リスク管理とは:或る科学ジョークを引いて

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『原発危機と「東大話法」』:池田信夫氏「安冨歩氏への反論*」の分析(1)〜(5)
http://ameblo.jp/anmintei/entry-11132924003.html
リンクは(4)へのもの

池田信夫 blog : 安冨歩氏の知らないリスク・コミュニケーション*
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51767689.html

ニ氏のやり取りを一通り読んで、或る結構有名な科学ジョークを思い出した。

男性の数学者とエンジニアを女性と一定の距離で向かい合わせて
「じゃんけんで勝ったら、彼女との距離の半分進むことができる」と告げたら、
数学者は「それじゃあ永久にじゃんけんを繰り返しても彼女との距離をゼロにできないということではないか!」と半ば怒り調子で嘆いた。
かたやエンジニアは嬉々として「或程度回数じゃんけんに勝てば、望むことを実行するに実用上問題ない(十分な)距離まで彼女に近づける!」と言った。

「論理的にゼロと証明できないものはゼロではない」という点に拘って終始している安冨歩氏と、「実用上無問題とみなして良い」と主張している池田信夫氏という構図である。
主張していると言っても、ちゃんと(その他の関連する記事も含めて)読めば分かる通り、池田氏は主観的個人の意見を言っているのではなく、客観的信頼に足るデータを積み重ねてそう主張している。
更に安冨歩氏の主張する
「(1)低レベル放射線被曝による深刻な障害の発生を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
「(2)浜岡原発周辺で大規模な地震が起きて事故になる可能性を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
というのは一見すると尤もだと思うかも知れないが、科学リテラシーが一定以上ある人にはご存知の通りこれは「悪魔の証明」と呼ばれるもので・・・「ない」ものの証明は原理的に不可能で、背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明するしかないが、これ自体「ないものを証明」したことには(実用上なっても)原理的にはなり得ない・・・これを要求している点。この要求をしている段階で「私は科学リテラシーが欠如しています」と宣言しているのと同義である点に注意しなければならない。
かたや池田氏は「背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明」は充分以上にしている。

いま我々が必要としているのは「論理的にゼロかどうか」論ではなく、「実用上問題無いといえる線は何処かを見極めること」であることは、論じるまでもない話だと思うのだが。

リスク管理については以下が非常に有益な視点を与えてくれます

SYNODOS JOURNAL : 「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性 山口浩
http://synodos.jp/society/1764

大阪市政のこれから…橋下氏と平松氏

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私は橋下氏および大阪維新の会支持である。
その実現しようと提言している内容も概ね賛同できる。
細かい点に於いては異論点も無くはないが、一番肝心な点で橋下氏は○、平松氏は×だと判断を下している。
この根拠として先ず以下を精読頂きたい。

池田信夫 blog : 効率の高すぎる政府
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292556.html

この記事で述べられている旧来型の日本で主流の組織、集団のあり方「閉じた系の中での “ご互さんゲーム”」が既に時代の趨勢として通用しなくなっている(それが寧ろ経済停滞の主原因になっている)システムであるという点は国政だけでなく大阪市政、大阪府政に於いても全く同様に当てはまる問題である。
「国が変わるのを待っていたらそれより先に地方が沈んでしまう」というのが橋下氏の基本的問題意識 [1] で「ならば、関西圏で独自に変わってしまおう」というのが彼および大阪維新の会の一番根っこにあるコンセプトである。
では、どう変わるのか、どう変えるのかという設問が次に自ずと出てくるわけであるが、これを理解するために以下もご精読頂きたい。

池田信夫 blog : 局所効率化と全体最適化
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292560.html

ここで述べられている「コーディネーションの失敗」が正に国、地方を問わず経済界をも巻き込んだ大問題として膠着状態に陥っているのが現在の日本の姿であるわけだが、これから抜け出す方策(引用文中で言う「Bの山(局所最適)からAの山(別の局所最適)へ移動」する方策)は同じく文内で説明されている通り「部分的な修正」「時間を掛けて徐々に変化」では不可能なのである。 大事な点なので同文章内から吹き出すと、

一つの均衡から他へのシステム間移行は、市場メカニズムで行うことはできず、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こるということになる。ところが同質的なメンバーで構成される関係依存型の「総動員体制」では、突然変異や撹乱が抑制されるので、システム間の移行は困難になる。しかも危機に直面すると、「日の丸検索エンジン」のように、逆に総動員で既存のシステムを守ろうとする傾向が強い。

だから前の記事にも書いたように、行政の中だけの局所的な効率化を考えていてはだめで、全体的な最適化を考える必要がある。それは市場だけではできないので、重要なのは意図的にシステムを撹乱し、さまざまな実験を行って最適解をさがすことだ。そのために役所にできる最善の政策は、規制を撤廃して行政の代わりに資本市場のガバナンスにゆだね、紛争を事後的に低コストで処理する司法的なインフラ(ADRなど)を整備することだろう。

箇条書に要約すると

  1. 局所均衡から抜け出すのには市場メカニズムだけでは不可能
  2. なぜならば、局所均衡の恩恵に浴している者(既得権益保持者)は他に「より良い局所均衡がある」と分かっていても今ある既得権、今まで費やしたコスト [2] の見返りの可能性を失う方を恐れて頑な反対勢力になりやすい(サンクコストの問題)
  3. であるので、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こすしか選択の余地はない
  4. この後は、さまざまな実験を行って最適解をさがす状況が出来るよう行政の事前介入(規制)を無くす必要がある
  5. その代わりに資本市場のガバナンスにゆだねる
  6. 資本市場のガバナンスにゆだねると必然的に起こってくる問題はあるが、これは司法的なインフラで事後的に処理するべき
  7. この為、司法的なインフラの整備は必須

簡単に言えば、問題があると既に分かった局所最適=Bの山は意図的に潰して [3] 平地にしてしまえば別の局所最適に向かわざるを得なくなるので、第一段階として「Bの山を潰す」必要が、そしてこれに次ぐ第二段階として新たな局所最適に向かう過程は基本的に自由競争(市場原理)に委ねるので「事後的チェック機能=司法的なインフラ整備」は必須ということである。

