映画「コクリコ坂から」を観てきた
7月 27
心理学エッセイ, 落語についてあれこれ No Comments
ネタバレは最小限になるように注意して書こうと思いますが、或程度以上深く突っ込んで評論、感想を述べるのだから所詮そんなことは無理な話で、、、なので一切の先入観を持たずに同映画を観たい人は読み進まないことを強く薦めます。
エクスキューズ(言い訳)は以上として本題に入ります。
先ず、最初に心理学の徒ぶった言い方をさせて頂くと「感覚優勢の人じゃないと “駄作” のレッテルを貼る可能性が低くないな」です。
論理的に分解・・・要約してしまうと、深いストーリ性も深く考えさせられる哲学的命題のようなものも大して無い、陳腐とすら呼んでも良いのかも知れないストーリーで。
これはこの映画が陳腐であるということではなくて、分解してしまうと零れ落ちて行ってしまうニュアンスや空気みたいなもの、これら一切を含む総和としてしか表現され得ないもの・・・つまり「感覚」で表現されたものの比重が非常に高く、ゆえにこれを感覚のまま受け止め理解できる感性を持たない人には大いに誤解というか無理解で終わらされてしまうのだろうということです。
同映画を観終わった瞬間・・・まだエンドロール前の話自体が終わった瞬間は「掴み所のないぼやぁっとした “悪くない。いや良かったのかな” という印象」だけが「そこはかとなく」心のなかに漂っているという感じ(以上ではなかった)だったのが、エンドロールが始まると共にジワジワと何故かはわからないけども涙が滲み出し、と同時に何とも形容のし難い「味わい」と呼ぶしかない感動(のようなもの)がこみ上げてきた。
そしてこのエンドロールが実にあっさりしたもので、「テーマ曲でじっくり引っ張って余韻の感動を盛り上げる」というのとは真逆の実にあっさりした「えっ! もうエンドロール終わっちゃったの?」と思うや館内が明るくなり始め、慌てて涙を隠さなきゃいけないという次第に相成り。
帰りの道々、「何で涙がこみ上げてきたのだろう?」「(涙に相応しい)感動作というのじゃないし、、、」「況してや壮大なドラマなどでは微塵もないし、、、」とつらつらと考えている内に気付いたのが「落語的というか落語と通底する表現という面がある」という点です。
ご存知のかたはご存知の通り、落語というのは(主に人情噺と呼ばれるものなど一部は違いますが、その多くは)筋立て・・・ストーリーに於いては大して筋らしい筋は存在しないのが通例で、そしてまた、会話・・・言葉のやり取りで進行していくので言葉遣いが変わった瞬間に「場面(状況)が変わったのだ」と聴き手に了解されるという性質を持ちます。
「場面が変わった」というのは当然、それに相応する時間、空間、心理の経過も「含んだ上で」瞬間的に変わったのだと理解するということです。 現代演劇などリアリズム表現の場合は、それに至るのに辻褄の合う筋立てなり伏線があった上で言葉遣いが変わるというのが基本なのに対して、落語の場合は言葉遣いが変わるというのを以て場面が変わったのだと了解させ、これに対する説明らしきものは殆ど無いケースが多々あるのです。
これはつまり或る種の約束事で、表現者と受け取り手の間に或る種の暗黙の了解が存在するということにはなりますので、この暗黙の了解に馴染んでいない人には強引と受け取られる危険性が潜んでいるということにはなります。
ところが、論理的辻褄が合っているかどうか、それに対する納得の行く説明があるかどうか、これに敏感なのは大人で(これはこれで大人になるというのはそういう論理性を身に付けるということ物事の妥当性を確かめる力を付けることであるので基本的に悪いことでは当然ないのですが)、子供の方が言葉と言葉のやり取りの中でダイナミックに生きるのに寧ろ大人より慣れていると言えて(だから反面、言葉の些細な行き違いから揉め事や喧嘩はてはいじめが発生するのだが)ずっと素直に受け入れると思われます。
この「落語的」という点に気づいてみれば、エンドロールが実にあっさりと呆気ないくらいにあっさりと終わってしまう作り方にも意図があるのではないか?と推測されます。
落語の「たちぎれ線香(たちきり、たちきれ)」に似ていると。あっさりと終わらせることで寧ろ、受け止め手の心の中では余韻が増幅し深みを増すという流れが。
以下は直感的にそう感じるというものなので上記以上に個人的見解ですが、何年か後、もしかしたら10年、20年後に「この映画を観てて良かった」とそういう一財産を子供の心の中に与えてくれる映画であるように思います。
繰り返しになりますが、観終わった直後にストレートに「いい映画だった」と思える類いの映画ではありません。
以下余談ではありますが、この映画に纏わってインタビューを受けた監督の宮崎吾朗氏が語っていたところ(MBSラジオ)によると「(父である宮崎駿は)俺の書いた脚本を台無しにしやがった」と表向きは否定的コメントをしていたのに試写会で「最後大泣きしていた」のだそうです。