中国人を馬鹿にし過ぎ

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またもTPPネタ。
但し本丸の方はもう決着したと言えるので枝葉の話 [1]

今回のTPPに纏わる報道を観ていて違和感を感じた一つに、消費者団体 [2] が「食の安全が脅かされる」とTPP反対を表明していた点がある。
これの根拠として中国製冷凍餃子中毒事件を挙げているという幼児性。
相前後して発覚した日本国内の食品偽装問題、食品汚染事件をみて分かる通り「信用できる業者と信用できない業者がある」という事実。これを延長して「中国にも」「信用できる業者と信用できない業者がある」という考えてみれば当り前の中学生にも分かる話になる筈が、どういうわけだか国境の外の話になると「中国の食品(農産品を含む)は全て危ない」という飛躍した話になる。

社会主義の負の面として、真面目にいい仕事をしようがいい加減に仕事をしようが同じ労働に対しての対価は基本的に同じという側面から、なるべく楽をして(手を抜いて)仕事をする方が賢いというモラル低下が共産党支配になってから顕著になり今もその余波が残っているのは確かで、この意味で総体的に比べたら「いい加減、または不正な仕事をする人および企業」は日本より中国の方がパーセントにして今までのところ高いであろうという推定はたぶん間違っていない。
ただここで注意すべきは「パーセントとしては日本より低いかも知れないが真面目にいい仕事をする人および企業はゼロではない」という点と「今までのところ」という点である。
実際ここ数年をみていると中国産の製品(農産品を含む)のクオリティーは眼を見張るくらいに向上してきている。
これは何故かというと簡潔に言えば「それで金になる」と学習した中国人が増えてきているからである。

実に粗い大雑把な捉え方ではあるが、その国の国民性というか、その国の国民(民族?)の大きなレベルでの行動原理が何に支配されているかというのを端的に言い表すと、中国は「金治」の国だと言える側面があり・・・つまり「金(経済)によって治まっている国」なのではないか?というのが私の見立てである。
日本では「拝金主義」と言うと99%悪い意味にしか受け取られないだろうが、これを「金に応じてプロフェッショナルに徹しようとする主義(または態度)」だと捉え直すならば「応分の経済的利得が確保される限りに於いて応分の努力、責任を果たす」という自由主義経済圏に於いての経済人としての実に真っ当な感覚なだけであると分かる筈で、この意味に於いて中国人は「拝金主義」であると・・・つまり悪い意味も含むだろうが良い意味でも拝金主義・・・言えると私は考えている。
つまり、以前の社会主義時代の悪癖から抜け出せないで相変わらずいい加減な金儲けをする者もまだまだ沢山居るが、「いい仕事をすれば金になる」と分かった者がいい仕事をし出して、その数も増えてきているということである。
以上は状況等を客観的に観察した私の推測に元々は過ぎなかったのだが、これを中国の企業を相手に取引をしている会社に勤める友人 [3] 、知人にぶつけたところ「大筋で間違っていない」という返事が返ってき、また「金になると判った途端に眼の色が変わる彼らの向上心も含む貪欲さには敬服するものがある」という意見も貰っている。

つまり私の言いたいのは、今までは確かにバカにされても仕方ない低レベルなことをやっていたのかも知れないが、いつまでもそのまま馬鹿にしている態度で正しいのか?ということである。
実際、この設問自体既に過去にものになっていると私は思っている。
つい4〜5年くらい前までは「日本の企業または個人が中国に進出してこの管理・監督下で操業していた会社は」という鍵括弧付きであったかも知れないが、今やそうではなくなってきている。

もう20年以上前の大学生の頃に読んだ大前研一氏の本に「我々はご飯をいただく時に “お百姓さんに感謝していただきなさい” と躾、教育をされて大きくなってきた。これが海外の農業従事者になった途端 “商社が買い付けてくる買い付け先” に過ぎないという態度は正しいと言えるのか? 安全で美味しい食品を我々に提供してくれているのなら海外のお百姓さんにも等しく感謝するのが当然なのではないか?」という意味合いの [4] 一節があったのを今でも憶えている。 この一文は、よく考えもせず(無根拠に)なんとなく「日本の農家は信用できる」と思っていた自分のその考えが「そうとは自覚無しに国粋主義的・民族差別的に発想していたこと」に気付かされ当時非常にカルチャー・ショックを受けた。
冒頭に引用した「食の安全が脅かされる」と表明していた消費者団体などは、またそれに喝采を送っている人達は、このこと・・・民族差別的、国粋主義的言辞であること・・・に気付いているのだろうか?
また真に「食の安全」と言うのなら、「安全基準、衛生基準が決められていく過程も含めて “見える化” し我々のチャックが充分機能するよう」に要望するのが筋で、TPP反対ではない筈。

念の為に付言しておくと、私はいわゆる媚中派ではない。上記の考察の通り「金にあまりにも敏過ぎる」ので個人的には好きにはなれない。
しかし、その金に敏過ぎるマイナス面だけを言い立ててプラス面を無視するのはフェアではないと思うのである。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. TPP是非論じゃないという意味で、この問題が重要じゃない枝葉末節の話という意味ではない
  2. の全てか幾つかだけかは知らない。そこまでちゃんと調べていない
  3. 月に何度も中国に出張している人。経営者も含む
  4. 一字一句正確な引用ではない

