないものの、物語に騙された方も方で莫迦というだけ。


大飯三号・四号機にはベント機能自体がそもそも必要ない

中途半端な知識で知ったようなことを、それも東京新聞・中日新聞論説副主幹という立場の人がこういう公性の高い場所で書くのは如何なものか。

フィルター付きベントも防潮堤もないのに「事故を防止できる対策と対応は整っています」と大飯原発再稼動に踏み切る野田首相。 政治と官僚の迷走、ここに極まれり! | 長谷川幸洋「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32792

以下の動画を観れば分かる通りPWR型(加圧水型)である大飯三号・四号機にはベント機能自体がそもそも必要ないのですよ。
より詳細に言えば、燃料棒に使われているジルコニウム量が少ない、格納容器が五倍のサイズである事などから、ベントが必要になるような状態の発生閾値が高い。言い方を換えるならば、ベントが必要になるような状態にもしなった時はベントどうこう以前に他の部分がもっと深刻な状況になっているの。 この点が、ベントを適切な段階で実施しないとより悪化した事象が発生するBWR型(沸騰水型)とは大きく異なる。

また「防潮堤云々」も、今回の福島事故というよりは東日本大震災から得られた教訓は、いくら高い(または強固な)防波堤、防潮堤を作っていても、無限に高い防波堤・防潮堤は作れないので、その想定を超えた津波が押し寄せれば何の意味も無いので、ここに金を注ぎ込むのはあまり賢いやり方ではない。それよりも水が押し寄せても大丈夫な作りにしておいた方が良い(浸水する前提で気密性・耐圧性を上げておいた方が安全面、コストの両面で良い)ということなので、この観点での対策は少なくとも大飯三号・四号機には施されている(と同ビデオを観ればわかる)。防潮堤の高さが十分であるか否かの議論自体があまり賢い議論でないのである。

まぁ日本のマスコミでは寧ろ当然に近い(というのは情けないのだが)、「”原発際稼働は危険”という結論にしたい意図」が先にあって、これを結論付けるためによく調べもしないで記事を書いているのだろうけども。

2012年7月2日 09:34 追記:entry後、普段観ない朝のワイドショーを観てたら、大飯三号・四号機に「フォルター付きベント機能を付ける予定になっている」そうな。飲みかけたコーヒー吹いた! 先述の通りPWR型にはベント機能は実質的に意味がない。だから付けていないのだが、これをきちんと技術論理的に説明をすることよりも、意味の無いベント機能を付けて気分的に安心する大衆に迎合したことのようだ。アホか。 いや実際アホだ。 工業系学校で学んだ人は元よりちょっとした以上の工作をしたことのある人なら知っていることだが、一旦完成したものに後から手を加えて造作をすると必ず強度&整合性は低下する。それが精密な精度を要求されるものであればあるほど、この強度低下は結構デリケートな問題になる。こんなこと工学的常識。 雰囲気として(科学的根拠の無い)安心を得たい人々に迎合することを完成度の高い原子炉の強度を犠牲にして実現しようとする。これを愚行と呼ばずして何と呼ぶ!

私がなぜ原子力発電推進なのか

私がなぜ原子力発電推進派なのか簡潔に示します。

  • これから世界は、中国、インド、そしてアフリカ諸国が繁栄の方向へ向かおうとしていることで爆発的に電力を必要としてきつつある。
  • 日本を含めいわゆる先進国はこの二世紀の間、化石燃料を潤沢に使って社会を繁栄させて来た。
  • 原子力発電という選択肢を無くすと、彼らには化石燃料(特に安価な石炭)という選択をするしかなくなる。
  • そうなると地球温暖化、地球規模での大気汚染の問題は今以上に深刻な問題になる。
  • 今までの二世紀にわたって先進国はさんざん化石燃料を消費して我が世の春を謳歌して来(しかも,その間は欧米列強諸国以外にとっては植民地化されていた歴史でもある)ておいて彼がその番になった時に「地球環境保護」の美名の基にこれに制限を加えようとするのは手前都合勝手な言い分ではないのかという問題がある。 [1]
  • ただ残念ながら、現状ではインド以外、中国も、ましてやアフリカ諸国では現在実用化されている複雑&大規模な原子力発電プラントを安全にオペレートし続けて行く能力は持ち合わせていない。
  • ので、原子力発電プラントは今以上に技術革新を遂げる必要がある。 [2]
  • この意味での最先端の技術&ノウハウの蓄積は、フランス&日本の寡占状態である。
  • 「世界唯一の被爆国」である日本には「核兵器と結び付かないクリーンな原子力」というイメージが持たれている(彼らの過大な幻想の部分もあると日本人からは冷ややかに言える面も在るが)。
  • 反対に核兵器を持っているアメリカ、フランス、(ましてやロシア)の影響下で原子力発電プラントを持ちたくない(政治的|情緒的)思惑もある。
  • ので、その技術プラスαな「ブランド力」が日本にはある。
  • 現段階で日本が原子力開発から降りたら、今まで「日本は世界唯一の被爆国」と言って、その平和的利用の牽引役をしていた(と彼らはみている)のから、しかも彼らがこれを必要とし始めた矢先という最悪のタイミングで降りるのは「無責任」と映る。 [3]
  • 反対に原子力発電プラントを今以上の技術革新を遂げさせる責任は日本にあると期待されている。
  • 彼ら独力で安全にオペレートできるようになるまでノウハウの伝授を含めた総合的な支援をする役割を担う責任が日本にはある。(彼らはそう期待している。)
  • その日本で原子力発電プラント事故が起きたことは、これをどう始末付けるのか・・・未来に繋げる教訓を得ようとするのか、なし崩しに逃げてしまうのか・・・注目されている。
  • つまり、いま原子力開発から降りるのは、「世界、特に途上国からの期待を裏切る行為であるので日本の国際的プレゼンス向上のチャンスを逃すだけでなく失墜すらしかねない」「せっかくの大きい国際的ビジネスチャンスをドブに棄てるに等しい」という国際貢献、金儲けの両方で大損をするのは愚か以外のなにものでもない(この二者が両立することは滅多に無いし)。

