狂人と賢者を分ける線

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かっての日本軍の体質を戦後に継承していたのは「革新陣営」だった。では、その日本軍の体質とは?: 竹林の国から
http://sitiheigakususume.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-6d73.html

 この記事が参照とし、この記事を書く発端となったと記事中に明記している
「池田信夫 : 脱原発という「空気」 : アゴラ → http://agora-web.jp/archives/1382641.html」
へのトラックバックから池田信夫氏が「一読推奨」とtwitterで本記事を紹介していたのに機会をもらって読んでみた。

 その主論旨は主論旨で「なるほどなぁ」と考察を深める良い情報を与えて貰えたと思うのだが、それはそれとして心理カウンセラーとしての視点として、この本文中に述べられている「自己義認 [1](自己を絶対善(無謬性)と規定)」を発端とし、これを社会に拡張する正当性を担保するため「無謬性存在 = 神 [2]、」を設定 [3]し、それを「寄託先」とする存在として自己を再定義 [4]するというマインドというか信条様式は統合失調症者のそれと非常にそっくりであるという点に注意がいく。
 だからといって、明治維新の志士たちが統合失調症だったとか、戦時中の軍部(少なくともいわゆる青年将校たち)に統合失調症者が含まれていたなどという、そういう安直な話なのではなく。
 その結果状態は異常と言わざるを得ない統合失調症であるが、その機序のそもそも・・・統合失調症の起こる素地というもの自体は我々人間の脳内にその機能(というよりはアルゴリズム)の一環として普通に付置されているもので特段異常なものとは言い難い・・・という観点から、社会の或る集団、或る組織、或るムーブメントを一個の生命体であると捉えた場合に [5]、そのアルゴリズムは異常な結果に出力されるものにだけ使われるのではなく正常と言える建設的なものへ出力されるものとしても使われているではないか? 個人的見解の域は現在出ていないが、これは多分「イノベーションを生み出す能力の呼び水となる力動」になり得るものであろうと考えている。
この考えが正しいなら、その結果を分ける分水嶺を見極める智慧はないものか?もし、それを見極めることが出来たなら破壊的改革 [6]を避けてイノベーションを拾える機会を社会的に増やすことが出来るのであろうと、希望的観測混じりではあるが、こういう問題提起が出来るのである。

 これについて、どうこう一ヶ言を述べれるほど考えは纏まっていないので、これは自分自身に対しての問題提起でもある。

 

 また、先日書いた記事「“個” の思想は欧米礼賛なのか」で述べた、あの時代(太平洋戦争に向かう前駆的時代)に、そしてややもすると現在でも、誤解というよりは無理解に近い誤彪を犯している「“個” の思想」に対する誤った理解が、どう誤っているのかの一端もここで読み取ることが出来る。

その際の議論において「一切の人間は、相互に『自分は正しい』ということを許されず、その上でなお『自分は正しい』と仮定」した上で発言は許される。「言論の自由は全てその仮定の上に立っている」
 これができず、対象を偶像化しこれを絶対化したら、「善玉・悪玉」の世界になってしまう。そうすると、偶像化された対象を相対化する言論は「悪玉」扱いされ抹殺される。これが繰り返されると、現在の偶像化に矛盾する過去の歴史は書き換えられるか、抹殺される。その結果、「今度は、自分が逆にこの物神に支配されて身動きがとれなくなってしまう。」これが、日本において、戦前・戦後を問わず、繰り返されていることなのです。

彼の言葉を援用して私の言いたかったことを再構成すると、「自己義認」認識の自己のそれぞれが主張をするという構図・・・引用記事中に云う「プロテスタント病」・・・が「“個” の思想」だ、と誤彪しているフシが少なからず日本人の間に散見されるということである。
これだと確かに疲れるし、カオス状態である。このカオス状態を治めれるのは「声の大きな者」「力の強い者」「強引な者」「多くを丸め込む権謀術数に長けている者」になってしまう。
そうならない社会を目指すのには真の意味での「“個” の思想」を各人が身に付けることが大事なのではないか?ということである。

