「空気」の汚染の方が遥かに怖い

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前から、そして今も思っていることなのですが「氏名」「住所」「出身校」・・・この程度の情報が果たして「個人情報」なのか?という疑問。
いや、個人情報と言えば個人情報の内です。確かに。
ではありますが、他人に知られて特段不都合がある、この意味での「プライバシー」という範疇に入れて良いのものなのかどうかという疑問です。

この10年くらい、この「個人情報:プライバシー」というものにヒステリックな過剰防衛的に世の中全般がなっているという実情があり、これってよくよく落ち着いて考えれば結構というかかなり異常なのではないか?と思うのです。

あなたがよほど有名人・・・特に芸能人であるとか・・・であるなら何処に住んでいるのか知られるとストーキングの心配があるとか、分かるのですが、一般人が何処に住んでいるか知られた処で、先ず以てそのこと自体に興味を示す人は皆無に近いと言えるし、況してやストーキングの心配など交通事故の被害者になる確率より低いと断言できます。
一般人がストーキングに遭う可能性があるのは「それ以前に何処の誰で何処に住んでいるのかを知らせている相手から」であり、「何処の誰かも知らない見ず知らずの人から」の場合は限りなくゼロに近いと断言して良いと思われます。

「一般人が有名人並みに自意識過剰になっている」と言えば言いすぎでしょうか? [1]

この「私」という「自意識過剰」さは、いま巷に蔓延している放射用汚染に対する “非科学的” かつ “非論理的=感情的” な「安心と安全を混同した [2]」ヒステリックな反応と根っこの部分は同じなのではないか?と思うのです。
実際「汚染」と呼ぶには余りにも笑止なくらい微量の放射性物質が飛散したに過ぎないわけで(以下に引用の画像中の赤色および非彩色の10km圏内を除く [3])。文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)

中島聡氏の「空気」論法 : 池田信夫 blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51747180.html

「私」を最大限拡大した「人の命」論法は、この(昨今の)日本人の多くが持つ自意識過剰さを心地よく擽り「悲劇のヒロイン病」に仕立て上げる。
いや反対に、「悲劇のヒロイン病」にいつでも罹患できる素地である自意識過剰さを持っているから、「私」を最大限拡大した「人の命」論法に簡単にコロっと騙されるのだ。と思います。

さようなら大江健三郎 : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1378824.html

今は表舞台から姿を消した上岡龍太郎氏が20年以上前から言っていた言葉を思い出します。

それ自体は本質的に正しいので誰も正面切って反論を加えにくい、誰の目にも明らかな倫理則、道徳律・・・「親を大切にしましょう」「人の命は尊い」「子供達の未来を…」「愛」「平和」「人権」・・・という言葉を正面切って主張する人間は信用してはいけない。当人は正義のつもりで言っている場合が特に危険である。

この自意識過剰さは真性の意味で自意識過剰なのではなく実に歪んだ病的な自意識過剰さであることは、本名登録であるFacebookが、全世界的には凄い規模で支持され拡大を今なお続けているのに比して日本では敬遠する人が多いのに代表されるのに表れていると言えます。 真に自意識過剰ならば、自分の名前はより多くの人に知られたいと思う方が自然だからです。
見立て様によっては、自分は何処にいるのか他人に察知されない陰に隠れて影響だけは最大限及ぼしたいという実に姑息かつ陰湿な自意識過剰さと言えるでしょう。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「具体的誰かではない他人から監視されているような気がする」というのは一歩間違えば統合失調症者の持ちがちな被害妄想(念慮)に非常に近いと言えますが、今したいのこっちの方向の話じゃないので置いておきます。
  2. 安全は客観的つまり科学的に線引き可能ですが、安心は感情=マインドの問題なので極端な人のそれはご本人自らで解決して貰わないと誰もどうするこもできない
  3. 文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)より引用

狂人と賢者を分ける線

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かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?: 竹林の国から
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-6d73.html

 この記事が参照とし、この記事を書く発端となったと記事中に明記している
「池田信夫 : 脱原発という「空気」 : アゴラ → http://agora-web.jp/archives/1382641.html」
へのトラックバックから池田信夫氏が「一読推奨」とtwitterで本記事を紹介していたのに機会をもらって読んでみた。

 その主論旨は主論旨で「なるほどなぁ」と考察を深める良い情報を与えて貰えたと思うのだが、それはそれとして心理カウンセラーとしての視点として、この本文中に述べられている「自己義認 [1](自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神 [2]、」を設定 [3]し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義 [4]するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくりであるという点に注意がいく。
 だからといって、明治維新の志士たちが統合失調症だったとか、戦時中の軍部(少なくともいわゆる青年将校たち)に統合失調症者が含まれていたなどという、そういう安直な話なのではなく。
 その結果状態は異常と言わざるを得ない統合失調症であるが、その機序のそもそも・・・統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い・・・という観点から、社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に [5]、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか? 個人的見解の域は現在出ていないが、これは多分「イノベーションを生み出す能力の呼び水となる力動」になり得るものであろうと考えている。
この考えが正しいなら、その結果を分ける分水嶺を見極める智慧はないものか?もし、それを見極めることが出来たなら破壊的改革 [6]を避けてイノベーションを拾える機会を社会的に増やすことが出来るのであろうと、希望的観測混じりではあるが、こういう問題提起が出来るのである。

 これについて、どうこう一ヶ言を述べれるほど考えは纏まっていないので、これは自分自身に対しての問題提起でもある。

 

 また、先日書いた記事「“個” の思想は欧米礼賛なのか」で述べた、あの時代(太平洋戦争に向かう前駆的時代)に、そしてややもすると現在でも、誤解というよりは無理解に近い誤彪を犯している「“個” の思想」に対する誤った理解が、どう誤っているのかの一端もここで読み取ることが出来る。

その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」
 これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

彼の言葉を援用して私の言いたかったことを再構成すると、「自己義認」認識の自己のそれぞれが主張をするという構図・・・引用記事中に云う「プロテスタント病」・・・が「“個” の思想」だ、と誤彪しているフシが少なからず日本人の間に散見されるということである。
これだと確かに疲れるし、カオス状態である。このカオス状態を治めれるのは「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」になってしまう。
そうならない社会を目指すのには真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付けることが大事なのではないか?ということである。

これはC・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセスに他ならないのだが、「意識化」「個性化」の意味を神秘主義的オカルトなものに曲解、歪曲、捏造したものを喧伝する者が後を絶たないので、C・G・ユング自身の思想、主張自体が神秘主義的オカルトなものであるように広く世間一般に思われているのは実に残念、、、いや残念を通り越して憤りさえ覚える。 [7]

