生活保護を白眼視しても意味はない

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ご本人も「正論」と云う全くその通り。

Joe’s Labo : 週刊東洋経済 「65歳定年の衝撃」にインタビュー掲載中
http://blog.livedoor.jp/jyoshige/archives/6239208.html
> 出生率が2.0を割り現状の社会保障制度が維持できなくなるのが明らかとなったのは70年代。
> そのときすでに選挙権がありながら何も変えようとしなかった人間の年金を支払うために
> 選挙権の無かった人間がワリを食うのはおかしいだろう

70年代と聞いて直ぐに思い浮かぶのは、社会党、共産党を支持母体とする所謂「革新系自治体」が日本各地に誕生し“揺りかごから墓場まで”の英国方式が理想のように喧伝されていた [1] の時代であり福祉元年と銘打って保守政党(とされる)である田中角栄内閣が高福祉の方向へ加速させたこと、と同時に田中角栄内閣は御存知の通り「日本列島改造論」をぶち上げ地方への各種バラマキ政策によって東京、大阪、名古屋などの大都市への人口集中を止めた。こういう時代である。

三大都市圏への転入超過と実質GDP成長率の推移(参議院調査室資料より)

三大都市圏への転入超過と実質GDP成長率の推移(参議院調査室資料より)


増田悦佐氏が『高度経済成長は復活できる』で実証している通り、その後のバブル経済で一旦持ち直したかのように誤解している人が多いのとは裏腹に、この70年台の出来事から日本の経済成長は一気に凋落していたのである。一般には「オイル・ショックによって一時的に停滞しただけ」との説明が信じられているが、グラフで一目瞭然の通り「バブルというまやかしの時代」の部分を無視すれば70年代に低空飛行状態に入りバブル崩壊で壊滅状態になっただけ [2] [3]
あの当時は日本がやっと豊かになったという実感が人々に行き渡り、経済的に余裕があったのでその余裕分を、分配を不公平にしか享受できていないと主張する層(または地域)に「まぁ上げてもいいんじゃない? 僕の取り分が減るわけじゃないみたいだし」という気分に流されたのは仕方ないという言い訳はよく聞かれる。確かに、あの時代に今の年齢になっていたとして今できている分析のような冷静な判断が出来たかと言えば、かなり怪しい。だから今の視点から彼らを馬鹿呼ばわりすることはしないし、するべきではない(したところで鬱憤は幾らかは晴れるだろうが問題は何ら解決しない)。ただ、その「自分達が選択した」各施策が誤りだったと、単に誤りだったというだけでなくこれからの世代の足を引っ張り/搾取する仕組みになっているということが明らかになった今、その全てを返上しご破算にするのが道理というものだろう。有り体に言えば「自分(達)のケツは自分(達)で拭け」ということだ。
生活保護レベルよりは緩い基準で良いとは思うが、一定以上収入(預貯金、家賃収入、配当、資産運用収入 etc ありとあらゆる最終的に生活に充てられる金銭、資産)がある人には年金が受け取れないというルール改正にすべき。実際にはこういうルールにすると、まじめに働いて稼ぎがある人ほど貰えない公算が高いので保険料を払わなくなるに決まっているし、その運営コストも考え併せると、生活保護に一本化して、但し「65歳以上の者」は「実際に居住している持ち家」「日常の便に役する自家用車(贅沢品と見做せる二台目以降は除く)」は「生活保護受給資格認定対象から除外」というルールにするのが合理的 [4] 。(だから結局「負の所得税」が一番合理的なんだけどね)
この方式のメリットは「行政コストが大幅に節約できる」と「助ける必要のない高齢者へのバラマキをカットできる」で、ザッとした数字だが社会保障費約100兆円 [5] のうち、50兆円が年金、30兆円が医療費、それに対して生活保護費は3兆円という数字 [6] を見て、(不正受給者の問題はそれはそれとして放置すべきではないが)大局的にみて生活保護受給者叩きをすることと、どっちが重大な問題か一目瞭然だろう。当の高齢者および目前にしている世代が自分達の損になる論点から国民の関心を逸らせられる生活保護受給者バッシングを支持するのは或る意味合理的だが、若者世代にこの論調に乗っている人達が思いの外多いのはびっくりする。ハッキリ言えば莫迦。 一番最初に引用した城繁幸氏のコメントに戻れば、上の世代が犯した過ちを自分達も繰り返すのかと、上の世代に自分達が受けた酷い仕打ちを今度は自分達が下の世代に殺人パスして行くのかと。これではまるで、親から虐待を受けた人が親になった時に同じように子供を虐待する [7] という「負の連鎖」と一緒ではないか。

