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新聞社と愚かな大衆という共同正犯

特定秘密保護法案を巡ってのマスコミの反対の大合唱の茶番劇ぶり、また、これに踊らされて3000人以上もの人権派を自認する学者たちが声明を発表して、その“人権派”というのが如何に薄っぺらなものであるかを自ら露呈してみせたという点は多くの冷静な人達の嘲笑の的になったので改めて云々する必要はないと思います。

ただ、これに関しての以下に引用する池田信夫氏の記事内の記述で、改めて取り上げて強調しておくべきと感じた点を述べます。

日本のメディアは国家権力と闘ってきたのか? 特定秘密保護法案に反対する記者クラブの偽善:JBpress(日本ビジネスプレス)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39365

それは「読者が不買運動を始め、もともと危機に陥っていた毎日新聞社の経営はさらに厳しくなった(1977年に経営破綻)」という部分です。
1977年というと私はまだ中学1年生で、毎日新聞社が一度潰れたということは記憶してあっても、それ以上の詳しい経緯や背景については無知でした。

ここで池田氏が解説してくれている大筋を整理すると、

  • ウォーターゲート事件に絡んだFBIの捜査情報をウッドワード記者がスクープ。FBIの捜査情報は国家機密情報に該当するので、これを入手し報道したことは漏洩に手を貸したということになり違法。しかし、ワシントン・ポスト紙は連邦政府の圧力に屈しないでウッドワード記者の取材を支援、その全貌が明るみに出るに従ってその報道の公益性の方が極秘情報を入手した違法性よりも優っていたので検察は起訴しなかった。
  • かたや日本の西山事件の場合、毎日新聞社は西山記者を守るどころか「おわび」を掲載し、西山氏は一審で敗訴したあと退職した。

ここで毎日新聞社を蜥蜴の尻尾切りに走らせた要因として、不買運動で毎日新聞社に圧力を掛けた愚かな大衆の行動があり。そして、この愚かな大衆を動かしたのは「ひそかに情を通じ、これを利用して」という(今となっては、これ自体根も葉もない言いがかりだと判明しているが)情動に「西山というのは卑怯、卑劣なやつだ」と訴えかける扇情的な検察のレッテル貼りでした。

引用している池田氏の本文は、国家機密という法に抵触する可能性のあることでも報道の必要性があらば、これにあえてチャレンジし、当然あの手この手で圧力を掛けてくる公権力と闘ってこそのジャーナリズムで、今までポロポロと情報を漏らしてくれる(コントロールはされているわけだが)楽にネタを拾える馴れ合い関係がご破産になる公算が高くなりそうなので「反対」「知る権利が侵害される」と叫ぶ日本のマスコミは、それで公権力と闘っていることになっていると悦に入っている幼稚なものだと言っているわけで、これには100%首肯します。

時代は変わって、太平洋戦に突入していく契機になったものの中で決して小さくない要因に、毎日、朝日を含む新聞社がこぞって勇ましい主戦論のキャンペーンを大々的に行ったというものがありますが、「国家、軍部の圧力に屈して筆を折らざるを得なかった」という各社、殊に朝日新聞社の今でも続けている言い訳は大嘘であることは今や多くの人が知っている通りです。
これは何故かという点で多くの人が、そうした方が部数が売れるという商売上の打算という説明をしており、これはこれで蓋然性があり、その通りだと思うのですが、もう一つ、これがコインの表側だとすると裏側の事情・・・それは、反戦論、慎重論を展開していた地方紙数社が猛烈な不買運動や、焼き討ちにあって潰れたりする事件が時を経るに従って増え、また毎日、朝日もその紙面に慎重論を載せた翌日に購買所(販売店)が打ち壊しに遭うなどが多発、激化していったのが、大衆の顔色を窺って勇ましい戦功記事を載せつつも一方で国際情勢分析などからの慎重論も併記していた新聞各社が完全に戦争大礼賛一色の紙面に変貌する契機になっていたという点。

今一度、引用した記事中の西山事件のことを思い出して下さい。
それに簡単に屈する日本のマスコミがへなチョコ過ぎるのも確かにそうですが、物事の成否を冷静かつ深く考えずに不買運動などで圧力を掛ける行動に出る大衆の愚かさという点で共通しているでしょう。

大衆運動というのを考えた時、果たして健全な大衆運動というのは何なのか、あり得るのか?と、あり得ると信じたい私としても安易にそれを信じ、礼賛できかねると、この一例だけで思わされるのです。