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「義認」とはキリスト教の中核概念で「神により義とされる事」(教理的解釈は教派によってかなり異なる)であるが、ここでは「自分自身(自己)によって自分自身を義とする」・・・「暗黙に自分自身を神と前提している」という意味で使っている
  2. 世間一般の通念での「神」であるとは限らない。神格化しているものは勿論、そうであると意識されていなくても事実上神同然のものも含む。「およそ “~ism”(主義)と名の付くものは全て宗教である」・・・C・G・ユング
  3. 具体的実在から最適と思わるものを選択する場合と仮想的、夢想的なものである場合を含む
  4. 「私の奉ずる○○(神、天皇 etc)は絶対正しい。何故なら絶対正しい私の奉ずる○○だから。故に私は絶対正しい。何故なら奉ずる○○が絶対正しいから」という完全なる循環論法。なので本文中では「発端」という言葉を使ったが、これは文章構成上の都合で使ったに過ぎなく、実はどこが発端なのかわからない
  5. 我々人間は我々自身を一個の生命体だと考えがちだが多数のモジュールが集積重合したもの…という話はあるが今は話題が逸れるので機会を改める
  6. 改革のつもりが破壊に向かってしまう致命的誤り
  7. この点に興味のある方はC・G・ユングの原著(訳書で構わない)を是非読んでみて下さい。間違っても「ユングの解説書(除く:林道義氏のもの)」は読んではいけません。

現象としての男女差別を駆逐しても女性は幸せになれない

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池田信夫 blog : [中級経済学事典] 評判メカニズム
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301157.html

まぁ、だから日本のこれまでの雇用環境は「女性差別 “的”」なのだな。
気を付けて欲しいのは、これ自体が女性差別を企図して制度設計されているのじゃないという点。
そのメカニズムが、主には結婚や出産に伴って生活スタイルを含む生き方を直線的硬直的に維持し続けることが難しい女性は「途中退出(寿退社、出産退社)」せざるを得ない、そういう排除のメカニズムとして働いている面を結果的に内在させている以上でも以下でもないということ。
いま「女性差別」とは書かずに「女性差別的」と書いたのはこういう意味である。

こう言うと、途中退出のリスクを女性側に一方的に皺寄せている現実は「やはり女性差別だろ?」という意見をもつ人は居るだろう。
これが事後的女性差別になっているという点は私も同意するので、この点は否定はしないが、男女ともにこの皺寄せ(リスク)を平等に被ることにすると男女共倒れになるので、出産を担うのは必ず女性側であるので「じゃない方」である男性側を残す戦略的選択に過ぎないのである点は見落とさないで欲しい。
(武家のそれとは違う「女は家庭を守る役目」という価値観は明治以降の近代化と共に出てきた比較的新しい考え方である)

さもなくば・・・この皺寄せを被るのは勘弁だと女性側が言い出せば・・・結婚、出産という事象自体が忌避事項になる。 [1]

この雇用メカニズムを前提とする限りこういうことになる。
このメカニズムは当然、結婚、出産等で労働環境から一旦離脱した女性が子育てが一段落した段階でまた働きたいと希望しても、これに十分な機会が与えられないという現状を作っている原因であることは言うまでもない。
(引用元記事を読めば分かる通り、男女関係なく途中退出者の復帰を著しくシャットアウトするメカニズムである)

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 実際そう考える女性が増えて、男と同等=男化に扱われるのを選択するのと引き換えに結婚、出産を忌避するようになってきている。これ故に以前からフェミニズムの運動の殆どは「真の意味でフェミニズムではない」と言ってきているのだが、この雇用メカニズムが出力する結果女性差別を捉まえてそこだけを是正しよう(対処療法)とすると女性を男性化させるだけ(男性化しない女性を「時代遅れの駄目な女」レッテル貼りをする場合も)で終わる、だから今の男女共同参画思想は駄目なのである。更に、女性が男性化して労働者として見込める絶対数が増えれば労働市場は買い手市場になる。企業側が男女共同参画に熱心なのはこれ故であって真に男女差別問題に取り組もうというのではない。

映画「コクリコ坂から」を観てきた

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ネタバレは最小限になるように注意して書こうと思いますが、或程度以上深く突っ込んで評論、感想を述べるのだから所詮そんなことは無理な話で、、、なので一切の先入観を持たずに同映画を観たい人は読み進まないことを強く薦めます。

エクスキューズ(言い訳)は以上として本題に入ります。

先ず、最初に心理学の徒ぶった言い方をさせて頂くと「感覚優勢の人じゃないと “駄作” のレッテルを貼る可能性が低くないな」です。
論理的に分解・・・要約してしまうと、深いストーリ性も深く考えさせられる哲学的命題のようなものも大して無い、陳腐とすら呼んでも良いのかも知れないストーリーで。
 これはこの映画が陳腐であるということではなくて、分解してしまうと零れ落ちて行ってしまうニュアンスや空気みたいなもの、これら一切を含む総和としてしか表現され得ないもの・・・つまり「感覚」で表現されたものの比重が非常に高く、ゆえにこれを感覚のまま受け止め理解できる感性を持たない人には大いに誤解というか無理解で終わらされてしまうのだろうということです。

同映画を観終わった瞬間・・・まだエンドロール前の話自体が終わった瞬間は「掴み所のないぼやぁっとした “悪くない。いや良かったのかな” という印象」だけが「そこはかとなく」心のなかに漂っているという感じ(以上ではなかった)だったのが、エンドロールが始まると共にジワジワと何故かはわからないけども涙が滲み出し、と同時に何とも形容のし難い「味わい」と呼ぶしかない感動(のようなもの)がこみ上げてきた。
そしてこのエンドロールが実にあっさりしたもので、「テーマ曲でじっくり引っ張って余韻の感動を盛り上げる」というのとは真逆の実にあっさりした「えっ! もうエンドロール終わっちゃったの?」と思うや館内が明るくなり始め、慌てて涙を隠さなきゃいけないという次第に相成り。

帰りの道々、「何で涙がこみ上げてきたのだろう?」「(涙に相応しい)感動作というのじゃないし、、、」「況してや壮大なドラマなどでは微塵もないし、、、」とつらつらと考えている内に気付いたのが「落語的というか落語と通底する表現という面がある」という点です。
ご存知のかたはご存知の通り、落語というのは(主に人情噺と呼ばれるものなど一部は違いますが、その多くは)筋立て・・・ストーリーに於いては大して筋らしい筋は存在しないのが通例で、そしてまた、会話・・・言葉のやり取りで進行していくので言葉遣いが変わった瞬間に「場面(状況)が変わったのだ」と聴き手に了解されるという性質を持ちます。
「場面が変わった」というのは当然、それに相応する時間、空間、心理の経過も「含んだ上で」瞬間的に変わったのだと理解するということです。 現代演劇などリアリズム表現の場合は、それに至るのに辻褄の合う筋立てなり伏線があった上で言葉遣いが変わるというのが基本なのに対して、落語の場合は言葉遣いが変わるというのを以て場面が変わったのだと了解させ、これに対する説明らしきものは殆ど無いケースが多々あるのです。
これはつまり或る種の約束事で、表現者と受け取り手の間に或る種の暗黙の了解が存在するということにはなりますので、この暗黙の了解に馴染んでいない人には強引と受け取られる危険性が潜んでいるということにはなります。
ところが、論理的辻褄が合っているかどうか、それに対する納得の行く説明があるかどうか、これに敏感なのは大人で(これはこれで大人になるというのはそういう論理性を身に付けるということ物事の妥当性を確かめる力を付けることであるので基本的に悪いことでは当然ないのですが)、子供の方が言葉と言葉のやり取りの中でダイナミックに生きるのに寧ろ大人より慣れていると言えて(だから反面、言葉の些細な行き違いから揉め事や喧嘩はてはいじめが発生するのだが)ずっと素直に受け入れると思われます。