冷戦のツケをこんな処で払わされそうとは

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以下ページに池田信夫氏が要約を載せているが直訳過ぎて、『放射能と理性』を読んだ人ならこの直訳でも誤解無いだろうが、読んでいない人には誤解を受ける可能性があると思われますので老婆心ながら意訳を試みるというか、解説を交えた読み下しにします。参考まで。
(当該インタビュー上でアリソン教授が語っていない付加された文言は、『放射能と理性』を読んで私が理解した内容から付加したものです。また字幕も結構ラフなので英語が聞き取れる人は英語を聴くようにして下さい)
尚、そのままでも差し支えないと判断した部分はそのままにしてあります。

池田信夫 blog : 原発の被災者は帰宅させよ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51753116.html

  • 被災地に見られたのは被曝の恐怖。問題は被曝自体ではなく、被曝の恐怖。これはICRPの勧告が誤っていることが起因している。
  • 冷戦時代には、冷戦構造および核の配備を正当化するために殊更に「核の恐怖」が過剰に喧伝された。これ故(人々の恐怖心も過剰に醸成された故)許容被曝線量をできる限り低くすること・・・自然界のレベルになるべく近づけないと人々を安心させることは出来なかった [1] 。この要請から出てきたのがICRPの勧告である。
  • 今は虚構ではなく現実的に「深刻なリスクなしにどこまで高い放射線が許されるか」ということを考えるのを要求されている。
  • この現実的ケースで想定される許容被曝線量は現在の1000倍ぐらい高い。
  • その現実的想定で考えれば帰宅できる。避難している人々は全員帰宅すべきだ。
  • 日本政府はICRPに従って年1~20ミリシーベルトを基準にしているが、これはバカげた低い基準だ。
  • 毎月100mSv、つまり年1200mSv、現在の1000倍が適切だ。ICRPの勧告を変えることが私の重要な仕事だ。
  • LNT仮説は、「針の上で何人の天使が踊れるか」というような神学論争。医療の現場では、放射線を何回にもわけて照射している。これは閾値があることを前提にしている。

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LNT仮説について知らない人は以下を参照してみて下さい。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/search?q=LNT%E4%BB%AE%E8%AA%AC

——–[ 脚注 ]—————-
  1. つまり核配備を正当化するために「1000倍誇大に核の恐怖を煽ったがために、安全基準も1000倍誇大にしないとバランスが取れなかった」という虚構基準であるということ

改めてTPPには大賛成

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その後色々と勉強した結果、以前に書いた記事
楽観的TPP賛成論は嘘だ、が
の内容は一部誤解される可能性が低くない記述があると後日読み直して思いましたので補足かたがた訂正をします。
一番参考になった [1]のは以下

「食料自給率40%」は大嘘!どうする農水省|食の安全|JBpress
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4098

以下も参考に

「食料自給率40%」の虚構さえ見抜けぬマスメディアの不勉強 日本のマスメディアは「公衆の番犬」ならぬ「既得権益の番犬」か?
http://diamond.jp/articles/-/3878

池田信夫 blog : TPP参加による消費者の利益は生産者の損失より大きい
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51751984.html

「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは事実だが、大半(八割方)の農業は壊滅するだろう・・・
 「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは調べてみると、日本国内で生産している農産物で輸出できる付加価値性の高いもの [2] が結構あるという意味だけでなく、海外に出て行って最適地の現地農業従事者を組織&指導して国際競争力のある農産物を作るに至れる(つまりアグリカルチャ企業になり得る)だけの農業経営ノウハウを持っている農業従事者は結構居るという意味も含んでいると理解するのが正しいようです。
 また、引用記事中に「厳しすぎる国内の品質基準を国外市場の基準に合わせるなどすれば、輸出だってどんどんしていけるでしょう」とあるように、国産農産物がコスト高になっている一因は「過度に安全・安心を要求する消費者」が法的規制や安全基準(どちらも「過度の」)を要求してきた歴史の積み重ねにあると・・・つまり日本人自らが同胞の農業の国際競争力を奪っておいて農協の「自国の農業を守れ!」というプロパガンダにいとも容易く情緒的に同調してしまうのって激しくおかしくないですか? それも「安全・安心の美名の下に」・・・これって何かと似ていません?

