経営者の忠誠心

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日本語で忠誠心というと江戸時代からの上限関係観念の名残で兎角「下から上に対しての」というフレームに嵌めて捉えてしまいがちですが、上から下への忠誠心これもあって良いし、事実ある筈だと思います。
経営者になったつもりで考えて欲しいのですが。 雇う側の立場で考えれば有能な人を採用したいと考える。 特に中小零細の経営者であれば、履歴書/職務経歴書上「きれいな」人は大企業に取られているので、履歴書/職務経歴書上ではその能力の優劣可否を判断できない(できにくい)人の中から有能な人を、もし見付けられるのであれば見付けたいと考えている。
実際、履歴書/職務経歴書上「きれいな」人でも、雇ってみてから「(自社に合っている/いないを含めて)使いものにならない」と判定されるケースはゴロゴロあり、況してや履歴書/職務経歴書上で判定せずに人を雇おうとすると、早い話「取り敢えずやらせてみて」それから考えるという手法がもし出来るであれば、これが一番良い・・・履歴書/職務経歴書上では良い印象を与えられないけども能力なりやる気のある人には機会が与えられるというメリット、雇う側には判断材料が少なすぎる段階 [1] で採否を決めなくて良いというメリット・・・に決っている。
「そんなこと出来るようにしたら経営者側が好き勝手に人を使い捨てにするじゃないか!」と、おいおい、いつまで発展途上型の労働組合思想から抜け出れていないのだ、と言いたくなる左翼的思考法に(知らず)染まっている人は多いようですが、ここで考えて欲しいのが表題の「経営者の忠誠心」です。
経営者だって同じ人間だし日本人です。忠誠心があり仕事熱心の人を可能な範囲で厚遇したいし、長く勤めて欲しいと考える、という考えてみるまでもなく当たり前のことが何故か「労働者vs経営者」という構図になった途端忘却されるのはおかしいでしょ?ということです。
細かいテクニカルな論理考証は、池田氏のブログを拾い読みしていって貰えれば理解できますし、過去に何度も当ブログでも引用しているので繰り返しませんが、「日本人は勤勉で真面目」というその建前の綺麗事とは裏腹に、現在の労働規制は労働者側の忠誠心もとうの昔に破却している [2] し、かつ、経営者が労働者への忠誠心を発揮できる機会も破却しているということです。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 履歴書/職務経歴書という紙切れ上の綺麗事と僅かな時間の面接での印象の好悪という「そんなんで決めてええんかい!」という
  2. 世界でダントツ最下位!日本企業の社員のやる気はなぜこんなに低いのか?|『社会貢献』を買う人たち|ダイヤモンド・オンライン
    http://diamond.jp/articles/-/30488

アメリカ人は空気が読めないの嘘

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「アメリカ人は空気が読めない」と思っている日本人は結構多いように思います。はっきり言ってこれは嘘です。
例えば有名どころでは大前研一氏がその著書内で「うちの奥さんは典型的アメリカ人といって差し支えないが、家では“あれ”,“これ”,“それ” あとは目線の送り方、目配せで大概のことは阿吽の呼吸でわかってくれる。つまり“察する”という能力はないというのは全くの嘘だということだ」というような内容のことを書いています [1] が、個人的にもアメリカ人はじめ欧州諸国人との付き合いを通じて同感に思います。彼らの察する能力が特段劣っているとは思いません。察し察しられという関係の根っこにあるのは感情だと気付いていれば、彼らには感情は無いという荒唐無稽なことを信じでもしていない限り当たり前だと認識されると思います。

では何故「アメリカ人は空気が読めない」と言われることが多いのでしょう?
答えは実に簡単で、彼らは「読めない」のではなくて「読まない」のです。
どういうことかというと、アメリカは御存知の通り多民族社会です。またヨーロッパもアメリカ程ではないせよ多民族社会です。察するというのは価値観や美意識、情緒性や知識などに於いて共通項が多く存在している相手ほど容易で、反対に共通項が少なくなればなるほど難しくなります。単に難しくなるだけならまだ良いのですが、的外れが多発することになります。察し察しられというのを支えているのは感情だと先に述べた通りですので、「察し察しられ」ベースでの的外れは不愉快に感じやすく「わからない(適切に察しない)相手を非難する感情」が生じやすく「こんなことも分からないのか!」と馬鹿にする感情の半ば伴った非難の言葉が口について出たりもします。こうなれば「わかるよう示していない自分のことを棚に上げて何を言う!」と罵り合い、喧嘩が始まらない方がおかしいでしょう。「相手(他人)も同じように感じる筈だ」「同じように感じてくれないと嫌だ」というのは感情というものの厄介な側面です。

人種の交差点と今や言われるアメリカも元々は、ネイティヴの住んでいる土地を奪ったヨーロッパ各地人がコミュニティーを作る形から発展しており、そのコミュニティー毎の閉鎖性は割とあって、この頃に於いてはアメリカだってコミュニティー内で「察し察しられ」ベースで動いていたのです。その証拠に今でも田舎の方へ行けば、その土地、地域の暗黙の了解が厳然と在って、これをイチイチ明示的に語るのはタブーという地域は幾らでもあります。 [2] それはさておき、世界各地からの移民の流入が増えるに従って少なくとも大都市圏に於いては「察し察しられ」ベースで動くと利便性よりも軋轢が発生する方が圧倒的に上回ってしまうことを彼らは学んだ結果、Public領域では「察し察しられ」ベースを封印したのです。「察し察しられ」ベースで動いて良いのは家族、親しい友人の間柄だけで、それ以外には用いてはいけないと。
これは単にそういう行動を抑制するようになったという意味だけではなく、家族、友人の間柄だけにしか通用しない作法として“汎用性のないもの”と低い価値付けに転換したという点で重要なのです。
これが広く定着したのは公民権運動以降であるというのは案外と語られない事実ですが、公民権運動というのは単純な人種差別撤廃運動なのではなく「マジョリティのマジョリティ故の暴力性」の自覚を促す運動でもあったと気付けば当然の帰結と言えるでしょう。
人種差別はアメリカでもまだまだ依然として根強く残っており、この意味では真の意味でのマイノリティ排除の廃絶はまだまだ道半ばだと言えますが、「マイノリティを許容した方が社会の柔軟性が失われにくく社会全体として得」という思想がアメリカ的楽観主義気風 [3] の根っこに加わって現在に至っているという点は特筆しておくべきだと思います。
多様性があった方がその系は強いというのは生物学によってその後再発見されたことで、この思想が単なる多民族社会による経験則以上のものに今やなっているのは御存知の通りです。
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——–[ 脚注 ]—————-
  1. 本棚を探索するのは大変なので記憶に基づく要約ですみません
  2. アメリカがなぜ合衆国なのか。なぜ州の独立性が強いのかは、この辺とも関係があります
  3. 良い面のアメリカ楽観主義

貧困層の固定化を欲しているのは誰か

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前回記事の補足です。

生活保護を白眼視しても意味はない « 侏儒の言葉 | 物語り研究所「夢前案内人」
http://therapy.under.jp/生活保護を白眼視しても意味はない/

資本主義を前提とした自由主義経済を内包する自由主義とは、経済を含む社会一般の活動への国家の介入はルール整備 [1] の最低限度に止め基本自由にさせる。また、そのルール自体も社会の新陳代謝を阻み固定化を促すようなものは極力避ける [2] 。その結果経済的格差が生まれることは容認するという主義です。経済活動を自由にさせると、上手く大儲けする人と小さくしか儲けられない人、事業に失敗して無一文になる人が出てくるのは理の当然なので、この「結果の不平等」を肯定しないことは自由主義を肯定しないことと同義なのだということは先ず押さえておくべきでしょう。
では「結果の不平等」は全く問題視しないのか?というと、これは違って、人道的、道徳的見地からよりは、失敗した者、何らかの理由でメインストリームから外れてしまった者を救う仕組みがないと、リスクを取ってチャレンジしようとする人の絶対数が少なくなる – それは新陳代謝が滞りから社会全体が老化(衰退)していくことを意味するからという理由で生活保護のような最低保証の制度は必要と考えます。有り体に言えば「いつ、誰が(自分自身も含め)、いわゆる“負け組”になるかわからない」からということ。

