個人的無意識と集合的無意識

個人的無意識

 一応の定義めいたものを示しますと「意識によって否定されたもの(結果、大抵のものは悪と見なされる)」と言えるでしょうか。 しかし、「否定」と云っても「意識と無意識」の項で明らかにしたように、意識が一定のかたち(連続性、一貫性のある価値体系を備えている状態)になる必要性、必然性からの反作用として発生する「力動的関係上での否定」であるというのが、この正体であるという点を見落としてはいけません。 普遍的絶対性をもった悪(と思えるのが普通の感覚だけれども)ではなく、自我-意識が自らの善を主張(仮の善)をする必要性から定義付けた相対的悪(仮の悪)であるということです。
 意識を発達させ、これを自我として確立するには「自分の信じる悪」を基準に己を善化、訓化して行かねばなりません。 この段では「自分の信じる悪」を絶対のものと信じる必然性があり、又そうしないと自我-意識が脆弱なものとなり危険です。 基礎的身体の発育が不充分だと抵抗力、免疫力が低く病気に罹りやすいのと同じで、自我-意識が脆弱だと精神、心が病理性を帯びやすくなるからです


 こう書くと、いわゆる「性悪説」のように誤解する人が多いのですが、いわゆる「性悪説」および「性善説」は、人間の本性は悪or善のいずれであるかと論じようとする姿勢で、私の現象学的心理学では、「善たろうと指向する」という点に於いては性善説的性向をこころに見出していると言え、と同時に「善たろうと指向する」ための心的力動作用を産み出しているのは「元型的悪」である、つまり「善が生まれる為には悪を必要とする」と主張する意味で、根元的に悪と呼ばれるものの存在を肯定している、この意味では性悪説的でもありますが。 実際には、性悪、性善どちらかという二者択一的捉え方がそもそも間違っていると主張するものです。 純粋に心理学的に物事を見つめるならば、善は悪の無いところでは意味を失い、悪は善を生み出さずにはいてられないのです。

 この時に「絶対悪」(「典型的悪」と伝統的に受け継がれている感覚に基づいて判断される悪。 [1])を親なりから与えて貰えないと(または、感覚を混乱させる撹乱要因が在ると)、自我の基礎が安定せず、心の発達、成長に大きな支障を来たすという事も「意識と無意識」の項で触れました。
 この「絶対悪(元型的悪)」を具体的(個人的)事象と結び付けて「自分の信じる悪」つまり観念としての悪、概念としての悪が(果ては、その対概念として正義感が)形成されるのです。 この二者(「絶対悪:元型的悪」と「自分の信じる悪:観念的悪、悪概念」)は、哲学的内省、心理的分析を試みたことのない人にとっては同一視されているのが普通です。 しかし、この二者を区別しないと、様々な心のトラブル、精神の病気が説明できないのです。 この二者が区別されるべきものであることは、心理カウンセリングが真に深いものとなった場合、日常通用するような善悪の観念など無意味化してしまい、自分は少なくとも「自分にとっては善」であると信じるのが精一杯という次元が立ち表われるケースが、そう屡々ではないとはいえ思いの外多く存在するからです。 この時に、この二者が同一のものであったなら、一切の善悪は存在しないことになり、何を拠り所にして良いのか、その存立基盤を失ってしまうと、心理カウンセリングは治療的有効性を保てる訳など無い(クライアントと共にカウンセラーが狂って行っても判らない)からです。
 逆に、心身共に健康で普通の生活を何の支障もなく送っている限りは、この二者の区別を意識することはまずないし、また意識する必要性も特には無いとも言えるのでもあります、、、良し悪しはともかくとすれば。
 もう少し詳細に記述しますと、「元型的悪」の促す線に沿って「悪という概念」が形成されるのですが、元型の作用は言葉でされる定義のような明確なものではなく、あくまで感じ方がそう感じるよう誘い促すだけ(しかし、かなりの的確に間違いなく促す)なので、実際に形成される「悪概念」は、個々人の感受性(これはタイプによる影響を強く受ける)、環境からの影響、経験の積み重ね方、偶然の出来事など、個人の主観と密接なところの色付けで形成されることになります。
 このように、絶対的には悪ではないものを、一旦は絶対的悪であるかのように信じる道を通過して行かないことには自我-意識は発達、確立されません。 なぜ、こんな回りくどい事をするのか?と訊かれても、どうもそう出来ているみたいだから仕方ない、としか答えようがないです。 この、理路整然としたものしか認めたくない知性にとれば厄介としか思えない ”パラドックス性”が「人間心理の本質」だとは憶えておいて下さい。

集合的無意識

 「元型的悪」に触れるといっても、元型そのものは直接視たり、感じたり、触ったりできるものではなく、行動、思考、観念、念慮、感情、情動などを導き促すイメージの布置–シンボリックなイメージ群、これを顕現させる素イメージ、またはこの力動、これが元型です。 我々が認識できるのは、元型が具象化した元型イメージ [2]か、元型の力動の作用で発生する感情、身体感覚、欲求、衝動、情念、情動、情欲などです。
 ですから、例えば勧善懲悪の英雄物語りなど(は元型イメージなので)を子供に語り聴かせ、読ませ、触れさせる事は、間接的に元型に親しませ、元型との結び付きを無意識裡に感受させていることになり、この課程が健全な自我が育ってくる素地を整えるのです。