本題に戻って、「大阪市職員と協調的に穏便に改革を進めていく」と方針している平松氏の主張は日本人的には「美しく」感じられ、かたや抜本的かつ一挙に改革をしようと提言している橋下氏は「強引」で「乱暴」だと感じている人も多いだろう。 しかし上述の論を読まれた後では今や状況として「強引」で「乱暴」とも受け取れる [4] 改革をするしか選択の余地が(少なくともこのまま凋落したくなければ)無いのであるとお分かり頂けるであろう。 かたやの平松氏の方針は、ご当人がその意図で動いていないとしても結果的に、既得権益保持者を温存することであるのは明白であるのみならず、中途半端にいじろうとすると寧ろ混乱が増すという点で×なのだ。

いま状況が必要としている改革が「強引」で「乱暴」なもしかないのであって、橋下氏個人が「強引」で「乱暴」なのではないということ。この点を履き違えては大局を見失う。
然るに、ものの見事と言って良いほど、反対勢力(既得権益保持勢力)は「ハシズム」と呼称して橋下氏個人を「強引」で「乱暴」な独裁者であるかのように論理をすり替えて有権者の反感感情を呼び起こすキャンペーン [5] を張っているのは、何をかいわんやである。
また同じく反対勢力が独裁的と攻撃している公務員制度改革であるが、これも内容をよく検討すれば「事後的チェック=司法的なインフラ」を整備すると言っている以上でも以下でもないのである。
このように概観してみると橋下氏が提言している内容は考え方に一貫性があり、かつ時代の要請に沿ったものであると結論付けられる。
 以下も参考になります。

「大盛り上がり」大阪決戦で問われる改革は「アメリカ型」か「EU型」か | 高橋洋一「ニュースの深層」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26364

池田信夫 blog : 日本の経済システム改革
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292557.html

本題を離れてより本質的なことに言及すると、上述の論を読んで頂けた後ならば、これは大阪市&大阪府だけの問題ではなく、また日本の国政の問題なだけでもなく、我々日本人が文化的に好しとしてきた・・・解決策を考えるよりも問題がそもそも起こらないよう思考(志向)しやすい性質であり、これはイコール問題が起こると直ぐに規制(事前介入)強化をお上に期待・要求する思考法・・・考え方(美意識も含むかも知れない)が変革を余儀なくされているという問題意識をも持って頂けると思う。
特に教育関係者諸氏には上述の論と共に以下に引用する記事中の

私は大きな失敗はよくないと思うが、小さな失敗はむしろ好ましいと思う。イノベーションは、小さな失敗の積み重ねだ。イギリスの産業革命は、試行錯誤と失敗から生まれたのだ。これは「ブリコラージュ」と呼ばれる発見的な過程だ。あなたは小さな失敗を積み重ねることによって新しいことを発見するのだ。 だから日本人は、小さな失敗を許すべきだ。

という言葉をよく噛み締めて頂きたい。「小さな失敗」に神経質になることが「大きな可能性」の芽を摘んでいることに気付いてい欲しい。

池田信夫 blog : タレブ、福島事故を語る
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51742840.html

2011年11月17日 00:52 一部加筆(文意は変わっていない)
2011年11月18日 19:32 追記:一部twitter上で意味を取り違えて炎上している人達が居るみたいなので念の為に補足すると、皆で登っている木に喩えると「今までの木(局所最適B)」は腐ってきていて、部分修正や部分補強での時間稼ぎ(問題先送り)でどうにか凌げるレベルをもうとうに過ぎてしまっているので「より最適な(少なくとも今よりはマシな)木」に「登り直そう」と言っているのが橋下徹氏である。であるので今までの木の上の方に登っている「いい目をしている」人達はいつまでも降りようとしない(のは或る意味当然だが)上、問題が深刻化してきている現段階となっては木から降りるよう呼びかける穏便な手法を取っていられる時間的猶予は最早無くなっているので「古い木を切り倒す強行策に打って出るしかなくなっている」のが現状であるということ。「木にしがみついて降りようとしない人達」から見えている風景は「自分達が登っている木を切り倒そうとする乱暴者」に映ることは容易に想像できよう、が、この現状認識さえわかれば「いつまでも降りようとしないお前達が悪い」という話であることはお分かり頂けよう。 対して「木から降りるよう根気よく説得を続けていく」と言っているのが平松氏なのだが「今までの木(局所最適B)」に満足している人達はそれが完全に破綻するまでそこから離れようとしないというのは歴史が教えるところで、時間的猶予が全く無くなっている現在では最悪の選択なのである。 新たな木に登り直す時に不平等が出ないように機会均等の所々の知恵も同時に提言している点からみても橋下氏は木を切り倒そうとしているだけの乱暴者ではないことは明白。また、新たな木に登り出してみてはじめて認識できる所々の問題 [6] が出てくるであろう予想は出来るわけだが、これについても「実際の運用に際してのルール作りは柔軟に」と橋下氏は表明しているので、全然暴君でも独裁者でもないのである。
念の為に更に付言するなら、腐り始めていてこのままでは危ない木は「もっと腐っていよいよ倒れ始めた時には被害者は遥かに多くなる」ということ、つまり「その時には、今手を打てば救える人をも救えなくなっている」ということを強く認識するべきである。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. はじめて大阪府知事選に出馬する段階で表明している
  2. 仲間に入れて貰おうと費やした努力等も含む
  3. しまわないとその山の上に居るものはいつまでも降りようとはしないので。また、この山を形成している要件の中に行政の事前介入(規制)も含まれていることに注意されたし。
  4. 特に既得権益保持者には
  5. 情緒的反応を呼び起こして大事な論点から有権者の目を逸らせてしまう「はぐらかし戦法」
  6. 登り出してみないとわからない問題

冷戦のツケをこんな処で払わされそうとは

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以下ページに池田信夫氏が要約を載せているが直訳過ぎて、『放射能と理性』を読んだ人ならこの直訳でも誤解無いだろうが、読んでいない人には誤解を受ける可能性があると思われますので老婆心ながら意訳を試みるというか、解説を交えた読み下しにします。参考まで。
(当該インタビュー上でアリソン教授が語っていない付加された文言は、『放射能と理性』を読んで私が理解した内容から付加したものです。また字幕も結構ラフなので英語が聞き取れる人は英語を聴くようにして下さい)
尚、そのままでも差し支えないと判断した部分はそのままにしてあります。