ビル・ゲイツは第四世代原子力発電プラント(今までのものよりコンパクトかつイージー・オペレート)の開発ベンチャーに多額の投資をしている。流石はビル・ゲイツと言うべきだろう。個人的にはビル・ゲイツは好きではないが、先見の明ありと評価するべきと考える。

TED RANDOM「「ゼロへのイノベーション」 ビル=ゲイツ、エネルギーについて語る。」
http://tr.loopshoot.com/id/767

2012年6月8日 23:25 追記:
一定以上の便益を備えているテクノロジーに於いて、それを凌駕するものに置き換わられたのでない限り、皆が「もう終った」「将来は無い」と言っているとき、こういう時こそ最大のブレークスルーのチャンスなのだと、直観的にそう思う。 もしかしたら、これが一番言いたかったのかも知れない。

2012年6月10日 05:24 追記:
先のエントリーで紹介した動画の中の細野大臣に報告書を渡す会見の模様を伝えたもの「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか – YouTube http://www.youtube.com/watch?v=Agp1amvBv94&feature=plcp」,この会見終了後(YouTube動画ではカットされていますが)当日USteamで生放送されたもので、細野大臣が退席した後、大前氏が質疑応答に答える中で「この報告書で指摘した問題(福島事故の反省点)を真摯に受け止め改善に盛り込む姿勢が政府に見られないとなった時は、私は反原発・脱原発の側に回ります」と強い調子で述べております。私もこの大前氏のスタンスに全面的に同調する者で、「何が何でも原発推進」「無批判に原発賛成」ではないと、「原発推進賛同派だからこそ厳しい目で見つめ続けるべき」と考えると明言しておきます。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. この点に関しては、先進諸国でマラリアがほぼ根絶できた途端「毒物だから」とDDT使用を全面禁止にしたのと同根の問題。これを厳しく糾弾していた武田邦彦氏が今やあっちの世界に行ってしまったのは残念
  2. 核兵器開発に繋がる可能性は(今でも)あるので、わざとイージー・オペレートなものを作ってこようとしてこなかったという側面もある
  3. 視点を変えるならば、原子力開発から日本が逃げてしまったなら、これ以降「日本は世界唯一の被爆国」という枕詞は一切使えなくなると心得ていた方が良いとも言える。反原発派もこの枕詞をさんざん使い倒して来た功罪を猛省すべきだ

印象誘導の典型「幇間論法」

これを幇間話法と名付けよう。

元官僚の古賀氏の発言が不穏当(または不適切)だとの批判が集中しているが、この動画を見る限りに於いて問題なのは古賀氏であるよりもこの玉川徹って野郎(および雇い主であるテレ朝)ですぜ、皆さん。

過去にTVの取材を何度か受けた経験から、ここで池田信夫氏が述べている通り「言わされてしまった」可能性が高いと思う。 彼らの取材の仕方の定石として
「もし、仮に、、、”仮に” ですよ。仮定として、可能性として “こういうことが考えられる” という、あくまで仮説として○○ということは考えられませんか?」
(○○の部分は具体的に述べてしまうと,後で「あれは言わされたんだ」と言われてしまうと拙いので、あくまで抽象的に匂わせるように、あくまでぼかした、だが確実に匂わせた言い方をする)
と自分たちの言わせたい(言って欲しい)コメントを言わせるよう言わせるよう、しつこいくらいに誘導的訊ね方をする。 [1] 更に都合の良い部分だけを編集で切り貼りするのは周知の通り。
とはいえ、官僚時代からこういう彼らを相手した事ない筈はなく、誘導的訊き方をする事は知っていない筈のない古賀氏の場合、迂闊との非難は最低限逃れ得ないだろうが。

冒頭部分の玉川徹のことばを書き起こしてみる。

つまり、だって関西だって、例えば、もしかしたら、国民感情の反発とかがあってね、原発動かないかも知れないって、私だって思ってた訳だから・・・だったら供給責任があるんだから、こっち(筆者中:関西電力)だって増やしておかないといけないんじゃないかなと、いう風に、思うのが普通だと思うんですけども・・・

こう書き起こして「書き言葉」になると「あれ? なんか詭弁」と分かるのですが、ここが「話し言葉」の怖いところ。

巧妙なポイントその1・・・断定を避ける

注意深く観れば(聞けば)分かる通り、この玉川なる吾人は一切断定を巧妙に避けている。曰く「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」・・・。

巧妙なポイントその2・・・「私だって思ってた訳だから」

これを幇間話法と名付けよう。 「私だって」つまり「私ごときが」 → 「私程度の人間でも」 → 「私程度の低レベルな人間でも」そう思ったのだから、私より賢い皆さんが思わない訳ないですよね。と相手の自尊心を楯に取って「いや、違う」と言い難い空気を作って封じておいて、同意したかの如く話を先に進める(実は同意していないのだが同意したような気分にさせられてしまう → 「Noと言っていないのはYesの意思表示論法」)。
しかも、これはポイント1の「断定を避ける」と組み合わさることで巧妙さを増す。つまり「私は断定できるほど賢い人間ではないのでああいう言い方をしたけども、あなたは賢いのだから・・・後は云わなくても分かりますよね?」と言外に言っていると仄めかしているのである。 インテリぶりたい虚栄心の強いプチ・インテリほどこの仄めかし(誘導)に乗せられてしまいやすいのは、ご想像の通り。 [2]
これは(男性もするが)女性が用いることの多い話法で、曰く「国立大学を卒業なさっている○○さんは、三流私大出身の私なんかより世の中のこともよくご存知でしょうから、こんなこと知らない筈ないですよね?」という風に。だから引用の記事にての池田氏の「専業主婦」云々は不穏当で非難を呼びやすい表現であるかも知れないが言っていることは強ち間違っていない。 普段からこの話法を使い使われして適応している人ほど、この話法の罠にはまりやすいので、主婦層をメインターゲットにしているこの手の番組でこの話法を使うのは合理的と云えば合理的。

