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対人恐怖の原因について
りんご(2006/01/19 13:38)
こんにちは。 私は対人恐怖で悩んでいるものです。 こちらのホームページで紹介されている「父性の復権」読ませていただきました。この本によれば対人恐怖の原因はしつけによるもの(父性の欠如)であると 書かれているみたいなのですが、私はそれはまったく逆なんじゃないかと思います。むしろ、対人恐怖は感情を抑圧する環境、正直な感情の発散や表現を「良し としない」教育環境の中で育った人に多くみうけられるように思うのですけど? たとえば「腹がたっても怒ってはならない」「よい子は泣いてはならない」 「我慢しなさい」とか・・・。 あと対人恐怖は民族固有の病気だといわれていますけど、日本人は自分の行動 について他人にどう思われようか気にしますよね。くさいものにはふたをする 、異質なものを排除したがるという文化的な要因のほうが強いのではないです か? |
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re:対人恐怖の原因について
りんご(2006/02/07 01:39)
林道義先生の著書は他にもでてるのでそちらのほうも読ませていただいた のですが、どうしても男尊女卑、権威主義的なイメージが強いですね(ガチガチの文章からみても)これも私の主観的な判断なんですが、家族を大事にしているといいながら、どちらかと言えばイエとか父親の大黒柱とか、そういう形式的なことを重視しているような印象を持ちました。 かつては、とくに男性の場合、家族のことより会社に忠誠を尽くすことが 第一義になっていましたけど、いまはそういうシステムも壊れつつあって そのかわりに向かう先が家族ですよね。自分が外でうまくいかないから それが家族に向かうのははた迷惑だし、たとえば、どこかの河原で家族で バーべキューをして楽しむのはいいけれども平気でそのへんを汚したまま 帰ってしまったりとか、むしろ、それがむずかしい問題を引き起こしてい るような気がしました。個人主義で家族がばらばらになっていくと言って ますが、べつに家族としてのかたちよりも一人の人間として接したらいい だけで、逆に言えばそれが家族としての本当の意味でのかたちじゃない でしょうか? |
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re:対人恐怖の原因について
庄司拓哉(2006/02/07 18:09)
>?どうしても男尊女卑、権威主義的なイメージが強いですね(ガチガチの文章からみても)これも私の主観的な判断なんですが、 まぁ年代的なものもあるので、この辺は割り引いて(つまり目先の印象に惑わされずに)読めば良いと思います。 それに、別に「林教の信者になる」わけではないので、全てが全て正しいとは思わなくても全然良いし、僕も実際100%鵜呑みにはしていません。 あくまで「説得力のある論点」「考えてみた方が良い論点」が的確に指摘されているのであって、それを受けて「自分はどう考えるか」こっちの方が大事だと思います。 > 家族を大事にしているといいながら、どちらかと言えばイエとか父親の大黒柱とか、そういう形式的なことを重視しているような印象を持ちました。 完全に印象論ですね。 林道義先生はそんな事は「自分は好きだ」程度には匂わしてはいますが、ご自分の好みの問題と論とはちゃんと分けて書いておいでです。 また、なぜ形式が大事かという点を、内容との関係できちんと説明している筈です(内容の伴っていない形式など無意味。逆に形式が尊重されるのはそれに然るべき内容があるからである、とちゃんと書いてあります)。 つまり、内容を顧慮しないで形式について云々するのも、「内容さえあれば形式等どうでも良い」という形式軽視も、どこかおかしく、「柏手を打った時、鳴ったのは、右手か?左手か?」という禅問答に似て「両方無いと音は鳴らない」というのが答えなのです。 >?かつては、とくに男性の場合、家族のことより会社に忠誠を尽くすことが >?第一義になっていましたけど、 これは「そういう層、または群も居た(居る)」という以上の話ではないですね。 りんごさんのお父さんはそういう方だったのかも知れませんが、普遍化できる程多数派ではないですよ、昔の段階から。 せいぜい半数だと思います。 大変申し訳無くも単刀直入に言わせていただくと、かなりお世辞にも良い家庭とは言えない家族の中で育ったみたいですね、と言うしかないです。 かなり標準的ではない先入観、偏見に彩られた「家族観」をお持ちであると思います。 誤解無きように補足しますと、標準である必要、義務などはありません。 標準でないなら、また、標準でないのをご自身で良しとされるなら、それはそれで個人の好みの問題です。 ですが、標準でないことは知っておいた方が良いと思います。 知らずに、標準だと思い込んでいると、色々と不都合は起こると思います。 > べつに家族としてのかたちよりも一人の人間として この考え方は実に「誤った個人主義」の産物以外の何ものでもないと思います。 自分というものを考えた時、最低限の生物学上の必然だけに絞っても「父母」が居なければ、そもそも存在できていません。 ましてや実際には、自分ではそうと意識しているより遙かに多くの人の助け、影響、援助(間接、直接)、を受けて今ここに居るのです。 自分になろうと思って自分になった人など、この世の中に一人たりとして居ません(そう事実を曲げて思い込むことは出来ますが)。 「気付いたらそうなっていた自分」を自分だと肯定する事無しに、自分を構築していくことは出来ません。 後から、自分らしさを意識的に作っていく事は可能だが、その土台(「気付いたらそうなっていた自分」)無しに家は建てられないという事です。 「一人の人間」と「一人」というのを協調しているのが、正に社会、集団性を実は意識している証拠です。 この世の中に人間はわたし独りだった場合は「一人」という言葉が、そもそも意味を為しません。(意味を為さないからそもそも言葉が存在しないでしょう) また「形から入る外向型」と「内容から入って形を意識するに至る内向型」の違いだとも言えますので、結果は同じなので、どっちがどっちでも良いと思います。 *********** 庄司 拓哉 ************ |
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re:対人恐怖の原因について
りんご(2006/02/08 03:46)
