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Fairyel sphere なんでも目安箱

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[1]
re:無題 : 白い月の鏡 (2008/11/04 16:05)
[19]re:無題 : りんご (2006/01/21 15:33)
[20]re:無題 : 庄司拓哉 (2006/01/22 03:18)
[21]re:無題 : りんご (2006/01/22 10:18)
[26]re:無題 : りんご (2006/01/24 11:01)
[29]re:無題 : 庄司拓哉 (2006/01/24 15:03)
[24]re:無題 : 庄司拓哉 (2006/01/24 00:12)
[22]re:無題 : みかん (2006/01/22 13:52)
[25]re:無題 : 庄司拓哉 (2006/01/24 00:13)
[27]re:無題 : みかん (2006/01/24 11:40)
[28]re:無題 : 庄司拓哉 (2006/01/24 14:15)
[23]re:無題 : みかん (2006/01/23 08:40)
[1]精神科医について : ささ (2006/01/12 18:52)
[4]re:精神科医について : 庄司拓哉 (2006/01/17 19:43)
[10]re:精神科医について : ささ (2006/01/19 01:05)
[12]re:精神科医について : 庄司拓哉 (2006/01/19 08:00)
[30]re:精神科医について : ささ (2006/02/07 00:05)
[33]re:精神科医について : 庄司拓哉 (2006/02/07 19:10)
[34]re:精神科医について : ささ (2006/02/08 01:26)

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1 [18] [4]
re:無題
白い月の鏡(2008/11/04 16:05)


> >また最近よく耳にするのが学力低下問題、学級崩壊という言葉なんです
> が、
> 本当にそうでしょうか?もし仮にそうだったとしてそれを「戦後民
> 主主義教育」
> の批判につなげるのは、あまりにも短絡的だと思うのです
> が?
> 私は戦前の教育がどのようなものだったのか知りませんが、「古き
> よき時代」と
> いうものも果たして本当にあるものなのどうかも知りえな
> いですよね?
> 林道義さんは、いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を
> 招いているとおっしゃられていますけど、それも一概にそう考えてしまうのは間
> 違っていると思います
> 。シングルマザーや父子家庭で育った子供が全て
> 悪いとは思わないです。
> 正直に言わせてもらえば、ただの理想的な家族
> 論、理想的な子育て論だと思うの
> ですが?もちろん理想的な家族なんて
> 願わない人はいないと思います。
> しかし、いまのリスト・カットや不登
> 校の問題が林道義さんのいう「父性の欠如
> 」からきているとは思えない
> です。

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19 [18] [20]
re:無題
りんご(2006/01/21 15:33)


>昔から続いてきたと思われる「家」制度というものも調べてみたところ
近世になって安定したそうです。つまりもともと家というのはあやふやで定義
できない存在なんです。


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20 [19] [21]
re:無題
庄司拓哉(2006/01/22 03:18)


 細かい話ですが「> 」は引用の意味で使われる約束事になっていますので、引用部以外には使わないようにして下さい。 文章が読みにくくなりますので。
 それと、発言を幾つも分けてアップするのも極力避けて下さい。 内容が纏まっていないなら、纏まってからアップするようにして下さい。


> 対人恐怖症は日本人だけでなくアメリカにも存在するということなんです
> が、統計的に調べてみると、日本人のほうが比較的多いのは事実だと思い
> ます。

 先にも申し上げたようにアメリカでは対人恐怖症は無いという建前の前提があるので、対人恐怖症という診断名は(医師個人の裁量で付ける自由はあるのですが)保険支給の対象として認められないという現状があるが故に、実際には対人恐怖症であっても対人恐怖症と診断名を付けられず、その他の「強迫神経症」とか別の診断名にされているケースが多いのです。 「統計上」には、これらは全く反映されません。 その反映されていない(事実と乖離した)統計という根拠自体が怪しいので、これを根拠にした「日本人の方が比較的多い」という結論も信頼するに足らないものと言えます。

> 三島由紀夫・太宰治など、対人恐怖症的な主人公を題材にした作品が多い
> のも日本人の自我が対人恐怖症傾向をもっているということをよくあらわ
> したものだと思いいます。アメリカの文化人類学者のベネディクト著「菊
> と刀」によれば西洋文化がキリスト教にもとづく倫理感を確立し、神の教
> えにそむくことを罪と考える罪の文化に対して日本文化は集団の和合を重
> んじ、他人から非難を受ける行為を避けようとする恥の文化であるといっ
> ています。以上のことから考えても、対人恐怖症が「羞恥」からきてるの
> はあきらかな事実ではないですか?

 これは一聴に値する意見だと思います。
 僕個人の見解を申しますと、対人恐怖症というのは、そもそも果たしてそういう固有の精神疾患であるのか?という疑問があります。
 と言うのは、西洋精神の主観(西洋の物差し)で日本文化を測ってみたら異常に見える、つまり異文化の者から他の異文化を見るとヘンに思えたり、異常行動のように考えてしまう、という、ただそれだけの話という側面が少なからずあるのが対人恐怖症の所見だからです。
 だから、いわゆる対人恐怖症と呼ばれる精神、心理の傾向は、日本人の伝統的なものと或程度重なって当然だと考えます。
 で、問題は、さぁ果たしてこれが病的と言ってよいものかどうか、、、
確かに病的と呼んで差し支えないレベルの対人恐怖症は事実存在しますが、だからと言って対人恐怖症的とされる精神傾向全てを病的なものと断じて良いのかという疑問は甚だしくあるのと、今申し上げたように対人恐怖症と称されるものは「日本文化」が「西洋の精神性」と出遭ったそこで発生しているきらいが濃いので、その後に発生した対人恐怖症という現象は病だするにしても、問題意識として「日本文化」と「西洋の精神性」との折衷の付け方のどこかが間違っていたのではないだろうか? 少なくとも、この折衷の付け方を上手く出来ないで来ている一群がこの国の中に少なからず居るとは言わざるを得ないので、じゃあその人達はどういう折衷ミスを犯しているのだろうか?という問いは追究してみるべきだと考えています。(まぁ、だから、それを対人恐怖症と呼ぶかどうかには興味ないと言った方が正しいでしょうか。)
 三島由紀夫にしても太宰治にしても、このテーマで書いていたと言えるように思います。