脚注に書いた「TPP加入すると短期的には失業者が急増することはほぼ確実」も、その後調べていく内に「かなり怪しい」と思ってきました。 より正確に言い直すなら「TPP加入すると改善する雇用と逆に増える失業とプラスマイナス・ゼロで。この結果、短期的には今の良いとは決して言えない雇用情勢は横ばいのまま暫く続くであろう」という処が妥当のようです。

つまり、TPP自体は結構楽観視して良いみたいと、見解を修正致します。(さすがに池田信夫氏のように「大した問題ではない」とまではよぉ言いませんが)

と、ここまで書いていた處へ新たな記事が舞い込んできました。

農水省はなぜTPPをきらうのか : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1399407.html

あっそうか! 主要穀物は農水省が直接買い付けているという話、知ってたくせに忘れてたわ。あっそか、そっか、、、という感じ。

となると、将来世代(今の子供達以降)にとって活躍できる可能性であるフィールドは少しでも広い方が良いという当初からの考えは変わらないので、これを理由にTPPには大賛成。
この言辞は、TPPは端緒に過ぎず、将来的には中国、タイ、インドとその領域を広げて行って、より風通しの良い環境が出来ているという将来像を想定して言っています。

ここまで来るともう余談でしかないですが、、、以下も併せて読むと農協関係がプロパガンダを吹き込んで医師会 [3] も徒党に巻き込んでいる様が見て取れます [4]
日本農業新聞 e農ネット – 医療自由化目標 「入手していた」 米国文書で厚労相
 http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=10331

TPPで国民皆保険も崩壊し、医療難民が続出する | JAcom 農業協同組合新聞
 http://www.jacom.or.jp/column/nouseiron/nouseiron110214-12528.php

——–[ 脚注 ]—————-
  1. ソース的に信頼できると判断した
  2. 日本で生産する限り高コストは避けられないので高い値段でも売れる高付加価値のものでないと生き残れない。例えば魚沼産コシヒカリなどは生き残れると個人的に予想する
  3. 普段エビデンスにうるさい医師達がエビデンスが不確かなもので声明を発表しちゃうのもどうかしらん?と思う。医師一般の信用問題もなると思うのだけどな。
  4. つまり、医師会の云う「日本の医療崩壊の危険性」というのも大嘘

除染問題とイジメ

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 あまりに下らない内容の番組(ニュースも含む)が多いので、あまりTVを観なくなっているのだが昨日久々にニュースを観ると、除染することがいつの間にか既定路線になっていて、どの範囲を除染するのか、除染する基準値の話になっている。
[1]
文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)

池田信夫氏などが何度も指摘しているように、福島第一原発のごく近い範囲(以下マップの赤色および半径10km圏内)を除くと健康に害をもたらす可能性は事実上ゼロ [2]・・・つまり除染の必要など無い(除染を正当化する科学的根拠は無い)のにも関わらずだ。
 よく落ち着いて考えてみて欲しい。国や地方自治体が動き出すのを待てずに自腹で自宅を業者に頼んで除染している人が散見されるというニュースを。
洗い流した汚水は下水道を経由して最終的には河川に流されるので、もし危険なレベルで放射性物質がそこに在るのなら国または自治体がこれに待ったを掛ける筈である。

池田 信夫:除染の前にLNT仮説の見直しを : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1381861.html

日本の「被曝限度」は厳しすぎる:日経ビジネスオンライン
オックスフォード大学ウェード・アリソン名誉教授インタビュー
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20111012/223166/

放射能と理性 なぜ「100ミリシーベルト」なのか (著)ウェード・アリソン 除染を正当化する科学的根拠は無いという点に関しての詳細情報は引用したページ(及びそこからリンクしている関連ページ)を参照して頂くとして私のしたい話は別の処にあります。
除染をして欲しいという福島県中心および近隣地域の人の気持ちは人情として分かります。何か得体の知れないものが付着している環境で暮さないといけない気味悪さ、気持ち悪さ [3]

 しかしよくよく考えてみると、科学的根拠が無い・・・つまり「実害が無い」もの・・・にムードや気分(つまりは感情=主観)で拒否反応しこれを忌み嫌う行動様式というのは、学校等で「○○キモい!」 [4]とイジメの行動の一環で「ああ!この鉛筆○○が触ったから、もう使えないわ!」と言ってゴミ箱にポイと捨てる、「この席、○○が座ったから座るの嫌だ!」と言って違う場所に座る・・・などの行動様式と根っこの部分で一緒だということです。
これは当然、風評被害を醸成するもの(マインド)にも当て嵌まります。
「風評被害だ!」と自分たちが被害者側に回るケースに於いては言い立てておいて、その同じ口で「除染!除染!」と言っている、そのご都合主義さに気づいて欲しいのです。
論理的にそうする正当性がないのに排除・排斥をしようというのは当然「差別」とも密接に関連します。

 この原因として福島第一原発事故の遥か以前から家庭衛生商品を売っているメーカーが「滅菌・殺菌商品」を売る一環で「身の回りには目に見えないけども、これだけ沢山のバイ菌が在るんです! [5]」とCM内で、CMを出稿している番組内で取り上げさせて人の恐怖心を煽って、これに付け込んで商売をしているというのも挙げておくべきかと思います。
身の回りに目に見えない多くの細菌が棲んでいることは嘘ではありません。事実です。 事実ですが、では、これがどの程度を超すと健康に悪影響があるのか、逆にどの程度までは事実上無害で気にする必要が無いのかという話は綺麗サッパリ抜け落とさせて、「細菌=汚い、不衛生=身の回りから排除すべき」というイメージ誘導をしているという点に注意を払わないといけないのです。
 少し本題から逸れますが大事なことなので記述しますと、「細菌類は問答無用に排除すべき」という考え方は医療現場でも過去のものになってきています [6]。 イソジン等の消毒液は人体に共棲している定在菌まで殺してしまう事から寧ろ傷の治りを遅くしたり、傷の治り具合が汚くなるなどが判ってきていて、褥創(いわゆる「床ずれ」)などにも生理食塩水または精製水で洗浄するのがスタンダードになってきています。 また、身の回りの細菌も、掃除機を掛ける、拭き掃除するという常識的程度以上に滅菌、殺菌しない方が、程良く細菌が居ている方が(特に乳幼児の場合)免疫作用が日常的に程よく刺激されることから寧ろ健康に益するということが判ってきています [7][8]

