尾崎豊を引き合いに出して語る朝日新聞の社説
1月 09
心理学エッセイ 個性化, 反戦, 意識化, 臨床ユング心理学 No Comments
尾崎豊を引き合いに出して語っている朝日新聞の社説が「痛い」とtwitter上で話題になっている。
社説 http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html?ref=any#Edit2
確かに痛いと思う。しかし私がこう思うのは朝日の社説のみならず「痛い」と宣っている意見の殆どに対しても。だ。
あれほど多くの人に受け入れられ支持されていた、とみえていたののに、これほど多くの人に尾崎豊の主張が理解されていなかったのだと分かり愕然としている。
(もちろん、尾崎ファンの人全ての発言を読んだわけではないし、そもそも尾崎ファンの人全てがtwitterで発言しているわけではないだろうから、期待も含めてその他の多くの人は理解しているだろうとは思うが)
尾崎は単なる反抗、反骨精神・・・安保やら東大紛争やらの「反抗のノスタルジー」を歌っていたのではない。
確かに時代として、安保やら東大紛争やらの「反抗の時代」の一世代後の時代で「あの反抗は一体なんだったの?」という馬鹿らしさ半分の自虐的反省のムードが漂っていた時代で、上っ面だけを読み取れば「若者よ再び怒りの剣を取れ!」と言っているように読み取れるが、尾崎の訴えかけていた力点はそこにはない。
大人社会や体制に反抗するのは若者の特権であり通過儀礼である [1] 。反抗することで軋轢が生まれ、その軋轢を契機にして大人になっていくためのみならず大人の側も変化していける通過儀礼・・・つまり若者の側だけの通過儀礼なのではなく社会全体の新陳代謝の為に必要な通過儀礼なのである。
社会全体の新陳代謝になるには、若者の「反抗というパワー」を真正面から受け止める「反抗するに値する」大人社会、体制が存在していないと駄目で、これがまともに存在していないじゃないかと、若者の反抗心、反骨精神の持って行き場が無いじゃないかと、つまり「大人達よ、もちっと若者が反抗するに歯応えのある社会を作ってくれよ」と歌っていたのである。
「じゃないと大人になるになれないまま年齢だけ大人になっていく大人が蔓延した社会になっていくよ」と訴えかけていたのだと私には思え、実にその後の今の時代を見事に言い当てているではないか!
この大人になるになれないまま年齢だけ大人になっている大人が尾崎を引き合いに出して訓示を垂れているのは確かに痛いが、問題の本質はそこではないのである。