橋本行政改革の胆(キモ)の部分

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20120115 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 part1 投稿者 kigurumiutyuujin

何かと話題になっている2012年1月15日 報道ステーションSUNDAY 橋下市長が生出演 橋下徹市長と山口二郎教授の討論

【報ステなう。】報道ステーションサンデー「橋下徹×山口二郎」感想まとめ – Togetter :
「橋下氏完勝」とか「山口教授フルボッコ」とか橋下氏の痛快な物言いに溜飲を下げる気持ちはわからなくはないが、そういう痛快さに喝采を送るのがナチスのマッチポンプになった事は忘れてはならず、あまりそういった方へ力点が行って欲しくない。 [1]

池田信夫氏が端的に、また大西宏氏はより細やかに分析指摘してくれているが、私なりになぞり直してみる。
今回の討論の主眼だと思われる教育制度改革であるが、各氏の主張を抜粋要約すると以下の通り。

山口氏:
  • 教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない
  • 親とかが「あの教師をクビしろ」とか言い出したら教育なんか出来ない
  • MPの排除などというがそんなことは出来っこない
  • 教師を止めさせろなんて言わせたら歯止めがない
  • 橋下氏:
  • 有権者を愚弄した発言です
  • 保護者、子供がチェックできないなんてそんなわけない
  • MPを排除する仕組みは(別途)作る
  • 保護者と学校が協議をして(個々の学校ごとに個別に)目標を作れるようにする
  • 先ず細かい点から話を切り出すと、山口氏の「教育サービスを受ける側が100%の判断できるわけがない」という「100%論理」・・・これ、どこかで聞いたことありますね。そうです、絶対を求めて可能性、確からしさ一切を否定し去る例の論理です。
    それはそれとして、これは反論になっていない。何故なら橋本氏は「親、子供に100%判断を任す」などとは一切言っていなく「チェック機能一翼を担ってもらう」と言っている以上でも以下でもないからである。
    また「モンスター・ピアレント(以下MPと略す)の存在が怖い」という意識が、この発言の下地になっているわけだが、確かにその危惧は全くないと言えば嘘になる。が、これには橋本氏も「MPを排除する仕組みはちゃんと作る」と言っているわけであるが、この部分での二者の齟齬は結構大きく、この齟齬に決定的なものが潜在していると私は考えます。
    自分が親の立場になって考えてみて欲しいのですが、自分がその学校、教師をチェックする委員等の役に就いたとして、するとこれは責任ある立場なので、それまでは無責任に「あの○○先生はダメだ」とか「あの○○教頭はクズだ」などと言っていたとしても、責任ある立場となればそれに相応しい責任ある行動をしようとし出すのと思いませんか? これが普通の人間の心理なのです。
    実際、多少とも実情を調べてみたことの在る方なら同意頂けると思いますが、いわゆるMPと呼ばれている、またはそう周囲からは見做されている親御さんの大部分は、学校または個別の教師のお粗末または誠意の無い対応に問題解決の持って行き場がなくなってMP化しているケースなのです。つまり、この大部分の方々は、問題解決の場が出来たならMPじゃなくなるのです。MPじゃなくなるだけでなく、こういう親御さんの方が寧ろ子供のこと、子供を取り巻く環境のこと、学校のあり方などに関心が高い人が多く、積極的に参加できる場を提供するならば建設的にその意欲を活用してくれることが期待できさえするのです。(意欲、パワーが有ればこそ、それがプラスに使える場が閉ざされているとマイナスに出力されるのである)

    実は、この(心理を含む)ことを理解していて制度設計をしている橋下氏と、「MPは何処まで行ってもMPだ」と決め付けている、つまり「MPをMPじゃなくなる方策がもしあるのなら」という設問を立てて考えてみたことのない山口氏というかなり大きい齟齬。
    この事が理解されるならば、残るMPは極少数の「真に人間的に問題のそもそもある人」だけなので、これの排除は容易。

    最後は一番肝心な部分で、これは教育制度改革に留まらず、橋本行政改革、ひいては国政レベルにおいても改革して貰わないといけない問題で。

    橋下氏;
    「決定する民主主義」「責任をもつ民主主義」ということになれば、これだけ国民価値観が多様化した成熟した日本国家に於いては議論をして全会一致、全員一致することなんて出来ない、だから誰かが決めなきゃいけない。その決定する権限を与えるのが選挙なんですよ