 話を本題に戻して、福島県中心に近隣地域に微量とは言え放射性物質が降り注ぎ残存しているのは事実です。が、この量は冒頭に述べた通り大半の地域で健康に悪影響が出る可能性は事実上無視出来る程度の小さなものです。
 この「小さな差異」を許容出来るかどうかの問題。 このマインドの問題は先に述べた通り「差別」を醸成し助長するのと共通するマインドの問題です。

 経済的問題 [9]として除染に反対し警鐘を鳴らしている知識人は多く居ますが、これは心理学的観点での問題でもある点を私は指摘したいのです。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)より引用
  2. 塩分の摂り過ぎ、肥満など日常的にありふれたリスクを下回るので事実上無視出来るという意味
  3. これ自体無知から来ているものだという点には注意を払って欲しい
  4. ○○にはイジメの対象の個人名が入る
  5. 細菌という言葉よりバイ菌という言葉を好んで使っている点に注意
  6. イソジン等の消毒液を傷口に消毒に使っている不勉強な医師は未だ残っていますが
  7. 犬猫等を飼っている家庭とそうでない家庭との比較で疫学調査をした結果アトピー発症に有意な差があった。など。但し、何れもアトピーが発症してから後にその環境にした場合の有意性はかなり低下するとされる
  8. 余談の余談ならが、微量の放射線は寧ろ健康増進なるという説もあります。また、上述の細菌類と免疫の関係からの(少し飛躍した)類推仮説として「限度を超えない範囲での微量の放射線に曝されている方が、それに相応する体内の防衛機序は寧ろ高まるのかも知れない」と言える気がしないでもないです。
  9. 除染費用は将来世代に重く伸し掛かる負担であり、これ以前に既に莫大な財政赤字(借金)を抱えているのに加えて負担増をするのは言語道断

確かに理性ではない何かが反応している

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この記事及び、この記事の元になっている記事それぞれのコメントのやり取りも含めて全部読んで、、、
確かに “論理的” には車内での携帯電話通話をあんなに忌避する合理性は認められないと思う。
論理的ではないなら感情・情緒の問題だと思われる。 実際、筆者に執拗に反論を加えようとしてる方々のコメントは総じて感情的だ [1]

未だガラパゴス化を撤回できず – 政治・経済・医療・地球温暖化の常識に挑戦する – Mutteraway 時事問題 を語るブログ
http://bobby.hkisl.net/mutteraway/?p=3955

日本人の感性はガラパゴス化している – Mutteraway 時事問題 を語るブログ – BLOGOS(ブロゴス)
http://news.livedoor.com/article/detail/5922594/

直感で大胆に予言するなら、多くの日本人が車内等公共の場での携帯電話通話に強く忌避感情を感じるのは、

セックスを代表格とする「秘め事とするべきわたくしごと」を捉える脳部位が反応しているのだろう。


だ。

何でかは現在のところ思い至りませんが、兎にも角にもあの直情的とも言える忌避反応は、こうとでも考えないと説明が付かないと思われます。
脳科学に疎い人には信じられない事なのかも知れませんが、「〜と考える」から「〜という脳反応が起こる」のではないケース・・・つまり脳反応が先にありきで、これを正当化する理由を後から付けているケースというのは割と多いというのが脳事情の真実で [2]、この事を知っていると、あの後から付けた臭さを感じる携帯電話通話を否とする理由一連もこれである可能性が低くないと思うわけです。

脳内のマッピングを検証している学者の方、どなたか検証をお願い致します。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 感情を論理でドレスアップしているが
  2. 脳反応が在って初めて考えというものが生まれる → つまり「思考というのは脳反応に先んじれない」ので自覚できないから

再分配の再分配というブラックジョーク

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1999年以降急速に広まり認知され、一時は流行語にもなり今では一般用語としてすら通用するようになった「パラサイト(・シングル)」という概念。

大前研一氏がBBT757chはじめ日経BPの記事等でも最近(ここ半年)触れているように、未婚若年層は最早パラサイトしないと結婚資金を準備するのもままならないとのこと(結婚したければパラサイトするしか道がない)。

池田信夫 blog : 効率より公平
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51473507.html

もう1年以上前のエントリーだが、この記事の分析が正しければ(多分正しい)、未婚若年層どころか既婚子持ち世帯もパラサイトするのが最早合理的ということになる [1]

「親孝行を促すために巧妙にシステム・デザインされている」・・・と言うのはブラックジョークだ。

そのブラックジョークが現実という更なるブラックジョーク。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 現状追認の不本意な結果論でしかないが、そうすることで不公平な再分配を再分配し直すことで辛うじて均衡が保たれてるであろうということ