池田信夫 blog : 原発の被災者は帰宅させよ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51753116.html

  • 被災地に見られたのは被曝の恐怖。問題は被曝自体ではなく、被曝の恐怖。これはICRPの勧告が誤っていることが起因している。
  • 冷戦時代には、冷戦構造および核の配備を正当化するために殊更に「核の恐怖」が過剰に喧伝された。これ故(人々の恐怖心も過剰に醸成された故)許容被曝線量をできる限り低くすること・・・自然界のレベルになるべく近づけないと人々を安心させることは出来なかった [1] 。この要請から出てきたのがICRPの勧告である。
  • 今は虚構ではなく現実的に「深刻なリスクなしにどこまで高い放射線が許されるか」ということを考えるのを要求されている。
  • この現実的ケースで想定される許容被曝線量は現在の1000倍ぐらい高い。
  • その現実的想定で考えれば帰宅できる。避難している人々は全員帰宅すべきだ。
  • 日本政府はICRPに従って年1~20ミリシーベルトを基準にしているが、これはバカげた低い基準だ。
  • 毎月100mSv、つまり年1200mSv、現在の1000倍が適切だ。ICRPの勧告を変えることが私の重要な仕事だ。
  • LNT仮説は、「針の上で何人の天使が踊れるか」というような神学論争。医療の現場では、放射線を何回にもわけて照射している。これは閾値があることを前提にしている。

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LNT仮説について知らない人は以下を参照してみて下さい。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/search?q=LNT%E4%BB%AE%E8%AA%AC

——–[ 脚注 ]—————-
  1. つまり核配備を正当化するために「1000倍誇大に核の恐怖を煽ったがために、安全基準も1000倍誇大にしないとバランスが取れなかった」という虚構基準であるということ

改めてTPPには大賛成

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その後色々と勉強した結果、以前に書いた記事
楽観的TPP賛成論は嘘だ、が
の内容は一部誤解される可能性が低くない記述があると後日読み直して思いましたので補足かたがた訂正をします。
一番参考になった [1]のは以下

「食料自給率40%」は大嘘!どうする農水省|食の安全|JBpress
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4098

以下も参考に

「食料自給率40%」の虚構さえ見抜けぬマスメディアの不勉強 日本のマスメディアは「公衆の番犬」ならぬ「既得権益の番犬」か?
http://diamond.jp/articles/-/3878

池田信夫 blog : TPP参加による消費者の利益は生産者の損失より大きい
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51751984.html

「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは事実だが、大半(八割方)の農業は壊滅するだろう・・・
 「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは調べてみると、日本国内で生産している農産物で輸出できる付加価値性の高いもの [2] が結構あるという意味だけでなく、海外に出て行って最適地の現地農業従事者を組織&指導して国際競争力のある農産物を作るに至れる(つまりアグリカルチャ企業になり得る)だけの農業経営ノウハウを持っている農業従事者は結構居るという意味も含んでいると理解するのが正しいようです。
 また、引用記事中に「厳しすぎる国内の品質基準を国外市場の基準に合わせるなどすれば、輸出だってどんどんしていけるでしょう」とあるように、国産農産物がコスト高になっている一因は「過度に安全・安心を要求する消費者」が法的規制や安全基準(どちらも「過度の」)を要求してきた歴史の積み重ねにあると・・・つまり日本人自らが同胞の農業の国際競争力を奪っておいて農協の「自国の農業を守れ!」というプロパガンダにいとも容易く情緒的に同調してしまうのって激しくおかしくないですか? それも「安全・安心の美名の下に」・・・これって何かと似ていません?

脚注に書いた「TPP加入すると短期的には失業者が急増することはほぼ確実」も、その後調べていく内に「かなり怪しい」と思ってきました。 より正確に言い直すなら「TPP加入すると改善する雇用と逆に増える失業とプラスマイナス・ゼロで。この結果、短期的には今の良いとは決して言えない雇用情勢は横ばいのまま暫く続くであろう」という処が妥当のようです。

つまり、TPP自体は結構楽観視して良いみたいと、見解を修正致します。(さすがに池田信夫氏のように「大した問題ではない」とまではよぉ言いませんが)

と、ここまで書いていた處へ新たな記事が舞い込んできました。

農水省はなぜTPPをきらうのか : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1399407.html

あっそうか! 主要穀物は農水省が直接買い付けているという話、知ってたくせに忘れてたわ。あっそか、そっか、、、という感じ。

となると、将来世代(今の子供達以降)にとって活躍できる可能性であるフィールドは少しでも広い方が良いという当初からの考えは変わらないので、これを理由にTPPには大賛成。
この言辞は、TPPは端緒に過ぎず、将来的には中国、タイ、インドとその領域を広げて行って、より風通しの良い環境が出来ているという将来像を想定して言っています。

ここまで来るともう余談でしかないですが、、、以下も併せて読むと農協関係がプロパガンダを吹き込んで医師会 [3] も徒党に巻き込んでいる様が見て取れます [4]
日本農業新聞 e農ネット – 医療自由化目標 「入手していた」 米国文書で厚労相
 http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=10331

TPPで国民皆保険も崩壊し、医療難民が続出する | JAcom 農業協同組合新聞
 http://www.jacom.or.jp/column/nouseiron/nouseiron110214-12528.php

——–[ 脚注 ]—————-
  1. ソース的に信頼できると判断した
  2. 日本で生産する限り高コストは避けられないので高い値段でも売れる高付加価値のものでないと生き残れない。例えば魚沼産コシヒカリなどは生き残れると個人的に予想する
  3. 普段エビデンスにうるさい医師達がエビデンスが不確かなもので声明を発表しちゃうのもどうかしらん?と思う。医師一般の信用問題もなると思うのだけどな。
  4. つまり、医師会の云う「日本の医療崩壊の危険性」というのも大嘘

