依存症(酒,セックス,薬物,etc)

 何かをせずには居られない、しようと意図しているのではないのに気が付けば「つい」してしまっている、ひどい場合には「止めよう」「しないでおこう」と思っているにも関わらずしてしまっている、こういったもの全て依存症です。 精神医学用では「嗜癖(アディクション)」と言います。

 強迫神経症と非常に密接に関連しています。 外傷性精神障害、解離性人格障害、境界性人格障害(境界例)に於いても、依存症が広く観察され、また「父性」の不足、不健全さとも関わりが深いと類推されます。(「父性」に関しては林道義氏のサイト、または『父性の復権』(著:林道義 出版元:中公新書)に詳しい)

 強迫神経症の一番分かりやすい例は、夜寝るときに家中を、火の始末とか、戸締まりとか、、、を毎日同じ手順で点検しないと、しかも一度ちゃんと確認したと自覚があるのにも関わらず不安が理由無くどこからともなく膨張してきて再度確認に行かずには居れない、、、これを結局何度も繰り返してしまう。場合によっては、この不安の膨張と繰り返し行動の間を際限なく往き来することでヘトヘトになってしまう。[ 繰り返し行動 ]
 靴を履くときにはいつも右足からと決めていてウッカリ左足から履いてしまったら出掛ける自体を中止してしまうとかもです。[ 日常行動の呪術化 ](些末な日常行動が呪術化されやすい傾向にある)

 この日常行動の呪術化の発展型・・・呪術化が悪化、進行したらこうなるという意味ではなく、日常行動の呪術化が強迫神経症でないかのようなカモフラージュをし、より巧妙化したものという意味で発展型・・・が「占い依存症」だと言えます。
 何故なら占いというもの、もしくは占い師に依存し(ている側面も多いにはあるが)すがっている風に見える行動の中に、自分の判断には依らない「法則 [1]、無意識内の元型的情動に自我意識のかなり部分を乗っ取られて自己抑制が利かなくなっている危険な状態であるにも関わらず、占いという形式を借りる亊によって、もっともらしく自己正当化できてしまうので、より厄介(治す立場から言うと、より深刻)なのです。
 何が厄介かと言うと、「靴を履くのは右足から」というものであれば、冷静に考えれば「おかしい行動」である亊は割と直ぐに気付けます。 ところが占いというものになると、「信じる or 信じない」の話に論点をすり替えてしまえるので、思想、信条、宗教の自由に抵触する危険地帯(タブー)に逃げ込まれてしまい「私が何を信じて生きようが私の勝手でしょ」と言われると、そこから先に立ち入ることが難しくなるからです。 [2]

 依存症の中で、世間から一番勘違いされやすく、それ故対処が遅れてしまいやすいのが、仕事依存とセックス依存です。

 仕事依存の場合は、よほど酷くならない限り大抵の人は「仕事熱心な人」くらいにしか思わないからです。
 セックス依存も、事情は似たり寄ったりで「スケベな人」「好色な人」「好き者」「淫乱な女」程度の認識しかしないのが現実です。
 どちらも二重に問題です。 周りがそう見なす事で本人もそう思い込んでしまって、状態が酷くなるまで問題意識を持たないケースが少なくないからです。

 特に女性のセックス依存は深刻です。 女性が性的に乱れていると喜ぶ男は五万と居るわけで、その状態をよしとする環境が少なからず世の中には在るという点。
 そして、セックス依存の女性の大抵は、「見ず知らずの男」「不潔な男」「人間的に程度の低い男」「嫌いなタイプ」これらとのセックスの方を好むという傾向を持っているケースが多く見られ、「自傷行為性(自分自身を傷付ける行為をする傾向)」が見受けられます。 そうして「自分を傷付けている事へ罪責感を抱いている自分」と「自分を傷付ける行為に快感を感じる自分」とに分裂、葛藤を起こし、これに苦しんでいる場合は多いのです。

 なぜこれを、依存症一般の説明の中でわざわざ特記するのかといえば、「見捨てられ感情」がその根底に蠢いているというのを、一番端的かつ如実に示しているのがセックス依存だからです。(つまり以下に書くことは全ての依存症に当てはまる)