アメリカ人は空気が読めないの嘘

「アメリカ人は空気が読めない」と思っている日本人は結構多いように思います。はっきり言ってこれは嘘です。
例えば有名どころでは大前研一氏がその著書内で「うちの奥さんは典型的アメリカ人といって差し支えないが、家では“あれ”,“これ”,“それ” あとは目線の送り方、目配せで大概のことは阿吽の呼吸でわかってくれる。つまり“察する”という能力はないというのは全くの嘘だということだ」というような内容のことを書いています [1] が、個人的にもアメリカ人はじめ欧州諸国人との付き合いを通じて同感に思います。彼らの察する能力が特段劣っているとは思いません。察し察しられという関係の根っこにあるのは感情だと気付いていれば、彼らには感情は無いという荒唐無稽なことを信じでもしていない限り当たり前だと認識されると思います。

では何故「アメリカ人は空気が読めない」と言われることが多いのでしょう?
答えは実に簡単で、彼らは「読めない」のではなくて「読まない」のです。
どういうことかというと、アメリカは御存知の通り多民族社会です。またヨーロッパもアメリカ程ではないせよ多民族社会です。察するというのは価値観や美意識、情緒性や知識などに於いて共通項が多く存在している相手ほど容易で、反対に共通項が少なくなればなるほど難しくなります。単に難しくなるだけならまだ良いのですが、的外れが多発することになります。察し察しられというのを支えているのは感情だと先に述べた通りですので、「察し察しられ」ベースでの的外れは不愉快に感じやすく「わからない(適切に察しない)相手を非難する感情」が生じやすく「こんなことも分からないのか!」と馬鹿にする感情の半ば伴った非難の言葉が口について出たりもします。こうなれば「わかるよう示していない自分のことを棚に上げて何を言う!」と罵り合い、喧嘩が始まらない方がおかしいでしょう。「相手(他人)も同じように感じる筈だ」「同じように感じてくれないと嫌だ」というのは感情というものの厄介な側面です。

人種の交差点と今や言われるアメリカも元々は、ネイティヴの住んでいる土地を奪ったヨーロッパ各地人がコミュニティーを作る形から発展しており、そのコミュニティー毎の閉鎖性は割とあって、この頃に於いてはアメリカだってコミュニティー内で「察し察しられ」ベースで動いていたのです。その証拠に今でも田舎の方へ行けば、その土地、地域の暗黙の了解が厳然と在って、これをイチイチ明示的に語るのはタブーという地域は幾らでもあります。 [2] それはさておき、世界各地からの移民の流入が増えるに従って少なくとも大都市圏に於いては「察し察しられ」ベースで動くと利便性よりも軋轢が発生する方が圧倒的に上回ってしまうことを彼らは学んだ結果、Public領域では「察し察しられ」ベースを封印したのです。「察し察しられ」ベースで動いて良いのは家族、親しい友人の間柄だけで、それ以外には用いてはいけないと。
これは単にそういう行動を抑制するようになったという意味だけではなく、家族、友人の間柄だけにしか通用しない作法として“汎用性のないもの”と低い価値付けに転換したという点で重要なのです。
これが広く定着したのは公民権運動以降であるというのは案外と語られない事実ですが、公民権運動というのは単純な人種差別撤廃運動なのではなく「マジョリティのマジョリティ故の暴力性」の自覚を促す運動でもあったと気付けば当然の帰結と言えるでしょう。
人種差別はアメリカでもまだまだ依然として根強く残っており、この意味では真の意味でのマイノリティ排除の廃絶はまだまだ道半ばだと言えますが、「マイノリティを許容した方が社会の柔軟性が失われにくく社会全体として得」という思想がアメリカ的楽観主義気風 [3] の根っこに加わって現在に至っているという点は特筆しておくべきだと思います。
多様性があった方がその系は強いというのは生物学によってその後再発見されたことで、この思想が単なる多民族社会による経験則以上のものに今やなっているのは御存知の通りです。
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——–[ 脚注 ]—————-
  1. 本棚を探索するのは大変なので記憶に基づく要約ですみません
  2. アメリカがなぜ合衆国なのか。なぜ州の独立性が強いのかは、この辺とも関係があります
  3. 良い面のアメリカ楽観主義

幸福とは何か・・・少なくとも「不安」が少ないことではない

“本丸”としての労働市場改革:書評『デフレーション』 — 城 繁幸 : アゴラ – ライブドアブログ http://agora-web.jp/archives/1525128.html