    橋下氏の発言をちゃんと聞けば分かる通り、コンセンサスを得ようと努力をした上で得られなかった時の最終決定権はどこにあるのか、誰にあるのか(誰が最終責任をもつのか)を定めようとしているだけである。 つまり、これを明確にしていないと、コンセンサスを得られなかった場合は決定できない・・・先送りにされ現状維持に・・・ことになり、これは現状維持派つまりは既得権限・権益保持者に極めて有利に働くシステムなのだと指摘し、これを改めようとしているだけである。 コンセンサスしたくない人は「コンセンサスをしない」という「拒否権」を行使すれば良いだけで、しかも行使とは言っても「いや、それはまだ時期尚早」「議論が十分煮詰まっていない」と穏便で尤もらしい理由を挙げるだけで済むので楽なのである。
    この「100%コンセンサス・システム」は、既存の状態が満足できる状態である内はこの仕組みでも(問題は表面化しないという意味で)問題ないが、変化、変革を大きく必要とされた時に事を前に進められない足枷になることは今や考えなくてもわかることでしょう。池田信夫氏が「過剰なコンセンサス」と書いているのはこれのこと。
    これに対して独裁に繋がる、だからハシズムだ、と批判(というより非難)をしている勢力は『「コンセンサスをしない」という「拒否権」』を手放したくない勢力であることは今や誰の目にも明らかになってきている。
    独裁に繋がる可能性があるというのが「論理的にゼロではない」という意味では確かに一理なくはないが、親子関係のアナロジーで考えるとわかりやすい。 最終決定権は親が持っているという意味では親と子は平等ではない。しかし普通にまともに民主的な親ならば、子供が或程度以上に意思決定できる能力を着けてきた以降は、子供の意見に耳を傾けるし場合によれば子供の方が優れた意見でこれを採用するということもする。つまり「決定権」というのは、何でもかんでも全て親が独断で決めるという意味ではなく、「子供の意見を採用する」という選択肢も含めて最終的に決定するのは誰かという点で「親だ」というだけで、または「コンセンサス形成などと悠長なことを言っていられない緊急時」に「誰が責任者かを明確にしておく」という以上でも以下でもないのである。
    このアナロジーで考えるにハシズム批判をしている人達というのは、普通にまともじゃない専横的な親のもとで育った人なのじゃないかしら?と穿った見方もしてしまいたくなる。
    橋本氏の動静を見守っていよいよこれは独裁と呼んで差し支えない毛色を帯びてきたぞ、と思ったら次の選挙で落選させれば良いだけである。これは橋下氏自身言葉の端々に上らせており、これから推察するに橋下氏は「この人に任せておけば安心」と一般選挙民が「お任せ感覚=無関心」になられるのが一番怖いのだと、選挙民の関心を政治に引きつけ続けておきたい、選挙民が政治に関心を持ち続けていくのが民主主義が正しく維持される必須条件で、これを成功体験として選挙民に身に沁みて分からせようとしているのではないか? そうすることで民主主義が日本に初めて根付くと考えているのではないだろうかと思えてならない。刺激的、挑発的言辞を少なからずしている氏ではあるが、「不必要にマイナス・イメージを作っている」と支持者側からも批判のある中、そんなことの分からないほど愚か者で氏がある筈もなく、これはつまり政治への関心度のそもそも低い人の関心をも惹きつけておこうとする計算が充分働いていると考えるべきかも知れない。もしそうなら「あっぱれ!」と言うしかない。
    これに気付くと、この男、我々の想像するより遥かに壮大なことを考えているのではないか、と思えてくる。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. こういう衆愚がハシズムに仕立て上げてしまう危険性は警戒すべきなので、喝采を起こるのも程々にしておいて欲しい。橋下氏ご自身はこういう危険を重々承知していて、この上での言動のようだが。詳しくは後述

    リスク管理とは:或る科学ジョークを引いて

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    『原発危機と「東大話法」』:池田信夫氏「安冨歩氏への反論*」の分析(1)〜(5)
    http://ameblo.jp/anmintei/entry-11132924003.html
    リンクは(4)へのもの

    池田信夫 blog : 安冨歩氏の知らないリスク・コミュニケーション*
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51767689.html

    ニ氏のやり取りを一通り読んで、或る結構有名な科学ジョークを思い出した。

    男性の数学者とエンジニアを女性と一定の距離で向かい合わせて
    「じゃんけんで勝ったら、彼女との距離の半分進むことができる」と告げたら、
    数学者は「それじゃあ永久にじゃんけんを繰り返しても彼女との距離をゼロにできないということではないか!」と半ば怒り調子で嘆いた。
    かたやエンジニアは嬉々として「或程度回数じゃんけんに勝てば、望むことを実行するに実用上問題ない(十分な)距離まで彼女に近づける!」と言った。

    「論理的にゼロと証明できないものはゼロではない」という点に拘って終始している安冨歩氏と、「実用上無問題とみなして良い」と主張している池田信夫氏という構図である。
    主張していると言っても、ちゃんと(その他の関連する記事も含めて)読めば分かる通り、池田氏は主観的個人の意見を言っているのではなく、客観的信頼に足るデータを積み重ねてそう主張している。
    更に安冨歩氏の主張する
    「(1)低レベル放射線被曝による深刻な障害の発生を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
    「(2)浜岡原発周辺で大規模な地震が起きて事故になる可能性を否定するデータはないので、安全側に立って判断すべきだ。」
    というのは一見すると尤もだと思うかも知れないが、科学リテラシーが一定以上ある人にはご存知の通りこれは「悪魔の証明」と呼ばれるもので・・・「ない」ものの証明は原理的に不可能で、背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明するしかないが、これ自体「ないものを証明」したことには(実用上なっても)原理的にはなり得ない・・・これを要求している点。この要求をしている段階で「私は科学リテラシーが欠如しています」と宣言しているのと同義である点に注意しなければならない。
    かたや池田氏は「背反するであろう「ある」ものの積み重ねによって間接的に証明」は充分以上にしている。

    いま我々が必要としているのは「論理的にゼロかどうか」論ではなく、「実用上問題無いといえる線は何処かを見極めること」であることは、論じるまでもない話だと思うのだが。