必要なのは税収(実金額)増である筈

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http://agora-web.jp/archives/1389281.html
高額所得者と高収益企業に対する大減税をするだけで日本はアジアで圧勝できる : アゴラ

大前研一氏が25年以上前(大学生の時に文藝春秋の記事で目にしたのが最初)から主張し続けていることですね。
引用記事にも書いてある通りで「フェアな税金なら脱税やトリッキーな節税などせずに全てをそのまま申告した方がいいので」寧ろ税収は増えるということ。

あの当時はまだ空理空論だと鼻で笑う識者も少なくなかったですが、レーガン大統領時代のアメリカ、サッチャー首相時代のU.K.、そして最近のロシアとこれを実証した国(それも小国ではなく大国)が出てきて今や常識と言える段階に。

これを25年以上前に既に大前氏が提言できたのは、実際の世界のトップの経済人とナマで関わってきたからでしょう。
(「彼らは非常にシビアだ。シビアだから無駄なコスト、無駄な出費は絶対に避ける。かといって、一円たりとも税金は払いたくないなどという反社会的で非常識な人間は少ない。応分な負担だ、妥当な額だと思った税金は喜んで払う。妥当だとは思われないから徹底的に対抗策を講じるだけだ」というようなことも言っていたと記憶しています)

狂人と賢者を分ける線

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かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?: 竹林の国から
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-6d73.html

 この記事が参照とし、この記事を書く発端となったと記事中に明記している
「池田信夫 : 脱原発という「空気」 : アゴラ → http://agora-web.jp/archives/1382641.html」
へのトラックバックから池田信夫氏が「一読推奨」とtwitterで本記事を紹介していたのに機会をもらって読んでみた。

 その主論旨は主論旨で「なるほどなぁ」と考察を深める良い情報を与えて貰えたと思うのだが、それはそれとして心理カウンセラーとしての視点として、この本文中に述べられている「自己義認 [1](自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神 [2]、」を設定 [3]し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義 [4]するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくりであるという点に注意がいく。
 だからといって、明治維新の志士たちが統合失調症だったとか、戦時中の軍部(少なくともいわゆる青年将校たち)に統合失調症者が含まれていたなどという、そういう安直な話なのではなく。
 その結果状態は異常と言わざるを得ない統合失調症であるが、その機序のそもそも・・・統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い・・・という観点から、社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に [5]、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか? 個人的見解の域は現在出ていないが、これは多分「イノベーションを生み出す能力の呼び水となる力動」になり得るものであろうと考えている。
この考えが正しいなら、その結果を分ける分水嶺を見極める智慧はないものか?もし、それを見極めることが出来たなら破壊的改革 [6]を避けてイノベーションを拾える機会を社会的に増やすことが出来るのであろうと、希望的観測混じりではあるが、こういう問題提起が出来るのである。

 これについて、どうこう一ヶ言を述べれるほど考えは纏まっていないので、これは自分自身に対しての問題提起でもある。

 

 また、先日書いた記事「“個” の思想は欧米礼賛なのか」で述べた、あの時代(太平洋戦争に向かう前駆的時代)に、そしてややもすると現在でも、誤解というよりは無理解に近い誤彪を犯している「“個” の思想」に対する誤った理解が、どう誤っているのかの一端もここで読み取ることが出来る。

その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」
 これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

彼の言葉を援用して私の言いたかったことを再構成すると、「自己義認」認識の自己のそれぞれが主張をするという構図・・・引用記事中に云う「プロテスタント病」・・・が「“個” の思想」だ、と誤彪しているフシが少なからず日本人の間に散見されるということである。
これだと確かに疲れるし、カオス状態である。このカオス状態を治めれるのは「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」になってしまう。
そうならない社会を目指すのには真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付けることが大事なのではないか?ということである。

これはC・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセスに他ならないのだが、「意識化」「個性化」の意味を神秘主義的オカルトなものに曲解、歪曲、捏造したものを喧伝する者が後を絶たないので、C・G・ユング自身の思想、主張自体が神秘主義的オカルトなものであるように広く世間一般に思われているのは実に残念、、、いや残念を通り越して憤りさえ覚える。 [7]

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「義認」とはキリスト教の中核概念で「神により義とされる事」(教理的解釈は教派によってかなり異なる)であるが、ここでは「自分自身(自己)によって自分自身を義とする」・・・「暗黙に自分自身を神と前提している」という意味で使っている
  2. 世間一般の通念での「神」であるとは限らない。神格化しているものは勿論、そうであると意識されていなくても事実上神同然のものも含む。「およそ “~ism”(主義)と名の付くものは全て宗教である」・・・C・G・ユング
  3. 具体的実在から最適と思わるものを選択する場合と仮想的、夢想的なものである場合を含む
  4. 「私の奉ずる○○(神、天皇 etc)は絶対正しい。何故なら絶対正しい私の奉ずる○○だから。故に私は絶対正しい。何故なら奉ずる○○が絶対正しいから」という完全なる循環論法。なので本文中では「発端」という言葉を使ったが、これは文章構成上の都合で使ったに過ぎなく、実はどこが発端なのかわからない
  5. 我々人間は我々自身を一個の生命体だと考えがちだが多数のモジュールが集積重合したもの…という話はあるが今は話題が逸れるので機会を改める
  6. 改革のつもりが破壊に向かってしまう致命的誤り
  7. この点に興味のある方はC・G・ユングの原著(訳書で構わない)を是非読んでみて下さい。間違っても「ユングの解説書(除く:林道義氏のもの)」は読んではいけません。

