プラセーボ投薬社会実験の提言

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問題が出るわけない低線量被曝で「鼻血が出やすくなった」「激しい咳を伴う症状が出るようになった」と、そして「これが内部被曝の影響だ」と言い出す人が後を絶たない。中には「医療機器で体内から多くの放射性物質が測定された」言い出す人も出ている。
そもそも事実無根のデマである可能性も当然あるわけだが、今論じたいのはこの点ではない。
また、この医療機器と称するものが本当に信頼性のある医療機器として担保されたものであるどうか自体疑わしいわけ(もし仮に医療機器自体は確かなものであっても精密医療機器というのは大概がそうだが、適正な操作手順で執行されたかどうかもかなり大事)だが、この点も論点ではない。
仮にこれらの A群:「鼻血が出やすくなった」「激しい咳を伴う症状が出る」、B群:「体内から多くの放射性物質が測定された」 という事象は事実であったとしてしても、AとBが同時期に観察されたからといって、この二者間に因果関係があるということにはならない。因果関係はもとより相関関係のあるなしも何ら証明されていない。また、相関関係が仮に証明されたとしても、これは因果関係を証明したことにはならない。また、体内必須物質として放射線核種の物質を(被曝とは無関係に)我々人間は保持(摂取)しているので、体内から放射性物質が検出された = 被曝によるもの とは言えない。(以下も参照)
http://www.mri-jma.go.jp/Dep/ge/ge_report/2007Artifi_Radio_report/cover.htm
http://case311.miraikan.jst.go.jp/home/docs/radioactivity/1104121558

低線量被曝(月間100mSv以下とする)では長期的に健康被害が出るかどうかも疑わしく況してや短期的に健康被害が出ることは有り得ないと知っている科学リテラシーの或程度以上ある人には、以上の説明で充分である。極めて慎重な見解に拠ったところで「きちんと相関関係のあるなし、因果関係のあるなしを調べてみた方が良いですね」と言うところまでだろう。
処がこれらの訴えをする人達というのは、この説明では全然納得しない。また、論理的に説明、説得を試みても殆ど徒労に終わるであろう。(だからとて論理的説明を怠ってはいけないが)

心理の専門家を標榜している私としては識者の皆さんが行ってきているのとは別の観点からの提示をしたい。

前提として彼等の訴える事象自体は嘘ではない、そういう事象があることは事実だとして、
また、それが生物学的、医学的に健康に問題を起こすほどのものではないと言えるにせよ被曝(内部、外部両方の)が或程度在ることは事実であるので、
以下のように仮説を想定することが出来ると考える。

  1. 低線量被曝の場合、そのほぼ100%は多重に備わっている自己修復機能で生体レベルの影響(健康を害するという結果)には繋がらない事は判っているが、と同時に、遺伝子レベルでは極めて低線量であっても一定量の遺伝子の損傷は起こることも判っている。(遺伝子レベルでは「LNTモデル」が成り立つのに生体レベルでは成り立たないということ → 閾値の存在する強力な根拠になっているわけだが。 [1] )
  2. 身体の各部位が察知、検知した情報は全て脳が受け取っているわけだが、我々人間に限らず或程度以上の脳を備えている生物に於いては、受け取った情報を全て真に受けずに或程度以下の雑情報をノイズとして無視するカットオフ値が設定されている。
  3. このカットオフ値の設定は器質因であるよりかは「脳のプログラム・チューニング」次第であると考えられる。
  4. 遺伝子レベルの損傷も逐一脳には情報伝達されているであろうと考える方が自然で、それをイチイチ覚知しないのは脳のカットオフ設定によって無視されているからと考えるのが妥当。
  5. 「そうじゃないか?」と思う心理が強く用意されると通常より遥かに感覚が鋭敏になるという事象があることは多く観察されている。(清潔恐怖症などの強迫神経症が代表的)
  6. これは、そういう心理作用の影響で脳のカットオフ値が下げる場合があるのではないか?という推定ができる。つまり、この脳のカットオフ設定は「△μv 以下の信号は無視」のような一律カットオフではなく脳がそれぞれの重要度、優先度を判断して軽重を付けているものと考えられる(脳による判断 [2] の介入する余地があるということ)。
  7. 被曝が一切無くても遺伝子損傷は、低線量被曝によるより遥かに沢山の頻度で日常的に発生してるので、脳のカットオフ値が下がった場合を想定すると、非常に多くの信号を脳が受け取る結果「組織が損傷しているかも知れない」という誤覚知 [3] を脳が形成する可能性が考えられる。
  8. 脳というのは「辻褄合わせの名人」と呼べる側面を有しており、誤覚知と辻褄の合わせられる顕在潜在両面での身体的脆弱さが在った場合、これとそれとを結び付け症状をより顕在化させる場合があるのではないかと想定できる。また、身体的脆弱さは無くても「組織が損傷しているかも知れない」という警戒認識[1]によって防御反応が躍起される可能性も十分あり、この「攻撃対象が明確に存在しない」防御反応は自身の身体を攻撃し出す・・・アトピーにみられる「確たるアレルゲンが確認されないのにも関わらずアレルギー反応が起こり自らの体組織を損なう働きをする」の [4] と本源的に類似している作用機序による症状を顕在させる可能性も想定される。
  9. これは「負のプラセーボ効果」だと考えて良いのではないか?
  10. 「負のプラセーボ効果」だとの想定が正しいならば、これを打ち消すプラセーボが有効ではないだろうか?と、「これは脳内のカットオフ設定を是正する薬です」と宣言して偽薬を処方することで改善する例が出てくるのではないか?と期待される。 [5]