この「落語的」という点に気づいてみれば、エンドロールが実にあっさりと呆気ないくらいにあっさりと終わってしまう作り方にも意図があるのではないか?と推測されます。
 落語の「たちぎれ線香(たちきり、たちきれ)」に似ていると。あっさりと終わらせることで寧ろ、受け止め手の心の中では余韻が増幅し深みを増すという流れが。

以下は直感的にそう感じるというものなので上記以上に個人的見解ですが、何年か後、もしかしたら10年、20年後に「この映画を観てて良かった」とそういう一財産を子供の心の中に与えてくれる映画であるように思います。

繰り返しになりますが、観終わった直後にストレートに「いい映画だった」と思える類いの映画ではありません。

以下余談ではありますが、この映画に纏わってインタビューを受けた監督の宮崎吾朗氏が語っていたところ(MBSラジオ)によると「(父である宮崎駿は)俺の書いた脚本を台無しにしやがった」と表向きは否定的コメントをしていたのに試写会で「最後大泣きしていた」のだそうです。

世の中によくある男女比較論

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セキララ★ゼクシィ-
http://zexy.net/contents/lovenews/article_list.php?c=0

アンケートというもの自体が大体そうであるが特にネット上でのアンケートの場合、積極的に答えたがる人とそうでない人という偏りが割とモロに影響して、必ずしも広く一般の意見を拾えているわけではない(万偏無く意見を拾えていない)という保留を頭の片隅に常に意識して読まないといけないのだが、、、

これを前堤しておく限りに於いて「へぇ、今どきの女子はそういうことに躓くんだ」「今どきの女子はそういうことに悩んだりするんだ」と、また「そういう考え方、感じ方する人が居るんだ」「ふーん」など、僕にとれば「頭の柔軟さを失わない手助け、刺激に」なる、世の中の若い女の子たちには「こう悩んでいたの自分だけじゃないんだ」とか「こういう捉え方をすればわかる」とより実用的なお役立ち情報を発進してくれているサイトの一つなのだと思うのだけど、、、

 

世の中に、テレビ、雑誌、等々によく登場する『「男と女」の「比較論」的に語られている文脈』で・・・この内、根から誠実性の破片もないセンセーショナリズムだけでトレースしているものは端から問題外だが・・・前々から引っ掛かっている点が在って、、、

 

それは、半ば経験則、半ばは直感でそうじゃないか?と思っていることなのですが、異性兄弟の居る or 居ない の影響を考えに入れずに男女比較論を展開して良いのだろうか?という疑問です。
言い換えるなら、異性兄弟の居る男女を比較した場合と、異性兄弟の居ない男女を比較した場合に、かなりの歴然とした違いがあるのではないか?ということです。

具体例を挙げると、「女の気持ちがわからない」「女は何を考えているのかわからない」と曰う男性は世の中的に少なくはないけども、僕の知る限りこういうセリフを割と直ぐ吐くのは「女兄弟の居ない男性」に非常に偏ってみられると。そして同じく「男って何考えているのかわからない」「男って頭悪い」と割と直ぐ言ってしまう女性は「男兄弟の居ない女性」に偏ってみられるという観察をしています。
(勿論、物凄くシリアスに深く考えるならば、男にはなかなか理解しにくい女性の面はあるし、女には理解しにくい男性の面はあって、これは異性兄弟の在る無しを超えた男女の違いであると言って良いでしょう)

 

より具体的に上記サイトの一つの記事(http://zexy.net/contents/lovenews/article.php?d=20110704)に突っ込んでみると、心理学博士の某氏は

皆さんが感じているように、男性は顔やスタイルなど、『外見』だけで評価する

と公然の事実であるかのように語っているのですが、「それは違うだろ!」「なに戯言言ってるんだ、このオッサン」と思うのです。
「外見に非常に左右される」人は女性にも少なからず居て、つまり「”『外見』だけで評価する” というのは男性の特性であるとするのは明らかにおかしい」と先ず言えて。
更に加えて、僕の色々な人を観察してきている範囲の経験則に於いて、「外見に非常に左右される」人は異性兄弟の居ない人に偏っているという印象を強く持っています。
実際僕個人、一歳上の姉が居て非常に仲良しなのですが、「男性は顔やスタイルなど、『外見』だけで評価する」という某氏のセリフには非常に違和感を感じます。
(僕個人の意見を言えば、外見も評価の内に入っていますが「One of them」でしかなく「『外見』だけで評価」などということは無論「外見重視」ですらないです)

更に付け加えると、異性兄弟の居ない人は男女問わず異性に対して「男は(女は)○○」というステレオタイプな決め付け、思い込みをしている割合が結構高く、上記の某氏ももしかしたら異性兄弟居ないのじゃないかしら?という感想を抱きます。

 

とまれ、この記事にケチを付けることが目的なのではなく(あくまで、この記事はダシに使わせて貰っているだけ)、僕の言いたいのは「異性兄弟の居る or 居ない で分けた男女比較論を展開してみると、興味深い結論を導き出せるのではないか?」という問題提起です。
この切り口でのそれなり以上に信頼できる研究は寡聞にして知りません(もし在ったなら教えて下さい)。

 

学術的なレベルでフィールドワークできる立場の方、どなたか調べて論文に纏めて下さいませんか?

