「適度」な大きさがあるというのは何でだろう

No Comments

さっき、つぶやいたとこなので二階屋を建てるエントリーなのだけど、、、


3 → 3G の時も、4 → 4S の時も出てきたほとんどBuzz Wordな話題であるとは言ってしまえばそれまでだが。

弾さんのコメントを援用するまでもなく、、、Galaxy S II を買った(買わされた?)老年の知り合いに「使い方がイマイチ分からんので教えてくれ」と頼まれて(「なんでiPhoneユーザのわしが教えなアカンのや!」とは言わずに)操作してみたことがあるのだが、文字通り「手に余る」のを実感した。 ほんの1センチちょっとの差なのだけども、この「ちょっとの差」で実に大きいと感じる。

人間には、或る範囲、または或る領域に於いて「やたらと敏感な帯域」(と「そうでない帯域」)があって、、、例えば青色(藍色、紺色)、或程度以上大量生産されている製品だとロットが違えば厳密には全く同じ色目というのは有り得ないわけで、我々がそれを同じ色と感じる許容範囲に納まっていると「同じ色」としてもらえる(察知できないのだから同じ色と言って差し支えない)。という約束事で現実は成り立っている訳だが、そのアイテムが定番商品で長い期間、同じ品番・型番で販売されている場合など特に(こういう場合愛用者が多いということもあって)「以前買ったのと色が違っている!」とクレームが発生しやすいのが青色だと、青色の場合が特にその色目が違うと敏感に察知されやすいということが,特に色目の違いが問題とされやすいアパレル業界ではつとに有名。
で、しかも、これの厄介な(場合によれば「便利な」でもあるのだが)点は、単に察知される(察知できる)か否かの問題だけではないという点・・・つまり、察知しても然程気に留めずにスルーできる要素とスルーできない要素があるということ。 スルーできる要素は、違いを最初察知しても時間の経過と共に「慣れる」こと=「なかったことにしてしまえる」のだが、スルーできない要素はその違いを無視することが、かなり努力しないと出来ない。
[amazonjs asin=”4534045220″ locale=”JP” title=”小飼弾の 「仕組み」進化論”]
「片手で持って、手の中で操作できるかどうか」も,これと同じくほんの些細な差で許容できる/できないのが決ってくるのだろう。

こう考えてみると、平均的に体格の東洋人よりも大きい欧米人文化圏でデザイン検討されているものなので、彼らに合わせてもう少し大きい(日本人からみれば大き過ぎる)サイズに落とし所があっても良さそうになのに、このサイズでそもそも出てきたことに注意を払うべき。
私の見解は(手の中の操作範囲に於いては)「内的イメージ(脳内イメージ)は実サイズには依拠せず、然程差なく同じサイズなのではないか」なのだが、如何だろう?

formデータの取り出し時 Encode.pm を使ったちょっとした工夫

No Comments

Perlのバージョンが5になるかならないかの頃に作った送信フォームPerlスクリプトを「そろそろいい加減UTF-8化しないとなぁ」と思って、use CGI すらしていなかった(古っ!)シロモノだったので殆ど抜本的に作り直していて、、、「まぁ、こんなもんか(取り敢えず)」というとこまで辿り付いたので、ハッカー諸氏の「ツッコミという名の添削(|| s/ツッコミ/添削/g )」を期待して。

use strict;
use warnings;
use utf8;
use Encode;
use open ":utf8";
binmode STDIN, ':utf8';
use CGI;
use CGI::Carp qw(fatalsToBrowser);
my $eucjp = Encode::find_encoding('eucjp');
my $utf8 = Encode::find_encoding('utf8');

#----------------------#
# フォームDATAのデコード #
#----------------------#
sub CGI_decode{
my $q = CGI->new;

my @keys = $q->param();
foreach my $key (@keys)
  {
  my $value = $q->param($key);
    if($main::debug_mode==1){$main::sample_str1 .= $key.'<>'.$value.', ';} #debug用テキスト収集
  my $utf8 = Encode::find_encoding('utf8');
  $value = $utf8->decode($value);
    if($main::debug_mode==1){$main::sample_str2 .= $key.'<>'.$value.', ';} #debug用テキスト収集
  $value = initdata::jp_hankaku_trans($value);
    if($main::debug_mode==1){$main::sample_str3 .= $key.'<>'.$value.', ';} #debug用テキスト収集
    $main::in{ $key } = $value;
  }
}

先ずformから送られて来たデータをデコードしつつバラして取り出すルーチン。 $in{ } で括りたがるのなんかコード書き出した時「Kent Web さんのソースのコピペ」から始めたのが丸バレのコードですが。
ツッコんで欲しいのは「$q->param() した@keys をforeachループで連想配列に入れたがる」のは古い記述なのかどうか。もっと 冴えた|モダンな 書き方が在るのかどうか。
ウェブで調べても「CGI.pm 使って my @keys = $q->param(); で取り出す」という記述だけは在るのですが、「汎用性のある」「フォームデータの取り出しルーチン」を、と考えると、key 値はその時毎の送信元HTMLによって違ってくるわけだから、取り出すルーチンの側で変数名を決め打ちできない。のでフォームデータの分解は「受け取った値で key=>value しといたよ!」というかたちになっていて欲しいので、こういう形式にしたのですが、、、どうざんしょ?

それと eucjp、utf8 それぞれの「Encode::find_encoding()」の記述は冒頭に宣言してしまってグローバル・スコープ的に使ってしまう使い方で良いのかどうかもご意見頂きたく(「そんなことしたらメモリー無駄使い」とか「処理速度が遅く(|速く)なる」とか、、、あれこれ)。


外字の処理をする

次に「最終的にiso-2022-jpメールにして送信」を前提として、Encodeの応用として所謂 機種依存文字(正しくは「プラットフォーム依存文字」と云うべき)を以下のように判定しつつエラー表示を返すルーチンを考えてみた。
utf-8のテキストをちゃんと表示してくれるメール・クライアントを使っている人が多くなってきている(少なくとも、Mac OS X 10.5以降、Windows Vista以降、iPhone、Android OS では)ので「メール本文はutf-8で送っちゃって良いんじゃない?」という意見も今や無謀な意見ではなくなってきているとは言え、まだ「iso-2022-jpにして送っておいた方が安全」ということで。
少し巡りくどい引き回しかも知れませんが、Encode.pm でeuc-jpに(sjisでもiso-2022-jpでも構わない)変換を通過させると変換からDropする文字は第三引数に渡してくれて別途処理をさせてくれるという便利な機能を流用します。で、Dropしなかった(使って差し支えない)文字はutf-8に戻すという流れになっています。