「希望」と「不安」は、やじろべえの左右の錘(おもり)の如く。光と闇の如く。
一方が弱れば他方も存在が薄くなる。

不安の芽を事前に摘んで最小化するのが好いことだと信じた結果、実は希望も最小化しているという現実。
両者が上述の通りの相補関係にあると知っていれば実に当たり前なことなのだが。

相補関係にあるのでこの全く逆も真なりで、希望をやたらと膨らましすぎるのも悪い結果になる可能性「も」脹らませていることになるので両者をバランスさせていくのが肝心と、ここまではわかるのだが。
ところが実際のところ、悪い結果になるか良い結果になるかはやってみるまではわからないから事前に最小化することよりも、悪い結果になった場合事後的に被害を最小化もしくはリカバリーする知恵と工夫の方にエネルギーを使った方が現実的であるというところに帰結する。 前者よりも後者の方が被害者実数も少なく、被害総量も少ないであろうと想像に難くない。
事前に最小化することに執心する人は悪い結果になった場合、往々にして「なかったこと」にしようとする。起こったこと自体は消せるわけは当然ないので、責任追及できる適当な他所の村社会をターゲットにしてこれに全てを負わせて自分たちの村社会は守ろうとする。

ある村社会を非難・バッシングしているのはほぼ間違いなく自分たちの村社会を守ろうとしている人たちであるに過ぎない。

批判を非難と受け取る(勘違いする)人が多いのはなぜか



ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?それは殆ど心理的癖のようなものと言ってよく、カーネマンはこれをシステム1と呼んでいる。
議論とは相手を言い負かすことだと思っている人が多く、上記事実の認識なしに不毛な言い争い(彼らはそれを議論だと思っている)が多く展開されている。この裏返しとして純粋な批判を非難だと受け取り逆上したり無意味に傷付いたり凹んだりする人も多いのだと思われます。 RT http://goo.gl/w6ZMD @this_is_tack @georgebest1969

カーネマンのいう「システム1」はユングの云う「個人的無意識」とほぼ同義で、私自身の見解では「個人的無意識+下意識」。

これを危ないと感じない人はあぶない

日中戦争から太平洋戦争に突っ走っていった日本は、ナチスドイツのように凶悪な独裁者が居たのではない。
のに何故無謀な戦争に傾いていったのか?
それは深く考えずに目先の「かっこよさ」「威勢の良さ」で正義を語る愚かな大衆世論、威勢が良くてかっこいいのが正義だと共感してしまう幼児的正義観をもった大衆世論、これに政治家もマスコミ(新聞社)も迎合し流されていっている内に「これに逆らえない空気」が出来上がってしまって、気が付いた時には抜き差しならない状況になっていたというのが真相。大衆が安直に支持する正義は十中八九(いや99%)真の正義ではなく、この幼児的正義である。実はそう断言を簡単にできるほど正義とは簡単な問題ではない [1] が、少なくともそのくらいに警戒しておいた方が良いというのが先の大戦から得られた教訓である筈。

 

池田信夫 blog : 電力会社の社員に表現の自由はないのか – ライブドアブログ
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51800031.html

冷静かつ論理的に妥当なことを言ったら「腰抜け外交」とバッシングを受け、何らの裏付けもないけども威勢の良い(この意味でかっこいい)主戦論を唱えたら拍手喝采。という太平洋戦争前夜に取っていた行動と全く一緒というのは情けない程度では済まない、この朝日新聞およびこれに喝采を送る少なからずの人々


——–[ 脚注 ]—————-
  1. でなければサンデルがあれほど注目・評価されるわけがない

なぜいじめはなくならないのか

この問題を抜本的、包括的に、また広く説得性のある論理を展開出来るほど問題自体が簡単ではないし、また、私の考えもそこ遥かに及ばない低レベルにしか錬れていない。この意味で看板に偽りありのエントリーです。

今段階書ける(言語化できる)だけの範囲を書くと、
まず実践面(実用面)でいえば、「傍観者の排除」これが取り敢えず「手が付けやすくて」「実効性がある」という意味で大事。
より具体的にいえば、傍観者でいること自体が加担者なのであるという点、傍観者でいること自体が罪であるということを社会的コンセンサスとしてきちんと確立するべきである。
ここでいう傍観者は、文字通り傍観者・・・見て見ぬフリをする者、遠巻きに傍観しているだけの者・・・だけでなく、直接加害には加わらないが囃し立てたり茶化したりする野次馬も含む。つまり「制止」「調停」「仲裁」「仲介」「庇護」などを行わない者はすべて傍観者であるということ。
より詳細かつ説得性のある言説である以下を参照。