現行の生活保護制度は不正(および不正に近いと感じるもの)を抑制する仕組みは一切無いに等しく [8] 、経済学(心理学)的インセンティヴの観点で捉えた場合「働いて生活保護を脱却しようというインセンティヴ」への働き掛けは皆無で、寧ろ「働こうとせずに漫然と受給に安住していた方が得と思わせるインセンティヴ」が強く働く制度設計になっているこれはこれで大事な問題は別途ありますが、今日はこの辺で。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 実際には、この当時で既に英国財政は破綻寸前だったのだが
  2. 池田信夫 blog : 「就職氷河期」はなぜ起こったのか – ライブドアブログ
  3. 『戦後日本の人口移動と経済成長』参議院調査室第三特別調査室 縄田康光
  4. 通常の生活保護は、これら資産が在った場合、先ず処分して現金化しこれで食い繋げれるだけ食い繋いで、その上で無収入のままに至った場合にはじめて申請が受理される
  5. 2010年以降毎年100兆円を超えている
  6. 『生活保護費は増やしても良い。』中嶋 よしふみ
  7. その全てがそうなるということは当然ない。その傾向が本人が無自覚だと顕著になるという以上ではない。言わなくても分かっていると思うが念の為
  8. 非受給者から白眼視されるのを恥と感じる旧態依然とした今や機能していない古典的心理圧迫だけ。なので常軌を逸してバッシングが炎上するのであろう

天皇制の意味・・・キリスト教徒の視点から

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 今日のエントリーは私のキリスト教徒としての信仰告白みたいもので、この延長線上として主にカトリック教徒に向けて書いたものです。 故に、キリスト教と関係の無い方、キリスト教に無関心な方には退屈な内容を含んでいる可能性があることを予めお断わりしておきます。

 紀子さまのご懐妊を受けて一旦沈静化した感のある皇室典範改変議論であるが、色んな人が色んな立場で色んな事を言っていて、それぞれに対して、当然私個人の思想や価値観と照らし合わせて、納得が行ったり、反対に「何じゃ?これ」と首を傾げるもの、まぁそれぞれにそれぞれ意見があったりはするのだが……何が何でも天皇制を拒否し天皇制崩壊という結果さえ成就できれば良いと考えているアナーキストの意見と、何が何でも天皇制を護持しさえすれば良いと論理もへったくれも無い国粋主義者または狂信者、この二者の意見はそもそも取り合う必要すら感じないのは当然であるが……。
 一応先に私の考えを表明しておくと、基本的に天皇制は必要と考えている。 ただ、では何故天皇制を是とするのか?という問いに対して、他人を説得する説明原理に於いてはおろか、自分の中の自分に対する正当性すら、なんかイマイチすっきり説明付けというか理由付けが出来ていない感じがずっとしていた。
 つまり感覚的というか直感的に「無くすべきではない」という感覚は朧にあるものの、それが具体的言葉となってくれない(説明原理としてしっかり言語化されていない)という事である。

 例えば、男系継承の正当性を説明するのに俄(にわか)に脚光を浴びた「Y染色体」を論拠にした主張であるが、確かに男系継承を永年月続けてきた事の脈絡性を科学的に記述すれば「Y染色体」うんぬんという話になるのだろう、それは分かる。 しかし、「Y染色体」うんぬんの事を過去の天皇制を男系継承と決めた当時の人達が知っていた筈など当然なく、つまり、その選択は(その当時の社会情勢や社会常識、価値観などの影響は当然あるが、それらは普遍的なものではあり得ないので)極端に言えば「たまたま」でしかないのである。 今まで続いてきた伝統の中に科学的に一筋通っているという説明以上ではないという事。
 私は伝統を軽んじてはいけないと考える者であるから、上記の言説は、私は否定しないが、伝統を軽んじることに何の痛痒も感じない者達にその根幹にある「たまたま性」を突かれれば反論に窮してしまうことは目に見えている。

 そもそも私はカトリック信者であるので(カトリックに限らずキリスト教徒全般的に多く見られる傾向である)[ 積極的天皇制否定論者ではないが「特に必要性を感じない」のを理由とする消極的天皇制否定論者 ]で元々あった(*1)。 年齢を負うに従って、何となく、感覚的な次元ではあるが、日本の社会が天皇を必要とするムードというのか心性と言うか……にシンパシー(共感)を感じる心が自分にも在ることに気付いていった。 論理で処理する限り、キリスト教と天皇制支持というのは矛盾するのだが、メンタリティーの次元で「キリスト教を信仰すること」と「天皇に尊崇の念を抱くこと」との間に妙にというか不思議と共鳴するものを感じ、この「感じ」は日に日に確信的に強くなってきていた。  ここで先の自問自答に繋がるのである。

