橋本行政改革の胆(キモ)の部分
1月 19
ロジカルシンキングのすすめ 個性化, 公平性, 意識化, 臨床ユング心理学 No Comments
20120115 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 part1 投稿者 kigurumiutyuujin
何かと話題になっている2012年1月15日 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 橋下徹市長と山口二郎教授の討論。
【報ステなう。】報道ステーションサンデー「橋下徹×山口二郎」感想まとめ – Togetter :
「橋下氏完勝」とか「山口教授フルボッコ」とか橋下氏の痛快な物言いに溜飲を下げる気持ちはわからなくはないが、そういう痛快さに喝采を送るのがナチスのマッチポンプになった事は忘れてはならず、あまりそういった方へ力点が行って欲しくない。 [1]
池田信夫氏が端的に、また大西宏氏はより細やかに分析指摘してくれているが、私なりになぞり直してみる。
今回の討論の主眼だと思われる教育制度改革であるが、各氏の主張を抜粋要約すると以下の通り。
- 山口氏:
- 教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない
- 親とかが「あの教師をクビしろ」とか言い出したら教育なんか出来ない
- MPの排除などというがそんなことは出来っこない
- 教師を止めさせろなんて言わせたら歯止めがない
- 橋下氏:
- 有権者を愚弄した発言です
- 保護者、子供がチェックできないなんてそんなわけない
- MPを排除する仕組みは(別途)作る
- 保護者と学校が協議をして(個々の学校ごとに個別に)目標を作れるようにする
先ず細かい点から話を切り出すと、山口氏の「教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない」という「100%論理」・・・これ、どこかで聞いたことありますね。そうです、絶対を求めて可能性、確からしさ一切を否定し去る例の論理です。
それはそれとして、これは反論になっていない。何故なら橋本氏は「親、子供に100%判断を任す」などとは一切言っていなく「チェック機能一翼を担ってもらう」と言っている以上でも以下でもないからである。
また「モンスター・ピアレント(以下MPと略す)の存在が怖い」という意識が、この発言の下地になっているわけだが、確かにその危惧は全くないと言えば嘘になる。が、これには橋本氏も「MPを排除する仕組みはちゃんと作る」と言っているわけであるが、この部分での二者の齟齬は結構大きく、この齟齬に決定的なものが潜在していると私は考えます。
自分が親の立場になって考えてみて欲しいのですが、自分がその学校、教師をチェックする委員等の役に就いたとして、するとこれは責任ある立場なので、それまでは無責任に「あの○○先生はダメだ」とか「あの○○教頭はクズだ」などと言っていたとしても、責任ある立場となればそれに相応しい責任ある行動をしようとし出すのと思いませんか? これが普通の人間の心理なのです。
実際、多少とも実情を調べてみたことの在る方なら同意頂けると思いますが、いわゆるMPと呼ばれている、またはそう周囲からは見做されている親御さんの大部分は、学校または個別の教師のお粗末または誠意の無い対応に問題解決の持って行き場がなくなってMP化しているケースなのです。つまり、この大部分の方々は、問題解決の場が出来たならMPじゃなくなるのです。MPじゃなくなるだけでなく、こういう親御さんの方が寧ろ子供のこと、子供を取り巻く環境のこと、学校のあり方などに関心が高い人が多く、積極的に参加できる場を提供するならば建設的にその意欲を活用してくれることが期待できさえするのです。(意欲、パワーが有ればこそ、それがプラスに使える場が閉ざされているとマイナスに出力されるのである)
実は、この(心理を含む)ことを理解していて制度設計をしている橋下氏と、「MPは何処まで行ってもMPだ」と決め付けている、つまり「MPをMPじゃなくなる方策がもしあるのなら」という設問を立てて考えてみたことのない山口氏というかなり大きい齟齬。
