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ひとは美しい物語に弱い

最初聞こえて来たのは「作曲はゴーストライター」という話と、週刊文春に告発記事を書いたライターの神山氏がTVのインタビューに答えて佐村河内守氏の新垣隆氏への指示書のコピーを示して説明していたのを観ただけだった。
神山氏の示した指示書は紙一枚ではあるが、ビッシリと曲のダイナミクスをグラフ的な図表で示したり言葉でイメージを記していたり、僕個人の印象ではかなり壮大なイメージがこの紙一枚で説明されていると感じたので、この段階で思ったのは・・・作曲という営為をしたことのある方なら全員理解してもらえるだろうが、頭の中では非常に素晴らしい音が鳴っているんです(これすらない人は音楽的センスは微塵もないと断言できる)が、これを外に、他人に伝わる形で出力されたものを示せない限り「作曲」と認めて貰えないという或る意味悲しい現実が在る、この線が先ずあるということ。この点では先述の指示書を見た限りでは「これはこれで作曲の一つと呼んでも良いではないか」と思いました。楽譜というかたち、また最終形態の音楽そのものではないので、そこまで持っていったのは新垣氏なので作曲への付与度というのを考えた時に、佐村河内氏の付与度を50%以上と考えられるのか?的な発想もありつつ、と同時にインスパイアを与えてくれる良いアイデア、構想がないと陳腐な曲しか出来ないというのも事実で、この点では構想をもたらした佐村河内氏が「全く作曲していない」的に伝えていた多くの報道は言い過ぎな感じと思いました(音楽のことが全く分かっていない大多数の一般人がこういう捉え方をしてしまうしかないのは仕方ないとは思いつつも)。 つまり、この段階では「共作曲者として新垣氏をクレジットしていれば何の問題なかったのでは」という極々常識的なものでした。
ただ、と同時に、世間で評判になり始めた頃に聴いて、大したことはない、少なくとも評判になるほどの曲クオリティーではないと思っていた(今これを言っても後出しジャンケンになってしまいますが)ので、それとともに語られる物語で売れているのだなぁと思っていました。
まぁ、これも例えば秋元康などが典型ですが、マーケティングの一環としての物語というのは古くから在るありふれた手法で、この意味でありなんだろうなと、賛同はしませんけど否定もしません。

作曲家の”嘘”と視聴者の期待
http://blogos.com/article/79669/

この記事を読んでいて想起したのですが、佐村河内守氏の物語に乗っていた人達というのは団塊の世代が圧倒的に多いのじゃないかしら?ということ。
こう考えるとすぐさま続けて想起されたのが、「あの頃、ビートルズを熱心に聴いて支持していた人達というのは、アマチュアを含め音楽活動をしているとかアートに敏感な一部の人達だけで、若い人も含めて圧倒的多数は聴いてみもしないで“ビートルズは不良の音楽だ”“ビートルズなんて不良しか聴かない音楽だ”と言っていましたよ。それが、その後ビートルズが20世紀を代表する偉大なミュージシャン集団だという世界的評価になった、つまり大人になった段階になって、さもあの当時から聴いていた風に“俺たちビートルズ世代”などと、そして“わかっていない大人たちが不良の音楽呼ばわりするもの我々は聴いて大人になったのだ”と言っていますから、団塊の世代と呼ばれる彼らはそういう人達なんですよ」と語った浅井慎平氏の言葉です。
これは来日当時、唯一指名されてステージ以外のシーンも含む全ての写真を密着して撮影することを許可された氏が、ジョン・レノンが亡くなってしばらく後にビートルズの足跡を振り返る的な番組でインタビューに答えている一幕で語られた言葉です。

1960年代安保闘争〜学生運動といい、脱原発、卒原発、原発即ゼロといい、自分を美しく粉飾する物語に酔い続けて死ぬまで反省はないのだろう。
個人の趣味の範囲であるなら、それは個人の自由であるから、、、と、こう考えると今回の佐村河内守氏の事件は、大して実害のない非常に小さなものに思えてきた(というか最初からそう思ってる)。食品産地偽装事件と同じくで、騙す行為それ自体は悪いことと言わざるを得ないものの、物語に騙された方も方で莫迦というだけ。


大飯三号・四号機にはベント機能自体がそもそも必要ない

中途半端な知識で知ったようなことを、それも東京新聞・中日新聞論説副主幹という立場の人がこういう公性の高い場所で書くのは如何なものか。

フィルター付きベントも防潮堤もないのに「事故を防止できる対策と対応は整っています」と大飯原発再稼動に踏み切る野田首相。 政治と官僚の迷走、ここに極まれり! | 長谷川幸洋「ニュースの深層」 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32792

以下の動画を観れば分かる通りPWR型(加圧水型)である大飯三号・四号機にはベント機能自体がそもそも必要ないのですよ。
より詳細に言えば、燃料棒に使われているジルコニウム量が少ない、格納容器が五倍のサイズである事などから、ベントが必要になるような状態の発生閾値が高い。言い方を換えるならば、ベントが必要になるような状態にもしなった時はベントどうこう以前に他の部分がもっと深刻な状況になっているの。 この点が、ベントを適切な段階で実施しないとより悪化した事象が発生するBWR型(沸騰水型)とは大きく異なる。

また「防潮堤云々」も、今回の福島事故というよりは東日本大震災から得られた教訓は、いくら高い(または強固な)防波堤、防潮堤を作っていても、無限に高い防波堤・防潮堤は作れないので、その想定を超えた津波が押し寄せれば何の意味も無いので、ここに金を注ぎ込むのはあまり賢いやり方ではない。それよりも水が押し寄せても大丈夫な作りにしておいた方が良い(浸水する前提で気密性・耐圧性を上げておいた方が安全面、コストの両面で良い)ということなので、この観点での対策は少なくとも大飯三号・四号機には施されている(と同ビデオを観ればわかる)。防潮堤の高さが十分であるか否かの議論自体があまり賢い議論でないのである。

まぁ日本のマスコミでは寧ろ当然に近い(というのは情けないのだが)、「”原発際稼働は危険”という結論にしたい意図」が先にあって、これを結論付けるためによく調べもしないで記事を書いているのだろうけども。

2012年7月2日 09:34 追記:entry後、普段観ない朝のワイドショーを観てたら、大飯三号・四号機に「フォルター付きベント機能を付ける予定になっている」そうな。飲みかけたコーヒー吹いた! 先述の通りPWR型にはベント機能は実質的に意味がない。だから付けていないのだが、これをきちんと技術論理的に説明をすることよりも、意味の無いベント機能を付けて気分的に安心する大衆に迎合したことのようだ。アホか。 いや実際アホだ。 工業系学校で学んだ人は元よりちょっとした以上の工作をしたことのある人なら知っていることだが、一旦完成したものに後から手を加えて造作をすると必ず強度&整合性は低下する。それが精密な精度を要求されるものであればあるほど、この強度低下は結構デリケートな問題になる。こんなこと工学的常識。 雰囲気として(科学的根拠の無い)安心を得たい人々に迎合することを完成度の高い原子炉の強度を犠牲にして実現しようとする。これを愚行と呼ばずして何と呼ぶ!