 これが、より進めば「世界不信」というのが出てきます。

 「見捨てられ感情」は

  1. 実際に「見捨てられた」と感じる体験をした過去を持つ場合。
    虐待などは当然のこととして、一人っ子の内は溺愛され、妹なり弟が出来た途端、手の平を返したように構って貰えなくなった、というのも意外な程に多いのは事実です。
  2. 養育者の薄情さ。
    つまり「見捨てられた」のではなく「そもそも見捨てられてた」。
  3. 過剰に保護的養育者に育てられた。
    過剰に保護され慣れているので、「ほんの少しの否定」を「強烈な拒否」と受け取ってしまうナイーブさが被害者意識を形成しやすい。また「過剰に過保護」とは、「過剰に支配的」の裏返しであるケースも多く、この場合だと親の言う事から少しでも外れる事は許されないという「自主性を顧みて貰えない(見捨てられた)状況」で育つことになり「見捨てられ感情」(もしくは「見捨てられるんじゃないかという恐怖に常にビクビクしている感情」)を醸成する。
  4. 身内に精神病患者、重度の難治病患者、障害者などが居る環境で育ち、「世間の冷たい視線」「世間の偏見」「差別」に、明には直接こういう体験をして、暗にはこういう目に遭うんじゃないかと怯えて育った事により、度が過ぎた神経質さを身に付けてしまう場合、反対に無神経になってしまう場合(無意識に神経質さを追いやっているだけ)。
  5. そもそも神経質な気質で、養育者がこれとは反対の大らかな性格だった。
     大らかな性格とは大雑把に言えば「傷付くこともこれまた人生」と捉える楽観主義者だと言え、これゆえに傷付きやすい子が充分に「傷付くこと」から守って貰えない(客観的には「親の考える充分さ」と「子供にとっての充分さ」の間に大きくギャップがあるというだけの話なのだが…)状態で育つことになり、これが「基本的に誰も信用しない」心理傾向を作ってしまう。
  6. 親の云う事は絶対服従、という権威主義的家庭で育ち、「自分を表現する機会」をかなり程度奪われて育った場合。

 こういったものが関連因子としては列挙できます。 但し、これらが「原因で」そうなったという単純な因果関係で捉えるのは底の浅い理解のしかただと指摘しておきます。

 さて対処の方策ですが、、、嗜癖(依存症)は、それ自体のみを取り除くことしか考えずに対処するのは危険です。

 或る嗜癖を解消したら次に別の嗜癖が発生した、、、仕事依存の人が、それが嗜癖だと気付いて「仕事中毒になっていると健康に悪い。 それじゃジョギングでも始めるか!」とジョギングを始めたまでは健康的と言えるのですが、その内ウェアーに拘りシューズに拘り、最初は早く帰ってこれた日だけ軽く近所を一周していたのが、次第にこの為だけに早起きするようになり(この段階ではまだ健康的です)一日の走破目標距離を設定し出し、これが日に日にどんどん伸びて、エスカレートの一途を辿る、、、これは「仕事依存」が「ジョギング依存」に変わっただけです。 これを専門用語で「アディクション・ホッピング」(嗜癖対象が入れ替わること)と言います。

 根本に在る心理的問題を放置したまま、嗜癖を無くそうとすると十中八九アディクション・ホッピングをするだけです。 ホッピングするだけなら、たまたま運良く然程不都合のない対象への嗜癖にホッピングした場合は、一応問題視する必要が無くなると言えるように思われるかも知れませんが、アディクション・ホッピングを繰り返すと嗜癖性がどんどん高まって行く傾向がある(当然、周りへの迷惑度が上がる)から安楽に考えて貰っては困ります。
 また、そう簡単に起こることではないですが、嗜癖を無くした事で精神病理性の一層高い状態になってしまうケースもあります。 この点からも、嗜癖を無くす事のみの考えは捨てて下さい。

 具体的には、アルコール依存、薬物依存、ギャンブル依存は、エンカウンター・グループ(自助団体)を用いたセラピーが効果的。
 その他は、個人面談形式のカウンセリング(と同時にエンカウンター・グループを利用しても良い)を受けるのが最良でしょう。
 こころの病の中でも依存症は「家族病」の色彩が強いので、家族カウンセリング、夫婦カウンセリングを請け負ってくれるセラピーが向いているケースも少なくないです。

 また身近な人に嗜癖の人が居る場合は、何より本人に依存症である事を自覚させなければなりませんが、、、この為には、まずあなた自身が、その人の嗜癖を援助、助長、喚起する行動を取っていないか、これをチェックしなければなりません。 これの大半は、無意識で行なっているものなので、この為にも心理専門家の助けは絶対に必要です。

文責:庄司拓哉 2002/01/212004/01/21加筆修正

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 法則と云ってもこの場合の法則は、論理的、体系的なもの、世間一般的に通用する普遍性のあるものでは当然なく、その人独自の、大抵はカルト性を帯びた、または幼児性の匂う法則。つまりは客観的事実から法則を導き出すという正しい手順による法則ではなく、その人の中に「かくあるべき」または「かくあるはず(あって欲しい)」という病的執着、妄執が先に無意識内に布置しており、これに絶対的に則しているかの如くに曲解、歪曲された世界観、もしくはこういう世界観を醸成せしめる心性。「法則 先にありき」である点が特徴。 これから分かるように、世にある○○イズム(○○主義)はカルト性を帯びやすい。必ずカルト性を帯びるというものではないが、少なくともカルト性を帯びていまいか疑ってみる必要はある。)」に盲従する亊(呪術化)で安心しようとする無意識心理が隠れているからです。 つまり、占い、または占い師に依存しているのなら未だマシな方だと言えて ((何故なら、この場合は「依存する」つまり何かに頼ろうとする人間的ノーマルな心情が残っているからである。このノーマルな心の働きが壊滅状態になったのが「見捨てられ感情」「世界不信」である亊は、これ以降の段を読めば理解して頂けることでしょう。
  2. フェミニズムも同様の論理構造、心理構造を持っているのだが、今は深く突っ込んで言及しない。 興味のある方は林道義氏のサイトを参照されよ。示唆的教示に富んでいる。

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