「もっと詳しくクイーンの亊が知りたい」というご要望を少なからず頂きましたので、多少詳し目に加筆しました。
その昔、1970年代を席巻したクイーンという一世を風靡したブリティッシュ・ロックのバンドが居たのをご存知でしょうか?
あの当時はキッス、エアロスミスと並べて御三家的な感じでミュージック・ライフ誌(懐かしい!(^^;)で扱われていたのでした。 あと、格落ちになるけどエンジェルというバンドも居ましたが、、、それは話が横道に逸れるので、、、(^^;
少し長くなりますが、知らない方も増えてきているので、どんなバンドかの概略を述べます。
どちらかというと今で言うヴィジュアル系(バンド名の”クイーン”というのもハイソサエティーしか相手にしない高級男娼の隠語に由来しますかねぇ、、、)、歌詞もお耽美なものが少なくなく、レッド・ツェッペリン、ディープ・パープル、グランド・ファンクなどの骨太で汗の匂いのするロックが正統派とされていた当時としては、この「美学ロック」とでも言うべきものは「軟弱なおんなこどものロック」の烙印を押されなかなか正当に評価されませんでした。 そういうカテゴライズに男はけっこう囚われてしまうわけですが、女性達は違いました、評論家がなんと言おうが自分の感性で良いと思った物は良いと。
クイーンの持つ繊細な美しさは特に日本人の感性にフィットしたのでしょう、クイーンは日本の女子高校、大学生を中心に世界でいち早く支持されたのです。 イギリス本国では三流扱いが日本では大スター、当然クイーンは足繁く日本に公演にやってくることになります。
3枚目のアルバム「シアハートアタック」からのシングルカット「キラー・クイーン」(この歌詞で唄われている内容は、空想上の絶世の美女である男娼の(今風で云えばニューハーフ?)の日常風景の描写です)「Now I'm Here」のスマッシュヒットに続いて、4枚目のアルバム、いまやロック史上に残る不朽の名作「オペラ座の夜」を発表し、やっと本国イギリスで一流の評価を得たのです。
この「オペラ座の夜」で完成を見たクイーンサウンドの一番の特徴はギタリスト、ブライアン・メイによるギター・オーケストレーション(多重録音によるギター・アンサンブル&他楽器のシミュレーション等によって、あたかもオーケストラの如く千変万化の多彩なサウンドを構築)とオペラティックとまで称されたコーラス。 これによって多彩で繊細、時に重厚なサウンドスペースを創造していました。(この功績は4枚目までメインでプロデュースを担当していた5人目のメンバーといっても良いロイ・トーマス・ベイカーの存在も重要なウエイトを占めています。 因みに「オペラ座の夜」のサウンド・エンジニア、その後の5枚目のクイーンとの共同プロデューサーは、その後Journeyの「ESCAPE」「FRONTIRES」、Asiaの「Asia」「Alfa」のプロデュースで名を馳せたマイク・ストーンが担当しています。 Journeyサウンド 〜 エイジアの "Heat of the monent" "Don't cry" で「ストーン・サウンド」と一世を風靡したサウンド作りの原点は、クイーンにあり!です。 因みに「華麗なるレース」所収の "Good Old Fashioned Loverboy" では、チラとその歌声が聴けます。) 特にブライアン・メイによるギター・オーケストレーションについては各アルバム毎に「No Synthsisers !」とわざわざクレジットを入れていたほどの拘りようでした。
5枚目のアルバム「華麗なるレース」は前作「オペラ座の夜」の実験的要素を整理し完成度を高めたかたちを取り、この2作は姉妹作といった感じで対を成すものです。 実際ジャケット・デザイン、原題「A Night at The Opera」「A Day at The Races」と「A ○○ at 〜〜」と同じ韻を踏むかたちに成っているなどで推察されます。 ファンのあいだでは2枚目のアルバムのA B 面(これもCD時代に入って死語ですが、、、)WhiteSide BlackSide に倣って WhiteAlbum BlackAlbum と俗称されています。
「オペラ座の夜」の完成度を高めるということは、同時にそれまでのクイーン・サウンドの集大成という意味でもあり、第一期を「日本で支持されたクイーン」とするならば、そこからの脱皮という意味もあったのでしょう、それはエンディング曲「手をとりあって(原題:「Teo toriatte」のサビが日本語なことで表明されています。 次のアルバムから、それまでのクイーンの十八番だった大仕掛けな曲調は鳴りを潜め出します、、、時はパンク・ロックの嵐が吹き荒れる時代に突入していました。
6枚目のアルバム「世界に捧ぐ」では(パンクの影響もあったのだと思います)シンプルでアメリカナイズされたロック・サウンドに変化し、これを機に世界の最大マーケットのアメリカでの揺るぎのない評価を確実なものにしました、その確信は「伝説のチャンピオン」という曲に表現されています。
その後順調に活動し7枚目「ジャズ」8枚目に第二期の集大成という位置付けとしてのライヴ・アルバム「ライヴ・キラーズ」を発表。
9枚目のアルバム「ザ・ゲーム」を発表した時には「No Synthsizers」のクレジットを捨てシンセサイザーの導入、ブライアン・メイ以外のメンバーがそれまでの長髪を止め短髪で登場したのも衝撃的なら、メイン・ボーカリストであるフレディー・マーキュリーがゲイであることを(デヴュー当時から噂されていたものの)公言し始めたのも衝撃的でした。因みにこのアルバムに収録されていて、この後クイーンの代表作となった"Another One Bite Dust"は発表当時マイケル・ジャクソンが絶賛したことでつとに有名です。
