談志は天才肌と評して褒めているつもり?

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また惜しい人を一人亡くした。 立川談志師(以下敬称略)である。
彼を天才と呼ぶのは簡単である。実際、天才性は備えていたが。

落語の、というか、噺家の一番大事な真髄だと言える『「キチガイ性」と「理性・知性」のバランス』これの巧妙さが生死を分けるということを誰よりも理解して、また体得するべくの飽くなき戦い(葛藤)を生涯やり続けていた稀有な人である。
これが「噺家を噺家たらしめる」一番肝心な部分で、これをわかっていない噺家のしているのは「単なる古典芸能」でしかない(つまり、「過去の素晴らしい遺産」として保存はしていく価値はあるだろうが保存する以上の価値はないという意味 [1] 新作の場合は「着物を着て座布団の上で演ってる漫談」 [2] )。

この「キチガイ文化」が生きていける余地を社会が治外法権として容認していた高度経済成長期以前は別として [3] 、この許容域が無くなったこれ以降の時代 [4] に、この点で比肩するのは桂米朝だけである(故人も含めれば笑福亭松鶴も)。
談志の方が歳下なのだから「米朝に比肩するののが談志」と言うべきだろう、というご意見もあるだろうが、”本質的な大事な部分が同質” という意味を言いたいので、どっちがどっちでもいい。
「談志と米朝が同質」と言うと驚く人、驚くを通り越して怒り出す人もたぶん多く居るだろうが、これを、マジシャンが手品のタネ&仕掛けを一切漏らさないように見事なまでに腹の内に収めて外には一切出さなかったのが桂米朝、反対にこれを戯画的演出の部分も含めて外に出していたのが立川談志、という「生き方の手法」が違っていただけで本源の部分は一緒である。
どっちの生き方も楽ではないが、その生涯を振り返って後者の生き方の方がしんどかっただろうとは言えると思う。このしんどい方を敢えて選んで生き通した人。これが立川談志である。

非難を多く受けるだろうのを覚悟の上で断定的に言ってしまうと、その弟子をみれば、ご本人の言葉で云うなら「業」を惜しみなく周囲に発散していた談志には志の輔、志らく、談笑など既にその片鱗は垣間見せていて今後「化け物」になっていくであろうと思われる者が沢山居るが、かたや米朝門下には枝雀、吉朝という既に故人となっている二人を除けば「化け物級」は皆無である [5] という点から、隠し通した米朝の功罪や如何に!と思う。
(もっと厳しい観方をするならば「それを見抜いて盗めていない門下の者が二流なだけ」だが。 [6] )

「名選手必ずしも名監督ならず」という言い古された名言にあるように、天才肌の師匠からいい弟子が出ていることはあまり多くない。殆ど無いと言っても過言ではない。 これから帰納的に考えるならば寧ろ天才肌なのは米朝で、談志は天才肌ではないと言えるのかも知れない。 実際談志は天才肌であるという世評とは真逆に実に真面目で努力家、研究熱心な理論家だったことは談志ファンの間ではつとに有名で、口座での言葉の端々にもこれが表れていた。 米朝も速記本にしか残っていない、または生き残っていた高齢の師匠方が(ですら)断片的にしか覚えていなかった話(噺)を、掘り起こし色んな資料に当たりつつ復元していったという気の遠くなりそうな作業を地道にし続けていったという点では、他に比類なき努力家であり勉強家であったが、これが他人が応用できるには抽象化(論理体系化)がされていないと「わかるやつにしかわからない」ということになり、後の代に伝わっていくかどうかは偶然によってしか担保されない。この「わかるやつ(枝雀、吉朝)」がたまたま偶然に米朝の弟子になったに過ぎないというのが私の見立てである。 [7]
この点、談志は理論家だったので体系化が(あくまで談志流であり、かつ感覚的な体系化だったろうが)或程度されていたと考えられる。先に挙げた弟子三者が三様にそれぞれ独自の「落語世界」を築いているのをみるに、その根本に確かな骨組みが無ければ(単なる偶然や幸運で)このような状態が出現することは考えられない。

