放射線研究、生物学の専門家の方へお願い

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専門家もしくは専門家発表の論文等の情報をご存じの方へお願い。

以下の情報を知りたく、もし存在するなら、その情報自体または情報へのアクセス手段をご教授下さい。

  • 「人体への健康リスク」を基準としてした場合(同程度の人体への健康リスクで見積もった場合)の、
  • 「放射性物質」
  • 「石炭燃焼に伴う廃棄物(排煙等も含む)」
  • 「石油燃焼に伴う廃棄物(排煙等も含む)」
  • それぞれの、自然環境へ暴露された場合の、
  • 生態系全体への悪影響度の評価

橋本行政改革の胆(キモ)の部分

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20120115 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 part1 投稿者 kigurumiutyuujin

何かと話題になっている2012年1月15日 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 橋下徹市長と山口二郎教授の討論

【報ステなう。】報道ステーションサンデー「橋下徹×山口二郎」感想まとめ – Togetter :
「橋下氏完勝」とか「山口教授フルボッコ」とか橋下氏の痛快な物言いに溜飲を下げる気持ちはわからなくはないが、そういう痛快さに喝采を送るのがナチスのマッチポンプになった事は忘れてはならず、あまりそういった方へ力点が行って欲しくない。 [1]

池田信夫氏が端的に、また大西宏氏はより細やかに分析指摘してくれているが、私なりになぞり直してみる。
今回の討論の主眼だと思われる教育制度改革であるが、各氏の主張を抜粋要約すると以下の通り。

山口氏:
  • 教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない
  • 親とかが「あの教師をクビしろ」とか言い出したら教育なんか出来ない
  • MPの排除などというがそんなことは出来っこない
  • 教師を止めさせろなんて言わせたら歯止めがない
  • 橋下氏:
  • 有権者を愚弄した発言です
  • 保護者、子供がチェックできないなんてそんなわけない
  • MPを排除する仕組みは(別途)作る
  • 保護者と学校が協議をして(個々の学校ごとに個別に)目標を作れるようにする
  • 先ず細かい点から話を切り出すと、山口氏の「教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない」という「100%論理」・・・これ、どこかで聞いたことありますね。そうです、絶対を求めて可能性、確からしさ一切を否定し去る例の論理です。
    それはそれとして、これは反論になっていない。何故なら橋本氏は「親、子供に100%判断を任す」などとは一切言っていなく「チェック機能一翼を担ってもらう」と言っている以上でも以下でもないからである。
    また「モンスター・ピアレント(以下MPと略す)の存在が怖い」という意識が、この発言の下地になっているわけだが、確かにその危惧は全くないと言えば嘘になる。が、これには橋本氏も「MPを排除する仕組みはちゃんと作る」と言っているわけであるが、この部分での二者の齟齬は結構大きく、この齟齬に決定的なものが潜在していると私は考えます。
    自分が親の立場になって考えてみて欲しいのですが、自分がその学校、教師をチェックする委員等の役に就いたとして、するとこれは責任ある立場なので、それまでは無責任に「あの○○先生はダメだ」とか「あの○○教頭はクズだ」などと言っていたとしても、責任ある立場となればそれに相応しい責任ある行動をしようとし出すのと思いませんか? これが普通の人間の心理なのです。
    実際、多少とも実情を調べてみたことの在る方なら同意頂けると思いますが、いわゆるMPと呼ばれている、またはそう周囲からは見做されている親御さんの大部分は、学校または個別の教師のお粗末または誠意の無い対応に問題解決の持って行き場がなくなってMP化しているケースなのです。つまり、この大部分の方々は、問題解決の場が出来たならMPじゃなくなるのです。MPじゃなくなるだけでなく、こういう親御さんの方が寧ろ子供のこと、子供を取り巻く環境のこと、学校のあり方などに関心が高い人が多く、積極的に参加できる場を提供するならば建設的にその意欲を活用してくれることが期待できさえするのです。(意欲、パワーが有ればこそ、それがプラスに使える場が閉ざされているとマイナスに出力されるのである)

    実は、この(心理を含む)ことを理解していて制度設計をしている橋下氏と、「MPは何処まで行ってもMPだ」と決め付けている、つまり「MPをMPじゃなくなる方策がもしあるのなら」という設問を立てて考えてみたことのない山口氏というかなり大きい齟齬。
    この事が理解されるならば、残るMPは極少数の「真に人間的に問題のそもそもある人」だけなので、これの排除は容易。