元アイデア:404 Blog Not Found:perl – Encode 中級
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51047005.html

sub CGI_decode{
my $q = CGI->new;
my @keys = $q->param();
foreach my $key (@keys)
  {
  my $value = $q->param($key);
  my $utf8 = Encode::find_encoding('utf8');
  $value = $utf8->decode($value);
  $value = omit_izonmoji($value);
  $value = initdata::jp_hankaku_trans($value);
    $main::in{ $key } = $value;
  }
 if ($initdata::gaijiflag){
	initdata::error('プラットホーム依存文字(機種依存文字)を使わないで下さい。',"<p>プラットホーム依存文字(機種依存文字)は、<br />貴方のと違う環境では文字化けして意味不明になる文字です。<br />ブラウザーの「戻る」で戻って<br />プラットホーム依存文字(機種依存文字)を削除または非プラットフォーム依存文字に修正して下さい。</p><p><span style=\"color:#ff0000; font-size:14px !important;\"><b>丸・括弧囲み文字、ローマ数字など</b></span><br />が代表的なプラットホーム依存文字(機種依存文字)です。</p>",'','inquiry_cgi_izonmoji');
 }
}
sub omit_izonmoji {
my $str = shift;
#my $eucjp = Encode::find_encoding('eucjp'); #グローバルで宣言していない場合必要
#my $utf8 = Encode::find_encoding('utf8'); #グローバルで宣言していない場合必要
$str = $utf8->encode($str);
  Encode::from_to($str, "utf8", "eucjp", sub {if (Encode::FB_XMLCREF){$initdata::gaijiflag = $_[0] } } );
  $str = $eucjp->decode($str);
  return $str;
}

どれがプラットフォーム依存文字だか分かるようにする

単にエラーを返すだけだと「どれがプラットフォーム依存文字だと分かっている」人じゃないと不親切(わかっている人はそもそも外字を入力したりしないだろうし)なので「これがプラットフォーム依存文字ですよ」と表示してあげるのが良いだろうと考えて以下のようにコードを追加。

sub CGI_decode{
my $q = CGI->new;

my @keys = $q->param();
foreach my $key (@keys)
  {
  my $value = $q->param($key);
  my $utf8 = Encode::find_encoding('utf8');
  $value = $utf8->decode($value);
  $value = omit_izonmoji($value);
  $value = initdata::jp_hankaku_trans($value);
    $main::in{ $key } = $value;
  }
 if ($initdata::gaijiflag){
	initdata::error('プラットホーム依存文字(機種依存文字)は使わないで下さい。',"<p>プラットホーム依存文字(機種依存文字)は、<br />貴方のと違う環境では文字化けして意味不明になる文字です。<br />ブラウザーの「戻る」で戻って<br />プラットホーム依存文字(機種依存文字)を削除または非機種依存文字に修正して下さい。</p><p><span style=\"color:#ff0000; font-size:14px !important;\"><B>丸・括弧囲み文字、ローマ数字など</B></span><br />が代表的なプラットホーム依存文字(機種依存文字)です。</p><p>あなたの入力した内、以下が外字に該当します:$initdata::gaijiflag</p>",'','inquiry_cgi_izonmoji');
 }
}
sub omit_izonmoji {
my $str = shift;
#my $eucjp = Encode::find_encoding('eucjp'); #グローバルで宣言していない場合必要
#my $utf8 = Encode::find_encoding('utf8'); #グローバルで宣言していない場合必要
$str = $utf8->encode($str);
  Encode::from_to($str, "utf8", "eucjp", sub {if (Encode::FB_HTMLCREF){$initdata::gaijiflag .= chr($_[0]).", ";}});
  $str = $eucjp->decode($str);
  return $str;
}

最初 if (Encode::FB_HTMLCREF){ 以下の部分で $initdata::gaijiflag .= $_[0]; としてしまっていて数字の羅列がprintされ「あれ(・_・?)」となってしまった。というのは

Encode::from_to($str, "utf8", "eucjp", Encode::FB_HTMLCREF);

とした場合「数値文字参照:&#nnnn; 形式」で以降の処理に渡されブラウザ表示上では普通に表示されていたので、そのまま持っていけば良いと思っていたら、文字列処理を通過させてしまうと「純粋に十進数(|十六進数)になってしまう」みたい。
ということで chr() してやって文字コードに戻してやらないといけないと。
因みに、これを $str = $eucjp->decode($str); すると「Wide character in subroutine entry」と怒られます。一つ前の処理で $utf8->encode() しているのでutfフラッグは立っていないと思うので、この挙動はイマイチ納得できない(エライ人の解説希望!)。(euc-jpへの変換からDropしているのでutf-8のままであるとは分かるのですが、、、)


おまけ:全角英数字を半角に && 半角カタカナを全角に

sub jp_hankaku_trans{
my $after=shift;

    $after =~ tr/ !”#$%&’()*+,-./0-9:;<=>?@A-Z[¥]^_`a-z{|}/ -}/;

{
  use Encode::JP::H2Z;
  my $eucjp = Encode::find_encoding('eucjp');
  sub hankaku2zenkaku { 
    my $str = $eucjp->encode(shift);
    Encode::JP::H2Z::h2z($str);
    $eucjp->decode($str);
  }
  sub zenkaku2hankaku { 
      my $str = $eucjp->encode(shift);
      Encode::JP::H2Z::z2h($str);
      $eucjp->decode($str);
  }
}
hankaku2zenkaku($after);
}

前半:全角英数字を半角には

Perl用、日本語「全角」→「半角」変換ルーチン – adiary開発日誌 http://adiary.blog.abk.nu/0263

から、
後半:半角カタカナを全角に

404 Blog Not Found:perl – 勝手に添削 – utf8環境でperl::Jcodeのtrが使えないとき http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51693618.html

から丸々借用です。


追記:2012年5月8日19時56分
Encode::FB_HTMLCREF の代わりに Encode::FB_XMLCREF と記述すると16進数表記になるわけですが、FB_XMLCREF とする場合は、Encode.pm のバージョンが中途半端に古いと(ver.2.10~2.12)上手く動いてくれない場合があるという情報をDankoghaiさんの別のページで見付けましたので念の為、補記しておきます。

404 Blog Not Found:perl – Encode::from_to() and fallback options
http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/50502791.html

この場合、以下の通りにすると良いみたいです(手元環境のEncodeは最新版なので未検証)。

sub omit_izonmoji {
my $str = shift;
my $eucjp = Encode::find_encoding('eucjp');
my $utf8 = Encode::find_encoding('utf8');
$str = $utf8->encode($str);
  my $check = ( $Encode::VERSION < 2.13 ) ?  Encode::FB_XMLCREF() : Encode::XMLCREF();
  Encode::from_to($str, "utf8", "eucjp", sub {if ($check){$initdata::gaijiflag .= chr($_&#91;0&#93;).", ";}});
  $str = $eucjp->decode($str);
  return $str;
}