噺家・・・一演者として素晴らしかっただけでなく、師匠・・・教授者としても素晴らしかった、これが立川談志であった。

談志さんに贈る言葉の代わりに以下の師匠自身の言葉を送ります。
(最後の締めの言葉まで予め用意している談志って、、、涙)

立川談志「三平さんの思い出」

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 保存するだけなら高画質の映像込みにしても4GBもあれば足りる
  2. 個人的好き嫌いは「あまり好きではない」桂三枝だが、の創作落語は単なる新作ではない。談志を敬愛していただけあって「わかっている」のである
  3. 但し、この考え方は部落差別やハンセン病者差別なども許容するものである点には注意を要する
  4. 建前として無くなったことにしているだけで、かたちを変えて未だに存在しているが
  5. それなりに上手い噺家は少なくないが
  6. 個人的には孫弟子枝雀門下の紅雀はこの点に気付き掛けていて化ける可能性があると感じている。この他にも米朝門下で注目に値するのは枝雀門下に集中している。米朝直下では米二くらいしか居ない。但:ざこばは別格
  7. 枝雀は米朝以外の弟子になっていても(多少かたちは違っていたかも知れないが)化け物になったであろう点に変わりないと思われるが、吉朝は、40歳代以前の若い頃の音源を聞くと「どうだ!おれは上手いだろ!」「おれは他とは違うんだぞ」という空気が噺を通してプンプン臭ってくる実に鼻持ちならない嫌な奴で、だから「うまい」と評する人は少なくないのにカリスマ視する一部の熱狂的ファンにしか支持されていなかったのも当然と言えば当然で、謙虚さ(少なくともそれを聴衆に気取られないよう巧妙に隠すこと)を学ぶ意味で米朝の弟子になっていた必然性はあると感じる

中国化する日本 (著)與那覇 潤

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歴史を学ぶ意味は二つある。
人間という生き物は「物語化」を常に欲求している。それはつまり「いま私が生きている意味」であり「これからも生き続けていく意味」である。 これは必ずしも客観的事実に基づいている必要はない、実に心理的な意味付けである [1] 。 であるが、空想の中だけで自分の蓋然性を確保できるほど標準的な我々の日常的に駆使できるイマジネーション力は豊かではない [2] ので、過去を参照して今の自分に繋がっている “自分の物語” を紡ぎ出すのである。 これが一つ目。

もう一つは、同じ過ちを繰り返さない為・・・これが優等生的解なのだが実際は「歴史は繰り返す」の言葉通り同じ過ちを人類は幾度も繰り返している。「歴史いくら学ぼうが起こることが起きるときには避けられず起こる」という宿命論的いわゆる歴史のサイクル性は確かに存在すると言えるだが、現在〜未来に活かすために歴史に学ぶ。それも現在の都合に合わせた解釈ではない、この意味での客観的歴史研究がなされるようになったのは実はそう古くないのである。
19世紀、下手をすれば20世紀半ばまでキリスト教圏ではキリスト教的世界観を意識的or無意識的に前提として歴史を解釈していてその残滓は今でも結構根強く残っている。日本に於いても明治政府の皇国史観に明に暗に影響を受けてバイアスの掛かった歴史観が喧伝されたのは割と有名だし、そもそも江戸時代までは歴史というのは物語として面白く書かれることが上等とされ、これは世界各国をみても殆ど同じで史実をそのまま語っている書物は少ないのである。
かといって、歴史も含め後世に残る情報という次元での情報を為政者が或程度以上コントロール出来ていた時代じゃなくなったならば事実を我々が見通せるようになったのかというと、情報については自由度がかなり上がったと言えるインターネットが普及した今の時代になっての状況は、デマ情報も結構多いという事実は脇に置いても(事実だと判断される情報だけに話を絞り込んでも)「情報の断片」ばかりがやたらに多いという状態。その情報自体は事実であるとしても、それらを只むやみに寄せ集めても真実に近付けないのからも分かる通り、情報を見通していくための知恵というか着想のようなもの(事実をうまく繋いでいける糸のようなもの)が大事なのである。