私がなぜ原子力発電推進なのか

私がなぜ原子力発電推進派なのか簡潔に示します。

  • これから世界は、中国、インド、そしてアフリカ諸国が繁栄の方向へ向かおうとしていることで爆発的に電力を必要としてきつつある。
  • 日本を含めいわゆる先進国はこの二世紀の間、化石燃料を潤沢に使って社会を繁栄させて来た。
  • 原子力発電という選択肢を無くすと、彼らには化石燃料(特に安価な石炭)という選択をするしかなくなる。
  • そうなると地球温暖化、地球規模での大気汚染の問題は今以上に深刻な問題になる。
  • 今までの二世紀にわたって先進国はさんざん化石燃料を消費して我が世の春を謳歌して来(しかも,その間は欧米列強諸国以外にとっては植民地化されていた歴史でもある)ておいて彼がその番になった時に「地球環境保護」の美名の基にこれに制限を加えようとするのは手前都合勝手な言い分ではないのかという問題がある。 [1]
  • ただ残念ながら、現状ではインド以外、中国も、ましてやアフリカ諸国では現在実用化されている複雑&大規模な原子力発電プラントを安全にオペレートし続けて行く能力は持ち合わせていない。
  • ので、原子力発電プラントは今以上に技術革新を遂げる必要がある。 [2]
  • この意味での最先端の技術&ノウハウの蓄積は、フランス&日本の寡占状態である。
  • 「世界唯一の被爆国」である日本には「核兵器と結び付かないクリーンな原子力」というイメージが持たれている(彼らの過大な幻想の部分もあると日本人からは冷ややかに言える面も在るが)。
  • 反対に核兵器を持っているアメリカ、フランス、(ましてやロシア)の影響下で原子力発電プラントを持ちたくない(政治的|情緒的)思惑もある。
  • ので、その技術プラスαな「ブランド力」が日本にはある。
  • 現段階で日本が原子力開発から降りたら、今まで「日本は世界唯一の被爆国」と言って、その平和的利用の牽引役をしていた(と彼らはみている)のから、しかも彼らがこれを必要とし始めた矢先という最悪のタイミングで降りるのは「無責任」と映る。 [3]
  • 反対に原子力発電プラントを今以上の技術革新を遂げさせる責任は日本にあると期待されている。
  • 彼ら独力で安全にオペレートできるようになるまでノウハウの伝授を含めた総合的な支援をする役割を担う責任が日本にはある。(彼らはそう期待している。)
  • その日本で原子力発電プラント事故が起きたことは、これをどう始末付けるのか・・・未来に繋げる教訓を得ようとするのか、なし崩しに逃げてしまうのか・・・注目されている。
  • つまり、いま原子力開発から降りるのは、「世界、特に途上国からの期待を裏切る行為であるので日本の国際的プレゼンス向上のチャンスを逃すだけでなく失墜すらしかねない」「せっかくの大きい国際的ビジネスチャンスをドブに棄てるに等しい」という国際貢献、金儲けの両方で大損をするのは愚か以外のなにものでもない(この二者が両立することは滅多に無いし)。

ビル・ゲイツは第四世代原子力発電プラント(今までのものよりコンパクトかつイージー・オペレート)の開発ベンチャーに多額の投資をしている。流石はビル・ゲイツと言うべきだろう。個人的にはビル・ゲイツは好きではないが、先見の明ありと評価するべきと考える。

TED RANDOM「「ゼロへのイノベーション」 ビル=ゲイツ、エネルギーについて語る。」
http://tr.loopshoot.com/id/767

2012年6月8日 23:25 追記:
一定以上の便益を備えているテクノロジーに於いて、それを凌駕するものに置き換わられたのでない限り、皆が「もう終った」「将来は無い」と言っているとき、こういう時こそ最大のブレークスルーのチャンスなのだと、直観的にそう思う。 もしかしたら、これが一番言いたかったのかも知れない。

2012年6月10日 05:24 追記:
先のエントリーで紹介した動画の中の細野大臣に報告書を渡す会見の模様を伝えたもの「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか – YouTube http://www.youtube.com/watch?v=Agp1amvBv94&feature=plcp」,この会見終了後(YouTube動画ではカットされていますが)当日USteamで生放送されたもので、細野大臣が退席した後、大前氏が質疑応答に答える中で「この報告書で指摘した問題(福島事故の反省点)を真摯に受け止め改善に盛り込む姿勢が政府に見られないとなった時は、私は反原発・脱原発の側に回ります」と強い調子で述べております。私もこの大前氏のスタンスに全面的に同調する者で、「何が何でも原発推進」「無批判に原発賛成」ではないと、「原発推進賛同派だからこそ厳しい目で見つめ続けるべき」と考えると明言しておきます。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. この点に関しては、先進諸国でマラリアがほぼ根絶できた途端「毒物だから」とDDT使用を全面禁止にしたのと同根の問題。これを厳しく糾弾していた武田邦彦氏が今やあっちの世界に行ってしまったのは残念
  2. 核兵器開発に繋がる可能性は(今でも)あるので、わざとイージー・オペレートなものを作ってこようとしてこなかったという側面もある
  3. 視点を変えるならば、原子力開発から日本が逃げてしまったなら、これ以降「日本は世界唯一の被爆国」という枕詞は一切使えなくなると心得ていた方が良いとも言える。反原発派もこの枕詞をさんざん使い倒して来た功罪を猛省すべきだ

反|脱原発しても全然安全になんかならない


先ずこの動画を見てほしい。この中で印象的なのは「日本人って何でこんなにだらしないのか。と。あれだけの事故を起こしながら反省もしていないし新しい組織も作っていないし、新しいやりかたを”これだ”と示していない」という部分。
つまり大前氏の言わんとしていることは、大小に関らず事故・トラブルが起こった場合に、その原因、問題点を論理的・理性的に分析して改善、改良に繋げるのが理性的大人の取るべき行動であって、誰が悪いだ誰のせいだと吊るし上げる対象探しをするのは子供のすることだということだと言ってよいだろう。 後者は一見「責任追及」であるかに見えて実は「俺は悪くない」「私は悪くない」と責任回避の自己保身の行動である側面の方が強いのである。今、日本のマスコミ(特に朝日)、そしてマスコミの論調に同調して正義漢ぶっている人たちの取っている行動はこれであるという自覚を持った方が良い。責任追及しているつもりになれて、かつ自己保身出来る実に都合の良い態度なのだと。

さぁ、それで本題であるが、、、殊、原発問題に関しては橋下氏の近視眼的対応(というより反応)は目に余る。日本復興計画 Japan;The Road to Recovery
以前から大前研一氏の本を読んでいたみたいだし、また池田信夫氏のブログを読者であるらしいし、つい先頃池田氏とtwitter上で意見の交換を活発にしていたりもしたので、それなり以上の的確な情報は把握していたと思われるのに、再稼働問題を含む原発問題に関してのコミットメントは稚拙の一言・・・小学生並みの正義感である。
もっと先を見越した時局判断のできる人だと思っていたのだが、買被りだったのか。

原則論を言えば、池田氏の指摘するようにエネルギー行政に地方自治体の長が兎や角言える法的権限はない(意見を述べる自由はあるという意味の権利はあるが)。中央政府であっても、国会審議を経た法律改正、特別立法等の手続きを踏まないで恣意的に原発稼働を差し止めることは違法(贔屓目に言っても脱法)行為である。この点は押さえておく必要はある。

それはそれとしても直接的行使力はなくとも、関西連合または維新の会として意思表示してオピニオン(世論)をリードすることには大いに意味があるので、では、じゃあ、どういうオピニオンを発信して行けば良いのかという話であるが。

なぜ安全性を自分たちで担保しないのか | 物語り研究所「夢前案内人」

以前のこのエントリーで既に述べた通り「実際問題安全性が確保されているのかどうかが大事」なのであって、「なんとなく怖い」という子供の情緒論に同調することではない。
因みにであるが、反原発派、嫌原発派の人も憶えておいて欲しいのが「稼働していようが停止状態であろうが原発の安全度(危険度)は同じ」である点。機械工学的見地を入れれば「動いている方が寧ろ安全」とさえ言えるという点。
そして以下に引用するH2Oプロジェクトの詳細分析をみれば分かる通り、関電管内の(少なくとも大飯3号機、4号機)に関しては十分安全が担保されているということ。

English trans-script is available on all these Videos bellow.