    最後は一番肝心な部分で、これは教育制度改革に留まらず、橋本行政改革、ひいては国政レベルにおいても改革して貰わないといけない問題で。

    橋下氏;
    「決定する民主主義」「責任をもつ民主主義」ということになれば、これだけ国民価値観が多様化した成熟した日本国家に於いては議論をして全会一致、全員一致することなんて出来ない、だから誰かが決めなきゃいけない。その決定する権限を与えるのが選挙なんですよ

    橋下氏の発言をちゃんと聞けば分かる通り、コンセンサスを得ようと努力をした上で得られなかった時の最終決定権はどこにあるのか、誰にあるのか(誰が最終責任をもつのか)を定めようとしているだけである。 つまり、これを明確にしていないと、コンセンサスを得られなかった場合は決定できない・・・先送りにされ現状維持に・・・ことになり、これは現状維持派つまりは既得権限・権益保持者に極めて有利に働くシステムなのだと指摘し、これを改めようとしているだけである。 コンセンサスしたくない人は「コンセンサスをしない」という「拒否権」を行使すれば良いだけで、しかも行使とは言っても「いや、それはまだ時期尚早」「議論が十分煮詰まっていない」と穏便で尤もらしい理由を挙げるだけで済むので楽なのである。
    この「100%コンセンサス・システム」は、既存の状態が満足できる状態である内はこの仕組みでも(問題は表面化しないという意味で)問題ないが、変化、変革を大きく必要とされた時に事を前に進められない足枷になることは今や考えなくてもわかることでしょう。池田信夫氏が「過剰なコンセンサス」と書いているのはこれのこと。
    これに対して独裁に繋がる、だからハシズムだ、と批判(というより非難)をしている勢力は『「コンセンサスをしない」という「拒否権」』を手放したくない勢力であることは今や誰の目にも明らかになってきている。
    独裁に繋がる可能性があるというのが「論理的にゼロではない」という意味では確かに一理なくはないが、親子関係のアナロジーで考えるとわかりやすい。 最終決定権は親が持っているという意味では親と子は平等ではない。しかし普通にまともに民主的な親ならば、子供が或程度以上に意思決定できる能力を着けてきた以降は、子供の意見に耳を傾けるし場合によれば子供の方が優れた意見でこれを採用するということもする。つまり「決定権」というのは、何でもかんでも全て親が独断で決めるという意味ではなく、「子供の意見を採用する」という選択肢も含めて最終的に決定するのは誰かという点で「親だ」というだけで、または「コンセンサス形成などと悠長なことを言っていられない緊急時」に「誰が責任者かを明確にしておく」という以上でも以下でもないのである。
    このアナロジーで考えるにハシズム批判をしている人達というのは、普通にまともじゃない専横的な親のもとで育った人なのじゃないかしら?と穿った見方もしてしまいたくなる。
    橋本氏の動静を見守っていよいよこれは独裁と呼んで差し支えない毛色を帯びてきたぞ、と思ったら次の選挙で落選させれば良いだけである。これは橋下氏自身言葉の端々に上らせており、これから推察するに橋下氏は「この人に任せておけば安心」と一般選挙民が「お任せ感覚=無関心」になられるのが一番怖いのだと、選挙民の関心を政治に引きつけ続けておきたい、選挙民が政治に関心を持ち続けていくのが民主主義が正しく維持される必須条件で、これを成功体験として選挙民に身に沁みて分からせようとしているのではないか? そうすることで民主主義が日本に初めて根付くと考えているのではないだろうかと思えてならない。刺激的、挑発的言辞を少なからずしている氏ではあるが、「不必要にマイナス・イメージを作っている」と支持者側からも批判のある中、そんなことの分からないほど愚か者で氏がある筈もなく、これはつまり政治への関心度のそもそも低い人の関心をも惹きつけておこうとする計算が充分働いていると考えるべきかも知れない。もしそうなら「あっぱれ!」と言うしかない。
    これに気付くと、この男、我々の想像するより遥かに壮大なことを考えているのではないか、と思えてくる。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. こういう衆愚がハシズムに仕立て上げてしまう危険性は警戒すべきなので、喝采を起こるのも程々にしておいて欲しい。橋下氏ご自身はこういう危険を重々承知していて、この上での言動のようだが。詳しくは後述

    御用学者の正体は?