私は、昔の父権を復活させよという考えに反対なだけで家族は大切に思っていますよ。きっと権威主義アレルギーかもしれません(笑)昔の父親は、たとえて いうなら「突撃」と号令がかかったときに、真っ先に死ぬのが強い父性だと思われていました。でも本当に強い父親というのは「世間がどうであれ、自分の道を 歩め」といえるのが本当の意味での父性じゃないですか?と私はそのように教育 されてきました。よく昔は日本の父親は強かったと言われるけれども、そういう 意味では、本質的には昔から強くはなかったと思っています。いま、特に若い父親の中に、家族を大事にする傾向が出てきていると言われますが、それはそれで いいのだけど、それは強い父親じゃなくて奉仕する父親(母性的なほうが強い) が多くなってきてるのだと思います。日本の家族問題をむずかしくしているのも その点だと思います。 |
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re:対人恐怖の原因について
庄司拓哉(2006/02/08 14:29)
>?昔の父親は、たとえていうなら「突撃」と号令がかかったときに、真っ先に死ぬのが強い父性だと思われていました。 嫌みでも何でもなく率直に訊きたいのですが、この嘘は誰から吹き込まれたのですか? 「「突撃」と号令がかかったときに、真っ先に死ぬ」という価値観は心理学的に言えば「歪んだ母性」の産物です。 分かりやすく言ってしまえば「女王蟻の為に兵隊蟻が死ぬのは当然」という「女王蟻の(欺瞞的)正義」です。 > でも本当に強い父親というのは「世間がどうであれ、自分の道を歩め」といえるのが本当の意味での父性じゃないですか? この理解、非常に正しいです。 実際、林道義先生もそう書いてあるんですけど……? > よく昔は日本の父親は強かったと言われるけれども、そういう意味では、本質的には昔から強くはなかったと思っています。 中には真に強い人も居たでしょうけど、一理あると思います。 先に述べた「歪んだ母性」の手先になっているだけ(*1)という事に気付かず、それを「男らしさ」だと勘違いしていた思想というか文化というかの流れは、一つの大きな脈絡として歴史上にあるのは事実だと思います。 > いま、特に若い父親の中に、家族を大事にする傾向が出てきていると言われますが、それはそれでいいのだけど、それは強い父親じゃなくて奉仕する父親(母性的なほうが強い) >?が多くなってきてるのだと思います。日本の家族問題をむずかしくしているのもその点だと思います この分析は当を得ていると思います。 お父さんが優しくて基本的には悪い事はないのだけど、「優しい一辺倒」だと困りモノだという話ですよね。 先の説明で或程度匂わせていますが、優しい一辺倒の父親は「母親(妻)に取り込まれた」「歪んだ母性の手先」に堕する危険性が結構高いのです。 この状態になると、最早それは父親ではありません(子供の心理というスクリーン上に登場するメインキャストの一人である父親ではない、という意味)。「気立ての良いオジさん」なら近所のオジさんで充分なのです。 一つの事実として「厳母慈父の環境で育った子に、思春期以降に心理問題を発現する率が高い」という小児精神科医からの指摘はありますので。 *1:歪んだ母性は横暴を働くとき直接手を下すことを避ける狡猾さを備えていて、必ず「飼い馴らされた男」を手先として使う。 *********** 庄司 拓哉 ************ |
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無題
りんご(2006/01/20 04:34)
日本人に何故、対人恐怖が多いのか調べてみたのですが、日本は精神病患者を 伝統的に地域から排除し病院に閉じ込めてきた。生産能力のない者は社会から 放逐(高齢者も含めて)「日本が単一民族であるという幻想」により、異質な 者、意見の異なる者を排除する政治風土がその背後にあったようです。 |
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re:無題
庄司拓哉(2006/01/20 18:15)
りんごさん 書き込みありがとうございます。 最初にお願いを。 この掲示板は、同一テーマの話題を纏めて参照できるツリー形式になっております。 これは後で読み場合に読み易いようにという考えからです。 ですので、基本的に最初に投稿した発言へ続けるかたちで投稿をお願い致します。 既発言はこちらで修正しておきました。 > ?こちらのホ?ームページで紹介されている「父性の復権」読ませていただきました。 > この本によれば対人恐怖の原因はしつけによるもの(父性の欠如)であると?書か? > れているみたいなのですが、私はそれはまったく逆なんじゃないかと思います。? > むしろ、対人恐怖は感情を抑圧する環境、正直な感情の発散や表現を「良しとしな > い」教育環境の中で育った人に多くみうけられるように思うのですけど? 残念ながら『父性の復権』を(意味を取り違えているという意味で)ちゃんと読んでおられないように思います。 「父性」と「父権的」を混同しているのが原因だろうと思います。 この手の誤彪は正しい父性に触れた経験の乏しい方にありがちなもので、、、正しく父性を以て接した貰った事がないので、知らないものは誤解しても仕方ないのかも?とは私は思っていますが。 「感情を抑圧する環境」「正直な感情の発散や表現を「良しとしない」教育環境」とは正に「父権的」なものです。 父権的とは父性的なとは似て非なるもので「権威主義的」と言い換えても良いでしょう。 権威というのは「○○さんは○○の権威だ」という言い方で分かる通り、或る知識なり学識なり経験なりが並以上の優れたものを有する人を、その実力を評価し敬意を表する言い方なわけで、つまり権威というのが尊敬の対象となるのは、その能力なり、場合によれば人柄、人間性の故だということです。 結果としてそういう人が 大学教授であるとか、○○研究所主任研究員とかの肩書きになっている事も往々にしてありますが、これはあくまで結果だという事。 ところが社会が或程度以上成熟してくると「そういう肩書きのある人=偉い人」という図式が出来てきます。 すると今度は、実力も能力も人に自慢できる程の何某かも持っていないのに、人から尊敬され、また人の上からものを言いたいがだけの邪な動機から、そういう肩書きを手に入れようとする人が出てくるようになってきます。 つまり、権威と言うものを結果だという正しい認識を持たずに、その立場なり肩書きを持てば、権威になれるという勘違いです。 当然、これを支えるのは、肩書き等があるだけで無批判に「偉い人だ」と安易に思い込む一般大衆心理ですが、そもそも権威というのが正しく機能していれば「肩書き=権威」である筈なので、これをイチイチ検証せず権威だと信じ込む一般大衆を責める事は出来ません。 こういう「地位」「立場」「肩書き」など、つまり「容れ物」を権威だと誤解し、その中身の事を顧慮せず、容れ物を手に入れようとする姿勢、または容れ物を手に入れているだけで権威だと誇示しようとする姿勢のことを「権威主義」と言います。 