いわゆる“勝ち組”の一言で一緒くたに括ってしまっているけれども、この中の真の意味で勝ち組と言える、会社を起こすなど実力で成り上がってきた人に生活保護問題(その制度設計に対する批判は多くあれど)バッシングの声は殆ど聞かれず、学歴偏重社会への適応で大企業、霞ヶ関への就職を勝ち取ったのに代表される「所属組織のシグナリングで勝ち組になれている“似非の勝ち組”」層に「食わせて貰ってるんだからありがたいと思え」的な差別意識丸出しの声が多いのは何をかを言わんや。
つまり、前者は先に述べた通り、社会的活性が高い状態が保持されることとセットで、その補完システムとして最低保証を捉えているのに対して、後者は、所属組織が自らの社会的地位の高低の裏付けとしている人達 → より露骨に言い直せば [3] 所属組織の高低が個人の格付けを決めていると考えている人達なので社会は流動的でない方が良いと考える、その格付け根拠の絶対性が薄くなる社会的活性が高い状態は好ましくないというのが本音なので、一方で口先の綺麗事としては薄給の人達を気の毒がったり、生活保護受給せざるを得ない人達をかわいそうがったりし、他方で差別意識丸出しに「選り好みせず就ける仕事に就け」と言うわけです。この「選り好みせず就ける仕事に就け」というセリフは一見正論ですが、自分達がありついた美味しい部分の残りカスを乞食にくれてやっている特権階級意識が背後に隠れており「食わせて貰ってるんだからありがたいと思え」というセリフと根は同じだと分かると思います [4]
だから今の生活保護制度は、その身分に安穏と甘んじていた方が楽と思わせるインセンティヴが強い制度設計になっている、つまり、本音では身分は固定化されていた方が好いと考える人達が作った制度なのでそうなっているのは当たり前だ、というのは穿った見方でしょうか? [5]

今出てきている限定正社員論も発想の根っこは同じで、上位エリート層身分の固定性は死守した上で下部層領域内を多少いままでよりシャッフルできるようにするという発想に過ぎないのです。 こういう書き方をすると私がエリートというものに敵意を持っていると誤解する人も居るかも知れませんが事実は寧ろ逆で、真のエリートと呼べる人達には一目置くし、尊敬もする。但し、真にエリートなら制度や社会の仕組みなどに守って貰わなくてもエリートで居続けることは可能なはずで、そういうもので保身しないと危うくなるのは似非エリートだと言っているだけです。
つもりだけグローバル化してて実は現代日本人は相変わらず江戸時代に生きているという與那覇潤氏の指摘は正しい。
また、この身分固定の解消は絶望的と考えると「31歳フリーター。希望は、戦争。」ということになるでしょう。

生活保護制度の制度設計の問題点批判、これも当然必要ですが、その前に、新陳代謝が滞らず社会全体が老化していかないように社会全体の在り方を変える方が先で、これが実現すれば生活保護受給者が社会問題となるほど増えることは当然ないし、これを実現しないまま事実上破綻している年金制度を清算してしまうと生活保護に国難レベルの人数が殺到することも当然の成り行きとして予想されます。
「誰が“負け組”になるかわからない」というのは「誰が“勝ち組”になるかわからない」と同義。事前には何が最善かなど分かるほど我々は賢くないという当たり前の事実を、知識としてだけでなく感情として理解すべきだと思います。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. ルール整備と規制を同一視している人は多いが本質的に違う
  2. ルール整備のつもりで規制をしている例がこの国では非常に多い
  3. 他人の不興を買うので露骨には彼らの多くは言わないが
  4. だから、社会の流動性を上げる各種規制廃絶、構造改革を成し遂げていない段階で、このセリフを言っちゃ駄目なんですぜ。>橋下徹氏
  5. この船も最早沈み始めているので「沈み出しているタイタニック号の中で三等客室は誰に割り当てるべきかの議論をしているようなもの」という喩えは秀逸

生活保護を白眼視しても意味はない

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ご本人も「正論」と云う全くその通り。

Joe’s Labo : 週刊東洋経済 「65歳定年の衝撃」にインタビュー掲載中
http://blog.livedoor.jp/jyoshige/archives/6239208.html
> 出生率が2.0を割り現状の社会保障制度が維持できなくなるのが明らかとなったのは70年代。
> そのときすでに選挙権がありながら何も変えようとしなかった人間の年金を支払うために
> 選挙権の無かった人間がワリを食うのはおかしいだろう

70年代と聞いて直ぐに思い浮かぶのは、社会党、共産党を支持母体とする所謂「革新系自治体」が日本各地に誕生し“揺りかごから墓場まで”の英国方式が理想のように喧伝されていた [1] の時代であり福祉元年と銘打って保守政党(とされる)である田中角栄内閣が高福祉の方向へ加速させたこと、と同時に田中角栄内閣は御存知の通り「日本列島改造論」をぶち上げ地方への各種バラマキ政策によって東京、大阪、名古屋などの大都市への人口集中を止めた。こういう時代である。

三大都市圏への転入超過と実質GDP成長率の推移(参議院調査室資料より)

三大都市圏への転入超過と実質GDP成長率の推移(参議院調査室資料より)


増田悦佐氏が『高度経済成長は復活できる』で実証している通り、その後のバブル経済で一旦持ち直したかのように誤解している人が多いのとは裏腹に、この70年台の出来事から日本の経済成長は一気に凋落していたのである。一般には「オイル・ショックによって一時的に停滞しただけ」との説明が信じられているが、グラフで一目瞭然の通り「バブルというまやかしの時代」の部分を無視すれば70年代に低空飛行状態に入りバブル崩壊で壊滅状態になっただけ [2] [3]
あの当時は日本がやっと豊かになったという実感が人々に行き渡り、経済的に余裕があったのでその余裕分を、分配を不公平にしか享受できていないと主張する層(または地域)に「まぁ上げてもいいんじゃない? 僕の取り分が減るわけじゃないみたいだし」という気分に流されたのは仕方ないという言い訳はよく聞かれる。確かに、あの時代に今の年齢になっていたとして今できている分析のような冷静な判断が出来たかと言えば、かなり怪しい。だから今の視点から彼らを馬鹿呼ばわりすることはしないし、するべきではない(したところで鬱憤は幾らかは晴れるだろうが問題は何ら解決しない)。ただ、その「自分達が選択した」各施策が誤りだったと、単に誤りだったというだけでなくこれからの世代の足を引っ張り/搾取する仕組みになっているということが明らかになった今、その全てを返上しご破算にするのが道理というものだろう。有り体に言えば「自分(達)のケツは自分(達)で拭け」ということだ。
生活保護レベルよりは緩い基準で良いとは思うが、一定以上収入(預貯金、家賃収入、配当、資産運用収入 etc ありとあらゆる最終的に生活に充てられる金銭、資産)がある人には年金が受け取れないというルール改正にすべき。実際にはこういうルールにすると、まじめに働いて稼ぎがある人ほど貰えない公算が高いので保険料を払わなくなるに決まっているし、その運営コストも考え併せると、生活保護に一本化して、但し「65歳以上の者」は「実際に居住している持ち家」「日常の便に役する自家用車(贅沢品と見做せる二台目以降は除く)」は「生活保護受給資格認定対象から除外」というルールにするのが合理的 [4] 。(だから結局「負の所得税」が一番合理的なんだけどね)
この方式のメリットは「行政コストが大幅に節約できる」と「助ける必要のない高齢者へのバラマキをカットできる」で、ザッとした数字だが社会保障費約100兆円 [5] のうち、50兆円が年金、30兆円が医療費、それに対して生活保護費は3兆円という数字 [6] を見て、(不正受給者の問題はそれはそれとして放置すべきではないが)大局的にみて生活保護受給者叩きをすることと、どっちが重大な問題か一目瞭然だろう。当の高齢者および目前にしている世代が自分達の損になる論点から国民の関心を逸らせられる生活保護受給者バッシングを支持するのは或る意味合理的だが、若者世代にこの論調に乗っている人達が思いの外多いのはびっくりする。ハッキリ言えば莫迦。 一番最初に引用した城繁幸氏のコメントに戻れば、上の世代が犯した過ちを自分達も繰り返すのかと、上の世代に自分達が受けた酷い仕打ちを今度は自分達が下の世代に殺人パスして行くのかと。これではまるで、親から虐待を受けた人が親になった時に同じように子供を虐待する [7] という「負の連鎖」と一緒ではないか。