幸いつい最近に以下のように「プラセーボはプラセーボとわかっていても効果がある」という報告もあるので、症状を訴える人に偽薬である事実を隠したり違う目的であるかのように偽って服用させる必要はない。
http://www.reuters.com/article/2010/12/22/us-placebo-idUSTRE6BL4IU20101222 [6]

また、偽薬を処方することは医師法で認められている。

社会実験として、以上の目的、意図を明確に示して希望者に偽薬を服用してもらう実験を大規模にしてみてはどうだろうか?
当然予想される事態として、幸いにこの予想が的中して症状が改善する人が有意な数以上出た場合に一番困る勢力である「低線量被曝による健康被害を喧伝している人達」「内部被曝の影響を特別、または誇大に喧伝したい人達」が、「非人道的行為」とか「被爆者をモルモットにするのか!」とか言い立てて猛反対するであろうが、上述の通り「目的、意図を偽らずに明示し」かつ「希望者に対して」行うのであるから倫理的にも道徳的にも問題はない。
実際問題は「希望者が名乗り出てくるかどうか怪しい」という可能性はあるとは思うが、同じプラセーボである除染に兆単位の税金が注ぎ込まれることを思えば、こちらの方が遥かに低コストで実現できる。何なら医師会に協力を要請して、この件の処方箋料は無料(診療費は取って貰って良いように思う)、製薬会社にも協力して貰って偽薬を無償提供して貰うというのはどうだろうか?
勿論、社会実験をする以上、その効果が有意にあったかどうかをきちんと確認しなくてはいけないので、訴える症状が本当にあるのか、どの程度のどういった症状なのかを事前に調べてから行う必要があるので、訴え自体が虚偽であった場合、これを沈黙させる効果も期待できる。


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 一例『サイエンスZERO No.365 シリーズ 原発事故(3)「低線量被ばく 人体への影響を探る」2011年11月12日放送』で明確に述べられていた
  2. 「判断」「認識」と言っても自我意識が認知しているという意味でのそれではない。
  3. これを「誤」覚知と呼んで良いのかどうかは議論のあるところかも知れないが。
  4. アトピー体質の人の多くはアレルギー体質でもあるということは知られており、どこまでが心理因(脳のプログラム・チューニングの問題)であるかは峻別し難く見解は混迷しているままであるので、全てが心理因であるかように誤解しないように注意されたし。
  5. アトピーと同じく、器質因も備えている人は一定数以上含まれるであろう。ので、大多数の人の症状改善という虫のいい話はないだろうが、一定以上の有意な結果が出るなら、これで十分意義がある。
  6. 勿論これだけを根拠にプラセーボに過大な期待はしてはいけないのかも知れないが、社会的コストが少なくて済むと見越せるので行なってみる価値はあると考える。

占い依存症になりやすい人

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先週金曜日(2012年1月17日)フジテレビ「とくダネ!」にて取材VTRが放送されました。この取材の前日にも週刊「女性自身」に電話取材を受け、こちらの記事は今週発売号(2月21日発売 2528号)に掲載されています。
どんな内容になっているか確認はしていないですが、ちゃんと書いたページを用意しておけば(万が一真意とは違うように編集されていても)誤解しない人は誤解しないと思いますので、このページを掲載します。
基本的に取材インタビューに答えるために用意した下書き原稿で、擲り書きです(多少は整えていますが)。最初から読んで貰うことを前提に文章を書き出したのとは違い散発的、羅列的で読み難いかも知れませんが、ご勘弁を。
当然ながら、オセロの中島知子さん個人について言及しているのじゃないことを改めて(念のため)申し沿えておきます。