維新の会は支持層の「何を支持しているのか」を見誤ると支持を急速に無くす

No Comments

ここ二週間くらいTVは見ていなく、特に政治のニュースはウェブ記事でも参照してなかったので浦島太郎的エントリーだが、小沢一郎氏のことを持ち上げるコメントをtwitter上でしていたり、橋下氏および維新の会は本格的に中央政界進出を目論んでいると思わせる情報が飛び交っているようだが、過去記事で橋下氏支持を表明している私としては一言云っておかないといけないと思う。

大阪市民、大阪府民には、ここ最近のトレンドなのではなくかなり以前から根強く「東京と一線を画したい」という気持ちがあり、これは正確には「永田町・霞が関と縁を切りたい」であり別に「東京人嫌い」という話ではない。
経済取引相手としての東京圏は無視出来るほど小さい相手ではないので付き合っていきたいが、もしこれが中央政府の影響込みなのならば東京圏とも距離を置きたいというのが本音である。
繰り返すが、ここでいう東京とは「実在の東京という場所」のことでもなければ「実在の東京に住む人達」でもなく「永田町・霞が関」のことである。

私の観察する限りに於いても「大阪独立を目指す」と明言しているからこそ橋下氏を支持している人達が多く居るのだと思われる。
私自身の考えは憲法を含む最低限のものを除いて独自法を制定しての関西道を作ってしまえ(国連の一議席も取る)というものだが、ここまで過激なものを指向している人は少ないだろうが、調度良いタイミングでエントリーされた池田信夫の提案する「チャーターシティ」 なら支持する人は多い、というよりは支持しない人は少ないのではないだろうか?

[amazonjs asin=”4492521224″ locale=”JP” title=”大前研一「新・資本論」―見えない経済大陸へ挑む”]
同エントリーで池田氏も述べている通り、国内でのパイの分配争いをしている時代ではなく、国境を超えて香港やシンガポールまたドバイなど都市単位で競い合う時代なのである [1] 。 国単位の覇権争いをしている時代は終わって都市単位で競い合う時代に入っているということ、また、なぜ香港・シンガポールなどが国際的に繁栄しているのか考えて盗めるアイデアはいくらでもあるということ、各地域地方が国際的舞台に直接立った方が国全体としても豊かになれること自体は20年以上前に大前研一氏が指摘している。

もちろん、中央政界進出をちらつかせたり等は、中央政界の政局をコントロールしたい駆け引きの一環である可能性も大きいが、こういう政局的駆け引き自体が支持層に嫌われ急速に支持を失う可能性が小さくないことを、もっと橋下氏は認識すべきである。

こういう政局的駆け引ばかりをやってきてる国会議員連中にもういい加減うんざりしている。これが大阪市・府民のみならず日本全国民の大半が抱いているであろう気持ちである。
それに、独自政策をやっていくには現行法が壁となってあちこちに立ちはだかることは事実だが、法改正から着手していくのは手続き論としては正しくても、現行法を盾にとって政策を潰し政治家を身動きできない狭路に閉じ込めるのが霞ヶ関官僚の伝統的常套手法である点に鑑みれば [2] 、そこに入っていくのは実に危険極まりない。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. というより国境に呪縛された発想で居続けていると沈んで行く
  2. 実際、自民党も民主党もこの手に掛かって自滅している

非正規雇用($value) = s/貧乏/貧乏でない/g

No Comments

誤った世論が形成される(既にかなり誤った世論が形成されており、これが助長されると言う方が正しいが)と思うので批判を加えておきます。

あなたの隣にもいる「貧困女子のビンボー生活」 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/32064

以前にも「現象としての男女差別を駆逐しても女性は幸せになれない」で紹介した以下

池田信夫 blog : [中級経済学事典] 評判メカニズム

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301157.html

を読んで頂ければ分かる通り、「非正規雇用==貧乏」∴(ゆえに)「s/非正規雇用/正規雇用/g するのが正義」という論は間違いで、「非正規雇用($value) = s/貧乏/貧乏でない/g」にするというのが論として正しいのです。

つまり「非正規雇用を貧乏たらしめている社会システム(日本の病理)が問題」なのであって「非正規雇用であること自体が問題」なのではないという点。
つまり(「つまり」を繰り返す悪い癖 ;)「”正規” 雇用」という概念自体が、日本の場合が特に、差別システム(特権階級温存システム)として機能しているという点に気付かないと駄目なのです。「特権階級」とは当然「既得権益保持者」です。

もっとハッキリ言ってしまうと、「私は正社員(正規雇用)です」と仰る人は全員「既得権益保持者」なのです。

この日本という社会は、官に限らず民に至るまで広く既得権益保持者温存を強く促す「カルテル(談合)体質」に出来ているということ。
このカルテル体質が「貧乏と云うほどまでではないという意味での普通で居られるはずの人」(貧乏になって当然と言える「救うべきでない貧乏」ではない人)までも貧乏にしているというのが現実。


2012年3月21日21時09分:追記
「いまいちわからない(わかりにくい)」というお声を頂きましたので、Perl(プログラミング言語)の正規表現(の拡張)の説明は以下をご覧下さい。
http://homepage2.nifty.com/sak/w_sak3/doc/sysbrd/pe_k08.htm (「■置換演算子」の項目)

2012年3月22日2時04分:追記
6年も前にこんな良書が出てたのではないか!  三周以上遅れのバカ>自分
[amazonjs asin=”4334033709″ locale=”JP” title=”若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)”]


子供まで老後の心配をさせるべからず

No Comments

明日の心配は明日に任せ明日の心配をしないで、今日と目一杯に付き合う・・・これが子供たち、若者達の特権であり美徳である。
たとえ、それが目先の快楽(ゲームとか)に夢中になっているだけ・・・刹那主義的だと大人の眼からは見えても、それを取り上げたり、否定してはいけない。

時間を忘れている彼等にも、夜は更けて来「明日のために寝なければならない」時間はやってくる。
ので、寝るよう促し、諭し、叱り、ときに怒鳴りつけなければならない。

但し、これは「時間を忘れる彼等の美徳」を認め、尊重するが故に。「明日には “今日になっている明日”」に生まれ直しまた精一杯付きあう為のケジメとしての線引きをしてやること、であることを忘れてはならない。
間違っても「明日に備えて」・・・明日の心配を今日にさせるように・・・彼等の美徳を否定するためではない。

明日の心配を今日にするようになると、明後日の心配も今日に。明明後日の心配も、一週間後の心配も、一ヶ月後の心配も、半年後の、一年後の、五年後の、十年後の、、、死ぬまでのことも心配し出して人は老いていくのである。決して年齢を重ねることに拠ってではない。

若いウチ、子供のウチから老いる必要はない。また老いさせてはいけない。
それは、彼等の特権を取り上げ、美徳を棄てさせることに他ならない。

ルールを守らなくて良いと、ケジメ感覚を付けさせなくても良いと、野方図に生きさせて良いと言っているのではない。
若者が若者らしく、子供が子供らしく生きれる「のりしろ」を残しておいてあげなければ、そして、大人がこののりしろを塗りつぶしてしまってはいけないと言っているのである。

