こころを病むとは?

自己中心的な「意識」

 無意識は存在するのか? ピエール・ジャネ、ウイリアム・ジェームス、カール・グスタフ・ユングが明らかにしたように、またその理論に基づいた心理療法(カウンセリング)が功を奏していることからも明らかのように、存在することは今や自明な事です。 しかし、よくよく落ち着いて考えてみると「無意識がある(または、ない)」とはおかしな言い様だとは、私には思えます。
 「ないものがある」または「ないものがない」と言っているような形容矛盾を含んでいるからです。
 まぁ、実際には、「無意識」というものを想定した場合と、「無意識」というものを想定しない場合とを比べて、人間の心理作用を説明することにどちらがより上手く成功しているのか、という観点から、無意識を想定した方だと結論できるからだ、と控え目な主張にしておいたほうが多くの賛同を得られるでしょうか。

「呼ばれても呼ばれなくても神はやってくる」(望むか望まないかにかかわらず、神が落ちかかってくる )

C・G・ユングが晩年住んだ家の玄関に掲げられていた(今も在る)言葉

 「ある」ことが大前提であるのに、それを「ある」or「ない」と論じる意識の在り方が傲慢不遜の極みだ私は思います。 そして、客観的であるつもりでも(殊に無意識に対しては)自己中心的にしか捉えることが出来ない、人間の認識(自我意識の在り方)というものの限界をも示しているのだと思います。

ホントにわたしはわたし?

 これは「いのちとは何か?」という問いにも深く関わってくる問題なのですが・・・あなたは何故あなたであり続けるのでしょう? 生物学が中心になって明らかにされてきているように、人間(に限らず高等生物すべて)は毎日細胞分裂、細胞の入れ替わりを繰り返し続けることで、命を永らえています。(逆に細胞の入れ替わりが停止するとイコール「死」に至る) 細胞は日々入れ替わり、10年も経てば爪の先から髪の毛一本に至るまで同じ細胞は(脳細胞を除けば)唯の一つも存在していません。 つまり、物理的実存レベルでは、脳細胞以外完全に違うあなたに入れ替わっているのであり、10年前のあなたと今のあなたは、脳細胞以外別人であるというのが結論です。
 のにも関わらずあなたはあなたであり続けていますし、この先もあなたであり続けてゆくでしょう。
 それは何故か?
 ここで「吾 思惟する故に 吾あり」というデカルトの言葉を思い出した方もあるでしょう。 このデカルトの言葉は真理の一面を突いていますが、先に述べたのと同様の、意識中心で働く傾向の強い「認識」の限界を露呈しています。 前述の中にもあったので、脳細胞さえあれば自分であり続けることが出来る、と考える人もあることでしょう。 実際、この考え方の延長線上に臓器移植が存在し、肯定されるわけで、ある程度許容される妥当性は有しています。 しかし、脳細胞だけで自分の存在を主張できると考えるのは、どこかホラーじみていると言わざるを得ません。
  深層心理学(特にユング心理学)の見知から言えば「吾を吾と思わせる [動因] が先天的に存在し、それに突き動かされるので、それを自覚するしないに関わらず、吾を吾と思うように出来ている」ということになり、それは自然発生的(生得的)なものです。  つまり「気が付けばそうなっていた」というのが正直なところだと思います。
 では、「そうなる」以前はどうだったのでしょう? この段階は、自分であるともないとも言える状態で、とすると更に以前は「自分である」というもの(自我)が存在しない状態だったと推測できます。

 これが無意識です。

 つまり、我々が「無意識」と呼んでいる状態が心のそもそもの姿で、そこから自我意識が分かれて来るのです。 言うなれば、無意識は意識の母胎なのです。 実際に母親に向かって、さも自分独りで生まれ育ってきたかのようなことを言えば、その傲慢さは非難を受けずには済まないでしょう。 これと同じことが意識と無意識の関係にも言えるのです。
 無意識の存在は目に見えるかたちで(いわゆる科学的)実証はできませんが、これの存在を確信させる状況証拠は沢山あります。 この代表が夢であり、デジャヴもその一種である幻視です。
 デジャヴとは、初めて見る(または感じる)もの、ひと、場所などが、以前に見たことがあるような気がしてならないというもので「既視感」と邦訳されています。 また夢の中に、キリスト教徒でもなくキリスト教に露ほどの関心も無いという人の夢の中にも、聖母マリアが登場したり、イエス・キリストが現われたり…こういう事は夢分析をしている臨床家には、よく知られた事実であり、こういう個人の後天的学習、経験に還元する事のできない事実が、沢山確認されている事から、集合的無意識の存在を間接的に確証されるわけです。
 必ずしもそうではないにしろ、こういう幻視などは多くの場合、意識に混乱、困惑をもたらします。 これが限度を越えて強くなると、いわゆる精神病と呼ばれる状態になります。 何故こういうことが起こるのかは、意識との関係で無意識を語らないといけないので、次にそれを論じたいと思います。