    1 Comment

    放射線被ばく基準の意味 : Global Energy Policy Research
    http://www.gepr.org/ja/contents/20120109-01/

    「A:無責任な発言をする人」 と 「B:責任ある発言をする人」 このどちらを信用しますか?

    と訊かれて前者と答える人はまず居ないでしょう。

    「2mSv余計に浴びると、200万人の福島県民のうち、がんで亡くなる人が200名増える」と言っていて、その通りにならかった場合、こう発言していた人は「そうならなくて良かったじゃない」と言うだけで済ませれる。責任を問われることはまず無い。
    反対に「被曝量100mSv以下では日常的にありふれたリスクの方が大きいので、事実上問題は無い」と言っていて、その通りにならなかった場合、こう発言していた人は間違いなく責任を問われる。

    つまり責任を問われる(かも知れない)リスクを負って発言しているのは後者である。
    前者が責任を問われないだろうことは皆「実は知っている」・・・

    どこかでみた風景だと思ったら、2009年秋に「新型インフルエンザが大流行する」「パンデミックが起こる恐れが、、、」「老人、子供を中心に死人が看過できない数出る可能性が、、、」などと厚生労働省、製薬会社、製薬会社の営業マンの云うことを鵜呑にした浅はかな(それも結構な数の)医師が、これのマッチポンプを毎度ながら演じたマスコミがパニック気味に大合唱していて、いざ蓋を開けてみたら大流行は確かにしたが、死人は203人であった。 203人というと多いと誤解する人も居るかも知れないが、新型でない通常の季節性インフルエンザの死者数は少ない年で10000人弱、多い年では15000人が亡くなっている(何れも超過死亡概念による推計死亡者数)。この時に、あれだけ不安を煽った厚生労働省、製薬会社、医師、マスコミのいずれかでも謝罪しただろうか? 謝罪していないどころか、マスコミも厚労省も「最悪の事態にならなくて良かった。良かった。めでたしめでたし」という論調で、製薬会社に至っては「売れずに大量に残ったワクチンの在庫をどうにかしてくれ」と “どの口でそれを言っている?” と言いたくなる、どいつもこいつも無責任極まりないまま有耶無耶に。 さすがに医師からは(但し、製薬会社の口車に乗せられずに静観していた医師)「あれは冷静な判断を欠いていた」「リスク管理という観点から外れていた」と反省の弁は幾つも発信されたが、これをちゃんと伝えたマスコミは皆無という状態だった。 [1]

    「実は知っている」のになぜ多くの人は黙って(知らぬふりをして)いるのか? それは「責任を問われる心配のより少ない方へ加担したほうが自分の身も安全だから」である。 [2]
    自分の身の安全の為に、勇気を以ってリスクのある立場に身を投じる人に「御用学者」「御用医師」レッテルを貼って済ませて良いのか?
    自分の身の安全の為なら破綻寸前の国家財政にトドメを刺して、自分達が心配していると言っているその子供達の未来を暗澹たるものにしてしまう結果を招くことが正当化されるのだろうか?

    レッテル貼りの一番危険なところは、レッテルを貼ること自体ではなく、レッテルを貼った瞬間以降思考停止を起こして「本当に正しいのだろうか(間違っているのだろうか)?」「事実はどこにあるのだろうか?」という自問自答を含む問いの公正さが著しく低下してしまう点である。
    もう一度繰り返すが、「責任を負って発言」しているのはどっちか、よく考えてみて欲しい。

    2012年1月18日13時51分:数字の誤記「誤:死者数は少ない年で1000人弱」を「正:死者数は少ない年で10000人弱」に訂正


    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 分かっている方には、これに始まった話ではなく「鳥インフルエンザ騒ぎ」「口蹄疫騒動」「BSE騒動」「ダイオキシン騒動」などなど枚挙に暇がないのだが
    2. 危険であることにしておいた方が補助金、助成金、除染という公共事業が懷に転がり込んでくるのでそうしている、より悪質な輩も沢山居るが

    リスク管理とは:或る科学ジョークを引いて

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    『原発危機と「東大話法」』:池田信夫氏「安冨歩氏への反論*」の分析(1)〜(5)
    http://ameblo.jp/anmintei/entry-11132924003.html
    リンクは(4)へのもの

    池田信夫 blog : 安冨歩氏の知らないリスク・コミュニケーション*
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51767689.html