除染問題とイジメ

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 あまりに下らない内容の番組(ニュースも含む)が多いので、あまりTVを観なくなっているのだが昨日久々にニュースを観ると、除染することがいつの間にか既定路線になっていて、どの範囲を除染するのか、除染する基準値の話になっている。
[1]
文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)

池田信夫氏などが何度も指摘しているように、福島第一原発のごく近い範囲(以下マップの赤色および半径10km圏内)を除くと健康に害をもたらす可能性は事実上ゼロ [2]・・・つまり除染の必要など無い(除染を正当化する科学的根拠は無い)のにも関わらずだ。
 よく落ち着いて考えてみて欲しい。国や地方自治体が動き出すのを待てずに自腹で自宅を業者に頼んで除染している人が散見されるというニュースを。
洗い流した汚水は下水道を経由して最終的には河川に流されるので、もし危険なレベルで放射性物質がそこに在るのなら国または自治体がこれに待ったを掛ける筈である。

池田 信夫:除染の前にLNT仮説の見直しを : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1381861.html

日本の「被曝限度」は厳しすぎる:日経ビジネスオンライン
オックスフォード大学ウェード・アリソン名誉教授インタビュー
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20111012/223166/

放射能と理性 なぜ「100ミリシーベルト」なのか (著)ウェード・アリソン 除染を正当化する科学的根拠は無いという点に関しての詳細情報は引用したページ(及びそこからリンクしている関連ページ)を参照して頂くとして私のしたい話は別の処にあります。
除染をして欲しいという福島県中心および近隣地域の人の気持ちは人情として分かります。何か得体の知れないものが付着している環境で暮さないといけない気味悪さ、気持ち悪さ [3]

 しかしよくよく考えてみると、科学的根拠が無い・・・つまり「実害が無い」もの・・・にムードや気分(つまりは感情=主観)で拒否反応しこれを忌み嫌う行動様式というのは、学校等で「○○キモい!」 [4]とイジメの行動の一環で「ああ!この鉛筆○○が触ったから、もう使えないわ!」と言ってゴミ箱にポイと捨てる、「この席、○○が座ったから座るの嫌だ!」と言って違う場所に座る・・・などの行動様式と根っこの部分で一緒だということです。
これは当然、風評被害を醸成するもの(マインド)にも当て嵌まります。
「風評被害だ!」と自分たちが被害者側に回るケースに於いては言い立てておいて、その同じ口で「除染!除染!」と言っている、そのご都合主義さに気づいて欲しいのです。
論理的にそうする正当性がないのに排除・排斥をしようというのは当然「差別」とも密接に関連します。

 この原因として福島第一原発事故の遥か以前から家庭衛生商品を売っているメーカーが「滅菌・殺菌商品」を売る一環で「身の回りには目に見えないけども、これだけ沢山のバイ菌が在るんです! [5]」とCM内で、CMを出稿している番組内で取り上げさせて人の恐怖心を煽って、これに付け込んで商売をしているというのも挙げておくべきかと思います。
身の回りに目に見えない多くの細菌が棲んでいることは嘘ではありません。事実です。 事実ですが、では、これがどの程度を超すと健康に悪影響があるのか、逆にどの程度までは事実上無害で気にする必要が無いのかという話は綺麗サッパリ抜け落とさせて、「細菌=汚い、不衛生=身の回りから排除すべき」というイメージ誘導をしているという点に注意を払わないといけないのです。
 少し本題から逸れますが大事なことなので記述しますと、「細菌類は問答無用に排除すべき」という考え方は医療現場でも過去のものになってきています [6]。 イソジン等の消毒液は人体に共棲している定在菌まで殺してしまう事から寧ろ傷の治りを遅くしたり、傷の治り具合が汚くなるなどが判ってきていて、褥創(いわゆる「床ずれ」)などにも生理食塩水または精製水で洗浄するのがスタンダードになってきています。 また、身の回りの細菌も、掃除機を掛ける、拭き掃除するという常識的程度以上に滅菌、殺菌しない方が、程良く細菌が居ている方が(特に乳幼児の場合)免疫作用が日常的に程よく刺激されることから寧ろ健康に益するということが判ってきています [7][8]

 話を本題に戻して、福島県中心に近隣地域に微量とは言え放射性物質が降り注ぎ残存しているのは事実です。が、この量は冒頭に述べた通り大半の地域で健康に悪影響が出る可能性は事実上無視出来る程度の小さなものです。
 この「小さな差異」を許容出来るかどうかの問題。 このマインドの問題は先に述べた通り「差別」を醸成し助長するのと共通するマインドの問題です。

 経済的問題 [9]として除染に反対し警鐘を鳴らしている知識人は多く居ますが、これは心理学的観点での問題でもある点を私は指摘したいのです。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)より引用
  2. 塩分の摂り過ぎ、肥満など日常的にありふれたリスクを下回るので事実上無視出来るという意味
  3. これ自体無知から来ているものだという点には注意を払って欲しい
  4. ○○にはイジメの対象の個人名が入る
  5. 細菌という言葉よりバイ菌という言葉を好んで使っている点に注意
  6. イソジン等の消毒液を傷口に消毒に使っている不勉強な医師は未だ残っていますが
  7. 犬猫等を飼っている家庭とそうでない家庭との比較で疫学調査をした結果アトピー発症に有意な差があった。など。但し、何れもアトピーが発症してから後にその環境にした場合の有意性はかなり低下するとされる
  8. 余談の余談ならが、微量の放射線は寧ろ健康増進なるという説もあります。また、上述の細菌類と免疫の関係からの(少し飛躍した)類推仮説として「限度を超えない範囲での微量の放射線に曝されている方が、それに相応する体内の防衛機序は寧ろ高まるのかも知れない」と言える気がしないでもないです。
  9. 除染費用は将来世代に重く伸し掛かる負担であり、これ以前に既に莫大な財政赤字(借金)を抱えているのに加えて負担増をするのは言語道断

確かに理性ではない何かが反応している

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この記事及び、この記事の元になっている記事それぞれのコメントのやり取りも含めて全部読んで、、、
確かに “論理的” には車内での携帯電話通話をあんなに忌避する合理性は認められないと思う。
論理的ではないなら感情・情緒の問題だと思われる。 実際、筆者に執拗に反論を加えようとしてる方々のコメントは総じて感情的だ [1]