インターネットの価値を貶める輩

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以下に引用する内容のダイレクトメールが届いた。

インターネットの本質的価値は「自由」にある。
「良いも悪いも含めて」自由である。

高度な知識を持った専門家、良識ある素人と呼ばれる一般人から非常に質の高い情報、意見、見解が披露されている反面、狭い知識だけでものを言う人、思い込みで独り善がりな信念を語る人、悪意を以って偽りの情報を流す人、、、、正に文字通り「玉石混交」。
コンビニエントに・・・程良く以上の質の情報だけをお手軽に得たい人には、どの情報が信じれて、どの情報は無視するべきなのかの判断は面倒臭い事で出来れば避けたいののかも知れないが、この「どの情報が信じれて、どの情報は無視するべきなのかの判断」を常に要求され続ける状況、これこそがインターネットの価値の本質の一つである。

インターネット利用歴の浅い、殊に携帯電話での利用からインターネットに親しむようになった人逹は「インターネットはお手軽に情報、サービスにアクセス出来る媒体」(*1) としか考えていない(安易に考え過ぎている)向きが少なからず拝察出来るが、そして、このコンビニエントな要求の強い人達は深く考えずに安直に利用したいので、その情報なりサービスが信頼できるかどうかの判断という面倒臭い手続きは避けたい・・・もっとハッキリ言えば面倒臭いことは他人任せにしたい・・・誰かその選り分けをしてくれる人が居るなら例えそれが政府の規制であっても歓迎する向きすらある。

でも、よく考えて欲しい。 殊に今回の東日本大震災に端を発した福島第一原子力発電所事故およびこれに纏る一連のドタバタは、我々国民の多くが面倒臭い亊を他人任せにしていた結果なのではないか?少なくとも、この一面はあるということを。

悪意のあるもの、そもそもは悪意ではないもの両方を含めていわゆる「ガセネタ」は短期的に観れば害であるように見えて(*2)、長期的に観れば「正しい情報と正しくない情報の両方が常に入り交じっているのだ」というのを常識として前提とし「情報を精査する力:情報リテラシー」を身に付ける人が増えていずれ多数派となり、情報を選り分け見抜く力を持った人で構成される質の高い社会が実現する。

これを理想主義の絵空事と笑ってはいけない。 何故なら、判断力を持った一人一人が、その時の最善を判断する(能力を備えている)という前堤で成り立っているのが民主主義だからである。
つまり、これを笑う者は民主主義社会の構成員である資格がないのである。

冒頭の話題に戻ると、故にこういうサービスをビジネスとする輩は「インターネットの敵」であるのみならず「民主主義社会の敵」であるということ。

よって、ここのDM全文を掲載し糾弾すると共に良識ある皆さんに警鐘を鳴らしたい。

 

○○○○ 様

不躾なご連絡失礼いたします。
私ビジョナルの佐藤と申します。

私、御業界におきまして、『クチコミサイト対策』、『悪意のあるサイトの削除』による
評価・評判の向上を手掛けており、
主に下記施策を得意としております。
==============================================================
【 クチコミサイト対策 】
 効果①:投稿数を増大させることによる、顧客流入数の拡大
 効果②:質の高い投稿評価による、購買率の向上
  ■ヤフー知恵袋 (http://chiebukuro.yahoo.co.jp/)
  ■口コミ広場 (http://www.e-kuchikomi.info/)
  ■教えて!goo (http://oshiete.goo.ne.jp/)
  ■その他各種サイト
==============================================================
【 悪意のあるサイトの削除 】
 効果①:最終判断で購入を控えてしまうお客様への対策
 効果②:新卒・中途採用において、入社を控えてしまう優秀な人材への対策
  ■2ちゃんねる (http://www.2ch.net/)
  ■ブログ等、その他各種サイト
==============================================================
現在、ネット検索される方々の内、70%以上が「他者の評価」を信頼すると言われており、
上記対策により新規流入数を190%以上増やした実績もございます。

是非一度、御業界の『対策実績』、『各種分析レポート』をお持ちし、
詳細なご提案のお時間頂戴できませんでしょうか。

つきましては、下記日程で30分ほどお時間頂戴したく存じます。
ご検討の程何卒宜しくお願い申し上げます。
**************************************************
■5月31日(火) 8:00~22:00  
■6月1日(水) 8:00~12:00 17:00~22:00
■6月2日(木) 14:00~20:00
■6月3日(金) 9:00~22:00
■6月6日(月) 8:00~20:00
**************************************************
また、ご都合合わないようでございましたら、
幾つか候補となるお時間頂戴できましたら幸いでございます。

何卒宜しくお願い申し上げます。

■□
—————————————————————visional—
ビジョナル株式会社 visional inc.
佐藤 肇 
本社:東京都港区赤坂6-11-13
携帯:080-4364-4068
TEL:03-6277-8374
URL:http://www.visional.jp/
—visional—————————————————————□

*1:一側面、殊にその有益な一面であることは私も否定しないが。
*2:実際、これ自体は害である。

反捕鯨活動と創造科学

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NHKスペシャル「クジラと生きる」・・・http://www.nhk.or.jp/special/onair/110522.html
を観て、改めて反捕鯨活動に熱心な人達の思考法というかメンタリティというか感受性というか・・・は創造科学信奉者のそれと根っこで繋がっている感じがした。

クジラ(イルカを含む。イルカは生物学上クジラ類である)を食用として採取してはしてはいけない理由として彼らが主張する「クジラは言語があり文化を持っている知能の高い生物」というのは結局のところ、人間の知能を基準とした知能を「知能」としてそれで高いor低いを言っているだけ、つまり人間の物差しで全生物を度っている「人間の自己中心」なだけなのだが、これは全ての生命の最高位の管理統治者として人間を作ったとする創造論と非常に親和性が高いからそう思うのであって、実際に創造科学信奉者勢力とシーシェパードなどが繋がりがあるかどうかは知らない。(裏を取れる力のある人には是非裏を取って欲しいと思うが)

知らない人のために補記しておくと、創造科学とは、聖書の記述を全て絶対真実という前堤で創造論を信奉するゆえ、真っ向から衝突する「ダーウィンの進化論」の徹底否定することで有名だが、これに止まらず「創造説を裏付ける科学体系を構築する」と称してこじつけの似非科学を粗製乱造し流布蔓延しているカルトで「クリスチャン」と名乗っているがキリスト教本流からはハッキリ言って「異端」・・・つまり「キリスト教に非ず」である。
「ものみの塔(エホバの証人)」と言い「モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)」と言い、キリスト教から派生した異端を沢山生んでいるアメリカという国は、そういう異端を生む素地を影の部分として保っている国なのだなぁと思う。 迫害を受けた清教徒たちがヨーロッパから逃れて作った国だという歴史と無縁ではないのかな?と個人的には思うが、断言できるほどの確証は今の所もっていない。

女はムードに弱い?