また、前述の肩書きだけで有り難がる一般大衆心理を指して「権威主義的」と称します。 昔から言い習わされている「虎の威を借る狐」これが正に権威主義的そのものです。 つまり父権的とは、お父さんとして家族から尊敬が自然と集まる努力を積み重ねていった結果としての「家族からの尊敬という権威付け」を、「父親だから尊敬するに決まっている」「父親だから尊敬して当然」という本末転倒(原因と結果を入れ違えてしまう間違い)を犯しているものを形容する言葉なのです。 ちゃんと父親らしい事をしていない父親が「父親だから尊敬しろ」と強いてくるなど、正にこれです。 本当に父親らしいことをしていれば「尊敬しろ」などと言わなくても子供は父親を尊敬します。 母親も同じく。 誤解無きよう補足しておきますと、父性というものが正しく機能し、その結果としての父親の地位が確かに保証されている限り、父権は父性を伴っていて当然ですから、この二者は一致しているので、この場合はどっちがどっちでも良いのです。 ですが、これが一致していない状態になると、この二者は違うものだと認識を新たにしないといけないことになります。 ですので林道義先生の著書のタイトルは、父性の「復権」となっているのです(「復権」とは元々有効性があったものが時代の流れ等で、その本来の意味を失い掛かっているものを、再認識、再確認し意義を取り戻す事を意味します)。 この点、父性的なのと父権的なのは違うという点は、何度も口が酸っぱくなる位に何度も『父性の復権』の中で林道義先生が書いている事です。 大事なポイントですので、見落とさないようにして下さい。 また、父権的な対応とは、いわゆる「公式主義」とも通底します。 公式主義とは、何らかのルールなり決まりが定まった後、そのルールは何故あるのか、如何なる考え方に基づいているのか、などを忘れてしまって硬直化したルール等の運用をしてしまうことです。 「仏作って魂入れず」とは正にこのこと。 仏像というのは単なる物体(形式)でしかありません。 これが尊崇の対象となり得るのは、その背後に教えなり宗教哲学、精神性(内容)があるからです。 反対に言って、内容が伴っている限り意味がありますから形式は尊重されるべきなのです。 この点を勘違いして昨今は「形式などどうでも良い」という風潮が強いですが、今書いたように形式とは本来、内容を表わすものですから、その中身が伴っている限り軽んじてはいけません。 > ?たとえば「腹がたっても怒ってはならない」「よい子は泣いてはならない」?「我 > 慢しなさい」とか・・・。 上記と並んで重要な点、こちらも見落としていますね。 『父性の復権』の中で林道義先生が述べられている通り、父性が健全に機能するには 1:父性自体が(これの主な担い手である父親が)健全であること。 2:父性と表裏一体の関係にあり、こちらが正しく機能しないと父性も正しく機能できにくくなる「母性」、こちらも健全に機能していること。 の二点が十分条件です。 人間、時として我慢というのは(特に社会性を要求される場面で)必要で、その為には場合よれば理不尽な事にも敢えて目を瞑らなければならない場合があります。 父性の一側面として確かに、こういった我慢を強いる面がありますが、これは我慢しても尚自分を支えきれる「情緒的支え=母性」を持っていて初めて達成されます。 つまり言い方を変えるなら、母性の裏付けのない父性は、かなり簡単に父権的に姿を変えてしまう、です。 同じことが母性にも言えて、父性の裏付けのない母性は「単なる甘やかし」に堕してしまう、です。 母性と父性はこういう補完関係にあるのです。 上記に条件の何れか、または何れもが損なわれた家庭に育った人の多くは、誤った父親像を持っています。 そして、その「誤った父親像」に基づいて「父親像等は、そもそも幻想」的な論理を展開する人が少なからず居るので困りモノなのです。 実際には、本物を知らずにニセモノを前提に「こんなものはニセモノだ」と言っているだけなのです(ニセモノしか知らない人は往々にして、全てがニセモノであると思い込みやすい)。 > ?あと対人恐怖は民族固有の病気だといわれていますけど、日本人は自分の行動に > ついて他人にどう思われようか気にしますよね。 この関係は現在一般論的認識として広く受け入れられているものですが、日本人の文化伝統を正しく認識しない(主には戦後の誤った歴史観に基づいた)誤った認識だと私は思っています。 私の意見を鵜呑みにする必要はありませんが、と同時に上記の見解も鵜呑みにはしない方が良いでしょう。 少なくともご自身で、本当にそうなのか確認するまでは信じ込まない方が良いと思います。 対人恐怖症が日本人固有の病気だというのも間違いです。 例えばアメリカ人にだって対人恐怖症の方は居ます。 アメリカには居ないことになっているので対人恐怖症とは診断名が付けられていない場合が大半ですが、「アメリカには居ないことになっているから」という理由でのそれは欺瞞以外の何ものでもありません。 僕が知る限り「日本人は自分の行動について他人にどう思われようか気にする」が過度であるというのは、戦後の学校教育がそう日本人を仕立て上げようという意図を以てそう信じ込ませたに過ぎないように思います。 ですので、僕の意見は、その(或る種の)洗脳からご自分を解放した方が良いでしょう、となります。 > くさいものにはふたをする、異質なものを排除したがるという文化的な要因のほう > が強いのではないですか?? こちらも上記に同じくで、「臭いものには蓋」的な行動を取る傾向を強めたのは戦後であるように思います。 つまり日本の文化伝統なのではない。 ですから、これに基づいた日本人論、日本文化論を展開するのは、そもそも間違った前提から始めているので結論も違っていると思います。 ********** 庄司 拓哉 ********* |
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re:無題
りんご(2006/01/21 13:25)
> 回答ありがとうございます。対人恐怖症は日本人だけでなくアメリカにも 存在するということなんですが、統計的に調べてみると、日本人のほうが比較的 多いのは事実だと思います。三島由紀夫・太宰治など、対人恐怖症的な主人公を 題材にした作品が多いのも日本人の自我が対人恐怖症傾向をもっているという ことをよくあらわしたものだと思いいます。アメリカの文化人類学者のベネディ クト著「菊と刀」によれば西洋文化がキリスト教にもとづく倫理感を確立し、 神の教えにそむくことを罪と考える罪の文化に対して日本文化は集団の和合を 重んじ、他人から非難を受ける行為を避けようとする恥の文化であるといってい ます。以上のことから考えても、対人恐怖症が「羞恥」からきてるのはあきらか な事実ではないですか? |
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re:無題
