論点がズレる時・・・ユング心理学「タイプ論」の観点より
2月 06
タイプ論 タイプ論, ユング心理学, 観点, 論点 5 Comments
少し前、この年初早々から「林道義のホームページ」と「macska dot org」の二者間で激しい論争になっていた。 今は一段落した感があるので、却って落ち着いて検証できると思うので未読の方は両者をきちんとバランス良く読んでみて欲しい。
「生物学基盤論を唱えながらジェンダーフリー教育の弊害を叫ぶ矛盾」
「「生物学的根拠説」に立ちながら「ジェンダーフリー教育の弊害」を言うのは「矛盾」か」
その持論、価値観、考え方等には、両氏それぞれに対して言いたいこと、批判したいことはあるのだが、今日はそれには触れない。
上記のリンクから辿って両氏の言い分をキチンと読んだ人なら同感してくれるだろうが、両氏の間には、その論理の依拠する立場とか、価値観、美意識とか、世代によると思われる考え方の相違とか・・・勿論これのズレもあるのだが・・・こういったものの奧に、もっと究極的で致命的なズレが存在すると私は感じた。
それはC・G・ユングの「タイプ論」で言うところの「タイプの違い」である。
タイプ論については、今後随時ここで説明や、それを更に自分なりに膨らませた自論など展開していきたいと思っているので、今回は詳述しないが、簡単にだけ説明しておくと、ユングは人間には生得的に備わった性質の違い(*1)があり、本質としてのそれは変わらない(*2)とし、まず「内向型←→外向型」に大別でき、これと組み合わさる基本タイプ(*3)として「感覚←→直観」「感情←→思考」という心理機能を設定する。 つまり実際には「外向感覚」「外向直観」「外向感情」「外向思考」「内向感覚」「内向直観」「内向感情」「内向思考」の8タイプに分類できるという主張が導き出せるのだが、ユングのタイプ論の重要なポイントは、こういった「タイプ分けが出来ること」ではない。 無論「タイプ分けが出来る」ということが前提になるので、これが無意味であるということではないが、夫々のタイプは上記に記した通り「互いに相反しつつ組になろうとする吸引力も併せ持った」(丁度磁石の性質を思い浮かべて貰えるとありがたい)組になっている。 つまり
「内向型←→外向型」の大別が先ずあり
「感覚←→直観」
「感情←→思考」 という組になっているという事だ。
「そして、その組の何れかが優勢機能となり、かたやは必ず劣等機能となる」という論点、ここがポイントである。
簡単に言えば、論理思考が秀でた(後天的に洗練された)人は、そうしようという意図はなくとも感情機能が劣等になるという事である。
で(やっと)本題に戻ると、林道義氏はご本人も著書等で書いている通りたぶん直観型優位である。 かたやmacska氏は、その文章運び、論理展開からして感覚型優位である。
直観型は「考えるより先に答えが分かってしまう」的なところがあり、これが上手く機能したときは「天才的閃き」と称される才能を発揮することになる反面、プロセスをすっ飛ばしてしまう傾向を持つ。 これは、自分に取れば「答えはわかっている」ので先を急いでしまいがちになるのと、プロセスを重視する感覚型的行動様式が劣等機能だからである。[ 森を見て木を見ない傾向 ] また、全く反対の一字一句にまで執拗に拘った態度を取る時もあるのだが、これは感覚型機能が劣等である故である。(*5)
かたや感覚型はいま述べたようにプロセスを非常に重視し、言葉の定義などもかなり厳格に用いようとするが、劣等機能ではないので一字一句に拘りすぎて文意が見えなくなったり、本来言いたかったことを忘れて迷子になる事は、順序立てを乱されない限りない。 反面、順序立てて話を持って行こうとする傾向が強いが故に「なかなか結論に至らない」という印象を(特に反対の直観型には)与えがちである。 話の中途で遮られて返答を余儀なくされる時(つまり直観的に返答せざるを得ない時)は劣等機能である直観型が顔を出し「自分の本意とは懸け離れた(または、そう受け取られてしまう説明不足の)返答」をしてしまう場合が往々してある。[ 木を見て森を見ない傾向 ] これの延長線上で、話の腰を折られて感情的になった時は、その場の思い付きで出鱈目な事を口にしてしまう場合があるのも、劣等な直観型ゆえである。
何れのタイプ(今回は触れていない感情、思考も)も、感情的になった時は劣等な方が顔を出す。 これは、生得的に強い(本能に近いレベルに保持している)のは劣等な心理機能だからである(この点は次回以降に詳述していく)。
お二方のどっちが正しいor正しくないは軽々に言うべきではないと考える。 少なくとも、その論旨、または主張したいこと、は両者共に一目を置くべきものを持っておいでだからだ。
私が感じるには、両者の理想としている価値観などは本質的に大きな差異は無い。 それだけに、今回のようにタイプの違いで議論がまるで噛み合っていないのは非常に残念である。(つまり、今回の議論がまるで噛み合っていない本質的理由はタイプの違いに起因している、というのが私の見解であるということ)
過去にも何度か書いたことだが、価値観や考え方、ものの見方による論争には歩み寄る余地があるが、タイプの違いによる論争は(それに気付かない限り)不毛になる。 この事は是非覚えておいて頂きたい。
飜って、自分が不毛な論議をしているなぁ(または不毛な議論に巻き込まれている)と感じたら、この点を思い出して欲しい。 そうすれば議論が建設的になる可能性が出てくる。
- いわゆる性格が或程度遺伝することは既に遺伝学で証明されているので「生得的に性質の違いを持っていること」この事自体は既に立証されていると言える。 問題は、ではそれがC・G・ユングの主張する通りタイプ分けが出来るものであるかどうかであるが、これは多分に検証、議論の余地はある。
- 本性とは言っても、それがそのままストレートに表現されないよう意識によって工夫できる脳力を持っている人間に於いては、それの表現形態や表現手法は充分に按配できる。 であるが、表現形態、表現手法として変えれるとは言ってもやはり、その本性の影響から完全に免