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幸福とは何か・・・少なくとも「不安」が少ないことではない

“本丸”としての労働市場改革:書評『デフレーション』 — 城 繁幸 : アゴラ – ライブドアブログ http://agora-web.jp/archives/1525128.html

「希望」と「不安」は、やじろべえの左右の錘(おもり)の如く。光と闇の如く。
一方が弱れば他方も存在が薄くなる。

不安の芽を事前に摘んで最小化するのが好いことだと信じた結果、実は希望も最小化しているという現実。
両者が上述の通りの相補関係にあると知っていれば実に当たり前なことなのだが。

相補関係にあるのでこの全く逆も真なりで、希望をやたらと膨らましすぎるのも悪い結果になる可能性「も」脹らませていることになるので両者をバランスさせていくのが肝心と、ここまではわかるのだが。
ところが実際のところ、悪い結果になるか良い結果になるかはやってみるまではわからないから事前に最小化することよりも、悪い結果になった場合事後的に被害を最小化もしくはリカバリーする知恵と工夫の方にエネルギーを使った方が現実的であるというところに帰結する。 前者よりも後者の方が被害者実数も少なく、被害総量も少ないであろうと想像に難くない。
事前に最小化することに執心する人は悪い結果になった場合、往々にして「なかったこと」にしようとする。起こったこと自体は消せるわけは当然ないので、責任追及できる適当な他所の村社会をターゲットにしてこれに全てを負わせて自分たちの村社会は守ろうとする。

ある村社会を非難・バッシングしているのはほぼ間違いなく自分たちの村社会を守ろうとしている人たちであるに過ぎない。

なぜいじめはなくならないのか 続1

先日のエントリーの続きです。

なぜいじめはなくならないのか « 心理学エッセイ | 物語り研究所「夢前案内人」

先のエントリーで「動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり」と書いた。
動物行動学(生態学)に或程度以上詳しい人ならご存知の通り、動物の世界のそれは「いじめのパターンA」に対して、こういう反応を返すといじめ行動がストップする「対応するパターンa」が必ず存在し、この対によって集団の秩序が維持されているという「行動様式(行動のお約束)」が存在するのである。
だから、この「お約束」を守った行動をする限りにおいていじめがエスカレートすることはないのである。(「お約束」通りの反応を返したのに「お約束」に従っていじめ行動を止めなかった個体があった場合は、今度はこの個体が集団から総攻撃を受け排除される)

で、実は、この行動様式は人間でも同じなのだが、「いじめのパターンA」に対して「対応するパターンa」を返すという「お約束」が厳格に守られている社会は部族社会で、西洋近代啓蒙主義的には「野蛮」で「劣った社会」とされる。この「西洋近代啓蒙主義的」つまりは「西洋中心主義」な価値観なので、これが真に普遍的に正しいかどうかは疑問の余地は大いにあるのだが、現代日本の社会はこの西洋近代啓蒙主義的価値観に則った社会に(一応)なっているので、この「お約束」を守る必要はないと考える個性を認める社会になっているのだということ、先ずこれは押さえておかないといけないポイント。これは所謂「個人主義」とほぼ同義だと考えて差し支えない。

ところが、いま先の文に「一応」と括弧付きで書いた通り、そのマインドというかメンタリティは依然として古い部族社会的な人が結構な数残存しているという・・・もしかしたら私も含めて完全に払拭できていない人の方が圧倒的多数なのではないか?・・・中途半端にしか個人主義的マインドというものを理解していない人がかなりパーセント居るということで、つまり
「お約束」を必ずしも守らなくても良いという自由を認める社会を形成しておきならがら、「お約束」を守らない人に対応する対応の仕方を編み出していない(許容するマインドを持てていない)人がかなりパーセント居るという拗れた状態を孕んでいるのが現在の日本社会なのである。

いじめがエスカレートする理由、またはいじめを悪いことだと(理性的にわかっているのかどうかは関係なく)実感として理解していない人というのは、「お約束」を守らない(お約束通りの行動をしない)奴の方が悪いという感覚をどこか腹の底に持っているので、だから「お約束」に従った行動を取るまでいじめを止めない(止めれない)のである。本能的で動物的だと言えば確かにその通り。
しかし、ここまで書けばご察しの通り、日本の社会ほど「お約束」好きで、「お約束」を守る予定調和を好しとする社会は近代化した社会ではないのである。

「お約束」とは半ば以上「暗黙の了解」または「空気を読むことの強要」なので個性を認め尊重する個人主義とは対極にあるものである。
だから、

  1. 「お約束」を守って平和、そのかわり個性は著しく認められない社会
  2. 個性を認める代わりに「お約束」は最早存在しない、つまりパターン化した行動では生きていけない社会

このどっちを選ぶのか?という選択を曖昧にして先送りしてきたツケが回ってきているのだという認識を多くの日本人は持った方がよい。
與那覇潤氏『中国化する日本』の概念を借用するならば前者は「(再)江戸化」、後者は「中国化」に該当するだろう。この意味でも與那覇氏の指摘・問題提起は正しいと思われる)

「個性の尊重」と言い出して遥かに久しい教育界ではあるが、このこと・・・「空気を読む必要なんかない」「空気を読むことを強いるのは悪」という教育をしてきたかしら?と考えれば直ぐにわかる通り、寧ろ「空気を読む達人たちの集まり」これが教師達だと言っても良く、だからこの彼らに「お約束」を守らない個性を尊重する大事さの認識は薄い、だから「いじめに気付かない」「(鈍感なので)いじめだと認識しない(この彼らですらいじめだと認識するのはかなり露骨なものだけ」ということになる。
この「いじめの本質にある問題性」を認識していない彼らの「いじめは悪いことです」「いじめを無くしましょう」というスローガンが空疎で欺瞞的なのも、ここまで説明すれば了解されると思う。
この点でも彼らを再教育する段階から始めなければならないだろうというのが私の考え。

404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
「なぜいじめが発生するか」という生理学的見地に関してはあまり述べられていないのだ。

答えというほど冴えても充分でもないでしょうが、僕なりに見解を出したわけですが、どうでしょうDanさん。

なぜいじめはなくならないのか

この問題を抜本的、包括的に、また広く説得性のある論理を展開出来るほど問題自体が簡単ではないし、また、私の考えもそこ遥かに及ばない低レベルにしか錬れていない。この意味で看板に偽りありのエントリーです。