 ベネディクト著「菊と刀」は「なるほど」と思わせる点も多々散見されるものの、全体的には日本文化を表層的にしか捉えていない感が強く、「日本は恥の文化だ」とするのも表層的だと言わざるを得ないです。
 殊に、この著作が書かれた時代背景(アメリカ占領軍が、日本人をどう統治し、どうコントロールするのがアメリカの利害に適うか、という観点で書かれている)を考慮に入れないと、かなり受け取り違えてしまう著書です。

> また最近よく耳にするのが学力低下問題、学級崩壊という言葉なんですが、
> 本当にそうでしょうか?

 これは本当にそうだと断言できます。
 身近な例ですが、鉄道の駅、コンビニ、スーパーなどの自転車置き場での自転車の置き方は、名々が名々で自分勝手な置き方をしている非常に酷い状態が今や日常化しています。 15年くらい前までは、誰が言うでもなく、誰に指示されるでもなく各人が各々、互いに気を付けて整然と並んでいたものです。
 これなどは、全体の調和よりも個の勝手の方を優先する「利己主義的行動」で、これは前後の(特に70年代以降の)個人の自由、個人の権利を優先し過ぎる教育(正確に言えば「個人の自由、個人の権利を、我が侭勝手と区別出来ていない教育」)の結果だと言って差し支えありません。

> もし仮にそうだったとしてそれを「戦後民主主義教育」の批判につなげる
> のは、あまりにも短絡的だと思うのですが?

 学力低下問題、学級崩壊の第一義的責任は教育になるので、これを批判するのは実に真っ当です。 短絡的ではないです。
 たぶんご存じないので無理からぬ事とは思いますが、戦後ずっと日本という社会が引き摺って来た諸々の問題(毒)が、一番典型的かつ尖鋭的に凝縮されているのが教育界ですので、まずこれが批判の矢面に立たされるのは至って当然のことです。
 それと、日本に限らずどこであっても、社会に問題があった時に、一番モロにその被害を受けるのが子供達です。 だから、問題があったと知れた場合、一刻の猶予も無く手を早急に打たなければならないのも教育というジャンルなのです。

> 私は戦前の教育がどのようなものだったのか知りませんが、「古きよき時
> 代」というものも果たして本当にあるものなのどうかも知りえないですよ
> ね?

 いいえ。知ろうと思えば、書店で手に入る書籍だけに限定しても、それなりの分量の書物に当たることは出来ますし、ネット上にはそれこそ沢山の参考になる情報が溢れています(但し、ネット上の情報は玉石混淆なので、どれが優良情報か選び取る知識と理性が要求されます)。
 まず知ろうとすることです。 知ろうとしないで、ああだこうだと自分の手の平の皺だけを数えていても、建設的ではありません。

> 林道義さんは、いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いているとお
> っしゃられていますけど、それも一概にそう考えてしまうのは間違ってい
> ると思います。シングルマザーや父子家庭で育った子供が全て悪いとは思
> わないです。

 林道義氏がどう言っているか、件の本の中にどう書いているか以前に、上記は論理的に繋がっていません。
 「いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いている」という主張をすれば「シングルマザーや父子家庭で育った子供が全て悪い」と言っている亊になるのでしょうか?

 たぶん、社会全体をマスに捉えた観点と、個々の問題というミニマムの観点とを区別せず、混同している処から発生している誤彪(または、論理飛躍)だと思われます。

 林道義氏の主張の概要の以下です。
1:「ジェンダーフリー思想」の中には、シングルマザー擁護論が含まれる。
2:家族というのは社会を構成する基礎単位として非常に重要な役割を担っており、であるのでこれを「大事なもの」とする価値観を失うと社会が荒廃、混乱する。
3:ジェンダーフリー思想が展開しているシングルマザー擁護論は、シングルマザーを擁護する体裁を借りて「家族」という価値観を貶め、低価値化する意図、狙いが隠されている(人権、平等、博愛などの美辞麗句を体裁だけ借りる手法はフェミニズムを初めサヨク勢力の常套手段)。
4:であるから、家族というものの価値を貶める「いまのジェンダーフリー思想が家族崩壊を招いている」と結論付けれる。

 つまり、これを理解すれば明らかな通り、林道義氏は「母子家庭、父子家庭の個々それぞれ」を批判しているのではなく、「母子家庭、父子家庭が生まれることを安易に肯定するジェンダーフリー思想」を批判しているのです。 批判の内容、対象がまるで違います。
 分かりやすく言えば「やむを得ず母子家庭、父子家庭の境遇になった人達を社会の一員として認める」ことと「最初から母子家庭、父子家庭を作ることを称揚する」ことは天と地ほども開きがあるという事です。


> 正直に言わせてもらえば、ただの理想的な家族論、理想的な子育て論だと
> 思うのですが?