404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:いじめと個性
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50681593.html

個人的にはいわゆる「先生当たり(先生の当たり外れ)」は良い方だったようだと大人になってから分かった私でも実際生徒だった頃の経験から、傍観者になっていた先生がそこそこ割合以上必ず居たと言える。
つまり「傍観者であること自体が罪」であることを先ず、教育する側から教育して行かないといけないのだろうということ。

次に、より根本的問題に言及すると、「いじめ自体」を悪い事と、「いじめ自体」を消滅させようとする努力は無駄であり無意味であるばかりか、場合によっては問題をより陰湿化、巧妙化させさえするという問題意識を持つべきだ。
いじめという行動様式これ自体は絶対に無くならないし、無くせもしないと断言する。それは動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり、つまり、集団性動物でかつ高等生物であることからの何らかの必然がそこにあると認めざるを得ないからである。(これが何故であるか、また、どういう必然性なのか説明できるほどの知識および能力は現段階持ち合わせていないが)

これは良いだ悪いだ云っても始まらない自明に近いものであろうので、いじめの行動様式を取る基本素養は我々皆が備えているということを先ず認め、これを前提に、その発露が陰湿化、残虐化しないようにするにはどうするのが良いのか?という設問の立て方をするべきだと私は考えている。
しかし、これは真剣に考えるとかなりクリティカルな問題で、「あなたも殺人者になり得る素養を備えているわけですが、これとどう上手く(問題化しないように)付き合って行きますか?」と質問されて簡単に答えられる人が居ないのと本質的に同じだからである。
たぶん、この素養を備えているという事実を認める自体を拒絶しここで思考停止になる人が多いだろう。
この思考停止こそが、いじめの問題の本質に切り込んで行けない主犯で、傍観者を許容してしまうバックグラウンドだと断じさせてもらう。

だから「いじめは悪い事です」「いじめをなくしましょう」という教育関係機関や役所に貼られているポスターのスローガンは、空疎であり、欺瞞的で、薄ら寒いのである。
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「金で何でも買える国」

過去にも何度か読んでいた古い記 [1] なんだけど今回なんでか琴線に触れた(以前が触れなかったという意味ではない)、tweetしようと思ったのだけど文字数的に収まらないのでエントリーにするです。

日本というのは「金で何でも買える国」になっているのだなぁ、と痛切に思った。

404 Blog Not Found:貧乏な社会で子を産むな
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50955373.html

(もちろん「何でも」と言っても道義的、倫理的に対象にそもそもしてはいけないものは含まない、たぶん。)
「金で何でも買える」と「金を出さないと何も手に入らない」は本来的にはイコールではない筈なのに、日本という国は何時の間にかこれがほぼイコールになっているじゃん。という嘆息である。

そもそもは金を出さなくても手に入るものをわざわざサービスに仕立ててお金を取る。ビジネスとはそういうもので、これが存在する事を悪視して「市場原理主義悪」と非難する短絡な論は巷に溢れているがこれは間違い。崩壊寸前時のソビエト社会主義共和国連邦は「金を出さないと何も手に入らない」極北だった点を思い起こせばそれで足りるだろう。
「金で買える状態」なのが問題なのではなく「金を出す以外のオプションが存在しない」ことが問題なのである。一般庶民が金を出しては手に入れていないものを、金持ちがわざわざ金を出して手に入れる(そのかわり極上のサービスに仕立て上げられたものを)のは一向に構わないわけで。
先にソビエト社会主義共和国連邦を例として引いたのは偶然なのだが、こういう社会に仕立て上がってしまっている日本という国は「その負の部分に社会主義的ミーム」を備えてしまっていると気付くと偶然が偶然ではなくなる。
実は、何でもかんでもありとあらゆるものに値札が付くのは、資本主義社会に於いてであるより社会主義社会に於いてであるのだ。
『それをお金で買いますか--市場主義の限界ただ、「何でもかんでも値札を付けてはいけないものまで値札を付けてしまっている」というよりは日本の場合、誰もやろうとしなくなっている内に仕方無しの結果として値札が付いてしまい。そして一旦値札が付いたら、それは「既得権」となり、そうなると値札無しでやろうとする人間を規制するという本末転倒が起こる。というのが実情ではないだろうか。
既得権および既得権ホルダーを批判するのは無意味だとは言わないが、その構造をそもそも作った責任の一旦はあなたにも在るという自覚無しに既得権および既得権ホルダーを批判するのは単なるスケープ・ゴート・・・つまり責任逃れ・・・じゃないか。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 事関連記事リンクをどんどん辿って行くという読み方を拙は基本的にするのだけど、Danさんのブログは特にこの読み方でどんどん掘って行けるので愉しい(interest)。

