新聞社と愚かな大衆という共同正犯

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特定秘密保護法案を巡ってのマスコミの反対の大合唱の茶番劇ぶり、また、これに踊らされて3000人以上もの人権派を自認する学者たちが声明を発表して、その“人権派”というのが如何に薄っぺらなものであるかを自ら露呈してみせたという点は多くの冷静な人達の嘲笑の的になったので改めて云々する必要はないと思います。

ただ、これに関しての以下に引用する池田信夫氏の記事内の記述で、改めて取り上げて強調しておくべきと感じた点を述べます。

日本のメディアは国家権力と闘ってきたのか? 特定秘密保護法案に反対する記者クラブの偽善:JBpress(日本ビジネスプレス)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39365

それは「読者が不買運動を始め、もともと危機に陥っていた毎日新聞社の経営はさらに厳しくなった(1977年に経営破綻)」という部分です。
1977年というと私はまだ中学1年生で、毎日新聞社が一度潰れたということは記憶してあっても、それ以上の詳しい経緯や背景については無知でした。

ここで池田氏が解説してくれている大筋を整理すると、

  • ウォーターゲート事件に絡んだFBIの捜査情報をウッドワード記者がスクープ。FBIの捜査情報は国家機密情報に該当するので、これを入手し報道したことは漏洩に手を貸したということになり違法。しかし、ワシントン・ポスト紙は連邦政府の圧力に屈しないでウッドワード記者の取材を支援、その全貌が明るみに出るに従ってその報道の公益性の方が極秘情報を入手した違法性よりも優っていたので検察は起訴しなかった。
  • かたや日本の西山事件の場合、毎日新聞社は西山記者を守るどころか「おわび」を掲載し、西山氏は一審で敗訴したあと退職した。

ここで毎日新聞社を蜥蜴の尻尾切りに走らせた要因として、不買運動で毎日新聞社に圧力を掛けた愚かな大衆の行動があり。そして、この愚かな大衆を動かしたのは「ひそかに情を通じ、これを利用して」という(今となっては、これ自体根も葉もない言いがかりだと判明しているが)情動に「西山というのは卑怯、卑劣なやつだ」と訴えかける扇情的な検察のレッテル貼りでした。

引用している池田氏の本文は、国家機密という法に抵触する可能性のあることでも報道の必要性があらば、これにあえてチャレンジし、当然あの手この手で圧力を掛けてくる公権力と闘ってこそのジャーナリズムで、今までポロポロと情報を漏らしてくれる(コントロールはされているわけだが)楽にネタを拾える馴れ合い関係がご破産になる公算が高くなりそうなので「反対」「知る権利が侵害される」と叫ぶ日本のマスコミは、それで公権力と闘っていることになっていると悦に入っている幼稚なものだと言っているわけで、これには100%首肯します。

時代は変わって、太平洋戦に突入していく契機になったものの中で決して小さくない要因に、毎日、朝日を含む新聞社がこぞって勇ましい主戦論のキャンペーンを大々的に行ったというものがありますが、「国家、軍部の圧力に屈して筆を折らざるを得なかった」という各社、殊に朝日新聞社の今でも続けている言い訳は大嘘であることは今や多くの人が知っている通りです。
これは何故かという点で多くの人が、そうした方が部数が売れるという商売上の打算という説明をしており、これはこれで蓋然性があり、その通りだと思うのですが、もう一つ、これがコインの表側だとすると裏側の事情・・・それは、反戦論、慎重論を展開していた地方紙数社が猛烈な不買運動や、焼き討ちにあって潰れたりする事件が時を経るに従って増え、また毎日、朝日もその紙面に慎重論を載せた翌日に購買所(販売店)が打ち壊しに遭うなどが多発、激化していったのが、大衆の顔色を窺って勇ましい戦功記事を載せつつも一方で国際情勢分析などからの慎重論も併記していた新聞各社が完全に戦争大礼賛一色の紙面に変貌する契機になっていたという点。

今一度、引用した記事中の西山事件のことを思い出して下さい。
それに簡単に屈する日本のマスコミがへなチョコ過ぎるのも確かにそうですが、物事の成否を冷静かつ深く考えずに不買運動などで圧力を掛ける行動に出る大衆の愚かさという点で共通しているでしょう。

大衆運動というのを考えた時、果たして健全な大衆運動というのは何なのか、あり得るのか?と、あり得ると信じたい私としても安易にそれを信じ、礼賛できかねると、この一例だけで思わされるのです。