今段階書ける(言語化できる)だけの範囲を書くと、
まず実践面(実用面)でいえば、「傍観者の排除」これが取り敢えず「手が付けやすくて」「実効性がある」という意味で大事。
より具体的にいえば、傍観者でいること自体が加担者なのであるという点、傍観者でいること自体が罪であるということを社会的コンセンサスとしてきちんと確立するべきである。
ここでいう傍観者は、文字通り傍観者・・・見て見ぬフリをする者、遠巻きに傍観しているだけの者・・・だけでなく、直接加害には加わらないが囃し立てたり茶化したりする野次馬も含む。つまり「制止」「調停」「仲裁」「仲介」「庇護」などを行わない者はすべて傍観者であるということ。
より詳細かつ説得性のある言説である以下を参照。

404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:いじめと個性
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50681593.html

個人的にはいわゆる「先生当たり(先生の当たり外れ)」は良い方だったようだと大人になってから分かった私でも実際生徒だった頃の経験から、傍観者になっていた先生がそこそこ割合以上必ず居たと言える。
つまり「傍観者であること自体が罪」であることを先ず、教育する側から教育して行かないといけないのだろうということ。

次に、より根本的問題に言及すると、「いじめ自体」を悪い事と、「いじめ自体」を消滅させようとする努力は無駄であり無意味であるばかりか、場合によっては問題をより陰湿化、巧妙化させさえするという問題意識を持つべきだ。
いじめという行動様式これ自体は絶対に無くならないし、無くせもしないと断言する。それは動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり、つまり、集団性動物でかつ高等生物であることからの何らかの必然がそこにあると認めざるを得ないからである。(これが何故であるか、また、どういう必然性なのか説明できるほどの知識および能力は現段階持ち合わせていないが)

これは良いだ悪いだ云っても始まらない自明に近いものであろうので、いじめの行動様式を取る基本素養は我々皆が備えているということを先ず認め、これを前提に、その発露が陰湿化、残虐化しないようにするにはどうするのが良いのか?という設問の立て方をするべきだと私は考えている。
しかし、これは真剣に考えるとかなりクリティカルな問題で、「あなたも殺人者になり得る素養を備えているわけですが、これとどう上手く(問題化しないように)付き合って行きますか?」と質問されて簡単に答えられる人が居ないのと本質的に同じだからである。
たぶん、この素養を備えているという事実を認める自体を拒絶しここで思考停止になる人が多いだろう。
この思考停止こそが、いじめの問題の本質に切り込んで行けない主犯で、傍観者を許容してしまうバックグラウンドだと断じさせてもらう。

だから「いじめは悪い事です」「いじめをなくしましょう」という教育関係機関や役所に貼られているポスターのスローガンは、空疎であり、欺瞞的で、薄ら寒いのである。
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慣用句の嘘「火のないところに煙は立たぬ」

言葉通り、文字通りであるなら間違いではない、その通りなのだが、、、

より正しくは「煙を立たせようと火を点けるヤツが居る」である。

少なくとも、世間一般にこの言葉が囁かれる時の大概はこっち方である。
[amazonjs asin=”4167655047″ locale=”JP” title=”偽善系―正義の味方に御用心! (文春文庫)”]

この言葉を錦の御旗にして噂を広めるのに加担していている人の言葉も十中八九信用できない(煙を立たせようとしている当の本人である場合も)。

燃えやすい乾いた木を燃やせば煙は大して発生せず、煙が盛大に立つのは寧ろ燃えにくい生木である。

実際、ネイティヴ・アメリカンや戦国時代の武将は、狼煙を上げるためには、乾いた木や油を使って火を或程度以上起こしてから、これに生木をくべた。

生木に火を点けようとしてみたことのある人なら分かるだろうけど、生木はちょっとやそっとのことでは火が点いてくれない。やっとのことで何とか火が点いても、もうもうと煙が立ち上り、煙が目に染んで痛いわ、咳き込むやら、、、。

(現実の火災等の場合とは違って) 煙が上がっているのを見付けたら、火元を探すのではなく、咳き込んでいる奴、扇いでいる奴を探す方が良い


The Enemy Within

ソースごと丸々コピー。・・・って、引用の域を遥かに超えて「他人の褌で相撲を取る」以外の何物でもないのだけど、
恐らく「読んでほしい人はリンクをクリックして(新たなページを開いて)まで行動を起こしてくれない」と思っちゃう(単なる老婆心?)ので [1] 、こういう手段に出させて頂きます。無作法ご勘弁を > 弾さん<(_ _)>
(一番読んで欲しい人は、そもそも本サイトに興味すら示さないだろう、、、と言ってしまえば身も蓋もないけど)

MixClips経由で見つけた記事なのだけど、実はWikipediaのコピペ。

これってどこのPOP*POPだよと思いつつも、内容そのものは面白いので超訳的注釈をしてみることに。ただし私は心理学と社会学は筒井康隆に教わった点をよろしく割引のほどを。


