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狂人と賢者を分ける線

かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?: 竹林の国から
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-6d73.html

 この記事が参照とし、この記事を書く発端となったと記事中に明記している
「池田信夫 : 脱原発という「空気」 : アゴラ → http://agora-web.jp/archives/1382641.html」
へのトラックバックから池田信夫氏が「一読推奨」とtwitterで本記事を紹介していたのに機会をもらって読んでみた。

 その主論旨は主論旨で「なるほどなぁ」と考察を深める良い情報を与えて貰えたと思うのだが、それはそれとして心理カウンセラーとしての視点として、この本文中に述べられている「自己義認 [1](自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神 [2]、」を設定 [3]し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義 [4]するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくりであるという点に注意がいく。
 だからといって、明治維新の志士たちが統合失調症だったとか、戦時中の軍部(少なくともいわゆる青年将校たち)に統合失調症者が含まれていたなどという、そういう安直な話なのではなく。
 その結果状態は異常と言わざるを得ない統合失調症であるが、その機序のそもそも・・・統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い・・・という観点から、社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に [5]、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか? 個人的見解の域は現在出ていないが、これは多分「イノベーションを生み出す能力の呼び水となる力動」になり得るものであろうと考えている。
この考えが正しいなら、その結果を分ける分水嶺を見極める智慧はないものか?もし、それを見極めることが出来たなら破壊的改革 [6]を避けてイノベーションを拾える機会を社会的に増やすことが出来るのであろうと、希望的観測混じりではあるが、こういう問題提起が出来るのである。

 これについて、どうこう一ヶ言を述べれるほど考えは纏まっていないので、これは自分自身に対しての問題提起でもある。

 

 また、先日書いた記事「“個” の思想は欧米礼賛なのか」で述べた、あの時代(太平洋戦争に向かう前駆的時代)に、そしてややもすると現在でも、誤解というよりは無理解に近い誤彪を犯している「“個” の思想」に対する誤った理解が、どう誤っているのかの一端もここで読み取ることが出来る。

その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」
 これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

彼の言葉を援用して私の言いたかったことを再構成すると、「自己義認」認識の自己のそれぞれが主張をするという構図・・・引用記事中に云う「プロテスタント病」・・・が「“個” の思想」だ、と誤彪しているフシが少なからず日本人の間に散見されるということである。
これだと確かに疲れるし、カオス状態である。このカオス状態を治めれるのは「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」になってしまう。
そうならない社会を目指すのには真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付けることが大事なのではないか?ということである。

これはC・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセスに他ならないのだが、「意識化」「個性化」の意味を神秘主義的オカルトなものに曲解、歪曲、捏造したものを喧伝する者が後を絶たないので、C・G・ユング自身の思想、主張自体が神秘主義的オカルトなものであるように広く世間一般に思われているのは実に残念、、、いや残念を通り越して憤りさえ覚える。 [7]

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「義認」とはキリスト教の中核概念で「神により義とされる事」(教理的解釈は教派によってかなり異なる)であるが、ここでは「自分自身(自己)によって自分自身を義とする」・・・「暗黙に自分自身を神と前提している」という意味で使っている
  2. 世間一般の通念での「神」であるとは限らない。神格化しているものは勿論、そうであると意識されていなくても事実上神同然のものも含む。「およそ “~ism”(主義)と名の付くものは全て宗教である」・・・C・G・ユング
  3. 具体的実在から最適と思わるものを選択する場合と仮想的、夢想的なものである場合を含む
  4. 「私の奉ずる○○(神、天皇 etc)は絶対正しい。何故なら絶対正しい私の奉ずる○○だから。故に私は絶対正しい。何故なら奉ずる○○が絶対正しいから」という完全なる循環論法。なので本文中では「発端」という言葉を使ったが、これは文章構成上の都合で使ったに過ぎなく、実はどこが発端なのかわからない
  5. 我々人間は我々自身を一個の生命体だと考えがちだが多数のモジュールが集積重合したもの…という話はあるが今は話題が逸れるので機会を改める
  6. 改革のつもりが破壊に向かってしまう致命的誤り
  7. この点に興味のある方はC・G・ユングの原著(訳書で構わない)を是非読んでみて下さい。間違っても「ユングの解説書(除く:林道義氏のもの)」は読んではいけません。