また、このページは、より良い論理構成、推敲を思いつく度に随時更新します(どこを加筆、訂正したかはいちいち明記しません)。

「○○依存症」という、この ○○ に何が入るか [1] に関係なく本質部分は一緒だと先ず強調しておく必要はあると思います。

ただ、とは言いつつ「占い依存」の場合は、占い師(霊能者)という相手がある二者関係の「関係依存」である点で「恋愛依存」「セックス依存」以外の他の物的依存とは違って、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)と同根の問題でもあると言えます。

  • 論理的ではなく理屈っぽい=物事を白黒つけたがり過ぎる・・・曖昧、微妙なのが本質の情緒性が劣っている
  • 人間関係を「勝ち負け」「上下」「優劣」で理解する傾向が強く、この関係付けで捉えられないものには反応が薄い。・・・実際には反応が薄いのが原因なのだが、この事に本人は気付いておらず「こころ許せる友達ができない」などと嘆いているケースは多い。
  • (評価ではなく)世間、周囲の評判を過剰に気にする=裏返しの「全くに意に介していない」という虚勢を張るケースも多い
    ( [気にするべき(または気にしてもいい)評価] はスルーするのに [気にしなくてもいい(気にするだけ馬鹿馬鹿しい)評判] を妙に気する傾向も)
  • 他人の考え・感情を通常の「推し量る」能力は劣っているが、反対に「邪推」することが多い。
    (話の前後関係などの文脈から(話し言葉の場合は、相手の表現の着け方、抑揚間合いの付け方も)推察できる「文意」の酌み取りが能力が劣っている反面、メインの意味合いには殆ど影響のない枝葉末節の文言の不備または「文言そのもの」に強く反応 [2] するので、勝手な解釈、思い込みによる「誤解」「誤彪」が多い。 → 「言っていないこと」に食って掛かってくる人)

人間の知性は「論理による思考」と「感情、感覚による察知・判断」が協力的に働くことで理想的な働きとなるので、両者が非協力的またはアンバランスだと適切な推量、推測、判断が損なわれやすい。以上に列挙した特徴は、この両者が協力的に働いていない結果だと言えます。

  • 自尊感情が健全に育まれていない(自尊感情は弱い) ≒ (間違った意味での)プライドが高い [3]

「論理による思考」と「感情、感覚による察知・判断」が非協力的またはアンバランスになる原因として多くの臨床心理家、心理学者のコンセンサスとして重視されているのが「自尊感情の不全」です。
自尊感情とは「イケテル自分」だけでなく「イケテナイ自分」も含めて全包括的に自分を肯定できる(存在を否定しない)感情ですので、自尊感情が不全な人は「イケテル自分」だけしか受け入れれない [4] ・・・つまり「自分を肯定する感情」が「イケテル自分」の方にばかり偏っている(偏り過ぎている)。心というのは常に平衡を保とうとしますのでこれの裏返しとして「イケテナイ自分」の方には否定的感情ばかりが寄せ集められている(残っている)ことになります。
否定的感情というのは他人に対してでもそうであるように、客観的な評価を越えて非常に誇張される元なので、実際にイケテナイ以上にイケテナイように自己イメージが歪む。これが所謂「劣等感コンプレックス化」するということです [5] 。マイナス面が誇張されることで発生する偏りを補正しようとプラス面も誇張され、プラス面が誇張されることで発生する偏りを補正しようとする自律的平衡維持作用でマイナス面が誇張される・・・という「悪魔のループ」が発生する [6]
プラスの面に対してはプラス方向に、マイナス面に対してはマイナス方向に、どちらの方向へも誇張極端化するわけですので双極性障害(いわゆる躁鬱病)とも相関性があるかも知れないと思います。
自尊感情が弱いのを補う働きが動く結果「虚勢張り」になりやすく、時に「見栄っ張り」で「高慢ちき」。「他人に弱みを見せると負け」と考えやすく、これゆえ普段から策略・計略的言辞が多い。自身がそうであるので他人の言動も策略・計略的であるかのように誤解釈しやすい → 不要な詮索、邪推が多い。
その(自尊感情の不全)原因であり、かつ結果であるのが「小さな失敗に対する非寛容さ」です。ここで云う「失敗」とは「不完全さ」と言い換えた方が良いでしょう。
多くの場合がちょっとした失敗をイチイチ指摘、注意、叱責される環境で育ったこと、またはロクに褒めて貰えた経験がなく育ったことで、性格的には神経質で潔癖症に(自分自身の性格的特徴・欠点も含む不完全さを許容できない)、人物的には(いわゆる)完璧主義で他人の失敗にも非寛容になるというパターンにはまりやすいです。
何故これが自尊感情を不全にする原因になるのかといいますと、哲学的言い方をしますと『「完全」という概念自体が論理思考が産み出したフィクションに過ぎない』からです。平たく言えば「完全な人間というものはそもそも存在せず」「人間というものはそもそも不完全」だから、不完全さを許容されない育ち方(育てられ方)をすると「全存在的自分」を許容しなくなるからです。
『「完全」というフィクション』を絶対視すると、論理思考で自分の全てを統制しようとする傾向が強くなり、感情は論理思考の従属物としてしか許容されない・・・論理思考のお気に召す「美しい面」しか許容されない・・・ので、これ以外の「感情というトライ&エラーの繰り返しによるその(適切な)表現手段・手法を獲得していくしかない働き」が、その獲得機会を与えられないことから人格の構成要素として組み込まれない(“野蛮”なまま放置される)・・・「完全さを目指して不完全になる」というパラドクスに陥るのです。