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あなたはどう思われますか?
答えを先に言ってしまいますと、女はムードに弱くない、ムードに弱いのは寧ろ男のほうだ、こう私は思います。

どう思われたでしょうか、、、「うんうん」と頷いたでしょうか? それとも「そんなことはない! その証拠に女はデートする場所にしろ、エッチをする時にもムードを求めるではないか!」と反論したくなりましたか?
私見を述べれば、頷いた方の多くは女性で、反発を感じ反論したくなったのは殆ど男性でしょう。
「ムードに弱い」という言葉の意味するところの理解の仕方、適用範囲の差に、この二者の反応の違いの秘密があるように思います。
「ムードに弱い」という言い回しには「情緒的判断が何らかのかたちでムードの影響を受けやすい」という意味と「ムードによって不本意な結果に導かれやすい」という意味とが混在し、どちらに比重があるかは各人各様である、というのがホントのところでしょうが、大凡に前者の意味で「女性はムードに弱い」と言え、後者の意味で「女性はムードに弱くない」と言えます。

この二者の区別が出来ずに混同し、その気が全くない女性をムードで落とそうと、お洒落なカクテルバーに連れて行ったり、夜景の綺麗な所へドライヴに出掛けたり、涙ぐましい(しかし無駄な)努力を繰り返している男性諸氏は、少なくないのではないでしょうか?
”女性はムードでは落ちない!”この事を男性は肝に命じるべきです。 ムードで落ちる(と思える)女性は、既にあなたに好意を抱いているので、ムードに乗ってきてくれるだけです。
女性は恋愛に於いてプロセスを大事にします。 信用して良いひとかどうかを、じっくり観察するという事です。 この観察眼は、多くの男性諸氏が考えているより遥かに沈着冷静です。 実にクールです。 但し、勘違いしてはいけないのは、その判断は知的、論理的に成されるのではない、ということです。
ユングの言うところの感覚機能をフルに使い、感情機能で判断しますので、これは無意識下で、ある程度の持続性をもって成されます。 故に当の女性本人は、漠然とした「感じ」として認識しているに留まります。

この「何となくそう思う」というのも、心理学的には充分立派な判断機能であるですが、これが男性にはなかなか理解できない代物なのです。 経験的には「女の感は鋭い!」と知ってはいても、そのカラクリが判らないのです。 カラクリの判らないものを軽蔑する傾向を男性は持っています。 これは裏を返せば、自分の中のこの判断機能を軽蔑していることに他ならず、せっせと劣等感コンプレックス化を促進してゆくことになります。 いわゆる男らしい人が「女の感」を、その鋭さを認めつつも「結局のところ、それだけ動物に近いということだ!」とバカにするのは、この故です。 女性に言わせれば「動物並みにしか感を働かせることができないだけじゃない! その自分と同じとしか考えられない男のほうが、よっぽどバカよ。」という事になるでしょうか。
劣等感コンプレックスと云うものは、その劣等化された機能が憑依的に作用する、という特性を持っています。
「何となくそう思う」というのは、言い換えると「ムードを判断する能力」「ムードから読み取るべき情報をキャッチ出来る能力」と言って差し支えありません。
これが憑依的に作用した状態が「ムードに流される」というやつです。

女性全てが「ムードを判断する能力」に長けているわけではありませんが、総じてこの能力に長じていると考えて良いです [1] をし、男性全てがこの能力を劣等化しているとは限りませんが、総じてそうであると言えます。

女性は、意図的に作られたものも含め、ムードから読み取れるものを判断材料に、意志決定をしますから「ムードを大事にする」のです。 ムードを判断抜きに、そのまま受け取ってしまうのは男性のほうで、故に「ムードに流される」のです。
女性がムードに流されているように見える時は確かに存在します。 しかし、これは「流されている」のではなく、「流されてくれている」のであって、明確な意志が底の方に存在するのです。
ここの処を理解せずに、ムードを盛り上げる演出をすると、自らの演出に男性は酔ってしまい、独りだけ盛り上がってゆき(当の男性は女性も盛り上がっていると勘違いするのが常)取り残された女性は、逆にドンドン白けていってしまいます。
ムード演出にお金と時間を費やすより、女性に安心感を与える努力をしたほうが賢明です。

もう一度結論を言います、女性はムードに弱くない、ムードに弱いのは寧ろ男性のほうである。 女性は「ムードを大事にする」のだけである。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 所謂「優勢機能」で、優勢機能=ネオテニー度が高い ので後天的に洗練は幾らでも可能である代わりに手付かずで洗練を怠ると寧ろ劣等機能のそれよりも劣る。然るに躾、教育、自覚の低い女性は下手な男よりも質悪く下品なのである

結婚したがる女たち(若しくはしたがらない女たち)

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「先生、わたし結婚したいんですけど…」と切り出した彼女。 「彼氏は居るんですか?」と訊けば「居ない」とのこと。 「職場に同世代の異性は居ますか?」と訊けば「居ます。 しかし同じ職場のひととは嫌です。」 お見合話は少なからずあって、会ってはみるものの「いまいちピンと来ない。」と言う…「どうピンと来ないの?」と突っ込んで訊くと「お見合のあいだ中、自分の仕事の話ばっかりで面白くないの。」確かに仕事以外に話題の豊富な人は面白いに違いありませんが、相手が仕事以外の話しをするよう働きかけたり、促したりしてるようには思えない白けた態度(仕事の話しか出来ない男のほうにも問題ありですが)、そんな態度で話しが深まるわけがなかろう、と思わせる態度で接していた事は、その話し振りから充分推察出来ます。
またお見合パーティー、合コンの類に出掛けても「今日もロクな男おらんわ!」と開始早々に戦線離脱を決め込み、片隅でポツンと飲食して終了時刻が来るのを待っている事が常態となっているらしい。
冷静に判断すれば「口で言うほどに本気で結婚したがっているのか?」と疑問が浮かぶのです。 「結婚したい!」と言っているものの、彼氏は居ない、彼を作る努力もせず、形ばかりに見合いをこなし、形だけ合コンに出掛け…仕方なし、イヤイヤだけど…という雰囲気ですね。
この「イヤイヤ、仕方無しに、本意ではないけれど、形だけなぞっている」行動様式、これから「兎に角、勉強さえすれば、良い学校に行きさえすれば、、、」と言われるがままに、その真偽を問うことなく、イヤイヤ(または、なんとなく)学校、学習塾、予備校…に通っている子供、若者達と同じ心象を想起する私はピント外れでしょうか?