“個” の思想は欧米礼賛なのか

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 気になる(流すわけにいかないと思う)tweetをタイムラインで見付けたのでコメントするです。
 このつぶやきを発したご当人個人をどうこう言おうというのではないので発言者は明記しません。

みんながみんな「やりたいこと」を見つけなきゃならない社会、みんながみんな「個」を主張しなきゃいけない社会って、息苦しくないか?この記事のような欧米の価値観礼賛が逆に日本にニートを生んできたのでは。http://www.madameriri.com/2011/09/12/

 この発言の何が気になるか。それは、こういう「欧米に追いつこうとしている(欧米を手本とする)日本」という構図で日本社会を捉え「西欧的 “個” の思想ってそんなに素晴らしいものか?」という懐疑を投げ掛ける発想というかマインドというか、、、これが「太平洋戦争に向かう前駆的時代にも出現していた “時代のムード”」と一緒だという点です。
 明治維新以来欧米を倣いとして、その思想、精神、マインドを身に付け国際的に通用する国になろうとしてき、それの意味を見失い出したあの時代、「西欧的 “個” の思想でなくてもいいんじゃないか?」「西欧的 “個” の思想以外にも一流国になる思想・・・そう! 日本的 “協和” の思想ってのがあるじゃないか」と、社会主義的思想の強い勢力が軍部の実権を奪取しつつあったのに結果的にせよ加担した、あの時代の一般大衆の多くが「空気」として共有していったムード。これと似ていると思うからです。

 いま「意味を見失い出した」と書きましたが、これは正確には「西欧的 “個” の思想の何たるかの本質。また、それを獲得することの意味を、そもそも理解していなかった。表層的にしか・・・着物を捨てて洋服を着用し出したのと同じ程度でしか・・・理解していなかった。これのメッキが剥がれだして “何も理解していない” ということが露呈し始めただけ(つまり最初から見失っていた)」だと言えます。
 上記引用の文面に「欧米の価値観礼賛」という捉え方が表出されているわけですが、これは今述べた「憧れて洋服を着てみただけ のマインド」と同類だと、「一旦暫く着てみていたけどしっくりこない。しっくりこないのはこの服が良くないんじゃないか? 服が間違っている、きっとそうだ」と言っているだけの “Sour Grapes” だとわかると思います。
「逆に日本にニートを生んできた」という点は一理あると思われる点ですが、これは “個” の思想が誤っていたのではなく上述の通り、その本質を理解し体得しようとせず上っ面の形式だけを追い掛けていた(その誤った理解の上で教育を施してこられた)からいつの間にか空回りして自分の足場を見失った人が少なからず出てきたと分析するのが正しいと思われます。

 現代に生き残っている「”個” の思想」というのは端的に言えば、主に19〜20世紀の2世紀に渡って国際化していった世界で生き残るために発達してきたセオリーであると思います。 これが歴史的にたまたま欧米が繁栄の中心だった時代に勃興したので、それが「=欧米の思想」ということになっただけ。なので「欧米礼賛」という捉え方自体が、表層的理解しかしていないと自ら語っている言なわけです。

 つまり大事なのは、それが欧米由来のものであるかどうかなどではなく、それが国際的に生き残っていくためのセオリーとして「どう使えるか」「どう使うべきなのか」また「それを使いこなせるほど我らは習熟できているのか」なのです。

もちろん、「国際的に生き残っていくためのセオリーは他にあるかも知れない」という設問設定は当然出来ますが、それの理解、習得、習熟を充分に出来ていない内にそれ自体にケチをつけ出すのは褒められた言動ではないので大概の場合、褒められたものではない結果を生み出すというのは弁えのある大人ならわかると思います。「それを使いこなせるほど我らは習熟できているのか」とはつまり「それを否定できるほど我らは習熟できているのか」だからです。

 時代の符合という意味では、あの時代・・・自由民権運動〜二大政党政治という流れで、その内実は二大政党がそれぞれの支持利権団体の権益拡張合戦に官僚も加わって利益分配談合を繰り返していた揚句に一般国民から信用を失い見限られて、、、その醜い政争を繰り広げていた時代に関東大震災、昭和金融恐慌、昭和恐慌、世界恐慌という歴史的大事変も起こっていたという点。 だから、またぞろ世界恐慌(リーマン・ショック以上の)が起こるなどと、まことしやかに歴史的必然論を説いて恐怖、不安を煽る愚サイトと同じ愚はおかすつもりはないです。
が、あの時代、日本を無意味な戦争へ導いた一つの要因は、上記で指摘した「”Sour Grapes” で自己正当化して悦に入っているマインド」を社会の流れを作る閾値以上の人が、しかも「ムードとして(空気として)」共有した結果だということは肝に命じて欲しいのです。
 もっとはっきり言えば、これは「間違ったナショナリズム」「歪んだナショナリズム」を社会に醸成すると危惧するということです。

