Mac OS X 10.7 Lion プリンタ共有が正しく機能しない

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拙環境は以下の通り。ですので違う環境の場合(特にプリンタが違うメーカーの場合)当て嵌まらない可能性はある情報です。

Mac OS X 10.7.4 Lion
プリンタ:Brother DCP-155C

遅れ馳せにパソコンのOSをMac OS X 10.7 Lionにしたところ、プリンタ共有が正常に作動してくれない事態になり、以下引用部の通りのフィードバックをAppleに送信した。

プリンタ共有を利用した場合、以下の通りのエラーが発生する。

  • USB接続でプリンタを繋いである親機(Mac OS X 10.7.4) に対して、
  • Mac OS X 10.6.8 搭載のMacからは「共有プリンタの追加(登録)が出来」かつ「プリントアウトも正常に行え」る。
  • Mac OS X 10.7.4 搭載のMacからは「共有プリンタの追加(登録)」自体から適正に出来ず。具体的には以下の通り。
    → システム環境設定:プリントとスキャン にてプリンタ追加をしようとする
    → 共有プリンタは認識されておりポップアップメニュー内に名前の表示はある
    → が、これを選択して登録をする操作を行うと、プリンタ情報を確認するために親機にアクセスしに行っている案内が出て暫く待たされた後「現在、サーバからソフトウェアをダウンロードできません。」とのエラー表示で終了する。
    → システム環境設定:プリントとスキャン にて「他のプリンタまたはスキャナを追加…」からプリンタ追加をする操作をすると
    → Bonjour 共有 と親機接続のプリンタはリストアップされている
    → が、クリック選択すると始まるプリンタドライバ探索の結果表示されるのは「一般的なPostScriptプリンタ」に(適正なドライバ選択がされない)。
    → 次に「プリンタソフトウェアを選択…」から手動でドライバ選択をしに行くと、ドライバは一覧に表示され選択も出来、正常にプリンタ登録が出来たように見える(左にプリンタがリストアップされているし)。
    → が、このプリンタ(設定)を使ってプリントアウトを実行するとプリントキューに「プリンタの状況を取得できません。」と表示されプログレスバーが走っている状態が延々続く(半永久ウエイトの状態)。プリントキューを削除して終了するしかない。

当初メインで使用のプリンタ「Brother DCP-155C」の側の問題かも?と思ったが、以下の理由でMac OS X 10.7.4 の問題だと判断。

  1. DCP-155Cは複合機で「スキャナ共有」も有効にして使用しているのだが、共有スキャナへのアクセスはMac OS X 10.6.8、Mac OS X 10.7.4 何れのMacからも正常に出来、スキャンを完了できる。
  2. 他のプリンタ:エプソンPM-A700、CUPS-PDF(PDF出力のバーチャルプリンタ)を共有設定して、子機からプリントを実行しようと一連の操作をした結果が全く同様であった。
サーバ機(親機):
iMac 21.5-inch, Mid 2010(3.06 GHz Intel Core i3)、メモリ:16GB 1333MHz DDR3、Mac OS X Lion 10.7.4
クライアント機(子機):
MacBook 13-inch, Mid 2009(2.13 GHz Intel Core 2 Duo)、メモリ:4GB 800MHz DDR2 SDRAM、Mac OS X Lion 10.7.4
MacBook Pro 15-inch(2.4 GHz Intel Core 2 Duo)、メモリ:4GB 667MHz DDR2 SDRAM、Mac OS X 10.6.8 ×二台

上記の通りMac OS X 10.6.x 子機からの出力はそもそも問題ありません。

このフィードバックを送信後あれやこれや調べつつ試行錯誤していたら解決策を見付けたので同様の問題に困っている方の参考になれば幸いと思い記事として残します。
これは暫定的な対処法であり裏ワザの可能性があります。また、将来のOSのアップデートで修正される可能性や、アップデートに伴いこの操作で実現できる状態が無効になる可能性もあります。
また、当方環境では問題なく使えていますが、ご自身の環境では上手く動かない可能性、何らかの不具合が出ないとは保証できません。あくまで自己責任ということでお願いします。