こののりしろを大人になっても自分自身で塗りつぶせない(塗りつぶそうとしない)ヤツは落第だが、これを誰か他者に塗りつぶしてもらうヤツはもっと駄目になる。

そうと願うのが親心ではあるが、子供を優秀な大人に成らそうとする試みは、まず失敗するから、せめて「落第」「駄目」には成らさないようにしたいではないか。

謝辞:この言葉が湧き出てくる勇気、元気、覇気を与えてくれたのはdankogai(小飼弾)氏である。感謝致します。

将来の出来事を正確に予測する人に自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人が多い

No Comments

自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人ほど将来の出来事を正確に予測する! | 現代ビジネス [講談社]
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/31975

或る種の、それも大いなる誤解を呼ぶ伝え方で、この意味で間違っています。

正しくは「将来の出来事を正確に予測する人に自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人が多い」です。
言い換えると、高い信頼を置くに足る『「洗練された」情動や感覚』を持っている人は将来の出来事を正確に予測する人である可能性が高い、ということです。
つまり『”高い信頼を置くに足る”「洗練された」情動や感覚を持っている』かどうかが最重要ポイントで、これはつまり、意図してかせずかは何れにせよ、情動や感覚が洗練される努力・訓練を経てきている(意図している場合)、情動や感覚が否が応にも洗練される環境に(たぶん若い年齢期に)身を置いていた、の何れかだとかなり強気で断言できます。

裏返せば、洗練されていない情動や感覚は信頼するに値しないし、この洗練されていない(未熟な)情動や感覚に信頼を置く人は単に「思い込みの激しい人」「勘違い野郎」です。間違いなく。

この『「洗練された」情動や感覚』を指して「感情機能」とC・G・ユングは言っていました。また英語で云う「Feelings(感情)」はこの『「洗練された」情動や感覚』のことであるとも。 [1]
ただ、と同時に、15世紀に活版印刷が登場したのに端を発しその後今に至るまでの永きに渡って欧米文明の思想的大黒柱である啓蒙主義、これが論理思考を重視するあまり「Feelings(感情)」を軽視、蔑視する傾向が弱からずあり、これ故「Feelings(感情)」の洗練ということはあまり顧みられなかったし、その結果、洗練されず情動、感覚を野蛮なまま持っており、これを理性の仮面で覆い隠している、これが今日の標準的なヨーロッパ人だという批判を屡々していました。 19世紀後半〜20世紀初頭に欧米で一大オカルト・ブームが巻き起こった一因はこれに求めることができるとも示唆していました。
この事にC・G・ユングが気付いたのは、このオカルト・ブームに科学的にアプローチしてみて何か見えてくるものはないかと、いわゆる霊能者、超能力者とされる人(自称も含む)たちを研究・観察してみたところからでした。
研究してわかったことは彼等は概ね「金儲けの手段として錯覚、錯誤を利用したトリックを霊能・超能力だと称している詐欺師」「何らかの精神病理と診断される人(主にはヒステリー(当時の概念での))」「(それを霊能・超能力と呼んで良いのかの議論は保留しつつ)その能力があると判定せざるを得ない人」の三つに区分できるということです [2]
(ユングは精神科医でしたから第二群も研究対象にしたわけですが)第三群を研究してユングが発見したのは、これらの人たちはおしなべて「自ら進んで霊能力者であるとは言わない」「自ら進んでその能力を誇示したがらない」「その能力の他、知性的・理知的な人で論理性にも優れている」という点です。
あいだの経緯は書くと膨大になるので省略します(興味のある人はC・G・ユングの著書を何冊か当たって下さい)が、後年彼は「論理と感情(Feelings)は相反する二項対立的性質はもっているものの、論理か感情か?という二者択一的に捉えるのは間違いで、二者は車の両輪の如く協調、協力関係にあることで最大のレスポンスを発揮できる」「これ故、論理性の洗練も、感情(Feelings)の洗練も、どちらも共に必要」と考えるに至っています。

巷に「ロジカルシンキングのすすめ」と称する書籍、情報が溢れかえっている昨今ですが、現今までロジカル(論理)の訓練が全然なっていないと言える日本の社会に於いては、そのバランス上まずはロジカルの方へ力点を置くのは間違いではないとは思いつつも「ロジカルだけをいくら磨いても駄目ですよ」と言っておきたいです。いわゆる「頭でっかち」になるのがオチ。
気付いている人は気付いていると思いますが、論理と違って感情(Feelings)はそれを鍛えられる体系化されたカリキュラムのようなものが殆ど存在しないのです。また、カリキュラムのような体系化も出来るとは思えません。ではどうするのか? あくまで経験的にですが、「”ロジカルを盲信せずに” ロジカルを極限まで極めて行こう」とすると、これに連動して感情(Feelings)も洗練されてくる、と私は考えています。但し、決して「ロジカルを盲信しない」「感情(Feelings)を軽視・蔑視しない」という心構えは忘れてはいけません。

冒頭引用記事に戻ると、記事中からも推察できるように、理知性も或程度以上にハイレベルな人を研究対象にしていると思われ、つまりこれは前提条件として既にあり、この上であるので「自分の情動や感覚に高い信頼を置いている人ほど将来の出来事を正確に予測する」という纏め方になっているのだと理解するのが正しいと言えます。

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 日本語では何れも「感情」と言い表わすことが多いので混同 → 誤解の元になっていますが、英語では「Feelings」と「Emotions」は区別されますし、日本語に於いても両者を区別することに意識的な人・場合は前者を「感情」、後者を「情動」と言い分けます。
  2. その研究対象であるヨーロッパ文化圏内での話である点は留意する必要がある

女はムードに弱い?