2011年9月19日午前9時44分追記:文意がより通る言い回しをアップ後に思い付いたので一部訂正、加筆しました。

なぜ安全性を自分たちで担保しないのか

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予め断っておくと私は大阪在住なので以下は関西電力に関しての(に向けた)話です。
とは言いつつ、東電管内の話とは事情が違う部分もあるだろうが本質的問題としては同じなのではないか?と思いつつ書きます。

「関西電力からの節電のお願い」というCMが毎日流されている。
TVのニュースで毎日の電力需給予想も告知されている。

これを観て、「実際問題として節電が必要とされている切迫した状況にあるという話ではなく、ムードとして”電力供給が逼迫している” かのようなイメージを流し → 稼働停止状態にある原子力発電所の稼働再開を実現しないと “近い将来困った事になる” との連想を促し → 停止している原子力発電所の再稼働も止むなしという “ムードとしての世論” を誘導しようとするイメージ操作だな」と感じるのは私一人ではないだろう。

「稼働停止状態にある原子力発電所の稼働再開を実現しないと “近い将来困った事になる”」という、これ自体は嘘ではない。事実である。
問題は、この汚い、卑怯と言っても良いやり口である。

私が関西電力の経営者なら、以下を実行する。

  1. 今まで(福島第一原子力発電所事故以前)に既に取り組み実現している安全諸策
  2. 福島第一原子力発電所事故を受けて、1の内容についての再吟味結果
  3. 福島第一原子力発電所事故を受けて、1以外の”見落とされていた点”, “新たに見つかった問題点”

を洗い直しさせ。(第一段階)

これに対しての具体的改善策の実施。(第二段階)

これらを総括して一般市民に向けて情報開示
→ 抽象的に「安全対策を致しました」という無意味な安全宣言はなく、微に入り細に入り「この問題点に対してはこれこれこういう対策を実行しました」「あの問題点に対してはこれこれこういう対策を講じました」と具体的事実を列挙した報告。(第三段階)

ここで大事なのは、第二段階だと、そのイチイチを経産省、原子力安全・保安院に「これは実行したほうが良いか」「実行しなくても差し支えないか」とお伺いを立てて決めるのではなく、寧ろ原子力安全・保安院が「実行しなくても差し支えない」と言っていても自社の判断として実行したほうが良いと判断されたことは実行するという姿勢である。

そして第三段階、ここが一番重要なのだが、「これこれこういう安全基準を満たしましたから再稼働を許可する方向で動いて下さい」と国の方を向いてロビー活動をするのではなく、一般市民の方を向いて「これだけの事をしました。また今後こういう方針、指針で運営していきたいと思いますので、再稼働に賛意を示して下さい」と大々的に広報するのである。 この為に番組枠を買って広報番組を流しても良い。

冷静に状況、情勢を観察していれば、今の「ムードとしてのなんとなくの反原発」は、本来は第三者機関として原子力運用の監督、監視、勧告、支持、助言を的確に行なっているべき原子力安全・保安院は「監視機関として全然まともに機能していなかった」という事実、それは結局、独立第三者機関とするべきなのを経産省の外局である資源エネルギー庁の下部組織にしていた・・・つまり経産省の意向に沿った範囲でしか動かない組織であるということ(事故後、記者会見していた担当官は直近まで特許庁に出向していた畑違いの人間であるのは有名な話である)・・・このことが国民に広く知れてしまったことから経産省の「原子力行政全般に対する不信」がその正体なのだと分かろう筈。
であるならば、幾ら改善策を施そうが、また、その改善策が実際に有効なものであっても、これを国民から信用されていない経産省、原子力安全・保安院の方を向いて行なっている限り、一般市民からの信任は得られる筈はない。

反対に上述のように一般市民に向けて充分納得の出来る説明を行なってその説得に成功し、これによって形成できた世論を以って「これだけの一般市民の信任を取り付けました」と経産省、原子力安全・保安院に迫ったら、彼らとて首を縦に振らざるを得ないであろうし、もし万が一、経産省、原子力安全・保安院が難色を示しても既に世論は味方に付けているのだから、監督省庁としての威権を守ろうとする官僚体質の愚を正面切って批判できる。(ひいては官僚の構造改革も迫れる)

電力会社が生き残りたいのなら、これが正しい戦略である。

私個人は電力自由化推進賛成派なので、既存の地域独占の状態で電力会社には残って頂かない方が良いわけなのだが、「形だけ民間企業その実態は公社」と言われてきた体質を改善し本当の意味で企業として自らを再定義し直し価値を高める、この意味で今の状況は「最大のチャンス」なのですよ。関西電力の経営陣さん。

2012年1月17日0時35分:表記間違い「誤:福島第二原子力発電所」を「正:福島第一原子力発電所」に訂正

楽観的TPP賛成論は嘘だ、が

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TPPは日本の敵か – 『日本経済の底力』 : アゴラ
池田 信夫
http://agora-web.jp/archives/1377827.html