    リスク管理については以下が非常に有益な視点を与えてくれます

    SYNODOS JOURNAL : 「ゼロリスク幻想」とソーシャル・リスクコミュニケーションの可能性 山口浩
    http://synodos.jp/society/1764

    尾崎豊を引き合いに出して語る朝日新聞の社説

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    尾崎豊を引き合いに出して語っている朝日新聞の社説が「痛い」とtwitter上で話題になっている。

    社説 http://www.asahi.com/paper/editorial20120109.html?ref=any#Edit2

    確かに痛いと思う。しかし私がこう思うのは朝日の社説のみならず「痛い」と宣っている意見の殆どに対しても。だ。
    あれほど多くの人に受け入れられ支持されていた、とみえていたののに、これほど多くの人に尾崎豊の主張が理解されていなかったのだと分かり愕然としている。
    (もちろん、尾崎ファンの人全ての発言を読んだわけではないし、そもそも尾崎ファンの人全てがtwitterで発言しているわけではないだろうから、期待も含めてその他の多くの人は理解しているだろうとは思うが)

    尾崎は単なる反抗、反骨精神・・・安保やら東大紛争やらの「反抗のノスタルジー」を歌っていたのではない。
    確かに時代として、安保やら東大紛争やらの「反抗の時代」の一世代後の時代で「あの反抗は一体なんだったの?」という馬鹿らしさ半分の自虐的反省のムードが漂っていた時代で、上っ面だけを読み取れば「若者よ再び怒りの剣を取れ!」と言っているように読み取れるが、尾崎の訴えかけていた力点はそこにはない。
    大人社会や体制に反抗するのは若者の特権であり通過儀礼である [1] 。反抗することで軋轢が生まれ、その軋轢を契機にして大人になっていくためのみならず大人の側も変化していける通過儀礼・・・つまり若者の側だけの通過儀礼なのではなく社会全体の新陳代謝の為に必要な通過儀礼なのである。
    社会全体の新陳代謝になるには、若者の「反抗というパワー」を真正面から受け止める「反抗するに値する」大人社会、体制が存在していないと駄目で、これがまともに存在していないじゃないかと、若者の反抗心、反骨精神の持って行き場が無いじゃないかと、つまり「大人達よ、もちっと若者が反抗するに歯応えのある社会を作ってくれよ」と歌っていたのである。

    「じゃないと大人になるになれないまま年齢だけ大人になっていく大人が蔓延した社会になっていくよ」と訴えかけていたのだと私には思え、実にその後の今の時代を見事に言い当てているではないか!

    この大人になるになれないまま年齢だけ大人になっている大人が尾崎を引き合いに出して訓示を垂れているのは確かに痛いが、問題の本質はそこではないのである。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 若者が大人社会や体制に反抗するのはいつの時代にも存在する普遍的な通過儀礼である

    中国化する日本 (著)與那覇 潤

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    歴史を学ぶ意味は二つある。
    人間という生き物は「物語化」を常に欲求している。それはつまり「いま私が生きている意味」であり「これからも生き続けていく意味」である。 これは必ずしも客観的事実に基づいている必要はない、実に心理的な意味付けである [1] 。 であるが、空想の中だけで自分の蓋然性を確保できるほど標準的な我々の日常的に駆使できるイマジネーション力は豊かではない [2] ので、過去を参照して今の自分に繋がっている “自分の物語” を紡ぎ出すのである。 これが一つ目。

    もう一つは、同じ過ちを繰り返さない為・・・これが優等生的解なのだが実際は「歴史は繰り返す」の言葉通り同じ過ちを人類は幾度も繰り返している。「歴史いくら学ぼうが起こることが起きるときには避けられず起こる」という宿命論的いわゆる歴史のサイクル性は確かに存在すると言えるだが、現在〜未来に活かすために歴史に学ぶ。それも現在の都合に合わせた解釈ではない、この意味での客観的歴史研究がなされるようになったのは実はそう古くないのである。
    19世紀、下手をすれば20世紀半ばまでキリスト教圏ではキリスト教的世界観を意識的or無意識的に前提として歴史を解釈していてその残滓は今でも結構根強く残っている。日本に於いても明治政府の皇国史観に明に暗に影響を受けてバイアスの掛かった歴史観が喧伝されたのは割と有名だし、そもそも江戸時代までは歴史というのは物語として面白く書かれることが上等とされ、これは世界各国をみても殆ど同じで史実をそのまま語っている書物は少ないのである。
    かといって、歴史も含め後世に残る情報という次元での情報を為政者が或程度以上コントロール出来ていた時代じゃなくなったならば事実を我々が見通せるようになったのかというと、情報については自由度がかなり上がったと言えるインターネットが普及した今の時代になっての状況は、デマ情報も結構多いという事実は脇に置いても(事実だと判断される情報だけに話を絞り込んでも)「情報の断片」ばかりがやたらに多いという状態。その情報自体は事実であるとしても、それらを只むやみに寄せ集めても真実に近付けないのからも分かる通り、情報を見通していくための知恵というか着想のようなもの(事実をうまく繋いでいける糸のようなもの)が大事なのである。