現行の生活保護制度は不正(および不正に近いと感じるもの)を抑制する仕組みは一切無いに等しく [8] 、経済学(心理学)的インセンティヴの観点で捉えた場合「働いて生活保護を脱却しようというインセンティヴ」への働き掛けは皆無で、寧ろ「働こうとせずに漫然と受給に安住していた方が得と思わせるインセンティヴ」が強く働く制度設計になっているこれはこれで大事な問題は別途ありますが、今日はこの辺で。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 実際には、この当時で既に英国財政は破綻寸前だったのだが
  2. 池田信夫 blog : 「就職氷河期」はなぜ起こったのか – ライブドアブログ
  3. 『戦後日本の人口移動と経済成長』参議院調査室第三特別調査室 縄田康光
  4. 通常の生活保護は、これら資産が在った場合、先ず処分して現金化しこれで食い繋げれるだけ食い繋いで、その上で無収入のままに至った場合にはじめて申請が受理される
  5. 2010年以降毎年100兆円を超えている
  6. 『生活保護費は増やしても良い。』中嶋 よしふみ
  7. その全てがそうなるということは当然ない。その傾向が本人が無自覚だと顕著になるという以上ではない。言わなくても分かっていると思うが念の為
  8. 非受給者から白眼視されるのを恥と感じる旧態依然とした今や機能していない古典的心理圧迫だけ。なので常軌を逸してバッシングが炎上するのであろう

後出しジャンケンを認める国に外資は来ない

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大前さんにしては突っ込み不足という感が否めない。「大前氏にしては」だけど。

「米国化」が進む日本、いずれ「三つ子の赤字」に陥る | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉:日経BPオールジャンルまとめ読みサイト
 http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20130521/351344/

国内市場が成熟してくるに連れて国内企業が生産拠点を海外に移すなど「外に出て行く」のは(鎖国でない限り)必定なので、その分を外資に呼び込むことでバランスさせて国の経済を(雇用も)維持していく必要がある、という主要論旨は正しく、個人的にも異論はない。 が、その解決策が「外資を呼び込む工夫や取り組み」か?
いや、それらが必要でないと言いたいのではない、それはそれで必要であろう。
が、それ以前のもっと根本的問題として、2006年の最高裁判決に始まる貸金業への規制強化や、村上ファンドや堀江貴文氏を重罰に処したのにみられるまともに機能していない行政&司法(恣意的行政の影響下にある司法)、また合法的買収行為に対して「ハゲタカファンドから守る」と称して後出しジャンケンの防衛策(違法の疑いがある)を擁護してしまう行政 [1] ・・・「ルールのない国でビジネスはできない」という問題、これを放置したままで外資を呼び込む工夫や取り組みを行なっても功を奏するわけはない。
(同コラムの他の記事でこの点は指摘しているので大前氏が認識不足でないことは明らかではあるが)

参照:池田信夫 blog : 中国と日本のカントリーリスク – ライブドアブログ
  http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51810900.html

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 行政が司法の役割までしてしまっている点も問題である

終身雇用というカルテルこそ問題

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何を言いたいのか意味不明。

非正規労働者のメーデー 「アベノミクスから雇用を守れ」(田中龍作)
– BLOGOS(ブロゴス) http://blogos.com/article/61392/

というか論理的に意味が通っていない。
推測で埋めて意味が通るように考えてみると、どうもこの田中龍作 [1] なる御仁の頭のなかでは「有期契約労働者(非正規)と無期契約労働者(正規社員)の差別は固定」されている信仰が大前提になっているみたいだ。
この大前提を置くと「無期契約労働者の労働条件が悪くなる [2] のなら、これに連動して有期契約労働者の労働条件はより一層悪くなる」という結論が導き出され意味が通るからだ。
実際のところは、

池田信夫 blog : 非正社員の敵はどこにいるのか
– ライブドアブログ http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51854369.html

で池田氏が述べている通り、今まで異常に厚遇され過ぎてきた無期契約労働者の「厚遇さ」が無くなるだけなのだ。 更には(池田氏は「社員を雇いやすくすること」とサラリと述べているだけだが)「解雇しやすくなること」と「雇いやすくなること」はコインの裏表の関係であると言っているのである。
「資本家というものは強欲で労働者から搾取することしか考えていない」と条件反射するマルクス・レーニン主義的洗脳頭では「そんなことはあり得ない」と認識され思考停止「リストラをすれば企業の内部留保は増え株価はあがる」という風が吹けば桶屋が儲かる式の乱暴な三段論法に納得してしまうようだが、普通に考えて、人を雇わないと仕事が回らない企業に於いて雇うことを減らすだけで内部留保が増えて株価が上がるなら従業員全員を解雇した企業の経営者はウハウハで笑いが止まらないということになるが、実際には(考えなくても分かる通り)その会社は潰れるだけである。

簡単な算術で、今まで100万円の月給で90人雇っていた企業がこれを止めて月給30万円で人を雇い直したとしたら、単純計算なら100万円×90人=9000万円→9000万円÷30万円=300人雇える計算になる。 実際には例えば「人件費が軽くなる分の30%は商品(サービス)の提供価格の値下げに回させて貰うとして」と経営者が考え、9000万円×0.7÷30万円=210人ということになったり、「いやウチの仕事は300人も人員が要らない、150人で充分」と9000万円÷150人=60万円(先の30%経費削減策を実施しても42万円)ということになったりするだろうが、何れにしても雇う人数が増える傾向または、無期契約労働者を厚遇し過ぎた皺寄せで必要以上に買い叩かれていた有期契約労働者 [3] の給与水準が上がる傾向が強く見込めることは分かるはず。
「そんなの希望的観測に過ぎない」という声が聞こえてきそうだが、必要以上に(蓋然性を逸脱した)安い給料で人を雇おうとしたする企業が現れても [4] 結局は充分な人数もしくは能力を備えた人員を確保できなくて適切な水準まで給与設定を上げざるを得なくなる。市場原理とはそういうものだ。 著しい薄給で雇わないと経営が成り立たない会社は当然潰れる。これも市場原理である [5]
現段階までは無期契約労働者の給与の下方硬直性が著しく在るので、市場原理は有期契約労働者の方への皺寄せとしか働いていなくて、だから上辺だけを見れば「市場原理=悪」と映りやすいのはわからなくもないが、実は問題は市場原理の方ではなく、市場原理が公平に機能しない元凶の一つである無期契約労働者の給与の下方硬直性の方なのであり、これを確固たるものに担保する終身雇用(無期契約労働)という考え方自体なのである。 上の給与下方硬直性に手を着けずに最低賃金水準を上げる発想をするのは雇用自体の海外流出を促進するだけで有害無益である(給与下方硬直性を改善した上ならばそれなりに意味はある)。
当然この「給与の下方硬直性」に守られてきた「無期契約労働者」たちはにとっては労働条件は間違いなく悪化するので反対の声を上げる。やれ「市場原理主義=悪」だの「労働者搾取」だの「労働者階級差別」だの、、、さも、これまで虐げられてきている有期契約労働者の「仲間」であるかのような口ぶりで。(都合の良い時だけ「労働者」というバズワードで被害者の仲間ぶって自分達の特権を強化してきたヤツラは、また同じ手を使おうとしている)