実際問題、この例のように二言目には「結婚したい!」と口にする女性達の殆どは「結婚さえすれば幸せになれる!」と無批判に、現実離れした、信仰と呼ぶに相応しい思いを強く抱いています。
結婚という重大事、特にその現象面、即物的側面を考えると、出てくるネガティヴな面を乗り越えさせ、その道を選択させる動機としてスピリチュアルな面は欠かすことが出来ず、それを掻き立てるモノとしての衝動、これの源である「ファンタジー」は必要であり、これの意義の大きさを軽んじる訳にいきません。
人は生きるためにファンタジーを必要とし、と同時にそれが現実から遊離してしまい空想、絵空事になってしまう危険性は常に隣りにあります。
時に、ファンタジーというのは、日本語になった場合、多く誤解、誤用されている概念だと思うのですが…ファンタジーというのは厳しい現実認識によって支えられ、厳しい現実認識を支えるものです。 現実逃避させるかに見えて、ポイッと現実に投げ返す、こういう作用を持つもの、それがファンタジーです。 こういう作用のないものは、単なる空想、絵空事と言います。
ファンタジーを持たぬ者は現実逃避はしないにしても、現実を厳しく認識することもなく、妥協と惰性に流され生きていると思います。
あるひとの言動にファンタジー性が垣間みられた場合、そのファンタジーが「現実に投げ返すもの」を見出す努力が生きることの意味に通じる道へのガイド役になってくれると、私は考えています。
「なんで、そんなに結婚に執着するの?」と訊けば「だって、仕事嫌いやもん! 早く辞めたいもん!」
それは裏返しに表現される事が多い、という心理学的一般則に従えば、先の女性の例は「ほんとのこと言えば、、、仕事は好き! でも『おんなは、結婚してさっさと辞めるもんや!』という無言の圧力を感じる。 私の居場所はどこ?」と言っているように思えるのです。
女性が男性並に自立的、自主的に生きようとしても、依然として日本は男社会(“任務遂行上、男が優遇される仕組みが支配的社会”という意味であって、男が決定的に優れているわけではない)であり、女である事をハンデと痛感させられる場面に直面し、女である事を捨てて男の論理に服従するか、女である事を捨てず男の論理に屈服するか(さしずめ前者は「キャリアウーマン」後者は「結婚」でしょう。どちらにしても「男が敷いたレールに乗っかっている」ことに注意!)の何れか、という極端を選ばざるを得ないような呪縛に囚われの身となる。
別に女性に限ったことではなく、こういった極端な二元化の選択肢設定は、よく見られることですが、、、二元論というのは切れ味の良い名刀正宗みたいなもので、物事のある一面を鮮やかな切り口を見せてくれるのですが、どこをどう切るかを判断し誤ると、ピント外れであるのみならず、大怪我を負ってしまう危険なものです。 AかBか?という条件設定自体が適切かどうかの吟味無しに、AかBを選んでいるというナンセンスな事が屡々(特にTVの街頭インタヴューを見ているとそう思う)見られます。

こういうナンセンスな言動を取る背景には、AかBかという二元論に終始する事によって、問題の本質を避けようとする心理機制が無意識裡に働いていると考えられます。

「仕事か結婚か?」という選択肢設定は、どちらも男の論理という土俵から出ていないという事に注意を払わないといけません。
男の用意した土俵の上に居るという意味で男の論理に服従している。 この制約の中での女性の幸せが無いとは言いませんし、それを選ぶのは個人の自由です。 しかし、時代が21世紀を直前に迎え、少なからずの女性が、この土俵の外にも幸せがある事を薄々感付き出したように思います。
処が、この土俵の外というのは未開の地であり、足を踏み出すには危険極まりないのです。 さりとて土俵そのものを改変するには、男社会に真っ向から対決する事である以上に、実はそれを精神的に支えているのは女性(というより、その集合無意識複合体(コンプレックス)であるグレートマザー。特にそのネガティヴ面)であるという一筋縄ではゆかない厄介な問題を隠し持っています。

グレートマザー及び母性原理については大きな問題なので、機会を改めます。
 尚「母性社会日本の病理」河合隼雄、「タテ社会の力学」中根千枝の二冊は非常に参考になります。

過去の女性運動家、女性のオピニオンリーダー(及びそれと見なして良いその役を演じたひと)たちが、男性達よりも寧ろ同性である女性からの、理不尽とも言える攻撃によって最終的に黙さざるを得ない状況に追いやられて行った歴史が如実に、このことを物語っていると思います。 約10年前に持ち上がった「アグネス・チャン騒動」が端的な例です。
対決する相手が社会(というドレスを身に纏った日本人の集合無意識体としてのシャドウ)という大きなものである以上、個々人の力ではどうすることも出来るわけがなく、現実から逃避するか、現実に逃避するか、にならざるを得ない事は、深く省みられなければならない問題だと思います。
少々荒っぽいのを承知で、結婚を強く志向する方を「現実から逃避組」キャリアウーマンを志向する方を「現実に逃避組」と分類することが可能だと思います。(実際には、仕事一途というのが現実から逃避することになる人も居るでしょうし、現実に逃避するために結婚する人も居るでしょうから、、、) つまり表面的行動は全く逆に思える二者—キャリアウーマンを目指すひとと、結婚を選ぶひと、というのは全く正反対の違う生き方に見えて、実は底に流れている心理機制は同じであると言いたいのです。

先に「子供と同じ心象が見られる」と指摘しましたが、これはある意味当然のことなのです。 河合隼雄、中山康裕両氏をはじめ心理臨床の現場に居る多くの諸家が指摘するように、現代社会の大きい問題の一つに、「イニシネーションの喪失」というのがあります。
子供から大人になる通過儀礼としてのイニシエーションを受けていないのだから、心理的には子供であっても当たり前で、これを無碍に批判しても始まりません。
社会がイニシエーションの機会を与えてくれない以上、個々人で自らイニシエートしてゆくより仕方がないということでしょう。
このことに気付くと、「結婚したがる女たち」が、ことある毎に「結婚したい! 結婚したい! 結婚したい!」と口にする姿が、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱え続けることによって極楽往生を願った、かつての末法思想時代のと同じ宗教儀礼的行為であるように思えてきて仕方がないのです。

イニシエーション目的だけで結婚、急場凌ぎのイニシエーションとしての結婚、これが増えているように思うのです、これでは成田離婚が増えるのも当たり前でしょ?違いますか。

女性の場合が特に、結婚がイニシエーションの意味を持つのは、別に今に始まった事ではなく昔からスタイルと言えるので、結婚にイニシエーション的意義を求める事自体はなんら問題ないのです。 問題は、結婚にイニシエーション的意義“しか”求めないことです。 そうであれば、イニシエーションさえ終われば用済みですから離婚は時間の問題、ということになってしまいます。

また、その相手である男性はイニシエートされていない場合が殆どです。 イニシエートされた者から見ると、イニシエートされていない人は、バカで子供じみて見えることは明らかです。
結婚によるイニシエートが即効性を発揮した女性の場合は「成田離婚」、非常に時間を要した女性の場合は「熟年離婚」という事ではないか?と思います。 離婚の問題を、これだけに集約するのはあまりにも短絡ですが、一側面としては、熟慮すべきテーマだと思います。

彼女達に新たな、これからの時代に相応しいイニシエーションの機会を創出できるのなら、新たなこれからの時代に相応しい女性の生き方が、見出せるのではないか?と思っています。

この「女性のイニシエーション」について、現段階ひとつの示唆を貰っています。 それは「『神話にみる女性のイニシエーション(ユング心理学選書20)』シルヴィア・B・ペレラ著 監修:山中康裕 訳:杉田津岐子・小坂和子・谷口節子 創元社 ISBN4-422-11220-1」に拠ってです。 男性原理によって不当に貶められ、蹂躙された女性性。 これを救うのは、誰あろう、他ならぬ女性自身です。
「おんな」として生きる意味を見失いかけている貴女、是非にも読んでみて下さい。 死にかけていた貴女の半身が甦ることでしょう。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

