これを幇間話法と名付けよう。
元官僚の古賀氏の発言が不穏当(または不適切)だとの批判が集中しているが、この動画を見る限りに於いて問題なのは古賀氏であるよりもこの玉川徹って野郎(および雇い主であるテレ朝)ですぜ、皆さん。
過去にTVの取材を何度か受けた経験から、ここで池田信夫氏が述べている通り「言わされてしまった」可能性が高いと思う。 彼らの取材の仕方の定石として
「もし、仮に、、、”仮に” ですよ。仮定として、可能性として “こういうことが考えられる” という、あくまで仮説として○○ということは考えられませんか?」
(○○の部分は具体的に述べてしまうと,後で「あれは言わされたんだ」と言われてしまうと拙いので、あくまで抽象的に匂わせるように、あくまでぼかした、だが確実に匂わせた言い方をする)
と自分たちの言わせたい(言って欲しい)コメントを言わせるよう言わせるよう、しつこいくらいに誘導的訊ね方をする。 [] 更に都合の良い部分だけを編集で切り貼りするのは周知の通り。
とはいえ、官僚時代からこういう彼らを相手した事ない筈はなく、誘導的訊き方をする事は知っていない筈のない古賀氏の場合、迂闊との非難は最低限逃れ得ないだろうが。
冒頭部分の玉川徹のことばを書き起こしてみる。
つまり、だって関西だって、例えば、もしかしたら、国民感情の反発とかがあってね、原発動かないかも知れないって、私だって思ってた訳だから・・・だったら供給責任があるんだから、こっち(筆者中:関西電力)だって増やしておかないといけないんじゃないかなと、いう風に、思うのが普通だと思うんですけども・・・
こう書き起こして「書き言葉」になると「あれ? なんか詭弁」と分かるのですが、ここが「話し言葉」の怖いところ。
巧妙なポイントその1・・・断定を避ける
注意深く観れば(聞けば)分かる通り、この玉川なる吾人は一切断定を巧妙に避けている。曰く「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」・・・。
巧妙なポイントその2・・・「私だって思ってた訳だから」
これを幇間話法と名付けよう。 「私だって」つまり「私ごときが」 → 「私程度の人間でも」 → 「私程度の低レベルな人間でも」そう思ったのだから、私より賢い皆さんが思わない訳ないですよね。と相手の自尊心を楯に取って「いや、違う」と言い難い空気を作って封じておいて、同意したかの如く話を先に進める(実は同意していないのだが同意したような気分にさせられてしまう → 「Noと言っていないのはYesの意思表示論法」)。
しかも、これはポイント1の「断定を避ける」と組み合わさることで巧妙さを増す。つまり「私は断定できるほど賢い人間ではないのでああいう言い方をしたけども、あなたは賢いのだから・・・後は云わなくても分かりますよね?」と言外に言っていると仄めかしているのである。 インテリぶりたい虚栄心の強いプチ・インテリほどこの仄めかし(誘導)に乗せられてしまいやすいのは、ご想像の通り。 []
これは(男性もするが)女性が用いることの多い話法で、曰く「国立大学を卒業なさっている○○さんは、三流私大出身の私なんかより世の中のこともよくご存知でしょうから、こんなこと知らない筈ないですよね?」という風に。だから引用の記事にての池田氏の「専業主婦」云々は不穏当で非難を呼びやすい表現であるかも知れないが言っていることは強ち間違っていない。 普段からこの話法を使い使われして適応している人ほど、この話法の罠にはまりやすいので、主婦層をメインターゲットにしているこの手の番組でこの話法を使うのは合理的と云えば合理的。
巧妙なポイントその3・・・「だったら供給責任がある」
この前段までは「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」と仮定(実際には話者>玉川徹の私見、予断)だった筈の話が、この「だったら」という接続詞を用いることで既定事実であるかのように印象がここで変わっているのに気付かれただろうか。 更にこれに「供給責任」という言葉が結び付けられていることで「供給責任があるのだから、”もしかしたら、国民感情の反発とかがあって、原発動かないかも知れない” と考えて当然だ」と帰納的に考える誘導をされているのである。 これは論理的には正しい帰納ではない(つまり帰納でもなんでもない)。のだが、この手の誤った帰納は情緒に於いては寧ろよくあることなのである。
では何故、こういう論理的に考えられればおかしいと気付く論法にまんまと引っ掛かるのか。それは「人間の脳内の情報処理は論理に依るより “イメージに” “より根源的に依拠” するから」である。 論理はあくまでイメージを事後的に整理、分類、分析するための補助機能でしかないのです。
上記3ポイントを駄目押しする「のが普通だと思うんです」
この「普通」という言葉。 通例、「自明なこと=改めて説明するまでもないほど明らかなこと」を述べる時に使う接頭辞で、この点に於いては洋の東西を問わず共通。 英語でも「ordinary」「commonly」「normally」という表現があるが、欧米圏では自明であるとコンセンサスが成立していない事象に対して迂闊にこれを使うと即座に「お前の云う “普通” とは何に基づくのか?」「何を称して “普通” と云うのか?」「”普通” と云って良いほどコンセンサスは成立していないと思うが?」と突っ込まれる。
欧米圏のようにきちんと明示的にコンセンサスを積み上げる文化の脆弱な日本でも「自明な事=普通」という表現が使われるのは論理的に考えればおかしいことであるが、日本人>同質幻想に基づいているのだろう。
ここまでの私の分析を読んだ上で古賀氏のインタビュー部分だけを観たら、随分印象が違ってくると思うのだが、どうだろうか?
再度繰り返すが、如何に誘導されたにしても、ここまで言ってしまった古賀氏は批判されて当然である。この点は誤解なきように。
原発関連で、この手の詐術的、欺瞞的レトリックを駆使している一番有名人である安冨歩と同時期に京大に通っていたのは単なる偶然だろうか?
以下 wikipedia より
玉川徹
1987年、京都大学農学部農業工学科を卒業し、1989年、京都大学大学院農学研究科修士課程を修了
安冨歩
1986年 京都大学経済学部卒業
1991年 京都大学大学院経済学研究科修士課程修了
1993年 京都大学人文科学研究所助手