I could try to understand you…

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まずはこの動画を観て欲しいです。

この動画自体どうこうではなく、附されているコメントを追っていって「なんだかなぁ」と思う点を述べます。
コメントを追っていくと、この差別をなくせと言っていると受け取っている人や、「アメリカの方が人種差別酷いじゃないか」とか「白人が有色人種を差別するのには触れていなくて白人が差別されると騒ぐのか?!」というようなコメントを寄せている人がそこそこ居ます。
素直にこの動画を見れば投稿者であるkanadajin3の意図は「こういう事実があることを知って下さい」と言っている以上でも以下でもなくて、これが差別であるとか、差別だからなくせとか言っていません。
勿論こういう動画を公開するのだから、考えて、態度を改めようと思ってくれる人が一人でも増えることを願っていることには間違いないでしょうが、はっきり差別だと言えるものならそれを差別だと指摘、批判、非難することも容易だけれども、歴然とした差別ではない、差別であるかどうかも微妙な「無邪気な誤解、素朴な無知による結果的に相手にとっては自尊心を傷つけられる」というケースは、各々が色んなケースを知っていく“ケーススタディ”を重ねることで、ちょっとづつ心を広く、考えを柔軟にしていくという地味で根気の要る努力をしていくしかない、その(ケーススタディ)の一つとして「ご覧ください」と言っているにだけだと思います。
これに対して、意図、文脈を読み取らないで(読み取れないのか読み取ろうとしないのか)短絡なコメントを延髄反射的に繰り出す、果ては動画の内容とは無関係な国粋主義的な自説を滔々と語る人までいる始末。。。なんだかなぁ。。。

同邦人として情けない。同邦人と思われたくないというのが正直なところです。

Hold Your Fire (Remastered)

(2013.10.08時点)
posted with ポチレバ

“Open Secrets” Song by Rush より引用 (アルバム“Hold Your Fire”に収録)
  Lyrics by Neil Peart

I find no absolution
In my rational point of view
Maybe some things are instinctive
But there’s one thing you could do
You could try to understand me
I could try to understand you.
You could try to understand me
I could try to understand you.

私はこの罪から逃れられる方法は理性的には発見できない。
それは或程度本能的なものだから。
しかし、1つだけ我々が出来ることがある。
あなたは私を理解しようとし
私もあなたを理解しようとする
あなたは理解しようと試み続け
私も理解しようと試み続ける、、、
(抄訳:庄司拓哉)


生活保護を白眼視しても意味はない

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ご本人も「正論」と云う全くその通り。

Joe’s Labo : 週刊東洋経済 「65歳定年の衝撃」にインタビュー掲載中
http://blog.livedoor.jp/jyoshige/archives/6239208.html
> 出生率が2.0を割り現状の社会保障制度が維持できなくなるのが明らかとなったのは70年代。
> そのときすでに選挙権がありながら何も変えようとしなかった人間の年金を支払うために
> 選挙権の無かった人間がワリを食うのはおかしいだろう

70年代と聞いて直ぐに思い浮かぶのは、社会党、共産党を支持母体とする所謂「革新系自治体」が日本各地に誕生し“揺りかごから墓場まで”の英国方式が理想のように喧伝されていた [1] の時代であり福祉元年と銘打って保守政党(とされる)である田中角栄内閣が高福祉の方向へ加速させたこと、と同時に田中角栄内閣は御存知の通り「日本列島改造論」をぶち上げ地方への各種バラマキ政策によって東京、大阪、名古屋などの大都市への人口集中を止めた。こういう時代である。

三大都市圏への転入超過と実質GDP成長率の推移(参議院調査室資料より)

三大都市圏への転入超過と実質GDP成長率の推移(参議院調査室資料より)


増田悦佐氏が『高度経済成長は復活できる』で実証している通り、その後のバブル経済で一旦持ち直したかのように誤解している人が多いのとは裏腹に、この70年台の出来事から日本の経済成長は一気に凋落していたのである。一般には「オイル・ショックによって一時的に停滞しただけ」との説明が信じられているが、グラフで一目瞭然の通り「バブルというまやかしの時代」の部分を無視すれば70年代に低空飛行状態に入りバブル崩壊で壊滅状態になっただけ [2] [3]
あの当時は日本がやっと豊かになったという実感が人々に行き渡り、経済的に余裕があったのでその余裕分を、分配を不公平にしか享受できていないと主張する層(または地域)に「まぁ上げてもいいんじゃない? 僕の取り分が減るわけじゃないみたいだし」という気分に流されたのは仕方ないという言い訳はよく聞かれる。確かに、あの時代に今の年齢になっていたとして今できている分析のような冷静な判断が出来たかと言えば、かなり怪しい。だから今の視点から彼らを馬鹿呼ばわりすることはしないし、するべきではない(したところで鬱憤は幾らかは晴れるだろうが問題は何ら解決しない)。ただ、その「自分達が選択した」各施策が誤りだったと、単に誤りだったというだけでなくこれからの世代の足を引っ張り/搾取する仕組みになっているということが明らかになった今、その全てを返上しご破算にするのが道理というものだろう。有り体に言えば「自分(達)のケツは自分(達)で拭け」ということだ。
生活保護レベルよりは緩い基準で良いとは思うが、一定以上収入(預貯金、家賃収入、配当、資産運用収入 etc ありとあらゆる最終的に生活に充てられる金銭、資産)がある人には年金が受け取れないというルール改正にすべき。実際にはこういうルールにすると、まじめに働いて稼ぎがある人ほど貰えない公算が高いので保険料を払わなくなるに決まっているし、その運営コストも考え併せると、生活保護に一本化して、但し「65歳以上の者」は「実際に居住している持ち家」「日常の便に役する自家用車(贅沢品と見做せる二台目以降は除く)」は「生活保護受給資格認定対象から除外」というルールにするのが合理的 [4] 。(だから結局「負の所得税」が一番合理的なんだけどね)
この方式のメリットは「行政コストが大幅に節約できる」と「助ける必要のない高齢者へのバラマキをカットできる」で、ザッとした数字だが社会保障費約100兆円 [5] のうち、50兆円が年金、30兆円が医療費、それに対して生活保護費は3兆円という数字 [6] を見て、(不正受給者の問題はそれはそれとして放置すべきではないが)大局的にみて生活保護受給者叩きをすることと、どっちが重大な問題か一目瞭然だろう。当の高齢者および目前にしている世代が自分達の損になる論点から国民の関心を逸らせられる生活保護受給者バッシングを支持するのは或る意味合理的だが、若者世代にこの論調に乗っている人達が思いの外多いのはびっくりする。ハッキリ言えば莫迦。 一番最初に引用した城繁幸氏のコメントに戻れば、上の世代が犯した過ちを自分達も繰り返すのかと、上の世代に自分達が受けた酷い仕打ちを今度は自分達が下の世代に殺人パスして行くのかと。これではまるで、親から虐待を受けた人が親になった時に同じように子供を虐待する [7] という「負の連鎖」と一緒ではないか。