表示記事と同一カテゴリーの記事一覧をサイドバー表示するウィジェット

タイトルの通りで、何らかのページを表示させた状態の時に「その記事と同一のカテゴリー」「内に所属する記事」を「サイドバーに一覧表示」してくれる、そして「そのページがカテゴリーに属さない場合(固定ページとか)にウィジェットは非表示になる」ウィジェットは無いものかと探していたら見付かりました。
見つけ出すのに、検索キーワードを色々と工夫してやっと見付けたという感じで結構苦労したので、同じように探していて見付からなくて困っている方は居ると思いますので紹介しておきます。

重複になりますが機能は以下の通り。

  1. 表示されているページがカテゴリーに属している場合
  2. 同じカテゴリーに属している記事の一覧を作成し
  3. サイドバーに表示してくれる
  4. 同じカテゴリーに属した記事が無い場合、または表示ページがカテゴリーに属していない場合(固定ページなど)は非表示になる。
    (余分な空の要素が表示されて間抜けな感じになるのを防いでくれます)

※ Custom Post Type に対してどういう動作になるかは未検証なのでわかりません。興味あるので検証された方はご一報下さると非常に嬉しいです。

ダウンロード

配布サイト:Widgets of Posts by Same Categories
配布サイトは、英語です。
2011年9月22日現在のバージョン:Widgets of Posts by Same Categories 1.0.2
必要なワードプレスのバージョン:3.0.1以上
WordPressのバージョン2.8で導入された WP_Widget クラス を使用している。
zipファイルを解凍すると、「widgets-of-posts-by-same-categories」というフォルダが出てくる。

インストール

「widgets-of-posts-by-same-categories」フォルダを、フォルダごと、wp-content/plugins/ フォルダにアップロード・設置。
管理パネルで、「プラグイン」をクリックし、プラグイン設定画面を開く。「 Widgets of Posts by Same Categories 」を探し有効化。
管理画面内 posts-by-same-categories 項目
※ WordPress のプラグイン・アーカイブに登録されているので プラグイン → 新規追加 → 「Widgets of Posts by Same Categories」で検索 → インストール → 有効化 の方が簡単です。 WordPress の自動インストール機能が使えないサーバを利用の方は手動でインストールして下さい。

使用方法


WordPress管理画面ウィジェット欄

管理パネルの「外観」の横の▽をクリック。「ウィジェット」をクリックし、ウィジェット設定画面を表示。表示させたいウィジェットエリアへ、「Posts by Same Categories」をドラッグ&ドロップ。

下の画像が、「 Posts by Same Categories 」ウィジェット。
ウィジェット追加画面の様子


widgets-of-posts-by-same-categories-settings.gif

使用方法

表示投稿記事数
表示する投稿記事数を設定。
設定しない場合は、「 5 」が適用される。
並び順
投稿記事タイトル、投稿記事作成日、投稿記事更新日、投稿記事ID、ランダムから選択。
昇順/降順
昇順か、降順を選択。
カテゴリのリンク
タイトルとして表示されるカテゴリ名(記事ではなく)にリンクを張るかどうか。
除外(カテゴリ)
除外したいカテゴリがあれば、除外したいカテゴリのIDを、カンマ区切りで記入する。
区切り文字
カテゴリの親子間の区切り文字。


“個” の思想は欧米礼賛なのか

 気になる(流すわけにいかないと思う)tweetをタイムラインで見付けたのでコメントするです。
 このつぶやきを発したご当人個人をどうこう言おうというのではないので発言者は明記しません。

みんながみんな「やりたいこと」を見つけなきゃならない社会、みんながみんな「個」を主張しなきゃいけない社会って、息苦しくないか?この記事のような欧米の価値観礼賛が逆に日本にニートを生んできたのでは。http://www.madameriri.com/2011/09/12/