巧妙なポイントその3・・・「だったら供給責任がある」

この前段までは「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」と仮定(実際には話者>玉川徹の私見、予断)だった筈の話が、この「だったら」という接続詞を用いることで既定事実であるかのように印象がここで変わっているのに気付かれただろうか。 更にこれに「供給責任」という言葉が結び付けられていることで「供給責任があるのだから、”もしかしたら、国民感情の反発とかがあって、原発動かないかも知れない” と考えて当然だ」と帰納的に考える誘導をされているのである。 これは論理的には正しい帰納ではない(つまり帰納でもなんでもない)。のだが、この手の誤った帰納は情緒に於いては寧ろよくあることなのである。
では何故、こういう論理的に考えられればおかしいと気付く論法にまんまと引っ掛かるのか。それは「人間の脳内の情報処理は論理に依るより “イメージに” “より根源的に依拠” するから」である。 論理はあくまでイメージを事後的に整理、分類、分析するための補助機能でしかないのです。

上記3ポイントを駄目押しする「のが普通だと思うんです」

この「普通」という言葉。 通例、「自明なこと=改めて説明するまでもないほど明らかなこと」を述べる時に使う接頭辞で、この点に於いては洋の東西を問わず共通。 英語でも「ordinary」「commonly」「normally」という表現があるが、欧米圏では自明であるとコンセンサスが成立していない事象に対して迂闊にこれを使うと即座に「お前の云う “普通” とは何に基づくのか?」「何を称して “普通” と云うのか?」「”普通” と云って良いほどコンセンサスは成立していないと思うが?」と突っ込まれる。
欧米圏のようにきちんと明示的にコンセンサスを積み上げる文化の脆弱な日本でも「自明な事=普通」という表現が使われるのは論理的に考えればおかしいことであるが、日本人>同質幻想に基づいているのだろう。

ここまでの私の分析を読んだ上で古賀氏のインタビュー部分だけを観たら、随分印象が違ってくると思うのだが、どうだろうか?
再度繰り返すが、如何に誘導されたにしても、ここまで言ってしまった古賀氏は批判されて当然である。この点は誤解なきように。

原発関連で、この手の詐術的、欺瞞的レトリックを駆使している一番有名人である安冨歩と同時期に京大に通っていたのは単なる偶然だろうか?

以下 wikipedia より
玉川徹
1987年、京都大学農学部農業工学科を卒業し、1989年、京都大学大学院農学研究科修士課程を修了

安冨歩
1986年 京都大学経済学部卒業
1991年 京都大学大学院経済学研究科修士課程修了
1993年 京都大学人文科学研究所助手

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 個人的印象と断った上で述べると、この誘導的傾向は、TBS系(含む毎日)、テレ朝(朝日放送は含まない)が特に強い。
  2. 「東京電力の方がましに思えてきた」とコメントする女性コメンテイターは、まんまとこの操作に乗せられている。もちろん、予めこう云うように打ち合わせていた可能性もある

The Enemy Within

ソースごと丸々コピー。・・・って、引用の域を遥かに超えて「他人の褌で相撲を取る」以外の何物でもないのだけど、
恐らく「読んでほしい人はリンクをクリックして(新たなページを開いて)まで行動を起こしてくれない」と思っちゃう(単なる老婆心?)ので [1] 、こういう手段に出させて頂きます。無作法ご勘弁を > 弾さん<(_ _)>
(一番読んで欲しい人は、そもそも本サイトに興味すら示さないだろう、、、と言ってしまえば身も蓋もないけど)

MixClips経由で見つけた記事なのだけど、実はWikipediaのコピペ。

これってどこのPOP*POPだよと思いつつも、内容そのものは面白いので超訳的注釈をしてみることに。ただし私は心理学と社会学は筒井康隆に教わった点をよろしく割引のほどを。


  1. バンドワゴン効果 Bandwagon effect – 周囲の人が信じていることを、自分もいつの魔に信じてしまう効果
  2. 偏向の盲点 Bias blind spot – 自分自身の認識偏向(cognitive bias)は放置するという傾向。
  3. 選択支持偏向 Choice-supportive bias – 自分が選んだものは、そうでないものよりもよく見えるという傾向。
  4. 確認偏向 Confirmation bias – 思い込みを支持する情報ばかり確認したがるという傾向。
  5. 合同偏向 Congruence bias – 仮説の検証の際に、直接検証ばかりする傾向。補足すると、仮説Aの検証の際に、仮説Aの反証がありえないかの確認を怠る傾向。
  6. 対照効果Contrast effect – 直近に受けた別の出来事の印象によって、その出来事の印象が実際以上に強く感じられたり弱く感じられたりする効果。
  7. 専門バカ偏向 Déformation professionnelle – 自分の専門分野からの視点が強すぎて視野が狭くなるという傾向。
  8. 反確認偏向 Disconfirmation bias – 以前からの思い込みに反する情報をシカトしてしまう傾向。
  9. 所持効果 Endowment effect – いったん自分のものとなったものは、それ以前よりも価値が高く感じられるという傾向。
  10. 焦点効果 Focusing effect – ものごとの特定の一面を注視してしまうという現象。一事が万事効果。.
  11. 双曲線割引 Hyperbolic discounting – 直訳スギ失礼。明日の100万円よりも今日の100円を大事だと思う傾向。なぜ双曲線なのだろう。反比例の曲線から?
  12. 支配幻想 Illusion of control – ものごとは支配可能か、そうでなくても何らかの影響を与えることは可能だと思い込む傾向。
  13. 衝撃偏向 Impact bias
    ある出来事の将来への影響を過剰に見積もる傾向。たとえば「犯罪の増加」など。
  14. 情報偏向 Information bias – もう行動を変えるには遅すぎるのにもかかわらず、その行動に関する情報を集めてしまう傾向。
    「インフォメーションバイアス」とはちょっと違うようだ。受験の後に参考書を読むようなこと。
  15. 損失回避 Loss aversion – 収益を得るよりも損失を回避する方に注力する、すなわち機会損失を軽視したがる傾向。
  16. 確率無視 Neglect of probability – 不確定な状態において、確率を軽視または無視する傾向。
  17. 「おなじみ」効果 Mere exposure effect – ただ見慣れているというだけで、根拠のない好感を感じてしまう傾向。
  18. 省略偏向 Omission bias – 同じだけ害がある場合でも、害のある作為の方が害のある不作為よりも悪いことだと感じてしまう傾向。
  19. 「勝てば官軍」偏向 Outcome bias
    ものごとを、当時おかれた状況ではなく、その後の成り行きで判断してしまう傾向。
  20. 計画錯誤 Planning fallacy – 締め切りを甘く設定しまう傾向。[ごめんなさいごめんなさいごめんなさい>各方面]。
  21. 入手後正当化 Post-purchase rationalization – 手に入れた後に、それを手に入れたことは正しかったのだと自分を納得させる傾向。配偶者とか:-p
  22. 疑確定性原理 Pseudocertainty effect – 収支予想が黒字の場合にはリスクを避けるのに、収支予想が赤字の場合リスクを取りに行こうとする傾向。安物買いの銭失い。
  23. 選択認知 Selective perception – 期待を認知に反映させてしまう傾向。「がんばれ、ニッポン」とか?
  24. 現状追認 Status quo bias – ものごとはそれほど変わらぬ方がいいという傾向。壊れてもないもの直すべからず
  25. フォン・ラストルフ効果 Von Restorff effect – 違うものは似たものより覚えられやすいという効果。田中一郎よりR.田中一郎の方が覚えられやすいということだろうか。
  26. ゼロリスク偏向 Zero-risk bias – 100のリスクを10にしてリスクを90下げるより、1のリスクを0にする方を好むという傾向