現行の生活保護制度は不正(および不正に近いと感じるもの)を抑制する仕組みは一切無いに等しく [8] 、経済学(心理学)的インセンティヴの観点で捉えた場合「働いて生活保護を脱却しようというインセンティヴ」への働き掛けは皆無で、寧ろ「働こうとせずに漫然と受給に安住していた方が得と思わせるインセンティヴ」が強く働く制度設計になっているこれはこれで大事な問題は別途ありますが、今日はこの辺で。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 実際には、この当時で既に英国財政は破綻寸前だったのだが
  2. 池田信夫 blog : 「就職氷河期」はなぜ起こったのか – ライブドアブログ
  3. 『戦後日本の人口移動と経済成長』参議院調査室第三特別調査室 縄田康光
  4. 通常の生活保護は、これら資産が在った場合、先ず処分して現金化しこれで食い繋げれるだけ食い繋いで、その上で無収入のままに至った場合にはじめて申請が受理される
  5. 2010年以降毎年100兆円を超えている
  6. 『生活保護費は増やしても良い。』中嶋 よしふみ
  7. その全てがそうなるということは当然ない。その傾向が本人が無自覚だと顕著になるという以上ではない。言わなくても分かっていると思うが念の為
  8. 非受給者から白眼視されるのを恥と感じる旧態依然とした今や機能していない古典的心理圧迫だけ。なので常軌を逸してバッシングが炎上するのであろう

疑うのは何のためか

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結論を最初に書いてしまえば「信じるため」です。「信じるに足るものは何かを見極めるため」です。

処が「疑うために疑う」人がなんと多いことでしょう。
これは心理学的考察によればそれなりの蓋然性があって、確証バイアス(Confirmation bias)と呼ばれるものの影響が強くあると考えられます。
確証バイアスとは、先んじて持っている何らかの心理的コンディション、これに合致またはフィットするものを優先的に重視し、かつ、正反対の否定、批判、反証するものを不合理に軽視または全く無視する心理作用のことです。これの厄介なのは、いま「心理コンディション」と書いたように、信念や信仰、信条のような既に強固に形成されているもののみならず、印象やムード、その瞬間の刹那的な感情にすら左右されるという点です。
つまり、疑い始めると、その「疑っているという状態」が既にバイアスとして働き出すのです。
だから、「何のために疑うのか」という大前提に自覚的でないと、疑うという心理状態自体を正当化する情報ばかりを選んでいってしまう。挙句、疑うという行為自体が正義であるかのような本末転倒。疑うという行為を行なっている自分が正義であるかのような錯覚(動機の純粋性の錯覚)に陥ってしまい、これがより確証バイアスを強め、、、という悪循環に。

全く疑わずに盲目的に信じてしまうのが愚かであるように、疑うだけで何かをしたつもりになっているのも同じく愚かです。

幸福とは何か・・・少なくとも「不安」が少ないことではない

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“本丸”としての労働市場改革:書評『デフレーション』 — 城 繁幸 : アゴラ – ライブドアブログ http://agora-web.jp/archives/1525128.html

「希望」と「不安」は、やじろべえの左右の錘(おもり)の如く。光と闇の如く。
一方が弱れば他方も存在が薄くなる。

不安の芽を事前に摘んで最小化するのが好いことだと信じた結果、実は希望も最小化しているという現実。
両者が上述の通りの相補関係にあると知っていれば実に当たり前なことなのだが。

相補関係にあるのでこの全く逆も真なりで、希望をやたらと膨らましすぎるのも悪い結果になる可能性「も」脹らませていることになるので両者をバランスさせていくのが肝心と、ここまではわかるのだが。
ところが実際のところ、悪い結果になるか良い結果になるかはやってみるまではわからないから事前に最小化することよりも、悪い結果になった場合事後的に被害を最小化もしくはリカバリーする知恵と工夫の方にエネルギーを使った方が現実的であるというところに帰結する。 前者よりも後者の方が被害者実数も少なく、被害総量も少ないであろうと想像に難くない。
事前に最小化することに執心する人は悪い結果になった場合、往々にして「なかったこと」にしようとする。起こったこと自体は消せるわけは当然ないので、責任追及できる適当な他所の村社会をターゲットにしてこれに全てを負わせて自分たちの村社会は守ろうとする。

