大阪市政のこれから…橋下氏と平松氏
11月 16
時事評論 世の中雑感, 個性化, 公平性, 大阪維新, 差別問題, 意識化, 橋下徹, 空気としてのマインド No Comments
私は橋下氏および大阪維新の会支持である。
その実現しようと提言している内容も概ね賛同できる。
細かい点に於いては異論点も無くはないが、一番肝心な点で橋下氏は○、平松氏は×だと判断を下している。
この根拠として先ず以下を精読頂きたい。
池田信夫 blog : 効率の高すぎる政府
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292556.html
この記事で述べられている旧来型の日本で主流の組織、集団のあり方「閉じた系の中での “ご互さんゲーム”」が既に時代の趨勢として通用しなくなっている(それが寧ろ経済停滞の主原因になっている)システムであるという点は国政だけでなく大阪市政、大阪府政に於いても全く同様に当てはまる問題である。
「国が変わるのを待っていたらそれより先に地方が沈んでしまう」というのが橋下氏の基本的問題意識 [1] で「ならば、関西圏で独自に変わってしまおう」というのが彼および大阪維新の会の一番根っこにあるコンセプトである。
では、どう変わるのか、どう変えるのかという設問が次に自ずと出てくるわけであるが、これを理解するために以下もご精読頂きたい。
池田信夫 blog : 局所効率化と全体最適化
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292560.html
ここで述べられている「コーディネーションの失敗」が正に国、地方を問わず経済界をも巻き込んだ大問題として膠着状態に陥っているのが現在の日本の姿であるわけだが、これから抜け出す方策(引用文中で言う「Bの山(局所最適)からAの山(別の局所最適)へ移動」する方策)は同じく文内で説明されている通り「部分的な修正」「時間を掛けて徐々に変化」では不可能なのである。 大事な点なので同文章内から吹き出すと、
一つの均衡から他へのシステム間移行は、市場メカニズムで行うことはできず、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こるということになる。ところが同質的なメンバーで構成される関係依存型の「総動員体制」では、突然変異や撹乱が抑制されるので、システム間の移行は困難になる。しかも危機に直面すると、「日の丸検索エンジン」のように、逆に総動員で既存のシステムを守ろうとする傾向が強い。
だから前の記事にも書いたように、行政の中だけの局所的な効率化を考えていてはだめで、全体的な最適化を考える必要がある。それは市場だけではできないので、重要なのは意図的にシステムを撹乱し、さまざまな実験を行って最適解をさがすことだ。そのために役所にできる最善の政策は、規制を撤廃して行政の代わりに資本市場のガバナンスにゆだね、紛争を事後的に低コストで処理する司法的なインフラ(ADRなど)を整備することだろう。
箇条書に要約すると
- 局所均衡から抜け出すのには市場メカニズムだけでは不可能
- なぜならば、局所均衡の恩恵に浴している者(既得権益保持者)は他に「より良い局所均衡がある」と分かっていても今ある既得権、今まで費やしたコスト [2] の見返りの可能性を失う方を恐れて頑な反対勢力になりやすい(サンクコストの問題)
- であるので、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こすしか選択の余地はない
- この後は、さまざまな実験を行って最適解をさがす状況が出来るよう行政の事前介入(規制)を無くす必要がある
- その代わりに資本市場のガバナンスにゆだねる
- 資本市場のガバナンスにゆだねると必然的に起こってくる問題はあるが、これは司法的なインフラで事後的に処理するべき
- この為、司法的なインフラの整備は必須
簡単に言えば、問題があると既に分かった局所最適=Bの山は意図的に潰して [3] 平地にしてしまえば別の局所最適に向かわざるを得なくなるので、第一段階として「Bの山を潰す」必要が、そしてこれに次ぐ第二段階として新たな局所最適に向かう過程は基本的に自由競争(市場原理)に委ねるので「事後的チェック機能=司法的なインフラ整備」は必須ということである。
本題に戻って、「大阪市職員と協調的に穏便に改革を進めていく」と方針している平松氏の主張は日本人的には「美しく」感じられ、かたや抜本的かつ一挙に改革をしようと提言している橋下氏は「強引」で「乱暴」だと感じている人も多いだろう。 しかし上述の論を読まれた後では今や状況として「強引」で「乱暴」とも受け取れる [4] 改革をするしか選択の余地が(少なくともこのまま凋落したくなければ)無いのであるとお分かり頂けるであろう。 かたやの平松氏の方針は、ご当人がその意図で動いていないとしても結果的に、既得権益保持者を温存することであるのは明白であるのみならず、中途半端にいじろうとすると寧ろ混乱が増すという点で×なのだ。