農水族の云う農業保護は「農政(に纏わる既得権益)保護」でありこれの共同正犯である「農協保護」である。
「マレーシアから持ってきたウナギを、浜名湖で1週間泳がせたら浜名湖産のウナギになる」・・・国産だとしてよいという欺瞞的手法がまかり通っているというのは大前研一氏などがかなり以前から指摘しているところである。 → http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/107/
この欺瞞的手法の上に乗っかって今や一大流通業化しているのが農協の実態。
引用元本文にあるように「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは事実だが、大半(八割方)の農業は壊滅するだろう。
但し、この八割とは「本当ならとうの昔に滅んでいて当然の、補助金、優遇税制によって農家のフリだけしていた偽装農家」であるので、こんなもの国の政策として守るべきものである筈ないのは自明。

もちろん私はTPP加入賛成派だが、TPPに加入するのがバラ色の未来を約束ものであるかのように言っている人があるなら、これは「大法螺吹き」の誹りを免れない。つまりTPP加入はバラ色の未来を約束するものではないということだ。
「先に光明の無い閉塞状態」と「先に光明がある混乱状態(*1)」とどっちらがマシかという選択である。

生の全体性と充実は苦しみと喜びの釣り合いを必要としている。 しかし苦しみは実際不快であるので、誰でも人間がどれくらい不安や心配をもつがいいのかを考えないようにするのが適当である。 それゆえ、苦しみがある程度まで十分にないと幸福も毒されてしまうということを考えてみもしないで、つねに改善や夢のような幸福について口当たりよく語られるのである。

C・G・ユング『心理療法論』所収「心理療法と世界観」みすず書房/林道義訳 P71〜72より引用

楽観的見方を避けるなら、その利益を享受できるのは今の子供世代が社会の中核を担うようになった頃だろうと個人的には思っている。
この点を加味するなら、経済学者が政治・経済の範囲外に言及しないのは当然としても、教育関係者から「その時」に備えて真に国際的に通用する人材を育てる必要性の話(今までのお題目だけのエセ・グローバリズムではない)が出てきて当然だと思うのだが、今のところそういう話は聞こえてこない。

今の大人達が自分達の幸せ(既得権益)を近視眼的に死守するか、子供達の未来のことを考えるか、どっちなんだ?という話でもある。
再度言うが、TPP加入はバラ色の未来を約束するものではない。が、チャレンジングなフィールドを若者達に提供することになる事だけは確かだと言える。
チャレンジングなフィールドを与えるだけでも若者の有り様が変わってき、ひいては社会全体の活力を取り戻すことになるのではないだろうか?

  1. TPP加入すると短期的には失業者が急増することはほぼ確実。

現象としての男女差別を駆逐しても女性は幸せになれない

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池田信夫 blog : [中級経済学事典] 評判メカニズム
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301157.html

まぁ、だから日本のこれまでの雇用環境は「女性差別 “的”」なのだな。
気を付けて欲しいのは、これ自体が女性差別を企図して制度設計されているのじゃないという点。
そのメカニズムが、主には結婚や出産に伴って生活スタイルを含む生き方を直線的硬直的に維持し続けることが難しい女性は「途中退出(寿退社、出産退社)」せざるを得ない、そういう排除のメカニズムとして働いている面を結果的に内在させている以上でも以下でもないということ。
いま「女性差別」とは書かずに「女性差別的」と書いたのはこういう意味である。

こう言うと、途中退出のリスクを女性側に一方的に皺寄せている現実は「やはり女性差別だろ?」という意見をもつ人は居るだろう。
これが事後的女性差別になっているという点は私も同意するので、この点は否定はしないが、男女ともにこの皺寄せ(リスク)を平等に被ることにすると男女共倒れになるので、出産を担うのは必ず女性側であるので「じゃない方」である男性側を残す戦略的選択に過ぎないのである点は見落とさないで欲しい。
(武家のそれとは違う「女は家庭を守る役目」という価値観は明治以降の近代化と共に出てきた比較的新しい考え方である)

さもなくば・・・この皺寄せを被るのは勘弁だと女性側が言い出せば・・・結婚、出産という事象自体が忌避事項になる。 [1]

この雇用メカニズムを前提とする限りこういうことになる。
このメカニズムは当然、結婚、出産等で労働環境から一旦離脱した女性が子育てが一段落した段階でまた働きたいと希望しても、これに十分な機会が与えられないという現状を作っている原因であることは言うまでもない。
(引用元記事を読めば分かる通り、男女関係なく途中退出者の復帰を著しくシャットアウトするメカニズムである)

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 実際そう考える女性が増えて、男と同等=男化に扱われるのを選択するのと引き換えに結婚、出産を忌避するようになってきている。これ故に以前からフェミニズムの運動の殆どは「真の意味でフェミニズムではない」と言ってきているのだが、この雇用メカニズムが出力する結果女性差別を捉まえてそこだけを是正しよう(対処療法)とすると女性を男性化させるだけ(男性化しない女性を「時代遅れの駄目な女」レッテル貼りをする場合も)で終わる、だから今の男女共同参画思想は駄目なのである。更に、女性が男性化して労働者として見込める絶対数が増えれば労働市場は買い手市場になる。企業側が男女共同参画に熱心なのはこれ故であって真に男女差別問題に取り組もうというのではない。

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