ある村社会を非難・バッシングしているのはほぼ間違いなく自分たちの村社会を守ろうとしている人たちであるに過ぎない。

批判を非難と受け取る(勘違いする)人が多いのはなぜか

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ファスト&スロー (上): あなたの意思はどのように決まるか?ファスト&スロー (下): あなたの意思はどのように決まるか?それは殆ど心理的癖のようなものと言ってよく、カーネマンはこれをシステム1と呼んでいる。
議論とは相手を言い負かすことだと思っている人が多く、上記事実の認識なしに不毛な言い争い(彼らはそれを議論だと思っている)が多く展開されている。この裏返しとして純粋な批判を非難だと受け取り逆上したり無意味に傷付いたり凹んだりする人も多いのだと思われます。 RT http://goo.gl/w6ZMD @this_is_tack @georgebest1969

カーネマンのいう「システム1」はユングの云う「個人的無意識」とほぼ同義で、私自身の見解では「個人的無意識+下意識」。

コッポラの胡蝶の夢 [映画評]

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この記事はfacebookのタイムラインに9/9に投稿したものに加筆修正した転載です。

立川志らくさんが大大大推奨してたのだが映画館での上映は結局東京の(名画座的な)一館のみで終わってしまい、仕方なくDVDは結構前に入手してたのだが、気軽に観れる映画ではなく迂闊に観ないほうが良いと思って今日に至っていた。
観られる条件(心情的なものも含む)が整ってやっと鑑賞した。

 良かった。

流石コッポラ。
流石ルーカスの師匠なだけあると思わせるルーカスに通底する構成のセンスを随所に感じた。

我々人間が「我」と思っている自我意識と呼ばれる(呼んでいる)もの自体が突き詰めればフィクションである。そのフィクションが実在だと思い込める一つの大きなファクターが「時間」。 時の流れというもの自体は存在はしているが、これを「時間」「時系列の流れ」としての体系と捉えるのは実は人間独自の「発明」で自然には存在しない。言い換えるなら、時の流れという本質的に捉えどころのないモノを「捉えられていると錯覚するためのトリック」、これが時間という発明である。

荘子の「胡蝶の夢」が言っているのはこういうことで、だから邦題に「胡蝶の夢」が入っているのだろう(たぶん、コッポラ自身のチェックが入っている。コッポラとはそういう人だから [1] )。

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——–[ 脚注 ]—————-
  1. 他言語の字幕を入れる時に、その字幕を台本にして送らせて(これを専任アシスタントが英語に訳したものを)一語一句チェックし、その言語でのその言い回しはどういうニュアンスかまで確認しつつ、自分の意図に沿った訳になっていない場合修正させる → これを納得するまで繰り返す。という作業を要求する人なのだそうだ

これを危ないと感じない人はあぶない

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日中戦争から太平洋戦争に突っ走っていった日本は、ナチスドイツのように凶悪な独裁者が居たのではない。
のに何故無謀な戦争に傾いていったのか?
それは深く考えずに目先の「かっこよさ」「威勢の良さ」で正義を語る愚かな大衆世論、威勢が良くてかっこいいのが正義だと共感してしまう幼児的正義観をもった大衆世論、これに政治家もマスコミ(新聞社)も迎合し流されていっている内に「これに逆らえない空気」が出来上がってしまって、気が付いた時には抜き差しならない状況になっていたというのが真相。大衆が安直に支持する正義は十中八九(いや99%)真の正義ではなく、この幼児的正義である。実はそう断言を簡単にできるほど正義とは簡単な問題ではない [1] が、少なくともそのくらいに警戒しておいた方が良いというのが先の大戦から得られた教訓である筈。

 

池田信夫 blog : 電力会社の社員に表現の自由はないのか – ライブドアブログ
 http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51800031.html

冷静かつ論理的に妥当なことを言ったら「腰抜け外交」とバッシングを受け、何らの裏付けもないけども威勢の良い(この意味でかっこいい)主戦論を唱えたら拍手喝采。という太平洋戦争前夜に取っていた行動と全く一緒というのは情けない程度では済まない、この朝日新聞およびこれに喝采を送る少なからずの人々