 論というのは常に理想論から始まります。 理想無くしては何の為の論でありましょうや。
 逆に言えば、理想がそのまま描かれている通りに実現できると考えるのは子供の思考法です。
 で、実際には、林道義氏は机上の空論ではなく、具体的事実に即した「問題点の指摘」「改善ポイントの例示」「具体的対処法の提言」などもふんだんに行なっていますので、「ただの」理想論と仰るのは事実に基づかない、りんごさんの印象にしか過ぎません。

> しかし、いまのリスト・カットや不登校の問題が林道義さんのいう「父性
> の欠如」からきているとは思えないです。

 林道義氏が指摘しているのは、これらの心理的一因として「父性の欠如」がある、と言っている以上でも以下でもないです。 これが全てだなどとは一言もどこにも書いていませんし、他の考えられる要因についても他所で指摘しています。
 それと『父性の復権』は「父性をメインテーマ」にしている著書であるということ。つまり、父性とは直接関係のない他の話は、ここでは触り程度以上には扱われていなくても当然という当たり前の前提を忘れてはいけません。

> 昔から続いてきたと思われる「家」制度というものも調べてみたところ近
> 世になって安定したそうです。つまりもともと家というのはあやふやで定
> 義できない存在なんです。

 誰の書いたどの本を参考になさっているのか非常に気になります。
 と申しますのは、「家」および「家制度」について書かれた本のかなり多くが、「家」および「家制度」というものを否定したい政治的意図を持ったフェミニズム御用学者が書いているものだからです。
 恣意的に特定の結論に導こうというバイアスが色濃く働いている本が多いので気を付けて読んで下さい。

 この前置きをした上で私の知っている範囲でお答えしますと、制度としての「家」という価値観、概念が明文化される形で時代の表に表われたのは江戸時代も中期に入った頃だと記憶しています。
 ただ、ここで注意すべきは「制度として」「明文化された」のが江戸中期以降だということです。 つまり、持つべき疑問として「では、明文化、制度化される以前には在ったのか?無かったのか?」というのを忘れてはいけないという事です。 制度というのは、政治支配層が上から決め事として与える場合と、すでに慣習として一般化していたものを制度として取り入れる場合があるからです。

 また、歴史資料として残っているのは主に支配階層の情報である、つまり一般大衆の生活実態や、生活感、価値観などは歴史資料に殆ど表われていないという事実も忘れてはいけません。 一般大衆の事も資料として残るようになったのは江戸中期以降です。
 フェミニズム御用学者がよく使う手なのですが、資料上に発見できないのを以て「この時代には○○は無かった」と結論付ける子供騙しの手法です(しかも、調べた資料選びにも非常に偏りがある場合が大半です)。

*********** 庄司 拓哉 ************
Mailto:yumesaki@mono-style.com
http://therapy.under.jp/dream/
*** 物語り研究所「夢前案内人」*****


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21 [20] [26] [24] [22]
re:無題
りんご(2006/01/22 10:18)


回答ありがとうございます。 これまでの教育は戦後の国家・集団性を重視した
詰め込み型の教育が行われてきた。しかし80年代以降「校内暴力」「いじめ」
「学級崩壊」と様々な弊害がでてきた。その反省下で今日の「個性尊重」「豊か
な人間性を養う」「ゆとり教育」があることはご存じですよね?
私は、個人主義教育が問題なのではなく、「自由」のはき違えが原因だと思います。「何でもできる自由」を「何をしてもよい自由」と解釈してしまったことに
問題があるのだと思います。アメリカの学校では、授業の中にディスカッション
や討論があり、お互いの意見を交換しあうそうです。驚いたことに「いじめ」
など全くないそうですよ。
個を確立できてこそ相手をも尊重できるのではないですか?
最近の子供たちのモラルの低下に関して言えば、それは子供だけにいえること
ではないですよね?社会全体、大人が変わらないかぎり子供はよくならないと
思います。


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26 [21] [29]
re:無題
りんご(2006/01/24 11:01)


回答ありがとうございました。日本は母性社会で西洋は父性社会といわれてる
ように、日本に個人主義が受け入れられることは難しいだろうと思います。
一慨に個人主義教育によって育てられたアメリカ人が日本人より優れているとも
言えないですしね。ただアメリカ人の目で見るかぎり、まったく不自由で没個性的なことをしているという自覚はしておいたほうがいいとは思いました。また
建前だけの教育をし、真の教育をないがしろにしたため、麻原やオウム真理教
のような血も涙もない連中が作り出されたことも教育が国家のためだけのロボットを生産する一大産業になっていることも反省するべきだと思います。


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29 [26] なし
re:無題
庄司拓哉(2006/01/24 15:03)


>?ただアメリカ人の目で見るかぎり、まったく不自由で没個性的なことをしているという自覚はしておいたほうがいいとは思いました。

 全面賛成は出来ないけども、一面として正しいとは思います。
 全面賛成できないのは、日本人には日本人なりの、欧米人のそれとは違う個性の在り方があると僕は考えているからです。 だから、アメリカ人は自分達の「個性観」で見て、その個性性に気付かず「没個性」などと言うのは或る意味仕方なかろうと思うのではありつつ、と同時に、日本人自体の多くが、そのアメリカ人の目で自らを見てしまっている故に自らが気付いていず、きちんと「かくかくしかじかなのである」と彼らに説明出来ていない(欧米人、特にアメリカ人は説明されないものには理解を示そうとはしない)ので、彼らの無理解を責めたり問題にする以前に、日本人自体が自らの目を取り戻さないといけないと考えています。

>?また建前だけの教育をし、真の教育をないがしろにしたため、麻原やオウム真理教
>?のような血も涙もない連中が作り出された

 ここまでは正しいと思いますが、これが「教育が国家のためだけのロボットを生産する一大産業になっている」というのは論理的におかしいです。
 「国家のためだけのロボット」なのなら、国家の転覆を企てる事などする筈はないので、「麻原やオウム真理教のような」集団は生まれないと結論される筈です。 「一大産業」になっているのなら、粗悪品は出ることは在っても、あのように優秀なテロリストは生まれません。