未だガラパゴス化を撤回できず – 政治・経済・医療・地球温暖化の常識に挑戦する – Mutteraway 時事問題 を語るブログ
http://bobby.hkisl.net/mutteraway/?p=3955

日本人の感性はガラパゴス化している – Mutteraway 時事問題 を語るブログ – BLOGOS(ブロゴス)
http://news.livedoor.com/article/detail/5922594/

直感で大胆に予言するなら、多くの日本人が車内等公共の場での携帯電話通話に強く忌避感情を感じるのは、

セックスを代表格とする「秘め事とするべきわたくしごと」を捉える脳部位が反応しているのだろう。


だ。

何でかは現在のところ思い至りませんが、兎にも角にもあの直情的とも言える忌避反応は、こうとでも考えないと説明が付かないと思われます。
脳科学に疎い人には信じられない事なのかも知れませんが、「〜と考える」から「〜という脳反応が起こる」のではないケース・・・つまり脳反応が先にありきで、これを正当化する理由を後から付けているケースというのは割と多いというのが脳事情の真実で [2]、この事を知っていると、あの後から付けた臭さを感じる携帯電話通話を否とする理由一連もこれである可能性が低くないと思うわけです。

脳内のマッピングを検証している学者の方、どなたか検証をお願い致します。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 感情を論理でドレスアップしているが
  2. 脳反応が在って初めて考えというものが生まれる → つまり「思考というのは脳反応に先んじれない」ので自覚できないから

「空気」の汚染の方が遥かに怖い

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前から、そして今も思っていることなのですが「氏名」「住所」「出身校」・・・この程度の情報が果たして「個人情報」なのか?という疑問。
いや、個人情報と言えば個人情報の内です。確かに。
ではありますが、他人に知られて特段不都合がある、この意味での「プライバシー」という範疇に入れて良いのものなのかどうかという疑問です。

この10年くらい、この「個人情報:プライバシー」というものにヒステリックな過剰防衛的に世の中全般がなっているという実情があり、これってよくよく落ち着いて考えれば結構というかかなり異常なのではないか?と思うのです。

あなたがよほど有名人・・・特に芸能人であるとか・・・であるなら何処に住んでいるのか知られるとストーキングの心配があるとか、分かるのですが、一般人が何処に住んでいるか知られた処で、先ず以てそのこと自体に興味を示す人は皆無に近いと言えるし、況してやストーキングの心配など交通事故の被害者になる確率より低いと断言できます。
一般人がストーキングに遭う可能性があるのは「それ以前に何処の誰で何処に住んでいるのかを知らせている相手から」であり、「何処の誰かも知らない見ず知らずの人から」の場合は限りなくゼロに近いと断言して良いと思われます。

「一般人が有名人並みに自意識過剰になっている」と言えば言いすぎでしょうか? [1]

この「私」という「自意識過剰」さは、いま巷に蔓延している放射用汚染に対する “非科学的” かつ “非論理的=感情的” な「安心と安全を混同した [2]」ヒステリックな反応と根っこの部分は同じなのではないか?と思うのです。
実際「汚染」と呼ぶには余りにも笑止なくらい微量の放射性物質が飛散したに過ぎないわけで(以下に引用の画像中の赤色および非彩色の10km圏内を除く [3])。文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)

中島聡氏の「空気」論法 : 池田信夫 blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51747180.html

「私」を最大限拡大した「人の命」論法は、この(昨今の)日本人の多くが持つ自意識過剰さを心地よく擽り「悲劇のヒロイン病」に仕立て上げる。
いや反対に、「悲劇のヒロイン病」にいつでも罹患できる素地である自意識過剰さを持っているから、「私」を最大限拡大した「人の命」論法に簡単にコロっと騙されるのだ。と思います。

さようなら大江健三郎 : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1378824.html

今は表舞台から姿を消した上岡龍太郎氏が20年以上前から言っていた言葉を思い出します。

それ自体は本質的に正しいので誰も正面切って反論を加えにくい、誰の目にも明らかな倫理則、道徳律・・・「親を大切にしましょう」「人の命は尊い」「子供達の未来を…」「愛」「平和」「人権」・・・という言葉を正面切って主張する人間は信用してはいけない。当人は正義のつもりで言っている場合が特に危険である。

この自意識過剰さは真性の意味で自意識過剰なのではなく実に歪んだ病的な自意識過剰さであることは、本名登録であるFacebookが、全世界的には凄い規模で支持され拡大を今なお続けているのに比して日本では敬遠する人が多いのに代表されるのに表れていると言えます。 真に自意識過剰ならば、自分の名前はより多くの人に知られたいと思う方が自然だからです。
見立て様によっては、自分は何処にいるのか他人に察知されない陰に隠れて影響だけは最大限及ぼしたいという実に姑息かつ陰湿な自意識過剰さと言えるでしょう。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「具体的誰かではない他人から監視されているような気がする」というのは一歩間違えば統合失調症者の持ちがちな被害妄想(念慮)に非常に近いと言えますが、今したいのこっちの方向の話じゃないので置いておきます。
  2. 安全は客観的つまり科学的に線引き可能ですが、安心は感情=マインドの問題なので極端な人のそれはご本人自らで解決して貰わないと誰もどうするこもできない
  3. 文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)より引用

狂人と賢者を分ける線

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かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?: 竹林の国から
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-6d73.html

 この記事が参照とし、この記事を書く発端となったと記事中に明記している
「池田信夫 : 脱原発という「空気」 : アゴラ → http://agora-web.jp/archives/1382641.html」
へのトラックバックから池田信夫氏が「一読推奨」とtwitterで本記事を紹介していたのに機会をもらって読んでみた。