——–[ 脚注 ]—————-
  1. でなければサンデルがあれほど注目・評価されるわけがない

私がなぜ原子力発電推進なのか

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私がなぜ原子力発電推進派なのか簡潔に示します。

  • これから世界は、中国、インド、そしてアフリカ諸国が繁栄の方向へ向かおうとしていることで爆発的に電力を必要としてきつつある。
  • 日本を含めいわゆる先進国はこの二世紀の間、化石燃料を潤沢に使って社会を繁栄させて来た。
  • 原子力発電という選択肢を無くすと、彼らには化石燃料(特に安価な石炭)という選択をするしかなくなる。
  • そうなると地球温暖化、地球規模での大気汚染の問題は今以上に深刻な問題になる。
  • 今までの二世紀にわたって先進国はさんざん化石燃料を消費して我が世の春を謳歌して来(しかも,その間は欧米列強諸国以外にとっては植民地化されていた歴史でもある)ておいて彼がその番になった時に「地球環境保護」の美名の基にこれに制限を加えようとするのは手前都合勝手な言い分ではないのかという問題がある。 [1]
  • ただ残念ながら、現状ではインド以外、中国も、ましてやアフリカ諸国では現在実用化されている複雑&大規模な原子力発電プラントを安全にオペレートし続けて行く能力は持ち合わせていない。
  • ので、原子力発電プラントは今以上に技術革新を遂げる必要がある。 [2]
  • この意味での最先端の技術&ノウハウの蓄積は、フランス&日本の寡占状態である。
  • 「世界唯一の被爆国」である日本には「核兵器と結び付かないクリーンな原子力」というイメージが持たれている(彼らの過大な幻想の部分もあると日本人からは冷ややかに言える面も在るが)。
  • 反対に核兵器を持っているアメリカ、フランス、(ましてやロシア)の影響下で原子力発電プラントを持ちたくない(政治的|情緒的)思惑もある。
  • ので、その技術プラスαな「ブランド力」が日本にはある。
  • 現段階で日本が原子力開発から降りたら、今まで「日本は世界唯一の被爆国」と言って、その平和的利用の牽引役をしていた(と彼らはみている)のから、しかも彼らがこれを必要とし始めた矢先という最悪のタイミングで降りるのは「無責任」と映る。 [3]
  • 反対に原子力発電プラントを今以上の技術革新を遂げさせる責任は日本にあると期待されている。
  • 彼ら独力で安全にオペレートできるようになるまでノウハウの伝授を含めた総合的な支援をする役割を担う責任が日本にはある。(彼らはそう期待している。)
  • その日本で原子力発電プラント事故が起きたことは、これをどう始末付けるのか・・・未来に繋げる教訓を得ようとするのか、なし崩しに逃げてしまうのか・・・注目されている。
  • つまり、いま原子力開発から降りるのは、「世界、特に途上国からの期待を裏切る行為であるので日本の国際的プレゼンス向上のチャンスを逃すだけでなく失墜すらしかねない」「せっかくの大きい国際的ビジネスチャンスをドブに棄てるに等しい」という国際貢献、金儲けの両方で大損をするのは愚か以外のなにものでもない(この二者が両立することは滅多に無いし)。

ビル・ゲイツは第四世代原子力発電プラント(今までのものよりコンパクトかつイージー・オペレート)の開発ベンチャーに多額の投資をしている。流石はビル・ゲイツと言うべきだろう。個人的にはビル・ゲイツは好きではないが、先見の明ありと評価するべきと考える。

TED RANDOM「「ゼロへのイノベーション」 ビル=ゲイツ、エネルギーについて語る。」
http://tr.loopshoot.com/id/767

2012年6月8日 23:25 追記:
一定以上の便益を備えているテクノロジーに於いて、それを凌駕するものに置き換わられたのでない限り、皆が「もう終った」「将来は無い」と言っているとき、こういう時こそ最大のブレークスルーのチャンスなのだと、直観的にそう思う。 もしかしたら、これが一番言いたかったのかも知れない。

2012年6月10日 05:24 追記:
先のエントリーで紹介した動画の中の細野大臣に報告書を渡す会見の模様を伝えたもの「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか – YouTube http://www.youtube.com/watch?v=Agp1amvBv94&feature=plcp」,この会見終了後(YouTube動画ではカットされていますが)当日USteamで生放送されたもので、細野大臣が退席した後、大前氏が質疑応答に答える中で「この報告書で指摘した問題(福島事故の反省点)を真摯に受け止め改善に盛り込む姿勢が政府に見られないとなった時は、私は反原発・脱原発の側に回ります」と強い調子で述べております。私もこの大前氏のスタンスに全面的に同調する者で、「何が何でも原発推進」「無批判に原発賛成」ではないと、「原発推進賛同派だからこそ厳しい目で見つめ続けるべき」と考えると明言しておきます。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. この点に関しては、先進諸国でマラリアがほぼ根絶できた途端「毒物だから」とDDT使用を全面禁止にしたのと同根の問題。これを厳しく糾弾していた武田邦彦氏が今やあっちの世界に行ってしまったのは残念
  2. 核兵器開発に繋がる可能性は(今でも)あるので、わざとイージー・オペレートなものを作ってこようとしてこなかったという側面もある
  3. 視点を変えるならば、原子力開発から日本が逃げてしまったなら、これ以降「日本は世界唯一の被爆国」という枕詞は一切使えなくなると心得ていた方が良いとも言える。反原発派もこの枕詞をさんざん使い倒して来た功罪を猛省すべきだ

将来の出来事を正確に予測する人に自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人が多い

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自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人ほど将来の出来事を正確に予測する! | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31975