 事は、一つのキーワードが想起されたことであっさり解決してしまった。 これが今日のエントリーの本題である。

 それは「天皇は日本のPopeである」だ。

 Popeとは、法王、教皇と日本語訳される(*2)。 我々カトリック教徒に於いては「パパさま」と親しみを尊敬の念と共に込めて呼ぶのが習いとなっている(あくまで通称であるが)。
 何の断わりもなくPopeと言えばローマ教皇を指すというのが欧米圏に於いての常識ではあるが、本来は特定宗教を代表するものと云うよりもっと広くもっと普遍的な、人の中にある「大いなるものを畏敬するこころ」のまとめ役というか象徴的存在を概念化したものである。
 実際、その歴史を見てみれば過去にはローマ教皇も実質的には欧州諸国の一国の王として振る舞っていた時期もあるし、建前上は政治的立場にないとしながらも政治的に強い影響力を保持したり、各諸国列王逹の多くもローマ教皇の権威を政治的に利用する事も多かった。 それが紆余曲折を経て徐々に「脱政治化」して行き、これが決定的になったのは政治の近代化(*3)である。 これ以降は政治的実権を握ることは殆ど無くなった。 これは私見なのかも知れないが、政治的実権から離れることで、信仰、情緒の面に於いての象徴的求心力は逆に強まったと言える。 ローマ教皇が俗世的しがらみから解放される事で、民衆が気持ちを託し、心性を投影することを邪心無く、心おきなく出来る素地が整ったという言い方が適切であるようにも思われる。

 細かい歴史学的検証はさて置いて、大きく歴史の流れを捉えてみれば、日本の天皇が辿った歴史と非常に似ていると思うのは私だけであろうか? このローマ教皇が辿った歴史的文脈を相似形として天皇制にも適用してみると、戦後に憲法で「象徴天皇」とされた意味合いも明瞭になって来はしないだろうか?
 誤解を防止するために断わっておくと、いま私が云々しようとしているのは、戦後憲法制定当時にGHQ並びにアメリカ合衆国当事者にどういう意図、目論見があったのかという話は本質的に無関係である。 彼ら、またはその当時の憲法制定に関わった日本側当事者も含めて、どういう意図、目論見でこの憲法を作ったのであるかではなく、「天皇はPopeである」という観点から再解釈してみる事で、そこに隠れている日本人の「何故だか否定できない心性」(*4)に光を当てれるのではないだろうかと考えて論証しているのである。

 この事に気付けば、「キリスト者であること」と「天皇に尊崇の念を感じること」は矛盾するどころか反対に、キリスト者としてローマ教皇を尊崇しながら天皇制を否定することの方が自己欺瞞的であると気付いたのである。
 この事は日本の居るキリスト者、特にカトリック教徒一般に投げ掛け、深く考えて欲しい論点である。 ローマ教皇をへとも思っていないプロテスタントの一部なら兎も角、カトリック教徒でありながら天皇制を否定するのは自己矛盾であり、それを直視せずに居るのは自己欺瞞であるので、支持しないまでも許容は出来ないとおかしいと思われないか?と。

 以上の点に気付く以前からだが、天皇のことを「Emperor」と英訳されている事に凄く違和感を感じている。

結婚したがる女たち(若しくはしたがらない女たち)

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「先生、わたし結婚したいんですけど…」と切り出した彼女。 「彼氏は居るんですか?」と訊けば「居ない」とのこと。 「職場に同世代の異性は居ますか?」と訊けば「居ます。 しかし同じ職場のひととは嫌です。」 お見合話は少なからずあって、会ってはみるものの「いまいちピンと来ない。」と言う…「どうピンと来ないの?」と突っ込んで訊くと「お見合のあいだ中、自分の仕事の話ばっかりで面白くないの。」確かに仕事以外に話題の豊富な人は面白いに違いありませんが、相手が仕事以外の話しをするよう働きかけたり、促したりしてるようには思えない白けた態度(仕事の話しか出来ない男のほうにも問題ありですが)、そんな態度で話しが深まるわけがなかろう、と思わせる態度で接していた事は、その話し振りから充分推察出来ます。
またお見合パーティー、合コンの類に出掛けても「今日もロクな男おらんわ!」と開始早々に戦線離脱を決め込み、片隅でポツンと飲食して終了時刻が来るのを待っている事が常態となっているらしい。
冷静に判断すれば「口で言うほどに本気で結婚したがっているのか?」と疑問が浮かぶのです。 「結婚したい!」と言っているものの、彼氏は居ない、彼を作る努力もせず、形ばかりに見合いをこなし、形だけ合コンに出掛け…仕方なし、イヤイヤだけど…という雰囲気ですね。
この「イヤイヤ、仕方無しに、本意ではないけれど、形だけなぞっている」行動様式、これから「兎に角、勉強さえすれば、良い学校に行きさえすれば、、、」と言われるがままに、その真偽を問うことなく、イヤイヤ(または、なんとなく)学校、学習塾、予備校…に通っている子供、若者達と同じ心象を想起する私はピント外れでしょうか?