 国家転覆を企てる「麻原やオウム真理教のような」集団が出て来たのは事実で、であるなら、「建前だけの教育」「真の教育をないがしろにした」教育は、反国家的、反政府的輩を輩出する意図で(部分的にあるにせよ)行なわれてきているのだとする方が自然です。

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24 [21] なし
re:無題
庄司拓哉(2006/01/24 00:12)


> これまでの教育は戦後の国家・集団性を重視した詰め込み型の教育が行わ
> れてきた。しかし80年代以降「校内暴力」「いじめ」「学級崩壊」と様
> 々な弊害がでてきた。その反省下で今日の「個性尊重」「豊かな人間性を
> 養う」「ゆとり教育」があることはご存じですよね?

 上記のような誤った解釈がまかり通っている事は存じ上げています。
 「校内暴力」「いじめ」「学級崩壊」の原因を一口に言うのは難しい、というか一口に断じれるものではないと思いますが、少なくとも、以前の教育が国家・集団性を重視した詰め込み型の教育だったのが原因ではないとは言えます。
 また、教育の性格の一つとして、特に義務教育範囲内である中学生までは「詰め込み」は寧ろ必要ですので、「詰め込み」自体を問題とするのは教育の何たるかが本質的に分かっていない戯言です。
 或程度以上の計算が出来ない段階で「足すとは何か?」とか「数とは何か?」などと問うてみてもロクな答えが出せるわけがないので、先ず計算を丸憶えで教えられた通りに何度も何度も繰り返す内に、まず感覚的に「数を扱う感覚」が養うことが先決なのです。 この感覚を養うには、どうしても「決まり切った形を教えるしか」ありません。これは「詰め込み」と言うなら詰め込み以外の何ものでもありません。
 つまり、教育のプロセスとして詰め込みはどうしても避けて通れない手順なのです。

 とは言え、人間というのは感情を持っている動物なので「嫌な相手」「信頼していない相手」から何某かを強要されるのは、子供であっても嫌ですから、(強要は避けて通れないので)問題は強要の方ではなく、それが必要な強要であることを納得させ受け入れれる子供への接し方・・・つまり教師の人間性の問題の方を問題にすべきという話になるです。 当然、子供の方の人間性も問題にされるのは至極当然のことで、子供の場合は充分に人格が発達していていないので、子供の人間性≒親の人間性ということにはなります。

 先に書いた繰り返しになるので軽く触れるのみにしますが、親が普通に親らしく接していれば子供は自然と親を尊敬します(これは本能的にそうなっているの議論の余地はありません)。 親を尊敬できている子供は、その延長として大人全般も自然と尊敬する気持ちが準備されています(実際に誰を尊敬し誰を尊敬しないかは個別に決まってくるが、その気持ちは用意されているという意味)。 この気持ちが用意されていれば当然教師に対しても、それが尊敬に値しない人物でない限り尊敬するのは難しいことではありませんので、学校内、教室内での教師-生徒の信頼関係の正否の半分は家庭が握っていると言えるのです

 この意味で、一昔前に起こり、今も尚同じ論調で来ている「詰め込み教育批判」は、批判(若しくは反省)する論点を誤っているのです。

> 私は、個人主義教育が問題なのではなく、「自由」のはき違えが原因だと
> 思います。「何でもできる自由」を「何をしてもよい自由」と解釈してし
> まったことに問題があるのだと思います。

 上記は、後半の『「自由」のはき違えが原因だと思います。「何でもできる自由」を「何をしてもよい自由」と解釈してしまったことに問題がある』は正にその通り、賛同します。
 しかし、この誤解釈を助長したのは戦後日本の個人主義教育である事は今や明白ですから前半も含めれば賛同できません。
 たぶん、ご存じないのだろうと思いますのでキチンと書いておきますと、上記の私の言葉がより正しくなるよう補足するなら「戦後日本で行なわれてきた個人主義教育は本当の意味での個人主義(権利に伴う義務の重さ、公共性を損なってまで優先される個人の権利など無いという道理、を教えていない)など殆ど教えていなく、個人主義教育の名だけを借りた個勝手教育である」です。 この補足を踏まえて上記のりんごさんの言葉の「個人主義教育」を本来の意味の個人主義教育だとして「個人主義教育はそもそも一度も行なわれた事がない日本に於いては、個人主義教育にその原因を求めること自体がそもそも出来ない」という意味だとするなら、その通りだという事になります。

> アメリカの学校では、授業の中にディスカッションや討論があり、お互い
> の意見を交換しあうそうです。驚いたことに「いじめ」など全くないそう
> ですよ。

「授業の中にディスカッションや討論」する訓練を多くの学校が普通に取り入れているというのは確かにその通りだと聞き及んでいますが、いじめが全く無いというのは初耳です。
 私が聞き及んでいるのは「日本のような陰湿なイジメは総じて少ない」「アメリカに於いてもイジメは存在するが、イジメの質、またはイジメ方が違う」「イジメが無い学校も少なくない(学校によれば無い所もある)」です。

> 個を確立できてこそ相手をも尊重できるのではないですか?