或る種の、それも大いなる誤解を呼ぶ伝え方で、この意味で間違っています。

正しくは「将来の出来事を正確に予測する人に自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人が多い」です。
言い換えると、高い信頼を置くに足る『「洗練された」情動や感覚』を持っている人は将来の出来事を正確に予測する人である可能性が高い、ということです。
つまり『”高い信頼を置くに足る”「洗練された」情動や感覚を持っている』かどうかが最重要ポイントで、これはつまり、意図してかせずかは何れにせよ、情動や感覚が洗練される努力・訓練を経てきている(意図している場合)、情動や感覚が否が応にも洗練される環境に(たぶん若い年齢期に)身を置いていた、の何れかだとかなり強気で断言できます。

裏返せば、洗練されていない情動や感覚は信頼するに値しないし、この洗練されていない(未熟な)情動や感覚に信頼を置く人は単に「思い込みの激しい人」「勘違い野郎」です。間違いなく。

この『「洗練された」情動や感覚』を指して「感情機能」とC・G・ユングは言っていました。また英語で云う「Feelings(感情)」はこの『「洗練された」情動や感覚』のことであるとも。 [1]
ただ、と同時に、15世紀に活版印刷が登場したのに端を発しその後今に至るまでの永きに渡って欧米文明の思想的大黒柱である啓蒙主義、これが論理思考を重視するあまり「Feelings(感情)」を軽視、蔑視する傾向が弱からずあり、これ故「Feelings(感情)」の洗練ということはあまり顧みられなかったし、その結果、洗練されず情動、感覚を野蛮なまま持っており、これを理性の仮面で覆い隠している、これが今日の標準的なヨーロッパ人だという批判を屡々していました。 19世紀後半〜20世紀初頭に欧米で一大オカルト・ブームが巻き起こった一因はこれに求めることができるとも示唆していました。
この事にC・G・ユングが気付いたのは、このオカルト・ブームに科学的にアプローチしてみて何か見えてくるものはないかと、いわゆる霊能者、超能力者とされる人(自称も含む)たちを研究・観察してみたところからでした。
研究してわかったことは彼等は概ね「金儲けの手段として錯覚、錯誤を利用したトリックを霊能・超能力だと称している詐欺師」「何らかの精神病理と診断される人(主にはヒステリー(当時の概念での))」「(それを霊能・超能力と呼んで良いのかの議論は保留しつつ)その能力があると判定せざるを得ない人」の三つに区分できるということです [2]
(ユングは精神科医でしたから第二群も研究対象にしたわけですが)第三群を研究してユングが発見したのは、これらの人たちはおしなべて「自ら進んで霊能力者であるとは言わない」「自ら進んでその能力を誇示したがらない」「その能力の他、知性的・理知的な人で論理性にも優れている」という点です。
あいだの経緯は書くと膨大になるので省略します(興味のある人はC・G・ユングの著書を何冊か当たって下さい)が、後年彼は「論理と感情(Feelings)は相反する二項対立的性質はもっているものの、論理か感情か?という二者択一的に捉えるのは間違いで、二者は車の両輪の如く協調、協力関係にあることで最大のレスポンスを発揮できる」「これ故、論理性の洗練も、感情(Feelings)の洗練も、どちらも共に必要」と考えるに至っています。

巷に「ロジカルシンキングのすすめ」と称する書籍、情報が溢れかえっている昨今ですが、現今までロジカル(論理)の訓練が全然なっていないと言える日本の社会に於いては、そのバランス上まずはロジカルの方へ力点を置くのは間違いではないとは思いつつも「ロジカルだけをいくら磨いても駄目ですよ」と言っておきたいです。いわゆる「頭でっかち」になるのがオチ。
気付いている人は気付いていると思いますが、論理と違って感情(Feelings)はそれを鍛えられる体系化されたカリキュラムのようなものが殆ど存在しないのです。また、カリキュラムのような体系化も出来るとは思えません。ではどうするのか? あくまで経験的にですが、「”ロジカルを盲信せずに” ロジカルを極限まで極めて行こう」とすると、これに連動して感情(Feelings)も洗練されてくる、と私は考えています。但し、決して「ロジカルを盲信しない」「感情(Feelings)を軽視・蔑視しない」という心構えは忘れてはいけません。

冒頭引用記事に戻ると、記事中からも推察できるように、理知性も或程度以上にハイレベルな人を研究対象にしていると思われ、つまりこれは前提条件として既にあり、この上であるので「自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人ほど将来の出来事を正確に予測する」という纏め方になっているのだと理解するのが正しいと言えます。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 日本語では何れも「感情」と言い表わすことが多いので混同 → 誤解の元になっていますが、英語では「Feelings」と「Emotions」は区別されますし、日本語に於いても両者を区別することに意識的な人・場合は前者を「感情」、後者を「情動」と言い分けます。
  2. その研究対象であるヨーロッパ文化圏内での話である点は留意する必要がある