うーん、全部それなりに思い当たるのだけど、26も覚えてられるかという私はFocusing Effectが強すぎるのかしらん。

でも、一番秀逸なのは、コメント欄のこれかも。

26 Reasons What You Think is Right is Wrong

This makes me think that Wikipedia is therefore wrong:

http://www.otherworldvision.com/why-wikipedia-will-never-reach-quality/

So, what’s wrong with thinking them right if they are all wrong anyway :-?

Dan the Biased — Usefully, Hopefully

もちろんのこと、自分自身への戒めとして公然としておく次第です。

追記:2012年3月14日18時50分 改題

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 読む必要が無い人はたぶん、もうとうの昔に同エントリーのことは知っているだろう・・・2007年05月のエントリーだもんね

恐れるべきは恐怖に憑依されること



32年も前に発っせられていた警句が、今頃になって我々の心に突き刺さるとは、、、ニール・ピアトさん脱帽です。

“Witch Hunt (Part III of Fear)”
Lyrics by Neil Peart

The night is black
Without a moon
The air is thick and still
The vigilantes gather on
The lonely torch lit hill

Features distorted in the flickering light
The faces are twisted and grotesque
Silent and stern in the sweltering night
The mob moves like demons possessed
Quiet in conscience, calm in their right
Confident their ways are best

The righteous rise
With burning eyes
Of hatred and ill will
Madmen fed on fear and lies
To beat and burn and kill

They say there are strangers who threaten us
In our immigrants and infidels
They say there is strangeness too dangerous
In our theaters and bookstore shelves
That those who know what’s best for us
Must rise and save us from ourselves

Quick to judge
Quick to anger
Slow to understand
Ignorance and prejudice
And fear walk hand in hand…

拙訳:
月灯りひとつなく暗い夜の闇
動かない空気は重苦しく
自警団員たちはひとつになって
ただ松明だけが斜面を照らす

かたちが歪んで見えるのは揺らめく灯りのせいなのか
その表情はグロテスク
うだるように暑い夜の「静けさ」と「情け容赦無さ」
暴徒は悪魔に取り憑かれたように進み
良心は沈黙し、“正義”の前におとなしくなる
この選択が最善と確信するゆえ

憎悪と病的意志に燃え上がる瞳には
いよいよ正しいとしか映らない
狂人たちは恐怖と嘘を喰って生きる
打ち倒し、焼き払い、殺すことを手段にして

人々は言う「我等を脅かす異分子が居る」と
“異邦人”“異教徒”というだけなのに
人々は言い立てる「危険過ぎる正体不明がそこにある」と
“劇場”“書店の棚”に(在る知識であるのに)
何が我々にとって最善かを知っていると称する人々は
きっと我々を暗愚から救い、導いてくれるに違いない

安易に怒り、安直に裁く
そのくせ理解するのは遅い
無知と先入観と恐怖は
いつも手と手をとりあって歩いていく

Moving Pictures
Studio album by Rush (wikipedia: Rush(band))
Released:February 12, 1981
June 3, 1997 (remastered CD)
Recorded:October – November 1980 at Le Studio, Morin Heights, Quebec
Genre:Progressive rock, hard rock
Length:40:07
Label:Anthem (Canada), Mercury
Producer:Rush and Terry Brown
http://en.wikipedia.org/wiki/Moving_Pictures_(album) より


プラセーボ投薬社会実験の提言

問題が出るわけない低線量被曝で「鼻血が出やすくなった」「激しい咳を伴う症状が出るようになった」と、そして「これが内部被曝の影響だ」と言い出す人が後を絶たない。中には「医療機器で体内から多くの放射性物質が測定された」言い出す人も出ている。
そもそも事実無根のデマである可能性も当然あるわけだが、今論じたいのはこの点ではない。
また、この医療機器と称するものが本当に信頼性のある医療機器として担保されたものであるどうか自体疑わしいわけ(もし仮に医療機器自体は確かなものであっても精密医療機器というのは大概がそうだが、適正な操作手順で執行されたかどうかもかなり大事)だが、この点も論点ではない。
仮にこれらの A群:「鼻血が出やすくなった」「激しい咳を伴う症状が出る」、B群:「体内から多くの放射性物質が測定された」 という事象は事実であったとしてしても、AとBが同時期に観察されたからといって、この二者間に因果関係があるということにはならない。因果関係はもとより相関関係のあるなしも何ら証明されていない。また、相関関係が仮に証明されたとしても、これは因果関係を証明したことにはならない。また、体内必須物質として放射線核種の物質を(被曝とは無関係に)我々人間は保持(摂取)しているので、体内から放射性物質が検出された = 被曝によるもの とは言えない。(以下も参照)
http://www.mri-jma.go.jp/Dep/ge/ge_report/2007Artifi_Radio_report/cover.htm
http://case311.miraikan.jst.go.jp/home/docs/radioactivity/1104121558