反|脱原発しても全然安全になんかならない


先ずこの動画を見てほしい。この中で印象的なのは「日本人って何でこんなにだらしないのか。と。あれだけの事故を起こしながら反省もしていないし新しい組織も作っていないし、新しいやりかたを”これだ”と示していない」という部分。
つまり大前氏の言わんとしていることは、大小に関らず事故・トラブルが起こった場合に、その原因、問題点を論理的・理性的に分析して改善、改良に繋げるのが理性的大人の取るべき行動であって、誰が悪いだ誰のせいだと吊るし上げる対象探しをするのは子供のすることだということだと言ってよいだろう。 後者は一見「責任追及」であるかに見えて実は「俺は悪くない」「私は悪くない」と責任回避の自己保身の行動である側面の方が強いのである。今、日本のマスコミ(特に朝日)、そしてマスコミの論調に同調して正義漢ぶっている人たちの取っている行動はこれであるという自覚を持った方が良い。責任追及しているつもりになれて、かつ自己保身出来る実に都合の良い態度なのだと。

さぁ、それで本題であるが、、、殊、原発問題に関しては橋下氏の近視眼的対応(というより反応)は目に余る。日本復興計画 Japan;The Road to Recovery
以前から大前研一氏の本を読んでいたみたいだし、また池田信夫氏のブログを読者であるらしいし、つい先頃池田氏とtwitter上で意見の交換を活発にしていたりもしたので、それなり以上の的確な情報は把握していたと思われるのに、再稼働問題を含む原発問題に関してのコミットメントは稚拙の一言・・・小学生並みの正義感である。
もっと先を見越した時局判断のできる人だと思っていたのだが、買被りだったのか。

原則論を言えば、池田氏の指摘するようにエネルギー行政に地方自治体の長が兎や角言える法的権限はない(意見を述べる自由はあるという意味の権利はあるが)。中央政府であっても、国会審議を経た法律改正、特別立法等の手続きを踏まないで恣意的に原発稼働を差し止めることは違法(贔屓目に言っても脱法)行為である。この点は押さえておく必要はある。

それはそれとしても直接的行使力はなくとも、関西連合または維新の会として意思表示してオピニオン(世論)をリードすることには大いに意味があるので、では、じゃあ、どういうオピニオンを発信して行けば良いのかという話であるが。

なぜ安全性を自分たちで担保しないのか | 物語り研究所「夢前案内人」

以前のこのエントリーで既に述べた通り「実際問題安全性が確保されているのかどうかが大事」なのであって、「なんとなく怖い」という子供の情緒論に同調することではない。
因みにであるが、反原発派、嫌原発派の人も憶えておいて欲しいのが「稼働していようが停止状態であろうが原発の安全度(危険度)は同じ」である点。機械工学的見地を入れれば「動いている方が寧ろ安全」とさえ言えるという点。
そして以下に引用するH2Oプロジェクトの詳細分析をみれば分かる通り、関電管内の(少なくとも大飯3号機、4号機)に関しては十分安全が担保されているということ。

English trans-script is available on all these Videos bellow.



  • TeamH2O発表「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」最終報告 資料(約13MB)
    ⇒ http://pr.bbt757.com/pdf/conclusion_111227.pdf
  • TeamH2O発表「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」最終報告 補足資料
    (全プラント比較:約290KB)⇒ http://pr.bbt757.com/pdf/apdx_chronology_and_power-loss.pdf
    (教訓の適用可否:約438KB)⇒ http://pr.bbt757.com/pdf/apdx_applicability_to_pwp.pdf
  • Press Release – What should we learn from the severe accident at the Fukushima Dai-ichi Nuclear Power Plant?
    ⇒ http://pr.bbt757.com/eng/

この点は明白な事実である。

問題は同上エントリーでも書いた通り

経産省の「原子力行政全般に対する不信」がその正体なのだと分かろう筈。 であるならば、幾ら改善策を施そうが、また、その改善策が実際に有効なものであっても、これを国民から信用されていない経産省、原子力安全・保安院の方を向いて行なっている限り、一般市民からの信任は得られる筈はない。

国および電力業界が信用を失っているのが事実であるが、この付和雷同世論に同調して「お前ら信用できないから(原発の運転も)信用できない」というレベルの低い循環論法を展開するのではなくて橋下氏および維新の会は、原発再稼働を前提と宣言した上で「但し、その代わり市民を説得できるに十分な状態を作り、かつ、この情報を100%開示せよ」と関西電力にプレッシャーを掛ける戦法(協力姿勢を示しつつプレッシャーを掛ける「敵対的協力戦法」)を取るべきだったのだ。 十分な裏付けのあるデータを基に人々を説得するのは橋下氏の得意とするところではなかったのか?