[amazonjs asin=”4163746900″ locale=”JP” title=”中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史”]この意味で本書は非常に有効な着想を提供してくるものだと言える。
著者本人がtwitter上で「登ったら捨ててよい梯子のようなもの」と発言しているように「歴史を読み解くためのツール」として実に有用。
その行き着く先という意味に於いては後者の姿勢でも、その先で前者「いま私が生きている意味」「これからも生き続けていく意味」に繋がってくる処が歴史の面白いところ [3]

『「勝ち組」と「負け組」との格差を当然のものとして肯定する市場原理主義がまかり通り』など主題ではない部分に「ちょっと、その決め付けおかしいんじゃないの?」と疑問に思う部分が割とある(読む人が読めば「読者を惹き付けるためのフック [4] 」だとわかるのだが)が、主論に於いては説得力は充分ある。 タイトルも含めてこの種のフックが少なくないので読解力の無い読者に曲解される、または意図的に歪曲して引用される危険性も無くはないなぁと余計な心配はするが。

先日の拙エントリー「中国人を馬鹿にし過ぎ」で述べた中国人の「金に対する敏さ」「商魂たくましさ」を醸成した一つの大きい理由は、本著の述べる宋代以降中国の伝統となった「経済活動の自由度の高さ」と「思想信条に於いての(逆に)自由は皆無」の状態が同居したことだと説明が付いて個人的にはスッキリと目の前の靄が晴れた感じがした。

本書も指摘するように封建制時代と我々が漠然と思っている武士の時代、これを正しく見通すことで現在に至る日本の歴史的道筋が見えてくるのだが、はてさてそれでは我々はそれを正しく知っているだろうか? 我々が武士道と呼んでいるものの主体が、明治時代になって江戸時代以前を振り返って純化された「明治という時代のための物語」だと知っているだろうか? [5]

個人的には織田信長がしようとしていた事、目指していたコンセプトは、その当時も、そして今もかなり誤解されていると以前から思っていたのだが、この考えを改めて強めた。

2011年11月21日 15:35:勢いで書いたので後で読んで言葉不足を感じた点を加筆(文意に変わりはない)。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 夢の中に意味が見出せる場合があるのはこれ故であるが、意味のある夢が意識側の都合に合わせて出てきてくれることは滅多にない。
  2. これが意識的に出来るなら間違いなく小説家になれるであろう
  3. 余談だが映画「タイム・ライン」は面白いでっせ
  4. 「読者の興味をひきつけるための刺激的なキーワード」という意味。つまり筆者の真意は其処にはない。
  5. 江戸時代に武士道と呼べるものが無かったという意味ではない。在るには在ったが我々が今日認識している(少なくとも世俗一般の)イメージは随分違うのである。

大阪市政のこれから…橋下氏と平松氏

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私は橋下氏および大阪維新の会支持である。
その実現しようと提言している内容も概ね賛同できる。
細かい点に於いては異論点も無くはないが、一番肝心な点で橋下氏は○、平松氏は×だと判断を下している。
この根拠として先ず以下を精読頂きたい。

池田信夫 blog : 効率の高すぎる政府
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292556.html

この記事で述べられている旧来型の日本で主流の組織、集団のあり方「閉じた系の中での “ご互さんゲーム”」が既に時代の趨勢として通用しなくなっている(それが寧ろ経済停滞の主原因になっている)システムであるという点は国政だけでなく大阪市政、大阪府政に於いても全く同様に当てはまる問題である。
「国が変わるのを待っていたらそれより先に地方が沈んでしまう」というのが橋下氏の基本的問題意識 [1] で「ならば、関西圏で独自に変わってしまおう」というのが彼および大阪維新の会の一番根っこにあるコンセプトである。
では、どう変わるのか、どう変えるのかという設問が次に自ずと出てくるわけであるが、これを理解するために以下もご精読頂きたい。

池田信夫 blog : 局所効率化と全体最適化
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292560.html