No Comments

あなたはどう思われますか?
答えを先に言ってしまいますと、女はムードに弱くない、ムードに弱いのは寧ろ男のほうだ、こう私は思います。

どう思われたでしょうか、、、「うんうん」と頷いたでしょうか? それとも「そんなことはない! その証拠に女はデートする場所にしろ、エッチをする時にもムードを求めるではないか!」と反論したくなりましたか?
私見を述べれば、頷いた方の多くは女性で、反発を感じ反論したくなったのは殆ど男性でしょう。
「ムードに弱い」という言葉の意味するところの理解の仕方、適用範囲の差に、この二者の反応の違いの秘密があるように思います。
「ムードに弱い」という言い回しには「情緒的判断が何らかのかたちでムードの影響を受けやすい」という意味と「ムードによって不本意な結果に導かれやすい」という意味とが混在し、どちらに比重があるかは各人各様である、というのがホントのところでしょうが、大凡に前者の意味で「女性はムードに弱い」と言え、後者の意味で「女性はムードに弱くない」と言えます。

この二者の区別が出来ずに混同し、その気が全くない女性をムードで落とそうと、お洒落なカクテルバーに連れて行ったり、夜景の綺麗な所へドライヴに出掛けたり、涙ぐましい(しかし無駄な)努力を繰り返している男性諸氏は、少なくないのではないでしょうか?
”女性はムードでは落ちない!”この事を男性は肝に命じるべきです。 ムードで落ちる(と思える)女性は、既にあなたに好意を抱いているので、ムードに乗ってきてくれるだけです。
女性は恋愛に於いてプロセスを大事にします。 信用して良いひとかどうかを、じっくり観察するという事です。 この観察眼は、多くの男性諸氏が考えているより遥かに沈着冷静です。 実にクールです。 但し、勘違いしてはいけないのは、その判断は知的、論理的に成されるのではない、ということです。
ユングの言うところの感覚機能をフルに使い、感情機能で判断しますので、これは無意識下で、ある程度の持続性をもって成されます。 故に当の女性本人は、漠然とした「感じ」として認識しているに留まります。

この「何となくそう思う」というのも、心理学的には充分立派な判断機能であるですが、これが男性にはなかなか理解できない代物なのです。 経験的には「女の感は鋭い!」と知ってはいても、そのカラクリが判らないのです。 カラクリの判らないものを軽蔑する傾向を男性は持っています。 これは裏を返せば、自分の中のこの判断機能を軽蔑していることに他ならず、せっせと劣等感コンプレックス化を促進してゆくことになります。 いわゆる男らしい人が「女の感」を、その鋭さを認めつつも「結局のところ、それだけ動物に近いということだ!」とバカにするのは、この故です。 女性に言わせれば「動物並みにしか感を働かせることができないだけじゃない! その自分と同じとしか考えられない男のほうが、よっぽどバカよ。」という事になるでしょうか。
劣等感コンプレックスと云うものは、その劣等化された機能が憑依的に作用する、という特性を持っています。
「何となくそう思う」というのは、言い換えると「ムードを判断する能力」「ムードから読み取るべき情報をキャッチ出来る能力」と言って差し支えありません。
これが憑依的に作用した状態が「ムードに流される」というやつです。

女性全てが「ムードを判断する能力」に長けているわけではありませんが、総じてこの能力に長じていると考えて良いです [1] をし、男性全てがこの能力を劣等化しているとは限りませんが、総じてそうであると言えます。

女性は、意図的に作られたものも含め、ムードから読み取れるものを判断材料に、意志決定をしますから「ムードを大事にする」のです。 ムードを判断抜きに、そのまま受け取ってしまうのは男性のほうで、故に「ムードに流される」のです。
女性がムードに流されているように見える時は確かに存在します。 しかし、これは「流されている」のではなく、「流されてくれている」のであって、明確な意志が底の方に存在するのです。
ここの処を理解せずに、ムードを盛り上げる演出をすると、自らの演出に男性は酔ってしまい、独りだけ盛り上がってゆき(当の男性は女性も盛り上がっていると勘違いするのが常)取り残された女性は、逆にドンドン白けていってしまいます。
ムード演出にお金と時間を費やすより、女性に安心感を与える努力をしたほうが賢明です。

もう一度結論を言います、女性はムードに弱くない、ムードに弱いのは寧ろ男性のほうである。 女性は「ムードを大事にする」のだけである。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 所謂「優勢機能」で、優勢機能=ネオテニー度が高い ので後天的に洗練は幾らでも可能である代わりに手付かずで洗練を怠ると寧ろ劣等機能のそれよりも劣る。然るに躾、教育、自覚の低い女性は下手な男よりも質悪く下品なのである

結婚したがる女たち(若しくはしたがらない女たち)

No Comments

「先生、わたし結婚したいんですけど…」と切り出した彼女。 「彼氏は居るんですか?」と訊けば「居ない」とのこと。 「職場に同世代の異性は居ますか?」と訊けば「居ます。 しかし同じ職場のひととは嫌です。」 お見合話は少なからずあって、会ってはみるものの「いまいちピンと来ない。」と言う…「どうピンと来ないの?」と突っ込んで訊くと「お見合のあいだ中、自分の仕事の話ばっかりで面白くないの。」確かに仕事以外に話題の豊富な人は面白いに違いありませんが、相手が仕事以外の話しをするよう働きかけたり、促したりしてるようには思えない白けた態度(仕事の話しか出来ない男のほうにも問題ありですが)、そんな態度で話しが深まるわけがなかろう、と思わせる態度で接していた事は、その話し振りから充分推察出来ます。
またお見合パーティー、合コンの類に出掛けても「今日もロクな男おらんわ!」と開始早々に戦線離脱を決め込み、片隅でポツンと飲食して終了時刻が来るのを待っている事が常態となっているらしい。
冷静に判断すれば「口で言うほどに本気で結婚したがっているのか?」と疑問が浮かぶのです。 「結婚したい!」と言っているものの、彼氏は居ない、彼を作る努力もせず、形ばかりに見合いをこなし、形だけ合コンに出掛け…仕方なし、イヤイヤだけど…という雰囲気ですね。
この「イヤイヤ、仕方無しに、本意ではないけれど、形だけなぞっている」行動様式、これから「兎に角、勉強さえすれば、良い学校に行きさえすれば、、、」と言われるがままに、その真偽を問うことなく、イヤイヤ(または、なんとなく)学校、学習塾、予備校…に通っている子供、若者達と同じ心象を想起する私はピント外れでしょうか?