遊びの重要性

 元型的イメージと上手く(安全に)接触できるものの代表が「遊び」です。 遊びには大きく分けて「主に身体を使うもの」と「主に頭脳を使うもの」の二つがあります。 後者で使う頭脳とは、理論思考も使いますが、中心になるのは「イメージ力」です。 イメージ力とは、頭の中に単一イメージを鮮やかにアリアリと思い浮かべる力と、複数あるイメージの連鎖を辿って行く連想力の両方を含みます。
 これはいま先に述べた「元型イメージを通じて元型と親しむ事が健全な心の発達を促す」というのに通じます。 元型イメージに触れている最中(夢を見ている時が典型)には、元型からの作用を導き入れようとイメージ連鎖が活発に働いています(この働き自体が元型の作用によって促されている)。 逆に普段から、イメージ連想力を鍛えておけば、元型からの作用を好ましいかたちで享受しやすくなるということで。元型イメージに触れることでイメージ連想力が上がり、イメージ連想力を活性化させると元型イメージの持つ作用の有効性が上がる、という相互補完的関係になっています。
 先に「意識と無意識」の項で触れたように、心の健全性は、意識と無意識のダイナミックな関係(固定的でなく、常に変化し続け流動的、流動的でありつつ一定の法則性の中に納まっているという関係。 物理学者イリア・プリゴジンの「散逸構造理論」が非常に示唆的です。)の上に成り立っており、このダイナミズムは比喩的に「生命のリズム」と言えます。 元型からの働きかけを意識が捕らえるのを、意識がリズムに乗るのに喩えるわけです。 上手く乗れれば元型の働きを好ましいかたちで受け取ることができ、上手く乗れないと好ましからざるかたちで受け取る、つまり受け取り損ねてしまう。
 音楽に慣れ親しんでいない段階、音楽を習い始めの時というのは、メトロノームを使って、また頭で「1 .. 2 .. 3 .. 4 .. 」と数えないとリズムを取れず、また見失いやすいのですが、身体が慣れ親しんでくるに従って、考えずとも,数えずともリズムに乗れるようになって行きます。 このリズムに慣れ親しんでいく課程(リズム練習)に喩えれるのが「主に身体を使う遊び」です。 もちろん、リズムに乗っている(または乗ろうとしている)時というのは、意識的論理思考の働きよりも、無意識的イメージ連想力(空想力、イマジネーション力)のほうが活性化している点も見逃せません。
 脳科学の分野でも遊びに興じている時というのは、脳内のかなりの広範囲の領域が活発に働いており、特定の部位だけを集中的に使っている論理思考とは好対照をなしていることが判っており、これもこのことの証左だと言って差し支えないと思います。 これは子供に限った話ではなく、大人に於いても事情は同じです。

 今ここで述べた元型中心の心の領域が集合的無意識(または普遍的無意識)です。 人間の生命活動、精神活動、感情生活の根本の根本を牛耳る、力動の基礎として人類共通、この意味で集合的、普遍的なのです。
 また個人の思惑、考え、価値観、観念…etc以前の、これらの影響とは無縁の「隠されたもの」として、初めからあり、今も、そしてずっと在り続けるもの、正真正銘の無意識だと言えるものです。 私は、ここでキリスト教カトリックの結句の一つを思い浮かべます。

はじめにありし如く 今も いつも 世々(永遠)に至るまで アーメン

・・・キリスト教カトリックの結句の一つ

文責:庄司拓哉 2001/11/14

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「伝統的に受け継がれている感覚」は、これを悪用しようと人為性が加わったものを除いて、元型に則ったものであると基本的に言えます。ですので「昔から言い習わされていること」「伝承」「言い伝え」「お婆ちゃんの智恵」といったものはバカにしてはいけません。
  2. 元型イメージの代表的なものを幾つか挙げますと、
    蛙などの下等な動物(なぜか両生類が多い)に姿を変えられた英雄(王子さま)が女性(お姫さま)の助けを借りて悪(魔女、魔法使い、悪魔、龍、怪獣など)を倒し人の姿に戻るとか、
    英雄が怪獣と戦ってお姫さまを救い出すとか、
    親の意志に逆らった罰として永遠の眠り(若しくは幽閉)に就かされ時を経て王子さまが現われこれを救い出すとか、
    幸せを持たらすアイテム(小鳥、鍵、王家の紋章、指輪、腕環、マントなどの衣服、剣など)を探すため当てのない旅に出掛け、様々な試練、困難、を乗り越えた末にそれは元から自分が持っていた(家に在った、身近な人が持っていた、など)という事がわかるとか、、、です。
     このように元型とは太古の昔からの人類の智恵の蓄積、凝集、結晶化とでも言うしかない様相を呈しており、これが我々が認識できるギリギリの線で、元型イメージはこのように典型的な話素(モチーフ)の形を取る場合が多いです。

Leave a Reply

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。