ここで述べられている「コーディネーションの失敗」が正に国、地方を問わず経済界をも巻き込んだ大問題として膠着状態に陥っているのが現在の日本の姿であるわけだが、これから抜け出す方策(引用文中で言う「Bの山(局所最適)からAの山(別の局所最適)へ移動」する方策)は同じく文内で説明されている通り「部分的な修正」「時間を掛けて徐々に変化」では不可能なのである。 大事な点なので同文章内から吹き出すと、

一つの均衡から他へのシステム間移行は、市場メカニズムで行うことはできず、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こるということになる。ところが同質的なメンバーで構成される関係依存型の「総動員体制」では、突然変異や撹乱が抑制されるので、システム間の移行は困難になる。しかも危機に直面すると、「日の丸検索エンジン」のように、逆に総動員で既存のシステムを守ろうとする傾向が強い。

だから前の記事にも書いたように、行政の中だけの局所的な効率化を考えていてはだめで、全体的な最適化を考える必要がある。それは市場だけではできないので、重要なのは意図的にシステムを撹乱し、さまざまな実験を行って最適解をさがすことだ。そのために役所にできる最善の政策は、規制を撤廃して行政の代わりに資本市場のガバナンスにゆだね、紛争を事後的に低コストで処理する司法的なインフラ(ADRなど)を整備することだろう。

箇条書に要約すると

  1. 局所均衡から抜け出すのには市場メカニズムだけでは不可能
  2. なぜならば、局所均衡の恩恵に浴している者(既得権益保持者)は他に「より良い局所均衡がある」と分かっていても今ある既得権、今まで費やしたコスト [2] の見返りの可能性を失う方を恐れて頑な反対勢力になりやすい(サンクコストの問題)
  3. であるので、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こすしか選択の余地はない
  4. この後は、さまざまな実験を行って最適解をさがす状況が出来るよう行政の事前介入(規制)を無くす必要がある
  5. その代わりに資本市場のガバナンスにゆだねる
  6. 資本市場のガバナンスにゆだねると必然的に起こってくる問題はあるが、これは司法的なインフラで事後的に処理するべき
  7. この為、司法的なインフラの整備は必須

簡単に言えば、問題があると既に分かった局所最適=Bの山は意図的に潰して [3] 平地にしてしまえば別の局所最適に向かわざるを得なくなるので、第一段階として「Bの山を潰す」必要が、そしてこれに次ぐ第二段階として新たな局所最適に向かう過程は基本的に自由競争(市場原理)に委ねるので「事後的チェック機能=司法的なインフラ整備」は必須ということである。

本題に戻って、「大阪市職員と協調的に穏便に改革を進めていく」と方針している平松氏の主張は日本人的には「美しく」感じられ、かたや抜本的かつ一挙に改革をしようと提言している橋下氏は「強引」で「乱暴」だと感じている人も多いだろう。 しかし上述の論を読まれた後では今や状況として「強引」で「乱暴」とも受け取れる [4] 改革をするしか選択の余地が(少なくともこのまま凋落したくなければ)無いのであるとお分かり頂けるであろう。 かたやの平松氏の方針は、ご当人がその意図で動いていないとしても結果的に、既得権益保持者を温存することであるのは明白であるのみならず、中途半端にいじろうとすると寧ろ混乱が増すという点で×なのだ。

いま状況が必要としている改革が「強引」で「乱暴」なもしかないのであって、橋下氏個人が「強引」で「乱暴」なのではないということ。この点を履き違えては大局を見失う。
然るに、ものの見事と言って良いほど、反対勢力(既得権益保持勢力)は「ハシズム」と呼称して橋下氏個人を「強引」で「乱暴」な独裁者であるかのように論理をすり替えて有権者の反感感情を呼び起こすキャンペーン [5] を張っているのは、何をかいわんやである。
また同じく反対勢力が独裁的と攻撃している公務員制度改革であるが、これも内容をよく検討すれば「事後的チェック=司法的なインフラ」を整備すると言っている以上でも以下でもないのである。
このように概観してみると橋下氏が提言している内容は考え方に一貫性があり、かつ時代の要請に沿ったものであると結論付けられる。
 以下も参考になります。