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「田中龍作」でサクッとググってみた(https://www.google.co.jp/search?client=safari&rls=en&q=%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%BE%8D%E4%BD%9C&ie=UTF-8&oe=UTF-8&redir_esc=&ei=QX2FUdrpPI-ViQfb4ICABA)ところ「貧困ビジネス」の方のようである。「貧困ビジネス」とは、弱者の味方のフリをして生計を立てている輩・・・おまんまの食い上げになるので弱者が居なくなると困る・・・を指すバズワード。福島瑞穂、上杉隆などが典型例
  2. 今まで実質不可能だった解雇ができるようになるだけだが
  3. 実際には大企業の皺寄せを同じく受ける身の中小零細企業も含む
  4. 過渡的現象として現れる可能性はある
  5. 露骨に好ましくない労働条件が社会から淘汰されることは労働者にとっては喜ぶべきことである。「雇用が減る」と云ってこういう類を生き残らせるのは本末転倒

なぜいじめはなくならないのか 続1

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先日のエントリーの続きです。

なぜいじめはなくならないのか « 心理学エッセイ | 物語り研究所「夢前案内人」

先のエントリーで「動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり」と書いた。
動物行動学(生態学)に或程度以上詳しい人ならご存知の通り、動物の世界のそれは「いじめのパターンA」に対して、こういう反応を返すといじめ行動がストップする「対応するパターンa」が必ず存在し、この対によって集団の秩序が維持されているという「行動様式(行動のお約束)」が存在するのである。
だから、この「お約束」を守った行動をする限りにおいていじめがエスカレートすることはないのである。(「お約束」通りの反応を返したのに「お約束」に従っていじめ行動を止めなかった個体があった場合は、今度はこの個体が集団から総攻撃を受け排除される)

で、実は、この行動様式は人間でも同じなのだが、「いじめのパターンA」に対して「対応するパターンa」を返すという「お約束」が厳格に守られている社会は部族社会で、西洋近代啓蒙主義的には「野蛮」で「劣った社会」とされる。この「西洋近代啓蒙主義的」つまりは「西洋中心主義」な価値観なので、これが真に普遍的に正しいかどうかは疑問の余地は大いにあるのだが、現代日本の社会はこの西洋近代啓蒙主義的価値観に則った社会に(一応)なっているので、この「お約束」を守る必要はないと考える個性を認める社会になっているのだということ、先ずこれは押さえておかないといけないポイント。これは所謂「個人主義」とほぼ同義だと考えて差し支えない。

ところが、いま先の文に「一応」と括弧付きで書いた通り、そのマインドというかメンタリティは依然として古い部族社会的な人が結構な数残存しているという・・・もしかしたら私も含めて完全に払拭できていない人の方が圧倒的多数なのではないか?・・・中途半端にしか個人主義的マインドというものを理解していない人がかなりパーセント居るということで、つまり
「お約束」を必ずしも守らなくても良いという自由を認める社会を形成しておきならがら、「お約束」を守らない人に対応する対応の仕方を編み出していない(許容するマインドを持てていない)人がかなりパーセント居るという拗れた状態を孕んでいるのが現在の日本社会なのである。

いじめがエスカレートする理由、またはいじめを悪いことだと(理性的にわかっているのかどうかは関係なく)実感として理解していない人というのは、「お約束」を守らない(お約束通りの行動をしない)奴の方が悪いという感覚をどこか腹の底に持っているので、だから「お約束」に従った行動を取るまでいじめを止めない(止めれない)のである。本能的で動物的だと言えば確かにその通り。
しかし、ここまで書けばご察しの通り、日本の社会ほど「お約束」好きで、「お約束」を守る予定調和を好しとする社会は近代化した社会ではないのである。

「お約束」とは半ば以上「暗黙の了解」または「空気を読むことの強要」なので個性を認め尊重する個人主義とは対極にあるものである。
だから、

  1. 「お約束」を守って平和、そのかわり個性は著しく認められない社会
  2. 個性を認める代わりに「お約束」は最早存在しない、つまりパターン化した行動では生きていけない社会

このどっちを選ぶのか?という選択を曖昧にして先送りしてきたツケが回ってきているのだという認識を多くの日本人は持った方がよい。
與那覇潤氏『中国化する日本』の概念を借用するならば前者は「(再)江戸化」、後者は「中国化」に該当するだろう。この意味でも與那覇氏の指摘・問題提起は正しいと思われる)

「個性の尊重」と言い出して遥かに久しい教育界ではあるが、このこと・・・「空気を読む必要なんかない」「空気を読むことを強いるのは悪」という教育をしてきたかしら?と考えれば直ぐにわかる通り、寧ろ「空気を読む達人たちの集まり」これが教師達だと言っても良く、だからこの彼らに「お約束」を守らない個性を尊重する大事さの認識は薄い、だから「いじめに気付かない」「(鈍感なので)いじめだと認識しない(この彼らですらいじめだと認識するのはかなり露骨なものだけ」ということになる。
この「いじめの本質にある問題性」を認識していない彼らの「いじめは悪いことです」「いじめを無くしましょう」というスローガンが空疎で欺瞞的なのも、ここまで説明すれば了解されると思う。
この点でも彼らを再教育する段階から始めなければならないだろうというのが私の考え。

404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
「なぜいじめが発生するか」という生理学的見地に関してはあまり述べられていないのだ。

答えというほど冴えても充分でもないでしょうが、僕なりに見解を出したわけですが、どうでしょうDanさん。

プラセーボ投薬社会実験の提言

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問題が出るわけない低線量被曝で「鼻血が出やすくなった」「激しい咳を伴う症状が出るようになった」と、そして「これが内部被曝の影響だ」と言い出す人が後を絶たない。中には「医療機器で体内から多くの放射性物質が測定された」言い出す人も出ている。
そもそも事実無根のデマである可能性も当然あるわけだが、今論じたいのはこの点ではない。
また、この医療機器と称するものが本当に信頼性のある医療機器として担保されたものであるどうか自体疑わしいわけ(もし仮に医療機器自体は確かなものであっても精密医療機器というのは大概がそうだが、適正な操作手順で執行されたかどうかもかなり大事)だが、この点も論点ではない。
仮にこれらの A群:「鼻血が出やすくなった」「激しい咳を伴う症状が出る」、B群:「体内から多くの放射性物質が測定された」 という事象は事実であったとしてしても、AとBが同時期に観察されたからといって、この二者間に因果関係があるということにはならない。因果関係はもとより相関関係のあるなしも何ら証明されていない。また、相関関係が仮に証明されたとしても、これは因果関係を証明したことにはならない。また、体内必須物質として放射線核種の物質を(被曝とは無関係に)我々人間は保持(摂取)しているので、体内から放射性物質が検出された = 被曝によるもの とは言えない。(以下も参照)
http://www.mri-jma.go.jp/Dep/ge/ge_report/2007Artifi_Radio_report/cover.htm
http://case311.miraikan.jst.go.jp/home/docs/radioactivity/1104121558

低線量被曝(月間100mSv以下とする)では長期的に健康被害が出るかどうかも疑わしく況してや短期的に健康被害が出ることは有り得ないと知っている科学リテラシーの或程度以上ある人には、以上の説明で充分である。極めて慎重な見解に拠ったところで「きちんと相関関係のあるなし、因果関係のあるなしを調べてみた方が良いですね」と言うところまでだろう。
処がこれらの訴えをする人達というのは、この説明では全然納得しない。また、論理的に説明、説得を試みても殆ど徒労に終わるであろう。(だからとて論理的説明を怠ってはいけないが)

心理の専門家を標榜している私としては識者の皆さんが行ってきているのとは別の観点からの提示をしたい。

前提として彼等の訴える事象自体は嘘ではない、そういう事象があることは事実だとして、
また、それが生物学的、医学的に健康に問題を起こすほどのものではないと言えるにせよ被曝(内部、外部両方の)が或程度在ることは事実であるので、
以下のように仮説を想定することが出来ると考える。