どうも、ここまでのところを観察する限り、原発再稼働に反対の人が多数派だと橋下氏は本気で思っているきらいがあるが、ハッキリ云おう「それは大いなる誤解。勘違いも甚だしい」と。若しくは「あなたの取り巻きに偏った意見の人が集まり過ぎているのではないですか?」と。

これが断言できるのは簡単な話で、詳細な分析による科学的データなど要らない。
大阪市中を見回して、節電をしているのは役所と付き合いのあって仕方なく協力している組織、団体、企業、「お願い」という名の「行政指導」に従わざるを得ない企業だけであって、一般家庭で節電協力をしている人は、イデオロギー的にそっち方面の人か、朝日新聞の熱心の読者だけである。
大阪の人間は「実際的」である。よく利己的と勘違いされることがあるが「実際的」なのである。合理的必然性があると判断されたら、ちゃんと節電協力する。それがないから協力しない。ただそれだけである。
この市民の行動を「既に答えは出ている」と受け止めれないのなら政治家として失格だよ、橋下くん。

あなたが今まで批判し、敵に回してきた人達というのは、「サイレント・マジョリティ(寡黙な多数派)」の意向を見抜こうとせず「ラウドネス・マイノリティ(声の大きい少数派)」の圧力に屈するという安易な道を選んできた既成政党であり既存政治家だったのじゃないのですか? 彼らが安易な道を選んできたことで、世の中「既得権益者得」「利益誘導巧者得」になってしまったのを打破し、改革するために大阪知事になり、維新の会を結成し、知事を辞して大阪市長になり、してきたのではないのですか?

少し前にその発言が物議を醸した古賀氏の云ったのとは全く別の意味で「停電テロ」は起こるかもよ。
それは大半の市民による「原発停止したままで居てられると云うならやってみろよ。節電協力なんか絶対にしないから。夏の電力消費ピーク時に停電になったら、その時が見物だね」というかたちで。
これの責任を関西電力の方へ持って行くのはお門違いだと言っておく。 橋下くん君達の責任だからね。

今からでも遅くない、「180度方向転換して、原発再稼働:その代わり安全監視機関を国主導ではなく地域主導で作ること」 → つまり「自分達の安全は自分達で確保維持していく」という方針に舵を切るべきだ。

本当に安全を考えるなら、老朽化しているだけでなく設計思想の古い(古過ぎる)炉は廃炉して新型の炉に立て替えていくべきだ。まだ実用段階には無いが第四世代の原子炉なら大阪の街中に建設しても全然問題ないと僕個人は考えている。 実際、使い道に困っている遊休地は埋め立て地にいっぱい在るのだし。 ある程度以上のリスクを伴っているテクノロジーは、自動車然り、航空機然りで「リスクをコントロール下に収めることで致命的な事態に至らないようにする」ことが定石であり、リスクを遠ざけることは逆に致命的な事態が起こることの予見性を失くす(視野の外にやることなので)ということを、もっと皆は知っておくべきだ。

CHINE • Bill Gates se branche sur le nucléaire | Courrier international
http://www.courrierinternational.com/article/2011/12/08/bill-gates-se-branche-sur-le-nucleaire
ビル・ゲイツ氏が中国の原発に関心 中国で提携先を模索 2011/12/12(月) 14:57:33 [サーチナ]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1212&f=business_1212_199.shtml

先頃流れたこのニュース。個人的には「中国に先を越された!」と思ったのだが、これに中国に先んじて手を挙げるべきだったのだよ橋下くん。 池田信夫氏に頼めばビル・ゲイツと話し合う場を設けるくらいはして貰える筈だから、依頼してみてはどうだろうか?