  1. バンドワゴン効果 Bandwagon effect – 周囲の人が信じていることを、自分もいつの魔に信じてしまう効果
  2. 偏向の盲点 Bias blind spot – 自分自身の認識偏向(cognitive bias)は放置するという傾向。
  3. 選択支持偏向 Choice-supportive bias – 自分が選んだものは、そうでないものよりもよく見えるという傾向。
  4. 確認偏向 Confirmation bias – 思い込みを支持する情報ばかり確認したがるという傾向。
  5. 合同偏向 Congruence bias – 仮説の検証の際に、直接検証ばかりする傾向。補足すると、仮説Aの検証の際に、仮説Aの反証がありえないかの確認を怠る傾向。
  6. 対照効果Contrast effect – 直近に受けた別の出来事の印象によって、その出来事の印象が実際以上に強く感じられたり弱く感じられたりする効果。
  7. 専門バカ偏向 Déformation professionnelle – 自分の専門分野からの視点が強すぎて視野が狭くなるという傾向。
  8. 反確認偏向 Disconfirmation bias – 以前からの思い込みに反する情報をシカトしてしまう傾向。
  9. 所持効果 Endowment effect – いったん自分のものとなったものは、それ以前よりも価値が高く感じられるという傾向。
  10. 焦点効果 Focusing effect – ものごとの特定の一面を注視してしまうという現象。一事が万事効果。.
  11. 双曲線割引 Hyperbolic discounting – 直訳スギ失礼。明日の100万円よりも今日の100円を大事だと思う傾向。なぜ双曲線なのだろう。反比例の曲線から?
  12. 支配幻想 Illusion of control – ものごとは支配可能か、そうでなくても何らかの影響を与えることは可能だと思い込む傾向。
  13. 衝撃偏向 Impact bias
    ある出来事の将来への影響を過剰に見積もる傾向。たとえば「犯罪の増加」など。
  14. 情報偏向 Information bias – もう行動を変えるには遅すぎるのにもかかわらず、その行動に関する情報を集めてしまう傾向。
    「インフォメーションバイアス」とはちょっと違うようだ。受験の後に参考書を読むようなこと。
  15. 損失回避 Loss aversion – 収益を得るよりも損失を回避する方に注力する、すなわち機会損失を軽視したがる傾向。
  16. 確率無視 Neglect of probability – 不確定な状態において、確率を軽視または無視する傾向。
  17. 「おなじみ」効果 Mere exposure effect – ただ見慣れているというだけで、根拠のない好感を感じてしまう傾向。
  18. 省略偏向 Omission bias – 同じだけ害がある場合でも、害のある作為の方が害のある不作為よりも悪いことだと感じてしまう傾向。
  19. 「勝てば官軍」偏向 Outcome bias
    ものごとを、当時おかれた状況ではなく、その後の成り行きで判断してしまう傾向。
  20. 計画錯誤 Planning fallacy – 締め切りを甘く設定しまう傾向。[ごめんなさいごめんなさいごめんなさい>各方面]。
  21. 入手後正当化 Post-purchase rationalization – 手に入れた後に、それを手に入れたことは正しかったのだと自分を納得させる傾向。配偶者とか:-p
  22. 疑確定性原理 Pseudocertainty effect – 収支予想が黒字の場合にはリスクを避けるのに、収支予想が赤字の場合リスクを取りに行こうとする傾向。安物買いの銭失い。
  23. 選択認知 Selective perception – 期待を認知に反映させてしまう傾向。「がんばれ、ニッポン」とか?
  24. 現状追認 Status quo bias – ものごとはそれほど変わらぬ方がいいという傾向。壊れてもないもの直すべからず
  25. フォン・ラストルフ効果 Von Restorff effect – 違うものは似たものより覚えられやすいという効果。田中一郎よりR.田中一郎の方が覚えられやすいということだろうか。
  26. ゼロリスク偏向 Zero-risk bias – 100のリスクを10にしてリスクを90下げるより、1のリスクを0にする方を好むという傾向

うーん、全部それなりに思い当たるのだけど、26も覚えてられるかという私はFocusing Effectが強すぎるのかしらん。

でも、一番秀逸なのは、コメント欄のこれかも。

26 Reasons What You Think is Right is Wrong

This makes me think that Wikipedia is therefore wrong:

http://www.otherworldvision.com/why-wikipedia-will-never-reach-quality/

So, what’s wrong with thinking them right if they are all wrong anyway :-?

Dan the Biased — Usefully, Hopefully

もちろんのこと、自分自身への戒めとして公然としておく次第です。

追記:2012年3月14日18時50分 改題

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 読む必要が無い人はたぶん、もうとうの昔に同エントリーのことは知っているだろう・・・2007年05月のエントリーだもんね

恐れるべきは恐怖に憑依されること



32年も前に発っせられていた警句が、今頃になって我々の心に突き刺さるとは、、、ニール・ピアトさん脱帽です。

“Witch Hunt (Part III of Fear)”
Lyrics by Neil Peart

The night is black
Without a moon
The air is thick and still
The vigilantes gather on
The lonely torch lit hill

Features distorted in the flickering light
The faces are twisted and grotesque
Silent and stern in the sweltering night
The mob moves like demons possessed
Quiet in conscience, calm in their right
Confident their ways are best

The righteous rise
With burning eyes
Of hatred and ill will
Madmen fed on fear and lies
To beat and burn and kill

They say there are strangers who threaten us
In our immigrants and infidels
They say there is strangeness too dangerous
In our theaters and bookstore shelves
That those who know what’s best for us
Must rise and save us from ourselves

Quick to judge
Quick to anger
Slow to understand
Ignorance and prejudice
And fear walk hand in hand…

拙訳:
月灯りひとつなく暗い夜の闇
動かない空気は重苦しく
自警団員たちはひとつになって
ただ松明だけが斜面を照らす

かたちが歪んで見えるのは揺らめく灯りのせいなのか
その表情はグロテスク
うだるように暑い夜の「静けさ」と「情け容赦無さ」
暴徒は悪魔に取り憑かれたように進み
良心は沈黙し、“正義”の前におとなしくなる
この選択が最善と確信するゆえ

憎悪と病的意志に燃え上がる瞳には
いよいよ正しいとしか映らない
狂人たちは恐怖と嘘を喰って生きる
打ち倒し、焼き払い、殺すことを手段にして

人々は言う「我等を脅かす異分子が居る」と
“異邦人”“異教徒”というだけなのに
人々は言い立てる「危険過ぎる正体不明がそこにある」と
“劇場”“書店の棚”に(在る知識であるのに)
何が我々にとって最善かを知っていると称する人々は
きっと我々を暗愚から救い、導いてくれるに違いない

安易に怒り、安直に裁く
そのくせ理解するのは遅い
無知と先入観と恐怖は
いつも手と手をとりあって歩いていく

Moving Pictures
Studio album by Rush (wikipedia: Rush(band))
Released:February 12, 1981
June 3, 1997 (remastered CD)
Recorded:October – November 1980 at Le Studio, Morin Heights, Quebec
Genre:Progressive rock, hard rock
Length:40:07
Label:Anthem (Canada), Mercury
Producer:Rush and Terry Brown
http://en.wikipedia.org/wiki/Moving_Pictures_(album) より