  1. 低線量被曝の場合、そのほぼ100%は多重に備わっている自己修復機能で生体レベルの影響(健康を害するという結果)には繋がらない事は判っているが、と同時に、遺伝子レベルでは極めて低線量であっても一定量の遺伝子の損傷は起こることも判っている。(遺伝子レベルでは「LNTモデル」が成り立つのに生体レベルでは成り立たないということ → 閾値の存在する強力な根拠になっているわけだが。 [1] )
  2. 身体の各部位が察知、検知した情報は全て脳が受け取っているわけだが、我々人間に限らず或程度以上の脳を備えている生物に於いては、受け取った情報を全て真に受けずに或程度以下の雑情報をノイズとして無視するカットオフ値が設定されている。
  3. このカットオフ値の設定は器質因であるよりかは「脳のプログラム・チューニング」次第であると考えられる。
  4. 遺伝子レベルの損傷も逐一脳には情報伝達されているであろうと考える方が自然で、それをイチイチ覚知しないのは脳のカットオフ設定によって無視されているからと考えるのが妥当。
  5. 「そうじゃないか?」と思う心理が強く用意されると通常より遥かに感覚が鋭敏になるという事象があることは多く観察されている。(清潔恐怖症などの強迫神経症が代表的)
  6. これは、そういう心理作用の影響で脳のカットオフ値が下げる場合があるのではないか?という推定ができる。つまり、この脳のカットオフ設定は「△μv 以下の信号は無視」のような一律カットオフではなく脳がそれぞれの重要度、優先度を判断して軽重を付けているものと考えられる(脳による判断 [2] の介入する余地があるということ)。
  7. 被曝が一切無くても遺伝子損傷は、低線量被曝によるより遥かに沢山の頻度で日常的に発生してるので、脳のカットオフ値が下がった場合を想定すると、非常に多くの信号を脳が受け取る結果「組織が損傷しているかも知れない」という誤覚知 [3] を脳が形成する可能性が考えられる。
  8. 脳というのは「辻褄合わせの名人」と呼べる側面を有しており、誤覚知と辻褄の合わせられる顕在潜在両面での身体的脆弱さが在った場合、これとそれとを結び付け症状をより顕在化させる場合があるのではないかと想定できる。また、身体的脆弱さは無くても「組織が損傷しているかも知れない」という警戒認識[1]によって防御反応が躍起される可能性も十分あり、この「攻撃対象が明確に存在しない」防御反応は自身の身体を攻撃し出す・・・アトピーにみられる「確たるアレルゲンが確認されないのにも関わらずアレルギー反応が起こり自らの体組織を損なう働きをする」の [4] と本源的に類似している作用機序による症状を顕在させる可能性も想定される。
  9. これは「負のプラセーボ効果」だと考えて良いのではないか?
  10. 「負のプラセーボ効果」だとの想定が正しいならば、これを打ち消すプラセーボが有効ではないだろうか?と、「これは脳内のカットオフ設定を是正する薬です」と宣言して偽薬を処方することで改善する例が出てくるのではないか?と期待される。 [5]

幸いつい最近に以下のように「プラセーボはプラセーボとわかっていても効果がある」という報告もあるので、症状を訴える人に偽薬である事実を隠したり違う目的であるかのように偽って服用させる必要はない。
http://www.reuters.com/article/2010/12/22/us-placebo-idUSTRE6BL4IU20101222 [6]

また、偽薬を処方することは医師法で認められている。

社会実験として、以上の目的、意図を明確に示して希望者に偽薬を服用してもらう実験を大規模にしてみてはどうだろうか?
当然予想される事態として、幸いにこの予想が的中して症状が改善する人が有意な数以上出た場合に一番困る勢力である「低線量被曝による健康被害を喧伝している人達」「内部被曝の影響を特別、または誇大に喧伝したい人達」が、「非人道的行為」とか「被爆者をモルモットにするのか!」とか言い立てて猛反対するであろうが、上述の通り「目的、意図を偽らずに明示し」かつ「希望者に対して」行うのであるから倫理的にも道徳的にも問題はない。
実際問題は「希望者が名乗り出てくるかどうか怪しい」という可能性はあるとは思うが、同じプラセーボである除染に兆単位の税金が注ぎ込まれることを思えば、こちらの方が遥かに低コストで実現できる。何なら医師会に協力を要請して、この件の処方箋料は無料(診療費は取って貰って良いように思う)、製薬会社にも協力して貰って偽薬を無償提供して貰うというのはどうだろうか?
勿論、社会実験をする以上、その効果が有意にあったかどうかをきちんと確認しなくてはいけないので、訴える症状が本当にあるのか、どの程度のどういった症状なのかを事前に調べてから行う必要があるので、訴え自体が虚偽であった場合、これを沈黙させる効果も期待できる。


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 一例『サイエンスZERO No.365 シリーズ 原発事故(3)「低線量被ばく 人体への影響を探る」2011年11月12日放送』で明確に述べられていた
  2. 「判断」「認識」と言っても自我意識が認知しているという意味でのそれではない。
  3. これを「誤」覚知と呼んで良いのかどうかは議論のあるところかも知れないが。
  4. アトピー体質の人の多くはアレルギー体質でもあるということは知られており、どこまでが心理因(脳のプログラム・チューニングの問題)であるかは峻別し難く見解は混迷しているままであるので、全てが心理因であるかように誤解しないように注意されたし。
  5. アトピーと同じく、器質因も備えている人は一定数以上含まれるであろう。ので、大多数の人の症状改善という虫のいい話はないだろうが、一定以上の有意な結果が出るなら、これで十分意義がある。
  6. 勿論これだけを根拠にプラセーボに過大な期待はしてはいけないのかも知れないが、社会的コストが少なくて済むと見越せるので行なってみる価値はあると考える。

橋本行政改革の胆(キモ)の部分

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20120115 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 part1 投稿者 kigurumiutyuujin

何かと話題になっている2012年1月15日 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 橋下徹市長と山口二郎教授の討論

【報ステなう。】報道ステーションサンデー「橋下徹×山口二郎」感想まとめ – Togetter :
「橋下氏完勝」とか「山口教授フルボッコ」とか橋下氏の痛快な物言いに溜飲を下げる気持ちはわからなくはないが、そういう痛快さに喝采を送るのがナチスのマッチポンプになった事は忘れてはならず、あまりそういった方へ力点が行って欲しくない。 [1]

池田信夫氏が端的に、また大西宏氏はより細やかに分析指摘してくれているが、私なりになぞり直してみる。
今回の討論の主眼だと思われる教育制度改革であるが、各氏の主張を抜粋要約すると以下の通り。

山口氏:
  • 教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない
  • 親とかが「あの教師をクビしろ」とか言い出したら教育なんか出来ない
  • MPの排除などというがそんなことは出来っこない
  • 教師を止めさせろなんて言わせたら歯止めがない
  • 橋下氏:
  • 有権者を愚弄した発言です
  • 保護者、子供がチェックできないなんてそんなわけない
  • MPを排除する仕組みは(別途)作る
  • 保護者と学校が協議をして(個々の学校ごとに個別に)目標を作れるようにする
  • 先ず細かい点から話を切り出すと、山口氏の「教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない」という「100%論理」・・・これ、どこかで聞いたことありますね。そうです、絶対を求めて可能性、確からしさ一切を否定し去る例の論理です。
    それはそれとして、これは反論になっていない。何故なら橋本氏は「親、子供に100%判断を任す」などとは一切言っていなく「チェック機能一翼を担ってもらう」と言っている以上でも以下でもないからである。
    また「モンスター・ピアレント(以下MPと略す)の存在が怖い」という意識が、この発言の下地になっているわけだが、確かにその危惧は全くないと言えば嘘になる。が、これには橋本氏も「MPを排除する仕組みはちゃんと作る」と言っているわけであるが、この部分での二者の齟齬は結構大きく、この齟齬に決定的なものが潜在していると私は考えます。
    自分が親の立場になって考えてみて欲しいのですが、自分がその学校、教師をチェックする委員等の役に就いたとして、するとこれは責任ある立場なので、それまでは無責任に「あの○○先生はダメだ」とか「あの○○教頭はクズだ」などと言っていたとしても、責任ある立場となればそれに相応しい責任ある行動をしようとし出すのと思いませんか? これが普通の人間の心理なのです。
    実際、多少とも実情を調べてみたことの在る方なら同意頂けると思いますが、いわゆるMPと呼ばれている、またはそう周囲からは見做されている親御さんの大部分は、学校または個別の教師のお粗末または誠意の無い対応に問題解決の持って行き場がなくなってMP化しているケースなのです。つまり、この大部分の方々は、問題解決の場が出来たならMPじゃなくなるのです。MPじゃなくなるだけでなく、こういう親御さんの方が寧ろ子供のこと、子供を取り巻く環境のこと、学校のあり方などに関心が高い人が多く、積極的に参加できる場を提供するならば建設的にその意欲を活用してくれることが期待できさえするのです。(意欲、パワーが有ればこそ、それがプラスに使える場が閉ざされているとマイナスに出力されるのである)