低線量被曝(月間100mSv以下とする)では長期的に健康被害が出るかどうかも疑わしく況してや短期的に健康被害が出ることは有り得ないと知っている科学リテラシーの或程度以上ある人には、以上の説明で充分である。極めて慎重な見解に拠ったところで「きちんと相関関係のあるなし、因果関係のあるなしを調べてみた方が良いですね」と言うところまでだろう。
処がこれらの訴えをする人達というのは、この説明では全然納得しない。また、論理的に説明、説得を試みても殆ど徒労に終わるであろう。(だからとて論理的説明を怠ってはいけないが)

心理の専門家を標榜している私としては識者の皆さんが行ってきているのとは別の観点からの提示をしたい。

前提として彼等の訴える事象自体は嘘ではない、そういう事象があることは事実だとして、
また、それが生物学的、医学的に健康に問題を起こすほどのものではないと言えるにせよ被曝(内部、外部両方の)が或程度在ることは事実であるので、
以下のように仮説を想定することが出来ると考える。

  1. 低線量被曝の場合、そのほぼ100%は多重に備わっている自己修復機能で生体レベルの影響(健康を害するという結果)には繋がらない事は判っているが、と同時に、遺伝子レベルでは極めて低線量であっても一定量の遺伝子の損傷は起こることも判っている。(遺伝子レベルでは「LNTモデル」が成り立つのに生体レベルでは成り立たないということ → 閾値の存在する強力な根拠になっているわけだが。 [1] )
  2. 身体の各部位が察知、検知した情報は全て脳が受け取っているわけだが、我々人間に限らず或程度以上の脳を備えている生物に於いては、受け取った情報を全て真に受けずに或程度以下の雑情報をノイズとして無視するカットオフ値が設定されている。
  3. このカットオフ値の設定は器質因であるよりかは「脳のプログラム・チューニング」次第であると考えられる。
  4. 遺伝子レベルの損傷も逐一脳には情報伝達されているであろうと考える方が自然で、それをイチイチ覚知しないのは脳のカットオフ設定によって無視されているからと考えるのが妥当。
  5. 「そうじゃないか?」と思う心理が強く用意されると通常より遥かに感覚が鋭敏になるという事象があることは多く観察されている。(清潔恐怖症などの強迫神経症が代表的)
  6. これは、そういう心理作用の影響で脳のカットオフ値が下げる場合があるのではないか?という推定ができる。つまり、この脳のカットオフ設定は「△μv 以下の信号は無視」のような一律カットオフではなく脳がそれぞれの重要度、優先度を判断して軽重を付けているものと考えられる(脳による判断 [2] の介入する余地があるということ)。
  7. 被曝が一切無くても遺伝子損傷は、低線量被曝によるより遥かに沢山の頻度で日常的に発生してるので、脳のカットオフ値が下がった場合を想定すると、非常に多くの信号を脳が受け取る結果「組織が損傷しているかも知れない」という誤覚知 [3] を脳が形成する可能性が考えられる。
  8. 脳というのは「辻褄合わせの名人」と呼べる側面を有しており、誤覚知と辻褄の合わせられる顕在潜在両面での身体的脆弱さが在った場合、これとそれとを結び付け症状をより顕在化させる場合があるのではないかと想定できる。また、身体的脆弱さは無くても「組織が損傷しているかも知れない」という警戒認識[1]によって防御反応が躍起される可能性も十分あり、この「攻撃対象が明確に存在しない」防御反応は自身の身体を攻撃し出す・・・アトピーにみられる「確たるアレルゲンが確認されないのにも関わらずアレルギー反応が起こり自らの体組織を損なう働きをする」の [4] と本源的に類似している作用機序による症状を顕在させる可能性も想定される。
  9. これは「負のプラセーボ効果」だと考えて良いのではないか?
  10. 「負のプラセーボ効果」だとの想定が正しいならば、これを打ち消すプラセーボが有効ではないだろうか?と、「これは脳内のカットオフ設定を是正する薬です」と宣言して偽薬を処方することで改善する例が出てくるのではないか?と期待される。 [5]

幸いつい最近に以下のように「プラセーボはプラセーボとわかっていても効果がある」という報告もあるので、症状を訴える人に偽薬である事実を隠したり違う目的であるかのように偽って服用させる必要はない。
http://www.reuters.com/article/2010/12/22/us-placebo-idUSTRE6BL4IU20101222 [6]

また、偽薬を処方することは医師法で認められている。

社会実験として、以上の目的、意図を明確に示して希望者に偽薬を服用してもらう実験を大規模にしてみてはどうだろうか?
当然予想される事態として、幸いにこの予想が的中して症状が改善する人が有意な数以上出た場合に一番困る勢力である「低線量被曝による健康被害を喧伝している人達」「内部被曝の影響を特別、または誇大に喧伝したい人達」が、「非人道的行為」とか「被爆者をモルモットにするのか!」とか言い立てて猛反対するであろうが、上述の通り「目的、意図を偽らずに明示し」かつ「希望者に対して」行うのであるから倫理的にも道徳的にも問題はない。
実際問題は「希望者が名乗り出てくるかどうか怪しい」という可能性はあるとは思うが、同じプラセーボである除染に兆単位の税金が注ぎ込まれることを思えば、こちらの方が遥かに低コストで実現できる。何なら医師会に協力を要請して、この件の処方箋料は無料(診療費は取って貰って良いように思う)、製薬会社にも協力して貰って偽薬を無償提供して貰うというのはどうだろうか?
勿論、社会実験をする以上、その効果が有意にあったかどうかをきちんと確認しなくてはいけないので、訴える症状が本当にあるのか、どの程度のどういった症状なのかを事前に調べてから行う必要があるので、訴え自体が虚偽であった場合、これを沈黙させる効果も期待できる。


