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映画「コクリコ坂から」を観てきた

ネタバレは最小限になるように注意して書こうと思いますが、或程度以上深く突っ込んで評論、感想を述べるのだから所詮そんなことは無理な話で、、、なので一切の先入観を持たずに同映画を観たい人は読み進まないことを強く薦めます。

エクスキューズ(言い訳)は以上として本題に入ります。

先ず、最初に心理学の徒ぶった言い方をさせて頂くと「感覚優勢の人じゃないと “駄作” のレッテルを貼る可能性が低くないな」です。
論理的に分解・・・要約してしまうと、深いストーリ性も深く考えさせられる哲学的命題のようなものも大して無い、陳腐とすら呼んでも良いのかも知れないストーリーで。
 これはこの映画が陳腐であるということではなくて、分解してしまうと零れ落ちて行ってしまうニュアンスや空気みたいなもの、これら一切を含む総和としてしか表現され得ないもの・・・つまり「感覚」で表現されたものの比重が非常に高く、ゆえにこれを感覚のまま受け止め理解できる感性を持たない人には大いに誤解というか無理解で終わらされてしまうのだろうということです。

同映画を観終わった瞬間・・・まだエンドロール前の話自体が終わった瞬間は「掴み所のないぼやぁっとした “悪くない。いや良かったのかな” という印象」だけが「そこはかとなく」心のなかに漂っているという感じ(以上ではなかった)だったのが、エンドロールが始まると共にジワジワと何故かはわからないけども涙が滲み出し、と同時に何とも形容のし難い「味わい」と呼ぶしかない感動(のようなもの)がこみ上げてきた。
そしてこのエンドロールが実にあっさりしたもので、「テーマ曲でじっくり引っ張って余韻の感動を盛り上げる」というのとは真逆の実にあっさりした「えっ! もうエンドロール終わっちゃったの?」と思うや館内が明るくなり始め、慌てて涙を隠さなきゃいけないという次第に相成り。

帰りの道々、「何で涙がこみ上げてきたのだろう?」「(涙に相応しい)感動作というのじゃないし、、、」「況してや壮大なドラマなどでは微塵もないし、、、」とつらつらと考えている内に気付いたのが「落語的というか落語と通底する表現という面がある」という点です。
ご存知のかたはご存知の通り、落語というのは(主に人情噺と呼ばれるものなど一部は違いますが、その多くは)筋立て・・・ストーリーに於いては大して筋らしい筋は存在しないのが通例で、そしてまた、会話・・・言葉のやり取りで進行していくので言葉遣いが変わった瞬間に「場面(状況)が変わったのだ」と聴き手に了解されるという性質を持ちます。
「場面が変わった」というのは当然、それに相応する時間、空間、心理の経過も「含んだ上で」瞬間的に変わったのだと理解するということです。 現代演劇などリアリズム表現の場合は、それに至るのに辻褄の合う筋立てなり伏線があった上で言葉遣いが変わるというのが基本なのに対して、落語の場合は言葉遣いが変わるというのを以て場面が変わったのだと了解させ、これに対する説明らしきものは殆ど無いケースが多々あるのです。
これはつまり或る種の約束事で、表現者と受け取り手の間に或る種の暗黙の了解が存在するということにはなりますので、この暗黙の了解に馴染んでいない人には強引と受け取られる危険性が潜んでいるということにはなります。
ところが、論理的辻褄が合っているかどうか、それに対する納得の行く説明があるかどうか、これに敏感なのは大人で(これはこれで大人になるというのはそういう論理性を身に付けるということ物事の妥当性を確かめる力を付けることであるので基本的に悪いことでは当然ないのですが)、子供の方が言葉と言葉のやり取りの中でダイナミックに生きるのに寧ろ大人より慣れていると言えて(だから反面、言葉の些細な行き違いから揉め事や喧嘩はてはいじめが発生するのだが)ずっと素直に受け入れると思われます。

この「落語的」という点に気づいてみれば、エンドロールが実にあっさりと呆気ないくらいにあっさりと終わってしまう作り方にも意図があるのではないか?と推測されます。
 落語の「たちぎれ線香(たちきり、たちきれ)」に似ていると。あっさりと終わらせることで寧ろ、受け止め手の心の中では余韻が増幅し深みを増すという流れが。

以下は直感的にそう感じるというものなので上記以上に個人的見解ですが、何年か後、もしかしたら10年、20年後に「この映画を観てて良かった」とそういう一財産を子供の心の中に与えてくれる映画であるように思います。