 確かに本当の意味での尊重は仰る通り「個が確立≒大人になっていること」が必須条件でしょう。 ただ、大人ほどの確固たる尊重観念とか尊重意識は無いにしても、じゃあ子供には、これに似た、もしくは近い「尊重感覚」みたいなものすらも無いのかと言えば、これは正しく育っていれば在るでしょう、と思います。

> 最近の子供たちのモラルの低下に関して言えば、それは子供だけにいえる
> ことではないですよね?社会全体、大人が変わらないかぎり子供はよくな
> らないと思います。

 だから育てる側の主の一つである教育関係者が批判されるわけですが、子供は良いしろ悪いにしろ大人を見倣って(倣っているとは気付かないレベルの方が多い)育ちますから、確かに仰る通りです。
 やはりと言うべき、教育が誤っていた場合に、そして、その誤りがなかなか気付かれずに長年放置されていた場合、恐ろしいのは、このように充分に大人になっていない人達が親となり、その子供も同様に誤った教育を施され、、、処がこの段になると親がその自分の子供が受けている教育がおかしいとは微塵も思わなくなっているという点です。
 実際、先の発言で挙げたマナーのなっていない自転車の停め方などは、今や親の世代からしてそうなっています。

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22 [21] [25] [23]
re:無題
みかん(2006/01/22 13:52)


私は、ひと昔前のルーズソックスや援助交際が流行していた時期(いちばん荒れてた頃です)に高校生だったものです。茶髪がなぜ流行するのかといえば校則
が厳しすぎるせいだと思います。周りと同じじゃなきゃ不安というのは、全体
主義教育から生まれたんじゃないですか?
私は、いわゆる伝統ある女子校に通っていました。だから公立の学校の子がもの
すごいうらやましかったです。クラスの中で援助交際やってた子がいましたけど
それがぜんぜん普通の子なんです。昼間まじめに勉強してて放課後になると、
ルーズソックスにはきかえてカラオケに行ってたばこを吸ってたりしてましたよ。いくらルールや校則を厳しくしたところでよくなるのかなあ?って思いまし
た。


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25 [22] [27]
re:無題
庄司拓哉(2006/01/24 00:13)


> 茶髪がなぜ流行するのかといえば校則が厳しすぎるせいだと思います。

 茶髪に限らず、何かが流行るのと、「校則が厳しいか否か」は殆ど無関係です。
 束縛を嫌い、これに反抗したい心理を持つのは今に始まった事ではなく、昔から存在する若者心理です。 これは、親から自立しようという心の動きが始まった時に起こる本能的な働きによるものです。
 また、一昔前まで在った「茶髪=不良」という観念が薄くなり、一般的に受け入れられるようになっている今の時代に於いては、茶髪は反抗心の表われですらないので、これと「校則が厳しい」うんぬんと論理展開するのは噛み合っていないです。
 まだ「茶髪=不良」という意識があなたのようにお若いと思われる方の中にも生きているのだと言えますので、安心を覚えたと言っておきます。

> 周りと同じじゃなきゃ不安というのは、全体主義教育から生まれたんじゃないですか?

 周りと違っていると不安になるのは、集団生活をする動物なら全てが持っている本能が基礎になっています。 人間も集団生活をする動物ですので、この本能を持っています。
 今では良い意味でも悪い意味でも個人主義の代表みたいに思われている欧米文化にしても、「個」という観念が鮮明になり、特に今我々が知っている意味での個人主義が台頭しだしたのは18世紀で、個人主義とはたかだか200年程度の歴史しかないのです。
 云うなれば個人主義というのは、まだ若く騙されやすいのです。 この騙された一番有名な例がドイツ・ナチズムであり、共産主義です。
 つまり「周りと同じじゃなきゃ不安というのが全体主義から生まれた」のではなく「全体主義が、周りと同じじゃなきゃ不安という人間が本質的に持っている基本心理の一つを利用した」または「周りと同じじゃなきゃ不安という人間が本質的に持っている基本心理の一つが、誤った方向に働いた時に全体主義が生まれる(可能性がある)」のです。


> 私は、いわゆる伝統ある女子校に通っていました。だから公立の学校の子
> がものすごいうらやましかったです。クラスの中で援助交際やってた子が
> いましたけどそれがぜんぜん普通の子なんです。昼間まじめに勉強してて
> 放課後になると、ルーズソックスにはきかえてカラオケに行ってたばこを
> 吸ってたりしてましたよ。いくらルールや校則を厳しくしたところでよく
> なるのかなあ?って思いました。

 つまりは、問題の本質は、校則が厳しいかどうか、または校則を厳しくすれば解決するといった形式上の問題ではない、ということでしょう。
 先の発言で書きましたが、容れ物(今の話の場合は「校則」という決まり)が正しいかどうかは、その内容(今の場合は「それを守ろうとする生徒、教師双方の心構え」)が伴っているかどうかと切り離せません。 内容の伴っていなくなったものを「形骸化している」と言います。
 内容の伴っていない処でルールを厳しくしても実効性が無いのは当たり前です。
 凄く細かい事まで法律化されているという意味で世界一法律が厳しいのは北朝鮮です。
 その構成員の心得が高い集団なら、ルールは最低限で良いのです。
 だから教育現場では、ルールを厳しくする事よりも、ルールを守るのは何故必要か、ルールは何故必要なのか、という事を「より」教えるべきでしょう。
 但し、これは校則は無くて良いという事には直結しません。 何故なら、校則の場合は、法律とは違った意味合いを背負っているからです。 それは、まだ未熟な子供に「ルールを守る」という習慣に「感覚的に」「慣れさせる」という意味合いです。 ルールを子供に一切課さずに育て、成人して社会に出た時に初めてルールというものに遭遇し戸惑わせるのと、子供の内からルールというものに慣れさせておいて社会に送り出すのと、どっちが子供の為か、どっちが子供に親切か、考えてみれば自ずと答えは決まっているでしょう。


> 最近の子供たちのモラルが低下しているという事実は、確かにそうと言え
> ばそうかもしれませんが、戦前の教育に戻したからといってよくなるとは
> 限らないですよね?