「大盛り上がり」大阪決戦で問われる改革は「アメリカ型」か「EU型」か | 高橋洋一「ニュースの深層」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26364

池田信夫 blog : 日本の経済システム改革
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292557.html

本題を離れてより本質的なことに言及すると、上述の論を読んで頂けた後ならば、これは大阪市&大阪府だけの問題ではなく、また日本の国政の問題なだけでもなく、我々日本人が文化的に好しとしてきた・・・解決策を考えるよりも問題がそもそも起こらないよう思考(志向)しやすい性質であり、これはイコール問題が起こると直ぐに規制(事前介入)強化をお上に期待・要求する思考法・・・考え方(美意識も含むかも知れない)が変革を余儀なくされているという問題意識をも持って頂けると思う。
特に教育関係者諸氏には上述の論と共に以下に引用する記事中の

私は大きな失敗はよくないと思うが、小さな失敗はむしろ好ましいと思う。イノベーションは、小さな失敗の積み重ねだ。イギリスの産業革命は、試行錯誤と失敗から生まれたのだ。これは「ブリコラージュ」と呼ばれる発見的な過程だ。あなたは小さな失敗を積み重ねることによって新しいことを発見するのだ。 だから日本人は、小さな失敗を許すべきだ。

という言葉をよく噛み締めて頂きたい。「小さな失敗」に神経質になることが「大きな可能性」の芽を摘んでいることに気付いてい欲しい。

池田信夫 blog : タレブ、福島事故を語る
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51742840.html

2011年11月17日 00:52 一部加筆(文意は変わっていない)
2011年11月18日 19:32 追記:一部twitter上で意味を取り違えて炎上している人達が居るみたいなので念の為に補足すると、皆で登っている木に喩えると「今までの木(局所最適B)」は腐ってきていて、部分修正や部分補強での時間稼ぎ(問題先送り)でどうにか凌げるレベルをもうとうに過ぎてしまっているので「より最適な(少なくとも今よりはマシな)木」に「登り直そう」と言っているのが橋下徹氏である。であるので今までの木の上の方に登っている「いい目をしている」人達はいつまでも降りようとしない(のは或る意味当然だが)上、問題が深刻化してきている現段階となっては木から降りるよう呼びかける穏便な手法を取っていられる時間的猶予は最早無くなっているので「古い木を切り倒す強行策に打って出るしかなくなっている」のが現状であるということ。「木にしがみついて降りようとしない人達」から見えている風景は「自分達が登っている木を切り倒そうとする乱暴者」に映ることは容易に想像できよう、が、この現状認識さえわかれば「いつまでも降りようとしないお前達が悪い」という話であることはお分かり頂けよう。 対して「木から降りるよう根気よく説得を続けていく」と言っているのが平松氏なのだが「今までの木(局所最適B)」に満足している人達はそれが完全に破綻するまでそこから離れようとしないというのは歴史が教えるところで、時間的猶予が全く無くなっている現在では最悪の選択なのである。 新たな木に登り直す時に不平等が出ないように機会均等の所々の知恵も同時に提言している点からみても橋下氏は木を切り倒そうとしているだけの乱暴者ではないことは明白。また、新たな木に登り出してみてはじめて認識できる所々の問題 [6] が出てくるであろう予想は出来るわけだが、これについても「実際の運用に際してのルール作りは柔軟に」と橋下氏は表明しているので、全然暴君でも独裁者でもないのである。
念の為に更に付言するなら、腐り始めていてこのままでは危ない木は「もっと腐っていよいよ倒れ始めた時には被害者は遥かに多くなる」ということ、つまり「その時には、今手を打てば救える人をも救えなくなっている」ということを強く認識するべきである。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. はじめて大阪府知事選に出馬する段階で表明している
  2. 仲間に入れて貰おうと費やした努力等も含む
  3. しまわないとその山の上に居るものはいつまでも降りようとはしないので。また、この山を形成している要件の中に行政の事前介入(規制)も含まれていることに注意されたし。
  4. 特に既得権益保持者には
  5. 情緒的反応を呼び起こして大事な論点から有権者の目を逸らせてしまう「はぐらかし戦法」
  6. 登り出してみないとわからない問題