『「完全」というフィクション』に囚われてしまって自分に不完全さを発見してはこれを躍起になって消滅させようとしている点で「美容整形依存症」と根の部分で共通します。

論理的推論で出来るのは「決定」
「決断」は論理で詰めるだけでは答が出せない問題を決めること・・・感情の助けがないと困難。つまり「勇気」であり「後悔を振り切る潔さ」であり「リスクを引き受ける決心」である。

今回の震災に伴う原発事故で奇しくも露見したように「リスクを過剰に恐れる」人が異常に多いこと。日本人は総じて「小さいリスクを無くすことの積み上げで大きいリスクを無くすことが出来る」と信じ過ぎる傾向が強いのですが、これは実は「そういうケースも確かに少なからずあるが、そうでないケースも多々ある」という意味で間違いなのです。小さいリスクを無くすことの積み重ねでしか行動できない人というのは、いざ大きめのリスクにぶち当たった時にそれまでリスクにちゃんと向き合ったことがないのでリスクの大きい小さいすら判断できない思考停止状態になる [7] 。思考停止してもリスクを避けたい感情だけは残るので、元から極端なリスク回避性向がより先鋭化して無闇と増幅した恐怖心となり、バラ色の未来を語る詐欺師の甘言または、終末論的恐怖を煽る言辞を信じ易くなる。
占いジプシーの方なども全く同じで、リスク・・・全く完全な人間などこの世には存在しませんから、恋愛、ビジネス、あらゆる人間関係は「リスク込み」なので、これを付き合いの中で付き合い方の工夫で最小化するという健全な思考法ができる人は良いのですが、「工夫で最小化する」のではなくて端からリスクが極限ゼロに近い相手を選ぼうとする・・・いわゆる相性が良いだ悪いだ言っているのも参考値程度でなら健全なのが占いで相性の良い相手を見付けてこれと付きあおうという発想になると、これは「リスク回避病」と言って良い。
自分にとって安心できる甘言を言ってくれる占い師に巡り合うまで占いジプシーを繰り返し、運良く(運悪く)期待通りのことを言ってくれる占い師、霊能者などに巡り合うとこれを絶対視し出すというわけです。ドラッグを打ち続けている限り平安で居てられる麻薬中毒患者と一緒で、その「安心のおまじないの暗示」を言い続けて貰わないと禁断症状(無根拠の不安が異常に増悪する)が出るようになっていくので、最初は一週間に一回程度で良かったのが三日に一遍、、、果ては毎日朝夕という具合に悪循環を深めていきます。

放射性物質拡散に於いては「非日常的できごとだから」その様相がより過激さを増しているだけで、「自分の中のリスク(マイナス面)」と向き合ってうまく付き合っていこうとする態度が欠如している事が投影されているという点で全く同じだと言えます。