プラセーボ投薬社会実験の提言

問題が出るわけない低線量被曝で「鼻血が出やすくなった」「激しい咳を伴う症状が出るようになった」と、そして「これが内部被曝の影響だ」と言い出す人が後を絶たない。中には「医療機器で体内から多くの放射性物質が測定された」言い出す人も出ている。
そもそも事実無根のデマである可能性も当然あるわけだが、今論じたいのはこの点ではない。
また、この医療機器と称するものが本当に信頼性のある医療機器として担保されたものであるどうか自体疑わしいわけ(もし仮に医療機器自体は確かなものであっても精密医療機器というのは大概がそうだが、適正な操作手順で執行されたかどうかもかなり大事)だが、この点も論点ではない。
仮にこれらの A群:「鼻血が出やすくなった」「激しい咳を伴う症状が出る」、B群:「体内から多くの放射性物質が測定された」 という事象は事実であったとしてしても、AとBが同時期に観察されたからといって、この二者間に因果関係があるということにはならない。因果関係はもとより相関関係のあるなしも何ら証明されていない。また、相関関係が仮に証明されたとしても、これは因果関係を証明したことにはならない。また、体内必須物質として放射線核種の物質を(被曝とは無関係に)我々人間は保持(摂取)しているので、体内から放射性物質が検出された = 被曝によるもの とは言えない。(以下も参照)
http://www.mri-jma.go.jp/Dep/ge/ge_report/2007Artifi_Radio_report/cover.htm
http://case311.miraikan.jst.go.jp/home/docs/radioactivity/1104121558

低線量被曝(月間100mSv以下とする)では長期的に健康被害が出るかどうかも疑わしく況してや短期的に健康被害が出ることは有り得ないと知っている科学リテラシーの或程度以上ある人には、以上の説明で充分である。極めて慎重な見解に拠ったところで「きちんと相関関係のあるなし、因果関係のあるなしを調べてみた方が良いですね」と言うところまでだろう。
処がこれらの訴えをする人達というのは、この説明では全然納得しない。また、論理的に説明、説得を試みても殆ど徒労に終わるであろう。(だからとて論理的説明を怠ってはいけないが)

心理の専門家を標榜している私としては識者の皆さんが行ってきているのとは別の観点からの提示をしたい。

前提として彼等の訴える事象自体は嘘ではない、そういう事象があることは事実だとして、
また、それが生物学的、医学的に健康に問題を起こすほどのものではないと言えるにせよ被曝(内部、外部両方の)が或程度在ることは事実であるので、
以下のように仮説を想定することが出来ると考える。

  1. 低線量被曝の場合、そのほぼ100%は多重に備わっている自己修復機能で生体レベルの影響(健康を害するという結果)には繋がらない事は判っているが、と同時に、遺伝子レベルでは極めて低線量であっても一定量の遺伝子の損傷は起こることも判っている。(遺伝子レベルでは「LNTモデル」が成り立つのに生体レベルでは成り立たないということ → 閾値の存在する強力な根拠になっているわけだが。 [1] )
  2. 身体の各部位が察知、検知した情報は全て脳が受け取っているわけだが、我々人間に限らず或程度以上の脳を備えている生物に於いては、受け取った情報を全て真に受けずに或程度以下の雑情報をノイズとして無視するカットオフ値が設定されている。
  3. このカットオフ値の設定は器質因であるよりかは「脳のプログラム・チューニング」次第であると考えられる。
  4. 遺伝子レベルの損傷も逐一脳には情報伝達されているであろうと考える方が自然で、それをイチイチ覚知しないのは脳のカットオフ設定によって無視されているからと考えるのが妥当。
  5. 「そうじゃないか?」と思う心理が強く用意されると通常より遥かに感覚が鋭敏になるという事象があることは多く観察されている。(清潔恐怖症などの強迫神経症が代表的)
  6. これは、そういう心理作用の影響で脳のカットオフ値が下げる場合があるのではないか?という推定ができる。つまり、この脳のカットオフ設定は「△μv 以下の信号は無視」のような一律カットオフではなく脳がそれぞれの重要度、優先度を判断して軽重を付けているものと考えられる(脳による判断 [2] の介入する余地があるということ)。
  7. 被曝が一切無くても遺伝子損傷は、低線量被曝によるより遥かに沢山の頻度で日常的に発生してるので、脳のカットオフ値が下がった場合を想定すると、非常に多くの信号を脳が受け取る結果「組織が損傷しているかも知れない」という誤覚知 [3] を脳が形成する可能性が考えられる。
  8. 脳というのは「辻褄合わせの名人」と呼べる側面を有しており、誤覚知と辻褄の合わせられる顕在潜在両面での身体的脆弱さが在った場合、これとそれとを結び付け症状をより顕在化させる場合があるのではないかと想定できる。また、身体的脆弱さは無くても「組織が損傷しているかも知れない」という警戒認識[1]によって防御反応が躍起される可能性も十分あり、この「攻撃対象が明確に存在しない」防御反応は自身の身体を攻撃し出す・・・アトピーにみられる「確たるアレルゲンが確認されないのにも関わらずアレルギー反応が起こり自らの体組織を損なう働きをする」の [4] と本源的に類似している作用機序による症状を顕在させる可能性も想定される。
  9. これは「負のプラセーボ効果」だと考えて良いのではないか?
  10. 「負のプラセーボ効果」だとの想定が正しいならば、これを打ち消すプラセーボが有効ではないだろうか?と、「これは脳内のカットオフ設定を是正する薬です」と宣言して偽薬を処方することで改善する例が出てくるのではないか?と期待される。 [5]

幸いつい最近に以下のように「プラセーボはプラセーボとわかっていても効果がある」という報告もあるので、症状を訴える人に偽薬である事実を隠したり違う目的であるかのように偽って服用させる必要はない。
http://www.reuters.com/article/2010/12/22/us-placebo-idUSTRE6BL4IU20101222 [6]