    実は、この(心理を含む)ことを理解していて制度設計をしている橋下氏と、「MPは何処まで行ってもMPだ」と決め付けている、つまり「MPをMPじゃなくなる方策がもしあるのなら」という設問を立てて考えてみたことのない山口氏というかなり大きい齟齬。
    この事が理解されるならば、残るMPは極少数の「真に人間的に問題のそもそもある人」だけなので、これの排除は容易。

    最後は一番肝心な部分で、これは教育制度改革に留まらず、橋本行政改革、ひいては国政レベルにおいても改革して貰わないといけない問題で。

    橋下氏;
    「決定する民主主義」「責任をもつ民主主義」ということになれば、これだけ国民価値観が多様化した成熟した日本国家に於いては議論をして全会一致、全員一致することなんて出来ない、だから誰かが決めなきゃいけない。その決定する権限を与えるのが選挙なんですよ

    橋下氏の発言をちゃんと聞けば分かる通り、コンセンサスを得ようと努力をした上で得られなかった時の最終決定権はどこにあるのか、誰にあるのか(誰が最終責任をもつのか)を定めようとしているだけである。 つまり、これを明確にしていないと、コンセンサスを得られなかった場合は決定できない・・・先送りにされ現状維持に・・・ことになり、これは現状維持派つまりは既得権限・権益保持者に極めて有利に働くシステムなのだと指摘し、これを改めようとしているだけである。 コンセンサスしたくない人は「コンセンサスをしない」という「拒否権」を行使すれば良いだけで、しかも行使とは言っても「いや、それはまだ時期尚早」「議論が十分煮詰まっていない」と穏便で尤もらしい理由を挙げるだけで済むので楽なのである。
    この「100%コンセンサス・システム」は、既存の状態が満足できる状態である内はこの仕組みでも(問題は表面化しないという意味で)問題ないが、変化、変革を大きく必要とされた時に事を前に進められない足枷になることは今や考えなくてもわかることでしょう。池田信夫氏が「過剰なコンセンサス」と書いているのはこれのこと。
    これに対して独裁に繋がる、だからハシズムだ、と批判(というより非難)をしている勢力は『「コンセンサスをしない」という「拒否権」』を手放したくない勢力であることは今や誰の目にも明らかになってきている。
    独裁に繋がる可能性があるというのが「論理的にゼロではない」という意味では確かに一理なくはないが、親子関係のアナロジーで考えるとわかりやすい。 最終決定権は親が持っているという意味では親と子は平等ではない。しかし普通にまともに民主的な親ならば、子供が或程度以上に意思決定できる能力を着けてきた以降は、子供の意見に耳を傾けるし場合によれば子供の方が優れた意見でこれを採用するということもする。つまり「決定権」というのは、何でもかんでも全て親が独断で決めるという意味ではなく、「子供の意見を採用する」という選択肢も含めて最終的に決定するのは誰かという点で「親だ」というだけで、または「コンセンサス形成などと悠長なことを言っていられない緊急時」に「誰が責任者かを明確にしておく」という以上でも以下でもないのである。
    このアナロジーで考えるにハシズム批判をしている人達というのは、普通にまともじゃない専横的な親のもとで育った人なのじゃないかしら?と穿った見方もしてしまいたくなる。
    橋本氏の動静を見守っていよいよこれは独裁と呼んで差し支えない毛色を帯びてきたぞ、と思ったら次の選挙で落選させれば良いだけである。これは橋下氏自身言葉の端々に上らせており、これから推察するに橋下氏は「この人に任せておけば安心」と一般選挙民が「お任せ感覚=無関心」になられるのが一番怖いのだと、選挙民の関心を政治に引きつけ続けておきたい、選挙民が政治に関心を持ち続けていくのが民主主義が正しく維持される必須条件で、これを成功体験として選挙民に身に沁みて分からせようとしているのではないか? そうすることで民主主義が日本に初めて根付くと考えているのではないだろうかと思えてならない。刺激的、挑発的言辞を少なからずしている氏ではあるが、「不必要にマイナス・イメージを作っている」と支持者側からも批判のある中、そんなことの分からないほど愚か者で氏がある筈もなく、これはつまり政治への関心度のそもそも低い人の関心をも惹きつけておこうとする計算が充分働いていると考えるべきかも知れない。もしそうなら「あっぱれ!」と言うしかない。
    これに気付くと、この男、我々の想像するより遥かに壮大なことを考えているのではないか、と思えてくる。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. こういう衆愚がハシズムに仕立て上げてしまう危険性は警戒すべきなので、喝采を起こるのも程々にしておいて欲しい。橋下氏ご自身はこういう危険を重々承知していて、この上での言動のようだが。詳しくは後述

    御用学者の正体は?

    1 Comment

    放射線被ばく基準の意味 : Global Energy Policy Research
    http://www.gepr.org/ja/contents/20120109-01/

    「A:無責任な発言をする人」 と 「B:責任ある発言をする人」 このどちらを信用しますか?

    と訊かれて前者と答える人はまず居ないでしょう。

    「2mSv余計に浴びると、200万人の福島県民のうち、がんで亡くなる人が200名増える」と言っていて、その通りにならかった場合、こう発言していた人は「そうならなくて良かったじゃない」と言うだけで済ませれる。責任を問われることはまず無い。
    反対に「被曝量100mSv以下では日常的にありふれたリスクの方が大きいので、事実上問題は無い」と言っていて、その通りにならなかった場合、こう発言していた人は間違いなく責任を問われる。

    つまり責任を問われる(かも知れない)リスクを負って発言しているのは後者である。
    前者が責任を問われないだろうことは皆「実は知っている」・・・

    どこかでみた風景だと思ったら、2009年秋に「新型インフルエンザが大流行する」「パンデミックが起こる恐れが、、、」「老人、子供を中心に死人が看過できない数出る可能性が、、、」などと厚生労働省、製薬会社、製薬会社の営業マンの云うことを鵜呑にした浅はかな(それも結構な数の)医師が、これのマッチポンプを毎度ながら演じたマスコミがパニック気味に大合唱していて、いざ蓋を開けてみたら大流行は確かにしたが、死人は203人であった。 203人というと多いと誤解する人も居るかも知れないが、新型でない通常の季節性インフルエンザの死者数は少ない年で10000人弱、多い年では15000人が亡くなっている(何れも超過死亡概念による推計死亡者数)。この時に、あれだけ不安を煽った厚生労働省、製薬会社、医師、マスコミのいずれかでも謝罪しただろうか? 謝罪していないどころか、マスコミも厚労省も「最悪の事態にならなくて良かった。良かった。めでたしめでたし」という論調で、製薬会社に至っては「売れずに大量に残ったワクチンの在庫をどうにかしてくれ」と “どの口でそれを言っている?” と言いたくなる、どいつもこいつも無責任極まりないまま有耶無耶に。 さすがに医師からは(但し、製薬会社の口車に乗せられずに静観していた医師)「あれは冷静な判断を欠いていた」「リスク管理という観点から外れていた」と反省の弁は幾つも発信されたが、これをちゃんと伝えたマスコミは皆無という状態だった。 [1]

    「実は知っている」のになぜ多くの人は黙って(知らぬふりをして)いるのか? それは「責任を問われる心配のより少ない方へ加担したほうが自分の身も安全だから」である。 [2]
    自分の身の安全の為に、勇気を以ってリスクのある立場に身を投じる人に「御用学者」「御用医師」レッテルを貼って済ませて良いのか?
    自分の身の安全の為なら破綻寸前の国家財政にトドメを刺して、自分達が心配していると言っているその子供達の未来を暗澹たるものにしてしまう結果を招くことが正当化されるのだろうか?