 その主論旨は主論旨で「なるほどなぁ」と考察を深める良い情報を与えて貰えたと思うのだが、それはそれとして心理カウンセラーとしての視点として、この本文中に述べられている「自己義認 [1](自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神 [2]、」を設定 [3]し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義 [4]するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくりであるという点に注意がいく。
 だからといって、明治維新の志士たちが統合失調症だったとか、戦時中の軍部(少なくともいわゆる青年将校たち)に統合失調症者が含まれていたなどという、そういう安直な話なのではなく。
 その結果状態は異常と言わざるを得ない統合失調症であるが、その機序のそもそも・・・統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い・・・という観点から、社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に [5]、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか? 個人的見解の域は現在出ていないが、これは多分「イノベーションを生み出す能力の呼び水となる力動」になり得るものであろうと考えている。
この考えが正しいなら、その結果を分ける分水嶺を見極める智慧はないものか?もし、それを見極めることが出来たなら破壊的改革 [6]を避けてイノベーションを拾える機会を社会的に増やすことが出来るのであろうと、希望的観測混じりではあるが、こういう問題提起が出来るのである。

 これについて、どうこう一ヶ言を述べれるほど考えは纏まっていないので、これは自分自身に対しての問題提起でもある。

 

 また、先日書いた記事「“個” の思想は欧米礼賛なのか」で述べた、あの時代(太平洋戦争に向かう前駆的時代)に、そしてややもすると現在でも、誤解というよりは無理解に近い誤彪を犯している「“個” の思想」に対する誤った理解が、どう誤っているのかの一端もここで読み取ることが出来る。

その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」
 これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

彼の言葉を援用して私の言いたかったことを再構成すると、「自己義認」認識の自己のそれぞれが主張をするという構図・・・引用記事中に云う「プロテスタント病」・・・が「“個” の思想」だ、と誤彪しているフシが少なからず日本人の間に散見されるということである。
これだと確かに疲れるし、カオス状態である。このカオス状態を治めれるのは「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」になってしまう。
そうならない社会を目指すのには真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付けることが大事なのではないか?ということである。

これはC・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセスに他ならないのだが、「意識化」「個性化」の意味を神秘主義的オカルトなものに曲解、歪曲、捏造したものを喧伝する者が後を絶たないので、C・G・ユング自身の思想、主張自体が神秘主義的オカルトなものであるように広く世間一般に思われているのは実に残念、、、いや残念を通り越して憤りさえ覚える。 [7]

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「義認」とはキリスト教の中核概念で「神により義とされる事」(教理的解釈は教派によってかなり異なる)であるが、ここでは「自分自身(自己)によって自分自身を義とする」・・・「暗黙に自分自身を神と前提している」という意味で使っている
  2. 世間一般の通念での「神」であるとは限らない。神格化しているものは勿論、そうであると意識されていなくても事実上神同然のものも含む。「およそ “~ism”(主義)と名の付くものは全て宗教である」・・・C・G・ユング
  3. 具体的実在から最適と思わるものを選択する場合と仮想的、夢想的なものである場合を含む
  4. 「私の奉ずる○○(神、天皇 etc)は絶対正しい。何故なら絶対正しい私の奉ずる○○だから。故に私は絶対正しい。何故なら奉ずる○○が絶対正しいから」という完全なる循環論法。なので本文中では「発端」という言葉を使ったが、これは文章構成上の都合で使ったに過ぎなく、実はどこが発端なのかわからない
  5. 我々人間は我々自身を一個の生命体だと考えがちだが多数のモジュールが集積重合したもの…という話はあるが今は話題が逸れるので機会を改める
  6. 改革のつもりが破壊に向かってしまう致命的誤り
  7. この点に興味のある方はC・G・ユングの原著(訳書で構わない)を是非読んでみて下さい。間違っても「ユングの解説書(除く:林道義氏のもの)」は読んではいけません。

“個” の思想は欧米礼賛なのか

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 気になる(流すわけにいかないと思う)tweetをタイムラインで見付けたのでコメントするです。
 このつぶやきを発したご当人個人をどうこう言おうというのではないので発言者は明記しません。

みんながみんな「やりたいこと」を見つけなきゃならない社会、みんながみんな「個」を主張しなきゃいけない社会って、息苦しくないか?この記事のような欧米の価値観礼賛が逆に日本にニートを生んできたのでは。http://www.madameriri.com/2011/09/12/

 この発言の何が気になるか。それは、こういう「欧米に追いつこうとしている(欧米を手本とする)日本」という構図で日本社会を捉え「西欧的 “個” の思想ってそんなに素晴らしいものか?」という懐疑を投げ掛ける発想というかマインドというか、、、これが「太平洋戦争に向かう前駆的時代にも出現していた “時代のムード”」と一緒だという点です。
 明治維新以来欧米を倣いとして、その思想、精神、マインドを身に付け国際的に通用する国になろうとしてき、それの意味を見失い出したあの時代、「西欧的 “個” の思想でなくてもいいんじゃないか?」「西欧的 “個” の思想以外にも一流国になる思想・・・そう! 日本的 “協和” の思想ってのがあるじゃないか」と、社会主義的思想の強い勢力が軍部の実権を奪取しつつあったのに結果的にせよ加担した、あの時代の一般大衆の多くが「空気」として共有していったムード。これと似ていると思うからです。

 いま「意味を見失い出した」と書きましたが、これは正確には「西欧的 “個” の思想の何たるかの本質。また、それを獲得することの意味を、そもそも理解していなかった。表層的にしか・・・着物を捨てて洋服を着用し出したのと同じ程度でしか・・・理解していなかった。これのメッキが剥がれだして “何も理解していない” ということが露呈し始めただけ(つまり最初から見失っていた)」だと言えます。
 上記引用の文面に「欧米の価値観礼賛」という捉え方が表出されているわけですが、これは今述べた「憧れて洋服を着てみただけ のマインド」と同類だと、「一旦暫く着てみていたけどしっくりこない。しっくりこないのはこの服が良くないんじゃないか? 服が間違っている、きっとそうだ」と言っているだけの “Sour Grapes” だとわかると思います。
「逆に日本にニートを生んできた」という点は一理あると思われる点ですが、これは “個” の思想が誤っていたのではなく上述の通り、その本質を理解し体得しようとせず上っ面の形式だけを追い掛けていた(その誤った理解の上で教育を施してこられた)からいつの間にか空回りして自分の足場を見失った人が少なからず出てきたと分析するのが正しいと思われます。