ウェブ検索で調べていると http://www.running-dog.net/2010/12/ios42airprint_cups.html のようなページに突き当たり「http://localhost:631 にアクセスすれば「Mac OS X のOS自体のプリント機能コントロール・パネル」にアクセス出来ると知り、これの設定如何では上記問題を解決できるかも知れないと思いあれこれいじっている内に解決策を見付けた次第。CUPS管理画面トップ

共有プリンタに繋ぎに行きたい子機での操作。 ブラウザを起動しURL欄に http://localhost:631 と入力しリータンを押下してアクセスします。初めてアクセスした場合「Web インターフェイスが無効になっています 〜」というメッセージが表示されますが、これの意味がわからない人は先に進まない方が良いということで敢えて詳述しません。

CUPS管理画面メイン
次に上の「Administrator」リンクをクリックすると次の画像の画面になります。
Server Settings 下の Advanced をクリックするとサブメニューが開く(次の画像)

cups_share_advanced
開いたメニュー「Show printers shared by other system」下の「CUPS」のチェックを入れる。
解説:「(同じネットワーク上の)他のシステム(コンピュータ)で共有されているプリンターを表示」という意味。で、通常 Mac OS X で共有されているプリンターのプロトコルは CUPS なので、これを表示させる設定にするわけ。(逆に言えばCUPSプロトコルじゃないプリンタだった場合は、この対処は当て嵌まらないかも?)
下の「Change Settings」を押せば設定が保存されます。 ブラウザ上での操作は以上。

CUPS共有プリンタ プリントダイアログ
以上の操作をすると(システム環境設定:プリントとスキャン での設定はスルーして)各アプリケーションからプリントアウトする操作をすると、プリンタ選択の選択肢の中に 菱形のマークが前に付いたプリンタが表示されていますので、これを選択してプリント実行すれば親機に繫がった共有プリンタに出力されます。
(下にMac OS X デフォルト機能で共有されたプリンタも表示されているのが見て取れると思います。こちらを選択したら冒頭の通りエラーになります)

iPhoneでQRコードを読み込ませてそのままお持ち帰り

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昨日Appleストアに行ったら面白いシステムを導入している案内を受けた。

Apple Store

Apple Store (無料)
(2013.10.08時点)
posted with ポチレバ


予めApple ID にクレジットカード情報を登録している前提ではあるが、陳列してあるヘッドフォンとか「あっ、これいいな」と思って買う決心をしたら、レジに向かう必要はない(というか、そもそもAppleストアにはレジ・カウンターは存在しない [1] )、近くのストア・スタッフを探す必要もない。 iPhoneアプリの「Apple Store」を立ち上げてカメラに商品のQRコードを読み込ませて「決済ボタンを押すだけ」。 これで購入手続きが完了という具合だ。
商品に添付されているICタグを読み取って、購入済みなのを確認するので、ストア出口を出る時にセキュリティ・チェックに引っ掛かるという余計な心配もない。つまり、そのまま持ち帰れるということ。
(運悪く購入情報を処理しているサーバがダウンしていてセキュリティ・チェックに引っ掛かかってしまうという可能性はゼロではないが)

この秋にリリース予定の新iOSには決済システムが搭載されると既にアナウンスされている。これに向けての先行実験(実際に運用してみてノウハウを蓄積する)なのだろう。

2012年7月27日 04時06分 追記:

  • – Apple Storeの店内にいれば、EasyPayを利用してアクセサリをすぐに購入できます(iPhone 4またはiPhone 4Sが必要です)。
  • – Apple Storeの店内にいる場合は、スタッフを呼んだり、予約した内容の受付をしたり、スペシャリストやトレーナーとの待ち合わせができます。