 どこの誰も戦前の教育に戻した方が良いなどと言っていません。そもそも相手にする価値の無い極右、極左過激派を除けば。
 まともな人で、そんな事言っているの見たことも聞いた亊もないです。
 在るとすれば「戦前の教育が全て悪であったかのような評価は間違い」「良い点は良い点として見直して現代に活かせるものは活かすべき」というものでしょう。

> それよりも「モラル」って一体何ですか?

 モラルとか常識とかの類は「その定義は?」と問うのはナンセンスです。
 何故なら、問うて答えの出るものではないからです。
 モラルというのは「モラル的」と一般にされている色々な「言葉」「行ない」「所作」「感じ方」を、まずは真似るだけから始めて、その行動を取っていく内に「ああ、これがモラルか!」と感覚的に理解されるものです。 理屈では一生掛かっても理解されません。

 「最近は感情や感覚の病んだ子(他人に対して無関心)」の、一番かどうかまでは知りませんが、大きい原因の一つは、上記のように本来は見よう見まねで真似ている内にその核心が理解されるモラル等に、理屈でアプローチする癖を身に付けている(誰が付けたのかは知りませんが)からだと思います。


 他の部分は独り言みたいなのでコメントしません。 悪しからず。

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27 [25] [28]
re:無題
みかん(2006/01/24 11:40)


回答どうもありがとうござます。国家を重視するか個人を重視するかで、
だいぶ教育の内容も変わってきますよね。個人を重視すればエゴイズムが広がり
バラバラになる危険性もあるし、国家だけを重視すれば国際的に孤立しやすく
なるという問題点もでてきますし、どちらが良い・悪いかなんていえないですね。でもやはり子供たちのモラルの低下が戦後教育のせいだとするなら、個人主義はよくないということになるんでしょうね。考え方を改めてみます。


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28 [27] なし
re:無題
庄司拓哉(2006/01/24 14:15)


 「個か集合か」という問いはC・G・ユングもかなり大事にした設問です。
 社会性、集団性動物でありながら、と同時「個」という意識を洗練させてしまった人間という種は、そもそもの存在の初めから矛盾(つまり葛藤)を抱いている存在だと思います。 更に続けて言うならば、であるので、葛藤する事は人間種の義務であり責任であり権利であり、時には楽しみである。 然るに(葛藤は実際不愉快なので逃げれるものなら逃げたいと思うものであるが)葛藤から逃げるのは生きるということ自体から逃げることを意味すると僕は思っています。

 だから「どちらが良い・悪いかなんていえない」ことは百も承知の上で、でも「どっちだろう? どっちだろう?」と悩み続けるのです。


>?個人主義はよくないということになるんでしょうね。

 僕は個人主義が良くないとは言っていませんし、個人主義が良くないとは考えていません。
 戦後長らく「個人主義だ」として喧伝されてきたものは、本当の意味での個人主義ではないということ。
 更に付け加えると、欧米人に最適化されたセオリーを、そのまま日本人に適用しても、最適ではない可能性が高いとも考えています。
 喩えで言うなら、フランス人も日本人も調理に包丁を用いているという意味では一緒だけども、使っている包丁は、それぞれがそれぞれ流に合った包丁を使っているので同一ではない。です。 包丁を使うという大枠は違えない方が良いだろうけど、日本で採れる食材にはそれに合ったように洗練させてきている包丁の方が上手く行きやすいだろうという事です。

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23 [22] なし
re:無題
みかん(2006/01/23 08:40)


最近の子供たちのモラルが低下しているという事実は、確かにそうと言えばそう
かもしれませんが、戦前の教育に戻したからといってよくなるとは限らないです
よね?それよりも「モラル」って一体何ですか?たとえば電車の中でカップルが
軽い抱擁をしていたとして、それを見苦しいと思うか思わないかは、年配の方と
若い人で意見が違ってくると思います。最近は電車の中で化粧をしている人は、
ほとんど見られなくなりましたが、電車の乗車マナーでいえば、お年寄りのほう
がだんぜん悪いです。それは何故かといえば常識感覚が今と昔で違うからです。
昔は、服装の乱れは心身の乱れとよく注意されましたが、今は茶髪やピアスは
当たり前の時代ですよね?それよりも最近は感情や感覚の病んだ子(他人に対し
て無関心)が増えた気がします。


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1 ルート なし
精神科医について
ささ(2006/01/12 18:52)


精神科医ってなんなんだろう?医者は万能だと思ってたけど、精神科医
ってのは微妙な感じがします、私は、医者や周りに病気は自分で治すもの
だと言われて・・・医者は一切当てにしない気持ちでいます、薬をくれる
人ぐらいに思っています。医者は病気を治す方法を知っているっていう
常識はこの科では通用しないみたいです。


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4 [1] [10]
re:精神科医について
庄司拓哉(2006/01/17 19:43)


 アクセスはしてたんですが完全に「節穴」状態です見落としていました。

 まぁ、ぶっちゃけ言っちゃって何なんですが、心、精神、これは科学的にアプローチする限りは「脳の問題」だということになるのですが、その脳について、そこそこに定見めいた事が言えるようになって来たのは、ここ15年くらいなのです。 この上、精神科医の中には脳科学の成果を素直に評価しようという機運が正直あまり無くて、結局、過去のやり方・・・経験則を主にして漫然と薬の処方を続ける。 こういう精神科医さんが多いと言わざるを得ないのが現状です。