これはC・G・ユングが生涯主張、啓蒙し続けた「意識化」「個性化」のプロセスに他ならないのだが、「意識化」「個性化」の意味を神秘主義的オカルトなものに曲解、歪曲、捏造したものを喧伝する者が後を絶たないので、C・G・ユング自身の思想、主張自体が神秘主義的オカルトなものであるように広く世間一般に思われているのは実に残念、、、いや残念を通り越して憤りさえ覚える。 [7]

——–[ 脚注 ]—————-
  1. 「義認」とはキリスト教の中核概念で「神により義とされる事」(教理的解釈は教派によってかなり異なる)であるが、ここでは「自分自身(自己)によって自分自身を義とする」・・・「暗黙に自分自身を神と前提している」という意味で使っている
  2. 世間一般の通念での「神」であるとは限らない。神格化しているものは勿論、そうであると意識されていなくても事実上神同然のものも含む。「およそ “~ism”(主義)と名の付くものは全て宗教である」・・・C・G・ユング
  3. 具体的実在から最適と思わるものを選択する場合と仮想的、夢想的なものである場合を含む
  4. 「私の奉ずる○○(神、天皇 etc)は絶対正しい。何故なら絶対正しい私の奉ずる○○だから。故に私は絶対正しい。何故なら奉ずる○○が絶対正しいから」という完全なる循環論法。なので本文中では「発端」という言葉を使ったが、これは文章構成上の都合で使ったに過ぎなく、実はどこが発端なのかわからない
  5. 我々人間は我々自身を一個の生命体だと考えがちだが多数のモジュールが集積重合したもの…という話はあるが今は話題が逸れるので機会を改める
  6. 改革のつもりが破壊に向かってしまう致命的誤り
  7. この点に興味のある方はC・G・ユングの原著(訳書で構わない)を是非読んでみて下さい。間違っても「ユングの解説書(除く:林道義氏のもの)」は読んではいけません。

“個” の思想は欧米礼賛なのか

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 気になる(流すわけにいかないと思う)tweetをタイムラインで見付けたのでコメントするです。
 このつぶやきを発したご当人個人をどうこう言おうというのではないので発言者は明記しません。

みんながみんな「やりたいこと」を見つけなきゃならない社会、みんながみんな「個」を主張しなきゃいけない社会って、息苦しくないか?この記事のような欧米の価値観礼賛が逆に日本にニートを生んできたのでは。http://www.madameriri.com/2011/09/12/

 この発言の何が気になるか。それは、こういう「欧米に追いつこうとしている(欧米を手本とする)日本」という構図で日本社会を捉え「西欧的 “個” の思想ってそんなに素晴らしいものか?」という懐疑を投げ掛ける発想というかマインドというか、、、これが「太平洋戦争に向かう前駆的時代にも出現していた “時代のムード”」と一緒だという点です。
 明治維新以来欧米を倣いとして、その思想、精神、マインドを身に付け国際的に通用する国になろうとしてき、それの意味を見失い出したあの時代、「西欧的 “個” の思想でなくてもいいんじゃないか?」「西欧的 “個” の思想以外にも一流国になる思想・・・そう! 日本的 “協和” の思想ってのがあるじゃないか」と、社会主義的思想の強い勢力が軍部の実権を奪取しつつあったのに結果的にせよ加担した、あの時代の一般大衆の多くが「空気」として共有していったムード。これと似ていると思うからです。