    ニ氏のやり取りを一通り読んで、或る結構有名な科学ジョークを思い出した。

    男性の数学者とエンジニアを女性と一定の距離で向かい合わせて
    「じゃんけんで勝ったら、彼女との距離の半分進むことができる」と告げたら、
    数学者は「それじゃあ永久にじゃんけんを繰り返しても彼女との距離をゼロにできないということではないか!」と半ば怒り調子で嘆いた。
    かたやエンジニアは嬉々として「或程度回数じゃんけんに勝てば、望むことを実行するに実用上問題ない(十分な)距離まで彼女に近づける!」と言った。

    「論理的にゼロと証明できないものはゼロではない」という点に拘って終始している安冨歩氏と、「実用上無問題とみなして良い」と主張している池田信夫氏という構図である。
    主張していると言っても、ちゃんと(その他の関連する記事も含めて)読めば分かる通り、池田氏は主観的個人の意見を言っているのではなく、客観的信頼に足るデータを積み重ねてそう主張している。
    更に安冨歩氏の主張する
    「(1)低レベル放射線被曝による深刻な障害の発生を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
    「(2)浜岡原発周辺で大規模な地震が起きて事故になる可能性を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
    というのは一見すると尤もだと思うかも知れないが、科学リテラシーが一定以上ある人にはご存知の通りこれは「悪魔の証明」と呼ばれるもので・・・「ない」ものの証明は原理的に不可能で、背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明するしかないが、これ自体「ないものを証明」したことには(実用上なっても)原理的にはなり得ない・・・これを要求している点。この要求をしている段階で「私は科学リテラシーが欠如しています」と宣言しているのと同義である点に注意しなければならない。
    かたや池田氏は「背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明」は充分以上にしている。

    いま我々が必要としているのは「論理的にゼロかどうか」論ではなく、「実用上問題無いといえる線は何処かを見極めること」であることは、論じるまでもない話だと思うのだが。

    リスク管理については以下が非常に有益な視点を与えてくれます

    SYNODOS JOURNAL : 「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性 山口浩
    http://synodos.jp/society/1764

    尾崎豊を引き合いに出して語る朝日新聞の社説

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    尾崎豊を引き合いに出して語っている朝日新聞の社説が「痛い」とtwitter上で話題になっている。

    社説 http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html?ref=any#Edit2

    確かに痛いと思う。しかし私がこう思うのは朝日の社説のみならず「痛い」と宣っている意見の殆どに対しても。だ。
    あれほど多くの人に受け入れられ支持されていた、とみえていたののに、これほど多くの人に尾崎豊の主張が理解されていなかったのだと分かり愕然としている。
    (もちろん、尾崎ファンの人全ての発言を読んだわけではないし、そもそも尾崎ファンの人全てがtwitterで発言しているわけではないだろうから、期待も含めてその他の多くの人は理解しているだろうとは思うが)

    尾崎は単なる反抗、反骨精神・・・安保やら東大紛争やらの「反抗のノスタルジー」を歌っていたのではない。
    確かに時代として、安保やら東大紛争やらの「反抗の時代」の一世代後の時代で「あの反抗は一体なんだったの?」という馬鹿らしさ半分の自虐的反省のムードが漂っていた時代で、上っ面だけを読み取れば「若者よ再び怒りの剣を取れ!」と言っているように読み取れるが、尾崎の訴えかけていた力点はそこにはない。
    大人社会や体制に反抗するのは若者の特権であり通過儀礼である [1] 。反抗することで軋轢が生まれ、その軋轢を契機にして大人になっていくためのみならず大人の側も変化していける通過儀礼・・・つまり若者の側だけの通過儀礼なのではなく社会全体の新陳代謝の為に必要な通過儀礼なのである。
    社会全体の新陳代謝になるには、若者の「反抗というパワー」を真正面から受け止める「反抗するに値する」大人社会、体制が存在していないと駄目で、これがまともに存在していないじゃないかと、若者の反抗心、反骨精神の持って行き場が無いじゃないかと、つまり「大人達よ、もちっと若者が反抗するに歯応えのある社会を作ってくれよ」と歌っていたのである。

    「じゃないと大人になるになれないまま年齢だけ大人になっていく大人が蔓延した社会になっていくよ」と訴えかけていたのだと私には思え、実にその後の今の時代を見事に言い当てているではないか!

    この大人になるになれないまま年齢だけ大人になっている大人が尾崎を引き合いに出して訓示を垂れているのは確かに痛いが、問題の本質はそこではないのである。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 若者が大人社会や体制に反抗するのはいつの時代にも存在する普遍的な通過儀礼である

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