映画「フラッシュ・ゴードン」のサウンド・トラック(と言ってもこれもバンドとしての公式アルバムとされているのです)である10枚目の「フラッシュ・ゴードン」を挟んで、11枚目のアルバム「ホット・スペース」発表直前には南米数カ国を初め日本、北米、ヨーロッパでのアリーナ級(一回の公演の動員人数8万人!)のツアーも成功させ、アメリカ、日本、ヨーロッパのみならず文字どおり世界にクイーンになったわけです。
12枚目「ザ・ワークス」、13枚目「ア・カインド・オブ・マジック(映画:High Lander のサウンドトラック+映画:Iron Eagle の挿入歌 という形ですが、公式アルバムです)」、14枚目「ライヴ・マジック」、15枚目「ザ・ミラクル」、そして16枚目「イニュエンド」発表直後フレディー・マーキュリーの死というショッキングな幕引きでグループ活動が終了しました。 死のニュースの1日前に顧問弁護士から「3年前からエイズに罹り、その闘病生活の末での死であった」というおまけの付いた幕引きでした。
13枚目「ア・カインド・オブ・マジック」、15枚目「ミラクル」の間に行なわれた実質最後になる世界ツアーの中のイギリス、エジンバラにあるウィンブリー・サッカー・スタジアム(約5万人収容)で行なわれた公演の一部始終を収録したCD2枚組ライヴアルバム(フレディーの死後に発表)「ライヴ・アット・ウィンブリー」(これは先に発売されていた「ライヴ・マジック」がダイジェスト版的にコンパクトに編集されていたのに対して、素材にした生テープは同じながら、殆どノーカットに近いライヴ・ドキュメントです。 こちらのバージョンの「Now I'm Here」では、出だしの音をジョン・ディーコンが弾き間違えているのが、そのまま入っていて、個人的には生々しくて好きです、このアルバム。)は最後であったことを予感していたとしか思えないフレディーの鬼気迫る美しさがほとばしっている名作です。
フレディーの死のニュースに触れた時、改めて過去のアルバムを聴き返してみて気付いたのは15枚目のアルバムのタイトル「ザ・ミラクル」、この中に収録されている同タイトルの曲「ザ・ミラクル」の歌詞に「いずれ時が来れば 我々は 全ての人が友だと言える時代を 見ることが出来るだろう」と、一見するとジョン・レノンの「イマジン」に共通する世界平和の理想を謳った曲のように思えるのですが、、、同アルバムの他の曲「Invisible-man(透明人間)」の歌詞を読むと「ぼくは誰からも見えない、見えなけりゃこんな楽しいことはない、、、見えない身でいると実体が在った頃に見えなかったもの、愛とかが世界に充満しているのが見えるんだよ、、、見えなくても君の傍に居るよ、愛と共に傍に居るよ」とあり、わたしは「これは(病んだ)肉体という呪縛(エイズという病気)からの解放を望んでいるフレディーの魂の悲痛な叫びだ」と気付き涙が出てきました。 ここから先の「ザ・ミラクル」の歌詞に戻ると、奇跡を望んでいるのは誰あろうフレディー本人であり、世界の、人類の為の奇跡を望んでいるのではなく自分自身の置かれた境遇に対して奇跡が起こることを希求しているフレディーの切なる声だったと思えるのです。 つまりこの頃から病状が悪化し出し、確実に死の恐怖を感じ始めたのだと推測できます、実際にこの頃からクイーンの活動ペースは、ライブ活動をしなくなったのもありで、ガクンと落ちています。
私とクイーンの出会いを書きますと、小学校4年生の時。 同級生のT君、彼には当時高校1年生の従姉妹のお姉ちゃんが近所に住んでおり実の弟のように可愛がってもらってました。 丁度、頃も頃クイーンが「オペラ座の夜」を発表した頃だったのです。 毎日のようにお姉ちゃんの所に遊びに行っていたT君もいつの間にか洗脳されていました、クイーンファンになっていたのです。 その彼と親しかった私は彼から「この曲かっこええから聴いてみ!」と半ば強制的に曲を当時はラジカセでした、で聴かされたわけです。 この時初めて聴かされた曲というのが、不朽の名作「ボヘミアン・ラプソディー」「キラー・クイーン」などでした。 この時のカルチャーショックはいまでも忘れません。 その当時、小学4年生ですから歌詞の意味もろくに解るわけもありませんしタイトルもろくに憶えていないまま、メロディーと「Garileo! Garileo! Garileo! 」とだけは凄いインパクトを伴って頭の中でグルグル回っていました。 その後ベイ・シティー・ローラーズ時代を通り過ごして中学生になりビートルズから洋楽を聴くようになりだし、高校入学と同時にギターを買ってバンドを始めた頃に、やっとこレコード屋さんに行って「オペラ座の夜」を購入した時は昔の恋人に再会したような感動がありましたね。
やっと本題の「名前の由来」ですが、ここまで読んでお判りのようにDead*MercuryのMercuryはFreddie MercuryのMercuryです。 彼はもうこの世には居ません、だからDeadなわけです。 「その生まれ変わり(*^^*)」なんて自意識過剰まる出しなネーミングです。
なぜFreddie Mercuryなのかと問われれば上記のようなクイーンに対する個人的な思い入れが一番の理由に上がるのですが、それとFreddie Mercuryの書いた詩の多くが、苦しみとか悲しみとか人生に立ちはだかる多くの試練の理不尽さ、不条理を謳いながら「でも、だから生きてゆく意味があるんだよ」という人間肯定の美学に集約されていた事。
この姿勢に、心理カウンセリングという仕事に対する時に共通する美学を発見したように感じたからです。
ちなみにわたしゃゲイではありません、念のため(^^;
|