    [amazonjs asin=”4163746900″ locale=”JP” title=”中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史”]この意味で本書は非常に有効な着想を提供してくるものだと言える。
    著者本人がtwitter上で「登ったら捨ててよい梯子のようなもの」と発言しているように「歴史を読み解くためのツール」として実に有用。
    その行き着く先という意味に於いては後者の姿勢でも、その先で前者「いま私が生きている意味」「これからも生き続けていく意味」に繋がってくる処が歴史の面白いところ [3]

    『「勝ち組」と「負け組」との格差を当然のものとして肯定する市場原理主義がまかり通り』など主題ではない部分に「ちょっと、その決め付けおかしいんじゃないの?」と疑問に思う部分が割とある(読む人が読めば「読者を惹き付けるためのフック [4] 」だとわかるのだが)が、主論に於いては説得力は充分ある。 タイトルも含めてこの種のフックが少なくないので読解力の無い読者に曲解される、または意図的に歪曲して引用される危険性も無くはないなぁと余計な心配はするが。

    先日の拙エントリー「中国人を馬鹿にし過ぎ」で述べた中国人の「金に対する敏さ」「商魂たくましさ」を醸成した一つの大きい理由は、本著の述べる宋代以降中国の伝統となった「経済活動の自由度の高さ」と「思想信条に於いての(逆に)自由は皆無」の状態が同居したことだと説明が付いて個人的にはスッキリと目の前の靄が晴れた感じがした。

    本書も指摘するように封建制時代と我々が漠然と思っている武士の時代、これを正しく見通すことで現在に至る日本の歴史的道筋が見えてくるのだが、はてさてそれでは我々はそれを正しく知っているだろうか? 我々が武士道と呼んでいるものの主体が、明治時代になって江戸時代以前を振り返って純化された「明治という時代のための物語」だと知っているだろうか? [5]

    個人的には織田信長がしようとしていた事、目指していたコンセプトは、その当時も、そして今もかなり誤解されていると以前から思っていたのだが、この考えを改めて強めた。

    2011年11月21日 15:35:勢いで書いたので後で読んで言葉不足を感じた点を加筆(文意に変わりはない)。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 夢の中に意味が見出せる場合があるのはこれ故であるが、意味のある夢が意識側の都合に合わせて出てきてくれることは滅多にない。
    2. これが意識的に出来るなら間違いなく小説家になれるであろう
    3. 余談だが映画「タイム・ライン」は面白いでっせ
    4. 「読者の興味をひきつけるための刺激的なキーワード」という意味。つまり筆者の真意は其処にはない。
    5. 江戸時代に武士道と呼べるものが無かったという意味ではない。在るには在ったが我々が今日認識している(少なくとも世俗一般の)イメージは随分違うのである。

    大阪市政のこれから…橋下氏と平松氏

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    私は橋下氏および大阪維新の会支持である。
    その実現しようと提言している内容も概ね賛同できる。
    細かい点に於いては異論点も無くはないが、一番肝心な点で橋下氏は○、平松氏は×だと判断を下している。
    この根拠として先ず以下を精読頂きたい。

    池田信夫 blog : 効率の高すぎる政府
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292556.html

    この記事で述べられている旧来型の日本で主流の組織、集団のあり方「閉じた系の中での “ご互さんゲーム”」が既に時代の趨勢として通用しなくなっている(それが寧ろ経済停滞の主原因になっている)システムであるという点は国政だけでなく大阪市政、大阪府政に於いても全く同様に当てはまる問題である。
    「国が変わるのを待っていたらそれより先に地方が沈んでしまう」というのが橋下氏の基本的問題意識 [1] で「ならば、関西圏で独自に変わってしまおう」というのが彼および大阪維新の会の一番根っこにあるコンセプトである。
    では、どう変わるのか、どう変えるのかという設問が次に自ずと出てくるわけであるが、これを理解するために以下もご精読頂きたい。

    池田信夫 blog : 局所効率化と全体最適化
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292560.html

    ここで述べられている「コーディネーションの失敗」が正に国、地方を問わず経済界をも巻き込んだ大問題として膠着状態に陥っているのが現在の日本の姿であるわけだが、これから抜け出す方策(引用文中で言う「Bの山(局所最適)からAの山(別の局所最適)へ移動」する方策)は同じく文内で説明されている通り「部分的な修正」「時間を掛けて徐々に変化」では不可能なのである。 大事な点なので同文章内から吹き出すと、

    一つの均衡から他へのシステム間移行は、市場メカニズムで行うことはできず、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こるということになる。ところが同質的なメンバーで構成される関係依存型の「総動員体制」では、突然変異や撹乱が抑制されるので、システム間の移行は困難になる。しかも危機に直面すると、「日の丸検索エンジン」のように、逆に総動員で既存のシステムを守ろうとする傾向が強い。

    だから前の記事にも書いたように、行政の中だけの局所的な効率化を考えていてはだめで、全体的な最適化を考える必要がある。それは市場だけではできないので、重要なのは意図的にシステムを撹乱し、さまざまな実験を行って最適解をさがすことだ。そのために役所にできる最善の政策は、規制を撤廃して行政の代わりに資本市場のガバナンスにゆだね、紛争を事後的に低コストで処理する司法的なインフラ(ADRなど)を整備することだろう。