また、偽薬を処方することは医師法で認められている。

社会実験として、以上の目的、意図を明確に示して希望者に偽薬を服用してもらう実験を大規模にしてみてはどうだろうか?
当然予想される事態として、幸いにこの予想が的中して症状が改善する人が有意な数以上出た場合に一番困る勢力である「低線量被曝による健康被害を喧伝している人達」「内部被曝の影響を特別、または誇大に喧伝したい人達」が、「非人道的行為」とか「被爆者をモルモットにするのか!」とか言い立てて猛反対するであろうが、上述の通り「目的、意図を偽らずに明示し」かつ「希望者に対して」行うのであるから倫理的にも道徳的にも問題はない。
実際問題は「希望者が名乗り出てくるかどうか怪しい」という可能性はあるとは思うが、同じプラセーボである除染に兆単位の税金が注ぎ込まれることを思えば、こちらの方が遥かに低コストで実現できる。何なら医師会に協力を要請して、この件の処方箋料は無料(診療費は取って貰って良いように思う)、製薬会社にも協力して貰って偽薬を無償提供して貰うというのはどうだろうか?
勿論、社会実験をする以上、その効果が有意にあったかどうかをきちんと確認しなくてはいけないので、訴える症状が本当にあるのか、どの程度のどういった症状なのかを事前に調べてから行う必要があるので、訴え自体が虚偽であった場合、これを沈黙させる効果も期待できる。


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 一例『サイエンスZERO No.365 シリーズ 原発事故(3)「低線量被ばく 人体への影響を探る」2011年11月12日放送』で明確に述べられていた
  2. 「判断」「認識」と言っても自我意識が認知しているという意味でのそれではない。
  3. これを「誤」覚知と呼んで良いのかどうかは議論のあるところかも知れないが。
  4. アトピー体質の人の多くはアレルギー体質でもあるということは知られており、どこまでが心理因(脳のプログラム・チューニングの問題)であるかは峻別し難く見解は混迷しているままであるので、全てが心理因であるかように誤解しないように注意されたし。
  5. アトピーと同じく、器質因も備えている人は一定数以上含まれるであろう。ので、大多数の人の症状改善という虫のいい話はないだろうが、一定以上の有意な結果が出るなら、これで十分意義がある。
  6. 勿論これだけを根拠にプラセーボに過大な期待はしてはいけないのかも知れないが、社会的コストが少なくて済むと見越せるので行なってみる価値はあると考える。

橋本行政改革の胆(キモ)の部分


20120115 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 part1 投稿者 kigurumiutyuujin

何かと話題になっている2012年1月15日 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 橋下徹市長と山口二郎教授の討論

【報ステなう。】報道ステーションサンデー「橋下徹×山口二郎」感想まとめ – Togetter :
「橋下氏完勝」とか「山口教授フルボッコ」とか橋下氏の痛快な物言いに溜飲を下げる気持ちはわからなくはないが、そういう痛快さに喝采を送るのがナチスのマッチポンプになった事は忘れてはならず、あまりそういった方へ力点が行って欲しくない。 [1]

池田信夫氏が端的に、また大西宏氏はより細やかに分析指摘してくれているが、私なりになぞり直してみる。
今回の討論の主眼だと思われる教育制度改革であるが、各氏の主張を抜粋要約すると以下の通り。

山口氏:
  • 教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない
  • 親とかが「あの教師をクビしろ」とか言い出したら教育なんか出来ない
  • MPの排除などというがそんなことは出来っこない
  • 教師を止めさせろなんて言わせたら歯止めがない
  • 橋下氏:
  • 有権者を愚弄した発言です
  • 保護者、子供がチェックできないなんてそんなわけない
  • MPを排除する仕組みは(別途)作る
  • 保護者と学校が協議をして(個々の学校ごとに個別に)目標を作れるようにする
  • 先ず細かい点から話を切り出すと、山口氏の「教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない」という「100%論理」・・・これ、どこかで聞いたことありますね。そうです、絶対を求めて可能性、確からしさ一切を否定し去る例の論理です。
    それはそれとして、これは反論になっていない。何故なら橋本氏は「親、子供に100%判断を任す」などとは一切言っていなく「チェック機能一翼を担ってもらう」と言っている以上でも以下でもないからである。
    また「モンスター・ピアレント(以下MPと略す)の存在が怖い」という意識が、この発言の下地になっているわけだが、確かにその危惧は全くないと言えば嘘になる。が、これには橋本氏も「MPを排除する仕組みはちゃんと作る」と言っているわけであるが、この部分での二者の齟齬は結構大きく、この齟齬に決定的なものが潜在していると私は考えます。
    自分が親の立場になって考えてみて欲しいのですが、自分がその学校、教師をチェックする委員等の役に就いたとして、するとこれは責任ある立場なので、それまでは無責任に「あの○○先生はダメだ」とか「あの○○教頭はクズだ」などと言っていたとしても、責任ある立場となればそれに相応しい責任ある行動をしようとし出すのと思いませんか? これが普通の人間の心理なのです。
    実際、多少とも実情を調べてみたことの在る方なら同意頂けると思いますが、いわゆるMPと呼ばれている、またはそう周囲からは見做されている親御さんの大部分は、学校または個別の教師のお粗末または誠意の無い対応に問題解決の持って行き場がなくなってMP化しているケースなのです。つまり、この大部分の方々は、問題解決の場が出来たならMPじゃなくなるのです。MPじゃなくなるだけでなく、こういう親御さんの方が寧ろ子供のこと、子供を取り巻く環境のこと、学校のあり方などに関心が高い人が多く、積極的に参加できる場を提供するならば建設的にその意欲を活用してくれることが期待できさえするのです。(意欲、パワーが有ればこそ、それがプラスに使える場が閉ざされているとマイナスに出力されるのである)

    実は、この(心理を含む)ことを理解していて制度設計をしている橋下氏と、「MPは何処まで行ってもMPだ」と決め付けている、つまり「MPをMPじゃなくなる方策がもしあるのなら」という設問を立てて考えてみたことのない山口氏というかなり大きい齟齬。
    この事が理解されるならば、残るMPは極少数の「真に人間的に問題のそもそもある人」だけなので、これの排除は容易。

    最後は一番肝心な部分で、これは教育制度改革に留まらず、橋本行政改革、ひいては国政レベルにおいても改革して貰わないといけない問題で。

    橋下氏;
    「決定する民主主義」「責任をもつ民主主義」ということになれば、これだけ国民価値観が多様化した成熟した日本国家に於いては議論をして全会一致、全員一致することなんて出来ない、だから誰かが決めなきゃいけない。その決定する権限を与えるのが選挙なんですよ