 現代に生き残っている「”個” の思想」というのは端的に言えば、主に19〜20世紀の2世紀に渡って国際化していった世界で生き残るために発達してきたセオリーであると思います。 これが歴史的にたまたま欧米が繁栄の中心だった時代に勃興したので、それが「=欧米の思想」ということになっただけ。なので「欧米礼賛」という捉え方自体が、表層的理解しかしていないと自ら語っている言なわけです。

 つまり大事なのは、それが欧米由来のものであるかどうかなどではなく、それが国際的に生き残っていくためのセオリーとして「どう使えるか」「どう使うべきなのか」また「それを使いこなせるほど我らは習熟できているのか」なのです。

もちろん、「国際的に生き残っていくためのセオリーは他にあるかも知れない」という設問設定は当然出来ますが、それの理解、習得、習熟を充分に出来ていない内にそれ自体にケチをつけ出すのは褒められた言動ではないので大概の場合、褒められたものではない結果を生み出すというのは弁えのある大人ならわかると思います。「それを使いこなせるほど我らは習熟できているのか」とはつまり「それを否定できるほど我らは習熟できているのか」だからです。

 時代の符合という意味では、あの時代・・・自由民権運動〜二大政党政治という流れで、その内実は二大政党がそれぞれの支持利権団体の権益拡張合戦に官僚も加わって利益分配談合を繰り返していた揚句に一般国民から信用を失い見限られて、、、その醜い政争を繰り広げていた時代に関東大震災、昭和金融恐慌、昭和恐慌、世界恐慌という歴史的大事変も起こっていたという点。 だから、またぞろ世界恐慌(リーマン・ショック以上の)が起こるなどと、まことしやかに歴史的必然論を説いて恐怖、不安を煽る愚サイトと同じ愚はおかすつもりはないです。
が、あの時代、日本を無意味な戦争へ導いた一つの要因は、上記で指摘した「”Sour Grapes” で自己正当化して悦に入っているマインド」を社会の流れを作る閾値以上の人が、しかも「ムードとして(空気として)」共有した結果だということは肝に命じて欲しいのです。
 もっとはっきり言えば、これは「間違ったナショナリズム」「歪んだナショナリズム」を社会に醸成すると危惧するということです。

2011年9月19日午前9時44分追記:文意がより通る言い回しをアップ後に思い付いたので一部訂正、加筆しました。

結婚したがる女たち(若しくはしたがらない女たち)

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「先生、わたし結婚したいんですけど…」と切り出した彼女。 「彼氏は居るんですか?」と訊けば「居ない」とのこと。 「職場に同世代の異性は居ますか?」と訊けば「居ます。 しかし同じ職場のひととは嫌です。」 お見合話は少なからずあって、会ってはみるものの「いまいちピンと来ない。」と言う…「どうピンと来ないの?」と突っ込んで訊くと「お見合のあいだ中、自分の仕事の話ばっかりで面白くないの。」確かに仕事以外に話題の豊富な人は面白いに違いありませんが、相手が仕事以外の話しをするよう働きかけたり、促したりしてるようには思えない白けた態度(仕事の話しか出来ない男のほうにも問題ありですが)、そんな態度で話しが深まるわけがなかろう、と思わせる態度で接していた事は、その話し振りから充分推察出来ます。
またお見合パーティー、合コンの類に出掛けても「今日もロクな男おらんわ!」と開始早々に戦線離脱を決め込み、片隅でポツンと飲食して終了時刻が来るのを待っている事が常態となっているらしい。
冷静に判断すれば「口で言うほどに本気で結婚したがっているのか?」と疑問が浮かぶのです。 「結婚したい!」と言っているものの、彼氏は居ない、彼を作る努力もせず、形ばかりに見合いをこなし、形だけ合コンに出掛け…仕方なし、イヤイヤだけど…という雰囲気ですね。
この「イヤイヤ、仕方無しに、本意ではないけれど、形だけなぞっている」行動様式、これから「兎に角、勉強さえすれば、良い学校に行きさえすれば、、、」と言われるがままに、その真偽を問うことなく、イヤイヤ(または、なんとなく)学校、学習塾、予備校…に通っている子供、若者達と同じ心象を想起する私はピント外れでしょうか?

実際問題、この例のように二言目には「結婚したい!」と口にする女性達の殆どは「結婚さえすれば幸せになれる!」と無批判に、現実離れした、信仰と呼ぶに相応しい思いを強く抱いています。
結婚という重大事、特にその現象面、即物的側面を考えると、出てくるネガティヴな面を乗り越えさせ、その道を選択させる動機としてスピリチュアルな面は欠かすことが出来ず、それを掻き立てるモノとしての衝動、これの源である「ファンタジー」は必要であり、これの意義の大きさを軽んじる訳にいきません。
人は生きるためにファンタジーを必要とし、と同時にそれが現実から遊離してしまい空想、絵空事になってしまう危険性は常に隣りにあります。
時に、ファンタジーというのは、日本語になった場合、多く誤解、誤用されている概念だと思うのですが…ファンタジーというのは厳しい現実認識によって支えられ、厳しい現実認識を支えるものです。 現実逃避させるかに見えて、ポイッと現実に投げ返す、こういう作用を持つもの、それがファンタジーです。 こういう作用のないものは、単なる空想、絵空事と言います。
ファンタジーを持たぬ者は現実逃避はしないにしても、現実を厳しく認識することもなく、妥協と惰性に流され生きていると思います。
あるひとの言動にファンタジー性が垣間みられた場合、そのファンタジーが「現実に投げ返すもの」を見出す努力が生きることの意味に通じる道へのガイド役になってくれると、私は考えています。
「なんで、そんなに結婚に執着するの?」と訊けば「だって、仕事嫌いやもん! 早く辞めたいもん!」
それは裏返しに表現される事が多い、という心理学的一般則に従えば、先の女性の例は「ほんとのこと言えば、、、仕事は好き! でも『おんなは、結婚してさっさと辞めるもんや!』という無言の圧力を感じる。 私の居場所はどこ?」と言っているように思えるのです。
女性が男性並に自立的、自主的に生きようとしても、依然として日本は男社会(“任務遂行上、男が優遇される仕組みが支配的社会”という意味であって、男が決定的に優れているわけではない)であり、女である事をハンデと痛感させられる場面に直面し、女である事を捨てて男の論理に服従するか、女である事を捨てず男の論理に屈服するか(さしずめ前者は「キャリアウーマン」後者は「結婚」でしょう。どちらにしても「男が敷いたレールに乗っかっている」ことに注意!)の何れか、という極端を選ばざるを得ないような呪縛に囚われの身となる。
別に女性に限ったことではなく、こういった極端な二元化の選択肢設定は、よく見られることですが、、、二元論というのは切れ味の良い名刀正宗みたいなもので、物事のある一面を鮮やかな切り口を見せてくれるのですが、どこをどう切るかを判断し誤ると、ピント外れであるのみならず、大怪我を負ってしまう危険なものです。 AかBか?という条件設定自体が適切かどうかの吟味無しに、AかBを選んでいるというナンセンスな事が屡々(特にTVの街頭インタヴューを見ているとそう思う)見られます。