 医師国家資格を有しているというのは「患者の生死を直接握る接し方をして良い」という許可を貰っているのと同然で、これの裏返しとして「責任の持てない行為はしない」という意識が医師には強いです。
 これは「患者の命に対する責任」であるので基本的に必要な意識です。 逆のこれの意識の薄い医者なんかには罹りたくはない筈です。
 ただ問題として、上述のように心の問題に関してはまだまだ未解明な事が多く、この意味では「絶対的責任をもって実行できる手段」が事実上無いに等しい、少なくとも医師の立場からはこう見えますので、無難な線・・・つまり「毒にも薬にもならないこと」を様子見で続ける消極策を取るのが安全という判断(この中には当然医師自身の保身意識を入っています)になるのです。

 これと並行して、心の問題で「直接的に」命を落とすことは極めて少ないというのも、医師の危機意識を高めにくい原因だろうと思います。
 医師に限らず、弁護士、薬剤師、等の法律で縛られている職業の殆どは、どうしても法律的に違反になるかどうか、罰せられる可能性が高いか低い、これを強く意識せざるを得ません。 当たり前と言えば当たり前なのですが、これの負の側面としてリスクを背負ってまで新しい治療法に手を出したりしようとするチャレンジャーな医師は、やはりそう多くは居ません。

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10 [4] [12]
re:精神科医について
ささ(2006/01/19 01:05)


回答ありがとうございます。
最近は、脳ブームで脳科学の解説書や「脳を鍛えるドリル」などが人気を
集めていますね。鬱の原因も「セロトニンやアドレナリン」などの神経伝達物質の放出量の減退」を専門書とする本がたくさん売られています。
しかし、私は鬱(純然たる鬱は別)「原因」に対する唯物論的なこの解釈
は間違っているように思います。神経伝達物質の異常とは、歪んだ観念や
思考、感情がもたらす現象である。つまり、原因としての観念や感情がまず存在し、その結果として脳内の伝達物質の異常が生じ、鬱を出現させ
る。これが良識的な捉え方ではないでしょうか?
最近まで、統合失調症は遺伝子の配列が起こす「不治の病」と考えられて
きましたが、今では、環境的要因の影響が大きいことが科学的に解明され
つつあります。
また、最近では「インフォームドコンセント(説明に基づく同意)」の
重要性がさかんに強調されていますが、薬の効能や副作用を全く知らされ
ずに服薬を続けている患者さんも以外と多いんです。
この問題点のついてはどのような考えをお持ちですか?


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12 [10] [30]
re:精神科医について
庄司拓哉(2006/01/19 08:00)


> ?しかし、私は鬱(純然たる鬱は別)「原因」に対する唯物論的なこの解釈
> ?は間違っているように思います。神経伝達物質の異常とは、歪んだ観念や
> ?思考、感情がもたらす現象である。つまり?、原因としての観念や感情が
> まず存在し、その結果として脳内の伝達物質の異常?が生じ、鬱を出現させ
> ?る。これが良識的な捉え方ではないでしょうか??

 物事、特に生命体内での事象は原因と結果が一方通行ではない不可分に結び付いた関係になっているので、『「原因」に対する唯物論的なこの解釈』だけで「全てを語れり」と思ってはいけないというだけの話で、一方向の流れの捉え方として、これの説明としては間違ってはいません。

 鬱に限定しても「最終的に「セロトニンやアドレナリン」などの神経伝達物質の放出量の減退という現象として観察される」と言っている以上でも以下でもないのです。
 つまり、そういう現象躍起に至った原因は何かという点、にはまだ大して踏み込めていないだけです。
 「何故」が決定的なレベルで分かっていないから「当座の対処」として「現象を緩和する」方法が色々試みられている以上ではない。 これが今の投薬医療の現実である、ということです。

 問題は、さささんが「インフォームドコンセント」という言葉を使っておいでですが、「まだ、これ以上の対応は慎重にせざるを得ない現状なのですよ」と医療の限界(つまりは科学の限界)を素直に認めることを、どうも「負け」と思う医師が少なくないのか、率直に患者orクライアントに説明し「その正体がまだ確かに見えていない敵と一緒に戦う」という姿勢を示せない医師が多いという、こっちの問題でしょう、たぶん。
 だから、投薬内容とかをキチンと説明しない(後ろめたいと(勝手に)思うから)のです。
 2しか知らない事を10知っているかのように振る舞うのは或る種の背任行為ですから、凄くわかりやすく言ってしまえば、医師の人間性の問題です。

 纏めると、「これが現段階一番功を奏する可能性が高いと考えられる薬なので、まず様子見で服薬して下さい」「期待していた程の効果が見られない時は、処方を変えていきます。これの繰り返しで最適フィットの処方を見付けていきましょうね」というスタンスで患者に接する医師は良い医者だと結論付けれると思っています。

 最後に僕個人の意見ですが、医師にせよカウンセラーにせよ「冷たい感じのする人」が良いと思っています。 より正確に言い直すなら「中途半端に温かい(優しい)人」は一番害を為す場合が多い、でしょうか。

> ?いい忘れてました。心の問題で「直接的に命を落とすことはない」?とお?
> っしゃっていますけど、心の問題で自殺する人はたくさんいると思います。

 将来的には変わる可能性はありますが、現段階の主流のものの考え方では、自殺は「その心の問題」が直接となっているとは考えません。 文字通り「自」殺なのですから、その本人の意志によるものだと考えます。
 その「意志」が正しい(健全な)ものではないじゃないか? だから、それを以て「本人の意志」というのはおかしいのではないか? という問題意識は当然出て来ます。
 これに対する一つの答えとして脳科学が明らかにしてしまったショッキングな事実があります。 それは、我々が何かを「しよう」と思った時、自己認識レベルでは「自発的」だと思っているそれ、つまり『「しよう」と思った意志』は、実は自分(認識レベルでの自分=自我意識)が「しよう」と思うのに先んじて、自分と認識される外の脳の領域(ユング心理学で言う無意識に当たる)が反応を起こして、これを受けて「しよう」と思うのだという事実です。 少し乱暴なのを承知で簡潔に言えば「脳によってそう思わされている結果の「しよう」」でしかないという事です(「意志は脳の反応に先んじない」これは既に定理化しています)。
 これの何がショッキングなのかと言えば、我々が今まで考えていた「意志というもの」を果たして本当に「意志」だと言ってよいのか?という問題提起だからです。
 これを知った上で上述の問題に戻ってみると、今までの考え方自体から見直さないといけない可能性が強く示唆されます。