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 一例『サイエンスZERO No.365 シリーズ 原発事故(3)「低線量被ばく 人体への影響を探る」2011年11月12日放送』で明確に述べられていた
  2. 「判断」「認識」と言っても自我意識が認知しているという意味でのそれではない。
  3. これを「誤」覚知と呼んで良いのかどうかは議論のあるところかも知れないが。
  4. アトピー体質の人の多くはアレルギー体質でもあるということは知られており、どこまでが心理因(脳のプログラム・チューニングの問題)であるかは峻別し難く見解は混迷しているままであるので、全てが心理因であるかように誤解しないように注意されたし。
  5. アトピーと同じく、器質因も備えている人は一定数以上含まれるであろう。ので、大多数の人の症状改善という虫のいい話はないだろうが、一定以上の有意な結果が出るなら、これで十分意義がある。
  6. 勿論これだけを根拠にプラセーボに過大な期待はしてはいけないのかも知れないが、社会的コストが少なくて済むと見越せるので行なってみる価値はあると考える。

御用学者の正体は?

放射線被ばく基準の意味 : Global Energy Policy Research
http://www.gepr.org/ja/contents/20120109-01/

「A:無責任な発言をする人」 と 「B:責任ある発言をする人」 このどちらを信用しますか?

と訊かれて前者と答える人はまず居ないでしょう。

「2mSv余計に浴びると、200万人の福島県民のうち、がんで亡くなる人が200名増える」と言っていて、その通りにならかった場合、こう発言していた人は「そうならなくて良かったじゃない」と言うだけで済ませれる。責任を問われることはまず無い。
反対に「被曝量100mSv以下では日常的にありふれたリスクの方が大きいので、事実上問題は無い」と言っていて、その通りにならなかった場合、こう発言していた人は間違いなく責任を問われる。

つまり責任を問われる(かも知れない)リスクを負って発言しているのは後者である。
前者が責任を問われないだろうことは皆「実は知っている」・・・

どこかでみた風景だと思ったら、2009年秋に「新型インフルエンザが大流行する」「パンデミックが起こる恐れが、、、」「老人、子供を中心に死人が看過できない数出る可能性が、、、」などと厚生労働省、製薬会社、製薬会社の営業マンの云うことを鵜呑にした浅はかな(それも結構な数の)医師が、これのマッチポンプを毎度ながら演じたマスコミがパニック気味に大合唱していて、いざ蓋を開けてみたら大流行は確かにしたが、死人は203人であった。 203人というと多いと誤解する人も居るかも知れないが、新型でない通常の季節性インフルエンザの死者数は少ない年で10000人弱、多い年では15000人が亡くなっている(何れも超過死亡概念による推計死亡者数)。この時に、あれだけ不安を煽った厚生労働省、製薬会社、医師、マスコミのいずれかでも謝罪しただろうか? 謝罪していないどころか、マスコミも厚労省も「最悪の事態にならなくて良かった。良かった。めでたしめでたし」という論調で、製薬会社に至っては「売れずに大量に残ったワクチンの在庫をどうにかしてくれ」と “どの口でそれを言っている?” と言いたくなる、どいつもこいつも無責任極まりないまま有耶無耶に。 さすがに医師からは(但し、製薬会社の口車に乗せられずに静観していた医師)「あれは冷静な判断を欠いていた」「リスク管理という観点から外れていた」と反省の弁は幾つも発信されたが、これをちゃんと伝えたマスコミは皆無という状態だった。 [1]

「実は知っている」のになぜ多くの人は黙って(知らぬふりをして)いるのか? それは「責任を問われる心配のより少ない方へ加担したほうが自分の身も安全だから」である。 [2]
自分の身の安全の為に、勇気を以ってリスクのある立場に身を投じる人に「御用学者」「御用医師」レッテルを貼って済ませて良いのか?
自分の身の安全の為なら破綻寸前の国家財政にトドメを刺して、自分達が心配していると言っているその子供達の未来を暗澹たるものにしてしまう結果を招くことが正当化されるのだろうか?

レッテル貼りの一番危険なところは、レッテルを貼ること自体ではなく、レッテルを貼った瞬間以降思考停止を起こして「本当に正しいのだろうか(間違っているのだろうか)?」「事実はどこにあるのだろうか?」という自問自答を含む問いの公正さが著しく低下してしまう点である。
もう一度繰り返すが、「責任を負って発言」しているのはどっちか、よく考えてみて欲しい。

2012年1月18日13時51分:数字の誤記「誤:死者数は少ない年で1000人弱」を「正:死者数は少ない年で10000人弱」に訂正


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 分かっている方には、これに始まった話ではなく「鳥インフルエンザ騒ぎ」「口蹄疫騒動」「BSE騒動」「ダイオキシン騒動」などなど枚挙に暇がないのだが
  2. 危険であることにしておいた方が補助金、助成金、除染という公共事業が懷に転がり込んでくるのでそうしている、より悪質な輩も沢山居るが

リスク管理とは:或る科学ジョークを引いて

『原発危機と「東大話法」』:池田信夫氏「安冨歩氏への反論*」の分析(1)〜(5)
http://ameblo.jp/anmintei/entry-11132924003.html
リンクは(4)へのもの

池田信夫 blog : 安冨歩氏の知らないリスク・コミュニケーション*
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51767689.html

ニ氏のやり取りを一通り読んで、或る結構有名な科学ジョークを思い出した。

男性の数学者とエンジニアを女性と一定の距離で向かい合わせて
「じゃんけんで勝ったら、彼女との距離の半分進むことができる」と告げたら、
数学者は「それじゃあ永久にじゃんけんを繰り返しても彼女との距離をゼロにできないということではないか!」と半ば怒り調子で嘆いた。
かたやエンジニアは嬉々として「或程度回数じゃんけんに勝てば、望むことを実行するに実用上問題ない(十分な)距離まで彼女に近づける!」と言った。