実際問題、この例のように二言目には「結婚したい!」と口にする女性達の殆どは「結婚さえすれば幸せになれる!」と無批判に、現実離れした、信仰と呼ぶに相応しい思いを強く抱いています。
結婚という重大事、特にその現象面、即物的側面を考えると、出てくるネガティヴな面を乗り越えさせ、その道を選択させる動機としてスピリチュアルな面は欠かすことが出来ず、それを掻き立てるモノとしての衝動、これの源である「ファンタジー」は必要であり、これの意義の大きさを軽んじる訳にいきません。
人は生きるためにファンタジーを必要とし、と同時にそれが現実から遊離してしまい空想、絵空事になってしまう危険性は常に隣りにあります。
時に、ファンタジーというのは、日本語になった場合、多く誤解、誤用されている概念だと思うのですが…ファンタジーというのは厳しい現実認識によって支えられ、厳しい現実認識を支えるものです。 現実逃避させるかに見えて、ポイッと現実に投げ返す、こういう作用を持つもの、それがファンタジーです。 こういう作用のないものは、単なる空想、絵空事と言います。
ファンタジーを持たぬ者は現実逃避はしないにしても、現実を厳しく認識することもなく、妥協と惰性に流され生きていると思います。
あるひとの言動にファンタジー性が垣間みられた場合、そのファンタジーが「現実に投げ返すもの」を見出す努力が生きることの意味に通じる道へのガイド役になってくれると、私は考えています。
「なんで、そんなに結婚に執着するの?」と訊けば「だって、仕事嫌いやもん! 早く辞めたいもん!」
それは裏返しに表現される事が多い、という心理学的一般則に従えば、先の女性の例は「ほんとのこと言えば、、、仕事は好き! でも『おんなは、結婚してさっさと辞めるもんや!』という無言の圧力を感じる。 私の居場所はどこ?」と言っているように思えるのです。
女性が男性並に自立的、自主的に生きようとしても、依然として日本は男社会(“任務遂行上、男が優遇される仕組みが支配的社会”という意味であって、男が決定的に優れているわけではない)であり、女である事をハンデと痛感させられる場面に直面し、女である事を捨てて男の論理に服従するか、女である事を捨てず男の論理に屈服するか(さしずめ前者は「キャリアウーマン」後者は「結婚」でしょう。どちらにしても「男が敷いたレールに乗っかっている」ことに注意!)の何れか、という極端を選ばざるを得ないような呪縛に囚われの身となる。
別に女性に限ったことではなく、こういった極端な二元化の選択肢設定は、よく見られることですが、、、二元論というのは切れ味の良い名刀正宗みたいなもので、物事のある一面を鮮やかな切り口を見せてくれるのですが、どこをどう切るかを判断し誤ると、ピント外れであるのみならず、大怪我を負ってしまう危険なものです。 AかBか?という条件設定自体が適切かどうかの吟味無しに、AかBを選んでいるというナンセンスな事が屡々(特にTVの街頭インタヴューを見ているとそう思う)見られます。

こういうナンセンスな言動を取る背景には、AかBかという二元論に終始する事によって、問題の本質を避けようとする心理機制が無意識裡に働いていると考えられます。

「仕事か結婚か?」という選択肢設定は、どちらも男の論理という土俵から出ていないという事に注意を払わないといけません。
男の用意した土俵の上に居るという意味で男の論理に服従している。 この制約の中での女性の幸せが無いとは言いませんし、それを選ぶのは個人の自由です。 しかし、時代が21世紀を直前に迎え、少なからずの女性が、この土俵の外にも幸せがある事を薄々感付き出したように思います。
処が、この土俵の外というのは未開の地であり、足を踏み出すには危険極まりないのです。 さりとて土俵そのものを改変するには、男社会に真っ向から対決する事である以上に、実はそれを精神的に支えているのは女性(というより、その集合無意識複合体(コンプレックス)であるグレートマザー。特にそのネガティヴ面)であるという一筋縄ではゆかない厄介な問題を隠し持っています。

