カウンセリングとは
今日、日本国内で「相談」という意味の一般語として使われている(コスメティック、エステティック・サロンでのそれとか、「不動産カウンセリング」などの使い方)のは、不適切かつ誤解を助長するものだと言わざるを得ません。
例えばコスメティック・サロンで、ある人の希望、肌質、顔の造り、髪型、服装などの諸条件に合わせて、最適な化粧品や、化粧法をアドバイス、提案する、これは「コンサルテーション」(コンサルト:consaltの副詞型>コンサルトすること、という意味)と言うのが正しいです。 コンサルト「条件設定調整する」という意味で、主に物理的条件に鑑みて合理的または経済的、美的な観点から、主に即物的解決法(または、一つの理想型)を呈示すること全てがこれに分類されます。
我々の仕事に関わりのある中では、ソーシャル・ワーカー、福祉コンサルタントなどがこれに当たります。
カウンセリングに対する世間一般の誤解に「面会して話をただ聞くだけ」というのがあります。ただ合って漫然と話を聞くだけなら、それは「meeting」と呼ぶべきもので、これはカウンセリングではありません。
また、ただ「相談」というだけなら「〜ing」を付けて「counceling」と呼ぶ必要はなく「councel」または「council」とだけ言えば間に合う筈です。
英語でbe動詞を伴って現在進行形として用いられる場合以外の「〜ing」で表現する場合は、「能動的関与」「主体的前向きさ」という意味ニュアンスを込める場合です。
つまりカウンセリングとは「councel」に対して主体的・・・即ち 客観的事実のみならず主観的諸要素(価値観、人生観、感情、信念、個性…etc)も含む全人格的に参与することを意味し、この点ではクライアント、カウンセラーは等価で平等です。
お化粧の相談に全人格を賭けて挑んでいる人なんて居ませんよね(笑)。
全人格的関わりを或程度持続的に持つことで、クライアント、カウンセラー双方の「自分の生にとって不都合、もしくは本来の自分からズレた点」が明かとなり、それを如何に自分に再統合するのか、という課題に取り組むことで、人格の成長(この意味での変容)が促される、これがカウンセリングです。
こうと言葉で言うほど簡単ではない問題が実はあります。 それは「こころの問題」「こころの病」を抱える人というのは「本来あるべき自分の設計図」と「社会人として弁えていて然るべき常識、社会通念、習慣…など」とが少なからず衝突を起こす傾向を示す人である事が大半だからです。 もちろん、この中には、明かな「問題人格」「異常性格者」として司法の手に委ねるべき人も居ますが、これは別格として、自らの中に「社会に適応の難しい部分」を抱えつつも、と同時に「社会に適応せねばならない」と思っている人が大多数で、これゆえ自己葛藤を起こしているのです。
この葛藤を「我が事のように」共有し、単なる妥協案ではなく、第三の新たな道を、この意味での活路を見出そうとする試み、これがカウンセリングです。
こういう状況に陥ったことの無い人には理解し難い事でしょうが、単なる妥協案で間に合うのなら、その人は悩まないし、悩んでも「こころの病」にはなりません。
またこういう誤解が世間には根強くあります。「こころの病になるのは、自己解決能力の無いダメ人間」「こころの病になるのは、病気に逃げている弱い(卑怯な)人間」という誤解です。
そうと言えるケースが皆無だとは言いません、しかし逆説的に言えば「こころの病」にならず順調に人生を送っている人というのは「自分が楽に出来る事だけを選び、それを利用しているだけに過ぎない猾い人」とは言えないでしょうか? あくまで逆説的にデフォルメした言い方ではありますが。
安易に同情しろと言うのではありません。安易な同情は却って反発を呼ぶだけです。 「こころを病む人」の大半は、病んでいる事を自覚しています。 だから病んでいないかの如くに接したり、病んでいる事には触れぬよう無視して接するのは、バカにしているに等しいのです。
よくよく考えて頂きたいのは、彼(or彼女)らは「こころを」病んでいるのであって、それ以上でも、それ以下でもないということです。 例えば、心臓に病気を持っている人が激しい運動が出来ないのに対して「ダメな人間」と云う人が居るでしょうか? まず居ませんよね。 これと同じです。
話が少し広がってしまいましたが、このように非合理を「非合理だ」と退けずに、言い換えれば非合理か合理かという見方は一旦留保して、その人の「こころの在り方」を偏見、先入観なく共に理解しようとする試み、これを通じて新しい価値体系、世界観とでもいうべきものを見付けようとするのがカウンセリングなのです。
だから、単なる相談でもなければ、グチ聞き役でもないのです。(必要と判断されれば助言、忠告、示唆、レクチャーもするし、グチを聴いてあげることが必要な間合いではグチ聞き役にもなるけれども、時と場合、臨機応変に対応する・・・決まったパターンがあるのではないという意味)