    箇条書に要約すると

    1. 局所均衡から抜け出すのには市場メカニズムだけでは不可能
    2. なぜならば、局所均衡の恩恵に浴している者(既得権益保持者)は他に「より良い局所均衡がある」と分かっていても今ある既得権、今まで費やしたコスト [2] の見返りの可能性を失う方を恐れて頑な反対勢力になりやすい(サンクコストの問題)
    3. であるので、政権交代や「金融ビッグバン」のような不連続な変化によって一挙に起こすしか選択の余地はない
    4. この後は、さまざまな実験を行って最適解をさがす状況が出来るよう行政の事前介入(規制)を無くす必要がある
    5. その代わりに資本市場のガバナンスにゆだねる
    6. 資本市場のガバナンスにゆだねると必然的に起こってくる問題はあるが、これは司法的なインフラで事後的に処理するべき
    7. この為、司法的なインフラの整備は必須

    簡単に言えば、問題があると既に分かった局所最適=Bの山は意図的に潰して [3] 平地にしてしまえば別の局所最適に向かわざるを得なくなるので、第一段階として「Bの山を潰す」必要が、そしてこれに次ぐ第二段階として新たな局所最適に向かう過程は基本的に自由競争(市場原理)に委ねるので「事後的チェック機能=司法的なインフラ整備」は必須ということである。

    本題に戻って、「大阪市職員と協調的に穏便に改革を進めていく」と方針している平松氏の主張は日本人的には「美しく」感じられ、かたや抜本的かつ一挙に改革をしようと提言している橋下氏は「強引」で「乱暴」だと感じている人も多いだろう。 しかし上述の論を読まれた後では今や状況として「強引」で「乱暴」とも受け取れる [4] 改革をするしか選択の余地が(少なくともこのまま凋落したくなければ)無いのであるとお分かり頂けるであろう。 かたやの平松氏の方針は、ご当人がその意図で動いていないとしても結果的に、既得権益保持者を温存することであるのは明白であるのみならず、中途半端にいじろうとすると寧ろ混乱が増すという点で×なのだ。

    いま状況が必要としている改革が「強引」で「乱暴」なもしかないのであって、橋下氏個人が「強引」で「乱暴」なのではないということ。この点を履き違えては大局を見失う。
    然るに、ものの見事と言って良いほど、反対勢力(既得権益保持勢力)は「ハシズム」と呼称して橋下氏個人を「強引」で「乱暴」な独裁者であるかのように論理をすり替えて有権者の反感感情を呼び起こすキャンペーン [5] を張っているのは、何をかいわんやである。
    また同じく反対勢力が独裁的と攻撃している公務員制度改革であるが、これも内容をよく検討すれば「事後的チェック=司法的なインフラ」を整備すると言っている以上でも以下でもないのである。
    このように概観してみると橋下氏が提言している内容は考え方に一貫性があり、かつ時代の要請に沿ったものであると結論付けられる。
     以下も参考になります。

    「大盛り上がり」大阪決戦で問われる改革は「アメリカ型」か「EU型」か | 高橋洋一「ニュースの深層」
    http://gendai.ismedia.jp/articles/-/26364

    池田信夫 blog : 日本の経済システム改革
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292557.html

    本題を離れてより本質的なことに言及すると、上述の論を読んで頂けた後ならば、これは大阪市&大阪府だけの問題ではなく、また日本の国政の問題なだけでもなく、我々日本人が文化的に好しとしてきた・・・解決策を考えるよりも問題がそもそも起こらないよう思考(志向)しやすい性質であり、これはイコール問題が起こると直ぐに規制(事前介入)強化をお上に期待・要求する思考法・・・考え方(美意識も含むかも知れない)が変革を余儀なくされているという問題意識をも持って頂けると思う。
    特に教育関係者諸氏には上述の論と共に以下に引用する記事中の

    私は大きな失敗はよくないと思うが、小さな失敗はむしろ好ましいと思う。イノベーションは、小さな失敗の積み重ねだ。イギリスの産業革命は、試行錯誤と失敗から生まれたのだ。これは「ブリコラージュ」と呼ばれる発見的な過程だ。あなたは小さな失敗を積み重ねることによって新しいことを発見するのだ。 だから日本人は、小さな失敗を許すべきだ。

    という言葉をよく噛み締めて頂きたい。「小さな失敗」に神経質になることが「大きな可能性」の芽を摘んでいることに気付いてい欲しい。

    池田信夫 blog : タレブ、福島事故を語る
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51742840.html