    橋下氏の発言をちゃんと聞けば分かる通り、コンセンサスを得ようと努力をした上で得られなかった時の最終決定権はどこにあるのか、誰にあるのか(誰が最終責任をもつのか)を定めようとしているだけである。 つまり、これを明確にしていないと、コンセンサスを得られなかった場合は決定できない・・・先送りにされ現状維持に・・・ことになり、これは現状維持派つまりは既得権限・権益保持者に極めて有利に働くシステムなのだと指摘し、これを改めようとしているだけである。 コンセンサスしたくない人は「コンセンサスをしない」という「拒否権」を行使すれば良いだけで、しかも行使とは言っても「いや、それはまだ時期尚早」「議論が十分煮詰まっていない」と穏便で尤もらしい理由を挙げるだけで済むので楽なのである。
    この「100%コンセンサス・システム」は、既存の状態が満足できる状態である内はこの仕組みでも(問題は表面化しないという意味で)問題ないが、変化、変革を大きく必要とされた時に事を前に進められない足枷になることは今や考えなくてもわかることでしょう。池田信夫氏が「過剰なコンセンサス」と書いているのはこれのこと。
    これに対して独裁に繋がる、だからハシズムだ、と批判(というより非難)をしている勢力は『「コンセンサスをしない」という「拒否権」』を手放したくない勢力であることは今や誰の目にも明らかになってきている。
    独裁に繋がる可能性があるというのが「論理的にゼロではない」という意味では確かに一理なくはないが、親子関係のアナロジーで考えるとわかりやすい。 最終決定権は親が持っているという意味では親と子は平等ではない。しかし普通にまともに民主的な親ならば、子供が或程度以上に意思決定できる能力を着けてきた以降は、子供の意見に耳を傾けるし場合によれば子供の方が優れた意見でこれを採用するということもする。つまり「決定権」というのは、何でもかんでも全て親が独断で決めるという意味ではなく、「子供の意見を採用する」という選択肢も含めて最終的に決定するのは誰かという点で「親だ」というだけで、または「コンセンサス形成などと悠長なことを言っていられない緊急時」に「誰が責任者かを明確にしておく」という以上でも以下でもないのである。
    このアナロジーで考えるにハシズム批判をしている人達というのは、普通にまともじゃない専横的な親のもとで育った人なのじゃないかしら?と穿った見方もしてしまいたくなる。
    橋本氏の動静を見守っていよいよこれは独裁と呼んで差し支えない毛色を帯びてきたぞ、と思ったら次の選挙で落選させれば良いだけである。これは橋下氏自身言葉の端々に上らせており、これから推察するに橋下氏は「この人に任せておけば安心」と一般選挙民が「お任せ感覚=無関心」になられるのが一番怖いのだと、選挙民の関心を政治に引きつけ続けておきたい、選挙民が政治に関心を持ち続けていくのが民主主義が正しく維持される必須条件で、これを成功体験として選挙民に身に沁みて分からせようとしているのではないか? そうすることで民主主義が日本に初めて根付くと考えているのではないだろうかと思えてならない。刺激的、挑発的言辞を少なからずしている氏ではあるが、「不必要にマイナス・イメージを作っている」と支持者側からも批判のある中、そんなことの分からないほど愚か者で氏がある筈もなく、これはつまり政治への関心度のそもそも低い人の関心をも惹きつけておこうとする計算が充分働いていると考えるべきかも知れない。もしそうなら「あっぱれ!」と言うしかない。
    これに気付くと、この男、我々の想像するより遥かに壮大なことを考えているのではないか、と思えてくる。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. こういう衆愚がハシズムに仕立て上げてしまう危険性は警戒すべきなので、喝采を起こるのも程々にしておいて欲しい。橋下氏ご自身はこういう危険を重々承知していて、この上での言動のようだが。詳しくは後述

    御用学者の正体は?

    放射線被ばく基準の意味 : Global Energy Policy Research
    http://www.gepr.org/ja/contents/20120109-01/

    「A:無責任な発言をする人」 と 「B:責任ある発言をする人」 このどちらを信用しますか?

    と訊かれて前者と答える人はまず居ないでしょう。

    「2mSv余計に浴びると、200万人の福島県民のうち、がんで亡くなる人が200名増える」と言っていて、その通りにならかった場合、こう発言していた人は「そうならなくて良かったじゃない」と言うだけで済ませれる。責任を問われることはまず無い。
    反対に「被曝量100mSv以下では日常的にありふれたリスクの方が大きいので、事実上問題は無い」と言っていて、その通りにならなかった場合、こう発言していた人は間違いなく責任を問われる。

    つまり責任を問われる(かも知れない)リスクを負って発言しているのは後者である。
    前者が責任を問われないだろうことは皆「実は知っている」・・・

    どこかでみた風景だと思ったら、2009年秋に「新型インフルエンザが大流行する」「パンデミックが起こる恐れが、、、」「老人、子供を中心に死人が看過できない数出る可能性が、、、」などと厚生労働省、製薬会社、製薬会社の営業マンの云うことを鵜呑にした浅はかな(それも結構な数の)医師が、これのマッチポンプを毎度ながら演じたマスコミがパニック気味に大合唱していて、いざ蓋を開けてみたら大流行は確かにしたが、死人は203人であった。 203人というと多いと誤解する人も居るかも知れないが、新型でない通常の季節性インフルエンザの死者数は少ない年で10000人弱、多い年では15000人が亡くなっている(何れも超過死亡概念による推計死亡者数)。この時に、あれだけ不安を煽った厚生労働省、製薬会社、医師、マスコミのいずれかでも謝罪しただろうか? 謝罪していないどころか、マスコミも厚労省も「最悪の事態にならなくて良かった。良かった。めでたしめでたし」という論調で、製薬会社に至っては「売れずに大量に残ったワクチンの在庫をどうにかしてくれ」と “どの口でそれを言っている?” と言いたくなる、どいつもこいつも無責任極まりないまま有耶無耶に。 さすがに医師からは(但し、製薬会社の口車に乗せられずに静観していた医師)「あれは冷静な判断を欠いていた」「リスク管理という観点から外れていた」と反省の弁は幾つも発信されたが、これをちゃんと伝えたマスコミは皆無という状態だった。 [1]

    「実は知っている」のになぜ多くの人は黙って(知らぬふりをして)いるのか? それは「責任を問われる心配のより少ない方へ加担したほうが自分の身も安全だから」である。 [2]
    自分の身の安全の為に、勇気を以ってリスクのある立場に身を投じる人に「御用学者」「御用医師」レッテルを貼って済ませて良いのか?
    自分の身の安全の為なら破綻寸前の国家財政にトドメを刺して、自分達が心配していると言っているその子供達の未来を暗澹たるものにしてしまう結果を招くことが正当化されるのだろうか?