グレートマザー及び母性原理については大きな問題なので、機会を改めます。
 尚「母性社会日本の病理」河合隼雄、「タテ社会の力学」中根千枝の二冊は非常に参考になります。

過去の女性運動家、女性のオピニオンリーダー(及びそれと見なして良いその役を演じたひと)たちが、男性達よりも寧ろ同性である女性からの、理不尽とも言える攻撃によって最終的に黙さざるを得ない状況に追いやられて行った歴史が如実に、このことを物語っていると思います。 約10年前に持ち上がった「アグネス・チャン騒動」が端的な例です。
対決する相手が社会(というドレスを身に纏った日本人の集合無意識体としてのシャドウ)という大きなものである以上、個々人の力ではどうすることも出来るわけがなく、現実から逃避するか、現実に逃避するか、にならざるを得ない事は、深く省みられなければならない問題だと思います。
少々荒っぽいのを承知で、結婚を強く志向する方を「現実から逃避組」キャリアウーマンを志向する方を「現実に逃避組」と分類することが可能だと思います。(実際には、仕事一途というのが現実から逃避することになる人も居るでしょうし、現実に逃避するために結婚する人も居るでしょうから、、、) つまり表面的行動は全く逆に思える二者—キャリアウーマンを目指すひとと、結婚を選ぶひと、というのは全く正反対の違う生き方に見えて、実は底に流れている心理機制は同じであると言いたいのです。

先に「子供と同じ心象が見られる」と指摘しましたが、これはある意味当然のことなのです。 河合隼雄、中山康裕両氏をはじめ心理臨床の現場に居る多くの諸家が指摘するように、現代社会の大きい問題の一つに、「イニシネーションの喪失」というのがあります。
子供から大人になる通過儀礼としてのイニシエーションを受けていないのだから、心理的には子供であっても当たり前で、これを無碍に批判しても始まりません。
社会がイニシエーションの機会を与えてくれない以上、個々人で自らイニシエートしてゆくより仕方がないということでしょう。
このことに気付くと、「結婚したがる女たち」が、ことある毎に「結婚したい! 結婚したい! 結婚したい!」と口にする姿が、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱え続けることによって極楽往生を願った、かつての末法思想時代のと同じ宗教儀礼的行為であるように思えてきて仕方がないのです。

イニシエーション目的だけで結婚、急場凌ぎのイニシエーションとしての結婚、これが増えているように思うのです、これでは成田離婚が増えるのも当たり前でしょ?違いますか。

女性の場合が特に、結婚がイニシエーションの意味を持つのは、別に今に始まった事ではなく昔からスタイルと言えるので、結婚にイニシエーション的意義を求める事自体はなんら問題ないのです。 問題は、結婚にイニシエーション的意義“しか”求めないことです。 そうであれば、イニシエーションさえ終われば用済みですから離婚は時間の問題、ということになってしまいます。

また、その相手である男性はイニシエートされていない場合が殆どです。 イニシエートされた者から見ると、イニシエートされていない人は、バカで子供じみて見えることは明らかです。
結婚によるイニシエートが即効性を発揮した女性の場合は「成田離婚」、非常に時間を要した女性の場合は「熟年離婚」という事ではないか?と思います。 離婚の問題を、これだけに集約するのはあまりにも短絡ですが、一側面としては、熟慮すべきテーマだと思います。

彼女達に新たな、これからの時代に相応しいイニシエーションの機会を創出できるのなら、新たなこれからの時代に相応しい女性の生き方が、見出せるのではないか?と思っています。

この「女性のイニシエーション」について、現段階ひとつの示唆を貰っています。 それは「『神話にみる女性のイニシエーション(ユング心理学選書20)』シルヴィア・B・ペレラ著 監修:山中康裕 訳:杉田津岐子・小坂和子・谷口節子 創元社 ISBN4-422-11220-1」に拠ってです。 男性原理によって不当に貶められ、蹂躙された女性性。 これを救うのは、誰あろう、他ならぬ女性自身です。
「おんな」として生きる意味を見失いかけている貴女、是非にも読んでみて下さい。 死にかけていた貴女の半身が甦ることでしょう。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

