「支持政党なし」ということの本当の意味
7月 05
時事評論 ロジカルシンキングのすすめ, 侏儒の言葉 No Comments
今や我々が悟ったことは霞ヶ関恐るべきということ。だから敬して遠ざかるのが一番の得策。「支持政党なし」というのはそういうこと。 RT 世論調査で「支持政党なし」55%に急増!! 「脱政党選挙」で「国政進出」を狙う大阪維新の策やいかに bit.ly/MRX8Qe
— 庄司拓哉さん (@yumebunseki) 7月 4, 2012
昨日tweetしたのだが、文字数制限の関係上充分に云いたい事が文章化できていないので二階屋を建てます。
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戦後作られた政治体制は議会制民主主義だが、これは建前上の体裁なだけで実態は賢い官僚による官僚専制政治なのだということは與那覇潤氏が「中国化する日本」で指摘、またその伝統は明治新政府のから変わっていないと池田信夫氏も指摘する通りである。
「無謬性」という概念があり、これはつまりキリスト教、イスラム教などの「神は決して誤りを犯さない」という元は神学概念なのだが、日本の法律は官僚は無謬性だという前提で作られており、だから失策・失政をおかしても、(降格や減給という内部処罰があるだけで)それに値するほど大きな失策・失態であっても訴追は(時々検察がデモンストレーションとしてスケープゴートを作り上げるのを除けば)基本的にされない。無謬性・・・つまり間違いを犯すわけがないのでそれが失策・失政になったのは社会状況などの不可抗力だという、よく考えれば「その言い訳が通用するなら何でもありじゃん」という逃げ方をできる。これが日本の官僚システムなのである。
そして厄介な事に、これは誰か個人が悪いとかそういう問題ではなく、構造として如何ともし難い入り組んだものになっている点で、「”霞ヶ関” というバーチャルな怪物」、、、今やこれを改善、改革することは、身体の幾つか細胞が反旗を翻して我々が誰か違う人間になるということがあり得ないのと同レベルで [1] 、たぶん官僚自身も不可能であろうということ。
これゆえ「敬して遠ざかるのが得策」というのである。
実際、橋下市長がやろうとしていること、また我々大阪の人間が期待している事は、この(東京というよりは)霞ヶ関との関係を、できるなら絶ちたい。絶つのが無理なら可能な限り影響を受けないようにしたいということなのだ。
「支持政党なしが多数派」というのは馬鹿なマスコミ(または、分かっていて記事が売れる安直なトピックにしてしまう癖のついたマスコミ)が「新興勢力への期待」などと云う在りもしないものではなく「霞ヶ関支配の体制からExit」したい、という国民の意思の現れだと捉えるべきだ。
だから、自民党が駄目、民主党が駄目、公明党は? 共産党は? という問題ではもうないのある。民主党がダメダメな政党であることは今や明白であるが、今の状況は「民主党が駄目だったから」ではないということ。自民党にしたって、たまたま経済状況が味方したので霞ヶ関に飼い慣らされていても「見た目上そこそこの事が出来ているかのように見えた」だけだったというのが真実。
このことを橋下市長は知っていて、だから彼が目指しているのは「中央政界からのExit戦略」なのであり、我々大阪の人間が範を示す事で、全国の各地域がExitを目指し出す。これが進むべき歴史であろう。