    レッテル貼りの一番危険なところは、レッテルを貼ること自体ではなく、レッテルを貼った瞬間以降思考停止を起こして「本当に正しいのだろうか(間違っているのだろうか)?」「事実はどこにあるのだろうか?」という自問自答を含む問いの公正さが著しく低下してしまう点である。
    もう一度繰り返すが、「責任を負って発言」しているのはどっちか、よく考えてみて欲しい。

    2012年1月18日13時51分:数字の誤記「誤:死者数は少ない年で1000人弱」を「正:死者数は少ない年で10000人弱」に訂正


    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 分かっている方には、これに始まった話ではなく「鳥インフルエンザ騒ぎ」「口蹄疫騒動」「BSE騒動」「ダイオキシン騒動」などなど枚挙に暇がないのだが
    2. 危険であることにしておいた方が補助金、助成金、除染という公共事業が懷に転がり込んでくるのでそうしている、より悪質な輩も沢山居るが

    リスク管理とは:或る科学ジョークを引いて

    『原発危機と「東大話法」』:池田信夫氏「安冨歩氏への反論*」の分析(1)〜(5)
    http://ameblo.jp/anmintei/entry-11132924003.html
    リンクは(4)へのもの

    池田信夫 blog : 安冨歩氏の知らないリスク・コミュニケーション*
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51767689.html

    ニ氏のやり取りを一通り読んで、或る結構有名な科学ジョークを思い出した。

    男性の数学者とエンジニアを女性と一定の距離で向かい合わせて
    「じゃんけんで勝ったら、彼女との距離の半分進むことができる」と告げたら、
    数学者は「それじゃあ永久にじゃんけんを繰り返しても彼女との距離をゼロにできないということではないか!」と半ば怒り調子で嘆いた。
    かたやエンジニアは嬉々として「或程度回数じゃんけんに勝てば、望むことを実行するに実用上問題ない(十分な)距離まで彼女に近づける!」と言った。

    「論理的にゼロと証明できないものはゼロではない」という点に拘って終始している安冨歩氏と、「実用上無問題とみなして良い」と主張している池田信夫氏という構図である。
    主張していると言っても、ちゃんと(その他の関連する記事も含めて)読めば分かる通り、池田氏は主観的個人の意見を言っているのではなく、客観的信頼に足るデータを積み重ねてそう主張している。
    更に安冨歩氏の主張する
    「(1)低レベル放射線被曝による深刻な障害の発生を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
    「(2)浜岡原発周辺で大規模な地震が起きて事故になる可能性を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
    というのは一見すると尤もだと思うかも知れないが、科学リテラシーが一定以上ある人にはご存知の通りこれは「悪魔の証明」と呼ばれるもので・・・「ない」ものの証明は原理的に不可能で、背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明するしかないが、これ自体「ないものを証明」したことには(実用上なっても)原理的にはなり得ない・・・これを要求している点。この要求をしている段階で「私は科学リテラシーが欠如しています」と宣言しているのと同義である点に注意しなければならない。
    かたや池田氏は「背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明」は充分以上にしている。

    いま我々が必要としているのは「論理的にゼロかどうか」論ではなく、「実用上問題無いといえる線は何処かを見極めること」であることは、論じるまでもない話だと思うのだが。

    リスク管理については以下が非常に有益な視点を与えてくれます

    SYNODOS JOURNAL : 「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性 山口浩
    http://synodos.jp/society/1764

    尾崎豊を引き合いに出して語る朝日新聞の社説

    尾崎豊を引き合いに出して語っている朝日新聞の社説が「痛い」とtwitter上で話題になっている。

    社説 http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html?ref=any#Edit2

    確かに痛いと思う。しかし私がこう思うのは朝日の社説のみならず「痛い」と宣っている意見の殆どに対しても。だ。
    あれほど多くの人に受け入れられ支持されていた、とみえていたののに、これほど多くの人に尾崎豊の主張が理解されていなかったのだと分かり愕然としている。
    (もちろん、尾崎ファンの人全ての発言を読んだわけではないし、そもそも尾崎ファンの人全てがtwitterで発言しているわけではないだろうから、期待も含めてその他の多くの人は理解しているだろうとは思うが)

    尾崎は単なる反抗、反骨精神・・・安保やら東大紛争やらの「反抗のノスタルジー」を歌っていたのではない。
    確かに時代として、安保やら東大紛争やらの「反抗の時代」の一世代後の時代で「あの反抗は一体なんだったの?」という馬鹿らしさ半分の自虐的反省のムードが漂っていた時代で、上っ面だけを読み取れば「若者よ再び怒りの剣を取れ!」と言っているように読み取れるが、尾崎の訴えかけていた力点はそこにはない。
    大人社会や体制に反抗するのは若者の特権であり通過儀礼である [1] 。反抗することで軋轢が生まれ、その軋轢を契機にして大人になっていくためのみならず大人の側も変化していける通過儀礼・・・つまり若者の側だけの通過儀礼なのではなく社会全体の新陳代謝の為に必要な通過儀礼なのである。
    社会全体の新陳代謝になるには、若者の「反抗というパワー」を真正面から受け止める「反抗するに値する」大人社会、体制が存在していないと駄目で、これがまともに存在していないじゃないかと、若者の反抗心、反骨精神の持って行き場が無いじゃないかと、つまり「大人達よ、もちっと若者が反抗するに歯応えのある社会を作ってくれよ」と歌っていたのである。

    「じゃないと大人になるになれないまま年齢だけ大人になっていく大人が蔓延した社会になっていくよ」と訴えかけていたのだと私には思え、実にその後の今の時代を見事に言い当てているではないか!