こういうナンセンスな言動を取る背景には、AかBかという二元論に終始する事によって、問題の本質を避けようとする心理機制が無意識裡に働いていると考えられます。

「仕事か結婚か?」という選択肢設定は、どちらも男の論理という土俵から出ていないという事に注意を払わないといけません。
男の用意した土俵の上に居るという意味で男の論理に服従している。 この制約の中での女性の幸せが無いとは言いませんし、それを選ぶのは個人の自由です。 しかし、時代が21世紀を直前に迎え、少なからずの女性が、この土俵の外にも幸せがある事を薄々感付き出したように思います。
処が、この土俵の外というのは未開の地であり、足を踏み出すには危険極まりないのです。 さりとて土俵そのものを改変するには、男社会に真っ向から対決する事である以上に、実はそれを精神的に支えているのは女性(というより、その集合無意識複合体(コンプレックス)であるグレートマザー。特にそのネガティヴ面)であるという一筋縄ではゆかない厄介な問題を隠し持っています。

グレートマザー及び母性原理については大きな問題なので、機会を改めます。
 尚「母性社会日本の病理」河合隼雄、「タテ社会の力学」中根千枝の二冊は非常に参考になります。

過去の女性運動家、女性のオピニオンリーダー(及びそれと見なして良いその役を演じたひと)たちが、男性達よりも寧ろ同性である女性からの、理不尽とも言える攻撃によって最終的に黙さざるを得ない状況に追いやられて行った歴史が如実に、このことを物語っていると思います。 約10年前に持ち上がった「アグネス・チャン騒動」が端的な例です。
対決する相手が社会(というドレスを身に纏った日本人の集合無意識体としてのシャドウ)という大きなものである以上、個々人の力ではどうすることも出来るわけがなく、現実から逃避するか、現実に逃避するか、にならざるを得ない事は、深く省みられなければならない問題だと思います。
少々荒っぽいのを承知で、結婚を強く志向する方を「現実から逃避組」キャリアウーマンを志向する方を「現実に逃避組」と分類することが可能だと思います。(実際には、仕事一途というのが現実から逃避することになる人も居るでしょうし、現実に逃避するために結婚する人も居るでしょうから、、、) つまり表面的行動は全く逆に思える二者—キャリアウーマンを目指すひとと、結婚を選ぶひと、というのは全く正反対の違う生き方に見えて、実は底に流れている心理機制は同じであると言いたいのです。

先に「子供と同じ心象が見られる」と指摘しましたが、これはある意味当然のことなのです。 河合隼雄、中山康裕両氏をはじめ心理臨床の現場に居る多くの諸家が指摘するように、現代社会の大きい問題の一つに、「イニシネーションの喪失」というのがあります。
子供から大人になる通過儀礼としてのイニシエーションを受けていないのだから、心理的には子供であっても当たり前で、これを無碍に批判しても始まりません。
社会がイニシエーションの機会を与えてくれない以上、個々人で自らイニシエートしてゆくより仕方がないということでしょう。
このことに気付くと、「結婚したがる女たち」が、ことある毎に「結婚したい! 結婚したい! 結婚したい!」と口にする姿が、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱え続けることによって極楽往生を願った、かつての末法思想時代のと同じ宗教儀礼的行為であるように思えてきて仕方がないのです。

イニシエーション目的だけで結婚、急場凌ぎのイニシエーションとしての結婚、これが増えているように思うのです、これでは成田離婚が増えるのも当たり前でしょ?違いますか。

女性の場合が特に、結婚がイニシエーションの意味を持つのは、別に今に始まった事ではなく昔からスタイルと言えるので、結婚にイニシエーション的意義を求める事自体はなんら問題ないのです。 問題は、結婚にイニシエーション的意義“しか”求めないことです。 そうであれば、イニシエーションさえ終われば用済みですから離婚は時間の問題、ということになってしまいます。

また、その相手である男性はイニシエートされていない場合が殆どです。 イニシエートされた者から見ると、イニシエートされていない人は、バカで子供じみて見えることは明らかです。
結婚によるイニシエートが即効性を発揮した女性の場合は「成田離婚」、非常に時間を要した女性の場合は「熟年離婚」という事ではないか?と思います。 離婚の問題を、これだけに集約するのはあまりにも短絡ですが、一側面としては、熟慮すべきテーマだと思います。

彼女達に新たな、これからの時代に相応しいイニシエーションの機会を創出できるのなら、新たなこれからの時代に相応しい女性の生き方が、見出せるのではないか?と思っています。

この「女性のイニシエーション」について、現段階ひとつの示唆を貰っています。 それは「『神話にみる女性のイニシエーション(ユング心理学選書20)』シルヴィア・B・ペレラ著 監修:山中康裕 訳:杉田津岐子・小坂和子・谷口節子 創元社 ISBN4-422-11220-1」に拠ってです。 男性原理によって不当に貶められ、蹂躙された女性性。 これを救うのは、誰あろう、他ならぬ女性自身です。
「おんな」として生きる意味を見失いかけている貴女、是非にも読んでみて下さい。 死にかけていた貴女の半身が甦ることでしょう。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

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