占い依存症になりやすい人

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先週金曜日(2012年1月17日)フジテレビ「とくダネ!」にて取材VTRが放送されました。この取材の前日にも週刊「女性自身」に電話取材を受け、こちらの記事は今週発売号(2月21日発売 2528号)に掲載されています。
どんな内容になっているか確認はしていないですが、ちゃんと書いたページを用意しておけば(万が一真意とは違うように編集されていても)誤解しない人は誤解しないと思いますので、このページを掲載します。
基本的に取材インタビューに答えるために用意した下書き原稿で、擲り書きです(多少は整えていますが)。最初から読んで貰うことを前提に文章を書き出したのとは違い散発的、羅列的で読み難いかも知れませんが、ご勘弁を。
当然ながら、オセロの中島知子さん個人について言及しているのじゃないことを改めて(念のため)申し沿えておきます。

また、このページは、より良い論理構成、推敲を思いつく度に随時更新します(どこを加筆、訂正したかはいちいち明記しません)。

「○○依存症」という、この ○○ に何が入るか [1] に関係なく本質部分は一緒だと先ず強調しておく必要はあると思います。

ただ、とは言いつつ「占い依存」の場合は、占い師(霊能者)という相手がある二者関係の「関係依存」である点で「恋愛依存」「セックス依存」以外の他の物的依存とは違って、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)と同根の問題でもあると言えます。

  • 論理的ではなく理屈っぽい=物事を白黒つけたがり過ぎる・・・曖昧、微妙なのが本質の情緒性が劣っている
  • 人間関係を「勝ち負け」「上下」「優劣」で理解する傾向が強く、この関係付けで捉えられないものには反応が薄い。・・・実際には反応が薄いのが原因なのだが、この事に本人は気付いておらず「こころ許せる友達ができない」などと嘆いているケースは多い。
  • (評価ではなく)世間、周囲の評判を過剰に気にする=裏返しの「全くに意に介していない」という虚勢を張るケースも多い
    ( [気にするべき(または気にしてもいい)評価] はスルーするのに [気にしなくてもいい(気にするだけ馬鹿馬鹿しい)評判] を妙に気する傾向も)
  • 他人の考え・感情を通常の「推し量る」能力は劣っているが、反対に「邪推」することが多い。
    (話の前後関係などの文脈から(話し言葉の場合は、相手の表現の着け方、抑揚間合いの付け方も)推察できる「文意」の酌み取りが能力が劣っている反面、メインの意味合いには殆ど影響のない枝葉末節の文言の不備または「文言そのもの」に強く反応 [2] するので、勝手な解釈、思い込みによる「誤解」「誤彪」が多い。 → 「言っていないこと」に食って掛かってくる人)

人間の知性は「論理による思考」と「感情、感覚による察知・判断」が協力的に働くことで理想的な働きとなるので、両者が非協力的またはアンバランスだと適切な推量、推測、判断が損なわれやすい。以上に列挙した特徴は、この両者が協力的に働いていない結果だと言えます。

  • 自尊感情が健全に育まれていない(自尊感情は弱い) ≒ (間違った意味での)プライドが高い [3]

「論理による思考」と「感情、感覚による察知・判断」が非協力的またはアンバランスになる原因として多くの臨床心理家、心理学者のコンセンサスとして重視されているのが「自尊感情の不全」です。
自尊感情とは「イケテル自分」だけでなく「イケテナイ自分」も含めて全包括的に自分を肯定できる(存在を否定しない)感情ですので、自尊感情が不全な人は「イケテル自分」だけしか受け入れれない [4] ・・・つまり「自分を肯定する感情」が「イケテル自分」の方にばかり偏っている(偏り過ぎている)。心というのは常に平衡を保とうとしますのでこれの裏返しとして「イケテナイ自分」の方には否定的感情ばかりが寄せ集められている(残っている)ことになります。
否定的感情というのは他人に対してでもそうであるように、客観的な評価を越えて非常に誇張される元なので、実際にイケテナイ以上にイケテナイように自己イメージが歪む。これが所謂「劣等感コンプレックス化」するということです [5] 。マイナス面が誇張されることで発生する偏りを補正しようとプラス面も誇張され、プラス面が誇張されることで発生する偏りを補正しようとする自律的平衡維持作用でマイナス面が誇張される・・・という「悪魔のループ」が発生する [6]
プラスの面に対してはプラス方向に、マイナス面に対してはマイナス方向に、どちらの方向へも誇張極端化するわけですので双極性障害(いわゆる躁鬱病)とも相関性があるかも知れないと思います。
自尊感情が弱いのを補う働きが動く結果「虚勢張り」になりやすく、時に「見栄っ張り」で「高慢ちき」。「他人に弱みを見せると負け」と考えやすく、これゆえ普段から策略・計略的言辞が多い。自身がそうであるので他人の言動も策略・計略的であるかのように誤解釈しやすい → 不要な詮索、邪推が多い。
その(自尊感情の不全)原因であり、かつ結果であるのが「小さな失敗に対する非寛容さ」です。ここで云う「失敗」とは「不完全さ」と言い換えた方が良いでしょう。
多くの場合がちょっとした失敗をイチイチ指摘、注意、叱責される環境で育ったこと、またはロクに褒めて貰えた経験がなく育ったことで、性格的には神経質で潔癖症に(自分自身の性格的特徴・欠点も含む不完全さを許容できない)、人物的には(いわゆる)完璧主義で他人の失敗にも非寛容になるというパターンにはまりやすいです。
何故これが自尊感情を不全にする原因になるのかといいますと、哲学的言い方をしますと『「完全」という概念自体が論理思考が産み出したフィクションに過ぎない』からです。平たく言えば「完全な人間というものはそもそも存在せず」「人間というものはそもそも不完全」だから、不完全さを許容されない育ち方(育てられ方)をすると「全存在的自分」を許容しなくなるからです。
『「完全」というフィクション』を絶対視すると、論理思考で自分の全てを統制しようとする傾向が強くなり、感情は論理思考の従属物としてしか許容されない・・・論理思考のお気に召す「美しい面」しか許容されない・・・ので、これ以外の「感情というトライ&エラーの繰り返しによるその(適切な)表現手段・手法を獲得していくしかない働き」が、その獲得機会を与えられないことから人格の構成要素として組み込まれない(“野蛮”なまま放置される)・・・「完全さを目指して不完全になる」というパラドクスに陥るのです。