りんご(2006/01/21 14:50)
>また最近よく耳にするのが学力低下問題、学級崩壊という言葉なんですが、 本当にそうでしょうか?もし仮にそうだったとしてそれを「戦後民主主義教育」 の批判につなげるのは、あまりにも短絡的だと思うのですが? 私は戦前の教育がどのようなものだったのか知りませんが、「古きよき時代」と いうものも果たして本当にあるものなのどうかも知りえないですよね? 林道義さんは、いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いているとおっしゃられていますけど、それも一概にそう考えてしまうのは間違っていると思います 。シングルマザーや父子家庭で育った子供が全て悪いとは思わないです。 正直に言わせてもらえば、ただの理想的な家族論、理想的な子育て論だと思うの ですが?もちろん理想的な家族なんて願わない人はいないと思います。 しかし、いまのリスト・カットや不登校の問題が林道義さんのいう「父性の欠如 」からきているとは思えないです。 |
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re:無題
白い月の鏡(2008/11/04 16:05)
> >また最近よく耳にするのが学力低下問題、学級崩壊という言葉なんです > が、 > 本当にそうでしょうか?もし仮にそうだったとしてそれを「戦後民 > 主主義教育」 > の批判につなげるのは、あまりにも短絡的だと思うのです > が? > 私は戦前の教育がどのようなものだったのか知りませんが、「古き > よき時代」と > いうものも果たして本当にあるものなのどうかも知りえな > いですよね? > 林道義さんは、いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を > 招いているとおっしゃられていますけど、それも一概にそう考えてしまうのは間 > 違っていると思います > 。シングルマザーや父子家庭で育った子供が全て > 悪いとは思わないです。 > 正直に言わせてもらえば、ただの理想的な家族 > 論、理想的な子育て論だと思うの > ですが?もちろん理想的な家族なんて > 願わない人はいないと思います。 > しかし、いまのリスト・カットや不登 > 校の問題が林道義さんのいう「父性の欠如 > 」からきているとは思えない > です。 > サイン |
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re:無題
りんご(2006/01/21 15:33)
>昔から続いてきたと思われる「家」制度というものも調べてみたところ 近世になって安定したそうです。つまりもともと家というのはあやふやで定義 できない存在なんです。 |
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re:無題
庄司拓哉(2006/01/22 03:18)
細かい話ですが「> 」は引用の意味で使われる約束事になっていますので、引用部以外には使わないようにして下さい。 文章が読みにくくなりますので。 それと、発言を幾つも分けてアップするのも極力避けて下さい。 内容が纏まっていないなら、纏まってからアップするようにして下さい。 > 対人恐怖症は日本人だけでなくアメリカにも存在するということなんです > が、統計的に調べてみると、日本人のほうが比較的多いのは事実だと思い > ます。 先にも申し上げたようにアメリカでは対人恐怖症は無いという建前の前提があるので、対人恐怖症という診断名は(医師個人の裁量で付ける自由はあるのですが)保険支給の対象として認められないという現状があるが故に、実際には対人恐怖症であっても対人恐怖症と診断名を付けられず、その他の「強迫神経症」とか別の診断名にされているケースが多いのです。 「統計上」には、これらは全く反映されません。 その反映されていない(事実と乖離した)統計という根拠自体が怪しいので、これを根拠にした「日本人の方が比較的多い」という結論も信頼するに足らないものと言えます。 > 三島由紀夫・太宰治など、対人恐怖症的な主人公を題材にした作品が多い > のも日本人の自我が対人恐怖症傾向をもっているということをよくあらわ > したものだと思いいます。アメリカの文化人類学者のベネディクト著「菊 > と刀」によれば西洋文化がキリスト教にもとづく倫理感を確立し、神の教 > えにそむくことを罪と考える罪の文化に対して日本文化は集団の和合を重 > んじ、他人から非難を受ける行為を避けようとする恥の文化であるといっ > ています。以上のことから考えても、対人恐怖症が「羞恥」からきてるの > はあきらかな事実ではないですか? これは一聴に値する意見だと思います。 僕個人の見解を申しますと、対人恐怖症というのは、そもそも果たしてそういう固有の精神疾患であるのか?という疑問があります。 と言うのは、西洋精神の主観(西洋の物差し)で日本文化を測ってみたら異常に見える、つまり異文化の者から他の異文化を見るとヘンに思えたり、異常行動のように考えてしまう、という、ただそれだけの話という側面が少なからずあるのが対人恐怖症の所見だからです。 だから、いわゆる対人恐怖症と呼ばれる精神、心理の傾向は、日本人の伝統的なものと或程度重なって当然だと考えます。 で、問題は、さぁ果たしてこれが病的と言ってよいものかどうか、、、 確かに病的と呼んで差し支えないレベルの対人恐怖症は事実存在しますが、だからと言って対人恐怖症的とされる精神傾向全てを病的なものと断じて良いのかという疑問は甚だしくあるのと、今申し上げたように対人恐怖症と称されるものは「日本文化」が「西洋の精神性」と出遭ったそこで発生しているきらいが濃いので、その後に発生した対人恐怖症という現象は病だするにしても、問題意識として「日本文化」と「西洋の精神性」との折衷の付け方のどこかが間違っていたのではないだろうか? 少なくとも、この折衷の付け方を上手く出来ないで来ている一群がこの国の中に少なからず居るとは言わざるを得ないので、じゃあその人達はどういう折衷ミスを犯しているのだろうか?という問いは追究してみるべきだと考えています。(まぁ、だから、それを対人恐怖症と呼ぶかどうかには興味ないと言った方が正しいでしょうか。) 三島由紀夫にしても太宰治にしても、このテーマで書いていたと言えるように思います。 ベネディクト著「菊と刀」は「なるほど」と思わせる点も多々散見されるものの、全体的には日本文化を表層的にしか捉えていない感が強く、「日本は恥の文化だ」とするのも表層的だと言わざるを得ないです。 殊に、この著作が書かれた時代背景(アメリカ占領軍が、日本人をどう統治し、どうコントロールするのがアメリカの利害に適うか、という観点で書かれている)を考慮に入れないと、かなり受け取り違えてしまう著書です。 > また最近よく耳にするのが学力低下問題、学級崩壊という言葉なんですが、 > 本当にそうでしょうか? これは本当にそうだと断言できます。 身近な例ですが、鉄道の駅、コンビニ、スーパーなどの自転車置き場での自転車の置き方は、名々が名々で自分勝手な置き方をしている非常に酷い状態が今や日常化しています。 15年くらい前までは、誰が言うでもなく、誰に指示されるでもなく各人が各々、互いに気を付けて整然と並んでいたものです。 これなどは、全体の調和よりも個の勝手の方を優先する「利己主義的行動」で、これは前後の(特に70年代以降の)個人の自由、個人の権利を優先し過ぎる教育(正確に言えば「個人の自由、個人の権利を、我が侭勝手と区別出来ていない教育」)の結果だと言って差し支えありません。 > もし仮にそうだったとしてそれを「戦後民主主義教育」の批判につなげる > のは、あまりにも短絡的だと思うのですが? 学力低下問題、学級崩壊の第一義的責任は教育になるので、これを批判するのは実に真っ当です。 短絡的ではないです。 たぶんご存じないので無理からぬ事とは思いますが、戦後ずっと日本という社会が引き摺って来た諸々の問題(毒)が、一番典型的かつ尖鋭的に凝縮されているのが教育界ですので、まずこれが批判の矢面に立たされるのは至って当然のことです。 それと、日本に限らずどこであっても、社会に問題があった時に、一番モロにその被害を受けるのが子供達です。 だから、問題があったと知れた場合、一刻の猶予も無く手を早急に打たなければならないのも教育というジャンルなのです。 > 私は戦前の教育がどのようなものだったのか知りませんが、「古きよき時 > 代」というものも果たして本当にあるものなのどうかも知りえないですよ > ね? いいえ。知ろうと思えば、書店で手に入る書籍だけに限定しても、それなりの分量の書物に当たることは出来ますし、ネット上にはそれこそ沢山の参考になる情報が溢れています(但し、ネット上の情報は玉石混淆なので、どれが優良情報か選び取る知識と理性が要求されます)。 まず知ろうとすることです。 知ろうとしないで、ああだこうだと自分の手の平の皺だけを数えていても、建設的ではありません。 > 林道義さんは、いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いているとお > っしゃられていますけど、それも一概にそう考えてしまうのは間違ってい > ると思います。シングルマザーや父子家庭で育った子供が全て悪いとは思 > わないです。 林道義氏がどう言っているか、件の本の中にどう書いているか以前に、上記は論理的に繋がっていません。 「いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いている」という主張をすれば「シングルマザーや父子家庭で育った子供が全て悪い」と言っている亊になるのでしょうか? たぶん、社会全体をマスに捉えた観点と、個々の問題というミニマムの観点とを区別せず、混同している処から発生している誤彪(または、論理飛躍)だと思われます。 林道義氏の主張の概要の以下です。 1:「ジェンダーフリー思想」の中には、シングルマザー擁護論が含まれる。 2:家族というのは社会を構成する基礎単位として非常に重要な役割を担っており、であるのでこれを「大事なもの」とする価値観を失うと社会が荒廃、混乱する。 3:ジェンダーフリー思想が展開しているシングルマザー擁護論は、シングルマザーを擁護する体裁を借りて「家族」という価値観を貶め、低価値化する意図、狙いが隠されている(人権、平等、博愛などの美辞麗句を体裁だけ借りる手法はフェミニズムを初めサヨク勢力の常套手段)。 4:であるから、家族というものの価値を貶める「いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いている」と結論付けれる。 つまり、これを理解すれば明らかな通り、林道義氏は「母子家庭、父子家庭の個々それぞれ」を批判しているのではなく、「母子家庭、父子家庭が生まれることを安易に肯定するジェンダーフリー思想」を批判しているのです。 批判の内容、対象がまるで違います。 分かりやすく言えば「やむを得ず母子家庭、父子家庭の境遇になった人達を社会の一員として認める」ことと「最初から母子家庭、父子家庭を作ることを称揚する」ことは天と地ほども開きがあるという事です。 > 正直に言わせてもらえば、ただの理想的な家族論、理想的な子育て論だと > 思うのですが? 論というのは常に理想論から始まります。 理想無くしては何の為の論でありましょうや。 逆に言えば、理想がそのまま描かれている通りに実現できると考えるのは子供の思考法です。 で、実際には、林道義氏は机上の空論ではなく、具体的事実に即した「問題点の指摘」「改善ポイントの例示」「具体的対処法の提言」などもふんだんに行なっていますので、「ただの」理想論と仰るのは事実に基づかない、りんごさんの印象にしか過ぎません。 > しかし、いまのリスト・カットや不登校の問題が林道義さんのいう「父性 > の欠如」からきているとは思えないです。 林道義氏が指摘しているのは、これらの心理的一因として「父性の欠如」がある、と言っている以上でも以下でもないです。 これが全てだなどとは一言もどこにも書いていませんし、他の考えられる要因についても他所で指摘しています。 それと『父性の復権』は「父性をメインテーマ」にしている著書であるということ。つまり、父性とは直接関係のない他の話は、ここでは触り程度以上には扱われていなくても当然という当たり前の前提を忘れてはいけません。 > 昔から続いてきたと思われる「家」制度というものも調べてみたところ近 > 世になって安定したそうです。つまりもともと家というのはあやふやで定 > 義できない存在なんです。 誰の書いたどの本を参考になさっているのか非常に気になります。 と申しますのは、「家」および「家制度」について書かれた本のかなり多くが、「家」および「家制度」というものを否定したい政治的意図を持ったフェミニズム御用学者が書いているものだからです。 恣意的に特定の結論に導こうというバイアスが色濃く働いている本が多いので気を付けて読んで下さい。 この前置きをした上で私の知っている範囲でお答えしますと、制度としての「家」という価値観、概念が明文化される形で時代の表に表われたのは江戸時代も中期に入った頃だと記憶しています。 ただ、ここで注意すべきは「制度として」「明文化された」のが江戸中期以降だということです。 つまり、持つべき疑問として「では、明文化、制度化される以前には在ったのか?無かったのか?」というのを忘れてはいけないという事です。 制度というのは、政治支配層が上から決め事として与える場合と、すでに慣習として一般化していたものを制度として取り入れる場合があるからです。 また、歴史資料として残っているのは主に支配階層の情報である、つまり一般大衆の生活実態や、生活感、価値観などは歴史資料に殆ど表われていないという事実も忘れてはいけません。 一般大衆の事も資料として残るようになったのは江戸中期以降です。 フェミニズム御用学者がよく使う手なのですが、資料上に発見できないのを以て「この時代には○○は無かった」と結論付ける子供騙しの手法です(しかも、調べた資料選びにも非常に偏りがある場合が大半です)。 *********** 庄司 拓哉 ************ |