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30 [12] [33]
re:精神科医について
ささ(2006/02/07 00:05)


医師にせよカウンセラーにせよ冷たい感じがする人がいいとおしゃっていますけど、この部分は理解できませんでした。ごめんなさい。
やはり心を扱う職業であるだけに、それなりの倫理観はもっていただきたいと思います。人間性の問題で片付けるのも間違っていますよ。
こころとは脳の機能の一つという捉え方をしていらっしゃいますが、これはこころの実在を認めない見方であるから、無理に理解しようとすれば
できなくはないけれども、私自身の中でいま一つ腑に落ちないです。
精神疾患を脳の病と考えるならば、それにどうして精神療法が効いてくる
のでしょうか?


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33 [30] [34]
re:精神科医について
庄司拓哉(2006/02/07 19:10)


> 医師にせよカウンセラーにせよ冷たい感じがする人がいいとおしゃっていますけど、この部分は理解できませんでした。ごめんなさい。

 この点は、僕の価値観なので、別に違っていたからとて謝る必要は全然無いです。

>?やはり心を扱う?職業であるだけに、それなりの倫理観はもっていただきたいと思います。人間性の問題で片付けるのも間違っていますよ。

 大変失礼ながら、どういう教育を受けてきたのですか?と質問したくなります。
 というのは、倫理観は人間性の問題と不可分だからです。
 逆に、倫理観とは切り離せる人間性というものがあると、もし、このようにお考えなら、その人間性の定義は誤っていると言わざるを得ません。
 寧ろ人間性とは倫理観を含むものであると私は理解しています。

>?こころとは脳の機能の一つという捉え方をしていらっしゃいますが、これはこころの実在を認めない見方であるから、

 「こころを脳の機能の一つ」だと、どうして「こころの実在を認めない」ことになるのですか? 論理的におかしいです。
 第一、私は精神科医の在り方に関して問われたのに対して「科学的にアプローチする限りは「脳の問題」だ」と言っただけです。 医者はあくまで科学的にアプローチしようとするので、つまり彼らの観点(科学的アプローチ)に於いては「脳の問題」として扱われる(つまり「脳の問題」として以外には扱われにくい)と言っているだけで、僕が「こころをどう捉えているか」に言及している文脈ではありません。

 直接さささんへの答えにはならないかも知れませんが、僕が「こころとはどういうものか」と考えている処を書きますと。
 例えば、今話題に出た「脳の問題」だと狹く考えても、我々が意識的にコントロール出来る範囲はほんの僅かでしかなく、しかも「意識は脳の反応を後追いしているだけ(意思が反応に先んじない)」という事も既に判明しています。
 更には、心臓の中に一部脳細胞に非常に似た働きをする部位がある事は既に判っています。 完全に脳から独立しているわけではないけれども、心臓は或程度の独立性を以て動いている可能性があるという事です。
 この事実を飛躍させて(だから現段階、世間からは単なる世迷い事としか評価されないでしょう)、全身の細胞各々に「意志というほど精度、確からしさはないだろうけども意志と呼べるものが存在している」と考えています。 これの総和として意識、または意志というものを形成したり、生命維持のコンダクトをする統括部門が脳なのだろうと考えています。 つまり、脳は中心を担っているだけで、脳が全てではない。
 つまり人間社会と一緒なのです。 全体を指揮、監督するリーダー的存在は居ないと全然統制が取れずに機能がストップしてしまう(生命の危機)。 かと言って、皆の意思を無視してリーダーが独走すると誰も従わなくなる(やはり生命の危機)。 こういう関係性が人間の中にも成立していると考えています。

 やや皮肉めいた言い方をすると、皆(全身の細胞)からの伝達をそつなく網羅し、総和として「マズくない」差配を下している限りに於いて「脳が一番偉い」ことにして貰えているだけです。

 僕の考えとしては、こころは、この総和に他ならないので、物理的実体として存在するものではないと考えていますが、強いて物理的実体としてそれを指し示すなら「全身」・・・詩的に言い換えるなら「その人の存在そのもの」です。

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34 [33] なし
re:精神科医について
ささ(2006/02/08 01:26)


回答ありがとうございます。いちおうここでは職業倫理(責任)という意味で
使ったのですが、文字だけですと伝わらない部分はありますね。育ちが悪くて
どうもすいません(笑)医者やカウンセラーは冷たい人がいいとお考えのような
ので、それは間違っているんじゃないか?と思っただけです。症状だけを診て、
その人を診ない今の現代医療は問題があると思います。「モノか」だ、いや「こころ」だではだめだと思います。「心」だけでもない。「身体」だけでもない
本当はその両方が大事じゃなですか?人間は死んだら全て灰になるだけで、何も
かも無くなってしまうとお考えですか?それとも輪廻転生(生まれ変わること)
があるとお考えですか?この事に関しては残念ながら解明されていません。
では、どちらの考えが人や社会を幸福にするかといえば後者だと思います。