本題よりも重要かもしれない補記: 上に引用のH2Oプロジェクトの詳細分析の中で非常に気になる、看過できない点として「全電源喪失について検討するべきか?」との東電からの問い合わせに対して「考慮に入れなくてよい」と原子力安全委員会が返答している(福島の事故以前の話)という点。 全電源喪失状態が長時間続くと燃料損傷、炉心溶融することは、少なくとも10年前から原子力技術者の間では常識化している(庄司調べ)ので、こんなナンセンスな問い合わせをする東電も東電であるが、これに「検討の必要なし」と答える原子力安全委員会も原子力安全委員会である。 この点はきちんと責任追及されるべきであるのだが、この情報を伝えているマスコミは皆無(反原発の朝日ですら)なのは、どういうことであろうか? この一点を取上げても、彼は(安心という情緒論を振り回すだけで)真剣に安全を追求するつもりなど更々無いのだと言って良いだろうと思う。

流動性とは「バリアフリー化」されているか否か

大筋同意できる。特に「雇用の流動性のなさ」の問題は大いに同意できる。

若い世代でネガティブな労働観が増えている! お金儲けは悪だと洗脳され、会社ギライが多い日本人|これからの日本について、自分のアタマで考えよう!|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/16881

それだけに「英語ができないと・・・日本語しかできない人が多いのは問題」的な締めになっているのはどうなのかなぁと思う。自分のアタマで考えよう
英語ができないよりはできた方が良いに決まっているが、「できる or できない」の問題ではなく「世界に対して何処までリーチできるか」の問題が大事・・・つまり単に英語理解力/会話力が身に付いているだけでは大した意味なくて、その後の「それで? – So what?」の部分が大事な筈。

もちろん文脈込みで読めば、そう言わんとしているのは分かるので、対談者ご両人というよりは、記事を纏めた編集者のセンスが悪いって話だけかも知れませんが。

本題だと思われる「雇用の流動性のなさ」の問題は当ブログでも何度も取り上げているし、その度ごとに引用している(に等しい)池田信夫氏も、それこそ何度も何度もしつこいくらいに指摘している問題です。
これは平たく言えば、ある時に所属している集団が自分の居場所として不適だと感じたら他の集団に「鞍替えする機会均等という意味の自由」が或程度以上存在しているか否かということです。「機会均等という意味の自由」というのは「バリアフリー化」されているか否かだと言い換えられます。

このことは少し考えれば分かる通り、いじめ、特に「日本特有のいじめ」の性質とも通底します。クラス等で無視されるというのが、いじめとしての効力を大きく発揮するのは、その集団以外に居場所を見付けられるかどうかのバリアフリー度合いと反比例するからです。
この意味では日本の社会自体がそもそも「いじめ体質」であると言えると思います [1]

[amazonjs asin=”439661392X” locale=”JP” title=”日本人の9割に英語はいらない”]先述の英語の件も、英國の言葉という意味の英語ではなく、実は米語でもなく、Global English化された==バリアフリー化された英語であるという点。この点を見落として「英語、英語、、、」と言ってもあまり意味はない。
つまり英語自体を学ぶというのではなく、その「バリアフリー感覚」を学ばないといけないのです。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 大人がそういう社会を形成しておいて「いじめはいけない」などと言っても子供に対してどれほど説得力があるのだろうか

慣用句の嘘「火のないところに煙は立たぬ」

言葉通り、文字通りであるなら間違いではない、その通りなのだが、、、

より正しくは「煙を立たせようと火を点けるヤツが居る」である。

少なくとも、世間一般にこの言葉が囁かれる時の大概はこっち方である。
[amazonjs asin=”4167655047″ locale=”JP” title=”偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)”]

この言葉を錦の御旗にして噂を広めるのに加担していている人の言葉も十中八九信用できない(煙を立たせようとしている当の本人である場合も)。

燃えやすい乾いた木を燃やせば煙は大して発生せず、煙が盛大に立つのは寧ろ燃えにくい生木である。

実際、ネイティヴ・アメリカンや戦国時代の武将は、狼煙を上げるためには、乾いた木や油を使って火を或程度以上起こしてから、これに生木をくべた。

生木に火を点けようとしてみたことのある人なら分かるだろうけど、生木はちょっとやそっとのことでは火が点いてくれない。やっとのことで何とか火が点いても、もうもうと煙が立ち上り、煙が目に染んで痛いわ、咳き込むやら、、、。

(現実の火災等の場合とは違って) 煙が上がっているのを見付けたら、火元を探すのではなく、咳き込んでいる奴、扇いでいる奴を探す方が良い


非正規雇用($value) = s/貧乏/貧乏でない/g

誤った世論が形成される(既にかなり誤った世論が形成されており、これが助長されると言う方が正しいが)と思うので批判を加えておきます。

あなたの隣にもいる「貧困女子のビンボー生活」 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32064