この事が理解されるならば、残るMPは極少数の「真に人間的に問題のそもそもある人」だけなので、これの排除は容易。
最後は一番肝心な部分で、これは教育制度改革に留まらず、橋本行政改革、ひいては国政レベルにおいても改革して貰わないといけない問題で。
- 橋下氏;
- 「決定する民主主義」「責任をもつ民主主義」ということになれば、これだけ国民価値観が多様化した成熟した日本国家に於いては議論をして全会一致、全員一致することなんて出来ない、だから誰かが決めなきゃいけない。その決定する権限を与えるのが選挙なんですよ
橋下氏の発言をちゃんと聞けば分かる通り、コンセンサスを得ようと努力をした上で得られなかった時の最終決定権はどこにあるのか、誰にあるのか(誰が最終責任をもつのか)を定めようとしているだけである。 つまり、これを明確にしていないと、コンセンサスを得られなかった場合は決定できない・・・先送りにされ現状維持に・・・ことになり、これは現状維持派つまりは既得権限・権益保持者に極めて有利に働くシステムなのだと指摘し、これを改めようとしているだけである。 コンセンサスしたくない人は「コンセンサスをしない」という「拒否権」を行使すれば良いだけで、しかも行使とは言っても「いや、それはまだ時期尚早」「議論が十分煮詰まっていない」と穏便で尤もらしい理由を挙げるだけで済むので楽なのである。
この「100%コンセンサス・システム」は、既存の状態が満足できる状態である内はこの仕組みでも(問題は表面化しないという意味で)問題ないが、変化、変革を大きく必要とされた時に事を前に進められない足枷になることは今や考えなくてもわかることでしょう。池田信夫氏が「過剰なコンセンサス」と書いているのはこれのこと。
これに対して独裁に繋がる、だからハシズムだ、と批判(というより非難)をしている勢力は『「コンセンサスをしない」という「拒否権」』を手放したくない勢力であることは今や誰の目にも明らかになってきている。
独裁に繋がる可能性があるというのが「論理的にゼロではない」という意味では確かに一理なくはないが、親子関係のアナロジーで考えるとわかりやすい。 最終決定権は親が持っているという意味では親と子は平等ではない。しかし普通にまともに民主的な親ならば、子供が或程度以上に意思決定できる能力を着けてきた以降は、子供の意見に耳を傾けるし場合によれば子供の方が優れた意見でこれを採用するということもする。つまり「決定権」というのは、何でもかんでも全て親が独断で決めるという意味ではなく、「子供の意見を採用する」という選択肢も含めて最終的に決定するのは誰かという点で「親だ」というだけで、または「コンセンサス形成などと悠長なことを言っていられない緊急時」に「誰が責任者かを明確にしておく」という以上でも以下でもないのである。
このアナロジーで考えるにハシズム批判をしている人達というのは、普通にまともじゃない専横的な親のもとで育った人なのじゃないかしら?と穿った見方もしてしまいたくなる。
橋本氏の動静を見守っていよいよこれは独裁と呼んで差し支えない毛色を帯びてきたぞ、と思ったら次の選挙で落選させれば良いだけである。これは橋下氏自身言葉の端々に上らせており、これから推察するに橋下氏は「この人に任せておけば安心」と一般選挙民が「お任せ感覚=無関心」になられるのが一番怖いのだと、選挙民の関心を政治に引きつけ続けておきたい、選挙民が政治に関心を持ち続けていくのが民主主義が正しく維持される必須条件で、これを成功体験として選挙民に身に沁みて分からせようとしているのではないか? そうすることで民主主義が日本に初めて根付くと考えているのではないだろうかと思えてならない。刺激的、挑発的言辞を少なからずしている氏ではあるが、「不必要にマイナス・イメージを作っている」と支持者側からも批判のある中、そんなことの分からないほど愚か者で氏がある筈もなく、これはつまり政治への関心度のそもそも低い人の関心をも惹きつけておこうとする計算が充分働いていると考えるべきかも知れない。もしそうなら「あっぱれ!」と言うしかない。
これに気付くと、この男、我々の想像するより遥かに壮大なことを考えているのではないか、と思えてくる。