    この大人になるになれないまま年齢だけ大人になっている大人が尾崎を引き合いに出して訓示を垂れているのは確かに痛いが、問題の本質はそこではないのである。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 若者が大人社会や体制に反抗するのはいつの時代にも存在する普遍的な通過儀礼である

    除染問題とイジメ

     あまりに下らない内容の番組(ニュースも含む)が多いので、あまりTVを観なくなっているのだが昨日久々にニュースを観ると、除染することがいつの間にか既定路線になっていて、どの範囲を除染するのか、除染する基準値の話になっている。
    [1]
    文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)

    池田信夫氏などが何度も指摘しているように、福島第一原発のごく近い範囲(以下マップの赤色および半径10km圏内)を除くと健康に害をもたらす可能性は事実上ゼロ [2]・・・つまり除染の必要など無い(除染を正当化する科学的根拠は無い)のにも関わらずだ。
     よく落ち着いて考えてみて欲しい。国や地方自治体が動き出すのを待てずに自腹で自宅を業者に頼んで除染している人が散見されるというニュースを。
    洗い流した汚水は下水道を経由して最終的には河川に流されるので、もし危険なレベルで放射性物質がそこに在るのなら国または自治体がこれに待ったを掛ける筈である。

    池田 信夫:除染の前にLNT仮説の見直しを : アゴラ
    http://agora-web.jp/archives/1381861.html

    日本の「被曝限度」は厳しすぎる:日経ビジネスオンライン
    オックスフォード大学ウェード・アリソン名誉教授インタビュー
    http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20111012/223166/

    放射能と理性 なぜ「100ミリシーベルト」なのか (著)ウェード・アリソン 除染を正当化する科学的根拠は無いという点に関しての詳細情報は引用したページ(及びそこからリンクしている関連ページ)を参照して頂くとして私のしたい話は別の処にあります。
    除染をして欲しいという福島県中心および近隣地域の人の気持ちは人情として分かります。何か得体の知れないものが付着している環境で暮さないといけない気味悪さ、気持ち悪さ [3]

     しかしよくよく考えてみると、科学的根拠が無い・・・つまり「実害が無い」もの・・・にムードや気分(つまりは感情=主観)で拒否反応しこれを忌み嫌う行動様式というのは、学校等で「○○キモい!」 [4]とイジメの行動の一環で「ああ!この鉛筆○○が触ったから、もう使えないわ!」と言ってゴミ箱にポイと捨てる、「この席、○○が座ったから座るの嫌だ!」と言って違う場所に座る・・・などの行動様式と根っこの部分で一緒だということです。
    これは当然、風評被害を醸成するもの(マインド)にも当て嵌まります。
    「風評被害だ!」と自分たちが被害者側に回るケースに於いては言い立てておいて、その同じ口で「除染!除染!」と言っている、そのご都合主義さに気づいて欲しいのです。
    論理的にそうする正当性がないのに排除・排斥をしようというのは当然「差別」とも密接に関連します。

     この原因として福島第一原発事故の遥か以前から家庭衛生商品を売っているメーカーが「滅菌・殺菌商品」を売る一環で「身の回りには目に見えないけども、これだけ沢山のバイ菌が在るんです! [5]」とCM内で、CMを出稿している番組内で取り上げさせて人の恐怖心を煽って、これに付け込んで商売をしているというのも挙げておくべきかと思います。
    身の回りに目に見えない多くの細菌が棲んでいることは嘘ではありません。事実です。 事実ですが、では、これがどの程度を超すと健康に悪影響があるのか、逆にどの程度までは事実上無害で気にする必要が無いのかという話は綺麗サッパリ抜け落とさせて、「細菌=汚い、不衛生=身の回りから排除すべき」というイメージ誘導をしているという点に注意を払わないといけないのです。
     少し本題から逸れますが大事なことなので記述しますと、「細菌類は問答無用に排除すべき」という考え方は医療現場でも過去のものになってきています [6]。 イソジン等の消毒液は人体に共棲している定在菌まで殺してしまう事から寧ろ傷の治りを遅くしたり、傷の治り具合が汚くなるなどが判ってきていて、褥創(いわゆる「床ずれ」)などにも生理食塩水または精製水で洗浄するのがスタンダードになってきています。 また、身の回りの細菌も、掃除機を掛ける、拭き掃除するという常識的程度以上に滅菌、殺菌しない方が、程良く細菌が居ている方が(特に乳幼児の場合)免疫作用が日常的に程よく刺激されることから寧ろ健康に益するということが判ってきています [7][8]

     話を本題に戻して、福島県中心に近隣地域に微量とは言え放射性物質が降り注ぎ残存しているのは事実です。が、この量は冒頭に述べた通り大半の地域で健康に悪影響が出る可能性は事実上無視出来る程度の小さなものです。
     この「小さな差異」を許容出来るかどうかの問題。 このマインドの問題は先に述べた通り「差別」を醸成し助長するのと共通するマインドの問題です。

     経済的問題 [9]として除染に反対し警鐘を鳴らしている知識人は多く居ますが、これは心理学的観点での問題でもある点を私は指摘したいのです。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)より引用
    2. 塩分の摂り過ぎ、肥満など日常的にありふれたリスクを下回るので事実上無視出来るという意味
    3. これ自体無知から来ているものだという点には注意を払って欲しい
    4. ○○にはイジメの対象の個人名が入る
    5. 細菌という言葉よりバイ菌という言葉を好んで使っている点に注意
    6. イソジン等の消毒液を傷口に消毒に使っている不勉強な医師は未だ残っていますが
    7. 犬猫等を飼っている家庭とそうでない家庭との比較で疫学調査をした結果アトピー発症に有意な差があった。など。但し、何れもアトピーが発症してから後にその環境にした場合の有意性はかなり低下するとされる
    8. 余談の余談ならが、微量の放射線は寧ろ健康増進なるという説もあります。また、上述の細菌類と免疫の関係からの(少し飛躍した)類推仮説として「限度を超えない範囲での微量の放射線に曝されている方が、それに相応する体内の防衛機序は寧ろ高まるのかも知れない」と言える気がしないでもないです。
    9. 除染費用は将来世代に重く伸し掛かる負担であり、これ以前に既に莫大な財政赤字(借金)を抱えているのに加えて負担増をするのは言語道断
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