夢の意味「信ずるべきか 分析すべきか」

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日本独自の精神療法を確立した森田正馬氏のことばに「夢の中の有無は、有無とも無なり。」というのがあります。
今の仕事を始めて大分経った頃にこの言葉に触れたのですが、、、夢の内容をお話し頂き、これをテーマに連想を豊かに働かせてゆくかたちでカウンセリングを行ない、その意義の大きさを実感している私にとって、少なからずショックでした。
人のこころの在り方に浅薄な認識しか持ち合わせていない、何処の馬の骨ともつかぬ輩が言っているのなら、気に病む必要はないのでしょうけど、人のこころの在り方に早くから真摯な態度で取り組み、非常に卓越したメソッドを確立した、森田療法の始祖のセリフだけに、その意味を即刻には呑み込み兼ねました。
森田氏は、人の無意識の扱いを大事にしていたに決まっているでしょうし。 それが見せる夢の意義にも、注意を払っていなかったわけは無いと思えるのです。
その後、森田氏は上記のセリフと共に「夢は楽しむもの」とも言っている事を、知るに至って、この意味が了解せられたのです。

クライアントと会って、さぁこれからカウンセリングを開始という、クライアントからすれば夢を記録し始めて最初の頃は、その夢が混乱が見られる事が多いのです。 心的問題の大きい(これも「後から考えれば」という話で、当初から大きい小さいを即断できるものではない)ひとであるほど、この傾向は著しいのですが、「夢とはそもそもそういうもの」というのとは明らかに一線を画す混乱なのですが。
これを「分からないものは、分からない」という態度で、安易な解釈を与えたり、性急な答えを求めず、話し合いを継続しつつ、夢の記録を持ってき続けて頂いていると、川の流れの如く、またその流れに導かれるか如くに、夢が整合性を持ちはじめるのです。 もちろん夢のことであるので、論理的に筋が通るとか、現実的描写になってくるとかの意味ではなく、、、「夢なりのルール」に従った整合性を持ち始めるのです。
この「夢なりの整合性」を見抜くには、それ相応の知識と経験が必要なのではありますが。

フロイトは「夢の偽装」という仮説を唱えた。 無意識は何をかを伝えようとして、夢というかたちを通して意識にコンタクトを取ってくるのだが、それが意識にとって好ましくない情報を含んでいると、意識の検閲を受けて、違う姿形を与えられる、偽装されるのだ、というのです。 いわゆる「メタファー」というもので、有名な処では、女性の夢の中に万年筆が出てきたら、それはペニスの偽装した姿だ、とするものでしょう。 これはこれで、自我が非常に強固な方には有効な解釈になる場合もありますが、些か硬直したものと言わざるを得ないと思います。
(このような硬直化したものは、訳者(独語から英語への)の意図的誤訳、と後生の主にUSAマスコミがセンセーショナリズムだけでフロイトを取り上げた結果の誤解、そして、フロイト自身も名前が売れることの方を優先してこの誤解を放置した結果なのです。 こういう多くの誤解を受けているフロイトですが、実際にはそんな硬直した事は語っていません。 「夢判断」を読まれよ!)

このフロイトが提起したのとは違う意味で「意識の検閲」というものを私は考えます。

無意識から持たらされるものは、イメージの塊で、まさに混沌そのものであり、多くの矛盾、パラドックスを含んでいます。 いや、これを矛盾だ、混乱だと考えるのは「意識の増長」であり傲慢であるとも言えるのですが、、、
ともかくも、この混沌から情報を意識が受け取るとき、これをそのまま受け取ることは出来ず「如何に受け取るべきか?」と悪あがきをするのだろうと考えられ、これが論理的に筋の通っていないものに論理性を与えようという無茶をすることとなり、混乱と呼べる状況を作り出すのだろうと考えられるのです。 「意識の検閲」が混乱を作り出すことに深く関与していると。

この意識の悪あがきによる混乱状態も、自我の再調整のために必要な混乱(錬金術でいうニグレドに相当する)であるとも言えるのですが、まともに取り組もうとすると強烈なデプレッションに襲われ、相当に自我の強い方でも、易々と耐え切られるものではないのです。 これに耐え切られるよう介助役をしつつ、この「自我の再調整のための混乱」の淵に足を踏み入れるのがカウンセラーだと言えます。
言い方を変えれば、「意識の検閲」を上手く調整が効く方向に誘導してやるのが、カウンセラーだとも言えると思います。

心理学にそこそこ通じている方でも、よく起こす勘違いに、夢を無意識そのものとイコールで結ぶことがあります。
正確に記すならば、意識が無意識と何かのキッカケに、ほんの一瞬触れ、その触れた瞬間の残像、雰囲気、ほのかな感触、これらの総体として意識が覚知したもの、これが夢であります。
無論、これより浅い意識域の中だけで見る夢(願望充足夢、覚醒時に体験した出来事をなぞる夢など)も多くあるので、夢すべてをこれであるように捉えるのも間違いです。
つまり夢を通じて無意識域の片鱗を垣間みられる「時がある」という以上でも以下でもなく、無意識の全て、無意識の何たるかが解るわけではありません。
無意識の全てを把握することが重要なのではなく、無意識から持たらされている様々なサイン、これの意味を現実との脈絡の中に見出せるかどうかが重要です。 またサイン全てが絶対に意味があると決めて掛かるのも危険です。 上手い具合に意味が見出されればラッキー、という位の気持ちで、ファンタジー小説を読むかの如くに「味わう」姿勢が肝要だと思います。
「味わずして分析するなかれ」これが私の持論です。

フロイト派はフロイト派の夢を、ユング派はユング派の夢を見る、と言われています。
これも受け取り手の意識の在り方次第で、夢が変わるということを語っているのだと思います。

夢との付き合い方で良くないのは、先に述べたように「絶対に意味がある!」と決め付けてなんとしても分析し切ろうとする態度、また「ライオンは父親像」「窪みは女性器」「棒状のものはペニス」式の硬直化した解釈を与える態度です。
まずは夢をありありと思い描いて、それによってこころに巻き起こるエモーション(感情の動き)をそのまま受け止め、それを偏見無くじっくり味わうことです。

最初の森田氏の「夢は楽しむものである」という言葉、これは「楽しめない夢に囚われて気に病むことはナンセンス」と言っているのだろうし、「楽しむ態度を持ち合わせていないのなら、夢に取り組むべきでない」とも言っているのだろうと思います。

「そんな馬鹿なことがあるものか!」とお思いの方も居られるかも知れませんが、誤った夢との取り組み方をして、神経衰弱や精神分裂病にまで及ぶひとが、現に居るのです。
この意味で(その全てを唾棄するつもりはないですが)巷に溢れる「夢占い」の類の大多数は、有害です。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