    レッテル貼りの一番危険なところは、レッテルを貼ること自体ではなく、レッテルを貼った瞬間以降思考停止を起こして「本当に正しいのだろうか(間違っているのだろうか)?」「事実はどこにあるのだろうか?」という自問自答を含む問いの公正さが著しく低下してしまう点である。
    もう一度繰り返すが、「責任を負って発言」しているのはどっちか、よく考えてみて欲しい。

    2012年1月18日13時51分:数字の誤記「誤:死者数は少ない年で1000人弱」を「正:死者数は少ない年で10000人弱」に訂正


    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 分かっている方には、これに始まった話ではなく「鳥インフルエンザ騒ぎ」「口蹄疫騒動」「BSE騒動」「ダイオキシン騒動」などなど枚挙に暇がないのだが
    2. 危険であることにしておいた方が補助金、助成金、除染という公共事業が懷に転がり込んでくるのでそうしている、より悪質な輩も沢山居るが

    大阪市政のこれから…橋下氏と平松氏

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    私は橋下氏および大阪維新の会支持である。
    その実現しようと提言している内容も概ね賛同できる。
    細かい点に於いては異論点も無くはないが、一番肝心な点で橋下氏は○、平松氏は×だと判断を下している。
    この根拠として先ず以下を精読頂きたい。

    池田信夫 blog : 効率の高すぎる政府
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292556.html

    この記事で述べられている旧来型の日本で主流の組織、集団のあり方「閉じた系の中での “ご互さんゲーム”」が既に時代の趨勢として通用しなくなっている(それが寧ろ経済停滞の主原因になっている)システムであるという点は国政だけでなく大阪市政、大阪府政に於いても全く同様に当てはまる問題である。
    「国が変わるのを待っていたらそれより先に地方が沈んでしまう」というのが橋下氏の基本的問題意識 [1] で「ならば、関西圏で独自に変わってしまおう」というのが彼および大阪維新の会の一番根っこにあるコンセプトである。
    では、どう変わるのか、どう変えるのかという設問が次に自ずと出てくるわけであるが、これを理解するために以下もご精読頂きたい。

    池田信夫 blog : 局所効率化と全体最適化
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292560.html

    ここで述べられている「コーディネーションの失敗」が正に国、地方を問わず経済界をも巻き込んだ大問題として膠着状態に陥っているのが現在の日本の姿であるわけだが、これから抜け出す方策(引用文中で言う「Bの山(局所最適)からAの山(別の局所最適)へ移動」する方策)は同じく文内で説明されている通り「部分的な修正」「時間を掛けて徐々に変化」では不可能なのである。 大事な点なので同文章内から吹き出すと、

    一つの均衡から他へのシステム間移行は、市場メカニズムで行うことはできず、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こるということになる。ところが同質的なメンバーで構成される関係依存型の「総動員体制」では、突然変異や撹乱が抑制されるので、システム間の移行は困難になる。しかも危機に直面すると、「日の丸検索エンジン」のように、逆に総動員で既存のシステムを守ろうとする傾向が強い。

    だから前の記事にも書いたように、行政の中だけの局所的な効率化を考えていてはだめで、全体的な最適化を考える必要がある。それは市場だけではできないので、重要なのは意図的にシステムを撹乱し、さまざまな実験を行って最適解をさがすことだ。そのために役所にできる最善の政策は、規制を撤廃して行政の代わりに資本市場のガバナンスにゆだね、紛争を事後的に低コストで処理する司法的なインフラ(ADRなど)を整備することだろう。

    箇条書に要約すると

    1. 局所均衡から抜け出すのには市場メカニズムだけでは不可能
    2. なぜならば、局所均衡の恩恵に浴している者(既得権益保持者)は他に「より良い局所均衡がある」と分かっていても今ある既得権、今まで費やしたコスト [2] の見返りの可能性を失う方を恐れて頑な反対勢力になりやすい(サンクコストの問題)
    3. であるので、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こすしか選択の余地はない
    4. この後は、さまざまな実験を行って最適解をさがす状況が出来るよう行政の事前介入(規制)を無くす必要がある
    5. その代わりに資本市場のガバナンスにゆだねる
    6. 資本市場のガバナンスにゆだねると必然的に起こってくる問題はあるが、これは司法的なインフラで事後的に処理するべき
    7. この為、司法的なインフラの整備は必須

    簡単に言えば、問題があると既に分かった局所最適=Bの山は意図的に潰して [3] 平地にしてしまえば別の局所最適に向かわざるを得なくなるので、第一段階として「Bの山を潰す」必要が、そしてこれに次ぐ第二段階として新たな局所最適に向かう過程は基本的に自由競争(市場原理)に委ねるので「事後的チェック機能=司法的なインフラ整備」は必須ということである。

    本題に戻って、「大阪市職員と協調的に穏便に改革を進めていく」と方針している平松氏の主張は日本人的には「美しく」感じられ、かたや抜本的かつ一挙に改革をしようと提言している橋下氏は「強引」で「乱暴」だと感じている人も多いだろう。 しかし上述の論を読まれた後では今や状況として「強引」で「乱暴」とも受け取れる [4] 改革をするしか選択の余地が(少なくともこのまま凋落したくなければ)無いのであるとお分かり頂けるであろう。 かたやの平松氏の方針は、ご当人がその意図で動いていないとしても結果的に、既得権益保持者を温存することであるのは明白であるのみならず、中途半端にいじろうとすると寧ろ混乱が増すという点で×なのだ。

    いま状況が必要としている改革が「強引」で「乱暴」なもしかないのであって、橋下氏個人が「強引」で「乱暴」なのではないということ。この点を履き違えては大局を見失う。
    然るに、ものの見事と言って良いほど、反対勢力(既得権益保持勢力)は「ハシズム」と呼称して橋下氏個人を「強引」で「乱暴」な独裁者であるかのように論理をすり替えて有権者の反感感情を呼び起こすキャンペーン [5] を張っているのは、何をかいわんやである。
    また同じく反対勢力が独裁的と攻撃している公務員制度改革であるが、これも内容をよく検討すれば「事後的チェック=司法的なインフラ」を整備すると言っている以上でも以下でもないのである。
    このように概観してみると橋下氏が提言している内容は考え方に一貫性があり、かつ時代の要請に沿ったものであると結論付けられる。
     以下も参考になります。

    「大盛り上がり」大阪決戦で問われる改革は「アメリカ型」か「EU型」か | 高橋洋一「ニュースの深層」
    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26364

    池田信夫 blog : 日本の経済システム改革
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292557.html

    本題を離れてより本質的なことに言及すると、上述の論を読んで頂けた後ならば、これは大阪市&大阪府だけの問題ではなく、また日本の国政の問題なだけでもなく、我々日本人が文化的に好しとしてきた・・・解決策を考えるよりも問題がそもそも起こらないよう思考(志向)しやすい性質であり、これはイコール問題が起こると直ぐに規制(事前介入)強化をお上に期待・要求する思考法・・・考え方(美意識も含むかも知れない)が変革を余儀なくされているという問題意識をも持って頂けると思う。
    特に教育関係者諸氏には上述の論と共に以下に引用する記事中の

    私は大きな失敗はよくないと思うが、小さな失敗はむしろ好ましいと思う。イノベーションは、小さな失敗の積み重ねだ。イギリスの産業革命は、試行錯誤と失敗から生まれたのだ。これは「ブリコラージュ」と呼ばれる発見的な過程だ。あなたは小さな失敗を積み重ねることによって新しいことを発見するのだ。 だから日本人は、小さな失敗を許すべきだ。

    という言葉をよく噛み締めて頂きたい。「小さな失敗」に神経質になることが「大きな可能性」の芽を摘んでいることに気付いてい欲しい。

    池田信夫 blog : タレブ、福島事故を語る
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51742840.html