以前にも「現象としての男女差別を駆逐しても女性は幸せになれない」で紹介した以下

池田信夫 blog : [中級経済学事典] 評判メカニズム

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301157.html

を読んで頂ければ分かる通り、「非正規雇用==貧乏」∴(ゆえに)「s/非正規雇用/正規雇用/g するのが正義」という論は間違いで、「非正規雇用($value) = s/貧乏/貧乏でない/g」にするというのが論として正しいのです。

つまり「非正規雇用を貧乏たらしめている社会システム(日本の病理)が問題」なのであって「非正規雇用であること自体が問題」なのではないという点。
つまり(「つまり」を繰り返す悪い癖 ;)「”正規” 雇用」という概念自体が、日本の場合が特に、差別システム(特権階級温存システム)として機能しているという点に気付かないと駄目なのです。「特権階級」とは当然「既得権益保持者」です。

もっとハッキリ言ってしまうと、「私は正社員(正規雇用)です」と仰る人は全員「既得権益保持者」なのです。

この日本という社会は、官に限らず民に至るまで広く既得権益保持者温存を強く促す「カルテル(談合)体質」に出来ているということ。
このカルテル体質が「貧乏と云うほどまでではないという意味での普通で居られるはずの人」(貧乏になって当然と言える「救うべきでない貧乏」ではない人)までも貧乏にしているというのが現実。


2012年3月21日21時09分:追記
「いまいちわからない(わかりにくい)」というお声を頂きましたので、Perl(プログラミング言語)の正規表現(の拡張)の説明は以下をご覧下さい。
http://homepage2.nifty.com/sak/w_sak3/doc/sysbrd/pe_k08.htm (「■置換演算子」の項目)

2012年3月22日2時04分:追記
6年も前にこんな良書が出てたのではないか!  三周以上遅れのバカ>自分
[amazonjs asin=”4334033709″ locale=”JP” title=”若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)”]


恐れるべきは恐怖に憑依されること



32年も前に発っせられていた警句が、今頃になって我々の心に突き刺さるとは、、、ニール・ピアトさん脱帽です。

“Witch Hunt (Part III of Fear)”
Lyrics by Neil Peart

The night is black
Without a moon
The air is thick and still
The vigilantes gather on
The lonely torch lit hill

Features distorted in the flickering light
The faces are twisted and grotesque
Silent and stern in the sweltering night
The mob moves like demons possessed
Quiet in conscience, calm in their right
Confident their ways are best

The righteous rise
With burning eyes
Of hatred and ill will
Madmen fed on fear and lies
To beat and burn and kill

They say there are strangers who threaten us
In our immigrants and infidels
They say there is strangeness too dangerous
In our theaters and bookstore shelves
That those who know what’s best for us
Must rise and save us from ourselves

Quick to judge
Quick to anger
Slow to understand
Ignorance and prejudice
And fear walk hand in hand…

拙訳:
月灯りひとつなく暗い夜の闇
動かない空気は重苦しく
自警団員たちはひとつになって
ただ松明だけが斜面を照らす

かたちが歪んで見えるのは揺らめく灯りのせいなのか
その表情はグロテスク
うだるように暑い夜の「静けさ」と「情け容赦無さ」
暴徒は悪魔に取り憑かれたように進み
良心は沈黙し、“正義”の前におとなしくなる
この選択が最善と確信するゆえ

憎悪と病的意志に燃え上がる瞳には
いよいよ正しいとしか映らない
狂人たちは恐怖と嘘を喰って生きる
打ち倒し、焼き払い、殺すことを手段にして

人々は言う「我等を脅かす異分子が居る」と
“異邦人”“異教徒”というだけなのに
人々は言い立てる「危険過ぎる正体不明がそこにある」と
“劇場”“書店の棚”に(在る知識であるのに)
何が我々にとって最善かを知っていると称する人々は
きっと我々を暗愚から救い、導いてくれるに違いない

安易に怒り、安直に裁く
そのくせ理解するのは遅い
無知と先入観と恐怖は
いつも手と手をとりあって歩いていく

Moving Pictures
Studio album by Rush (wikipedia: Rush(band))
Released:February 12, 1981
June 3, 1997 (remastered CD)
Recorded:October – November 1980 at Le Studio, Morin Heights, Quebec
Genre:Progressive rock, hard rock
Length:40:07
Label:Anthem (Canada), Mercury
Producer:Rush and Terry Brown
http://en.wikipedia.org/wiki/Moving_Pictures_(album) より


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