コッポラの胡蝶の夢 [映画評]

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この記事はfacebookのタイムラインに9/9に投稿したものに加筆修正した転載です。

立川志らくさんが大大大推奨してたのだが映画館での上映は結局東京の(名画座的な)一館のみで終わってしまい、仕方なくDVDは結構前に入手してたのだが、気軽に観れる映画ではなく迂闊に観ないほうが良いと思って今日に至っていた。
観られる条件(心情的なものも含む)が整ってやっと鑑賞した。

 良かった。

流石コッポラ。
流石ルーカスの師匠なだけあると思わせるルーカスに通底する構成のセンスを随所に感じた。

我々人間が「我」と思っている自我意識と呼ばれる(呼んでいる)もの自体が突き詰めればフィクションである。そのフィクションが実在だと思い込める一つの大きなファクターが「時間」。 時の流れというもの自体は存在はしているが、これを「時間」「時系列の流れ」としての体系と捉えるのは実は人間独自の「発明」で自然には存在しない。言い換えるなら、時の流れという本質的に捉えどころのないモノを「捉えられていると錯覚するためのトリック」、これが時間という発明である。

荘子の「胡蝶の夢」が言っているのはこういうことで、だから邦題に「胡蝶の夢」が入っているのだろう(たぶん、コッポラ自身のチェックが入っている。コッポラとはそういう人だから [1] )。

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——–[ 脚注 ]—————-
  1. 他言語の字幕を入れる時に、その字幕を台本にして送らせて(これを専任アシスタントが英語に訳したものを)一語一句チェックし、その言語でのその言い回しはどういうニュアンスかまで確認しつつ、自分の意図に沿った訳になっていない場合修正させる → これを納得するまで繰り返す。という作業を要求する人なのだそうだ

夢の意味「信ずるべきか 分析すべきか」

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日本独自の精神療法を確立した森田正馬氏のことばに「夢の中の有無は、有無とも無なり。」というのがあります。
今の仕事を始めて大分経った頃にこの言葉に触れたのですが、、、夢の内容をお話し頂き、これをテーマに連想を豊かに働かせてゆくかたちでカウンセリングを行ない、その意義の大きさを実感している私にとって、少なからずショックでした。
人のこころの在り方に浅薄な認識しか持ち合わせていない、何処の馬の骨ともつかぬ輩が言っているのなら、気に病む必要はないのでしょうけど、人のこころの在り方に早くから真摯な態度で取り組み、非常に卓越したメソッドを確立した、森田療法の始祖のセリフだけに、その意味を即刻には呑み込み兼ねました。
森田氏は、人の無意識の扱いを大事にしていたに決まっているでしょうし。 それが見せる夢の意義にも、注意を払っていなかったわけは無いと思えるのです。
その後、森田氏は上記のセリフと共に「夢は楽しむもの」とも言っている事を、知るに至って、この意味が了解せられたのです。

クライアントと会って、さぁこれからカウンセリングを開始という、クライアントからすれば夢を記録し始めて最初の頃は、その夢が混乱が見られる事が多いのです。 心的問題の大きい(これも「後から考えれば」という話で、当初から大きい小さいを即断できるものではない)ひとであるほど、この傾向は著しいのですが、「夢とはそもそもそういうもの」というのとは明らかに一線を画す混乱なのですが。
これを「分からないものは、分からない」という態度で、安易な解釈を与えたり、性急な答えを求めず、話し合いを継続しつつ、夢の記録を持ってき続けて頂いていると、川の流れの如く、またその流れに導かれるか如くに、夢が整合性を持ちはじめるのです。 もちろん夢のことであるので、論理的に筋が通るとか、現実的描写になってくるとかの意味ではなく、、、「夢なりのルール」に従った整合性を持ち始めるのです。
この「夢なりの整合性」を見抜くには、それ相応の知識と経験が必要なのではありますが。

フロイトは「夢の偽装」という仮説を唱えた。 無意識は何をかを伝えようとして、夢というかたちを通して意識にコンタクトを取ってくるのだが、それが意識にとって好ましくない情報を含んでいると、意識の検閲を受けて、違う姿形を与えられる、偽装されるのだ、というのです。 いわゆる「メタファー」というもので、有名な処では、女性の夢の中に万年筆が出てきたら、それはペニスの偽装した姿だ、とするものでしょう。 これはこれで、自我が非常に強固な方には有効な解釈になる場合もありますが、些か硬直したものと言わざるを得ないと思います。
(このような硬直化したものは、訳者(独語から英語への)の意図的誤訳、と後生の主にUSAマスコミがセンセーショナリズムだけでフロイトを取り上げた結果の誤解、そして、フロイト自身も名前が売れることの方を優先してこの誤解を放置した結果なのです。 こういう多くの誤解を受けているフロイトですが、実際にはそんな硬直した事は語っていません。 「夢判断」を読まれよ!)