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re:無題
りんご(2006/01/22 10:18)
回答ありがとうございます。 これまでの教育は戦後の国家・集団性を重視した 詰め込み型の教育が行われてきた。しかし80年代以降「校内暴力」「いじめ」 「学級崩壊」と様々な弊害がでてきた。その反省下で今日の「個性尊重」「豊か な人間性を養う」「ゆとり教育」があることはご存じですよね? 私は、個人主義教育が問題なのではなく、「自由」のはき違えが原因だと思います。「何でもできる自由」を「何をしてもよい自由」と解釈してしまったことに 問題があるのだと思います。アメリカの学校では、授業の中にディスカッション や討論があり、お互いの意見を交換しあうそうです。驚いたことに「いじめ」 など全くないそうですよ。 個を確立できてこそ相手をも尊重できるのではないですか? 最近の子供たちのモラルの低下に関して言えば、それは子供だけにいえること ではないですよね?社会全体、大人が変わらないかぎり子供はよくならないと 思います。 |
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re:無題
りんご(2006/01/24 11:01)
回答ありがとうございました。日本は母性社会で西洋は父性社会といわれてる ように、日本に個人主義が受け入れられることは難しいだろうと思います。 一慨に個人主義教育によって育てられたアメリカ人が日本人より優れているとも 言えないですしね。ただアメリカ人の目で見るかぎり、まったく不自由で没個性的なことをしているという自覚はしておいたほうがいいとは思いました。また 建前だけの教育をし、真の教育をないがしろにしたため、麻原やオウム真理教 のような血も涙もない連中が作り出されたことも教育が国家のためだけのロボットを生産する一大産業になっていることも反省するべきだと思います。 |
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re:無題
庄司拓哉(2006/01/24 15:03)
>?ただアメリカ人の目で見るかぎり、まったく不自由で没個性的なことをしているという自覚はしておいたほうがいいとは思いました。 全面賛成は出来ないけども、一面として正しいとは思います。 全面賛成できないのは、日本人には日本人なりの、欧米人のそれとは違う個性の在り方があると僕は考えているからです。 だから、アメリカ人は自分達の「個性観」で見て、その個性性に気付かず「没個性」などと言うのは或る意味仕方なかろうと思うのではありつつ、と同時に、日本人自体の多くが、そのアメリカ人の目で自らを見てしまっている故に自らが気付いていず、きちんと「かくかくしかじかなのである」と彼らに説明出来ていない(欧米人、特にアメリカ人は説明されないものには理解を示そうとはしない)ので、彼らの無理解を責めたり問題にする以前に、日本人自体が自らの目を取り戻さないといけないと考えています。 >?また建前だけの教育をし、真の教育をないがしろにしたため、麻原やオウム真理教 >?のような血も涙もない連中が作り出された ここまでは正しいと思いますが、これが「教育が国家のためだけのロボットを生産する一大産業になっている」というのは論理的におかしいです。 「国家のためだけのロボット」なのなら、国家の転覆を企てる事などする筈はないので、「麻原やオウム真理教のような」集団は生まれないと結論される筈です。 「一大産業」になっているのなら、粗悪品は出ることは在っても、あのように優秀なテロリストは生まれません。 国家転覆を企てる「麻原やオウム真理教のような」集団が出て来たのは事実で、であるなら、「建前だけの教育」「真の教育をないがしろにした」教育は、反国家的、反政府的輩を輩出する意図で(部分的にあるにせよ)行なわれてきているのだとする方が自然です。 *********** 庄司 拓哉 ************ |
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re:無題
庄司拓哉(2006/01/24 00:12)
> これまでの教育は戦後の国家・集団性を重視した詰め込み型の教育が行わ > れてきた。しかし80年代以降「校内暴力」「いじめ」「学級崩壊」と様 > 々な弊害がでてきた。その反省下で今日の「個性尊重」「豊かな人間性を > 養う」「ゆとり教育」があることはご存じですよね? 上記のような誤った解釈がまかり通っている事は存じ上げています。 「校内暴力」「いじめ」「学級崩壊」の原因を一口に言うのは難しい、というか一口に断じれるものではないと思いますが、少なくとも、以前の教育が国家・集団性を重視した詰め込み型の教育だったのが原因ではないとは言えます。 また、教育の性格の一つとして、特に義務教育範囲内である中学生までは「詰め込み」は寧ろ必要ですので、「詰め込み」自体を問題とするのは教育の何たるかが本質的に分かっていない戯言です。 或程度以上の計算が出来ない段階で「足すとは何か?」とか「数とは何か?」などと問うてみてもロクな答えが出せるわけがないので、先ず計算を丸憶えで教えられた通りに何度も何度も繰り返す内に、まず感覚的に「数を扱う感覚」が養うことが先決なのです。 この感覚を養うには、どうしても「決まり切った形を教えるしか」ありません。これは「詰め込み」と言うなら詰め込み以外の何ものでもありません。 つまり、教育のプロセスとして詰め込みはどうしても避けて通れない手順なのです。 とは言え、人間というのは感情を持っている動物なので「嫌な相手」「信頼していない相手」から何某かを強要されるのは、子供であっても嫌ですから、(強要は避けて通れないので)問題は強要の方ではなく、それが必要な強要であることを納得させ受け入れれる子供への接し方・・・つまり教師の人間性の問題の方を問題にすべきという話になるです。 当然、子供の方の人間性も問題にされるのは至極当然のことで、子供の場合は充分に人格が発達していていないので、子供の人間性≒親の人間性ということにはなります。 先に書いた繰り返しになるので軽く触れるのみにしますが、親が普通に親らしく接していれば子供は自然と親を尊敬します(これは本能的にそうなっているの議論の余地はありません)。 