アプリの説明で上記の通りになっており、Apple Store 店内に居ないと、そもそもこの項目自体がアプリに出てこないみたいです。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. ショップのディスプレイ・テーブルの要所要所にキャッシュ・ディスペンス機能を仕込んであって、非公開のストア・スタッフ専用iPhoneアプリをスタッフが操作すると(Bluetoothe経由?)キャッシュ・レジスターとして機能するという、システムを採用している

これを危ないと感じない人はあぶない

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日中戦争から太平洋戦争に突っ走っていった日本は、ナチスドイツのように凶悪な独裁者が居たのではない。
のに何故無謀な戦争に傾いていったのか?
それは深く考えずに目先の「かっこよさ」「威勢の良さ」で正義を語る愚かな大衆世論、威勢が良くてかっこいいのが正義だと共感してしまう幼児的正義観をもった大衆世論、これに政治家もマスコミ(新聞社)も迎合し流されていっている内に「これに逆らえない空気」が出来上がってしまって、気が付いた時には抜き差しならない状況になっていたというのが真相。大衆が安直に支持する正義は十中八九(いや99%)真の正義ではなく、この幼児的正義である。実はそう断言を簡単にできるほど正義とは簡単な問題ではない [1] が、少なくともそのくらいに警戒しておいた方が良いというのが先の大戦から得られた教訓である筈。

 

池田信夫 blog : 電力会社の社員に表現の自由はないのか – ライブドアブログ
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51800031.html

冷静かつ論理的に妥当なことを言ったら「腰抜け外交」とバッシングを受け、何らの裏付けもないけども威勢の良い(この意味でかっこいい)主戦論を唱えたら拍手喝采。という太平洋戦争前夜に取っていた行動と全く一緒というのは情けない程度では済まない、この朝日新聞およびこれに喝采を送る少なからずの人々


——–[ 脚注 ]—————-
  1. でなければサンデルがあれほど注目・評価されるわけがない

なぜいじめはなくならないのか 続1

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先日のエントリーの続きです。

なぜいじめはなくならないのか « 心理学エッセイ | 物語り研究所「夢前案内人」

先のエントリーで「動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり」と書いた。
動物行動学(生態学)に或程度以上詳しい人ならご存知の通り、動物の世界のそれは「いじめのパターンA」に対して、こういう反応を返すといじめ行動がストップする「対応するパターンa」が必ず存在し、この対によって集団の秩序が維持されているという「行動様式(行動のお約束)」が存在するのである。
だから、この「お約束」を守った行動をする限りにおいていじめがエスカレートすることはないのである。(「お約束」通りの反応を返したのに「お約束」に従っていじめ行動を止めなかった個体があった場合は、今度はこの個体が集団から総攻撃を受け排除される)

で、実は、この行動様式は人間でも同じなのだが、「いじめのパターンA」に対して「対応するパターンa」を返すという「お約束」が厳格に守られている社会は部族社会で、西洋近代啓蒙主義的には「野蛮」で「劣った社会」とされる。この「西洋近代啓蒙主義的」つまりは「西洋中心主義」な価値観なので、これが真に普遍的に正しいかどうかは疑問の余地は大いにあるのだが、現代日本の社会はこの西洋近代啓蒙主義的価値観に則った社会に(一応)なっているので、この「お約束」を守る必要はないと考える個性を認める社会になっているのだということ、先ずこれは押さえておかないといけないポイント。これは所謂「個人主義」とほぼ同義だと考えて差し支えない。

ところが、いま先の文に「一応」と括弧付きで書いた通り、そのマインドというかメンタリティは依然として古い部族社会的な人が結構な数残存しているという・・・もしかしたら私も含めて完全に払拭できていない人の方が圧倒的多数なのではないか?・・・中途半端にしか個人主義的マインドというものを理解していない人がかなりパーセント居るということで、つまり
「お約束」を必ずしも守らなくても良いという自由を認める社会を形成しておきならがら、「お約束」を守らない人に対応する対応の仕方を編み出していない(許容するマインドを持てていない)人がかなりパーセント居るという拗れた状態を孕んでいるのが現在の日本社会なのである。