    2011年11月17日 00:52 一部加筆(文意は変わっていない)
    2011年11月18日 19:32 追記:一部twitter上で意味を取り違えて炎上している人達が居るみたいなので念の為に補足すると、皆で登っている木に喩えると「今までの木(局所最適B)」は腐ってきていて、部分修正や部分補強での時間稼ぎ(問題先送り)でどうにか凌げるレベルをもうとうに過ぎてしまっているので「より最適な(少なくとも今よりはマシな)木」に「登り直そう」と言っているのが橋下徹氏である。であるので今までの木の上の方に登っている「いい目をしている」人達はいつまでも降りようとしない(のは或る意味当然だが)上、問題が深刻化してきている現段階となっては木から降りるよう呼びかける穏便な手法を取っていられる時間的猶予は最早無くなっているので「古い木を切り倒す強行策に打って出るしかなくなっている」のが現状であるということ。「木にしがみついて降りようとしない人達」から見えている風景は「自分達が登っている木を切り倒そうとする乱暴者」に映ることは容易に想像できよう、が、この現状認識さえわかれば「いつまでも降りようとしないお前達が悪い」という話であることはお分かり頂けよう。 対して「木から降りるよう根気よく説得を続けていく」と言っているのが平松氏なのだが「今までの木(局所最適B)」に満足している人達はそれが完全に破綻するまでそこから離れようとしないというのは歴史が教えるところで、時間的猶予が全く無くなっている現在では最悪の選択なのである。 新たな木に登り直す時に不平等が出ないように機会均等の所々の知恵も同時に提言している点からみても橋下氏は木を切り倒そうとしているだけの乱暴者ではないことは明白。また、新たな木に登り出してみてはじめて認識できる所々の問題 [6] が出てくるであろう予想は出来るわけだが、これについても「実際の運用に際してのルール作りは柔軟に」と橋下氏は表明しているので、全然暴君でも独裁者でもないのである。
    念の為に更に付言するなら、腐り始めていてこのままでは危ない木は「もっと腐っていよいよ倒れ始めた時には被害者は遥かに多くなる」ということ、つまり「その時には、今手を打てば救える人をも救えなくなっている」ということを強く認識するべきである。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. はじめて大阪府知事選に出馬する段階で表明している
    2. 仲間に入れて貰おうと費やした努力等も含む
    3. しまわないとその山の上に居るものはいつまでも降りようとはしないので。また、この山を形成している要件の中に行政の事前介入(規制)も含まれていることに注意されたし。
    4. 特に既得権益保持者には
    5. 情緒的反応を呼び起こして大事な論点から有権者の目を逸らせてしまう「はぐらかし戦法」
    6. 登り出してみないとわからない問題

    中国人を馬鹿にし過ぎ

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    またもTPPネタ。
    但し本丸の方はもう決着したと言えるので枝葉の話 [1]

    今回のTPPに纏わる報道を観ていて違和感を感じた一つに、消費者団体 [2] が「食の安全が脅かされる」とTPP反対を表明していた点がある。
    これの根拠として中国製冷凍餃子中毒事件を挙げているという幼児性。
    相前後して発覚した日本国内の食品偽装問題、食品汚染事件をみて分かる通り「信用できる業者と信用できない業者がある」という事実。これを延長して「中国にも」「信用できる業者と信用できない業者がある」という考えてみれば当り前の中学生にも分かる話になる筈が、どういうわけだか国境の外の話になると「中国の食品(農産品を含む)は全て危ない」という飛躍した話になる。

    社会主義の負の面として、真面目にいい仕事をしようがいい加減に仕事をしようが同じ労働に対しての対価は基本的に同じという側面から、なるべく楽をして(手を抜いて)仕事をする方が賢いというモラル低下が共産党支配になってから顕著になり今もその余波が残っているのは確かで、この意味で総体的に比べたら「いい加減、または不正な仕事をする人および企業」は日本より中国の方がパーセントにして今までのところ高いであろうという推定はたぶん間違っていない。
    ただここで注意すべきは「パーセントとしては日本より低いかも知れないが真面目にいい仕事をする人および企業はゼロではない」という点と「今までのところ」という点である。
    実際ここ数年をみていると中国産の製品(農産品を含む)のクオリティーは眼を見張るくらいに向上してきている。
    これは何故かというと簡潔に言えば「それで金になる」と学習した中国人が増えてきているからである。

    実に粗い大雑把な捉え方ではあるが、その国の国民性というか、その国の国民(民族?)の大きなレベルでの行動原理が何に支配されているかというのを端的に言い表すと、中国は「金治」の国だと言える側面があり・・・つまり「金(経済)によって治まっている国」なのではないか?というのが私の見立てである。
    日本では「拝金主義」と言うと99%悪い意味にしか受け取られないだろうが、これを「金に応じてプロフェッショナルに徹しようとする主義(または態度)」だと捉え直すならば「応分の経済的利得が確保される限りに於いて応分の努力、責任を果たす」という自由主義経済圏に於いての経済人としての実に真っ当な感覚なだけであると分かる筈で、この意味に於いて中国人は「拝金主義」であると・・・つまり悪い意味も含むだろうが良い意味でも拝金主義・・・言えると私は考えている。
    つまり、以前の社会主義時代の悪癖から抜け出せないで相変わらずいい加減な金儲けをする者もまだまだ沢山居るが、「いい仕事をすれば金になる」と分かった者がいい仕事をし出して、その数も増えてきているということである。
    以上は状況等を客観的に観察した私の推測に元々は過ぎなかったのだが、これを中国の企業を相手に取引をしている会社に勤める友人 [3] 、知人にぶつけたところ「大筋で間違っていない」という返事が返ってき、また「金になると判った途端に眼の色が変わる彼らの向上心も含む貪欲さには敬服するものがある」という意見も貰っている。

    つまり私の言いたいのは、今までは確かにバカにされても仕方ない低レベルなことをやっていたのかも知れないが、いつまでもそのまま馬鹿にしている態度で正しいのか?ということである。
    実際、この設問自体既に過去にものになっていると私は思っている。
    つい4〜5年くらい前までは「日本の企業または個人が中国に進出してこの管理・監督下で操業していた会社は」という鍵括弧付きであったかも知れないが、今やそうではなくなってきている。