このフロイトが提起したのとは違う意味で「意識の検閲」というものを私は考えます。

無意識から持たらされるものは、イメージの塊で、まさに混沌そのものであり、多くの矛盾、パラドックスを含んでいます。 いや、これを矛盾だ、混乱だと考えるのは「意識の増長」であり傲慢であるとも言えるのですが、、、
ともかくも、この混沌から情報を意識が受け取るとき、これをそのまま受け取ることは出来ず「如何に受け取るべきか?」と悪あがきをするのだろうと考えられ、これが論理的に筋の通っていないものに論理性を与えようという無茶をすることとなり、混乱と呼べる状況を作り出すのだろうと考えられるのです。 「意識の検閲」が混乱を作り出すことに深く関与していると。

この意識の悪あがきによる混乱状態も、自我の再調整のために必要な混乱(錬金術でいうニグレドに相当する)であるとも言えるのですが、まともに取り組もうとすると強烈なデプレッションに襲われ、相当に自我の強い方でも、易々と耐え切られるものではないのです。 これに耐え切られるよう介助役をしつつ、この「自我の再調整のための混乱」の淵に足を踏み入れるのがカウンセラーだと言えます。
言い方を変えれば、「意識の検閲」を上手く調整が効く方向に誘導してやるのが、カウンセラーだとも言えると思います。

心理学にそこそこ通じている方でも、よく起こす勘違いに、夢を無意識そのものとイコールで結ぶことがあります。
正確に記すならば、意識が無意識と何かのキッカケに、ほんの一瞬触れ、その触れた瞬間の残像、雰囲気、ほのかな感触、これらの総体として意識が覚知したもの、これが夢であります。
無論、これより浅い意識域の中だけで見る夢(願望充足夢、覚醒時に体験した出来事をなぞる夢など)も多くあるので、夢すべてをこれであるように捉えるのも間違いです。
つまり夢を通じて無意識域の片鱗を垣間みられる「時がある」という以上でも以下でもなく、無意識の全て、無意識の何たるかが解るわけではありません。
無意識の全てを把握することが重要なのではなく、無意識から持たらされている様々なサイン、これの意味を現実との脈絡の中に見出せるかどうかが重要です。 またサイン全てが絶対に意味があると決めて掛かるのも危険です。 上手い具合に意味が見出されればラッキー、という位の気持ちで、ファンタジー小説を読むかの如くに「味わう」姿勢が肝要だと思います。
「味わずして分析するなかれ」これが私の持論です。

フロイト派はフロイト派の夢を、ユング派はユング派の夢を見る、と言われています。
これも受け取り手の意識の在り方次第で、夢が変わるということを語っているのだと思います。

夢との付き合い方で良くないのは、先に述べたように「絶対に意味がある!」と決め付けてなんとしても分析し切ろうとする態度、また「ライオンは父親像」「窪みは女性器」「棒状のものはペニス」式の硬直化した解釈を与える態度です。
まずは夢をありありと思い描いて、それによってこころに巻き起こるエモーション(感情の動き)をそのまま受け止め、それを偏見無くじっくり味わうことです。

最初の森田氏の「夢は楽しむものである」という言葉、これは「楽しめない夢に囚われて気に病むことはナンセンス」と言っているのだろうし、「楽しむ態度を持ち合わせていないのなら、夢に取り組むべきでない」とも言っているのだろうと思います。

「そんな馬鹿なことがあるものか!」とお思いの方も居られるかも知れませんが、誤った夢との取り組み方をして、神経衰弱や精神分裂病にまで及ぶひとが、現に居るのです。
この意味で(その全てを唾棄するつもりはないですが)巷に溢れる「夢占い」の類の大多数は、有害です。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

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