実際問題、この例のように二言目には「結婚したい!」と口にする女性達の殆どは「結婚さえすれば幸せになれる!」と無批判に、現実離れした、信仰と呼ぶに相応しい思いを強く抱いています。
結婚という重大事、特にその現象面、即物的側面を考えると、出てくるネガティヴな面を乗り越えさせ、その道を選択させる動機としてスピリチュアルな面は欠かすことが出来ず、それを掻き立てるモノとしての衝動、これの源である「ファンタジー」は必要であり、これの意義の大きさを軽んじる訳にいきません。
人は生きるためにファンタジーを必要とし、と同時にそれが現実から遊離してしまい空想、絵空事になってしまう危険性は常に隣りにあります。
時に、ファンタジーというのは、日本語になった場合、多く誤解、誤用されている概念だと思うのですが…ファンタジーというのは厳しい現実認識によって支えられ、厳しい現実認識を支えるものです。 現実逃避させるかに見えて、ポイッと現実に投げ返す、こういう作用を持つもの、それがファンタジーです。 こういう作用のないものは、単なる空想、絵空事と言います。
ファンタジーを持たぬ者は現実逃避はしないにしても、現実を厳しく認識することもなく、妥協と惰性に流され生きていると思います。
あるひとの言動にファンタジー性が垣間みられた場合、そのファンタジーが「現実に投げ返すもの」を見出す努力が生きることの意味に通じる道へのガイド役になってくれると、私は考えています。
「なんで、そんなに結婚に執着するの?」と訊けば「だって、仕事嫌いやもん! 早く辞めたいもん!」
それは裏返しに表現される事が多い、という心理学的一般則に従えば、先の女性の例は「ほんとのこと言えば、、、仕事は好き! でも『おんなは、結婚してさっさと辞めるもんや!』という無言の圧力を感じる。 私の居場所はどこ?」と言っているように思えるのです。
女性が男性並に自立的、自主的に生きようとしても、依然として日本は男社会(“任務遂行上、男が優遇される仕組みが支配的社会”という意味であって、男が決定的に優れているわけではない)であり、女である事をハンデと痛感させられる場面に直面し、女である事を捨てて男の論理に服従するか、女である事を捨てず男の論理に屈服するか(さしずめ前者は「キャリアウーマン」後者は「結婚」でしょう。どちらにしても「男が敷いたレールに乗っかっている」ことに注意!)の何れか、という極端を選ばざるを得ないような呪縛に囚われの身となる。
別に女性に限ったことではなく、こういった極端な二元化の選択肢設定は、よく見られることですが、、、二元論というのは切れ味の良い名刀正宗みたいなもので、物事のある一面を鮮やかな切り口を見せてくれるのですが、どこをどう切るかを判断し誤ると、ピント外れであるのみならず、大怪我を負ってしまう危険なものです。 AかBか?という条件設定自体が適切かどうかの吟味無しに、AかBを選んでいるというナンセンスな事が屡々(特にTVの街頭インタヴューを見ているとそう思う)見られます。

こういうナンセンスな言動を取る背景には、AかBかという二元論に終始する事によって、問題の本質を避けようとする心理機制が無意識裡に働いていると考えられます。

「仕事か結婚か?」という選択肢設定は、どちらも男の論理という土俵から出ていないという事に注意を払わないといけません。
男の用意した土俵の上に居るという意味で男の論理に服従している。 この制約の中での女性の幸せが無いとは言いませんし、それを選ぶのは個人の自由です。 しかし、時代が21世紀を直前に迎え、少なからずの女性が、この土俵の外にも幸せがある事を薄々感付き出したように思います。
処が、この土俵の外というのは未開の地であり、足を踏み出すには危険極まりないのです。 さりとて土俵そのものを改変するには、男社会に真っ向から対決する事である以上に、実はそれを精神的に支えているのは女性(というより、その集合無意識複合体(コンプレックス)であるグレートマザー。特にそのネガティヴ面)であるという一筋縄ではゆかない厄介な問題を隠し持っています。

グレートマザー及び母性原理については大きな問題なので、機会を改めます。
 尚「母性社会日本の病理」河合隼雄、「タテ社会の力学」中根千枝の二冊は非常に参考になります。

過去の女性運動家、女性のオピニオンリーダー(及びそれと見なして良いその役を演じたひと)たちが、男性達よりも寧ろ同性である女性からの、理不尽とも言える攻撃によって最終的に黙さざるを得ない状況に追いやられて行った歴史が如実に、このことを物語っていると思います。 約10年前に持ち上がった「アグネス・チャン騒動」が端的な例です。
対決する相手が社会(というドレスを身に纏った日本人の集合無意識体としてのシャドウ)という大きなものである以上、個々人の力ではどうすることも出来るわけがなく、現実から逃避するか、現実に逃避するか、にならざるを得ない事は、深く省みられなければならない問題だと思います。
少々荒っぽいのを承知で、結婚を強く志向する方を「現実から逃避組」キャリアウーマンを志向する方を「現実に逃避組」と分類することが可能だと思います。(実際には、仕事一途というのが現実から逃避することになる人も居るでしょうし、現実に逃避するために結婚する人も居るでしょうから、、、) つまり表面的行動は全く逆に思える二者—キャリアウーマンを目指すひとと、結婚を選ぶひと、というのは全く正反対の違う生き方に見えて、実は底に流れている心理機制は同じであると言いたいのです。

先に「子供と同じ心象が見られる」と指摘しましたが、これはある意味当然のことなのです。 河合隼雄、中山康裕両氏をはじめ心理臨床の現場に居る多くの諸家が指摘するように、現代社会の大きい問題の一つに、「イニシネーションの喪失」というのがあります。
子供から大人になる通過儀礼としてのイニシエーションを受けていないのだから、心理的には子供であっても当たり前で、これを無碍に批判しても始まりません。
社会がイニシエーションの機会を与えてくれない以上、個々人で自らイニシエートしてゆくより仕方がないということでしょう。
このことに気付くと、「結婚したがる女たち」が、ことある毎に「結婚したい! 結婚したい! 結婚したい!」と口にする姿が、「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と唱え続けることによって極楽往生を願った、かつての末法思想時代のと同じ宗教儀礼的行為であるように思えてきて仕方がないのです。

イニシエーション目的だけで結婚、急場凌ぎのイニシエーションとしての結婚、これが増えているように思うのです、これでは成田離婚が増えるのも当たり前でしょ?違いますか。

女性の場合が特に、結婚がイニシエーションの意味を持つのは、別に今に始まった事ではなく昔からスタイルと言えるので、結婚にイニシエーション的意義を求める事自体はなんら問題ないのです。 問題は、結婚にイニシエーション的意義“しか”求めないことです。 そうであれば、イニシエーションさえ終われば用済みですから離婚は時間の問題、ということになってしまいます。

また、その相手である男性はイニシエートされていない場合が殆どです。 イニシエートされた者から見ると、イニシエートされていない人は、バカで子供じみて見えることは明らかです。
結婚によるイニシエートが即効性を発揮した女性の場合は「成田離婚」、非常に時間を要した女性の場合は「熟年離婚」という事ではないか?と思います。 離婚の問題を、これだけに集約するのはあまりにも短絡ですが、一側面としては、熟慮すべきテーマだと思います。

彼女達に新たな、これからの時代に相応しいイニシエーションの機会を創出できるのなら、新たなこれからの時代に相応しい女性の生き方が、見出せるのではないか?と思っています。

この「女性のイニシエーション」について、現段階ひとつの示唆を貰っています。 それは「『神話にみる女性のイニシエーション(ユング心理学選書20)』シルヴィア・B・ペレラ著 監修:山中康裕 訳:杉田津岐子・小坂和子・谷口節子 創元社 ISBN4-422-11220-1」に拠ってです。 男性原理によって不当に貶められ、蹂躙された女性性。 これを救うのは、誰あろう、他ならぬ女性自身です。
「おんな」として生きる意味を見失いかけている貴女、是非にも読んでみて下さい。 死にかけていた貴女の半身が甦ることでしょう。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