  • TeamH2O発表「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」最終報告 資料(約13MB)
    ⇒ http://pr.bbt757.com/pdf/conclusion_111227.pdf
  • TeamH2O発表「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」最終報告 補足資料
    (全プラント比較:約290KB)⇒ http://pr.bbt757.com/pdf/apdx_chronology_and_power-loss.pdf
    (教訓の適用可否:約438KB)⇒ http://pr.bbt757.com/pdf/apdx_applicability_to_pwp.pdf
  • Press Release – What should we learn from the severe accident at the Fukushima Dai-ichi Nuclear Power Plant?
    ⇒ http://pr.bbt757.com/eng/

この点は明白な事実である。

問題は同上エントリーでも書いた通り

経産省の「原子力行政全般に対する不信」がその正体なのだと分かろう筈。 であるならば、幾ら改善策を施そうが、また、その改善策が実際に有効なものであっても、これを国民から信用されていない経産省、原子力安全・保安院の方を向いて行なっている限り、一般市民からの信任は得られる筈はない。

国および電力業界が信用を失っているのが事実であるが、この付和雷同世論に同調して「お前ら信用できないから(原発の運転も)信用できない」というレベルの低い循環論法を展開するのではなくて橋下氏および維新の会は、原発再稼働を前提と宣言した上で「但し、その代わり市民を説得できるに十分な状態を作り、かつ、この情報を100%開示せよ」と関西電力にプレッシャーを掛ける戦法(協力姿勢を示しつつプレッシャーを掛ける「敵対的協力戦法」)を取るべきだったのだ。 十分な裏付けのあるデータを基に人々を説得するのは橋下氏の得意とするところではなかったのか?

どうも、ここまでのところを観察する限り、原発再稼働に反対の人が多数派だと橋下氏は本気で思っているきらいがあるが、ハッキリ云おう「それは大いなる誤解。勘違いも甚だしい」と。若しくは「あなたの取り巻きに偏った意見の人が集まり過ぎているのではないですか?」と。

これが断言できるのは簡単な話で、詳細な分析による科学的データなど要らない。
大阪市中を見回して、節電をしているのは役所と付き合いのあって仕方なく協力している組織、団体、企業、「お願い」という名の「行政指導」に従わざるを得ない企業だけであって、一般家庭で節電協力をしている人は、イデオロギー的にそっち方面の人か、朝日新聞の熱心の読者だけである。
大阪の人間は「実際的」である。よく利己的と勘違いされることがあるが「実際的」なのである。合理的必然性があると判断されたら、ちゃんと節電協力する。それがないから協力しない。ただそれだけである。
この市民の行動を「既に答えは出ている」と受け止めれないのなら政治家として失格だよ、橋下くん。

あなたが今まで批判し、敵に回してきた人達というのは、「サイレント・マジョリティ(寡黙な多数派)」の意向を見抜こうとせず「ラウドネス・マイノリティ(声の大きい少数派)」の圧力に屈するという安易な道を選んできた既成政党であり既存政治家だったのじゃないのですか? 彼らが安易な道を選んできたことで、世の中「既得権益者得」「利益誘導巧者得」になってしまったのを打破し、改革するために大阪知事になり、維新の会を結成し、知事を辞して大阪市長になり、してきたのではないのですか?

少し前にその発言が物議を醸した古賀氏の云ったのとは全く別の意味で「停電テロ」は起こるかもよ。
それは大半の市民による「原発停止したままで居てられると云うならやってみろよ。節電協力なんか絶対にしないから。夏の電力消費ピーク時に停電になったら、その時が見物だね」というかたちで。
これの責任を関西電力の方へ持って行くのはお門違いだと言っておく。 橋下くん君達の責任だからね。

今からでも遅くない、「180度方向転換して、原発再稼働:その代わり安全監視機関を国主導ではなく地域主導で作ること」 → つまり「自分達の安全は自分達で確保維持していく」という方針に舵を切るべきだ。

本当に安全を考えるなら、老朽化しているだけでなく設計思想の古い(古過ぎる)炉は廃炉して新型の炉に立て替えていくべきだ。まだ実用段階には無いが第四世代の原子炉なら大阪の街中に建設しても全然問題ないと僕個人は考えている。 実際、使い道に困っている遊休地は埋め立て地にいっぱい在るのだし。 ある程度以上のリスクを伴っているテクノロジーは、自動車然り、航空機然りで「リスクをコントロール下に収めることで致命的な事態に至らないようにする」ことが定石であり、リスクを遠ざけることは逆に致命的な事態が起こることの予見性を失くす(視野の外にやることなので)ということを、もっと皆は知っておくべきだ。

CHINE • Bill Gates se branche sur le nucléaire | Courrier international
http://www.courrierinternational.com/article/2011/12/08/bill-gates-se-branche-sur-le-nucleaire
ビル・ゲイツ氏が中国の原発に関心 中国で提携先を模索 2011/12/12(月) 14:57:33 [サーチナ]
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1212&f=business_1212_199.shtml

先頃流れたこのニュース。個人的には「中国に先を越された!」と思ったのだが、これに中国に先んじて手を挙げるべきだったのだよ橋下くん。 池田信夫氏に頼めばビル・ゲイツと話し合う場を設けるくらいはして貰える筈だから、依頼してみてはどうだろうか?

本題よりも重要かもしれない補記: 上に引用のH2Oプロジェクトの詳細分析の中で非常に気になる、看過できない点として「全電源喪失について検討するべきか?」との東電からの問い合わせに対して「考慮に入れなくてよい」と原子力安全委員会が返答している(福島の事故以前の話)という点。 全電源喪失状態が長時間続くと燃料損傷、炉心溶融することは、少なくとも10年前から原子力技術者の間では常識化している(庄司調べ)ので、こんなナンセンスな問い合わせをする東電も東電であるが、これに「検討の必要なし」と答える原子力安全委員会も原子力安全委員会である。 この点はきちんと責任追及されるべきであるのだが、この情報を伝えているマスコミは皆無(反原発の朝日ですら)なのは、どういうことであろうか? この一点を取上げても、彼は(安心という情緒論を振り回すだけで)真剣に安全を追求するつもりなど更々無いのだと言って良いだろうと思う。

印象誘導の典型「幇間論法」

これを幇間話法と名付けよう。

元官僚の古賀氏の発言が不穏当(または不適切)だとの批判が集中しているが、この動画を見る限りに於いて問題なのは古賀氏であるよりもこの玉川徹って野郎(および雇い主であるテレ朝)ですぜ、皆さん。

過去にTVの取材を何度か受けた経験から、ここで池田信夫氏が述べている通り「言わされてしまった」可能性が高いと思う。 彼らの取材の仕方の定石として
「もし、仮に、、、”仮に” ですよ。仮定として、可能性として “こういうことが考えられる” という、あくまで仮説として○○ということは考えられませんか?」
(○○の部分は具体的に述べてしまうと,後で「あれは言わされたんだ」と言われてしまうと拙いので、あくまで抽象的に匂わせるように、あくまでぼかした、だが確実に匂わせた言い方をする)
と自分たちの言わせたい(言って欲しい)コメントを言わせるよう言わせるよう、しつこいくらいに誘導的訊ね方をする。 [1] 更に都合の良い部分だけを編集で切り貼りするのは周知の通り。
とはいえ、官僚時代からこういう彼らを相手した事ない筈はなく、誘導的訊き方をする事は知っていない筈のない古賀氏の場合、迂闊との非難は最低限逃れ得ないだろうが。