 この発言の何が気になるか。それは、こういう「欧米に追いつこうとしている(欧米を手本とする)日本」という構図で日本社会を捉え「西欧的 “個” の思想ってそんなに素晴らしいものか?」という懐疑を投げ掛ける発想というかマインドというか、、、これが「太平洋戦争に向かう前駆的時代にも出現していた “時代のムード”」と一緒だという点です。
 明治維新以来欧米を倣いとして、その思想、精神、マインドを身に付け国際的に通用する国になろうとしてき、それの意味を見失い出したあの時代、「西欧的 “個” の思想でなくてもいいんじゃないか?」「西欧的 “個” の思想以外にも一流国になる思想・・・そう! 日本的 “協和” の思想ってのがあるじゃないか」と、社会主義的思想の強い勢力が軍部の実権を奪取しつつあったのに結果的にせよ加担した、あの時代の一般大衆の多くが「空気」として共有していったムード。これと似ていると思うからです。

 いま「意味を見失い出した」と書きましたが、これは正確には「西欧的 “個” の思想の何たるかの本質。また、それを獲得することの意味を、そもそも理解していなかった。表層的にしか・・・着物を捨てて洋服を着用し出したのと同じ程度でしか・・・理解していなかった。これのメッキが剥がれだして “何も理解していない” ということが露呈し始めただけ(つまり最初から見失っていた)」だと言えます。
 上記引用の文面に「欧米の価値観礼賛」という捉え方が表出されているわけですが、これは今述べた「憧れて洋服を着てみただけ のマインド」と同類だと、「一旦暫く着てみていたけどしっくりこない。しっくりこないのはこの服が良くないんじゃないか? 服が間違っている、きっとそうだ」と言っているだけの “Sour Grapes” だとわかると思います。
「逆に日本にニートを生んできた」という点は一理あると思われる点ですが、これは “個” の思想が誤っていたのではなく上述の通り、その本質を理解し体得しようとせず上っ面の形式だけを追い掛けていた(その誤った理解の上で教育を施してこられた)からいつの間にか空回りして自分の足場を見失った人が少なからず出てきたと分析するのが正しいと思われます。

 現代に生き残っている「”個” の思想」というのは端的に言えば、主に19〜20世紀の2世紀に渡って国際化していった世界で生き残るために発達してきたセオリーであると思います。 これが歴史的にたまたま欧米が繁栄の中心だった時代に勃興したので、それが「=欧米の思想」ということになっただけ。なので「欧米礼賛」という捉え方自体が、表層的理解しかしていないと自ら語っている言なわけです。

 つまり大事なのは、それが欧米由来のものであるかどうかなどではなく、それが国際的に生き残っていくためのセオリーとして「どう使えるか」「どう使うべきなのか」また「それを使いこなせるほど我らは習熟できているのか」なのです。

もちろん、「国際的に生き残っていくためのセオリーは他にあるかも知れない」という設問設定は当然出来ますが、それの理解、習得、習熟を充分に出来ていない内にそれ自体にケチをつけ出すのは褒められた言動ではないので大概の場合、褒められたものではない結果を生み出すというのは弁えのある大人ならわかると思います。「それを使いこなせるほど我らは習熟できているのか」とはつまり「それを否定できるほど我らは習熟できているのか」だからです。

 時代の符合という意味では、あの時代・・・自由民権運動〜二大政党政治という流れで、その内実は二大政党がそれぞれの支持利権団体の権益拡張合戦に官僚も加わって利益分配談合を繰り返していた揚句に一般国民から信用を失い見限られて、、、その醜い政争を繰り広げていた時代に関東大震災、昭和金融恐慌、昭和恐慌、世界恐慌という歴史的大事変も起こっていたという点。 だから、またぞろ世界恐慌(リーマン・ショック以上の)が起こるなどと、まことしやかに歴史的必然論を説いて恐怖、不安を煽る愚サイトと同じ愚はおかすつもりはないです。
が、あの時代、日本を無意味な戦争へ導いた一つの要因は、上記で指摘した「”Sour Grapes” で自己正当化して悦に入っているマインド」を社会の流れを作る閾値以上の人が、しかも「ムードとして(空気として)」共有した結果だということは肝に命じて欲しいのです。
 もっとはっきり言えば、これは「間違ったナショナリズム」「歪んだナショナリズム」を社会に醸成すると危惧するということです。

2011年9月19日午前9時44分追記:文意がより通る言い回しをアップ後に思い付いたので一部訂正、加筆しました。

なぜ安全性を自分たちで担保しないのか

予め断っておくと私は大阪在住なので以下は関西電力に関しての(に向けた)話です。
とは言いつつ、東電管内の話とは事情が違う部分もあるだろうが本質的問題としては同じなのではないか?と思いつつ書きます。