夢の意味「信ずるべきか 分析すべきか」

No Comments

日本独自の精神療法を確立した森田正馬氏のことばに「夢の中の有無は、有無とも無なり。」というのがあります。
今の仕事を始めて大分経った頃にこの言葉に触れたのですが、、、夢の内容をお話し頂き、これをテーマに連想を豊かに働かせてゆくかたちでカウンセリングを行ない、その意義の大きさを実感している私にとって、少なからずショックでした。
人のこころの在り方に浅薄な認識しか持ち合わせていない、何処の馬の骨ともつかぬ輩が言っているのなら、気に病む必要はないのでしょうけど、人のこころの在り方に早くから真摯な態度で取り組み、非常に卓越したメソッドを確立した、森田療法の始祖のセリフだけに、その意味を即刻には呑み込み兼ねました。
森田氏は、人の無意識の扱いを大事にしていたに決まっているでしょうし。 それが見せる夢の意義にも、注意を払っていなかったわけは無いと思えるのです。
その後、森田氏は上記のセリフと共に「夢は楽しむもの」とも言っている事を、知るに至って、この意味が了解せられたのです。

クライアントと会って、さぁこれからカウンセリングを開始という、クライアントからすれば夢を記録し始めて最初の頃は、その夢が混乱が見られる事が多いのです。 心的問題の大きい(これも「後から考えれば」という話で、当初から大きい小さいを即断できるものではない)ひとであるほど、この傾向は著しいのですが、「夢とはそもそもそういうもの」というのとは明らかに一線を画す混乱なのですが。
これを「分からないものは、分からない」という態度で、安易な解釈を与えたり、性急な答えを求めず、話し合いを継続しつつ、夢の記録を持ってき続けて頂いていると、川の流れの如く、またその流れに導かれるか如くに、夢が整合性を持ちはじめるのです。 もちろん夢のことであるので、論理的に筋が通るとか、現実的描写になってくるとかの意味ではなく、、、「夢なりのルール」に従った整合性を持ち始めるのです。
この「夢なりの整合性」を見抜くには、それ相応の知識と経験が必要なのではありますが。

フロイトは「夢の偽装」という仮説を唱えた。 無意識は何をかを伝えようとして、夢というかたちを通して意識にコンタクトを取ってくるのだが、それが意識にとって好ましくない情報を含んでいると、意識の検閲を受けて、違う姿形を与えられる、偽装されるのだ、というのです。 いわゆる「メタファー」というもので、有名な処では、女性の夢の中に万年筆が出てきたら、それはペニスの偽装した姿だ、とするものでしょう。 これはこれで、自我が非常に強固な方には有効な解釈になる場合もありますが、些か硬直したものと言わざるを得ないと思います。
(このような硬直化したものは、訳者(独語から英語への)の意図的誤訳、と後生の主にUSAマスコミがセンセーショナリズムだけでフロイトを取り上げた結果の誤解、そして、フロイト自身も名前が売れることの方を優先してこの誤解を放置した結果なのです。 こういう多くの誤解を受けているフロイトですが、実際にはそんな硬直した事は語っていません。 「夢判断」を読まれよ!)

このフロイトが提起したのとは違う意味で「意識の検閲」というものを私は考えます。

無意識から持たらされるものは、イメージの塊で、まさに混沌そのものであり、多くの矛盾、パラドックスを含んでいます。 いや、これを矛盾だ、混乱だと考えるのは「意識の増長」であり傲慢であるとも言えるのですが、、、
ともかくも、この混沌から情報を意識が受け取るとき、これをそのまま受け取ることは出来ず「如何に受け取るべきか?」と悪あがきをするのだろうと考えられ、これが論理的に筋の通っていないものに論理性を与えようという無茶をすることとなり、混乱と呼べる状況を作り出すのだろうと考えられるのです。 「意識の検閲」が混乱を作り出すことに深く関与していると。

この意識の悪あがきによる混乱状態も、自我の再調整のために必要な混乱(錬金術でいうニグレドに相当する)であるとも言えるのですが、まともに取り組もうとすると強烈なデプレッションに襲われ、相当に自我の強い方でも、易々と耐え切られるものではないのです。 これに耐え切られるよう介助役をしつつ、この「自我の再調整のための混乱」の淵に足を踏み入れるのがカウンセラーだと言えます。
言い方を変えれば、「意識の検閲」を上手く調整が効く方向に誘導してやるのが、カウンセラーだとも言えると思います。

心理学にそこそこ通じている方でも、よく起こす勘違いに、夢を無意識そのものとイコールで結ぶことがあります。
正確に記すならば、意識が無意識と何かのキッカケに、ほんの一瞬触れ、その触れた瞬間の残像、雰囲気、ほのかな感触、これらの総体として意識が覚知したもの、これが夢であります。
無論、これより浅い意識域の中だけで見る夢(願望充足夢、覚醒時に体験した出来事をなぞる夢など)も多くあるので、夢すべてをこれであるように捉えるのも間違いです。
つまり夢を通じて無意識域の片鱗を垣間みられる「時がある」という以上でも以下でもなく、無意識の全て、無意識の何たるかが解るわけではありません。
無意識の全てを把握することが重要なのではなく、無意識から持たらされている様々なサイン、これの意味を現実との脈絡の中に見出せるかどうかが重要です。 またサイン全てが絶対に意味があると決めて掛かるのも危険です。 上手い具合に意味が見出されればラッキー、という位の気持ちで、ファンタジー小説を読むかの如くに「味わう」姿勢が肝要だと思います。
「味わずして分析するなかれ」これが私の持論です。

フロイト派はフロイト派の夢を、ユング派はユング派の夢を見る、と言われています。
これも受け取り手の意識の在り方次第で、夢が変わるということを語っているのだと思います。

夢との付き合い方で良くないのは、先に述べたように「絶対に意味がある!」と決め付けてなんとしても分析し切ろうとする態度、また「ライオンは父親像」「窪みは女性器」「棒状のものはペニス」式の硬直化した解釈を与える態度です。
まずは夢をありありと思い描いて、それによってこころに巻き起こるエモーション(感情の動き)をそのまま受け止め、それを偏見無くじっくり味わうことです。

最初の森田氏の「夢は楽しむものである」という言葉、これは「楽しめない夢に囚われて気に病むことはナンセンス」と言っているのだろうし、「楽しむ態度を持ち合わせていないのなら、夢に取り組むべきでない」とも言っているのだろうと思います。

「そんな馬鹿なことがあるものか!」とお思いの方も居られるかも知れませんが、誤った夢との取り組み方をして、神経衰弱や精神分裂病にまで及ぶひとが、現に居るのです。
この意味で(その全てを唾棄するつもりはないですが)巷に溢れる「夢占い」の類の大多数は、有害です。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