冒頭部分の玉川徹のことばを書き起こしてみる。

つまり、だって関西だって、例えば、もしかしたら、国民感情の反発とかがあってね、原発動かないかも知れないって、私だって思ってた訳だから・・・だったら供給責任があるんだから、こっち(筆者中:関西電力)だって増やしておかないといけないんじゃないかなと、いう風に、思うのが普通だと思うんですけども・・・

こう書き起こして「書き言葉」になると「あれ? なんか詭弁」と分かるのですが、ここが「話し言葉」の怖いところ。

巧妙なポイントその1・・・断定を避ける

注意深く観れば(聞けば)分かる通り、この玉川なる吾人は一切断定を巧妙に避けている。曰く「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」・・・。

巧妙なポイントその2・・・「私だって思ってた訳だから」

これを幇間話法と名付けよう。 「私だって」つまり「私ごときが」 → 「私程度の人間でも」 → 「私程度の低レベルな人間でも」そう思ったのだから、私より賢い皆さんが思わない訳ないですよね。と相手の自尊心を楯に取って「いや、違う」と言い難い空気を作って封じておいて、同意したかの如く話を先に進める(実は同意していないのだが同意したような気分にさせられてしまう → 「Noと言っていないのはYesの意思表示論法」)。
しかも、これはポイント1の「断定を避ける」と組み合わさることで巧妙さを増す。つまり「私は断定できるほど賢い人間ではないのでああいう言い方をしたけども、あなたは賢いのだから・・・後は云わなくても分かりますよね?」と言外に言っていると仄めかしているのである。 インテリぶりたい虚栄心の強いプチ・インテリほどこの仄めかし(誘導)に乗せられてしまいやすいのは、ご想像の通り。 [2]
これは(男性もするが)女性が用いることの多い話法で、曰く「国立大学を卒業なさっている○○さんは、三流私大出身の私なんかより世の中のこともよくご存知でしょうから、こんなこと知らない筈ないですよね?」という風に。だから引用の記事にての池田氏の「専業主婦」云々は不穏当で非難を呼びやすい表現であるかも知れないが言っていることは強ち間違っていない。 普段からこの話法を使い使われして適応している人ほど、この話法の罠にはまりやすいので、主婦層をメインターゲットにしているこの手の番組でこの話法を使うのは合理的と云えば合理的。

巧妙なポイントその3・・・「だったら供給責任がある」

この前段までは「例えば」「もしかしたら」「とかがあって」「かも知れない」と仮定(実際には話者>玉川徹の私見、予断)だった筈の話が、この「だったら」という接続詞を用いることで既定事実であるかのように印象がここで変わっているのに気付かれただろうか。 更にこれに「供給責任」という言葉が結び付けられていることで「供給責任があるのだから、”もしかしたら、国民感情の反発とかがあって、原発動かないかも知れない” と考えて当然だ」と帰納的に考える誘導をされているのである。 これは論理的には正しい帰納ではない(つまり帰納でもなんでもない)。のだが、この手の誤った帰納は情緒に於いては寧ろよくあることなのである。
では何故、こういう論理的に考えられればおかしいと気付く論法にまんまと引っ掛かるのか。それは「人間の脳内の情報処理は論理に依るより “イメージに” “より根源的に依拠” するから」である。 論理はあくまでイメージを事後的に整理、分類、分析するための補助機能でしかないのです。

上記3ポイントを駄目押しする「のが普通だと思うんです」

この「普通」という言葉。 通例、「自明なこと=改めて説明するまでもないほど明らかなこと」を述べる時に使う接頭辞で、この点に於いては洋の東西を問わず共通。 英語でも「ordinary」「commonly」「normally」という表現があるが、欧米圏では自明であるとコンセンサスが成立していない事象に対して迂闊にこれを使うと即座に「お前の云う “普通” とは何に基づくのか?」「何を称して “普通” と云うのか?」「”普通” と云って良いほどコンセンサスは成立していないと思うが?」と突っ込まれる。
欧米圏のようにきちんと明示的にコンセンサスを積み上げる文化の脆弱な日本でも「自明な事=普通」という表現が使われるのは論理的に考えればおかしいことであるが、日本人>同質幻想に基づいているのだろう。

ここまでの私の分析を読んだ上で古賀氏のインタビュー部分だけを観たら、随分印象が違ってくると思うのだが、どうだろうか?
再度繰り返すが、如何に誘導されたにしても、ここまで言ってしまった古賀氏は批判されて当然である。この点は誤解なきように。

原発関連で、この手の詐術的、欺瞞的レトリックを駆使している一番有名人である安冨歩と同時期に京大に通っていたのは単なる偶然だろうか?

以下 wikipedia より
玉川徹
1987年、京都大学農学部農業工学科を卒業し、1989年、京都大学大学院農学研究科修士課程を修了

安冨歩
1986年 京都大学経済学部卒業
1991年 京都大学大学院経済学研究科修士課程修了
1993年 京都大学人文科学研究所助手

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 個人的印象と断った上で述べると、この誘導的傾向は、TBS系(含む毎日)、テレ朝(朝日放送は含まない)が特に強い。
  2. 「東京電力の方がましに思えてきた」とコメントする女性コメンテイターは、まんまとこの操作に乗せられている。もちろん、予めこう云うように打ち合わせていた可能性もある

占い依存症になりやすい人

先週金曜日(2012年1月17日)フジテレビ「とくダネ!」にて取材VTRが放送されました。この取材の前日にも週刊「女性自身」に電話取材を受け、こちらの記事は今週発売号(2月21日発売 2528号)に掲載されています。
どんな内容になっているか確認はしていないですが、ちゃんと書いたページを用意しておけば(万が一真意とは違うように編集されていても)誤解しない人は誤解しないと思いますので、このページを掲載します。
基本的に取材インタビューに答えるために用意した下書き原稿で、擲り書きです(多少は整えていますが)。最初から読んで貰うことを前提に文章を書き出したのとは違い散発的、羅列的で読み難いかも知れませんが、ご勘弁を。
当然ながら、オセロの中島知子さん個人について言及しているのじゃないことを改めて(念のため)申し沿えておきます。

また、このページは、より良い論理構成、推敲を思いつく度に随時更新します(どこを加筆、訂正したかはいちいち明記しません)。

「○○依存症」という、この ○○ に何が入るか [1] に関係なく本質部分は一緒だと先ず強調しておく必要はあると思います。

ただ、とは言いつつ「占い依存」の場合は、占い師(霊能者)という相手がある二者関係の「関係依存」である点で「恋愛依存」「セックス依存」以外の他の物的依存とは違って、DV(ドメスティック・ヴァイオレンス)と同根の問題でもあると言えます。

  • 論理的ではなく理屈っぽい=物事を白黒つけたがり過ぎる・・・曖昧、微妙なのが本質の情緒性が劣っている
  • 人間関係を「勝ち負け」「上下」「優劣」で理解する傾向が強く、この関係付けで捉えられないものには反応が薄い。・・・実際には反応が薄いのが原因なのだが、この事に本人は気付いておらず「こころ許せる友達ができない」などと嘆いているケースは多い。
  • (評価ではなく)世間、周囲の評判を過剰に気にする=裏返しの「全くに意に介していない」という虚勢を張るケースも多い
    ( [気にするべき(または気にしてもいい)評価] はスルーするのに [気にしなくてもいい(気にするだけ馬鹿馬鹿しい)評判] を妙に気する傾向も)
  • 他人の考え・感情を通常の「推し量る」能力は劣っているが、反対に「邪推」することが多い。
    (話の前後関係などの文脈から(話し言葉の場合は、相手の表現の着け方、抑揚間合いの付け方も)推察できる「文意」の酌み取りが能力が劣っている反面、メインの意味合いには殆ど影響のない枝葉末節の文言の不備または「文言そのもの」に強く反応 [2] するので、勝手な解釈、思い込みによる「誤解」「誤彪」が多い。 → 「言っていないこと」に食って掛かってくる人)