夢の意味「信ずるべきか 分析すべきか」

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日本独自の精神療法を確立した森田正馬氏のことばに「夢の中の有無は、有無とも無なり。」というのがあります。
今の仕事を始めて大分経った頃にこの言葉に触れたのですが、、、夢の内容をお話し頂き、これをテーマに連想を豊かに働かせてゆくかたちでカウンセリングを行ない、その意義の大きさを実感している私にとって、少なからずショックでした。
人のこころの在り方に浅薄な認識しか持ち合わせていない、何処の馬の骨ともつかぬ輩が言っているのなら、気に病む必要はないのでしょうけど、人のこころの在り方に早くから真摯な態度で取り組み、非常に卓越したメソッドを確立した、森田療法の始祖のセリフだけに、その意味を即刻には呑み込み兼ねました。
森田氏は、人の無意識の扱いを大事にしていたに決まっているでしょうし。 それが見せる夢の意義にも、注意を払っていなかったわけは無いと思えるのです。
その後、森田氏は上記のセリフと共に「夢は楽しむもの」とも言っている事を、知るに至って、この意味が了解せられたのです。

クライアントと会って、さぁこれからカウンセリングを開始という、クライアントからすれば夢を記録し始めて最初の頃は、その夢が混乱が見られる事が多いのです。 心的問題の大きい(これも「後から考えれば」という話で、当初から大きい小さいを即断できるものではない)ひとであるほど、この傾向は著しいのですが、「夢とはそもそもそういうもの」というのとは明らかに一線を画す混乱なのですが。
これを「分からないものは、分からない」という態度で、安易な解釈を与えたり、性急な答えを求めず、話し合いを継続しつつ、夢の記録を持ってき続けて頂いていると、川の流れの如く、またその流れに導かれるか如くに、夢が整合性を持ちはじめるのです。 もちろん夢のことであるので、論理的に筋が通るとか、現実的描写になってくるとかの意味ではなく、、、「夢なりのルール」に従った整合性を持ち始めるのです。
この「夢なりの整合性」を見抜くには、それ相応の知識と経験が必要なのではありますが。

フロイトは「夢の偽装」という仮説を唱えた。 無意識は何をかを伝えようとして、夢というかたちを通して意識にコンタクトを取ってくるのだが、それが意識にとって好ましくない情報を含んでいると、意識の検閲を受けて、違う姿形を与えられる、偽装されるのだ、というのです。 いわゆる「メタファー」というもので、有名な処では、女性の夢の中に万年筆が出てきたら、それはペニスの偽装した姿だ、とするものでしょう。 これはこれで、自我が非常に強固な方には有効な解釈になる場合もありますが、些か硬直したものと言わざるを得ないと思います。
(このような硬直化したものは、訳者(独語から英語への)の意図的誤訳、と後生の主にUSAマスコミがセンセーショナリズムだけでフロイトを取り上げた結果の誤解、そして、フロイト自身も名前が売れることの方を優先してこの誤解を放置した結果なのです。 こういう多くの誤解を受けているフロイトですが、実際にはそんな硬直した事は語っていません。 「夢判断」を読まれよ!)

このフロイトが提起したのとは違う意味で「意識の検閲」というものを私は考えます。

無意識から持たらされるものは、イメージの塊で、まさに混沌そのものであり、多くの矛盾、パラドックスを含んでいます。 いや、これを矛盾だ、混乱だと考えるのは「意識の増長」であり傲慢であるとも言えるのですが、、、
ともかくも、この混沌から情報を意識が受け取るとき、これをそのまま受け取ることは出来ず「如何に受け取るべきか?」と悪あがきをするのだろうと考えられ、これが論理的に筋の通っていないものに論理性を与えようという無茶をすることとなり、混乱と呼べる状況を作り出すのだろうと考えられるのです。 「意識の検閲」が混乱を作り出すことに深く関与していると。

この意識の悪あがきによる混乱状態も、自我の再調整のために必要な混乱(錬金術でいうニグレドに相当する)であるとも言えるのですが、まともに取り組もうとすると強烈なデプレッションに襲われ、相当に自我の強い方でも、易々と耐え切られるものではないのです。 これに耐え切られるよう介助役をしつつ、この「自我の再調整のための混乱」の淵に足を踏み入れるのがカウンセラーだと言えます。
言い方を変えれば、「意識の検閲」を上手く調整が効く方向に誘導してやるのが、カウンセラーだとも言えると思います。