「論理的にゼロと証明できないものはゼロではない」という点に拘って終始している安冨歩氏と、「実用上無問題とみなして良い」と主張している池田信夫氏という構図である。
主張していると言っても、ちゃんと(その他の関連する記事も含めて)読めば分かる通り、池田氏は主観的個人の意見を言っているのではなく、客観的信頼に足るデータを積み重ねてそう主張している。
更に安冨歩氏の主張する
「(1)低レベル放射線被曝による深刻な障害の発生を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
「(2)浜岡原発周辺で大規模な地震が起きて事故になる可能性を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
というのは一見すると尤もだと思うかも知れないが、科学リテラシーが一定以上ある人にはご存知の通りこれは「悪魔の証明」と呼ばれるもので・・・「ない」ものの証明は原理的に不可能で、背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明するしかないが、これ自体「ないものを証明」したことには(実用上なっても)原理的にはなり得ない・・・これを要求している点。この要求をしている段階で「私は科学リテラシーが欠如しています」と宣言しているのと同義である点に注意しなければならない。
かたや池田氏は「背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明」は充分以上にしている。

いま我々が必要としているのは「論理的にゼロかどうか」論ではなく、「実用上問題無いといえる線は何処かを見極めること」であることは、論じるまでもない話だと思うのだが。

リスク管理については以下が非常に有益な視点を与えてくれます

SYNODOS JOURNAL : 「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性 山口浩
http://synodos.jp/society/1764

冷戦のツケをこんな処で払わされそうとは

以下ページに池田信夫氏が要約を載せているが直訳過ぎて、『放射能と理性』を読んだ人ならこの直訳でも誤解無いだろうが、読んでいない人には誤解を受ける可能性があると思われますので老婆心ながら意訳を試みるというか、解説を交えた読み下しにします。参考まで。
(当該インタビュー上でアリソン教授が語っていない付加された文言は、『放射能と理性』を読んで私が理解した内容から付加したものです。また字幕も結構ラフなので英語が聞き取れる人は英語を聴くようにして下さい)
尚、そのままでも差し支えないと判断した部分はそのままにしてあります。

池田信夫 blog : 原発の被災者は帰宅させよ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51753116.html

  • 被災地に見られたのは被曝の恐怖。問題は被曝自体ではなく、被曝の恐怖。これはICRPの勧告が誤っていることが起因している。
  • 冷戦時代には、冷戦構造および核の配備を正当化するために殊更に「核の恐怖」が過剰に喧伝された。これ故(人々の恐怖心も過剰に醸成された故)許容被曝線量をできる限り低くすること・・・自然界のレベルになるべく近づけないと人々を安心させることは出来なかった [1] 。この要請から出てきたのがICRPの勧告である。
  • 今は虚構ではなく現実的に「深刻なリスクなしにどこまで高い放射線が許されるか」ということを考えるのを要求されている。
  • この現実的ケースで想定される許容被曝線量は現在の1000倍ぐらい高い。
  • その現実的想定で考えれば帰宅できる。避難している人々は全員帰宅すべきだ。
  • 日本政府はICRPに従って年1~20ミリシーベルトを基準にしているが、これはバカげた低い基準だ。
  • 毎月100mSv、つまり年1200mSv、現在の1000倍が適切だ。ICRPの勧告を変えることが私の重要な仕事だ。
  • LNT仮説は、「針の上で何人の天使が踊れるか」というような神学論争。医療の現場では、放射線を何回にもわけて照射している。これは閾値があることを前提にしている。

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LNT仮説について知らない人は以下を参照してみて下さい。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/search?q=LNT%E4%BB%AE%E8%AA%AC

——–[ 脚注 ]—————-
  1. つまり核配備を正当化するために「1000倍誇大に核の恐怖を煽ったがために、安全基準も1000倍誇大にしないとバランスが取れなかった」という虚構基準であるということ

「空気」の汚染の方が遥かに怖い

前から、そして今も思っていることなのですが「氏名」「住所」「出身校」・・・この程度の情報が果たして「個人情報」なのか?という疑問。
いや、個人情報と言えば個人情報の内です。確かに。
ではありますが、他人に知られて特段不都合がある、この意味での「プライバシー」という範疇に入れて良いのものなのかどうかという疑問です。

この10年くらい、この「個人情報:プライバシー」というものにヒステリックな過剰防衛的に世の中全般がなっているという実情があり、これってよくよく落ち着いて考えれば結構というかかなり異常なのではないか?と思うのです。

あなたがよほど有名人・・・特に芸能人であるとか・・・であるなら何処に住んでいるのか知られるとストーキングの心配があるとか、分かるのですが、一般人が何処に住んでいるか知られた処で、先ず以てそのこと自体に興味を示す人は皆無に近いと言えるし、況してやストーキングの心配など交通事故の被害者になる確率より低いと断言できます。
一般人がストーキングに遭う可能性があるのは「それ以前に何処の誰で何処に住んでいるのかを知らせている相手から」であり、「何処の誰かも知らない見ず知らずの人から」の場合は限りなくゼロに近いと断言して良いと思われます。

「一般人が有名人並みに自意識過剰になっている」と言えば言いすぎでしょうか? [1]

この「私」という「自意識過剰」さは、いま巷に蔓延している放射用汚染に対する “非科学的” かつ “非論理的=感情的” な「安心と安全を混同した [2]」ヒステリックな反応と根っこの部分は同じなのではないか?と思うのです。
実際「汚染」と呼ぶには余りにも笑止なくらい微量の放射性物質が飛散したに過ぎないわけで(以下に引用の画像中の赤色および非彩色の10km圏内を除く [3])。文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)

中島聡氏の「空気」論法 : 池田信夫 blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51747180.html