 いま「意味を見失い出した」と書きましたが、これは正確には「西欧的 “個” の思想の何たるかの本質。また、それを獲得することの意味を、そもそも理解していなかった。表層的にしか・・・着物を捨てて洋服を着用し出したのと同じ程度でしか・・・理解していなかった。これのメッキが剥がれだして “何も理解していない” ということが露呈し始めただけ(つまり最初から見失っていた)」だと言えます。
 上記引用の文面に「欧米の価値観礼賛」という捉え方が表出されているわけですが、これは今述べた「憧れて洋服を着てみただけ のマインド」と同類だと、「一旦暫く着てみていたけどしっくりこない。しっくりこないのはこの服が良くないんじゃないか? 服が間違っている、きっとそうだ」と言っているだけの “Sour Grapes” だとわかると思います。
「逆に日本にニートを生んできた」という点は一理あると思われる点ですが、これは “個” の思想が誤っていたのではなく上述の通り、その本質を理解し体得しようとせず上っ面の形式だけを追い掛けていた(その誤った理解の上で教育を施してこられた)からいつの間にか空回りして自分の足場を見失った人が少なからず出てきたと分析するのが正しいと思われます。

 現代に生き残っている「”個” の思想」というのは端的に言えば、主に19〜20世紀の2世紀に渡って国際化していった世界で生き残るために発達してきたセオリーであると思います。 これが歴史的にたまたま欧米が繁栄の中心だった時代に勃興したので、それが「=欧米の思想」ということになっただけ。なので「欧米礼賛」という捉え方自体が、表層的理解しかしていないと自ら語っている言なわけです。

 つまり大事なのは、それが欧米由来のものであるかどうかなどではなく、それが国際的に生き残っていくためのセオリーとして「どう使えるか」「どう使うべきなのか」また「それを使いこなせるほど我らは習熟できているのか」なのです。

もちろん、「国際的に生き残っていくためのセオリーは他にあるかも知れない」という設問設定は当然出来ますが、それの理解、習得、習熟を充分に出来ていない内にそれ自体にケチをつけ出すのは褒められた言動ではないので大概の場合、褒められたものではない結果を生み出すというのは弁えのある大人ならわかると思います。「それを使いこなせるほど我らは習熟できているのか」とはつまり「それを否定できるほど我らは習熟できているのか」だからです。

 時代の符合という意味では、あの時代・・・自由民権運動〜二大政党政治という流れで、その内実は二大政党がそれぞれの支持利権団体の権益拡張合戦に官僚も加わって利益分配談合を繰り返していた揚句に一般国民から信用を失い見限られて、、、その醜い政争を繰り広げていた時代に関東大震災、昭和金融恐慌、昭和恐慌、世界恐慌という歴史的大事変も起こっていたという点。 だから、またぞろ世界恐慌(リーマン・ショック以上の)が起こるなどと、まことしやかに歴史的必然論を説いて恐怖、不安を煽る愚サイトと同じ愚はおかすつもりはないです。
が、あの時代、日本を無意味な戦争へ導いた一つの要因は、上記で指摘した「”Sour Grapes” で自己正当化して悦に入っているマインド」を社会の流れを作る閾値以上の人が、しかも「ムードとして(空気として)」共有した結果だということは肝に命じて欲しいのです。
 もっとはっきり言えば、これは「間違ったナショナリズム」「歪んだナショナリズム」を社会に醸成すると危惧するということです。

2011年9月19日午前9時44分追記:文意がより通る言い回しをアップ後に思い付いたので一部訂正、加筆しました。

なぜ安全性を自分たちで担保しないのか

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予め断っておくと私は大阪在住なので以下は関西電力に関しての(に向けた)話です。
とは言いつつ、東電管内の話とは事情が違う部分もあるだろうが本質的問題としては同じなのではないか?と思いつつ書きます。

「関西電力からの節電のお願い」というCMが毎日流されている。
TVのニュースで毎日の電力需給予想も告知されている。

これを観て、「実際問題として節電が必要とされている切迫した状況にあるという話ではなく、ムードとして”電力供給が逼迫している” かのようなイメージを流し → 稼働停止状態にある原子力発電所の稼働再開を実現しないと “近い将来困った事になる” との連想を促し → 停止している原子力発電所の再稼働も止むなしという “ムードとしての世論” を誘導しようとするイメージ操作だな」と感じるのは私一人ではないだろう。

