談志は天才肌と評して褒めているつもり?

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また惜しい人を一人亡くした。 立川談志師(以下敬称略)である。
彼を天才と呼ぶのは簡単である。実際、天才性は備えていたが。

落語の、というか、噺家の一番大事な真髄だと言える『「キチガイ性」と「理性・知性」のバランス』これの巧妙さが生死を分けるということを誰よりも理解して、また体得するべくの飽くなき戦い(葛藤)を生涯やり続けていた稀有な人である。
これが「噺家を噺家たらしめる」一番肝心な部分で、これをわかっていない噺家のしているのは「単なる古典芸能」でしかない(つまり、「過去の素晴らしい遺産」として保存はしていく価値はあるだろうが保存する以上の価値はないという意味 [1] 新作の場合は「着物を着て座布団の上で演ってる漫談」 [2] )。

この「キチガイ文化」が生きていける余地を社会が治外法権として容認していた高度経済成長期以前は別として [3] 、この許容域が無くなったこれ以降の時代 [4] に、この点で比肩するのは桂米朝だけである(故人も含めれば笑福亭松鶴も)。
談志の方が歳下なのだから「米朝に比肩するののが談志」と言うべきだろう、というご意見もあるだろうが、”本質的な大事な部分が同質” という意味を言いたいので、どっちがどっちでもいい。
「談志と米朝が同質」と言うと驚く人、驚くを通り越して怒り出す人もたぶん多く居るだろうが、これを、マジシャンが手品のタネ&仕掛けを一切漏らさないように見事なまでに腹の内に収めて外には一切出さなかったのが桂米朝、反対にこれを戯画的演出の部分も含めて外に出していたのが立川談志、という「生き方の手法」が違っていただけで本源の部分は一緒である。
どっちの生き方も楽ではないが、その生涯を振り返って後者の生き方の方がしんどかっただろうとは言えると思う。このしんどい方を敢えて選んで生き通した人。これが立川談志である。

非難を多く受けるだろうのを覚悟の上で断定的に言ってしまうと、その弟子をみれば、ご本人の言葉で云うなら「業」を惜しみなく周囲に発散していた談志には志の輔、志らく、談笑など既にその片鱗は垣間見せていて今後「化け物」になっていくであろうと思われる者が沢山居るが、かたや米朝門下には枝雀、吉朝という既に故人となっている二人を除けば「化け物級」は皆無である [5] という点から、隠し通した米朝の功罪や如何に!と思う。
(もっと厳しい観方をするならば「それを見抜いて盗めていない門下の者が二流なだけ」だが。 [6] )

「名選手必ずしも名監督ならず」という言い古された名言にあるように、天才肌の師匠からいい弟子が出ていることはあまり多くない。殆ど無いと言っても過言ではない。 これから帰納的に考えるならば寧ろ天才肌なのは米朝で、談志は天才肌ではないと言えるのかも知れない。 実際談志は天才肌であるという世評とは真逆に実に真面目で努力家、研究熱心な理論家だったことは談志ファンの間ではつとに有名で、口座での言葉の端々にもこれが表れていた。 米朝も速記本にしか残っていない、または生き残っていた高齢の師匠方が(ですら)断片的にしか覚えていなかった話(噺)を、掘り起こし色んな資料に当たりつつ復元していったという気の遠くなりそうな作業を地道にし続けていったという点では、他に比類なき努力家であり勉強家であったが、これが他人が応用できるには抽象化(論理体系化)がされていないと「わかるやつにしかわからない」ということになり、後の代に伝わっていくかどうかは偶然によってしか担保されない。この「わかるやつ(枝雀、吉朝)」がたまたま偶然に米朝の弟子になったに過ぎないというのが私の見立てである。 [7]
この点、談志は理論家だったので体系化が(あくまで談志流であり、かつ感覚的な体系化だったろうが)或程度されていたと考えられる。先に挙げた弟子三者が三様にそれぞれ独自の「落語世界」を築いているのをみるに、その根本に確かな骨組みが無ければ(単なる偶然や幸運で)このような状態が出現することは考えられない。

噺家・・・一演者として素晴らしかっただけでなく、師匠・・・教授者としても素晴らしかった、これが立川談志であった。

談志さんに贈る言葉の代わりに以下の師匠自身の言葉を送ります。
(最後の締めの言葉まで予め用意している談志って、、、涙)

立川談志「三平さんの思い出」

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 保存するだけなら高画質の映像込みにしても4GBもあれば足りる
  2. 個人的好き嫌いは「あまり好きではない」桂三枝だが、の創作落語は単なる新作ではない。談志を敬愛していただけあって「わかっている」のである
  3. 但し、この考え方は部落差別やハンセン病者差別なども許容するものである点には注意を要する
  4. 建前として無くなったことにしているだけで、かたちを変えて未だに存在しているが
  5. それなりに上手い噺家は少なくないが
  6. 個人的には孫弟子枝雀門下の紅雀はこの点に気付き掛けていて化ける可能性があると感じている。この他にも米朝門下で注目に値するのは枝雀門下に集中している。米朝直下では米二くらいしか居ない。但:ざこばは別格
  7. 枝雀は米朝以外の弟子になっていても(多少かたちは違っていたかも知れないが)化け物になったであろう点に変わりないと思われるが、吉朝は、40歳代以前の若い頃の音源を聞くと「どうだ!おれは上手いだろ!」「おれは他とは違うんだぞ」という空気が噺を通してプンプン臭ってくる実に鼻持ちならない嫌な奴で、だから「うまい」と評する人は少なくないのにカリスマ視する一部の熱狂的ファンにしか支持されていなかったのも当然と言えば当然で、謙虚さ(少なくともそれを聴衆に気取られないよう巧妙に隠すこと)を学ぶ意味で米朝の弟子になっていた必然性はあると感じる