いま状況が必要としている改革が「強引」で「乱暴」なもしかないのであって、橋下氏個人が「強引」で「乱暴」なのではないということ。この点を履き違えては大局を見失う。
然るに、ものの見事と言って良いほど、反対勢力(既得権益保持勢力)は「ハシズム」と呼称して橋下氏個人を「強引」で「乱暴」な独裁者であるかのように論理をすり替えて有権者の反感感情を呼び起こすキャンペーン [5] を張っているのは、何をかいわんやである。
また同じく反対勢力が独裁的と攻撃している公務員制度改革であるが、これも内容をよく検討すれば「事後的チェック=司法的なインフラ」を整備すると言っている以上でも以下でもないのである。
このように概観してみると橋下氏が提言している内容は考え方に一貫性があり、かつ時代の要請に沿ったものであると結論付けられる。
以下も参考になります。
「大盛り上がり」大阪決戦で問われる改革は「アメリカ型」か「EU型」か | 高橋洋一「ニュースの深層」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26364池田信夫 blog : 日本の経済システム改革
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292557.html
本題を離れてより本質的なことに言及すると、上述の論を読んで頂けた後ならば、これは大阪市&大阪府だけの問題ではなく、また日本の国政の問題なだけでもなく、我々日本人が文化的に好しとしてきた・・・解決策を考えるよりも問題がそもそも起こらないよう思考(志向)しやすい性質であり、これはイコール問題が起こると直ぐに規制(事前介入)強化をお上に期待・要求する思考法・・・考え方(美意識も含むかも知れない)が変革を余儀なくされているという問題意識をも持って頂けると思う。
特に教育関係者諸氏には上述の論と共に以下に引用する記事中の
私は大きな失敗はよくないと思うが、小さな失敗はむしろ好ましいと思う。イノベーションは、小さな失敗の積み重ねだ。イギリスの産業革命は、試行錯誤と失敗から生まれたのだ。これは「ブリコラージュ」と呼ばれる発見的な過程だ。あなたは小さな失敗を積み重ねることによって新しいことを発見するのだ。 だから日本人は、小さな失敗を許すべきだ。
という言葉をよく噛み締めて頂きたい。「小さな失敗」に神経質になることが「大きな可能性」の芽を摘んでいることに気付いてい欲しい。
池田信夫 blog : タレブ、福島事故を語る
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51742840.html
2011年11月17日 00:52 一部加筆(文意は変わっていない)
2011年11月18日 19:32 追記:一部twitter上で意味を取り違えて炎上している人達が居るみたいなので念の為に補足すると、皆で登っている木に喩えると「今までの木(局所最適B)」は腐ってきていて、部分修正や部分補強での時間稼ぎ(問題先送り)でどうにか凌げるレベルをもうとうに過ぎてしまっているので「より最適な(少なくとも今よりはマシな)木」に「登り直そう」と言っているのが橋下徹氏である。であるので今までの木の上の方に登っている「いい目をしている」人達はいつまでも降りようとしない(のは或る意味当然だが)上、問題が深刻化してきている現段階となっては木から降りるよう呼びかける穏便な手法を取っていられる時間的猶予は最早無くなっているので「古い木を切り倒す強行策に打って出るしかなくなっている」のが現状であるということ。「木にしがみついて降りようとしない人達」から見えている風景は「自分達が登っている木を切り倒そうとする乱暴者」に映ることは容易に想像できよう、が、この現状認識さえわかれば「いつまでも降りようとしないお前達が悪い」という話であることはお分かり頂けよう。 対して「木から降りるよう根気よく説得を続けていく」と言っているのが平松氏なのだが「今までの木(局所最適B)」に満足している人達はそれが完全に破綻するまでそこから離れようとしないというのは歴史が教えるところで、時間的猶予が全く無くなっている現在では最悪の選択なのである。 新たな木に登り直す時に不平等が出ないように機会均等の所々の知恵も同時に提言している点からみても橋下氏は木を切り倒そうとしているだけの乱暴者ではないことは明白。また、新たな木に登り出してみてはじめて認識できる所々の問題 [6] が出てくるであろう予想は出来るわけだが、これについても「実際の運用に際してのルール作りは柔軟に」と橋下氏は表明しているので、全然暴君でも独裁者でもないのである。
念の為に更に付言するなら、腐り始めていてこのままでは危ない木は「もっと腐っていよいよ倒れ始めた時には被害者は遥かに多くなる」ということ、つまり「その時には、今手を打てば救える人をも救えなくなっている」ということを強く認識するべきである。