「関西電力からの節電のお願い」というCMが毎日流されている。
TVのニュースで毎日の電力需給予想も告知されている。

これを観て、「実際問題として節電が必要とされている切迫した状況にあるという話ではなく、ムードとして”電力供給が逼迫している” かのようなイメージを流し → 稼働停止状態にある原子力発電所の稼働再開を実現しないと “近い将来困った事になる” との連想を促し → 停止している原子力発電所の再稼働も止むなしという “ムードとしての世論” を誘導しようとするイメージ操作だな」と感じるのは私一人ではないだろう。

「稼働停止状態にある原子力発電所の稼働再開を実現しないと “近い将来困った事になる”」という、これ自体は嘘ではない。事実である。
問題は、この汚い、卑怯と言っても良いやり口である。

私が関西電力の経営者なら、以下を実行する。

  1. 今まで(福島第一原子力発電所事故以前)に既に取り組み実現している安全諸策
  2. 福島第一原子力発電所事故を受けて、1の内容についての再吟味結果
  3. 福島第一原子力発電所事故を受けて、1以外の”見落とされていた点”, “新たに見つかった問題点”

を洗い直しさせ。(第一段階)

これに対しての具体的改善策の実施。(第二段階)

これらを総括して一般市民に向けて情報開示
→ 抽象的に「安全対策を致しました」という無意味な安全宣言はなく、微に入り細に入り「この問題点に対してはこれこれこういう対策を実行しました」「あの問題点に対してはこれこれこういう対策を講じました」と具体的事実を列挙した報告。(第三段階)

ここで大事なのは、第二段階だと、そのイチイチを経産省、原子力安全・保安院に「これは実行したほうが良いか」「実行しなくても差し支えないか」とお伺いを立てて決めるのではなく、寧ろ原子力安全・保安院が「実行しなくても差し支えない」と言っていても自社の判断として実行したほうが良いと判断されたことは実行するという姿勢である。

そして第三段階、ここが一番重要なのだが、「これこれこういう安全基準を満たしましたから再稼働を許可する方向で動いて下さい」と国の方を向いてロビー活動をするのではなく、一般市民の方を向いて「これだけの事をしました。また今後こういう方針、指針で運営していきたいと思いますので、再稼働に賛意を示して下さい」と大々的に広報するのである。 この為に番組枠を買って広報番組を流しても良い。

冷静に状況、情勢を観察していれば、今の「ムードとしてのなんとなくの反原発」は、本来は第三者機関として原子力運用の監督、監視、勧告、支持、助言を的確に行なっているべき原子力安全・保安院は「監視機関として全然まともに機能していなかった」という事実、それは結局、独立第三者機関とするべきなのを経産省の外局である資源エネルギー庁の下部組織にしていた・・・つまり経産省の意向に沿った範囲でしか動かない組織であるということ(事故後、記者会見していた担当官は直近まで特許庁に出向していた畑違いの人間であるのは有名な話である)・・・このことが国民に広く知れてしまったことから経産省の「原子力行政全般に対する不信」がその正体なのだと分かろう筈。
であるならば、幾ら改善策を施そうが、また、その改善策が実際に有効なものであっても、これを国民から信用されていない経産省、原子力安全・保安院の方を向いて行なっている限り、一般市民からの信任は得られる筈はない。

反対に上述のように一般市民に向けて充分納得の出来る説明を行なってその説得に成功し、これによって形成できた世論を以って「これだけの一般市民の信任を取り付けました」と経産省、原子力安全・保安院に迫ったら、彼らとて首を縦に振らざるを得ないであろうし、もし万が一、経産省、原子力安全・保安院が難色を示しても既に世論は味方に付けているのだから、監督省庁としての威権を守ろうとする官僚体質の愚を正面切って批判できる。(ひいては官僚の構造改革も迫れる)

電力会社が生き残りたいのなら、これが正しい戦略である。

私個人は電力自由化推進賛成派なので、既存の地域独占の状態で電力会社には残って頂かない方が良いわけなのだが、「形だけ民間企業その実態は公社」と言われてきた体質を改善し本当の意味で企業として自らを再定義し直し価値を高める、この意味で今の状況は「最大のチャンス」なのですよ。関西電力の経営陣さん。