心理学にそこそこ通じている方でも、よく起こす勘違いに、夢を無意識そのものとイコールで結ぶことがあります。
正確に記すならば、意識が無意識と何かのキッカケに、ほんの一瞬触れ、その触れた瞬間の残像、雰囲気、ほのかな感触、これらの総体として意識が覚知したもの、これが夢であります。
無論、これより浅い意識域の中だけで見る夢(願望充足夢、覚醒時に体験した出来事をなぞる夢など)も多くあるので、夢すべてをこれであるように捉えるのも間違いです。
つまり夢を通じて無意識域の片鱗を垣間みられる「時がある」という以上でも以下でもなく、無意識の全て、無意識の何たるかが解るわけではありません。
無意識の全てを把握することが重要なのではなく、無意識から持たらされている様々なサイン、これの意味を現実との脈絡の中に見出せるかどうかが重要です。 またサイン全てが絶対に意味があると決めて掛かるのも危険です。 上手い具合に意味が見出されればラッキー、という位の気持ちで、ファンタジー小説を読むかの如くに「味わう」姿勢が肝要だと思います。
「味わずして分析するなかれ」これが私の持論です。

フロイト派はフロイト派の夢を、ユング派はユング派の夢を見る、と言われています。
これも受け取り手の意識の在り方次第で、夢が変わるということを語っているのだと思います。

夢との付き合い方で良くないのは、先に述べたように「絶対に意味がある!」と決め付けてなんとしても分析し切ろうとする態度、また「ライオンは父親像」「窪みは女性器」「棒状のものはペニス」式の硬直化した解釈を与える態度です。
まずは夢をありありと思い描いて、それによってこころに巻き起こるエモーション(感情の動き)をそのまま受け止め、それを偏見無くじっくり味わうことです。

最初の森田氏の「夢は楽しむものである」という言葉、これは「楽しめない夢に囚われて気に病むことはナンセンス」と言っているのだろうし、「楽しむ態度を持ち合わせていないのなら、夢に取り組むべきでない」とも言っているのだろうと思います。

「そんな馬鹿なことがあるものか!」とお思いの方も居られるかも知れませんが、誤った夢との取り組み方をして、神経衰弱や精神分裂病にまで及ぶひとが、現に居るのです。
この意味で(その全てを唾棄するつもりはないですが)巷に溢れる「夢占い」の類の大多数は、有害です。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

「100%正しいアドバイスは役に立たない」

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このタイトルは日本に本格的にユング心理学をもたらした最初のひと、河合隼雄氏の「こころの処方箋」の中の言葉です。
これは占い師という仕事に本気で取り組めば取り組むほどに、痛切に実感させられる真実です。
「ひとに迷惑を掛けてはいけません」「真面目に仕事をしましょう」「不倫はいけない」等々、、、誰が聞いても賛同せざるを得ない公明正大な意見。 下手に反論しようものなら人間性を疑われるので、しっかりした根拠がない限り異議を唱えることに後ろめたさを感じる。
なにも、これらを軽るんじて良いとか反論を加えようとするんじゃないんです。
問題は、これらの反論を加えにくい公明正大な意見には、対話をそこで終わらせてしまうヒューマニズムの欠如が裏に潜んでいる、ということです。

「好きな異性が居るのだけれど、相手も好意を持ってくれるかどうか不安」占いの現場に日常的に持ち込まれる題材です。
これに対して相手との相性を鑑定して、良いと出たのならば、それを根拠に「アタックしてみなさい」とアドバイスする。 多くの占い師さんがこういうアプローチを取ると思います。 これは正攻法ですが。
これで「アタックしてみよう」と思う方ならそれで良いのですが、それが出来ない方が多いのです。 その理由は「物怖じしやすい性格」だったり「行動を起こすより先に失敗した時の心配、取り越し苦労をしてしまうクセ」だったりする訳ですが、こういった方に「物怖じせずに頑張りなさい!」とか「物怖じするその性格がいけない! それを直しなさい。」と言ったところで「それが出来てりゃ苦労はしないよ。」といった反発が返ってくるのが関の山で、場合によればいわゆる逆切れをするひとも居るでしょう。

誤解なきように補足しますと、クライアントの反発を買ってはいけない、怒らせてはいけない、などと言っているのではありません。 これを意識し過ぎると、その場を丸く納めることばかり考えた結果「なぁなぁ主義」の鑑定に堕してしまい、毒にならない代わりに薬にもならないものに成ってしまうからです。 場合によれば毒を与えることも必要なこともありますので。

