「アメリカ人は空気が読めない」と思っている日本人は結構多いように思います。はっきり言ってこれは嘘です。
例えば有名どころでは大前研一氏がその著書内で「うちの奥さんは典型的アメリカ人といって差し支えないが、家では“あれ”,“これ”,“それ” あとは目線の送り方、目配せで大概のことは阿吽の呼吸でわかってくれる。つまり“察する”という能力はないというのは全くの嘘だということだ」というような内容のことを書いています [1] が、個人的にもアメリカ人はじめ欧州諸国人との付き合いを通じて同感に思います。彼らの察する能力が特段劣っているとは思いません。察し察しられという関係の根っこにあるのは感情だと気付いていれば、彼らには感情は無いという荒唐無稽なことを信じでもしていない限り当たり前だと認識されると思います。

では何故「アメリカ人は空気が読めない」と言われることが多いのでしょう?
答えは実に簡単で、彼らは「読めない」のではなくて「読まない」のです。
どういうことかというと、アメリカは御存知の通り多民族社会です。またヨーロッパもアメリカ程ではないせよ多民族社会です。察するというのは価値観や美意識、情緒性や知識などに於いて共通項が多く存在している相手ほど容易で、反対に共通項が少なくなればなるほど難しくなります。単に難しくなるだけならまだ良いのですが、的外れが多発することになります。察し察しられというのを支えているのは感情だと先に述べた通りですので、「察し察しられ」ベースでの的外れは不愉快に感じやすく「わからない(適切に察しない)相手を非難する感情」が生じやすく「こんなことも分からないのか!」と馬鹿にする感情の半ば伴った非難の言葉が口について出たりもします。こうなれば「わかるよう示していない自分のことを棚に上げて何を言う!」と罵り合い、喧嘩が始まらない方がおかしいでしょう。「相手(他人)も同じように感じる筈だ」「同じように感じてくれないと嫌だ」というのは感情というものの厄介な側面です。

人種の交差点と今や言われるアメリカも元々は、ネイティヴの住んでいる土地を奪ったヨーロッパ各地人がコミュニティーを作る形から発展しており、そのコミュニティー毎の閉鎖性は割とあって、この頃に於いてはアメリカだってコミュニティー内で「察し察しられ」ベースで動いていたのです。その証拠に今でも田舎の方へ行けば、その土地、地域の暗黙の了解が厳然と在って、これをイチイチ明示的に語るのはタブーという地域は幾らでもあります。 [2] それはさておき、世界各地からの移民の流入が増えるに従って少なくとも大都市圏に於いては「察し察しられ」ベースで動くと利便性よりも軋轢が発生する方が圧倒的に上回ってしまうことを彼らは学んだ結果、Public領域では「察し察しられ」ベースを封印したのです。「察し察しられ」ベースで動いて良いのは家族、親しい友人の間柄だけで、それ以外には用いてはいけないと。
これは単にそういう行動を抑制するようになったという意味だけではなく、家族、友人の間柄だけにしか通用しない作法として“汎用性のないもの”と低い価値付けに転換したという点で重要なのです。
これが広く定着したのは公民権運動以降であるというのは案外と語られない事実ですが、公民権運動というのは単純な人種差別撤廃運動なのではなく「マジョリティのマジョリティ故の暴力性」の自覚を促す運動でもあったと気付けば当然の帰結と言えるでしょう。
人種差別はアメリカでもまだまだ依然として根強く残っており、この意味では真の意味でのマイノリティ排除の廃絶はまだまだ道半ばだと言えますが、「マイノリティを許容した方が社会の柔軟性が失われにくく社会全体として得」という思想がアメリカ的楽観主義気風 [3] の根っこに加わって現在に至っているという点は特筆しておくべきだと思います。
多様性があった方がその系は強いというのは生物学によってその後再発見されたことで、この思想が単なる多民族社会による経験則以上のものに今やなっているのは御存知の通りです。
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——–[ 脚注 ]—————-
  1. 本棚を探索するのは大変なので記憶に基づく要約ですみません
  2. アメリカがなぜ合衆国なのか。なぜ州の独立性が強いのかは、この辺とも関係があります
  3. 良い面のアメリカ楽観主義