2012年1月17日0時35分:表記間違い「誤:福島第二原子力発電所」を「正:福島第一原子力発電所」に訂正

楽観的TPP賛成論は嘘だ、が

TPPは日本の敵か – 『日本経済の底力』 : アゴラ
池田 信夫
http://agora-web.jp/archives/1377827.html

農水族の云う農業保護は「農政(に纏わる既得権益)保護」でありこれの共同正犯である「農協保護」である。
「マレーシアから持ってきたウナギを、浜名湖で1週間泳がせたら浜名湖産のウナギになる」・・・国産だとしてよいという欺瞞的手法がまかり通っているというのは大前研一氏などがかなり以前から指摘しているところである。 → http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/107/
この欺瞞的手法の上に乗っかって今や一大流通業化しているのが農協の実態。
引用元本文にあるように「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは事実だが、大半(八割方)の農業は壊滅するだろう。
但し、この八割とは「本当ならとうの昔に滅んでいて当然の、補助金、優遇税制によって農家のフリだけしていた偽装農家」であるので、こんなもの国の政策として守るべきものである筈ないのは自明。

もちろん私はTPP加入賛成派だが、TPPに加入するのがバラ色の未来を約束ものであるかのように言っている人があるなら、これは「大法螺吹き」の誹りを免れない。つまりTPP加入はバラ色の未来を約束するものではないということだ。
「先に光明の無い閉塞状態」と「先に光明がある混乱状態(*1)」とどっちらがマシかという選択である。

生の全体性と充実は苦しみと喜びの釣り合いを必要としている。 しかし苦しみは実際不快であるので、誰でも人間がどれくらい不安や心配をもつがいいのかを考えないようにするのが適当である。 それゆえ、苦しみがある程度まで十分にないと幸福も毒されてしまうということを考えてみもしないで、つねに改善や夢のような幸福について口当たりよく語られるのである。

C・G・ユング『心理療法論』所収「心理療法と世界観」みすず書房/林道義訳 P71〜72より引用

楽観的見方を避けるなら、その利益を享受できるのは今の子供世代が社会の中核を担うようになった頃だろうと個人的には思っている。
この点を加味するなら、経済学者が政治・経済の範囲外に言及しないのは当然としても、教育関係者から「その時」に備えて真に国際的に通用する人材を育てる必要性の話(今までのお題目だけのエセ・グローバリズムではない)が出てきて当然だと思うのだが、今のところそういう話は聞こえてこない。

今の大人達が自分達の幸せ(既得権益)を近視眼的に死守するか、子供達の未来のことを考えるか、どっちなんだ?という話でもある。
再度言うが、TPP加入はバラ色の未来を約束するものではない。が、チャレンジングなフィールドを若者達に提供することになる事だけは確かだと言える。
チャレンジングなフィールドを与えるだけでも若者の有り様が変わってき、ひいては社会全体の活力を取り戻すことになるのではないだろうか?

  1. TPP加入すると短期的には失業者が急増することはほぼ確実。

現象としての男女差別を駆逐しても女性は幸せになれない

池田信夫 blog : [中級経済学事典] 評判メカニズム
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301157.html

まぁ、だから日本のこれまでの雇用環境は「女性差別 “的”」なのだな。
気を付けて欲しいのは、これ自体が女性差別を企図して制度設計されているのじゃないという点。
そのメカニズムが、主には結婚や出産に伴って生活スタイルを含む生き方を直線的硬直的に維持し続けることが難しい女性は「途中退出(寿退社、出産退社)」せざるを得ない、そういう排除のメカニズムとして働いている面を結果的に内在させている以上でも以下でもないということ。
いま「女性差別」とは書かずに「女性差別的」と書いたのはこういう意味である。

こう言うと、途中退出のリスクを女性側に一方的に皺寄せている現実は「やはり女性差別だろ?」という意見をもつ人は居るだろう。
これが事後的女性差別になっているという点は私も同意するので、この点は否定はしないが、男女ともにこの皺寄せ(リスク)を平等に被ることにすると男女共倒れになるので、出産を担うのは必ず女性側であるので「じゃない方」である男性側を残す戦略的選択に過ぎないのである点は見落とさないで欲しい。
(武家のそれとは違う「女は家庭を守る役目」という価値観は明治以降の近代化と共に出てきた比較的新しい考え方である)