映画「コクリコ坂から」を観てきた

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ネタバレは最小限になるように注意して書こうと思いますが、或程度以上深く突っ込んで評論、感想を述べるのだから所詮そんなことは無理な話で、、、なので一切の先入観を持たずに同映画を観たい人は読み進まないことを強く薦めます。

エクスキューズ(言い訳)は以上として本題に入ります。

先ず、最初に心理学の徒ぶった言い方をさせて頂くと「感覚優勢の人じゃないと “駄作” のレッテルを貼る可能性が低くないな」です。
論理的に分解・・・要約してしまうと、深いストーリ性も深く考えさせられる哲学的命題のようなものも大して無い、陳腐とすら呼んでも良いのかも知れないストーリーで。
 これはこの映画が陳腐であるということではなくて、分解してしまうと零れ落ちて行ってしまうニュアンスや空気みたいなもの、これら一切を含む総和としてしか表現され得ないもの・・・つまり「感覚」で表現されたものの比重が非常に高く、ゆえにこれを感覚のまま受け止め理解できる感性を持たない人には大いに誤解というか無理解で終わらされてしまうのだろうということです。

同映画を観終わった瞬間・・・まだエンドロール前の話自体が終わった瞬間は「掴み所のないぼやぁっとした “悪くない。いや良かったのかな” という印象」だけが「そこはかとなく」心のなかに漂っているという感じ(以上ではなかった)だったのが、エンドロールが始まると共にジワジワと何故かはわからないけども涙が滲み出し、と同時に何とも形容のし難い「味わい」と呼ぶしかない感動(のようなもの)がこみ上げてきた。
そしてこのエンドロールが実にあっさりしたもので、「テーマ曲でじっくり引っ張って余韻の感動を盛り上げる」というのとは真逆の実にあっさりした「えっ! もうエンドロール終わっちゃったの?」と思うや館内が明るくなり始め、慌てて涙を隠さなきゃいけないという次第に相成り。

帰りの道々、「何で涙がこみ上げてきたのだろう?」「(涙に相応しい)感動作というのじゃないし、、、」「況してや壮大なドラマなどでは微塵もないし、、、」とつらつらと考えている内に気付いたのが「落語的というか落語と通底する表現という面がある」という点です。
ご存知のかたはご存知の通り、落語というのは(主に人情噺と呼ばれるものなど一部は違いますが、その多くは)筋立て・・・ストーリーに於いては大して筋らしい筋は存在しないのが通例で、そしてまた、会話・・・言葉のやり取りで進行していくので言葉遣いが変わった瞬間に「場面(状況)が変わったのだ」と聴き手に了解されるという性質を持ちます。
「場面が変わった」というのは当然、それに相応する時間、空間、心理の経過も「含んだ上で」瞬間的に変わったのだと理解するということです。 現代演劇などリアリズム表現の場合は、それに至るのに辻褄の合う筋立てなり伏線があった上で言葉遣いが変わるというのが基本なのに対して、落語の場合は言葉遣いが変わるというのを以て場面が変わったのだと了解させ、これに対する説明らしきものは殆ど無いケースが多々あるのです。
これはつまり或る種の約束事で、表現者と受け取り手の間に或る種の暗黙の了解が存在するということにはなりますので、この暗黙の了解に馴染んでいない人には強引と受け取られる危険性が潜んでいるということにはなります。
ところが、論理的辻褄が合っているかどうか、それに対する納得の行く説明があるかどうか、これに敏感なのは大人で(これはこれで大人になるというのはそういう論理性を身に付けるということ物事の妥当性を確かめる力を付けることであるので基本的に悪いことでは当然ないのですが)、子供の方が言葉と言葉のやり取りの中でダイナミックに生きるのに寧ろ大人より慣れていると言えて(だから反面、言葉の些細な行き違いから揉め事や喧嘩はてはいじめが発生するのだが)ずっと素直に受け入れると思われます。

この「落語的」という点に気づいてみれば、エンドロールが実にあっさりと呆気ないくらいにあっさりと終わってしまう作り方にも意図があるのではないか?と推測されます。
 落語の「たちぎれ線香(たちきり、たちきれ)」に似ていると。あっさりと終わらせることで寧ろ、受け止め手の心の中では余韻が増幅し深みを増すという流れが。

以下は直感的にそう感じるというものなので上記以上に個人的見解ですが、何年か後、もしかしたら10年、20年後に「この映画を観てて良かった」とそういう一財産を子供の心の中に与えてくれる映画であるように思います。

繰り返しになりますが、観終わった直後にストレートに「いい映画だった」と思える類いの映画ではありません。

以下余談ではありますが、この映画に纏わってインタビューを受けた監督の宮崎吾朗氏が語っていたところ(MBSラジオ)によると「(父である宮崎駿は)俺の書いた脚本を台無しにしやがった」と表向きは否定的コメントをしていたのに試写会で「最後大泣きしていた」のだそうです。

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