「私」を最大限拡大した「人の命」論法は、この(昨今の)日本人の多くが持つ自意識過剰さを心地よく擽り「悲劇のヒロイン病」に仕立て上げる。
いや反対に、「悲劇のヒロイン病」にいつでも罹患できる素地である自意識過剰さを持っているから、「私」を最大限拡大した「人の命」論法に簡単にコロっと騙されるのだ。と思います。

さようなら大江健三郎 : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1378824.html

今は表舞台から姿を消した上岡龍太郎氏が20年以上前から言っていた言葉を思い出します。

それ自体は本質的に正しいので誰も正面切って反論を加えにくい、誰の目にも明らかな倫理則、道徳律・・・「親を大切にしましょう」「人の命は尊い」「子供達の未来を…」「愛」「平和」「人権」・・・という言葉を正面切って主張する人間は信用してはいけない。当人は正義のつもりで言っている場合が特に危険である。

この自意識過剰さは真性の意味で自意識過剰なのではなく実に歪んだ病的な自意識過剰さであることは、本名登録であるFacebookが、全世界的には凄い規模で支持され拡大を今なお続けているのに比して日本では敬遠する人が多いのに代表されるのに表れていると言えます。 真に自意識過剰ならば、自分の名前はより多くの人に知られたいと思う方が自然だからです。
見立て様によっては、自分は何処にいるのか他人に察知されない陰に隠れて影響だけは最大限及ぼしたいという実に姑息かつ陰湿な自意識過剰さと言えるでしょう。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「具体的誰かではない他人から監視されているような気がする」というのは一歩間違えば統合失調症者の持ちがちな被害妄想(念慮)に非常に近いと言えますが、今したいのこっちの方向の話じゃないので置いておきます。
  2. 安全は客観的つまり科学的に線引き可能ですが、安心は感情=マインドの問題なので極端な人のそれはご本人自らで解決して貰わないと誰もどうするこもできない
  3. 文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)より引用

狂人と賢者を分ける線

かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?: 竹林の国から
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-6d73.html

 この記事が参照とし、この記事を書く発端となったと記事中に明記している
「池田信夫 : 脱原発という「空気」 : アゴラ → http://agora-web.jp/archives/1382641.html」
へのトラックバックから池田信夫氏が「一読推奨」とtwitterで本記事を紹介していたのに機会をもらって読んでみた。

 その主論旨は主論旨で「なるほどなぁ」と考察を深める良い情報を与えて貰えたと思うのだが、それはそれとして心理カウンセラーとしての視点として、この本文中に述べられている「自己義認 [1](自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神 [2]、」を設定 [3]し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義 [4]するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくりであるという点に注意がいく。
 だからといって、明治維新の志士たちが統合失調症だったとか、戦時中の軍部(少なくともいわゆる青年将校たち)に統合失調症者が含まれていたなどという、そういう安直な話なのではなく。
 その結果状態は異常と言わざるを得ない統合失調症であるが、その機序のそもそも・・・統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い・・・という観点から、社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に [5]、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか? 個人的見解の域は現在出ていないが、これは多分「イノベーションを生み出す能力の呼び水となる力動」になり得るものであろうと考えている。
この考えが正しいなら、その結果を分ける分水嶺を見極める智慧はないものか?もし、それを見極めることが出来たなら破壊的改革 [6]を避けてイノベーションを拾える機会を社会的に増やすことが出来るのであろうと、希望的観測混じりではあるが、こういう問題提起が出来るのである。

 これについて、どうこう一ヶ言を述べれるほど考えは纏まっていないので、これは自分自身に対しての問題提起でもある。

 

 また、先日書いた記事「“個” の思想は欧米礼賛なのか」で述べた、あの時代(太平洋戦争に向かう前駆的時代)に、そしてややもすると現在でも、誤解というよりは無理解に近い誤彪を犯している「“個” の思想」に対する誤った理解が、どう誤っているのかの一端もここで読み取ることが出来る。

その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」
 これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

彼の言葉を援用して私の言いたかったことを再構成すると、「自己義認」認識の自己のそれぞれが主張をするという構図・・・引用記事中に云う「プロテスタント病」・・・が「“個” の思想」だ、と誤彪しているフシが少なからず日本人の間に散見されるということである。
これだと確かに疲れるし、カオス状態である。このカオス状態を治めれるのは「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」になってしまう。
そうならない社会を目指すのには真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付けることが大事なのではないか?ということである。

これはC・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセスに他ならないのだが、「意識化」「個性化」の意味を神秘主義的オカルトなものに曲解、歪曲、捏造したものを喧伝する者が後を絶たないので、C・G・ユング自身の思想、主張自体が神秘主義的オカルトなものであるように広く世間一般に思われているのは実に残念、、、いや残念を通り越して憤りさえ覚える。 [7]

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「義認」とはキリスト教の中核概念で「神により義とされる事」(教理的解釈は教派によってかなり異なる)であるが、ここでは「自分自身(自己)によって自分自身を義とする」・・・「暗黙に自分自身を神と前提している」という意味で使っている
  2. 世間一般の通念での「神」であるとは限らない。神格化しているものは勿論、そうであると意識されていなくても事実上神同然のものも含む。「およそ “~ism”(主義)と名の付くものは全て宗教である」・・・C・G・ユング
  3. 具体的実在から最適と思わるものを選択する場合と仮想的、夢想的なものである場合を含む
  4. 「私の奉ずる○○(神、天皇 etc)は絶対正しい。何故なら絶対正しい私の奉ずる○○だから。故に私は絶対正しい。何故なら奉ずる○○が絶対正しいから」という完全なる循環論法。なので本文中では「発端」という言葉を使ったが、これは文章構成上の都合で使ったに過ぎなく、実はどこが発端なのかわからない
  5. 我々人間は我々自身を一個の生命体だと考えがちだが多数のモジュールが集積重合したもの…という話はあるが今は話題が逸れるので機会を改める
  6. 改革のつもりが破壊に向かってしまう致命的誤り
  7. この点に興味のある方はC・G・ユングの原著(訳書で構わない)を是非読んでみて下さい。間違っても「ユングの解説書(除く:林道義氏のもの)」は読んではいけません。
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