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 買い物、占い、恋愛、タバコ、アルコール、ギャンブル、セックス、薬物、、、
  2. 当然、言葉狩りに走る傾向も強い
  3. 自尊感情が弱いのを補おうと働く(意識的にではない)働きの結果「事実以上に自分をよく見せようとする振舞い」が増えやすい
  4. 大抵の場合は生育して来る中で「イケテル自分」しか評価してくれない周囲の大人の接触態度を反映している
  5. 劣等感自体が悪いものなのではなく、劣等感が否定的感情ばかり寄せ集めて塊になってしまう(コンプレックス化)ことが問題なのです
  6. これが極限まで進むと多重人格的になってくる
  7. 実際にはリスクの多くは無くせはしないので「無かったことにする」「無いことにする」でやり過ごしてきているだけなので、実は小さいリスクが沢山積み重なって大きくなっているケースも多い

「高齢者はどう譲歩すべきか」について

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このお題を出されて「年金なしでも生活できる経済力(貯蓄も含む)のある人は年金を返上してもらう」というところまではすぐに思い付いたのだが、これには何点か難点がある(シャレではない)。
強制的に年金を返上させる=受給資格を取り上げる なので、これのみを行うと人権問題(個人の財産権に切り込み過ぎ)として批判を受ける可能性が大なので実行できない。故に「経済力のある人は自主的に返上して下さい」というかたちにならざるを得ない。
が、そうなると(ご想像の通り)返上する人と返上しない人が出てきて「正直者が馬鹿を見る」という結果(かつ中途半端に終って有効性が減じる)になる公算が大だと見込まれる。

選挙権返上の提案 — 駒沢 丈治:アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1429192.html

これを「年金受給資格:選挙権」というトレードオフの関係として置き直してみるというかなり秀逸なアイデアである。

現在、未成年には選挙権が与えられていない。それは未成年が政治的状況を十分把握することができず、また社会から保護される対象であるからだ。だとしたら、高齢となって社会から保護される立場になった者も、選挙権を返上するのが自然である。

年金とは高齢で働けなくなった人(若しくは「もうこれ以上働いて貰わなくていい」と社会的にコンセンサスされた線で区切られる人)が収入手段を失ったことで生活に困らないようにする為の「最低限の保障=セーフティーネット」というのが本来なのが、いつの間にか「現役時代頑張ってくれた人達」への「慰労金」的意味合いにコンセンサス [1] が摩り替わっているという問題があり、これ故に「高齢者はどう譲歩すべきか」というissue(問題設定)になっているのだ。
その本質に立ち戻るならば、生活保護と本質的に同質なのでこれを「負の所得税」に一元化するのが望ましいかたちである。公平性も増し、役所の事務コストも削減できるからである。この点は押さえておきたい。
ただ、これを行うには大きい壁が幾つも立ちはだかる [2] ので、現状からそう大きくシステムを弄らなくても実現可能な次善の策として上述引用のアイデアは秀逸である。
駒沢丈治氏には異論は(上述の「負の所得税」の件を除けば)一切ない。

この記事一連で問題だと指摘せざるを得ないのは、「公的年金も選挙権もお国が定めた個人の絶対的な権利である」というコメントを寄せている御人である。
公的年金は「払ったのだから受け取る権利は絶対にある」と思っているのだろうが、日本の年金制度は現段階までのところ積立方式ではない。つまり、支払っているのは、その支払っている段階で年金を受け取っている人の分を負担しているだけなので、支払った分に見合った受け取りを主張できる担保としての性格は無いのである。
選挙権、これ自体は民主主義制度を前提とする限りに於いては「絶対的」と言っても良いが、それをどの範囲までの誰に付与するかの裁量は認められているという意味で絶対的ではないのである。事実、20歳に満たない者には選挙権は与えられていない。
本論の方では駒沢丈治氏はちゃんと、この裁量される範囲のコンセンサスが存在してることを述べた上で、この裁量の範囲で「こういうコントロール法もあるのでは」と提案しているのである。反論するのは構わないが、ちゃんと趣旨を理解してからにして欲しい。
つまり両方とも『議論の余地はありつつも現行「コンセンサス」として是認されている「相対的な」権利』に過ぎない。「絶対的な」権利ではない。中学生レベルでも認識してくれてないと困る常識レベルの認識を、プロフィール写真を見るかぎり初老と思える年齢の「いいおとな」が理解していないというのは如何なものかと、これがこの世代(たぶん団塊の世代)を支配している「空気」だとしたらかなり怖いと思う。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 私に言わせれば「情緒論を利用したお手盛り」
  2. 改革案に見せかけて日本年金機構という天下り先をわざわざ作ったのが無くなるという一点を挙げただけでも想像が付くと思う

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