繰り返しになりますが、観終わった直後にストレートに「いい映画だった」と思える類いの映画ではありません。

以下余談ではありますが、この映画に纏わってインタビューを受けた監督の宮崎吾朗氏が語っていたところ(MBSラジオ)によると「(父である宮崎駿は)俺の書いた脚本を台無しにしやがった」と表向きは否定的コメントをしていたのに試写会で「最後大泣きしていた」のだそうです。

世の中によくある男女比較論

セキララ★ゼクシィ-
http://zexy.net/contents/lovenews/article_list.php?c=0

アンケートというもの自体が大体そうであるが特にネット上でのアンケートの場合、積極的に答えたがる人とそうでない人という偏りが割とモロに影響して、必ずしも広く一般の意見を拾えているわけではない(万偏無く意見を拾えていない)という保留を頭の片隅に常に意識して読まないといけないのだが、、、

これを前堤しておく限りに於いて「へぇ、今どきの女子はそういうことに躓くんだ」「今どきの女子はそういうことに悩んだりするんだ」と、また「そういう考え方、感じ方する人が居るんだ」「ふーん」など、僕にとれば「頭の柔軟さを失わない手助け、刺激に」なる、世の中の若い女の子たちには「こう悩んでいたの自分だけじゃないんだ」とか「こういう捉え方をすればわかる」とより実用的なお役立ち情報を発進してくれているサイトの一つなのだと思うのだけど、、、

 

世の中に、テレビ、雑誌、等々によく登場する『「男と女」の「比較論」的に語られている文脈』で・・・この内、根から誠実性の破片もないセンセーショナリズムだけでトレースしているものは端から問題外だが・・・前々から引っ掛かっている点が在って、、、

 

それは、半ば経験則、半ばは直感でそうじゃないか?と思っていることなのですが、異性兄弟の居る or 居ない の影響を考えに入れずに男女比較論を展開して良いのだろうか?という疑問です。
言い換えるなら、異性兄弟の居る男女を比較した場合と、異性兄弟の居ない男女を比較した場合に、かなりの歴然とした違いがあるのではないか?ということです。

具体例を挙げると、「女の気持ちがわからない」「女は何を考えているのかわからない」と曰う男性は世の中的に少なくはないけども、僕の知る限りこういうセリフを割と直ぐ吐くのは「女兄弟の居ない男性」に非常に偏ってみられると。そして同じく「男って何考えているのかわからない」「男って頭悪い」と割と直ぐ言ってしまう女性は「男兄弟の居ない女性」に偏ってみられるという観察をしています。
(勿論、物凄くシリアスに深く考えるならば、男にはなかなか理解しにくい女性の面はあるし、女には理解しにくい男性の面はあって、これは異性兄弟の在る無しを超えた男女の違いであると言って良いでしょう)

 

より具体的に上記サイトの一つの記事(http://zexy.net/contents/lovenews/article.php?d=20110704)に突っ込んでみると、心理学博士の某氏は

皆さんが感じているように、男性は顔やスタイルなど、『外見』だけで評価する

と公然の事実であるかのように語っているのですが、「それは違うだろ!」「なに戯言言ってるんだ、このオッサン」と思うのです。
「外見に非常に左右される」人は女性にも少なからず居て、つまり「”『外見』だけで評価する” というのは男性の特性であるとするのは明らかにおかしい」と先ず言えて。
更に加えて、僕の色々な人を観察してきている範囲の経験則に於いて、「外見に非常に左右される」人は異性兄弟の居ない人に偏っているという印象を強く持っています。
実際僕個人、一歳上の姉が居て非常に仲良しなのですが、「男性は顔やスタイルなど、『外見』だけで評価する」という某氏のセリフには非常に違和感を感じます。
(僕個人の意見を言えば、外見も評価の内に入っていますが「One of them」でしかなく「『外見』だけで評価」などということは無論「外見重視」ですらないです)

更に付け加えると、異性兄弟の居ない人は男女問わず異性に対して「男は(女は)○○」というステレオタイプな決め付け、思い込みをしている割合が結構高く、上記の某氏ももしかしたら異性兄弟居ないのじゃないかしら?という感想を抱きます。

 

とまれ、この記事にケチを付けることが目的なのではなく(あくまで、この記事はダシに使わせて貰っているだけ)、僕の言いたいのは「異性兄弟の居る or 居ない で分けた男女比較論を展開してみると、興味深い結論を導き出せるのではないか?」という問題提起です。
この切り口でのそれなり以上に信頼できる研究は寡聞にして知りません(もし在ったなら教えて下さい)。

 

学術的なレベルでフィールドワークできる立場の方、どなたか調べて論文に纏めて下さいませんか?

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