    2011年11月17日 00:52 一部加筆(文意は変わっていない)
    2011年11月18日 19:32 追記:一部twitter上で意味を取り違えて炎上している人達が居るみたいなので念の為に補足すると、皆で登っている木に喩えると「今までの木(局所最適B)」は腐ってきていて、部分修正や部分補強での時間稼ぎ(問題先送り)でどうにか凌げるレベルをもうとうに過ぎてしまっているので「より最適な(少なくとも今よりはマシな)木」に「登り直そう」と言っているのが橋下徹氏である。であるので今までの木の上の方に登っている「いい目をしている」人達はいつまでも降りようとしない(のは或る意味当然だが)上、問題が深刻化してきている現段階となっては木から降りるよう呼びかける穏便な手法を取っていられる時間的猶予は最早無くなっているので「古い木を切り倒す強行策に打って出るしかなくなっている」のが現状であるということ。「木にしがみついて降りようとしない人達」から見えている風景は「自分達が登っている木を切り倒そうとする乱暴者」に映ることは容易に想像できよう、が、この現状認識さえわかれば「いつまでも降りようとしないお前達が悪い」という話であることはお分かり頂けよう。 対して「木から降りるよう根気よく説得を続けていく」と言っているのが平松氏なのだが「今までの木(局所最適B)」に満足している人達はそれが完全に破綻するまでそこから離れようとしないというのは歴史が教えるところで、時間的猶予が全く無くなっている現在では最悪の選択なのである。 新たな木に登り直す時に不平等が出ないように機会均等の所々の知恵も同時に提言している点からみても橋下氏は木を切り倒そうとしているだけの乱暴者ではないことは明白。また、新たな木に登り出してみてはじめて認識できる所々の問題 [6] が出てくるであろう予想は出来るわけだが、これについても「実際の運用に際してのルール作りは柔軟に」と橋下氏は表明しているので、全然暴君でも独裁者でもないのである。
    念の為に更に付言するなら、腐り始めていてこのままでは危ない木は「もっと腐っていよいよ倒れ始めた時には被害者は遥かに多くなる」ということ、つまり「その時には、今手を打てば救える人をも救えなくなっている」ということを強く認識するべきである。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. はじめて大阪府知事選に出馬する段階で表明している
    2. 仲間に入れて貰おうと費やした努力等も含む
    3. しまわないとその山の上に居るものはいつまでも降りようとはしないので。また、この山を形成している要件の中に行政の事前介入(規制)も含まれていることに注意されたし。
    4. 特に既得権益保持者には
    5. 情緒的反応を呼び起こして大事な論点から有権者の目を逸らせてしまう「はぐらかし戦法」
    6. 登り出してみないとわからない問題

    中国人を馬鹿にし過ぎ

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    またもTPPネタ。
    但し本丸の方はもう決着したと言えるので枝葉の話 [1]

    今回のTPPに纏わる報道を観ていて違和感を感じた一つに、消費者団体 [2] が「食の安全が脅かされる」とTPP反対を表明していた点がある。
    これの根拠として中国製冷凍餃子中毒事件を挙げているという幼児性。
    相前後して発覚した日本国内の食品偽装問題、食品汚染事件をみて分かる通り「信用できる業者と信用できない業者がある」という事実。これを延長して「中国にも」「信用できる業者と信用できない業者がある」という考えてみれば当り前の中学生にも分かる話になる筈が、どういうわけだか国境の外の話になると「中国の食品(農産品を含む)は全て危ない」という飛躍した話になる。

    社会主義の負の面として、真面目にいい仕事をしようがいい加減に仕事をしようが同じ労働に対しての対価は基本的に同じという側面から、なるべく楽をして(手を抜いて)仕事をする方が賢いというモラル低下が共産党支配になってから顕著になり今もその余波が残っているのは確かで、この意味で総体的に比べたら「いい加減、または不正な仕事をする人および企業」は日本より中国の方がパーセントにして今までのところ高いであろうという推定はたぶん間違っていない。
    ただここで注意すべきは「パーセントとしては日本より低いかも知れないが真面目にいい仕事をする人および企業はゼロではない」という点と「今までのところ」という点である。
    実際ここ数年をみていると中国産の製品(農産品を含む)のクオリティーは眼を見張るくらいに向上してきている。
    これは何故かというと簡潔に言えば「それで金になる」と学習した中国人が増えてきているからである。

    実に粗い大雑把な捉え方ではあるが、その国の国民性というか、その国の国民(民族?)の大きなレベルでの行動原理が何に支配されているかというのを端的に言い表すと、中国は「金治」の国だと言える側面があり・・・つまり「金(経済)によって治まっている国」なのではないか?というのが私の見立てである。
    日本では「拝金主義」と言うと99%悪い意味にしか受け取られないだろうが、これを「金に応じてプロフェッショナルに徹しようとする主義(または態度)」だと捉え直すならば「応分の経済的利得が確保される限りに於いて応分の努力、責任を果たす」という自由主義経済圏に於いての経済人としての実に真っ当な感覚なだけであると分かる筈で、この意味に於いて中国人は「拝金主義」であると・・・つまり悪い意味も含むだろうが良い意味でも拝金主義・・・言えると私は考えている。
    つまり、以前の社会主義時代の悪癖から抜け出せないで相変わらずいい加減な金儲けをする者もまだまだ沢山居るが、「いい仕事をすれば金になる」と分かった者がいい仕事をし出して、その数も増えてきているということである。
    以上は状況等を客観的に観察した私の推測に元々は過ぎなかったのだが、これを中国の企業を相手に取引をしている会社に勤める友人 [3] 、知人にぶつけたところ「大筋で間違っていない」という返事が返ってき、また「金になると判った途端に眼の色が変わる彼らの向上心も含む貪欲さには敬服するものがある」という意見も貰っている。

    つまり私の言いたいのは、今までは確かにバカにされても仕方ない低レベルなことをやっていたのかも知れないが、いつまでもそのまま馬鹿にしている態度で正しいのか?ということである。
    実際、この設問自体既に過去にものになっていると私は思っている。
    つい4〜5年くらい前までは「日本の企業または個人が中国に進出してこの管理・監督下で操業していた会社は」という鍵括弧付きであったかも知れないが、今やそうではなくなってきている。

    もう20年以上前の大学生の頃に読んだ大前研一氏の本に「我々はご飯をいただく時に “お百姓さんに感謝していただきなさい” と躾、教育をされて大きくなってきた。これが海外の農業従事者になった途端 “商社が買い付けてくる買い付け先” に過ぎないという態度は正しいと言えるのか? 安全で美味しい食品を我々に提供してくれているのなら海外のお百姓さんにも等しく感謝するのが当然なのではないか?」という意味合いの [4] 一節があったのを今でも憶えている。 この一文は、よく考えもせず(無根拠に)なんとなく「日本の農家は信用できる」と思っていた自分のその考えが「そうとは自覚無しに国粋主義的・民族差別的に発想していたこと」に気付かされ当時非常にカルチャー・ショックを受けた。
    冒頭に引用した「食の安全が脅かされる」と表明していた消費者団体などは、またそれに喝采を送っている人達は、このこと・・・民族差別的、国粋主義的言辞であること・・・に気付いているのだろうか?
    また真に「食の安全」と言うのなら、「安全基準、衛生基準が決められていく過程も含めて “見える化” し我々のチャックが充分機能するよう」に要望するのが筋で、TPP反対ではない筈。

    念の為に付言しておくと、私はいわゆる媚中派ではない。上記の考察の通り「金にあまりにも敏過ぎる」ので個人的には好きにはなれない。
    しかし、その金に敏過ぎるマイナス面だけを言い立ててプラス面を無視するのはフェアではないと思うのである。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. TPP是非論じゃないという意味で、この問題が重要じゃない枝葉末節の話という意味ではない
    2. の全てか幾つかだけかは知らない。そこまでちゃんと調べていない
    3. 月に何度も中国に出張している人。経営者も含む
    4. 一字一句正確な引用ではない

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