中国人を馬鹿にし過ぎ

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またもTPPネタ。
但し本丸の方はもう決着したと言えるので枝葉の話 [1]

今回のTPPに纏わる報道を観ていて違和感を感じた一つに、消費者団体 [2] が「食の安全が脅かされる」とTPP反対を表明していた点がある。
これの根拠として中国製冷凍餃子中毒事件を挙げているという幼児性。
相前後して発覚した日本国内の食品偽装問題、食品汚染事件をみて分かる通り「信用できる業者と信用できない業者がある」という事実。これを延長して「中国にも」「信用できる業者と信用できない業者がある」という考えてみれば当り前の中学生にも分かる話になる筈が、どういうわけだか国境の外の話になると「中国の食品(農産品を含む)は全て危ない」という飛躍した話になる。

社会主義の負の面として、真面目にいい仕事をしようがいい加減に仕事をしようが同じ労働に対しての対価は基本的に同じという側面から、なるべく楽をして(手を抜いて)仕事をする方が賢いというモラル低下が共産党支配になってから顕著になり今もその余波が残っているのは確かで、この意味で総体的に比べたら「いい加減、または不正な仕事をする人および企業」は日本より中国の方がパーセントにして今までのところ高いであろうという推定はたぶん間違っていない。
ただここで注意すべきは「パーセントとしては日本より低いかも知れないが真面目にいい仕事をする人および企業はゼロではない」という点と「今までのところ」という点である。
実際ここ数年をみていると中国産の製品(農産品を含む)のクオリティーは眼を見張るくらいに向上してきている。
これは何故かというと簡潔に言えば「それで金になる」と学習した中国人が増えてきているからである。

実に粗い大雑把な捉え方ではあるが、その国の国民性というか、その国の国民(民族?)の大きなレベルでの行動原理が何に支配されているかというのを端的に言い表すと、中国は「金治」の国だと言える側面があり・・・つまり「金(経済)によって治まっている国」なのではないか?というのが私の見立てである。
日本では「拝金主義」と言うと99%悪い意味にしか受け取られないだろうが、これを「金に応じてプロフェッショナルに徹しようとする主義(または態度)」だと捉え直すならば「応分の経済的利得が確保される限りに於いて応分の努力、責任を果たす」という自由主義経済圏に於いての経済人としての実に真っ当な感覚なだけであると分かる筈で、この意味に於いて中国人は「拝金主義」であると・・・つまり悪い意味も含むだろうが良い意味でも拝金主義・・・言えると私は考えている。
つまり、以前の社会主義時代の悪癖から抜け出せないで相変わらずいい加減な金儲けをする者もまだまだ沢山居るが、「いい仕事をすれば金になる」と分かった者がいい仕事をし出して、その数も増えてきているということである。
以上は状況等を客観的に観察した私の推測に元々は過ぎなかったのだが、これを中国の企業を相手に取引をしている会社に勤める友人 [3] 、知人にぶつけたところ「大筋で間違っていない」という返事が返ってき、また「金になると判った途端に眼の色が変わる彼らの向上心も含む貪欲さには敬服するものがある」という意見も貰っている。

つまり私の言いたいのは、今までは確かにバカにされても仕方ない低レベルなことをやっていたのかも知れないが、いつまでもそのまま馬鹿にしている態度で正しいのか?ということである。
実際、この設問自体既に過去にものになっていると私は思っている。
つい4〜5年くらい前までは「日本の企業または個人が中国に進出してこの管理・監督下で操業していた会社は」という鍵括弧付きであったかも知れないが、今やそうではなくなってきている。