人間の知性は「論理による思考」と「感情、感覚による察知・判断」が協力的に働くことで理想的な働きとなるので、両者が非協力的またはアンバランスだと適切な推量、推測、判断が損なわれやすい。以上に列挙した特徴は、この両者が協力的に働いていない結果だと言えます。

  • 自尊感情が健全に育まれていない(自尊感情は弱い) ≒ (間違った意味での)プライドが高い [3]

「論理による思考」と「感情、感覚による察知・判断」が非協力的またはアンバランスになる原因として多くの臨床心理家、心理学者のコンセンサスとして重視されているのが「自尊感情の不全」です。
自尊感情とは「イケテル自分」だけでなく「イケテナイ自分」も含めて全包括的に自分を肯定できる(存在を否定しない)感情ですので、自尊感情が不全な人は「イケテル自分」だけしか受け入れれない [4] ・・・つまり「自分を肯定する感情」が「イケテル自分」の方にばかり偏っている(偏り過ぎている)。心というのは常に平衡を保とうとしますのでこれの裏返しとして「イケテナイ自分」の方には否定的感情ばかりが寄せ集められている(残っている)ことになります。
否定的感情というのは他人に対してでもそうであるように、客観的な評価を越えて非常に誇張される元なので、実際にイケテナイ以上にイケテナイように自己イメージが歪む。これが所謂「劣等感コンプレックス化」するということです [5] 。マイナス面が誇張されることで発生する偏りを補正しようとプラス面も誇張され、プラス面が誇張されることで発生する偏りを補正しようとする自律的平衡維持作用でマイナス面が誇張される・・・という「悪魔のループ」が発生する [6]
プラスの面に対してはプラス方向に、マイナス面に対してはマイナス方向に、どちらの方向へも誇張極端化するわけですので双極性障害(いわゆる躁鬱病)とも相関性があるかも知れないと思います。
自尊感情が弱いのを補う働きが動く結果「虚勢張り」になりやすく、時に「見栄っ張り」で「高慢ちき」。「他人に弱みを見せると負け」と考えやすく、これゆえ普段から策略・計略的言辞が多い。自身がそうであるので他人の言動も策略・計略的であるかのように誤解釈しやすい → 不要な詮索、邪推が多い。
その(自尊感情の不全)原因であり、かつ結果であるのが「小さな失敗に対する非寛容さ」です。ここで云う「失敗」とは「不完全さ」と言い換えた方が良いでしょう。
多くの場合がちょっとした失敗をイチイチ指摘、注意、叱責される環境で育ったこと、またはロクに褒めて貰えた経験がなく育ったことで、性格的には神経質で潔癖症に(自分自身の性格的特徴・欠点も含む不完全さを許容できない)、人物的には(いわゆる)完璧主義で他人の失敗にも非寛容になるというパターンにはまりやすいです。
何故これが自尊感情を不全にする原因になるのかといいますと、哲学的言い方をしますと『「完全」という概念自体が論理思考が産み出したフィクションに過ぎない』からです。平たく言えば「完全な人間というものはそもそも存在せず」「人間というものはそもそも不完全」だから、不完全さを許容されない育ち方(育てられ方)をすると「全存在的自分」を許容しなくなるからです。
『「完全」というフィクション』を絶対視すると、論理思考で自分の全てを統制しようとする傾向が強くなり、感情は論理思考の従属物としてしか許容されない・・・論理思考のお気に召す「美しい面」しか許容されない・・・ので、これ以外の「感情というトライ&エラーの繰り返しによるその(適切な)表現手段・手法を獲得していくしかない働き」が、その獲得機会を与えられないことから人格の構成要素として組み込まれない(“野蛮”なまま放置される)・・・「完全さを目指して不完全になる」というパラドクスに陥るのです。

『「完全」というフィクション』に囚われてしまって自分に不完全さを発見してはこれを躍起になって消滅させようとしている点で「美容整形依存症」と根の部分で共通します。

論理的推論で出来るのは「決定」
「決断」は論理で詰めるだけでは答が出せない問題を決めること・・・感情の助けがないと困難。つまり「勇気」であり「後悔を振り切る潔さ」であり「リスクを引き受ける決心」である。

今回の震災に伴う原発事故で奇しくも露見したように「リスクを過剰に恐れる」人が異常に多いこと。日本人は総じて「小さいリスクを無くすことの積み上げで大きいリスクを無くすことが出来る」と信じ過ぎる傾向が強いのですが、これは実は「そういうケースも確かに少なからずあるが、そうでないケースも多々ある」という意味で間違いなのです。小さいリスクを無くすことの積み重ねでしか行動できない人というのは、いざ大きめのリスクにぶち当たった時にそれまでリスクにちゃんと向き合ったことがないのでリスクの大きい小さいすら判断できない思考停止状態になる [7] 。思考停止してもリスクを避けたい感情だけは残るので、元から極端なリスク回避性向がより先鋭化して無闇と増幅した恐怖心となり、バラ色の未来を語る詐欺師の甘言または、終末論的恐怖を煽る言辞を信じ易くなる。
占いジプシーの方なども全く同じで、リスク・・・全く完全な人間などこの世には存在しませんから、恋愛、ビジネス、あらゆる人間関係は「リスク込み」なので、これを付き合いの中で付き合い方の工夫で最小化するという健全な思考法ができる人は良いのですが、「工夫で最小化する」のではなくて端からリスクが極限ゼロに近い相手を選ぼうとする・・・いわゆる相性が良いだ悪いだ言っているのも参考値程度でなら健全なのが占いで相性の良い相手を見付けてこれと付きあおうという発想になると、これは「リスク回避病」と言って良い。
自分にとって安心できる甘言を言ってくれる占い師に巡り合うまで占いジプシーを繰り返し、運良く(運悪く)期待通りのことを言ってくれる占い師、霊能者などに巡り合うとこれを絶対視し出すというわけです。ドラッグを打ち続けている限り平安で居てられる麻薬中毒患者と一緒で、その「安心のおまじないの暗示」を言い続けて貰わないと禁断症状(無根拠の不安が異常に増悪する)が出るようになっていくので、最初は一週間に一回程度で良かったのが三日に一遍、、、果ては毎日朝夕という具合に悪循環を深めていきます。

放射性物質拡散に於いては「非日常的できごとだから」その様相がより過激さを増しているだけで、「自分の中のリスク(マイナス面)」と向き合ってうまく付き合っていこうとする態度が欠如している事が投影されているという点で全く同じだと言えます。


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 買い物、占い、恋愛、タバコ、アルコール、ギャンブル、セックス、薬物、、、
  2. 当然、言葉狩りに走る傾向も強い
  3. 自尊感情が弱いのを補おうと働く(意識的にではない)働きの結果「事実以上に自分をよく見せようとする振舞い」が増えやすい
  4. 大抵の場合は生育して来る中で「イケテル自分」しか評価してくれない周囲の大人の接触態度を反映している
  5. 劣等感自体が悪いものなのではなく、劣等感が否定的感情ばかり寄せ集めて塊になってしまう(コンプレックス化)ことが問題なのです
  6. これが極限まで進むと多重人格的になってくる
  7. 実際にはリスクの多くは無くせはしないので「無かったことにする」「無いことにする」でやり過ごしてきているだけなので、実は小さいリスクが沢山積み重なって大きくなっているケースも多い

御用学者の正体は?