さもなくば・・・この皺寄せを被るのは勘弁だと女性側が言い出せば・・・結婚、出産という事象自体が忌避事項になる。 [1]

この雇用メカニズムを前提とする限りこういうことになる。
このメカニズムは当然、結婚、出産等で労働環境から一旦離脱した女性が子育てが一段落した段階でまた働きたいと希望しても、これに十分な機会が与えられないという現状を作っている原因であることは言うまでもない。
(引用元記事を読めば分かる通り、男女関係なく途中退出者の復帰を著しくシャットアウトするメカニズムである)

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 実際そう考える女性が増えて、男と同等=男化に扱われるのを選択するのと引き換えに結婚、出産を忌避するようになってきている。これ故に以前からフェミニズムの運動の殆どは「真の意味でフェミニズムではない」と言ってきているのだが、この雇用メカニズムが出力する結果女性差別を捉まえてそこだけを是正しよう(対処療法)とすると女性を男性化させるだけ(男性化しない女性を「時代遅れの駄目な女」レッテル貼りをする場合も)で終わる、だから今の男女共同参画思想は駄目なのである。更に、女性が男性化して労働者として見込める絶対数が増えれば労働市場は買い手市場になる。企業側が男女共同参画に熱心なのはこれ故であって真に男女差別問題に取り組もうというのではない。

島田紳助引退について(アリバイ)

島田紳助引退という少なくともTVのバラエティ分野にとっては驚天動地の出来事を受けて、予想通りの「判で押したよう」な「小学生の学級会レベルの偽善的建前報道」が一通り済んだら、これも予想通り「喉元過ぎれば熱さ忘れる」的にもう旬の話題でなくなった。
(掘り下げない上辺の議論を数だけは辟易するほど垂れ流すことで話題を消費し鮮度を落として「もう旬ではない」にするのは日本のTV業界の常套手段ではあるが)

もう旬ではない感があるのに今更ノコノコと、と思われる向きもあるだろうが、「この時点で私はこう考えていた」という推測をアリバイとして書き残す。

紳助が引退を決めた理由は暴力団関係者との付き合いがあったこと、問題解決をして貰ったことだとされているが、こんなの嘘っぱちであることは、少し考えれば誰にでもわかること。
これはこれで事実として在ったことは確かだろうが、これが引退を決意した真の理由ではないという意味である。
本人も会見で吐露していたように「こんなことくらいで」引退をするようなタマではない。紳助は。
(良い意味でも悪い意味でも算盤勘定に長けた抜け目のない人物であると私は思っている)

それが、莫大な違約金が発生する可能性が高いことをしてまで引退と決めたのには、それ相応の理由がないとおかしい。
(暴力団関係者と云々・・・というのは理由として小さ過ぎる)

・芸能活動を続けるには、それを受け入れるしか選択肢がなく、
・かつ、それを受け入れると(芸能活動を続ける限りは)一生吉本興業に飼い殺しにされる何らかの(これこそ驚天動地の)裏取引を吉本興業に突き付けられたのではないか。
・つまり、それを飲んでまで芸能活動を続けるデメリットよりは芸能人を辞めるデメリットの方がマシということ。
・そして、それは明るみに出てしまうと紳助、吉本興業双方ともに社会的制裁を受けることは不可避の内容。

というのが私の推測である。

漏れ聞こえてくるところによると、違約金はどうも紳助個人の負担にはならず吉本興業が肩代わりするみたいであるとかないとか、、、。

もし本当にそうであるなら(違約金は紳助個人ではなく吉本興業が支払うのであれば)、先の引退会見で述べられた公式見解では説明が付かない度合いがより高まる。
(公式見解の通り責任は紳助個人に一意的にあるのなら彼に負担させれば済むだけであるから)

この推測が正しいかどうかはジャーナリスト諸氏のどなたか追い掛けてみて欲しいのだが、、、そんな根性のある人はいまや居ないよなぁ、たぶん。

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