「100%正しいアドバイスは役に立たない」

No Comments

このタイトルは日本に本格的にユング心理学をもたらした最初のひと、河合隼雄氏の「こころの処方箋」の中の言葉です。
これは占い師という仕事に本気で取り組めば取り組むほどに、痛切に実感させられる真実です。
「ひとに迷惑を掛けてはいけません」「真面目に仕事をしましょう」「不倫はいけない」等々、、、誰が聞いても賛同せざるを得ない公明正大な意見。 下手に反論しようものなら人間性を疑われるので、しっかりした根拠がない限り異議を唱えることに後ろめたさを感じる。
なにも、これらを軽るんじて良いとか反論を加えようとするんじゃないんです。
問題は、これらの反論を加えにくい公明正大な意見には、対話をそこで終わらせてしまうヒューマニズムの欠如が裏に潜んでいる、ということです。

「好きな異性が居るのだけれど、相手も好意を持ってくれるかどうか不安」占いの現場に日常的に持ち込まれる題材です。
これに対して相手との相性を鑑定して、良いと出たのならば、それを根拠に「アタックしてみなさい」とアドバイスする。 多くの占い師さんがこういうアプローチを取ると思います。 これは正攻法ですが。
これで「アタックしてみよう」と思う方ならそれで良いのですが、それが出来ない方が多いのです。 その理由は「物怖じしやすい性格」だったり「行動を起こすより先に失敗した時の心配、取り越し苦労をしてしまうクセ」だったりする訳ですが、こういった方に「物怖じせずに頑張りなさい!」とか「物怖じするその性格がいけない! それを直しなさい。」と言ったところで「それが出来てりゃ苦労はしないよ。」といった反発が返ってくるのが関の山で、場合によればいわゆる逆切れをするひとも居るでしょう。

誤解なきように補足しますと、クライアントの反発を買ってはいけない、怒らせてはいけない、などと言っているのではありません。 これを意識し過ぎると、その場を丸く納めることばかり考えた結果「なぁなぁ主義」の鑑定に堕してしまい、毒にならない代わりに薬にもならないものに成ってしまうからです。 場合によれば毒を与えることも必要なこともありますので。

「物怖じしてしまう性格」が問題となれば「何故、なにが物怖じさせるのか?」という疑問が出てきて当然です。 「○○という星が○○と〜〜だから」と言ってしまえば、「仕方がない」で終わりです。 これだと、物怖じしやすい人は見合いでしか結婚出来ないことになるし、忍耐力の無い人は出世できないことに成ります。 四柱推命を初め東洋占の占い師さんはこういう決定論的な物言いをする方が多いのですが、、、ま、鑑定という意味ではこれで良いのでしょうが、何かが足りない、、、。
何が足りないのでしょうか? 私は「その方の幸せは何処にあるのか?」と一緒になって考えてあげようという姿勢だと思います。
実のところ、これは非常にしんどい取り組み方です。 先に場合で言えば「結婚する事が本当に幸せに繋がるのか?」「出世がこの人の幸せか?」といった根元的問い、ひいては「人生とはなんぞや?」という処まで降りてゆかないといけないからです。 しかも哲学としての一般論ではなく、その方その方ごとに、個々人のパーソナルというものを非常に意識した上で考えないといけない。 占いにはデータ的な側面(AがこうでBがこれこれ。 だからC。 みたいな答え)がありますが、こういった類別論、パターン論はこのレベルにまで踏み込むと通用しません。

 余談ですが、関西の有馬温泉に「占い師はデータ屋」と豪語するアホな占い師が居ます、この方は大抵は企業の相談ばかりを相手にしています。 企業が相手であれば、この占いのデータ的側面だけで話をしておれば良いわけで、言うなれば「一番楽な客」(占いの確度を上げる=技術的努力な要求されますが、本論で主題としている心的働きとしては楽)を相手しているわけです。 これはこれで、この方の生き方なのでそれ自体をとやかく言うつもりは更々ないのですが、企業が相手ですから報酬は悪くないわけで、占い師の中でも裕福な部類に入ります、それを傘に着てご自分が何様かに成ったように勘違いをされて、「カウンセラーなんかに敬意を払う気なんか更々ない! カウンセラーなんてその程度の職業。」とまで言い出す始末なので、釘を刺しておきたいと思ったまでです。

私も経営顧問として遇してくださる企業トップのお客様を幾人か持っていますが、これらの方はご自分の人生の目的、幸せというものに対して確かな視点をお持ちで、お聞きになる質問も設問の設定が非常に明瞭です。 そうなれば、こちらもお聞きになっている事のガイドラインをお教えすれば良いだけで済みます。

話を戻して、「物怖じしやすい性格」と一口にいっても、それを構成している素因、要素は実に複雑多岐に及び「これが原因だ!」と簡単に断じれるものではなく。 占い的に大凡の輪郭=見通しは付くものの、決め付けてしまうと危険です。 何故なら、この構成する要素というのは、そのひと自身のオリジナリティーと密接に関連している場合が非常に多く、これを不用意に批判、攻撃しようとする試みは、その方のオリジン、ひいては存在意義そのものを脅かす危険性の高い行為なのです。 改善のつもりが改悪になってしまうということ。
これで「100%正しいアドバイス」が、なぜ役に立たないかお解りになったと思います。 存在意義を脅かされるのですから、防衛反応を引き出して当然なのです。
ここまで説明して「じゃぁ、やはり性格は改められないのですね。」と仰られてガックリくる場合が少なくないのですが、それは違います。
「改めよう」と心底から思う動機があれば改まります。 この「動機」を働かせるために、「その方の幸せは何処にあるのか?」を考えていかざるを得ないのです。
人というのは「わたしの居場所はココだ!」という確信があれば非常に強くなります、逆に自分の居場所が見付からないことには不安で仕方がないのです。 「自分の居場所」とはジェイムス・ヒルマンの言葉を借りれば「内なるドングリ」を見出すことに他ならず、それは「自分は何者か?」という問いに対する答えそのものなのです。 宿命とは世間一般に言われているそれとは違って、これを指すのでしょう
「じゃぁ、それが何かあなたには判るの?」と問われれば、それは判りません、「法の華」の誰ぞや「ライフスペース」の誰ぞみたいに「わたしには判る!」なんてのは嘘八百の詐欺師です。 それは魂を宿したご本人以外には決して判ろうはずもありません。 確信を持って「当人以外判るわけがない!」と確信を持って断定できるのが、占い師なのかも知れません。
ただ、そこへの入って行き方を多少なりとも心得ているので、道のりに同道してゆく夢前案内人にはなれるでしょう、と申し上げられるだけです。

トップページに掲げてあるように「神よ、変えられるものを変える勇気を 変えられないものを受け入れる静けさを このふたつを見分ける叡智をお与えください。」ここに言う「見分ける叡智」これこそが「内なるドングリ」なのだろうと思います。

過去に「日記BBS」として掲載していたものから再掲

Newer Entries

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。