放射線被ばく基準の意味 : Global Energy Policy Research
http://www.gepr.org/ja/contents/20120109-01/

「A:無責任な発言をする人」 と 「B:責任ある発言をする人」 このどちらを信用しますか?

と訊かれて前者と答える人はまず居ないでしょう。

「2mSv余計に浴びると、200万人の福島県民のうち、がんで亡くなる人が200名増える」と言っていて、その通りにならかった場合、こう発言していた人は「そうならなくて良かったじゃない」と言うだけで済ませれる。責任を問われることはまず無い。
反対に「被曝量100mSv以下では日常的にありふれたリスクの方が大きいので、事実上問題は無い」と言っていて、その通りにならなかった場合、こう発言していた人は間違いなく責任を問われる。

つまり責任を問われる(かも知れない)リスクを負って発言しているのは後者である。
前者が責任を問われないだろうことは皆「実は知っている」・・・

どこかでみた風景だと思ったら、2009年秋に「新型インフルエンザが大流行する」「パンデミックが起こる恐れが、、、」「老人、子供を中心に死人が看過できない数出る可能性が、、、」などと厚生労働省、製薬会社、製薬会社の営業マンの云うことを鵜呑にした浅はかな(それも結構な数の)医師が、これのマッチポンプを毎度ながら演じたマスコミがパニック気味に大合唱していて、いざ蓋を開けてみたら大流行は確かにしたが、死人は203人であった。 203人というと多いと誤解する人も居るかも知れないが、新型でない通常の季節性インフルエンザの死者数は少ない年で10000人弱、多い年では15000人が亡くなっている(何れも超過死亡概念による推計死亡者数)。この時に、あれだけ不安を煽った厚生労働省、製薬会社、医師、マスコミのいずれかでも謝罪しただろうか? 謝罪していないどころか、マスコミも厚労省も「最悪の事態にならなくて良かった。良かった。めでたしめでたし」という論調で、製薬会社に至っては「売れずに大量に残ったワクチンの在庫をどうにかしてくれ」と “どの口でそれを言っている?” と言いたくなる、どいつもこいつも無責任極まりないまま有耶無耶に。 さすがに医師からは(但し、製薬会社の口車に乗せられずに静観していた医師)「あれは冷静な判断を欠いていた」「リスク管理という観点から外れていた」と反省の弁は幾つも発信されたが、これをちゃんと伝えたマスコミは皆無という状態だった。 [1]

「実は知っている」のになぜ多くの人は黙って(知らぬふりをして)いるのか? それは「責任を問われる心配のより少ない方へ加担したほうが自分の身も安全だから」である。 [2]
自分の身の安全の為に、勇気を以ってリスクのある立場に身を投じる人に「御用学者」「御用医師」レッテルを貼って済ませて良いのか?
自分の身の安全の為なら破綻寸前の国家財政にトドメを刺して、自分達が心配していると言っているその子供達の未来を暗澹たるものにしてしまう結果を招くことが正当化されるのだろうか?

レッテル貼りの一番危険なところは、レッテルを貼ること自体ではなく、レッテルを貼った瞬間以降思考停止を起こして「本当に正しいのだろうか(間違っているのだろうか)?」「事実はどこにあるのだろうか?」という自問自答を含む問いの公正さが著しく低下してしまう点である。
もう一度繰り返すが、「責任を負って発言」しているのはどっちか、よく考えてみて欲しい。

2012年1月18日13時51分:数字の誤記「誤:死者数は少ない年で1000人弱」を「正:死者数は少ない年で10000人弱」に訂正


——–[ 脚注 ]—————-
  1. 分かっている方には、これに始まった話ではなく「鳥インフルエンザ騒ぎ」「口蹄疫騒動」「BSE騒動」「ダイオキシン騒動」などなど枚挙に暇がないのだが
  2. 危険であることにしておいた方が補助金、助成金、除染という公共事業が懷に転がり込んでくるのでそうしている、より悪質な輩も沢山居るが

リスク管理とは:或る科学ジョークを引いて

『原発危機と「東大話法」』:池田信夫氏「安冨歩氏への反論*」の分析(1)〜(5)
http://ameblo.jp/anmintei/entry-11132924003.html
リンクは(4)へのもの

池田信夫 blog : 安冨歩氏の知らないリスク・コミュニケーション*
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51767689.html

ニ氏のやり取りを一通り読んで、或る結構有名な科学ジョークを思い出した。

男性の数学者とエンジニアを女性と一定の距離で向かい合わせて
「じゃんけんで勝ったら、彼女との距離の半分進むことができる」と告げたら、
数学者は「それじゃあ永久にじゃんけんを繰り返しても彼女との距離をゼロにできないということではないか!」と半ば怒り調子で嘆いた。
かたやエンジニアは嬉々として「或程度回数じゃんけんに勝てば、望むことを実行するに実用上問題ない(十分な)距離まで彼女に近づける!」と言った。

「論理的にゼロと証明できないものはゼロではない」という点に拘って終始している安冨歩氏と、「実用上無問題とみなして良い」と主張している池田信夫氏という構図である。
主張していると言っても、ちゃんと(その他の関連する記事も含めて)読めば分かる通り、池田氏は主観的個人の意見を言っているのではなく、客観的信頼に足るデータを積み重ねてそう主張している。
更に安冨歩氏の主張する
「(1)低レベル放射線被曝による深刻な障害の発生を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
「(2)浜岡原発周辺で大規模な地震が起きて事故になる可能性を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
というのは一見すると尤もだと思うかも知れないが、科学リテラシーが一定以上ある人にはご存知の通りこれは「悪魔の証明」と呼ばれるもので・・・「ない」ものの証明は原理的に不可能で、背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明するしかないが、これ自体「ないものを証明」したことには(実用上なっても)原理的にはなり得ない・・・これを要求している点。この要求をしている段階で「私は科学リテラシーが欠如しています」と宣言しているのと同義である点に注意しなければならない。
かたや池田氏は「背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明」は充分以上にしている。

いま我々が必要としているのは「論理的にゼロかどうか」論ではなく、「実用上問題無いといえる線は何処かを見極めること」であることは、論じるまでもない話だと思うのだが。

リスク管理については以下が非常に有益な視点を与えてくれます

SYNODOS JOURNAL : 「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性 山口浩
http://synodos.jp/society/1764

冷戦のツケをこんな処で払わされそうとは

以下ページに池田信夫氏が要約を載せているが直訳過ぎて、『放射能と理性』を読んだ人ならこの直訳でも誤解無いだろうが、読んでいない人には誤解を受ける可能性があると思われますので老婆心ながら意訳を試みるというか、解説を交えた読み下しにします。参考まで。
(当該インタビュー上でアリソン教授が語っていない付加された文言は、『放射能と理性』を読んで私が理解した内容から付加したものです。また字幕も結構ラフなので英語が聞き取れる人は英語を聴くようにして下さい)
尚、そのままでも差し支えないと判断した部分はそのままにしてあります。

池田信夫 blog : 原発の被災者は帰宅させよ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51753116.html

