明日の心配は明日に任せ明日の心配をしないで、今日と目一杯に付き合う・・・これが子供たち、若者達の特権であり美徳である。
たとえ、それが目先の快楽(ゲームとか)に夢中になっているだけ・・・刹那主義的だと大人の眼からは見えても、それを取り上げたり、否定してはいけない。

時間を忘れている彼等にも、夜は更けて来「明日のために寝なければならない」時間はやってくる。
ので、寝るよう促し、諭し、叱り、ときに怒鳴りつけなければならない。

但し、これは「時間を忘れる彼等の美徳」を認め、尊重するが故に。「明日には “今日になっている明日”」に生まれ直しまた精一杯付きあう為のケジメとしての線引きをしてやること、であることを忘れてはならない。
間違っても「明日に備えて」・・・明日の心配を今日にさせるように・・・彼等の美徳を否定するためではない。

明日の心配を今日にするようになると、明後日の心配も今日に。明明後日の心配も、一週間後の心配も、一ヶ月後の心配も、半年後の、一年後の、五年後の、十年後の、、、死ぬまでのことも心配し出して人は老いていくのである。決して年齢を重ねることに拠ってではない。

若いウチ、子供のウチから老いる必要はない。また老いさせてはいけない。
それは、彼等の特権を取り上げ、美徳を棄てさせることに他ならない。

ルールを守らなくて良いと、ケジメ感覚を付けさせなくても良いと、野方図に生きさせて良いと言っているのではない。
若者が若者らしく、子供が子供らしく生きれる「のりしろ」を残しておいてあげなければ、そして、大人がこののりしろを塗りつぶしてしまってはいけないと言っているのである。

こののりしろを大人になっても自分自身で塗りつぶせない(塗りつぶそうとしない)ヤツは落第だが、これを誰か他者に塗りつぶしてもらうヤツはもっと駄目になる。

そうと願うのが親心ではあるが、子供を優秀な大人に成らそうとする試みは、まず失敗するから、せめて「落第」「駄目」には成らさないようにしたいではないか。

謝辞:この言葉が湧き出てくる勇気、元気、覇気を与えてくれたのはdankogai(小飼弾)氏である。感謝致します。