わたしがわたしで在り続けるには

 では放っておいても自我意識は出来てくるのかといえば、或る程度—-店頭で売られているコンピューターに喩ると、必要なOSがインストールされ、標準装備のアプリケーションが幾つもインストールされて出荷され店頭に並んだ時点—-まではそうだと言えます。 我々が実際にその後を受けてより都合の良いようにカスタマイズし、不要なファイルは棄て、必要なアプリケーションを新たにインストールし、してゆくように、自我意識の苗を育ててゆく作業は自分自身(単独では勿論なく、親兄弟をはじめ多くの他者との関わり、助けを受けながら)でしなければなりません。
 そうせず大人になった人を我々は通例「子供っぽい」「人格未熟」と呼びます。

 こうして自我意識が育ってくる間、無意識は文字通り意識され無いままで来るのですが、意識との関係が一切切れてしまっているのかと言えば、そんなことはなく、常にダイナミックな(時にドラスティックな)関係を維持しています。
 解りやすい一例を挙げれば、女の子が初潮を迎えオンナとして成熟するに連れて、通例中学生〜高校生頃に、非常にお父さんを不潔がり疎ましがる時期があります。 自分の下着をお父さんのそれと分けて洗うよう要求したり、お父さんの入った後のお風呂に入るのを嫌がるなどが典型として挙げられます。
 お父さんは突然不潔になったわけではなく、以前からそれなりの不潔さ(及び清潔さ)は持っていたわけで、のにも関わらず或る時期を境に不潔さを殊更に意識するようになる(否定的な側面ばかりが気に掛かる)のは何故でしょう?

 これは、親というものが必要でなくなり始めた、つまり心理的に自立の動きが始まったのだと言えます。 実際には、全く必要じゃなくなるわけではなく、今までの必要性とは違ったものに変化し始めた、ということなのですが…。 それを促す力が無意識から上って来た時というのは、意識が無意識から分化発達を始める幼少時と同じく「まず否定から始まる」(ので結果的に否定しやすい異性の親がターゲットになる)のです。 意識が考えてやった事ではなく、無意識からやって来たものだから、唐突に現われた感じが強く、言っている本人も親もどこかぎこちないのです。 当然、当人には戸惑いが起こります、この戸惑いを経験し、葛藤をどう修めるか四苦八苦する事で意識が新たな段階に成長するのです。

 このように無意識は意識の在り方を左右し、かと言って意識の在り方を完全に支配するわけでもないという意味で、無意識もその在り方は意識の状態が反映されている、分化しているのに分離していない、という実にダイナミックな関係です。

 このようなことが分かってくると、いわゆる精神病も、同じ「意識と無意識の関係」の文脈上で理解されます。 程度が激しいので、そうと思うには困難を覚えるのが普通かも知れませんが、意識の在り方に対して無意識から改変を迫る、何らかの「新たな道筋」を指し示す意図(と云うより力動と言った方が的確か?)が、不幸にして適切な水路に乗れなかった時 [1]に「症状」と呼ばれるかたちで表現されるのだと言えます。 勿論、そうではない脳の気質因、病変による精神病も存在しますので、全てが全てこうだとは言うのではありません。念の為。

 「意識と無意識」「内向と外向」で書いたように、「自分は自分のつもり」つまり自我意識を強化、育てる事が成長であるということ、つまり一旦は固めていく(一定の偏りを形成する)ことが必要なのです。 ところが、あまりにこれが硬直化し出すと、今度はこれを改変する要請が無意識から(ほとんど回避不可能な強制力を持って)もたらされるのです。 こころの病につきものの「強迫症状」 [2]が、これの代表例です。

改変され続ける事で命を永らえている

 先に細胞を例に取り「常に改変され続ける事で命を永らえている」と書きましたが、これが「いのち」の本質であり、心理面に於いても事情は全く同じなのです。

 ところが自我意識は「わたしは不変」と思いたがる傾向を或程度持っており(これが発達してくる過程の必然なので致し方がないものではあるのですが)、「変わろまいとする意識」と「変わろうとする無意識」の間に葛藤状態を起こします。 この「わたしは不変」と思いたがる傾向が強すぎると、この葛藤が意識のコントロール内では捌き切れず様々な症状として表現されることになります。 [3]
 或る人は不気味で怖い夢を見、不眠に陥り、或る人は妄想、幻聴に悩まされ、或る人は仕事中毒になり、或る人は電車に乗れなくなったり、人混みが怖いと感じるようになったり、また或る人は原因不明の皮膚炎に罹り、また或る人は不潔なタイプまたは見下した男性とのセックスにだけエクスタシーを感じ(と同時にノーマルな関係の男性とセックスが出来なくなるケースが多い)ることから非建設的な性行動に耽ります。 もっと曝ら様でないので判りにくいものでは、当人は選り好んでいるのではないのに付き合うひと付き合うひと皆なぜだか既婚者ばかり、というケースもそうだと言えます。