  • 被災地に見られたのは被曝の恐怖。問題は被曝自体ではなく、被曝の恐怖。これはICRPの勧告が誤っていることが起因している。
  • 冷戦時代には、冷戦構造および核の配備を正当化するために殊更に「核の恐怖」が過剰に喧伝された。これ故(人々の恐怖心も過剰に醸成された故)許容被曝線量をできる限り低くすること・・・自然界のレベルになるべく近づけないと人々を安心させることは出来なかった [1] 。この要請から出てきたのがICRPの勧告である。
  • 今は虚構ではなく現実的に「深刻なリスクなしにどこまで高い放射線が許されるか」ということを考えるのを要求されている。
  • この現実的ケースで想定される許容被曝線量は現在の1000倍ぐらい高い。
  • その現実的想定で考えれば帰宅できる。避難している人々は全員帰宅すべきだ。
  • 日本政府はICRPに従って年1~20ミリシーベルトを基準にしているが、これはバカげた低い基準だ。
  • 毎月100mSv、つまり年1200mSv、現在の1000倍が適切だ。ICRPの勧告を変えることが私の重要な仕事だ。
  • LNT仮説は、「針の上で何人の天使が踊れるか」というような神学論争。医療の現場では、放射線を何回にもわけて照射している。これは閾値があることを前提にしている。

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LNT仮説について知らない人は以下を参照してみて下さい。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/search?q=LNT%E4%BB%AE%E8%AA%AC

——–[ 脚注 ]—————-
  1. つまり核配備を正当化するために「1000倍誇大に核の恐怖を煽ったがために、安全基準も1000倍誇大にしないとバランスが取れなかった」という虚構基準であるということ

除染問題とイジメ

 あまりに下らない内容の番組(ニュースも含む)が多いので、あまりTVを観なくなっているのだが昨日久々にニュースを観ると、除染することがいつの間にか既定路線になっていて、どの範囲を除染するのか、除染する基準値の話になっている。
[1]
文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)

池田信夫氏などが何度も指摘しているように、福島第一原発のごく近い範囲(以下マップの赤色および半径10km圏内)を除くと健康に害をもたらす可能性は事実上ゼロ [2]・・・つまり除染の必要など無い(除染を正当化する科学的根拠は無い)のにも関わらずだ。
 よく落ち着いて考えてみて欲しい。国や地方自治体が動き出すのを待てずに自腹で自宅を業者に頼んで除染している人が散見されるというニュースを。
洗い流した汚水は下水道を経由して最終的には河川に流されるので、もし危険なレベルで放射性物質がそこに在るのなら国または自治体がこれに待ったを掛ける筈である。

池田 信夫:除染の前にLNT仮説の見直しを : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1381861.html

日本の「被曝限度」は厳しすぎる:日経ビジネスオンライン
オックスフォード大学ウェード・アリソン名誉教授インタビュー
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20111012/223166/

放射能と理性 なぜ「100ミリシーベルト」なのか (著)ウェード・アリソン 除染を正当化する科学的根拠は無いという点に関しての詳細情報は引用したページ(及びそこからリンクしている関連ページ)を参照して頂くとして私のしたい話は別の処にあります。
除染をして欲しいという福島県中心および近隣地域の人の気持ちは人情として分かります。何か得体の知れないものが付着している環境で暮さないといけない気味悪さ、気持ち悪さ [3]

 しかしよくよく考えてみると、科学的根拠が無い・・・つまり「実害が無い」もの・・・にムードや気分(つまりは感情=主観)で拒否反応しこれを忌み嫌う行動様式というのは、学校等で「○○キモい!」 [4]とイジメの行動の一環で「ああ!この鉛筆○○が触ったから、もう使えないわ!」と言ってゴミ箱にポイと捨てる、「この席、○○が座ったから座るの嫌だ!」と言って違う場所に座る・・・などの行動様式と根っこの部分で一緒だということです。
これは当然、風評被害を醸成するもの(マインド)にも当て嵌まります。
「風評被害だ!」と自分たちが被害者側に回るケースに於いては言い立てておいて、その同じ口で「除染!除染!」と言っている、そのご都合主義さに気づいて欲しいのです。
論理的にそうする正当性がないのに排除・排斥をしようというのは当然「差別」とも密接に関連します。

 この原因として福島第一原発事故の遥か以前から家庭衛生商品を売っているメーカーが「滅菌・殺菌商品」を売る一環で「身の回りには目に見えないけども、これだけ沢山のバイ菌が在るんです! [5]」とCM内で、CMを出稿している番組内で取り上げさせて人の恐怖心を煽って、これに付け込んで商売をしているというのも挙げておくべきかと思います。
身の回りに目に見えない多くの細菌が棲んでいることは嘘ではありません。事実です。 事実ですが、では、これがどの程度を超すと健康に悪影響があるのか、逆にどの程度までは事実上無害で気にする必要が無いのかという話は綺麗サッパリ抜け落とさせて、「細菌=汚い、不衛生=身の回りから排除すべき」というイメージ誘導をしているという点に注意を払わないといけないのです。
 少し本題から逸れますが大事なことなので記述しますと、「細菌類は問答無用に排除すべき」という考え方は医療現場でも過去のものになってきています [6]。 イソジン等の消毒液は人体に共棲している定在菌まで殺してしまう事から寧ろ傷の治りを遅くしたり、傷の治り具合が汚くなるなどが判ってきていて、褥創(いわゆる「床ずれ」)などにも生理食塩水または精製水で洗浄するのがスタンダードになってきています。 また、身の回りの細菌も、掃除機を掛ける、拭き掃除するという常識的程度以上に滅菌、殺菌しない方が、程良く細菌が居ている方が(特に乳幼児の場合)免疫作用が日常的に程よく刺激されることから寧ろ健康に益するということが判ってきています [7][8]

 話を本題に戻して、福島県中心に近隣地域に微量とは言え放射性物質が降り注ぎ残存しているのは事実です。が、この量は冒頭に述べた通り大半の地域で健康に悪影響が出る可能性は事実上無視出来る程度の小さなものです。
 この「小さな差異」を許容出来るかどうかの問題。 このマインドの問題は先に述べた通り「差別」を醸成し助長するのと共通するマインドの問題です。

 経済的問題 [9]として除染に反対し警鐘を鳴らしている知識人は多く居ますが、これは心理学的観点での問題でもある点を私は指摘したいのです。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)より引用
  2. 塩分の摂り過ぎ、肥満など日常的にありふれたリスクを下回るので事実上無視出来るという意味
  3. これ自体無知から来ているものだという点には注意を払って欲しい
  4. ○○にはイジメの対象の個人名が入る
  5. 細菌という言葉よりバイ菌という言葉を好んで使っている点に注意
  6. イソジン等の消毒液を傷口に消毒に使っている不勉強な医師は未だ残っていますが
  7. 犬猫等を飼っている家庭とそうでない家庭との比較で疫学調査をした結果アトピー発症に有意な差があった。など。但し、何れもアトピーが発症してから後にその環境にした場合の有意性はかなり低下するとされる
  8. 余談の余談ならが、微量の放射線は寧ろ健康増進なるという説もあります。また、上述の細菌類と免疫の関係からの(少し飛躍した)類推仮説として「限度を超えない範囲での微量の放射線に曝されている方が、それに相応する体内の防衛機序は寧ろ高まるのかも知れない」と言える気がしないでもないです。
  9. 除染費用は将来世代に重く伸し掛かる負担であり、これ以前に既に莫大な財政赤字(借金)を抱えているのに加えて負担増をするのは言語道断

「空気」の汚染の方が遥かに怖い

前から、そして今も思っていることなのですが「氏名」「住所」「出身校」・・・この程度の情報が果たして「個人情報」なのか?という疑問。
いや、個人情報と言えば個人情報の内です。確かに。
ではありますが、他人に知られて特段不都合がある、この意味での「プライバシー」という範疇に入れて良いのものなのかどうかという疑問です。