いじめがエスカレートする理由、またはいじめを悪いことだと(理性的にわかっているのかどうかは関係なく)実感として理解していない人というのは、「お約束」を守らない(お約束通りの行動をしない)奴の方が悪いという感覚をどこか腹の底に持っているので、だから「お約束」に従った行動を取るまでいじめを止めない(止めれない)のである。本能的で動物的だと言えば確かにその通り。
しかし、ここまで書けばご察しの通り、日本の社会ほど「お約束」好きで、「お約束」を守る予定調和を好しとする社会は近代化した社会ではないのである。

「お約束」とは半ば以上「暗黙の了解」または「空気を読むことの強要」なので個性を認め尊重する個人主義とは対極にあるものである。
だから、

  1. 「お約束」を守って平和、そのかわり個性は著しく認められない社会
  2. 個性を認める代わりに「お約束」は最早存在しない、つまりパターン化した行動では生きていけない社会

このどっちを選ぶのか?という選択を曖昧にして先送りしてきたツケが回ってきているのだという認識を多くの日本人は持った方がよい。
與那覇潤氏『中国化する日本』の概念を借用するならば前者は「(再)江戸化」、後者は「中国化」に該当するだろう。この意味でも與那覇氏の指摘・問題提起は正しいと思われる)

「個性の尊重」と言い出して遥かに久しい教育界ではあるが、このこと・・・「空気を読む必要なんかない」「空気を読むことを強いるのは悪」という教育をしてきたかしら?と考えれば直ぐにわかる通り、寧ろ「空気を読む達人たちの集まり」これが教師達だと言っても良く、だからこの彼らに「お約束」を守らない個性を尊重する大事さの認識は薄い、だから「いじめに気付かない」「(鈍感なので)いじめだと認識しない(この彼らですらいじめだと認識するのはかなり露骨なものだけ」ということになる。
この「いじめの本質にある問題性」を認識していない彼らの「いじめは悪いことです」「いじめを無くしましょう」というスローガンが空疎で欺瞞的なのも、ここまで説明すれば了解されると思う。
この点でも彼らを再教育する段階から始めなければならないだろうというのが私の考え。

404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
「なぜいじめが発生するか」という生理学的見地に関してはあまり述べられていないのだ。

答えというほど冴えても充分でもないでしょうが、僕なりに見解を出したわけですが、どうでしょうDanさん。

なぜいじめはなくならないのか

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この問題を抜本的、包括的に、また広く説得性のある論理を展開出来るほど問題自体が簡単ではないし、また、私の考えもそこ遥かに及ばない低レベルにしか錬れていない。この意味で看板に偽りありのエントリーです。

今段階書ける(言語化できる)だけの範囲を書くと、
まず実践面(実用面)でいえば、「傍観者の排除」これが取り敢えず「手が付けやすくて」「実効性がある」という意味で大事。
より具体的にいえば、傍観者でいること自体が加担者なのであるという点、傍観者でいること自体が罪であるということを社会的コンセンサスとしてきちんと確立するべきである。
ここでいう傍観者は、文字通り傍観者・・・見て見ぬフリをする者、遠巻きに傍観しているだけの者・・・だけでなく、直接加害には加わらないが囃し立てたり茶化したりする野次馬も含む。つまり「制止」「調停」「仲裁」「仲介」「庇護」などを行わない者はすべて傍観者であるということ。
より詳細かつ説得性のある言説である以下を参照。

404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:臨床いじめ学の教科書 – 書評 – いじめの根を絶ち子供を守るガイド
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50403382.html
404 Blog Not Found Icon404 Blog Not Found:いじめと個性
  http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50681593.html