『「完全」というフィクション』に囚われてしまって自分に不完全さを発見してはこれを躍起になって消滅させようとしている点で「美容整形依存症」と根の部分で共通します。

論理的推論で出来るのは「決定」
「決断」は論理で詰めるだけでは答が出せない問題を決めること・・・感情の助けがないと困難。つまり「勇気」であり「後悔を振り切る潔さ」であり「リスクを引き受ける決心」である。

今回の震災に伴う原発事故で奇しくも露見したように「リスクを過剰に恐れる」人が異常に多いこと。日本人は総じて「小さいリスクを無くすことの積み上げで大きいリスクを無くすことが出来る」と信じ過ぎる傾向が強いのですが、これは実は「そういうケースも確かに少なからずあるが、そうでないケースも多々ある」という意味で間違いなのです。小さいリスクを無くすことの積み重ねでしか行動できない人というのは、いざ大きめのリスクにぶち当たった時にそれまでリスクにちゃんと向き合ったことがないのでリスクの大きい小さいすら判断できない思考停止状態になる [7] 。思考停止してもリスクを避けたい感情だけは残るので、元から極端なリスク回避性向がより先鋭化して無闇と増幅した恐怖心となり、バラ色の未来を語る詐欺師の甘言または、終末論的恐怖を煽る言辞を信じ易くなる。
占いジプシーの方なども全く同じで、リスク・・・全く完全な人間などこの世には存在しませんから、恋愛、ビジネス、あらゆる人間関係は「リスク込み」なので、これを付き合いの中で付き合い方の工夫で最小化するという健全な思考法ができる人は良いのですが、「工夫で最小化する」のではなくて端からリスクが極限ゼロに近い相手を選ぼうとする・・・いわゆる相性が良いだ悪いだ言っているのも参考値程度でなら健全なのが占いで相性の良い相手を見付けてこれと付きあおうという発想になると、これは「リスク回避病」と言って良い。
自分にとって安心できる甘言を言ってくれる占い師に巡り合うまで占いジプシーを繰り返し、運良く(運悪く)期待通りのことを言ってくれる占い師、霊能者などに巡り合うとこれを絶対視し出すというわけです。ドラッグを打ち続けている限り平安で居てられる麻薬中毒患者と一緒で、その「安心のおまじないの暗示」を言い続けて貰わないと禁断症状(無根拠の不安が異常に増悪する)が出るようになっていくので、最初は一週間に一回程度で良かったのが三日に一遍、、、果ては毎日朝夕という具合に悪循環を深めていきます。

放射性物質拡散に於いては「非日常的できごとだから」その様相がより過激さを増しているだけで、「自分の中のリスク(マイナス面)」と向き合ってうまく付き合っていこうとする態度が欠如している事が投影されているという点で全く同じだと言えます。


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 買い物、占い、恋愛、タバコ、アルコール、ギャンブル、セックス、薬物、、、
  2. 当然、言葉狩りに走る傾向も強い
  3. 自尊感情が弱いのを補おうと働く(意識的にではない)働きの結果「事実以上に自分をよく見せようとする振舞い」が増えやすい
  4. 大抵の場合は生育して来る中で「イケテル自分」しか評価してくれない周囲の大人の接触態度を反映している
  5. 劣等感自体が悪いものなのではなく、劣等感が否定的感情ばかり寄せ集めて塊になってしまう(コンプレックス化)ことが問題なのです
  6. これが極限まで進むと多重人格的になってくる
  7. 実際にはリスクの多くは無くせはしないので「無かったことにする」「無いことにする」でやり過ごしてきているだけなので、実は小さいリスクが沢山積み重なって大きくなっているケースも多い

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  • 「人体への健康リスク」を基準としてした場合(同程度の人体への健康リスクで見積もった場合)の、
  • 「放射性物質」
  • 「石炭燃焼に伴う廃棄物(排煙等も含む)」
  • 「石油燃焼に伴う廃棄物(排煙等も含む)」
  • それぞれの、自然環境へ暴露された場合の、
  • 生態系全体への悪影響度の評価

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