    もう20年以上前の大学生の頃に読んだ大前研一氏の本に「我々はご飯をいただく時に “お百姓さんに感謝していただきなさい” と躾、教育をされて大きくなってきた。これが海外の農業従事者になった途端 “商社が買い付けてくる買い付け先” に過ぎないという態度は正しいと言えるのか? 安全で美味しい食品を我々に提供してくれているのなら海外のお百姓さんにも等しく感謝するのが当然なのではないか?」という意味合いの [4] 一節があったのを今でも憶えている。 この一文は、よく考えもせず(無根拠に)なんとなく「日本の農家は信用できる」と思っていた自分のその考えが「そうとは自覚無しに国粋主義的・民族差別的に発想していたこと」に気付かされ当時非常にカルチャー・ショックを受けた。
    冒頭に引用した「食の安全が脅かされる」と表明していた消費者団体などは、またそれに喝采を送っている人達は、このこと・・・民族差別的、国粋主義的言辞であること・・・に気付いているのだろうか?
    また真に「食の安全」と言うのなら、「安全基準、衛生基準が決められていく過程も含めて “見える化” し我々のチャックが充分機能するよう」に要望するのが筋で、TPP反対ではない筈。

    念の為に付言しておくと、私はいわゆる媚中派ではない。上記の考察の通り「金にあまりにも敏過ぎる」ので個人的には好きにはなれない。
    しかし、その金に敏過ぎるマイナス面だけを言い立ててプラス面を無視するのはフェアではないと思うのである。

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. TPP是非論じゃないという意味で、この問題が重要じゃない枝葉末節の話という意味ではない
    2. の全てか幾つかだけかは知らない。そこまでちゃんと調べていない
    3. 月に何度も中国に出張している人。経営者も含む
    4. 一字一句正確な引用ではない

    改めてTPPには大賛成

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    その後色々と勉強した結果、以前に書いた記事
    楽観的TPP賛成論は嘘だ、が
    の内容は一部誤解される可能性が低くない記述があると後日読み直して思いましたので補足かたがた訂正をします。
    一番参考になった [1]のは以下

    「食料自給率40%」は大嘘!どうする農水省|食の安全|JBpress
    http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/4098

    以下も参考に

    「食料自給率40%」の虚構さえ見抜けぬマスメディアの不勉強 日本のマスメディアは「公衆の番犬」ならぬ「既得権益の番犬」か?
    http://diamond.jp/articles/-/3878

    池田信夫 blog : TPP参加による消費者の利益は生産者の損失より大きい
    http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51751984.html

    「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは事実だが、大半(八割方)の農業は壊滅するだろう・・・
     「むしろ日本から輸出できる農作物もある」というのは調べてみると、日本国内で生産している農産物で輸出できる付加価値性の高いもの [2] が結構あるという意味だけでなく、海外に出て行って最適地の現地農業従事者を組織&指導して国際競争力のある農産物を作るに至れる(つまりアグリカルチャ企業になり得る)だけの農業経営ノウハウを持っている農業従事者は結構居るという意味も含んでいると理解するのが正しいようです。
     また、引用記事中に「厳しすぎる国内の品質基準を国外市場の基準に合わせるなどすれば、輸出だってどんどんしていけるでしょう」とあるように、国産農産物がコスト高になっている一因は「過度に安全・安心を要求する消費者」が法的規制や安全基準(どちらも「過度の」)を要求してきた歴史の積み重ねにあると・・・つまり日本人自らが同胞の農業の国際競争力を奪っておいて農協の「自国の農業を守れ!」というプロパガンダにいとも容易く情緒的に同調してしまうのって激しくおかしくないですか? それも「安全・安心の美名の下に」・・・これって何かと似ていません?

    脚注に書いた「TPP加入すると短期的には失業者が急増することはほぼ確実」も、その後調べていく内に「かなり怪しい」と思ってきました。 より正確に言い直すなら「TPP加入すると改善する雇用と逆に増える失業とプラスマイナス・ゼロで。この結果、短期的には今の良いとは決して言えない雇用情勢は横ばいのまま暫く続くであろう」という処が妥当のようです。

    つまり、TPP自体は結構楽観視して良いみたいと、見解を修正致します。(さすがに池田信夫氏のように「大した問題ではない」とまではよぉ言いませんが)

    と、ここまで書いていた處へ新たな記事が舞い込んできました。

    農水省はなぜTPPをきらうのか : アゴラ
    http://agora-web.jp/archives/1399407.html

    あっそうか! 主要穀物は農水省が直接買い付けているという話、知ってたくせに忘れてたわ。あっそか、そっか、、、という感じ。

    となると、将来世代(今の子供達以降)にとって活躍できる可能性であるフィールドは少しでも広い方が良いという当初からの考えは変わらないので、これを理由にTPPには大賛成。
    この言辞は、TPPは端緒に過ぎず、将来的には中国、タイ、インドとその領域を広げて行って、より風通しの良い環境が出来ているという将来像を想定して言っています。