もう20年以上前の大学生の頃に読んだ大前研一氏の本に「我々はご飯をいただく時に “お百姓さんに感謝していただきなさい” と躾、教育をされて大きくなってきた。これが海外の農業従事者になった途端 “商社が買い付けてくる買い付け先” に過ぎないという態度は正しいと言えるのか? 安全で美味しい食品を我々に提供してくれているのなら海外のお百姓さんにも等しく感謝するのが当然なのではないか?」という意味合いの [4] 一節があったのを今でも憶えている。 この一文は、よく考えもせず(無根拠に)なんとなく「日本の農家は信用できる」と思っていた自分のその考えが「そうとは自覚無しに国粋主義的・民族差別的に発想していたこと」に気付かされ当時非常にカルチャー・ショックを受けた。
冒頭に引用した「食の安全が脅かされる」と表明していた消費者団体などは、またそれに喝采を送っている人達は、このこと・・・民族差別的、国粋主義的言辞であること・・・に気付いているのだろうか?
また真に「食の安全」と言うのなら、「安全基準、衛生基準が決められていく過程も含めて “見える化” し我々のチャックが充分機能するよう」に要望するのが筋で、TPP反対ではない筈。

念の為に付言しておくと、私はいわゆる媚中派ではない。上記の考察の通り「金にあまりにも敏過ぎる」ので個人的には好きにはなれない。
しかし、その金に敏過ぎるマイナス面だけを言い立ててプラス面を無視するのはフェアではないと思うのである。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. TPP是非論じゃないという意味で、この問題が重要じゃない枝葉末節の話という意味ではない
  2. の全てか幾つかだけかは知らない。そこまでちゃんと調べていない
  3. 月に何度も中国に出張している人。経営者も含む
  4. 一字一句正確な引用ではない

冷戦のツケをこんな処で払わされそうとは

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以下ページに池田信夫氏が要約を載せているが直訳過ぎて、『放射能と理性』を読んだ人ならこの直訳でも誤解無いだろうが、読んでいない人には誤解を受ける可能性があると思われますので老婆心ながら意訳を試みるというか、解説を交えた読み下しにします。参考まで。
(当該インタビュー上でアリソン教授が語っていない付加された文言は、『放射能と理性』を読んで私が理解した内容から付加したものです。また字幕も結構ラフなので英語が聞き取れる人は英語を聴くようにして下さい)
尚、そのままでも差し支えないと判断した部分はそのままにしてあります。

池田信夫 blog : 原発の被災者は帰宅させよ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51753116.html

  • 被災地に見られたのは被曝の恐怖。問題は被曝自体ではなく、被曝の恐怖。これはICRPの勧告が誤っていることが起因している。
  • 冷戦時代には、冷戦構造および核の配備を正当化するために殊更に「核の恐怖」が過剰に喧伝された。これ故(人々の恐怖心も過剰に醸成された故)許容被曝線量をできる限り低くすること・・・自然界のレベルになるべく近づけないと人々を安心させることは出来なかった [1] 。この要請から出てきたのがICRPの勧告である。
  • 今は虚構ではなく現実的に「深刻なリスクなしにどこまで高い放射線が許されるか」ということを考えるのを要求されている。
  • この現実的ケースで想定される許容被曝線量は現在の1000倍ぐらい高い。
  • その現実的想定で考えれば帰宅できる。避難している人々は全員帰宅すべきだ。
  • 日本政府はICRPに従って年1~20ミリシーベルトを基準にしているが、これはバカげた低い基準だ。
  • 毎月100mSv、つまり年1200mSv、現在の1000倍が適切だ。ICRPの勧告を変えることが私の重要な仕事だ。
  • LNT仮説は、「針の上で何人の天使が踊れるか」というような神学論争。医療の現場では、放射線を何回にもわけて照射している。これは閾値があることを前提にしている。

[amazonjs asin=”4198632189″ locale=”JP” tmpl=”Small” title=”放射能と理性 なぜ「100ミリシーベルト」なのか”]
LNT仮説について知らない人は以下を参照してみて下さい。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/search?q=LNT%E4%BB%AE%E8%AA%AC

——–[ 脚注 ]—————-
  1. つまり核配備を正当化するために「1000倍誇大に核の恐怖を煽ったがために、安全基準も1000倍誇大にしないとバランスが取れなかった」という虚構基準であるということ