「稼働停止状態にある原子力発電所の稼働再開を実現しないと “近い将来困った事になる”」という、これ自体は嘘ではない。事実である。
問題は、この汚い、卑怯と言っても良いやり口である。

私が関西電力の経営者なら、以下を実行する。

  1. 今まで(福島第一原子力発電所事故以前)に既に取り組み実現している安全諸策
  2. 福島第一原子力発電所事故を受けて、1の内容についての再吟味結果
  3. 福島第一原子力発電所事故を受けて、1以外の”見落とされていた点”, “新たに見つかった問題点”

を洗い直しさせ。(第一段階)

これに対しての具体的改善策の実施。(第二段階)

これらを総括して一般市民に向けて情報開示
→ 抽象的に「安全対策を致しました」という無意味な安全宣言はなく、微に入り細に入り「この問題点に対してはこれこれこういう対策を実行しました」「あの問題点に対してはこれこれこういう対策を講じました」と具体的事実を列挙した報告。(第三段階)

ここで大事なのは、第二段階だと、そのイチイチを経産省、原子力安全・保安院に「これは実行したほうが良いか」「実行しなくても差し支えないか」とお伺いを立てて決めるのではなく、寧ろ原子力安全・保安院が「実行しなくても差し支えない」と言っていても自社の判断として実行したほうが良いと判断されたことは実行するという姿勢である。

そして第三段階、ここが一番重要なのだが、「これこれこういう安全基準を満たしましたから再稼働を許可する方向で動いて下さい」と国の方を向いてロビー活動をするのではなく、一般市民の方を向いて「これだけの事をしました。また今後こういう方針、指針で運営していきたいと思いますので、再稼働に賛意を示して下さい」と大々的に広報するのである。 この為に番組枠を買って広報番組を流しても良い。

冷静に状況、情勢を観察していれば、今の「ムードとしてのなんとなくの反原発」は、本来は第三者機関として原子力運用の監督、監視、勧告、支持、助言を的確に行なっているべき原子力安全・保安院は「監視機関として全然まともに機能していなかった」という事実、それは結局、独立第三者機関とするべきなのを経産省の外局である資源エネルギー庁の下部組織にしていた・・・つまり経産省の意向に沿った範囲でしか動かない組織であるということ(事故後、記者会見していた担当官は直近まで特許庁に出向していた畑違いの人間であるのは有名な話である)・・・このことが国民に広く知れてしまったことから経産省の「原子力行政全般に対する不信」がその正体なのだと分かろう筈。
であるならば、幾ら改善策を施そうが、また、その改善策が実際に有効なものであっても、これを国民から信用されていない経産省、原子力安全・保安院の方を向いて行なっている限り、一般市民からの信任は得られる筈はない。

反対に上述のように一般市民に向けて充分納得の出来る説明を行なってその説得に成功し、これによって形成できた世論を以って「これだけの一般市民の信任を取り付けました」と経産省、原子力安全・保安院に迫ったら、彼らとて首を縦に振らざるを得ないであろうし、もし万が一、経産省、原子力安全・保安院が難色を示しても既に世論は味方に付けているのだから、監督省庁としての威権を守ろうとする官僚体質の愚を正面切って批判できる。(ひいては官僚の構造改革も迫れる)

電力会社が生き残りたいのなら、これが正しい戦略である。

私個人は電力自由化推進賛成派なので、既存の地域独占の状態で電力会社には残って頂かない方が良いわけなのだが、「形だけ民間企業その実態は公社」と言われてきた体質を改善し本当の意味で企業として自らを再定義し直し価値を高める、この意味で今の状況は「最大のチャンス」なのですよ。関西電力の経営陣さん。

2012年1月17日0時35分:表記間違い「誤:福島第二原子力発電所」を「正:福島第一原子力発電所」に訂正

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