    ここまで来るともう余談でしかないですが、、、以下も併せて読むと農協関係がプロパガンダを吹き込んで医師会 [3] も徒党に巻き込んでいる様が見て取れます [4]
    日本農業新聞 e農ネット – 医療自由化目標 「入手していた」 米国文書で厚労相
     http://www.agrinews.co.jp/modules/pico/index.php?content_id=10331

    TPPで国民皆保険も崩壊し、医療難民が続出する | JAcom 農業協同組合新聞
     http://www.jacom.or.jp/column/nouseiron/nouseiron110214-12528.php

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. ソース的に信頼できると判断した
    2. 日本で生産する限り高コストは避けられないので高い値段でも売れる高付加価値のものでないと生き残れない。例えば魚沼産コシヒカリなどは生き残れると個人的に予想する
    3. 普段エビデンスにうるさい医師達がエビデンスが不確かなもので声明を発表しちゃうのもどうかしらん?と思う。医師一般の信用問題もなると思うのだけどな。
    4. つまり、医師会の云う「日本の医療崩壊の危険性」というのも大嘘

    狂人と賢者を分ける線

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    かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?: 竹林の国から
    http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-6d73.html

     この記事が参照とし、この記事を書く発端となったと記事中に明記している
    「池田信夫 : 脱原発という「空気」 : アゴラ → http://agora-web.jp/archives/1382641.html」
    へのトラックバックから池田信夫氏が「一読推奨」とtwitterで本記事を紹介していたのに機会をもらって読んでみた。

     その主論旨は主論旨で「なるほどなぁ」と考察を深める良い情報を与えて貰えたと思うのだが、それはそれとして心理カウンセラーとしての視点として、この本文中に述べられている「自己義認 [1](自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神 [2]、」を設定 [3]し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義 [4]するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくりであるという点に注意がいく。
     だからといって、明治維新の志士たちが統合失調症だったとか、戦時中の軍部(少なくともいわゆる青年将校たち)に統合失調症者が含まれていたなどという、そういう安直な話なのではなく。
     その結果状態は異常と言わざるを得ない統合失調症であるが、その機序のそもそも・・・統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い・・・という観点から、社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に [5]、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか? 個人的見解の域は現在出ていないが、これは多分「イノベーションを生み出す能力の呼び水となる力動」になり得るものであろうと考えている。
    この考えが正しいなら、その結果を分ける分水嶺を見極める智慧はないものか?もし、それを見極めることが出来たなら破壊的改革 [6]を避けてイノベーションを拾える機会を社会的に増やすことが出来るのであろうと、希望的観測混じりではあるが、こういう問題提起が出来るのである。

     これについて、どうこう一ヶ言を述べれるほど考えは纏まっていないので、これは自分自身に対しての問題提起でもある。

     

     また、先日書いた記事「“個” の思想は欧米礼賛なのか」で述べた、あの時代(太平洋戦争に向かう前駆的時代)に、そしてややもすると現在でも、誤解というよりは無理解に近い誤彪を犯している「“個” の思想」に対する誤った理解が、どう誤っているのかの一端もここで読み取ることが出来る。

    その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」
     これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

    彼の言葉を援用して私の言いたかったことを再構成すると、「自己義認」認識の自己のそれぞれが主張をするという構図・・・引用記事中に云う「プロテスタント病」・・・が「“個” の思想」だ、と誤彪しているフシが少なからず日本人の間に散見されるということである。
    これだと確かに疲れるし、カオス状態である。このカオス状態を治めれるのは「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」になってしまう。
    そうならない社会を目指すのには真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付けることが大事なのではないか?ということである。

    これはC・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセスに他ならないのだが、「意識化」「個性化」の意味を神秘主義的オカルトなものに曲解、歪曲、捏造したものを喧伝する者が後を絶たないので、C・G・ユング自身の思想、主張自体が神秘主義的オカルトなものであるように広く世間一般に思われているのは実に残念、、、いや残念を通り越して憤りさえ覚える。 [7]

    ——–[ 脚注 ]—————-
    1. 「義認」とはキリスト教の中核概念で「神により義とされる事」(教理的解釈は教派によってかなり異なる)であるが、ここでは「自分自身(自己)によって自分自身を義とする」・・・「暗黙に自分自身を神と前提している」という意味で使っている
    2. 世間一般の通念での「神」であるとは限らない。神格化しているものは勿論、そうであると意識されていなくても事実上神同然のものも含む。「およそ “~ism”(主義)と名の付くものは全て宗教である」・・・C・G・ユング
    3. 具体的実在から最適と思わるものを選択する場合と仮想的、夢想的なものである場合を含む
    4. 「私の奉ずる○○(神、天皇 etc)は絶対正しい。何故なら絶対正しい私の奉ずる○○だから。故に私は絶対正しい。何故なら奉ずる○○が絶対正しいから」という完全なる循環論法。なので本文中では「発端」という言葉を使ったが、これは文章構成上の都合で使ったに過ぎなく、実はどこが発端なのかわからない
    5. 我々人間は我々自身を一個の生命体だと考えがちだが多数のモジュールが集積重合したもの…という話はあるが今は話題が逸れるので機会を改める
    6. 改革のつもりが破壊に向かってしまう致命的誤り
    7. この点に興味のある方はC・G・ユングの原著(訳書で構わない)を是非読んでみて下さい。間違っても「ユングの解説書(除く:林道義氏のもの)」は読んではいけません。

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