「100%正しいアドバイスは役に立たない」

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このタイトルは日本に本格的にユング心理学をもたらした最初のひと、河合隼雄氏の「こころの処方箋」の中の言葉です。
これは占い師という仕事に本気で取り組めば取り組むほどに、痛切に実感させられる真実です。
「ひとに迷惑を掛けてはいけません」「真面目に仕事をしましょう」「不倫はいけない」等々、、、誰が聞いても賛同せざるを得ない公明正大な意見。 下手に反論しようものなら人間性を疑われるので、しっかりした根拠がない限り異議を唱えることに後ろめたさを感じる。
なにも、これらを軽るんじて良いとか反論を加えようとするんじゃないんです。
問題は、これらの反論を加えにくい公明正大な意見には、対話をそこで終わらせてしまうヒューマニズムの欠如が裏に潜んでいる、ということです。

「好きな異性が居るのだけれど、相手も好意を持ってくれるかどうか不安」占いの現場に日常的に持ち込まれる題材です。
これに対して相手との相性を鑑定して、良いと出たのならば、それを根拠に「アタックしてみなさい」とアドバイスする。 多くの占い師さんがこういうアプローチを取ると思います。 これは正攻法ですが。
これで「アタックしてみよう」と思う方ならそれで良いのですが、それが出来ない方が多いのです。 その理由は「物怖じしやすい性格」だったり「行動を起こすより先に失敗した時の心配、取り越し苦労をしてしまうクセ」だったりする訳ですが、こういった方に「物怖じせずに頑張りなさい!」とか「物怖じするその性格がいけない! それを直しなさい。」と言ったところで「それが出来てりゃ苦労はしないよ。」といった反発が返ってくるのが関の山で、場合によればいわゆる逆切れをするひとも居るでしょう。

誤解なきように補足しますと、クライアントの反発を買ってはいけない、怒らせてはいけない、などと言っているのではありません。 これを意識し過ぎると、その場を丸く納めることばかり考えた結果「なぁなぁ主義」の鑑定に堕してしまい、毒にならない代わりに薬にもならないものに成ってしまうからです。 場合によれば毒を与えることも必要なこともありますので。

「物怖じしてしまう性格」が問題となれば「何故、なにが物怖じさせるのか?」という疑問が出てきて当然です。 「○○という星が○○と〜〜だから」と言ってしまえば、「仕方がない」で終わりです。 これだと、物怖じしやすい人は見合いでしか結婚出来ないことになるし、忍耐力の無い人は出世できないことに成ります。 四柱推命を初め東洋占の占い師さんはこういう決定論的な物言いをする方が多いのですが、、、ま、鑑定という意味ではこれで良いのでしょうが、何かが足りない、、、。
何が足りないのでしょうか? 私は「その方の幸せは何処にあるのか?」と一緒になって考えてあげようという姿勢だと思います。
実のところ、これは非常にしんどい取り組み方です。 先に場合で言えば「結婚する事が本当に幸せに繋がるのか?」「出世がこの人の幸せか?」といった根元的問い、ひいては「人生とはなんぞや?」という処まで降りてゆかないといけないからです。 しかも哲学としての一般論ではなく、その方その方ごとに、個々人のパーソナルというものを非常に意識した上で考えないといけない。 占いにはデータ的な側面(AがこうでBがこれこれ。 だからC。 みたいな答え)がありますが、こういった類別論、パターン論はこのレベルにまで踏み込むと通用しません。

 余談ですが、関西の有馬温泉に「占い師はデータ屋」と豪語するアホな占い師が居ます、この方は大抵は企業の相談ばかりを相手にしています。 企業が相手であれば、この占いのデータ的側面だけで話をしておれば良いわけで、言うなれば「一番楽な客」(占いの確度を上げる=技術的努力な要求されますが、本論で主題としている心的働きとしては楽)を相手しているわけです。 これはこれで、この方の生き方なのでそれ自体をとやかく言うつもりは更々ないのですが、企業が相手ですから報酬は悪くないわけで、占い師の中でも裕福な部類に入ります、それを傘に着てご自分が何様かに成ったように勘違いをされて、「カウンセラーなんかに敬意を払う気なんか更々ない! カウンセラーなんてその程度の職業。」とまで言い出す始末なので、釘を刺しておきたいと思ったまでです。

私も経営顧問として遇してくださる企業トップのお客様を幾人か持っていますが、これらの方はご自分の人生の目的、幸せというものに対して確かな視点をお持ちで、お聞きになる質問も設問の設定が非常に明瞭です。 そうなれば、こちらもお聞きになっている事のガイドラインをお教えすれば良いだけで済みます。

話を戻して、「物怖じしやすい性格」と一口にいっても、それを構成している素因、要素は実に複雑多岐に及び「これが原因だ!」と簡単に断じれるものではなく。 占い的に大凡の輪郭=見通しは付くものの、決め付けてしまうと危険です。 何故なら、この構成する要素というのは、そのひと自身のオリジナリティーと密接に関連している場合が非常に多く、これを不用意に批判、攻撃しようとする試みは、その方のオリジン、ひいては存在意義そのものを脅かす危険性の高い行為なのです。 改善のつもりが改悪になってしまうということ。
これで「100%正しいアドバイス」が、なぜ役に立たないかお解りになったと思います。 存在意義を脅かされるのですから、防衛反応を引き出して当然なのです。
ここまで説明して「じゃぁ、やはり性格は改められないのですね。」と仰られてガックリくる場合が少なくないのですが、それは違います。
「改めよう」と心底から思う動機があれば改まります。 この「動機」を働かせるために、「その方の幸せは何処にあるのか?」を考えていかざるを得ないのです。
人というのは「わたしの居場所はココだ!」という確信があれば非常に強くなります、逆に自分の居場所が見付からないことには不安で仕方がないのです。 「自分の居場所」とはジェイムス・ヒルマンの言葉を借りれば「内なるドングリ」を見出すことに他ならず、それは「自分は何者か?」という問いに対する答えそのものなのです。 宿命とは世間一般に言われているそれとは違って、これを指すのでしょう
「じゃぁ、それが何かあなたには判るの?」と問われれば、それは判りません、「法の華」の誰ぞや「ライフスペース」の誰ぞみたいに「わたしには判る!」なんてのは嘘八百の詐欺師です。 それは魂を宿したご本人以外には決して判ろうはずもありません。 確信を持って「当人以外判るわけがない!」と確信を持って断定できるのが、占い師なのかも知れません。
ただ、そこへの入って行き方を多少なりとも心得ているので、道のりに同道してゆく夢前案内人にはなれるでしょう、と申し上げられるだけです。

トップページに掲げてあるように「神よ、変えられるものを変える勇気を 変えられないものを受け入れる静けさを このふたつを見分ける叡智をお与えください。」ここに言う「見分ける叡智」これこそが「内なるドングリ」なのだろうと思います。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

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