 葛藤を葛藤のままに置いておくことは、特にその意味(何ゆえの葛藤なのか)が解っていない、または知りたくない(マイナスのコンプレックスが関わっている場合が多い)場合は、耐えられない事なので、この葛藤から逃れる心理機制、つまり意識とぶつかっている無意識からのエネルギーを何処か他に逃がす心的働きが起こります。 こういうかたちで症状がもたらされているケースもあります。 症状とは一種のカモフラージュでありつつ問題の本質を象徴的に表現しているものであることが多いのは、ここまで述べたように、症状が現われるからくりから既に両義的だからです。
 だから症状に捕らわれて、これをなんとか解消、軽症化しようとしても、あまり意味のあることではありません。 いや、確かに、場合によれば症状を一旦軽くすることは不可能ではありませんし、一旦症状を軽くする事で問題に向き合う余力が生まれる場合もあります。 只あくまで「一旦」であり、問題を先送りしたに過ぎないということ、問題と向き合うための一時避難であるということを忘れてしまってはいけません。 先送りだけして問題を放置したままでやり過ごした場合、問題が再び顕現した時には一層酷い症状を持たらすとは言っておかないといけません。

 心の病を治すには、この無意識から上がってきている「改変の方向」を見定めないといけないのです。 この為に行なわれるのがカウンセリングです。 ですからカウンセリングとは、皆さんが思っているほど楽な仕事ではありませんし、受ける側にとっても物凄く険しくしんどい作業なのです。 症状に逃がしていたエネルギーを葛藤のさなかに引き戻すのですから。

心理療法の最高の目的は患者をありえない幸福状態に移そうとすることではなく、彼に苦しみに耐えられる強さと哲学的忍耐を可能にさせることである。 生の全体性と充実は苦しみと喜びの釣り合いを必要としている。 しかし苦しみは実際不快であるので、誰でも人間がどれくらい不安や心配をもつがいいのかを考えないようにするのが適当である。 それゆえ、苦しみがある程度まで十分にないと幸福も毒されてしまうということを考えてみもしないで、つねに改善や夢のような幸福について口当たりよく語られるのである。 だから神経症の背後にはしばしば、自然的・必然的であるのに我慢しようとしない苦しみがまさに隠されているものである。

C・G・ユング『心理療法論』所収「心理療法と世界観」みすず書房/林道義訳 P71〜72より引用

文責:庄司拓哉 2001/11/20

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 無意識からの作用があれば必ず精神に異常を来たすものではなく、意識が未熟過ぎて無意識からの作用を受け入れるだけに強くない場合、意識が硬直化し過ぎて無意識からの作用を受け入れる柔軟性に欠けている場合、無意識から上がって来た作用を受け止めれない何らかの不全を意識が持っていた場合(器質因のものはここに含めることが出来る。実際、分裂病は思春期以降に発症するケースが大半。)、無意識から上がって来た作用が大き過ぎ意識の力を遥かに超えてしまっている場合など、無意識からの作用に意識が対応し切れない(オーバー・フローを起こす)ことから「こころの病」は発生すると言えます。 この「無意識への対応の仕方」を見付けようとするのがカウンセリングです。
  2. 強迫症状とは、本人も何故だか、またそうしようと意図していないのにも関わらず、やらずに済ますことが出来ない一連の行動、又は意味不明な身体反応を指す言葉です。 具体的には、チックや、言葉の顕著なクセ、始終手や身体の部位を洗い続けてしまうとか、引き篭り、刃物恐怖、尖端恐怖、対人恐怖、赤面症、異常な身体の火照り、アトピー性皮膚炎、、、など。
  3. 「自分は不変」という思いに強く呪縛されることで発症する「こころの病」の一番の代表が「鬱病」です。鬱病に罹る人は生真面目、几帳面なひとが多いというのも納得できると思います。「常に変化をし続けること」で新たなエネルギーが得ていけるように出来ている自然な心の動きに反して、不変を貫こうとすることで自らのエネルギー切れを招いてしまっていると言えます。

Leave a Reply

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。