改めてTPPには大賛成

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その後色々と勉強した結果、以前に書いた記事
楽観的TPP賛成論は嘘だ、が
の内容は一部誤解される可能性が低くない記述があると後日読み直して思いましたので補足かたがた訂正をします。
一番参考になった [1]のは以下

「食料自給率40%」は大嘘!どうする農水省|食の安全|JBpress
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4098

以下も参考に

「食料自給率40%」の虚構さえ見抜けぬマスメディアの不勉強 日本のマスメディアは「公衆の番犬」ならぬ「既得権益の番犬」か?
http://diamond.jp/articles/-/3878

池田信夫 blog : TPP参加による消費者の利益は生産者の損失より大きい
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51751984.html

「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは事実だが、大半(八割方)の農業は壊滅するだろう・・・
 「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは調べてみると、日本国内で生産している農産物で輸出できる付加価値性の高いもの [2] が結構あるという意味だけでなく、海外に出て行って最適地の現地農業従事者を組織&指導して国際競争力のある農産物を作るに至れる(つまりアグリカルチャ企業になり得る)だけの農業経営ノウハウを持っている農業従事者は結構居るという意味も含んでいると理解するのが正しいようです。
 また、引用記事中に「厳しすぎる国内の品質基準を国外市場の基準に合わせるなどすれば、輸出だってどんどんしていけるでしょう」とあるように、国産農産物がコスト高になっている一因は「過度に安全・安心を要求する消費者」が法的規制や安全基準(どちらも「過度の」)を要求してきた歴史の積み重ねにあると・・・つまり日本人自らが同胞の農業の国際競争力を奪っておいて農協の「自国の農業を守れ!」というプロパガンダにいとも容易く情緒的に同調してしまうのって激しくおかしくないですか? それも「安全・安心の美名の下に」・・・これって何かと似ていません?

脚注に書いた「TPP加入すると短期的には失業者が急増することはほぼ確実」も、その後調べていく内に「かなり怪しい」と思ってきました。 より正確に言い直すなら「TPP加入すると改善する雇用と逆に増える失業とプラスマイナス・ゼロで。この結果、短期的には今の良いとは決して言えない雇用情勢は横ばいのまま暫く続くであろう」という処が妥当のようです。

つまり、TPP自体は結構楽観視して良いみたいと、見解を修正致します。(さすがに池田信夫氏のように「大した問題ではない」とまではよぉ言いませんが)

と、ここまで書いていた處へ新たな記事が舞い込んできました。

農水省はなぜTPPをきらうのか : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1399407.html

あっそうか! 主要穀物は農水省が直接買い付けているという話、知ってたくせに忘れてたわ。あっそか、そっか、、、という感じ。

となると、将来世代(今の子供達以降)にとって活躍できる可能性であるフィールドは少しでも広い方が良いという当初からの考えは変わらないので、これを理由にTPPには大賛成。
この言辞は、TPPは端緒に過ぎず、将来的には中国、タイ、インドとその領域を広げて行って、より風通しの良い環境が出来ているという将来像を想定して言っています。

ここまで来るともう余談でしかないですが、、、以下も併せて読むと農協関係がプロパガンダを吹き込んで医師会 [3] も徒党に巻き込んでいる様が見て取れます [4]
日本農業新聞 e農ネット – 医療自由化目標 「入手していた」 米国文書で厚労相
 http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=10331

TPPで国民皆保険も崩壊し、医療難民が続出する | JAcom 農業協同組合新聞
 http://www.jacom.or.jp/column/nouseiron/nouseiron110214-12528.php

——–[ 脚注 ]—————-
  1. ソース的に信頼できると判断した
  2. 日本で生産する限り高コストは避けられないので高い値段でも売れる高付加価値のものでないと生き残れない。例えば魚沼産コシヒカリなどは生き残れると個人的に予想する
  3. 普段エビデンスにうるさい医師達がエビデンスが不確かなもので声明を発表しちゃうのもどうかしらん?と思う。医師一般の信用問題もなると思うのだけどな。
  4. つまり、医師会の云う「日本の医療崩壊の危険性」というのも大嘘

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