親を尊敬できている子供は、その延長として大人全般も自然と尊敬する気持ちが準備されています(実際に誰を尊敬し誰を尊敬しないかは個別に決まってくるが、その気持ちは用意されているという意味)。 この気持ちが用意されていれば当然教師に対しても、それが尊敬に値しない人物でない限り尊敬するのは難しいことではありませんので、学校内、教室内での教師-生徒の信頼関係の正否の半分は家庭が握っていると言えるのです この意味で、一昔前に起こり、今も尚同じ論調で来ている「詰め込み教育批判」は、批判(若しくは反省)する論点を誤っているのです。 > 私は、個人主義教育が問題なのではなく、「自由」のはき違えが原因だと > 思います。「何でもできる自由」を「何をしてもよい自由」と解釈してし > まったことに問題があるのだと思います。 上記は、後半の『「自由」のはき違えが原因だと思います。「何でもできる自由」を「何をしてもよい自由」と解釈してしまったことに問題がある』は正にその通り、賛同します。 しかし、この誤解釈を助長したのは戦後日本の個人主義教育である事は今や明白ですから前半も含めれば賛同できません。 たぶん、ご存じないのだろうと思いますのでキチンと書いておきますと、上記の私の言葉がより正しくなるよう補足するなら「戦後日本で行なわれてきた個人主義教育は本当の意味での個人主義(権利に伴う義務の重さ、公共性を損なってまで優先される個人の権利など無いという道理、を教えていない)など殆ど教えていなく、個人主義教育の名だけを借りた個勝手教育である」です。 この補足を踏まえて上記のりんごさんの言葉の「個人主義教育」を本来の意味の個人主義教育だとして「個人主義教育はそもそも一度も行なわれた事がない日本に於いては、個人主義教育にその原因を求めること自体がそもそも出来ない」という意味だとするなら、その通りだという事になります。 > アメリカの学校では、授業の中にディスカッションや討論があり、お互い > の意見を交換しあうそうです。驚いたことに「いじめ」など全くないそう > ですよ。 「授業の中にディスカッションや討論」する訓練を多くの学校が普通に取り入れているというのは確かにその通りだと聞き及んでいますが、いじめが全く無いというのは初耳です。 私が聞き及んでいるのは「日本のような陰湿なイジメは総じて少ない」「アメリカに於いてもイジメは存在するが、イジメの質、またはイジメ方が違う」「イジメが無い学校も少なくない(学校によれば無い所もある)」です。 > 個を確立できてこそ相手をも尊重できるのではないですか? 確かに本当の意味での尊重は仰る通り「個が確立≒大人になっていること」が必須条件でしょう。 ただ、大人ほどの確固たる尊重観念とか尊重意識は無いにしても、じゃあ子供には、これに似た、もしくは近い「尊重感覚」みたいなものすらも無いのかと言えば、これは正しく育っていれば在るでしょう、と思います。 > 最近の子供たちのモラルの低下に関して言えば、それは子供だけにいえる > ことではないですよね?社会全体、大人が変わらないかぎり子供はよくな > らないと思います。 だから育てる側の主の一つである教育関係者が批判されるわけですが、子供は良いしろ悪いにしろ大人を見倣って(倣っているとは気付かないレベルの方が多い)育ちますから、確かに仰る通りです。 やはりと言うべき、教育が誤っていた場合に、そして、その誤りがなかなか気付かれずに長年放置されていた場合、恐ろしいのは、このように充分に大人になっていない人達が親となり、その子供も同様に誤った教育を施され、、、処がこの段になると親がその自分の子供が受けている教育がおかしいとは微塵も思わなくなっているという点です。 実際、先の発言で挙げたマナーのなっていない自転車の停め方などは、今や親の世代からしてそうなっています。 *********** 庄司 拓哉 ************ |
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re:無題
みかん(2006/01/22 13:52)
私は、ひと昔前のルーズソックスや援助交際が流行していた時期(いちばん荒れてた頃です)に高校生だったものです。茶髪がなぜ流行するのかといえば校則 が厳しすぎるせいだと思います。周りと同じじゃなきゃ不安というのは、全体 主義教育から生まれたんじゃないですか? 私は、いわゆる伝統ある女子校に通っていました。だから公立の学校の子がもの すごいうらやましかったです。クラスの中で援助交際やってた子がいましたけど それがぜんぜん普通の子なんです。昼間まじめに勉強してて放課後になると、 ルーズソックスにはきかえてカラオケに行ってたばこを吸ってたりしてましたよ。いくらルールや校則を厳しくしたところでよくなるのかなあ?って思いまし た。 |
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re:無題
庄司拓哉(2006/01/24 00:13)
> 茶髪がなぜ流行するのかといえば校則が厳しすぎるせいだと思います。 茶髪に限らず、何かが流行るのと、「校則が厳しいか否か」は殆ど無関係です。 束縛を嫌い、これに反抗したい心理を持つのは今に始まった事ではなく、昔から存在する若者心理です。 これは、親から自立しようという心の動きが始まった時に起こる本能的な働きによるものです。 また、一昔前まで在った「茶髪=不良」という観念が薄くなり、一般的に受け入れられるようになっている今の時代に於いては、茶髪は反抗心の表われですらないので、これと「校則が厳しい」うんぬんと論理展開するのは噛み合っていないです。 まだ「茶髪=不良」という意識があなたのようにお若いと思われる方の中にも生きているのだと言えますので、安心を覚えたと言っておきます。 > 周りと同じじゃなきゃ不安というのは、全体主義教育から生まれたんじゃないですか? 周りと違っていると不安になるのは、集団生活をする動物なら全てが持っている本能が基礎になっています。 人間も集団生活をする動物ですので、この本能を持っています。 今では良い意味でも悪い意味でも個人主義の代表みたいに思われている欧米文化にしても、「個」という観念が鮮明になり、特に今我々が知っている意味での個人主義が台頭しだしたのは18世紀で、個人主義とはたかだか200年程度の歴史しかないのです。 云うなれば個人主義というのは、まだ若く騙されやすいのです。 この騙された一番有名な例がドイツ・ナチズムであり、共産主義です。 つまり「周りと同じじゃなきゃ不安というのが全体主義から生まれた」のではなく「全体主義が、周りと同じじゃなきゃ不安という人間が本質的に持っている基本心理の一つを利用した」または「周りと同じじゃなきゃ不安という人間が本質的に持っている基本心理の一つが、誤った方向に働いた時に全体主義が生まれる(可能性がある)」のです。 > 私は、いわゆる伝統ある女子校に通っていました。だから公立の学校の子 > がものすごいうらやましかったです。クラスの中で援助交際やってた子が > いましたけどそれがぜんぜん普通の子なんです。昼間まじめに勉強してて > 放課後になると、ルーズソックスにはきかえてカラオケに行ってたばこを > 吸ってたりしてましたよ。いくらルールや校則を厳しくしたところでよく > なるのかなあ?って思いました。 つまりは、問題の本質は、校則が厳しいかどうか、または校則を厳しくすれば解決するといった形式上の問題ではない、ということでしょう。 先の発言で書きましたが、容れ物(今の話の場合は「校則」という決まり)が正しいかどうかは、その内容(今の場合は「それを守ろうとする生徒、教師双方の心構え」)が伴っているかどうかと切り離せません。 内容の伴っていなくなったものを「形骸化している」と言います。 内容の伴っていない処でルールを厳しくしても実効性が無いのは当たり前です。 凄く細かい事まで法律化されているという意味で世界一法律が厳しいのは北朝鮮です。 その構成員の心得が高い集団なら、ルールは最低限で良いのです。 だから教育現場では、ルールを厳しくする事よりも、ルールを守るのは何故必要か、ルールは何故必要なのか、という事を「より」教えるべきでしょう。 但し、これは校則は無くて良いという事には直結しません。 何故なら、校則の場合は、法律とは違った意味合いを背負っているからです。 それは、まだ未熟な子供に「ルールを守る」という習慣に「感覚的に」「慣れさせる」という意味合いです。 ルールを子供に一切課さずに育て、成人して社会に出た時に初めてルールというものに遭遇し戸惑わせるのと、子供の内からルールというものに慣れさせておいて社会に送り出すのと、どっちが子供の為か、どっちが子供に親切か、考えてみれば自ずと答えは決まっているでしょう。 > 最近の子供たちのモラルが低下しているという事実は、確かにそうと言え > ばそうかもしれませんが、戦前の教育に戻したからといってよくなるとは > 限らないですよね? どこの誰も戦前の教育に戻した方が良いなどと言っていません。そもそも相手にする価値の無い極右、極左過激派を除けば。 まともな人で、そんな事言っているの見たことも聞いた亊もないです。 在るとすれば「戦前の教育が全て悪であったかのような評価は間違い」「良い点は良い点として見直して現代に活かせるものは活かすべき」というものでしょう。 > それよりも「モラル」って一体何ですか? モラルとか常識とかの類は「その定義は?」と問うのはナンセンスです。 何故なら、問うて答えの出るものではないからです。 モラルというのは「モラル的」と一般にされている色々な「言葉」「行ない」「所作」「感じ方」を、まずは真似るだけから始めて、その行動を取っていく内に「ああ、これがモラルか!」と感覚的に理解されるものです。 理屈では一生掛かっても理解されません。 「最近は感情や感覚の病んだ子(他人に対して無関心)」の、一番かどうかまでは知りませんが、大きい原因の一つは、上記のように本来は見よう見まねで真似ている内にその核心が理解されるモラル等に、理屈でアプローチする癖を身に付けている(誰が付けたのかは知りませんが)からだと思います。 他の部分は独り言みたいなのでコメントしません。 悪しからず。 *********** 庄司 拓哉 ************ |
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re:無題
みかん(2006/01/24 11:40)
回答どうもありがとうござます。国家を重視するか個人を重視するかで、 だいぶ教育の内容も変わってきますよね。個人を重視すればエゴイズムが広がり バラバラになる危険性もあるし、国家だけを重視すれば国際的に孤立しやすく なるという問題点もでてきますし、どちらが良い・悪いかなんていえないですね。でもやはり子供たちのモラルの低下が戦後教育のせいだとするなら、個人主義はよくないということになるんでしょうね。考え方を改めてみます。 |
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re:無題
庄司拓哉(2006/01/24 14:15)
「個か集合か」という問いはC・G・ユングもかなり大事にした設問です。 社会性、集団性動物でありながら、と同時「個」という意識を洗練させてしまった人間という種は、そもそもの存在の初めから矛盾(つまり葛藤)を抱いている存在だと思います。 更に続けて言うならば、であるので、葛藤する事は人間種の義務であり責任であり権利であり、時には楽しみである。 然るに(葛藤は実際不愉快なので逃げれるものなら逃げたいと思うものであるが)葛藤から逃げるのは生きるということ自体から逃げることを意味すると僕は思っています。 だから「どちらが良い・悪いかなんていえない」ことは百も承知の上で、でも「どっちだろう? どっちだろう?」と悩み続けるのです。 >?個人主義はよくないということになるんでしょうね。 僕は個人主義が良くないとは言っていませんし、個人主義が良くないとは考えていません。 戦後長らく「個人主義だ」として喧伝されてきたものは、本当の意味での個人主義ではないということ。 更に付け加えると、欧米人に最適化されたセオリーを、そのまま日本人に適用しても、最適ではない可能性が高いとも考えています。 喩えで言うなら、フランス人も日本人も調理に包丁を用いているという意味では一緒だけども、使っている包丁は、それぞれがそれぞれ流に合った包丁を使っているので同一ではない。です。 包丁を使うという大枠は違えない方が良いだろうけど、日本で採れる食材にはそれに合ったように洗練させてきている包丁の方が上手く行きやすいだろうという事です。 *********** 庄司 拓哉 ************ |
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re:無題
みかん(2006/01/23 08:40)
最近の子供たちのモラルが低下しているという事実は、確かにそうと言えばそう かもしれませんが、戦前の教育に戻したからといってよくなるとは限らないです よね?それよりも「モラル」って一体何ですか?たとえば電車の中でカップルが 軽い抱擁をしていたとして、それを見苦しいと思うか思わないかは、年配の方と 若い人で意見が違ってくると思います。最近は電車の中で化粧をしている人は、 ほとんど見られなくなりましたが、電車の乗車マナーでいえば、お年寄りのほう がだんぜん悪いです。それは何故かといえば常識感覚が今と昔で違うからです。 昔は、服装の乱れは心身の乱れとよく注意されましたが、今は茶髪やピアスは 当たり前の時代ですよね?それよりも最近は感情や感覚の病んだ子(他人に対し て無関心)が増えた気がします。 |