個人的にはいわゆる「先生当たり(先生の当たり外れ)」は良い方だったようだと大人になってから分かった私でも実際生徒だった頃の経験から、傍観者になっていた先生がそこそこ割合以上必ず居たと言える。
つまり「傍観者であること自体が罪」であることを先ず、教育する側から教育して行かないといけないのだろうということ。

次に、より根本的問題に言及すると、「いじめ自体」を悪い事と、「いじめ自体」を消滅させようとする努力は無駄であり無意味であるばかりか、場合によっては問題をより陰湿化、巧妙化させさえするという問題意識を持つべきだ。
いじめという行動様式これ自体は絶対に無くならないし、無くせもしないと断言する。それは動物の世界を謙虚に観察すれば分かる通り、集団性動物でかつ高等生物ほどいじめの様式が確立される傾向にあり、つまり、集団性動物でかつ高等生物であることからの何らかの必然がそこにあると認めざるを得ないからである。(これが何故であるか、また、どういう必然性なのか説明できるほどの知識および能力は現段階持ち合わせていないが)

これは良いだ悪いだ云っても始まらない自明に近いものであろうので、いじめの行動様式を取る基本素養は我々皆が備えているということを先ず認め、これを前提に、その発露が陰湿化、残虐化しないようにするにはどうするのが良いのか?という設問の立て方をするべきだと私は考えている。
しかし、これは真剣に考えるとかなりクリティカルな問題で、「あなたも殺人者になり得る素養を備えているわけですが、これとどう上手く(問題化しないように)付き合って行きますか?」と質問されて簡単に答えられる人が居ないのと本質的に同じだからである。
たぶん、この素養を備えているという事実を認める自体を拒絶しここで思考停止になる人が多いだろう。
この思考停止こそが、いじめの問題の本質に切り込んで行けない主犯で、傍観者を許容してしまうバックグラウンドだと断じさせてもらう。

だから「いじめは悪い事です」「いじめをなくしましょう」という教育関係機関や役所に貼られているポスターのスローガンは、空疎であり、欺瞞的で、薄ら寒いのである。
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「支持政党なし」ということの本当の意味

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昨日tweetしたのだが、文字数制限の関係上充分に云いたい事が文章化できていないので二階屋を建てます。
[amazonjs asin=”4163746900″ locale=”JP” title=”中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史”]
戦後作られた政治体制は議会制民主主義だが、これは建前上の体裁なだけで実態は賢い官僚による官僚専制政治なのだということは與那覇潤氏が「中国化する日本」で指摘、またその伝統は明治新政府のから変わっていないと池田信夫氏も指摘する通りである。
「無謬性」という概念があり、これはつまりキリスト教、イスラム教などの「神は決して誤りを犯さない」という元は神学概念なのだが、日本の法律は官僚は無謬性だという前提で作られており、だから失策・失政をおかしても、(降格や減給という内部処罰があるだけで)それに値するほど大きな失策・失態であっても訴追は(時々検察がデモンストレーションとしてスケープゴートを作り上げるのを除けば)基本的にされない。無謬性・・・つまり間違いを犯すわけがないのでそれが失策・失政になったのは社会状況などの不可抗力だという、よく考えれば「その言い訳が通用するなら何でもありじゃん」という逃げ方をできる。これが日本の官僚システムなのである。
そして厄介な事に、これは誰か個人が悪いとかそういう問題ではなく、構造として如何ともし難い入り組んだものになっている点で、「”霞ヶ関” というバーチャルな怪物」、、、今やこれを改善、改革することは、身体の幾つか細胞が反旗を翻して我々が誰か違う人間になるということがあり得ないのと同レベルで [1] 、たぶん官僚自身も不可能であろうということ。
これゆえ「敬して遠ざかるのが得策」というのである。
実際、橋下市長がやろうとしていること、また我々大阪の人間が期待している事は、この(東京というよりは)霞ヶ関との関係を、できるなら絶ちたい。絶つのが無理なら可能な限り影響を受けないようにしたいということなのだ。