この10年くらい、この「個人情報:プライバシー」というものにヒステリックな過剰防衛的に世の中全般がなっているという実情があり、これってよくよく落ち着いて考えれば結構というかかなり異常なのではないか?と思うのです。

あなたがよほど有名人・・・特に芸能人であるとか・・・であるなら何処に住んでいるのか知られるとストーキングの心配があるとか、分かるのですが、一般人が何処に住んでいるか知られた処で、先ず以てそのこと自体に興味を示す人は皆無に近いと言えるし、況してやストーキングの心配など交通事故の被害者になる確率より低いと断言できます。
一般人がストーキングに遭う可能性があるのは「それ以前に何処の誰で何処に住んでいるのかを知らせている相手から」であり、「何処の誰かも知らない見ず知らずの人から」の場合は限りなくゼロに近いと断言して良いと思われます。

「一般人が有名人並みに自意識過剰になっている」と言えば言いすぎでしょうか? [1]

この「私」という「自意識過剰」さは、いま巷に蔓延している放射用汚染に対する “非科学的” かつ “非論理的=感情的” な「安心と安全を混同した [2]」ヒステリックな反応と根っこの部分は同じなのではないか?と思うのです。
実際「汚染」と呼ぶには余りにも笑止なくらい微量の放射性物質が飛散したに過ぎないわけで(以下に引用の画像中の赤色および非彩色の10km圏内を除く [3])。文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)

中島聡氏の「空気」論法 : 池田信夫 blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51747180.html

「私」を最大限拡大した「人の命」論法は、この(昨今の)日本人の多くが持つ自意識過剰さを心地よく擽り「悲劇のヒロイン病」に仕立て上げる。
いや反対に、「悲劇のヒロイン病」にいつでも罹患できる素地である自意識過剰さを持っているから、「私」を最大限拡大した「人の命」論法に簡単にコロっと騙されるのだ。と思います。

さようなら大江健三郎 : アゴラ
http://agora-web.jp/archives/1378824.html

今は表舞台から姿を消した上岡龍太郎氏が20年以上前から言っていた言葉を思い出します。

それ自体は本質的に正しいので誰も正面切って反論を加えにくい、誰の目にも明らかな倫理則、道徳律・・・「親を大切にしましょう」「人の命は尊い」「子供達の未来を…」「愛」「平和」「人権」・・・という言葉を正面切って主張する人間は信用してはいけない。当人は正義のつもりで言っている場合が特に危険である。

この自意識過剰さは真性の意味で自意識過剰なのではなく実に歪んだ病的な自意識過剰さであることは、本名登録であるFacebookが、全世界的には凄い規模で支持され拡大を今なお続けているのに比して日本では敬遠する人が多いのに代表されるのに表れていると言えます。 真に自意識過剰ならば、自分の名前はより多くの人に知られたいと思う方が自然だからです。
見立て様によっては、自分は何処にいるのか他人に察知されない陰に隠れて影響だけは最大限及ぼしたいという実に姑息かつ陰湿な自意識過剰さと言えるでしょう。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「具体的誰かではない他人から監視されているような気がする」というのは一歩間違えば統合失調症者の持ちがちな被害妄想(念慮)に非常に近いと言えますが、今したいのこっちの方向の話じゃないので置いておきます。
  2. 安全は客観的つまり科学的に線引き可能ですが、安心は感情=マインドの問題なので極端な人のそれはご本人自らで解決して貰わないと誰もどうするこもできない
  3. 文科省の航空機モニタリングによる空間線量マップ(8月28日現在)より引用

狂人と賢者を分ける線

かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?: 竹林の国から
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-6d73.html

 この記事が参照とし、この記事を書く発端となったと記事中に明記している
「池田信夫 : 脱原発という「空気」 : アゴラ → http://agora-web.jp/archives/1382641.html」
へのトラックバックから池田信夫氏が「一読推奨」とtwitterで本記事を紹介していたのに機会をもらって読んでみた。

 その主論旨は主論旨で「なるほどなぁ」と考察を深める良い情報を与えて貰えたと思うのだが、それはそれとして心理カウンセラーとしての視点として、この本文中に述べられている「自己義認 [1](自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神 [2]、」を設定 [3]し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義 [4]するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくりであるという点に注意がいく。
 だからといって、明治維新の志士たちが統合失調症だったとか、戦時中の軍部(少なくともいわゆる青年将校たち)に統合失調症者が含まれていたなどという、そういう安直な話なのではなく。
 その結果状態は異常と言わざるを得ない統合失調症であるが、その機序のそもそも・・・統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い・・・という観点から、社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に [5]、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか? 個人的見解の域は現在出ていないが、これは多分「イノベーションを生み出す能力の呼び水となる力動」になり得るものであろうと考えている。
この考えが正しいなら、その結果を分ける分水嶺を見極める智慧はないものか?もし、それを見極めることが出来たなら破壊的改革 [6]を避けてイノベーションを拾える機会を社会的に増やすことが出来るのであろうと、希望的観測混じりではあるが、こういう問題提起が出来るのである。

 これについて、どうこう一ヶ言を述べれるほど考えは纏まっていないので、これは自分自身に対しての問題提起でもある。

 

 また、先日書いた記事「“個” の思想は欧米礼賛なのか」で述べた、あの時代(太平洋戦争に向かう前駆的時代)に、そしてややもすると現在でも、誤解というよりは無理解に近い誤彪を犯している「“個” の思想」に対する誤った理解が、どう誤っているのかの一端もここで読み取ることが出来る。

その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」
 これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

彼の言葉を援用して私の言いたかったことを再構成すると、「自己義認」認識の自己のそれぞれが主張をするという構図・・・引用記事中に云う「プロテスタント病」・・・が「“個” の思想」だ、と誤彪しているフシが少なからず日本人の間に散見されるということである。
これだと確かに疲れるし、カオス状態である。このカオス状態を治めれるのは「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」になってしまう。
そうならない社会を目指すのには真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付けることが大事なのではないか?ということである。

これはC・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセスに他ならないのだが、「意識化」「個性化」の意味を神秘主義的オカルトなものに曲解、歪曲、捏造したものを喧伝する者が後を絶たないので、C・G・ユング自身の思想、主張自体が神秘主義的オカルトなものであるように広く世間一般に思われているのは実に残念、、、いや残念を通り越して憤りさえ覚える。 [7]

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「義認」とはキリスト教の中核概念で「神により義とされる事」(教理的解釈は教派によってかなり異なる)であるが、ここでは「自分自身(自己)によって自分自身を義とする」・・・「暗黙に自分自身を神と前提している」という意味で使っている
  2. 世間一般の通念での「神」であるとは限らない。神格化しているものは勿論、そうであると意識されていなくても事実上神同然のものも含む。「およそ “~ism”(主義)と名の付くものは全て宗教である」・・・C・G・ユング
  3. 具体的実在から最適と思わるものを選択する場合と仮想的、夢想的なものである場合を含む
  4. 「私の奉ずる○○(神、天皇 etc)は絶対正しい。何故なら絶対正しい私の奉ずる○○だから。故に私は絶対正しい。何故なら奉ずる○○が絶対正しいから」という完全なる循環論法。なので本文中では「発端」という言葉を使ったが、これは文章構成上の都合で使ったに過ぎなく、実はどこが発端なのかわからない
  5. 我々人間は我々自身を一個の生命体だと考えがちだが多数のモジュールが集積重合したもの…という話はあるが今は話題が逸れるので機会を改める
  6. 改革のつもりが破壊に向かってしまう致命的誤り
  7. この点に興味のある方はC・G・ユングの原著(訳書で構わない)を是非読んでみて下さい。間違っても「ユングの解説書(除く:林道義氏のもの)」は読んではいけません。
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