「物怖じしてしまう性格」が問題となれば「何故、なにが物怖じさせるのか?」という疑問が出てきて当然です。 「○○という星が○○と〜〜だから」と言ってしまえば、「仕方がない」で終わりです。 これだと、物怖じしやすい人は見合いでしか結婚出来ないことになるし、忍耐力の無い人は出世できないことに成ります。 四柱推命を初め東洋占の占い師さんはこういう決定論的な物言いをする方が多いのですが、、、ま、鑑定という意味ではこれで良いのでしょうが、何かが足りない、、、。
何が足りないのでしょうか? 私は「その方の幸せは何処にあるのか?」と一緒になって考えてあげようという姿勢だと思います。
実のところ、これは非常にしんどい取り組み方です。 先に場合で言えば「結婚する事が本当に幸せに繋がるのか?」「出世がこの人の幸せか?」といった根元的問い、ひいては「人生とはなんぞや?」という処まで降りてゆかないといけないからです。 しかも哲学としての一般論ではなく、その方その方ごとに、個々人のパーソナルというものを非常に意識した上で考えないといけない。 占いにはデータ的な側面(AがこうでBがこれこれ。 だからC。 みたいな答え)がありますが、こういった類別論、パターン論はこのレベルにまで踏み込むと通用しません。

 余談ですが、関西の有馬温泉に「占い師はデータ屋」と豪語するアホな占い師が居ます、この方は大抵は企業の相談ばかりを相手にしています。 企業が相手であれば、この占いのデータ的側面だけで話をしておれば良いわけで、言うなれば「一番楽な客」(占いの確度を上げる=技術的努力な要求されますが、本論で主題としている心的働きとしては楽)を相手しているわけです。 これはこれで、この方の生き方なのでそれ自体をとやかく言うつもりは更々ないのですが、企業が相手ですから報酬は悪くないわけで、占い師の中でも裕福な部類に入ります、それを傘に着てご自分が何様かに成ったように勘違いをされて、「カウンセラーなんかに敬意を払う気なんか更々ない! カウンセラーなんてその程度の職業。」とまで言い出す始末なので、釘を刺しておきたいと思ったまでです。

私も経営顧問として遇してくださる企業トップのお客様を幾人か持っていますが、これらの方はご自分の人生の目的、幸せというものに対して確かな視点をお持ちで、お聞きになる質問も設問の設定が非常に明瞭です。 そうなれば、こちらもお聞きになっている事のガイドラインをお教えすれば良いだけで済みます。

話を戻して、「物怖じしやすい性格」と一口にいっても、それを構成している素因、要素は実に複雑多岐に及び「これが原因だ!」と簡単に断じれるものではなく。 占い的に大凡の輪郭=見通しは付くものの、決め付けてしまうと危険です。 何故なら、この構成する要素というのは、そのひと自身のオリジナリティーと密接に関連している場合が非常に多く、これを不用意に批判、攻撃しようとする試みは、その方のオリジン、ひいては存在意義そのものを脅かす危険性の高い行為なのです。 改善のつもりが改悪になってしまうということ。
これで「100%正しいアドバイス」が、なぜ役に立たないかお解りになったと思います。 存在意義を脅かされるのですから、防衛反応を引き出して当然なのです。
ここまで説明して「じゃぁ、やはり性格は改められないのですね。」と仰られてガックリくる場合が少なくないのですが、それは違います。
「改めよう」と心底から思う動機があれば改まります。 この「動機」を働かせるために、「その方の幸せは何処にあるのか?」を考えていかざるを得ないのです。
人というのは「わたしの居場所はココだ!」という確信があれば非常に強くなります、逆に自分の居場所が見付からないことには不安で仕方がないのです。 「自分の居場所」とはジェイムス・ヒルマンの言葉を借りれば「内なるドングリ」を見出すことに他ならず、それは「自分は何者か?」という問いに対する答えそのものなのです。 宿命とは世間一般に言われているそれとは違って、これを指すのでしょう
「じゃぁ、それが何かあなたには判るの?」と問われれば、それは判りません、「法の華」の誰ぞや「ライフスペース」の誰ぞみたいに「わたしには判る!」なんてのは嘘八百の詐欺師です。 それは魂を宿したご本人以外には決して判ろうはずもありません。 確信を持って「当人以外判るわけがない!」と確信を持って断定できるのが、占い師なのかも知れません。
ただ、そこへの入って行き方を多少なりとも心得ているので、道のりに同道してゆく夢前案内人にはなれるでしょう、と申し上げられるだけです。

トップページに掲げてあるように「神よ、変えられるものを変える勇気を 変えられないものを受け入れる静けさを このふたつを見分ける叡智をお与えください。」ここに言う「見分ける叡智」これこそが「内なるドングリ」なのだろうと思います。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

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