「支持政党なしが多数派」というのは馬鹿なマスコミ(または、分かっていて記事が売れる安直なトピックにしてしまう癖のついたマスコミ)が「新興勢力への期待」などと云う在りもしないものではなく「霞ヶ関支配の体制からExit」したい、という国民の意思の現れだと捉えるべきだ。
だから、自民党が駄目、民主党が駄目、公明党は? 共産党は? という問題ではもうないのある。民主党がダメダメな政党であることは今や明白であるが、今の状況は「民主党が駄目だったから」ではないということ。自民党にしたって、たまたま経済状況が味方したので霞ヶ関に飼い慣らされていても「見た目上そこそこの事が出来ているかのように見えた」だけだったというのが真実。

このことを橋下市長は知っていて、だから彼が目指しているのは「中央政界からのExit戦略」なのであり、我々大阪の人間が範を示す事で、全国の各地域がExitを目指し出す。これが進むべき歴史であろう。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. あったとして癌細胞化するしかないのだろう

大飯三号・四号機にはベント機能自体がそもそも必要ない

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中途半端な知識で知ったようなことを、それも東京新聞・中日新聞論説副主幹という立場の人がこういう公性の高い場所で書くのは如何なものか。

フィルター付きベントも防潮堤もないのに「事故を防止できる対策と対応は整っています」と大飯原発再稼動に踏み切る野田首相。 政治と官僚の迷走、ここに極まれり! | 長谷川幸洋「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32792

以下の動画を観れば分かる通りPWR型(加圧水型)である大飯三号・四号機にはベント機能自体がそもそも必要ないのですよ。
より詳細に言えば、燃料棒に使われているジルコニウム量が少ない、格納容器が五倍のサイズである事などから、ベントが必要になるような状態の発生閾値が高い。言い方を換えるならば、ベントが必要になるような状態にもしなった時はベントどうこう以前に他の部分がもっと深刻な状況になっているの。 この点が、ベントを適切な段階で実施しないとより悪化した事象が発生するBWR型(沸騰水型)とは大きく異なる。

また「防潮堤云々」も、今回の福島事故というよりは東日本大震災から得られた教訓は、いくら高い(または強固な)防波堤、防潮堤を作っていても、無限に高い防波堤・防潮堤は作れないので、その想定を超えた津波が押し寄せれば何の意味も無いので、ここに金を注ぎ込むのはあまり賢いやり方ではない。それよりも水が押し寄せても大丈夫な作りにしておいた方が良い(浸水する前提で気密性・耐圧性を上げておいた方が安全面、コストの両面で良い)ということなので、この観点での対策は少なくとも大飯三号・四号機には施されている(と同ビデオを観ればわかる)。防潮堤の高さが十分であるか否かの議論自体があまり賢い議論でないのである。

まぁ日本のマスコミでは寧ろ当然に近い(というのは情けないのだが)、「”原発際稼働は危険”という結論にしたい意図」が先にあって、これを結論付けるためによく調べもしないで記事を書いているのだろうけども。

2012年7月2日 09:34 追記:entry後、普段観ない朝のワイドショーを観てたら、大飯三号・四号機に「フォルター付きベント機能を付ける予定になっている」そうな。飲みかけたコーヒー吹いた! 先述の通りPWR型にはベント機能は実質的に意味がない。だから付けていないのだが、これをきちんと技術論理的に説明をすることよりも、意味の無いベント機能を付けて気分的に安心する大衆に迎合したことのようだ。アホか。 いや実際アホだ。 工業系学校で学んだ人は元よりちょっとした以上の工作をしたことのある人なら知っていることだが、一旦完成したものに後から手を加えて造作をすると必ず強度&整合性は低下する。それが精密な精度を要求されるものであればあるほど、この強度低下は結構デリケートな問題になる。こんなこと工学的常識。 雰囲気として(科学的根拠の無い)安心を得たい人々に迎合することを完成度の高い原子炉の強度を犠牲にして実現しようとする。これを愚行と呼ばずして何と呼ぶ!

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